西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】at HISTORY2
西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】 - 暇つぶし2ch356:名無しさん@お腹いっぱい。
14/09/22 07:45:09.99 IUuNPfC8O.net
テンプレ厨の愛読紙『南日本新聞』に載せられた、西郷と島妻と子と島人との交流を知らないはずないよな?ん?

>西郷は徳之島の西北側(現・天城町)にあたる西目間切〔にしめまぎり〕(浅間、兼久〔かねく〕)の惣横目〔そうよこめ〕・琉仲為〔りゅうなかため〕の世話で、岡前〔おかぜん〕の松田勝伝宅に厄介になっている。
 仲為は在地の有力者で郷士格の身分だった。惣横目とは藩庁から派遣されてくる代官や与人〔よひと〕(島役人の代表)を補佐する地元出身の役人。わずかだが藩米を支給され、苗字〔みょうじ〕帯刀を許された。
 仲為の子に仲祐〔なかゆう〕がいた。西郷が沖永良部島送りになるとき、仲祐が西郷を徳之島の東側の井之川(現・徳之島町)まで護送している。西郷はここから沖永良部島に向かった。
 仲為、仲祐父子は西郷を親身になって世話したらしい。西郷は井之川と沖永良部島流罪中、仲為と何度が手紙のやりとりをしている。
たとえば、翌3年6月2日付では、仲為が愛加那母子の大島帰島を取り計らってくれたばかりか、過分の土産を持たせてくれたことに感謝している。
同年10月16日付では、仲為が「国許変事の刑行〔なりゆき〕」(薩英戦争のことか)を伝えてくれたことを感謝している。また仲為が仲祐を沖永良部島に寄こしてくれることにも礼を述べている(「西郷隆盛全集」一)。
 そうした交流があったからか、復権した西郷は仲為の恩に報いようとして、仲祐を自分の手許〔てもと〕で預かった。ところが、慶応2(1866)年12月26日、仲祐は急病を発して病没してしまう。
 西郷が郷里の親友・川口雪蓬〔せっぽう〕(量次郎)にあてた書簡(断簡)がある。他界した仲祐のことを依頼した内容である(右同書三・年代不明文書)。
 それによれば、西郷が流罪を赦免されたとき、仲祐を同伴して鹿児島に連れてきた。鹿児島に留めようとしたが、本人のたっての希望で上京させた。
京都を見物すれば、「島土産にも相成るべしとの老婆心」のつもりだったが、病死という意外な成り行きになり、連れてきたことへの後悔の念を表し、取り返しがつかないことをして「心苦しく涙に沈み候」と嘆いている。
 また「さぞや島の親たちがこの悲報を聞けば、愁傷いかばかりかと、これのみ案じているところ」だと書き、
仲為の心情を思いやっている。また遺髪に遺体調書を添えて、島便で届けてほしいと依頼している。


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