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■島の目で見た西郷隆盛
7 愛加那の心情 前篇
愛加那と西郷が結婚したのは安政6年(1859)11月である。愛加那廿三歳、西郷三十三歳。
笠利家家譜によると愛加那は竜総本家ではなく、二男家十六代為元の庶系の孫にあたる。
文久元年(1861)正月菊次郎(註)が誕生したが、翌文久2年1月西郷は許されて帰藩した。
しかし、西郷の独断専横が藩主(の父 ※引用者)久光の怒りをかい、同年6月に再び
徳之島へ流された。その途中、大島西古見に寄港し、竜郷出発時から従僕として連れて
いた宮登喜(みやとき)に「徳之島へ行くが、逢いには来るな」という伝言を託して
下船させている。
※註 = 菊次郎は台北支庁長や京都市長を歴任し、殊に台北へ赴任する途中
明治29年名瀬で愛加那と会っているが、菊草は菊子と改名し、
19歳で大山精之助(大山巌元師の実弟)と結婚したが、生涯愛加那へは音信不通であった。
なお、愛加那は明治35年8月66歳で没している。
西郷は7月に徳之島湾屋(わんや)に上陸、総横目琉仲為の斡旋で岡前村の(松田)勝伝
の家に起居することになった。
竜郷では7月5日に菊草(きくそう)が誕生し、わが子見せたさに矢も楯もたまらなくなった
愛加那は8月26日、二児を連れて岡前村を訪ねたが、たった一夜の逢瀬で西郷は
沖永良部島遠島令達状を受けた(一説には、これは西郷自らの画策とも言う。
その後一ヶ月近く井之川で下り船待ちをしているが、徳之島居留中たびたび山村に泊っている。
山村は全島のジュリ(女郎)が集まる船の発着港であったから、西郷にとって愛加那は
すでにわずらわしい存在になっていたとも考えられる)。
それから2年後の元治元年(1864)2月、許されて帰藩の途中の2月23日から26日まで
竜郷に滞留しているが、その四日間が愛加那と西郷の最後の逢瀬であった。