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■島の目で見た西郷隆盛
5 島の惨状と改善意見 後篇
島民の惨めさをまのあたりにして、藩政の苛酷さや仮屋役人の横暴さを憤ったのは、
ひとり西郷だけではない。名越左源太や重野安繹、田代清太をはじめ政治犯として流
罪になった殆どの遠島人がそうである。
殊に文化2年(1805)春から同4年春まで大島代官として着任していた本田孫九郎親孚
(ちかざね)は文化3年春「上申書」を提出しているが、それには安永6年(1777)の
第一次砂糖惣(そう)買入れ制(註)以来再三取り締まられている「八月踊り」の禁止は、
島民の勤労意欲をそぐという意見や白糖製造がいかに不経済で百姓に迷惑をかけて
いるかの説明。砂糖代価として島民に渡される米に赤米が過分にまじっていたことへの抗議。
島民を苦しめる砂糖の過分「買重」(かいかさみ。安い公定価格での強制買上げ)への
反対等々具体的な数字をあげて論じている。
更に彼は在島中の著書「大島私考」のなかで、『惣買入トイウトキハ、島民商売ノ交易ヲ
禁ジテ、租税ノ余リヲ皆諸品ニカエテ、年貢ト同ジク上ニ奉ル。コレ人君ノ民ノ利ヲ貪ルニ
似タリ。恥ズべキニ非ズヤ』と記して、痛烈に藩政を批判している。
それ故に西郷ひとりを「大恩人」などとするのはあたらない。
※(註)
砂糖惣買入れ制 = 薩摩藩が奄美の黒糖を独占するために施行した政策。
島民が作った砂糖で年貢(税金)以外のすべての砂糖の自由売買を禁じ、
強制的に藩で買いあげ、代価としての米はじめ島民の日用必需品を藩から
支給し、金銭の使用を禁止した。
惣買入れ制は二度にわたって施行され、第一次は安永5年(1776)から
天明7年(1787)まで、第二次は天保元年(1830)から明治5年(1872)までである。
この第二次の42年間を歴史上「黒糖地獄」とよんでいる。
また、西郷か島民のために上申書を書いたりしたことは、この後の明治五年の
「大島商社」設立の時、『商社ガ砂糖ヲ全国二売リヒロメテハ、必ズ大蔵省カラ
利益ヲ占メラレルデアロウカラ、ヨクヨク注意シテ、官ノ専売トミナサレナイヨウ
ニシナケレバイケナイ』という意味の手紙を桂久武に出したりして、奄美の砂糖
利益を旧藩時代そのままに、鹿児島で独占しようとしたり、その大島商社を廃して
砂糖の「自由売買制」にしていただくように県庁に嘆願に行った大島の人々を、
西南の役に強制的に従軍させたこと等とも、まったく矛盾はしないのである。
(引用者注・・西郷にとって奄美人は、薩摩のために一方的に使われるべき農奴であることに
変わりなく、西郷の奄美人への憐れみとは、農奴の分限を超えない程度の憐れみに
すぎない、という意味で、矛盾はないとしているのであろう)
西郷の奄美に対する感覚は終始「大島人は蔑視すべき異国人」、つまり「毛頭人」で
あり「えびす共」であった。
このことは、愛加那と西郷の結婚生活や、愛加那が生んだ菊次郎・菊草という二人
の子どもの扱い方に於いても見られる。