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■島の目で見た西郷隆盛
5 島の惨状と改善意見 前篇
安政5年(1858)9月7日勤皇派の志士梅田雲浜(若狭小浜藩士)の逮捕を皮切りに
「安政の大獄」が開始された。この情報をキャッチした在京諸藩の志士たちの
多くはいち早く京都を脱出した。西郷吉兵衛(隆盛)も清水寺の僧月照とともに薩摩
へ逃げた。
-中略-
藩内の佐幕派は、西郷を捕えて幕吏に引渡すべしと激昂したが、勤皇派の藩士たち
が西郷擁護運動を起したので藩論はもつれ、遂に老君斎興(なりおき)の裁断をまつ
ことにした。その結果西郷は、菊地源吾と変名して大島潜居、幕府へは西郷・月照
入水自殺と報告することになった。
西郷が大島代官所所在地大熊村に着いたのは安政6年(1859)1月十12日。
翌月13日竜郷村阿丹崎に到着した。それからニカ月ばかり、阿丹崎から半里(2km)
ばかり離れた美玉新行の空家に住み、その後竜家に移った。
その頃の西郷は悶々の情にさいなまれ、大声をはりあげたり、庭にとび出して木剣
を振り廻したり、家の柱に布団をしばりつけそれに向かって一人相撲をとったりした
ので、村の人たちは「ヤマトのフレモン(狂人)」とおそれていたという。
だから西郷にとって竜郷は、決してよい所ではなかったとみえ、三月二十日に着任した
新代官吉田七郎に『竜郷ハトテモ居ラレヌ処ニテ候。ソノウチ所変エノオ願イ申シ
上ゲ度ク』という書状を出している。