14/09/20 16:06:25.38 +6nvsf6W0.net
・あまみ庵の店主:森本が雑誌や新聞に書いた文章を掲載します(南日本新聞)
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確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑で
あるかもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であった
にすぎないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かった
のに、「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の
大親分としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では
道之島の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らして
いる。そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、
奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。島に残された母アイカナは
非業の死をとげる。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる
彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立
した。奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、
禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて
不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び
収奪をほしいままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する五十五人の嘆願団が
上鹿したが、いきなり全員投獄。老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。許されて
島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに二十四人で
あった。(前田長英著『黒糖騒動記』参照)