西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】at HISTORY2
西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】 - 暇つぶし2ch139:名無しさん@お腹いっぱい。
14/09/18 13:48:39.24 /oAANN/h0.net
西郷が死ぬまで続いた奄美の砂糖地獄  大島商社と西郷隆盛
URLリンク(www.synapse.ne.jp)
西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、
その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)
からいかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。

URLリンク(www.eurexcert.com)
薩摩の残虐行為は、田原坂の戦いで知られる西南戦争でも頻発し、人吉で赤ん坊を
含む家族全員の首を、わずかの食料が欲しいために切ったなどのエピソードがある。

URLリンク(sabasaba13.exblog.jp)
この人吉根拠地の期間中、薩摩軍はこの地域に苛烈な軍政を布き、政府軍と
内通した容疑をかけられた住民が捕縛され、証拠も詮議も不十分なまま私刑同然に
処刑する残虐が加えられているそうです

URLリンク(lagattina.exblog.jp)
・薩摩軍が人吉に後退すると、人吉隊は新たに兵を募り、二番隊を編成しますが、人吉
にはすでに薩軍劣勢が伝わっていたことから、募兵に応じる者が少なかったそうです。
このため薩摩軍は、募兵に応じない者は首を刎ねると脅し、半ば強制的に徴兵。人吉の
攻防では、多くの犠牲を出しました。
・継承殿は、人吉隊の宿舎となりました。門前には断首台を設けられ、募兵に応じ
ない者を処刑し、その首を晒したと伝えられています。
・薩摩軍の砲弾は、政府軍の本営まで届かず、琢磨川を挟んでの攻防は官軍の圧勝
で終わり、薩摩軍は、町に火を放って人吉から退却。町は、戦闘と放火により、
灰燼に帰しました。

URLリンク(www.marino.ne.jp)
明治10年の西南の役当時、軍費に窮した西郷軍は佐土原の通称ひょうたん島にて
「西郷札」を印刷して難局を乗り切ろうとした。日本最初の軍票である。だが実際に
使えたのは薩摩軍の影響力のある地域だけで、しかも薩摩軍の敗北とともに布切れと
化した。政府の補償はなく大量の西郷札を抱えて没落する商家が多かった。

URLリンク(blog.goo.ne.jp)
「西南戦争外史」 飯干憶著 みやざき文庫
西南戦争といえば、田原坂の激戦や熊本攻城戦が想起されるが、西郷軍が人吉に後退
して以降、あまり知られていないが宮崎県各地が戦場となった。「この戦いの全期間を
通じ、直接戦場となった場所と期間は、熊本よりも鹿児島よりも、宮崎(日向)が一番
長く、戦いの熾烈さも熊本、鹿児島の比ではなかった」という指摘は極めて正確である。
このため日向の人々は、多数の戦死者を出し、家を焼かれ、さらには西郷札の発行に
より終戦後まで経済は混乱を来たした。著者によれば、宮崎県の悲劇は、遡れば西南戦争
の前年に鹿児島県に併合されていたことが大きかった。このため宮崎各地で若者が西郷軍
に徴発され、反対派は捕えられて処刑・投獄されることになったというのである。


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