西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】at HISTORY2
西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】 - 暇つぶし2ch117:名無しさん@お腹いっぱい。
14/09/17 16:30:17.64 JJ0acut00.net
広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、
別府晋介に首を刎ねさせたいう話し、出典はご存知ですか?

西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、西南の
生残りが書いたわけではないし、誰それの証言である等のソースの提示も
無し。貴重な文献ではあるが、資料として細心の留意が必要な代物です。
基本的に、右翼主義者による西郷隆盛礼賛ありきのプロパガンダ本であり、
西郷のイメージに傷が付きそうな史実がばっさり省略されていたりする
のも特徴です。

だいたいかねてから、銃弾飛び交う切迫した戦場で、前述のような芝居
がかった自決が可能なのかという見方はありました。また、重傷を負い駕籠
で運ばれていた別府晋介がこのときばかり 駕籠を降り起ち上がり、肥満した
西郷の首を一刀両断できるは不自然ではないかという見方も。

実は東大図書館に西郷遺体の検死報告書が保存されているのですが、そこに
こう記録されています。「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
腹部に刀創はありませんので、切腹はしていない。また、銃弾が骨を貫通
していることから(当時の銃の性能を考慮すると)至近距離から被弾した
可能性が高い。「頭(頸)体離断」は首を切断されていたということです。
つまり、太腿を至近距離から銃撃されたあと、 介錯のためか、頭部を隠す
ためか、首を切断されたということです

西南の役の最後の日、城山で西郷は足を撃たれたあと自決したとされて
いますが、 その西郷の足を撃ったのは、じつは西郷の部下である桐野利秋で
あったという説をご存知ですか?
政府軍に助命を拒否された西郷さん、玉砕することにどうにも納得いかな
かったらしく、洞窟を出て投降しようとした。 しかし玉砕を主張する桐野が
これを発見、激怒して西郷を追いかけ銃撃したという。 思わず「ホントか?」
となりますが、しかしこの桐野による西郷銃撃は、目撃者の証言があるのです。
桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。

城川の証言によると、西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなる
ものかと 銃で撃った、というものです(出典「肚乃西郷」)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体のプロパガンダ本よりよほど信憑性があります。

ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は”城川”なる人物の実在が証明され
ていないとし、この説を奇説として退けた。 また昭和52年に南日本新聞で
村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、「別府晋介の従者に城川なる人物は、
自分の持っている資料には無いから実在しない、だから実在しない人物の証言は
成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。

ところが、その数日後に同じ南日本新聞で入佐俊興氏が昭和十年発行の
「葛城彦一伝」の中に加治木編成の六番大隊編成表として「別府晋介附
従卒城川市二」との記述を示し、あっさり実在の人物と証明されたのです。

さらに城川市二氏の孫嫁が健在で「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の
少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、 昭和三、四年ごろ
東大の先生が二、三度春になると訪ねて来て、襖を閉めきり朝から遅くまで話し
をしていた。 城川の家は製造業で職人達が噂話などをしていると、御祖父さんが
現れて、 ”今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問
されて、 ”わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリと
いって引っ込んだ 」と述懐しています。 


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