13/08/21 NY:AN:NY.AN r8TIAZUX0.net
終戦記念日に考える 原爆乙女の願いURLリンク(news.rcc.jp)
きょうは「終戦記念日」です。URLリンク(news.rcc.jp)
皆さんは原爆乙女をご存じでしょうか?原爆でヤケドを負いアメリカで治療を受けた少女たちのことです。原爆乙女の一人で、懸命に証言活動を続けた一人の女性をしのぶ会が先日、開かれました。
古びた、1冊のパスポート。そこに記された、昭和30年。彼女が顔に負ったヤケドの治療のためアメリカに渡った年でした。
先週土曜日、彼女をしのぶ会が原爆資料館で開かれました。彼女の名は山岡ミチコ。URLリンク(news.rcc.jp)
顔に残った手術の跡を隠すことなく、原爆の悲惨さを世に訴え続け、今年2月亡くなりました。
(豊後恵美子さん)「戦争をしたらダメっていうことをね、長く長くずーっと証言活動していらっしゃって。暑い時寒い時、それは私は忘れることができません」
==============
「ここの広島の町、全部焼けちゃったの。ひとつの玉でね、原爆ドームの上で爆弾が落ちたでしょ。みんな死んじゃったでしょ」
0017?0030「今しゃべってる顔、やけどの顔です、残ってます。でもうすくなってくるんです。傷はなくなるけど、心の傷は、放射能なんです」
山岡さんは爆心地から8百メートルという近い距離で被爆。
一命をとりとめましたが、顔はヤケドで風船のように膨れあがり、放射線がもたらすケロイドで顔がゆがんだ、といいます。
当時15歳の少女にとってあまりに残酷な出来事でした。10年後、山岡さんは民間の善意により、アメリカで治療を受けます。
原爆を落とした国に行くことを心配する声もありましたが、人々の善意を信じて、皮膚移植など27回もの手術を受けたといいます。
「自分の心に、治してもらえるんならという、ありがたさを感じましたね。左に向けるようになったのは一番うれしかった」
帰国後は、洋裁や幼稚園の教師をして生計を立てましたが、原爆について語ることはありませんでした。
しかし、父親を早くに亡くし、女手一つで自分を育て支えてくれた母親の死をきっかけに、思いが変わります。『いつまでも暗い殻にこもっていてはいけない』と。
(呼びかけ人の一人 山根美智子さん)「彼女の自分が被爆証言するという、あの情熱はすごくあったですね」
(木戸マサコさん)「彼女とても意欲的でね、あとすたれしない。前へ前へ自分を持っていく感じで」
山岡さんは、よくこう訴えました。『核兵器の道のりが厳しければ厳しいほど声を大にして。決して無力ではありません!』。
2月、山岡さんは亡くなりました。82歳でした。
「戦争そのものが悪いんだと、戦争さえなかったらお互いの国が憎み合うことはないという思いは持っていた私は。これ以上多くの国がいやな目にあうようなことはしないでいただきたいと思っている」[