13/08/12 NY:AN:NY.AN OMSpnQO30.net
忘れられた“平和の鐘”64年ぶりの音色URLリンク(news.rcc.jp)
6日の平和式典でも打ち鳴らされた「平和の鐘」。実は、旧市民球場近くの庭園にも、もう一つ別の「平和の鐘」があります。
この鐘は、被爆から4年後の式典でたった一度鳴らされただけで、その後は人々の記憶からも遠ざかっていました。先日、この鐘が64年ぶりに再びその音色を響かせました。
広島市中区のハノーバー庭園に響く鐘の音。
木々の間にひっそりとたたずむこの鐘が、「平和の鐘」です。打ち鳴らされたのは実に、64年ぶりのことです。
鐘が作られたのは被爆から4年後の1949年。
当時の浜井信三市長の依頼で、地元の金属業者が原爆の焼け跡に残った金属をかき集めて作りました。
鐘はこの年の8月6日にここで開かれた「平和記念式典」の前身、第3回「平和祭」で打ち鳴らされました。
(片島三朗 広島大学名誉教授)「いやあ、かわらんもんですね、音は。(もう、一番最初の音が、がーんと響きましてね)頭の中に、60何年前の音が残っているわけです。再確認です」
鐘の製作に関わった86歳の片島三朗さん。
当時、広島大学で鋳物の研究をしていた片島さんは教授と一緒にこのプロジェクトに加わりました。
(片島名誉教授)「形状はアメリカ式、beru型で、音は日本式のうおんうおんというのにして欲しいと。それを言っても無理よと山本先生(教授)はおっしゃっていたが、むげにそれはできんとはおっしゃらない」
浜井市長は、平和を訴える鐘の形は世界に通じるよう「洋式」にしたいと考えていました。
片島さんたちは「日本式」の鐘の厚みを研究しながら苦心して作ったといいます。
被爆者でもある片島さんは、原爆犠牲者への祈りと平和の願いを込めて製作にあたりました。しかし、鐘はこの年の平和祭でたった一度、鳴らされただけ。
その後は、式典会場が現在の平和公園に変わったことなどから、いつしか存在すら忘れられました。
(片島名誉教授)「ただ黙ってすぱっと今年はならなかったのうという話です。(その時の気持ちは)鳴らせばいいことに、ということですよね」
この鐘が、市民有志の呼びかけで64年ぶりに鳴らされることになりました。鐘を打つのは当時製作に関わった金属業者の遺族です。
(松村伸吉さん)「本当にありがたいです。本当今日のことはありがたいです。64年ぶりに鳴らしましたと(父の)墓の前に行ってきかせてきます」
(片島名誉教授)「(Qどんな思いで聞いて欲しい?)あれはいろいろな見方があるが、鎮魂ですね。その上で自分の今に感謝することじゃないでしょうか、そういう気がしますけれど」
市民有志は、「平和の鐘」が広島市役所付近に移設できないか市と交渉していきたいと話しています。(8/6 18:51)