【憲政】立憲政友会vs立憲民政党 part3【翼賛】at HISTORY2
【憲政】立憲政友会vs立憲民政党 part3【翼賛】 - 暇つぶし2ch2:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 14:53:24.23 OVqF1WZu0.net
kitai age

3:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 03:23:49.39 IGUDAWsEO.net
初代スレが立った当時は太平洋戦争関係以外の近代史スレがあまりなくて面白かったな。


話題はpart2の途中で尽きた感もあるが10年で人も変わっただろうし、新しい見解も出てくるかな。

4:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/09 20:04:52.15 RDJbgC4o0.net
ここ10年で出た、戦前の政党を知るのに適した本を知りたい(再刊でも可)

5:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 23:15:22.45 eVw6XkWr0.net
>>4
川田稔「満州事変と政党政治」(講談社選書メチエ) が、最近出たものでは面白かった。

浜口雄幸は立派な政治家で、若槻禮次郎も言われるほどのヘタレではなく、政党政治の基盤は強固だった。
なのに政党政治は、満州事変と陸軍(一夕会)の策謀で崩壊する。政党と軍の発想の違い、軍の台頭の過程がよく分かる。

6:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/16 06:37:07.78 fLvr0zcr0.net
どうも戦前の議会って富豪議会や名士議会のイメージが強いんだよね…
偏見なんだろうけどさ

7:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/17 23:07:28.55 oQU2WYmH0.net
そりゃ戦前の無産政党は弱小勢力だからな…
あれがイギリスの労働党みたいに育ってたら違っていたろうに

8:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 23:44:21.08 dwLDGtoZ0.net
農民労働党 労働農民党 日本農民党 社会民衆党 日本労農党 無産大衆党 日本大衆党 社会大衆党
これだけあって、影が薄いとは。。。無産政党あわれ。

安部磯雄とか赤松克麿はメジャー級かもしれないが、政治家として
どんなことをしたのかは、今ひとつ分からないな。

9:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 22:07:52.53 E1ysFh6n0.net
三井→立憲政友会
三菱→立憲民政党

政友会→旧田中系
民政党→旧福田系

あてはめてみれば、




10:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 08:36:14.14 2/YzHbkq0.net
>>9
あてはまらないよ。

11:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/05 13:44:32.94 aXGWBpac0.net
大政派と翼賛派

12:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/12 19:04:27.42 8zR9Ev+D0.net
男子の本懐

13:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/13 10:20:20.10 fowAW6RS0.net
濱口雄幸いいわー
もうちょっと長く首相やって欲しかった

14:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/13 10:44:03.48 Qa1wATW60.net
雨が強くなってきた今日は中止だ

15:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/28 02:24:51.10 kjynWWxy0.net
政友会:積極財政・大陸進出・陸軍・在郷軍人&民間右翼
犬養毅・森恪・高橋是清・鈴木喜三郎
民政党:緊縮派・国際協調・海軍(条約派)・都市部
若槻礼次郎・浜口雄幸・井上準之助
その他この二大政党時代の人
西園寺公望(元老)牧野伸顕(公家)、田中義一&宇垣一成&白川義則&荒木貞夫(陸軍)
斎藤實&岡田啓介&鈴木貫太郎&大角岑生(海軍)、幣原喜重郎・床次竹二郎・安達謙蔵
修正等あれば

16:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/28 02:40:10.66 kjynWWxy0.net
牧野は公家じゃなくて宮中派だ。
あと帝人事件の平沼・統帥権干犯問題の鳩山一郎も加えておくか

17:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/30 09:25:13.33 rXQDYE290.net
政友会:積極財政・大陸進出・陸軍(田中派)・海軍(艦隊派)・農村部(在郷軍人)&民間右翼
 犬養毅・森恪・高橋是清・鈴木喜三郎・鳩山一郎
民政党:緊縮財政・国際協調・陸軍(宇垣派)・海軍(条約派)・都市部&左翼知識人
 若槻礼次郎・浜口雄幸・井上準之助
その他この二大政党時代の人
 西園寺公望(元老)&牧野伸顕・木戸幸一(宮中)、田中義一&宇垣一成&白川義則&荒木貞夫(陸軍)
 斎藤實&岡田啓介&鈴木貫太郎&大角岑生(海軍)、幣原喜重郎・床次竹二郎・安達謙蔵
 平沼騏一郎&倉富勇三郎(枢密院)
ちょと修正してみた ほかにもあれば自由にどぞ

18:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/30 11:41:48.20 7SFqNZsA0.net
高橋是清が民政党内閣の大蔵大臣だったらよかったのにね。外交では国際協調派だしね。

19:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/31 23:19:17.18 sOq6fy6e0.net
>>18
まったく、高橋はなんで政友会にいたのか分からんね。
山本内閣(与党が政友会)の蔵相になったのが、腐れ縁のはじまりかな?
民政党員だったとしても、やっぱり殺されてしまったかもしれないが。

20:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/01 02:43:35.53 unhrslgc0.net
高橋是清総裁・首相までは政友会のほうが国際協調派だった。

21:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/01 10:34:25.30 Zr4zBwsB0.net
たしかにワシントン会議のときは高橋首相だ。
なぜ憲政会と政友会で、外交政策がひっくり返ったのか謎。
野党だと勇ましいことを叫ぶんかな?

22:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/02 00:17:37.26 dlp0ON2A0.net
>21
>なぜ憲政会と政友会で、外交政策がひっくり返ったのか謎。

田中義一が後継総裁として入ってきてからじゃない?
森恪あたりと連携して、それまでの政友会の方針とずれていったんじゃないかな。

まぁ、そもそも政党政治が未熟だったこともあって「敵対政党を攻撃するためには
外交問題を政争の具にしてもかまわない」ぐらいの感覚だったせいかもしれないけど。

今世紀の鳩山民主党が政権奪取のために「普天間問題を解決します」とか言い出して
外交という壁にぶち当たってしまったようなもんか。

23:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/02 08:03:39.90 YWO7YrYn0.net
高橋是清は政友会が敵視した岡田内閣の閣僚をやって暗殺された。
同じく元政友会総裁・首相の西園寺もこの時代の政友会を嫌ってた。

24:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/02 19:03:19.22 OydHNB6Q0.net
URLリンク(go2senkyo.com)
↑誰かこのサイトとか(何でもいい)から28~42までの民政党議員・
政友会議員・その他をまとめてwikiに載せてくれないかなあ。
ってか歴史研究家・教授でこのあたりのを専門にしてる人って誰なの?

25:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/03 20:06:38.75 dKAYZYYF0.net
政党内閣の首相をやった人の半数強が暗殺されてるんだね。すごいね。

26:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 18:16:25.60 dUgcNZIL0.net
田中義一の陸軍機密費はほんとなの?

27:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/12 21:02:00.15 IGaxNefai.net
>>26
ほんとだろうな。政党の党首はカネがかかる。それも尋常な手段では作れないほど。
田中義一のような軍政の中心にいた人間なら、次官や会計担当官と組んで
機密費横領して蓄財するのが一番効率的なカネもうけだ。

28:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/13 07:58:27.56 /aLsetZU0.net
>>27
田中個人の横領というよりも陸軍の政党買収費だろう。

29:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/13 22:03:17.78 n2SKuESt0.net
>28
それはあるかもしれないな。
この時期の陸軍は大正デモクラシーという大波の前に、かなり政党勢力に対して劣勢を強いられていたから、
陸軍の中枢にいた田中を政党の中に送り込むことで政党側を懐柔しようと考えるだけの動機を持っていたし。

総力戦という第一次世界大戦によって生じた新たな戦争概念を前にして、心情的には忌避感を強く抱いている
政党勢力と妥協してでも軍備拡張や組織・兵器の近代化を進めなければならないという考えも強かったから、
田中の政界に対する野心をバックアップしようとしたとしても不思議はない。


30:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/15 05:59:44.07 0YD4NZLv0.net
田中は無能すぎた。

31:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/15 08:50:23.16 0YD4NZLv0.net
田中と近衛は戦前の二大愚相だな。

32:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/15 11:40:21.84 FdOMHqra0.net
>>9
亀レスだけれど前半は同意だが後半は滅茶苦茶。
自民党誕生後で8個師団でいえば
政友会→松村・三木派以外の7派に幅広く存在
民政党→殆どが旧日本民主党系の4派に存在
こんなところか。

個人的な主観で近世以前の日本人の姓(かばね)にたとえると:
政友会→平氏
民政党→源氏
というイメージが強いが。

33:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/15 18:11:55.18 eY4jXpbZ0.net
はじめてきたが良スレ発見
思想に犯されてないめずらしいスレだな
先人のまとめ活用させてもらいます

34:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/15 18:16:26.11 eY4jXpbZ0.net
陸軍機密費横領問題担当の検事石田基が鉄橋下で変死体で発見されその後事件はうやむやにされた
らしいけどなんで追求されなくなったの?余計に疑われる気がするけど

35:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/18 12:58:41.74 0AoT99L20.net
帳簿や領収書がきっちりと残される性格のものではないから
明らかにしようがない。残っていた文書も終戦時に焼却されただろう。

36:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 01:07:09.40 rxOI3pue0.net
>>18-23
田中義一の派兵(強硬外交)も英米と協調の範囲内ではあったようだがな
森恪あたりとは違って協調の範囲内に収めることを考えていた
張作霖爆殺事件の対応で軍に屈したし田中以降政友会は親軍色強くなったが
統帥権や天皇機関説やら政友会はどうも政局的過ぎる

37:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 01:12:05.92 rxOI3pue0.net
>>5
永田鉄山の対支一撃論や総力戦体制論は
英米との協調を破ってでも大陸に進出して
総力戦の準備を進めるという点で倒錯してるというか
英米と協調する側の努力を壊して自ら総力戦を招いてるように思えてしまう

38:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 01:23:15.64 rxOI3pue0.net
>>29
親英米の自由主義で進められればよかったんだろうが
特に田中以降政友会は自由主義色薄い
原の頃から満州で利権漁りしたりしててかなりあれだが

39:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 07:42:50.42 TshLHsJb0.net
田中外交はワシントン体制から抜け出すものではなくて、英との協調を重視していた。
協調外交の典型のように見られている幣原外交では寧ろ抜け駆け的に蒋介石との
接近が図られた。

40:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 14:38:51.97 rxOI3pue0.net
>>39
政友会内閣の外交官時代の吉田茂も満州への進出に
積極的だったがあくまで英米協調が前提だからな
森恪なんかは犬養にも危険視されていたようだが
この点で陸軍の特に統制派は先に開戦を前提として
その準備として資源のために満州を取るという点で倒錯してるように感じる
さらに資源のために太平洋にも進出してそれで英米と対立が深刻化するとか
開戦準備として満州を取っても逆に戦線が広がってるし対支一撃は泥沼化
絶対開戦するから資源を取って総力戦体制を構築せねばという頭が
先にあってそれに縛られ過ぎてるというか頭でっかちだったのかね
東條ではなく永田鉄山が生きて主導していたらどうなったんだろうな

41:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 15:30:17.29 BLnQ7WUn0.net
>36
>田中義一の派兵(強硬外交)も英米と協調の範囲内ではあったようだがな

国家の上層部としては英米との協調歩調を崩さずに外交を展開する一方で、
国民に対しては「支那に対して膝を屈するな!」みたいな強硬なポーズを
取っておく必要があると判断してたんじゃないか?

今の中国が、日本との関係を壊すと経済的な不利益が甚大だから穏便に
止めたいと本心では思っていても、経済的に困窮していたり政治的な不満を
持っている民衆が鬱憤晴らしをする対象として「反日」という反応を
起こしているように、当時の昭和恐慌のただ中で経済的に困窮している
貧農層や都市下層民が現状打開の方法の一つとして「満蒙を取れ」とか
「満州は生命線」とかのスローガンに引き寄せられたんでしょう。

政権を取って民衆の支持を得るためには、そうした「景気の良い話」に
引き寄せられる性質にアピールしたほうが「票を取れる」という判断を
政党がおこなったとしてもそう不思議はない。

そのうえで、政権を運営していく上では「英米との協調」という基本線を
崩すことの不利益は分かっているから、対外的にはそこそこ理解を得られるよ
うな線で物事を納めて、「国内向けには強硬姿勢を示す」という路線と、
「対外的には協調体勢を崩さない」という路線を両立するという
ある種の二枚舌を使い分けようとしたんだと思う。

問題は、そうした時に田中義一に足下の軍部内での中堅層の策動を抑えきれる
ような力が無かったことと、森恪あたりの働きも手伝って、民衆の中にある
支那に対する反発と、陸軍中堅層(双葉会~一夕会)の満蒙の資源獲得への
策動が一つにまとまって大きな力となってしまったことだと思う。

42:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 15:50:17.15 BLnQ7WUn0.net

>37
>永田鉄山の対支一撃論や総力戦体制論

永田本人は総力戦体勢を作ることを指向してはいたけど、
対支一撃論には距離を取っていたと思う。

もともと永田と小畑の対立が表面化したのは、
対ソ戦を強く指向する荒木をはじめとした皇道派の考えに対して、
まずは満州国経営を堅固なものにしてこの地域において日本の
確固とした足場を築くことを優先すべきだ、というものだったし。

満州事変後に連盟脱退などを通じて悪化した欧米との協調路線は、
永田が軍務局の中枢に入った昭和9~10年にかけてかなり回復しているし、
国民党の蒋介石との間でも、かなり宥和的な政策が進められていて
むしろ国際環境的には安定化傾向にあった。

43:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 15:59:00.72 BLnQ7WUn0.net
>38
>親英米の自由主義で進められればよかったんだろうが

その時期に政権にあった浜口雄幸の民政党政権が自由主義的で
親英米姿勢という路線を取っていたから、政権獲得のために
独自色を打ち出すことを求めたからだろうね。

本当に国益を考えるのであれば、外交に関しては民政党の路線に
賛同を示して、それ以外の政策で自党への支持を訴えれば良いのに、
安易で短絡的に幣原外務大臣の行う外交を「軟弱外交」として
非難する方向へと舵を切ってしまったのが間違いだったと思う。

井上蔵相の金解禁政策への批判に一本化していたらまた違った
展開もあったろうにね。

ロンドン軍縮条約問題にしても、軍事予算を減らして国民生活の
立て直しに充てるという意味では大変にまっとうな話しなのに、
予算を削られることに憤慨した軍部の後押しにのって「統帥権干犯」を
言い出して結果的には自分たちの首を絞めることになる方向へと
進んで行ってしまった。

44:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 16:15:04.09 BLnQ7WUn0.net
>39
>田中外交はワシントン体制から抜け出すものではなくて、英との協調を重視していた。
>協調外交の典型のように見られている幣原外交では寧ろ抜け駆け的に蒋介石との
>接近が図られた。

というよりも、実際には田中外交にしても幣原外交にしても
そこまで大きな路線の変更なんて出来なかったんだよ。

外交というのは基本的には外務省の官僚が基本的な路線を進めていくものだし、
相手のあるものだから日本の国内事情だけでそう簡単に路線転換などできるもんじゃない。

それは現今の民主党政権での鳩山の醜態を見ただけでも簡単に了解できる。

田中外交と幣原外交が相対立するものとして国民に受け取られたのは、
もっぱら国民に向けての外交政策を説明する過程でどのような口吻をするかに
よって違いが印象づけられているだけで、諸外国からの視点で見れば
それほど大きな違いなんて感じられなかったというのが実際の処だったみたい。

日本がワシントン体制に対して公然と背を向けたのはあくまで満州事変が原因で、
民政党や政友会といった政党政治家がそれを指向したわけではなかった。

石原完爾が事変前に作成した「満蒙問題私見」で述べているように、
「謀略により機会を作成し軍部主導となり国家を強引する」というのは
こうしたワシントン体制を基本的には守ろうとしていた政党政治をひっくり返そう
という意図の表れだった。

45:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 16:55:07.06 BLnQ7WUn0.net
>40
>この点で陸軍の特に統制派は先に開戦を前提として
>その準備として資源のために満州を取るという点で倒錯してるように感じる

陸軍は日露戦争くらいの頃から伝統的にロシアを仮想的に見立ててきたし、
反共思想の強い皇道派は取りわけ「ソ連」という共産主義国家に対して
警戒心を抱いていた。

そして第一次世界大戦以降、大規模な戦争が「総力戦になる」というのは
必ずしも間違いでも杞憂でもない以上は、それに備えておかなければという
考えを陸軍が持つというその動機自体は必ずしも否定するべきものではないと思う。

その際に支那との関係をどのように構築するのかというのが一番の焦点だった。

満州事変以後でも、必ずしも蒋介石との全面衝突は避けられないものではなかった。
出先軍部を統制して、余計な策謀をさせないようにし、軍事衝突を起こさないように
牽制することが可能であったなら、蒋介石との間に協力関係を構築して、
ソ連という共産主義勢力に対して共同戦線を張ることは不可能ではなかった。 

問題は、満州事変以降に習い性になってしまった出先陸軍の中央を無視した
拡大主義や謀略嗜好が抑えられなかった事だと思う。

太平洋戦争の開戦にしても、アメリカからの「中国からの撤兵を行い、
三国同盟を死文化してドイツと手を切れ」という要求を受け入れるかどうかが
開戦と避戦の分かれ道だった。

そしてその三国同盟を結んだ理由にしても、支那事変を有利に収束するために
というのが理由の一つにもなっているくらいだから、どこまで行っても、
元を正せば中国との戦争が泥沼化してしまっていて引き際を見つけられなく
なっていることにその原因がある。

46:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 17:03:05.71 BLnQ7WUn0.net
>東條ではなく永田鉄山が生きて主導していたらどうなったんだろうな

断言は出来ないけど、盧溝橋事件の時に、全面戦争化しないように
石原と一緒に陸軍省内で奔走したんじゃないかなという気がする。

永田の部下だった東條や武藤といった拡大派の盧溝橋事件時の言動から
生前の永田の思考を類推するのは無理なんじゃないかな。

「永田の前に永田無く、永田の後に永田無し」とまで云われたように、
永田の存在というのは陸軍の中ではかなり特異な存在で、東條や武藤は
永田と比べたら遙かに小粒で矮小な存在だった。

永田が構想していた陸軍の進むべき道というのは、陸軍のんかでは
実際には永田にしか見えてはいなかったし、その構想を実現するだけの
政治力や人脈も永田しか持っておらず、その後の陸軍の中で財閥や
重臣層や他省の官僚と共同歩調を取って物事を進めていくだけの
器量を持っている人間はいなかった。

47:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/22 23:07:34.16 rxOI3pue0.net
>>41-46
なるほどー、勉強になりました

48:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/23 22:43:27.90 GbixlNNA0.net
日本人や日本の工場が大陸で焼き討ちにあって、おびえて外にも出れない状況となった。
これがもし戦前の政党政治時代なら、田中外交が発動、帝国陸海軍の出番となって
上海や青島に旭日旗が翻るわけだ。一発で鎮火するのか、それとも火に油をそそぐのか。

あるいは発動するのは幣原外交かもしれん(確率50%?)が、その時は…
トヨタ・ホンダ・パナソニック・キャノン・イオン・セブンイレブン、
全部まとめて日本に帰ってこい!という無茶な方針で、これまたアテにならない。

当時は英米日の協調でシナを抑え込んで、ルールを守らせるしかなかったと思うが
今はそんな国際的な枠組みもなし。どうしたらよいのだろうかね。

49:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/24 15:47:28.70 s2iWJGDu0.net
幣原の無為無策が関東軍を柳条湖の謀略に走らせたのだ。
春秋の筆法を借りれば満州事変の主犯は幣原だ。

50:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/24 16:49:42.60 7+aRPyzv0.net
>49
>幣原の無為無策が関東軍を柳条湖の謀略に走らせたのだ。

多少の反日排日活動なんて、無視するか逆手にとって外交上の圧迫を加えていればそれで良い。

今の中国の反日暴動を受けて、自衛隊が「中国が先に仕掛けてきた」とか言い出して
自作自演で軍事行動を起こすようなもん。

連盟決議での42対1での否決ってのはそういうカラクリを見透かされてのもの。
関東軍の暴走のせいで日本がどれだけ国際的な信用を失い、対外的な損失を被ったことか。

>春秋の筆法を借りれば満州事変の主犯は幣原だ。

アホな出先機関の下っ端の暴走までトップの責任にされたらかなわん。

満州事変の主犯は石原であり、その行動の容認をした陸軍中央の責任であって、
外務省や政府首脳はなんとか暴走を食い止めようとした側だよ。

幣原の外交に反発するアホどもの暴走を抑える手立てを持っていなかったという意味では
政府にも責任の一端はあったとも云いうるが、それをもって「主犯」とする論理を用いるのは
明らかに間違い。

51:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/25 20:46:55.49 moNYGC3M0.net
>>48
今なら日米同盟かね、民主党政権で日米同盟が揺らいでる
足元を見られてる面はあるんじゃないか

52:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/25 22:45:30.90 C/+w9gVe0.net
対中協調し英同盟廃止と九ヶ国条約締結したのも幣原外交らしいが。
わざわざ米に包囲網作らせ、その後に強者にした米英と協調とかかなりひどくね?

53:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/27 07:22:21.84 x8u36xNf0.net
幣原外交とは土井たか子か福島瑞穂が外務大臣になったようなものだ。
日本の権益も安全保障も放棄して中国と仲良くしましょうという外交。
危機感に駆られた関東軍が行動を起こしたのは当たり前だ。満州事変の
主犯は幣原。

54:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/29 10:17:25.65 su3z2Pp+0.net
>>50
日露戦争に勝って当初の目的を果たして一等国の仲間入りをしたはいいが
その後は大陸の扱いが難しくなってしまったな
統帥権による軍部と政府の二元化の危険性は1921年にすでに
近衛は演説で触れているが、結局維新の元勲の作った大日本帝国憲法に
欠陥があって陸軍の暴走や政党政治の破綻はどうにもならなかったのかね
その近衛が日中戦争を拡大して英米と対立のお膳立てして東條に継いだが

55:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/29 10:38:44.36 su3z2Pp+0.net
田中義一は万里の長城以南は蒋介石の統治を認めるが
満洲に限り張作霖を利用して統治させる方針

中華民国の主権は認めるが、日本の実権掌握下における
政権樹立による満蒙分離、吉田茂や森恪はこれだな

民政党は国民政府による満洲含む全中国の統一を容認
不干渉の上で中国との貿易推進

陸軍の統制派は中国の主権を完全否定の満蒙領有で
総力戦体制の構築と来たるべき対ソ戦への準備

56:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/29 12:48:53.61 nlNqJV/z0.net
>54
>結局維新の元勲の作った大日本帝国憲法に欠陥があって
>陸軍の暴走や政党政治の破綻はどうにもならなかったのかね

「統帥権の独立」という陸海軍側の振るった論難の剣は、
必ずしも万能の武器だった訳じゃあない。

現に、盧溝橋事件によって発生した軍事衝突が日中の全面戦争へと発展した際に、
統帥側の参謀本部の方が不拡大を指向して、政府や陸軍省側の方が強硬意見を
主張して戦火を拡大していった。

軍政(陸軍省・海軍省)と軍令(参謀本部・軍令部)のどちらが圧倒的な
優位を持っていたとかではなく、それぞれの組織や勢力が右往左往して
統一的な国家運営を行う主体を喪失してしまったことが破綻の原因だった。

それは憲法上の制約という以上に、統治を行う政治主体を上手く作り出せなかった
日本人の心性の問題であったり、強力な意志と政治力を持って国家を導いていこう
とする熱意と情熱を持った指導者が現れなかった(もしくは暗殺されてしまう)
この時代の人材の少なさに、より大きな原因だったと思うね。


明治期には薩長藩閥という政治主体が、政府・財界・文官官僚・陸海軍の中で
ヘゲモニーを握って強い指導力を保持していたから、それぞれの勢力の利害を
調整しながら大きな国家目標に向かって全体をまとめ上げることが出来ていた。

大正デモクラシーという大きなうねりの中で、「閥族打破」というスローガンが
掲げられて、政党勢力が力を付けて行く中で、権力を一部の人間が独占的に
継承していく事への反発が強まるなかでそれらの政治主体が解体されていった。

その後、政党政治家が政治を動かしていく主体となっていくのが理想ではあったけど、
いかんせん政党政治というものが定着するだけの下地や素養が出来上がっていない状態で
英国流の議会政治をスムーズに運営するのは難しかったから(当の英国ですら、
まともに議会政治が運営されるようになるまでは相当の年月を必要とした〉、
「この連中に政治を任せることは出来ん」とする反発が陸海軍の中に芽生え、
また国民の中のある程度の層もその感情を後押ししたのが、昭和前期の政治状況が
流動化した一番の原因だと思う。

「政党政治に任せちゃおれん」とか考えた陸海軍だって、実際の処は大した
政治的展望も無く、国民を統合するだけのビジョンを示すだけの度量を持った
人間はほとんどいない、ただの軍事官僚の集まりみたいなものだったからね。
軍事的な知識や経験は豊富でも、その軍事力を外交や国際政治の中で日本にとって
有益な方向で振るうというだけの見識や指導力を持った人間はほとんどいなかった。

西郷隆盛のいない桐野利秋というか、劉備元徳のいない張飛益徳みたいなのが
当時の陸軍の姿だったんじゃないかな。

57:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/29 14:46:31.21 su3z2Pp+0.net
永田鉄山の構想は来たるべき世界大戦に備えて国力を蓄積すること。
英米との対立を外交で回避しつつ満蒙や華北華中を
日本の経済圏に確保して総力戦に耐えうる工業力と資源を持つ。
それによって次の世界大戦でのフリーハンドを確保。
満洲事変は石原莞爾が決行する以前から一夕会で構想はされてきたこと。

それが永田が殺されて後は陸軍の統制派は中心を失った状態の中、
満洲事変による下剋上の風潮で日中戦争は拡大。泥沼化を予見して、
対ソ戦準備のため不拡大を唱えた石原は下剋上喰らって容れられず。
勝ちに驕った近衛は南京進駐を前に条件を厳しくして和平工作は失敗。
援蒋ルートために泥沼化しつつ戦線は伸び英米との関係は悪化。
陸軍はノモンハンでソ連陸軍と戦い対中和平を求めるようになるも失敗。

アメリカはドイツがイギリスを取って地理も工業力も手に入れるのを
アメリカの安全保障上避けるために、ドイツと交戦中のソ連を維持したい。
それを英米可分論で、早期の対ソ戦回避・援蒋ルート遮断のためにも、
自給自足経済圏の大東亜共栄圏構想で南進論を採って、イギリスの
物資供給を脅かして、フランス領インドシナ進駐でフリーハンドどころか
石油の六割を依存していたアメリカから全面禁輸を食らって石油不足に。
なし崩し的に実際には英米不可分のアメリカと開戦になだれ込むとか。
永田は持久戦構想だったが、実際の日米開戦のプランは初期に
アメリカに打撃を与えてドイツ・イタリアとの包囲網で戦意喪失を狙うもの。

状況頼みの構想は、状況が変われば、それに対応して新しい構想を
立てられる人間がいなくなってしまうとどうにもならないのかね。
しかし日米関係と大陸進出は果たして両立し得たのかね。
「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と日米開戦に反対した
石原の事態打開の策はハルノートとほぼ同じ内容だったらしいが。

58:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/29 19:12:14.29 nlNqJV/z0.net
>57
>満洲事変は石原莞爾が決行する以前から一夕会で構想はされてきたこと。

というか、満州を実質的に日本の支配下に置くという方策は陸軍中央も含めて
かなり大がかりに進められていた。

ただ、それはあくまで漸進的に1~2年の時間を掛けて国内向けの地ならしをして、
対外的な理解なり協力なりを得られるめどを立ててから進めるというものだった。

関東軍にいた石原や板垣といった急進派と、それを気脈を通じていた桜会系の
橋本欣五郎や長勇といった十月事件を起こす連中はそれじゃダメだと思ったんだろう。

そういうやり方だと結局、政党勢力を中心とした既存の権力構造を破壊して
「自分たちの思うとおりの国策の進め方」というのが出来ないと判断した。

だからこそ「謀略により機会を作成し軍部主導となり国家を強引する」なんだろう。


一つには総力戦という新しい戦争に対応するための軍政改革や装備の刷新という
陸軍にとっての大目標を達成できないし、彼らにとって「唾棄すべき存在」として
映っていた政党政治家達に何時までも頭を押さえつけられ続けてしまう、とも
思っていた節がある。

昭和5年のロンドン軍縮条約の締結を見ても分かるとおり、経済的な苦境に
経たされていた民政党政権(浜口雄幸→若槻礼次郎)は大規模な軍縮に向けて
舵を切ろうとしていたから、そうした施策への反発心もかなりあったはずだし、
将校が制服を着て電車に乗ると「税金泥棒」として非難されるような屈辱的な
環境を何とか払拭したいという気持ちも決して小さくはなかったはず。

言ってみれば、天皇陛下からの預かりものである「武力・兵力」を使って
非合法な行動を行い、自分たちの要求を政府や国家に対して突きつけるという、
クーデター的な側面が満州事変にはあったし、それを横目に見ながら実際に
国内でクーデター騒ぎを起こそうとしたのが十月事件のメンバーたちだった。

59:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/30 01:00:35.99 wKYhGFE50.net
結局は外交よな、アメリカは自国の安全保障上イギリスの維持が
目的であるのに英米可分論で親独南進とか見えてなさすぎる

>>56>>58
大正デモクラシーの未成熟に経済の悪化や陸軍の急進化等
色々な要素が絡み合ってああなってしまったんですかねー

60:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/30 07:57:07.97 wKYhGFE50.net
永田の満洲・朝鮮に加えて華北・華中までを経済圏として取り込み
一種の自衛圏を作る対ソ持久戦構想は
やがて来ることになる冷戦のようなものまで見越していたのかね
思想としては山縣有朋の主権線・利益線の延長とも見れる
永田はルーテンドルフの政治支配や総力戦体制論に影響を受けているから、
生きていれば永田首相の軍事国家になっていたのかね
実際には永田亡きあと陸軍は迷走して日中戦争は泥沼化
敗戦で大陸の日本人はソ連対日参戦で殺されたり
引揚中の略奪暴行殺傷や戦犯として処刑される等悲惨な末路だったが
結局日米同盟でアメリカの庇護下に海洋国家として冷戦を過ごすことに

山縣は軍事に通じてる分対外協調の重要性も認識していて
対華21ヶ条要求みたいなのには批判的だったな
山縣は政党嫌いで有名だが、対外硬派が政党に多かったのも要因
軍部大臣現役武官制も政党が無謀な戦争に走ることを避けるためだったとか

61:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/30 08:11:13.64 wKYhGFE50.net
石原莞爾もルーデンドルフを研究していたらしいな
昭和陸軍に対する影響は相当大きかったというか焼き直しみたいなもんかね

62:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/30 13:45:15.89 53s6jfKY0.net
>60
>永田の満洲・朝鮮に加えて華北・華中までを経済圏として取り込み
>一種の自衛圏を作る対ソ持久戦構想は
>やがて来ることになる冷戦のようなものまで見越していたのかね

どうだろう?
当時のソ連を見ていて、あれほど強大な国家になることを予想出来たかどうか。

この頃はまだ欧州でナチスドイツが強大な勢力を張り出しはじめた時期だから、
その後の第二次大戦でヨーロッパ各国が焼け野原のようになって疲弊し、
ドイツとイタリアの軍事的・政治的脅威が取り除かれたエアポケットのような
状態になっての冷戦ってのは想像の範疇外だったろう。

欧州でドイツとフランスとイギリスの何処が優勢になるのかどうかも大事だけど、
日本としては第一次世界大戦と同様になるべく巻き込まれないようにして
国力を付けなければならないと思っていたんじゃないかな。

なにしろ第一次世界大戦終了の時点で、兵制・装備・兵器・産業力などの
全ての面で欧州のレベルに置いてけぼりを喰ったことを一番承知していたのが、
欧州に留学して総力戦の研究をした、永田をはじめとした陸軍の中堅将校だったから。

戦車や飛行機、機関銃や有線や無線の電信網を展開する技術力や生産力が
なければ欧州レベルの総力戦には対処できないという認識は持っていたと思う。

海軍に関してはこの時点ではまだ大鑑巨砲主義思想は生きていたし、
米・英に次ぐ世界第三位の海軍力を保持しているという事実もあったから、
それほど差し迫った問題ではないと判断していたろうし。

63:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/30 14:05:18.51 53s6jfKY0.net
>59
>大正デモクラシーの未成熟に経済の悪化や陸軍の急進化等
>色々な要素が絡み合ってああなってしまったんですかねー

最近出た北岡伸一の『官僚制としての日本陸軍』って本が
この辺の事情を掘り下げていて読み応えがあった。

明治期の建軍期から昭和期までを通史として叙述しながら、
それぞれの時期における政治との関係を説明しているから
読んでいて分かりやすい。

支那通と呼ばれた軍人たちの動向を、日本の大陸政策の推移と絡めて
解き明かした部分は、戸部良一の『日本陸軍と中国』と併せて読むと
その後の日中戦争の泥沼がどのようにして発生していったのかを
立体的に浮かび上がらせてくれる。


個人的にとりわけ面白かったのは第3章として収録された
「陸軍は閥対立の再検討」という論文。
近年の陸軍研究の中では革新的な先行研究として引用されることが
多かった論文だけど、30年前に出版された本に収録されただけで
まだ読むことが出来ていなかったから手軽に手に取れる形で収録して
くれたのがありがたかった。

この時代の陸軍内部の実相に興味がある人だったら、この部分を
読むためだけにでもこの本を手に取る価値が有ると思う。

64:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/01 01:38:08.55 otVIOLE20.net
>>63
興味あるので読んでみますー

65:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/01 22:23:47.88 26ffL9Ny0.net
結局日英同盟あれば米も日本を追い詰められなかったし、米側の妥協も引き出せたよね
譲れば相手も譲ると、日本国内の倫理感覚を外交にあてはめた
米との関係改善の戦略は良かったが、駆け引きの戦術で失敗し
むしろ米は思う壺と追い詰められ敗戦

中韓問題もODA援助やってたら、もっと貢物領土よこせやみたいなw

66:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/14 01:17:26.78 M4qqRqP2O.net
戦前の政友会と民政党も
現在のミンスと痔眠の
所業と全く変わらんなw


官僚(軍)、経団連(財閥)の下僕で政局優先中傷合戦w

67:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/14 09:40:53.87 Bf7cMamM0.net
>>66
ODAを慈善活動と思っているとは天使ですか?日本のODAが国内の公共事業同様
ハコモノ中心なことは周知の事実で資金は日本に還流しているよ。
政府がODAをやたらと増額するのを慈善、援助だと思っているとはあなたはこの世が
善意でできていると思っている幸せな人ですね。

>>66
それに加えて「維新」などど称する革新官僚(今はアメリカ直輸入の新自由主義者ね)の
全体主義志向勢力もね。



68:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/14 11:08:00.99 p4/3x2QL0.net
浜口はよくやったよ。

69:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/14 12:42:06.53 M4qqRqP2O.net
統帥権で軍部と結託し
濱口を陥れた鳩山爺と
挙げ足取りでマスゴミ
と結託し痔眠を陥れた
鳩山孫が被って思えるよ。

国家よりも目先の政局優先頭ポッポの血は争えんなw

70:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/15 13:37:17.74 leIOW1va0.net
戦前の政党政治は左翼からも右翼からも否定されてるので
2ちゃんのような場では論議しにくい。

71:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/17 21:10:48.34 dEAHEHk10.net
>>69
昭和恐慌を引き起こしたライオン浜口は自滅しただけだよ。
国民の所得を10年で100万も減らした自民も同じで自滅しただけだよ。

72:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/19 06:00:02.01 Awnhuj/80.net
外交もそうだけど、経済でも二大政党は正反対の政策だから
あれだけ頻繁に政権交代したら、混乱するのも当然か。

浜口の金解禁、井上の緊縮財政は致命的な選択だったが
経済界も金本位復帰を後押ししてた。金持ちが口出すとロクなことがない。

73:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/03 06:44:48.31 JOLJ/Smr0.net
筒井清忠『昭和戦前期の政党政治─二大政党制はなぜ挫折したのか 』
URLリンク(www.chikumashobo.co.jp)

こんな本が出ていた。ちょっと本屋をのぞいてみるわ。

74:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/09 22:08:08.24 j5XwZl76O.net
今の痔眠&ミンスと
全く変わらないな!w

75:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/17 22:22:26.07 pbJEWUUD0.net
>73
今読み終わった。
けっこう面白い。

ロンドン海軍軍縮条約での統帥権干犯論議とか、満州事変後の若槻内閣倒閣から
犬養内閣へのゴタゴタとかはある程度知っていたんだけど、もっと長いスパンでの
政党内閣の成立からその終焉までの間の各政党の内部事情や派閥争いなんかを
丁寧に追いかけた本というのはあまりないから、著者の提示する視点はなかなか
新鮮なモノとして受け止められた。

政党政治の本質ってのはそうそう変わるものではないし、変わらない理由というのは
それなりに根が深いモノなんだというのがよく分かる。

76:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/19 05:27:53.23 sd7fi4Pa0.net
>>75
政党内閣のあった戦前の8年間ってのは、日本史上でも重要な時期だったように思う。
でも、その詳細はほとんど知られていないのが不思議。詳しく知ることで、
そのときの問題が派閥や党派、そしてマニフェストをめぐる争いであり、
今でも通じる部分がたくさんあることに驚かされる。やっぱ近代史は必修化すべきw

77:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/20 00:57:16.33 znxWgvLe0.net
>76
戦後教育の中で、「全ては軍部が悪かった。政党政治家も軍部以外の官僚もマスコミも民衆も、
みんな軍部と右翼に引きずられてやむを得ずあの戦争に巻き込まれてしまったんだ」式の言説が、
相当強固に日本中を覆っていたからね。

1920年代~30年代の正確な日本の実相が明らかになると、上記の「ぜんぶ軍部が悪いんや」という
免罪の論理が使えなくなって、戦前から続く組織や集団が自分たちの非を見つめ直さなければ
ならなくなるというしんどさがあったから、かなりの部分であえて封印してしまったんだろうね。

78:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/20 21:07:52.00 reFN5Cnc0.net
しかし政党政治もグダグダではあったけど、大陸で勝手なことやったり
選挙を2・26でひっくり返して天皇に怒られたのが軍部であることも事実だけどね。
政党政治はともかく立憲君主制下における民主主義の否定はするべきではなかろう

79:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/20 21:25:05.94 reFN5Cnc0.net
救世主的なものにすがろうとして自らを助ける筈の権利・思考を放棄したがるというのは
日本人に(限らないのかもしれんが)見られる悪癖と言えるんでないかな。
戦前に政党政治に見切りをつけた国民がすがったのは五摂家筆頭という御家柄の近衛で、
その結果があれだ。今の政治でも妙な期待→暴発が起こらないといいんだがね

80:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/20 23:33:13.91 19ici5FA0.net
テロに倒れた政治家が多いね
今はどんな失策やらかしてもそうはならないけど

81:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/23 19:41:38.68 rMxAKQej0.net
>78
>政党政治はともかく立憲君主制下における民主主義の否定はするべきではなかろう

政党政治というものに対する理解が足りなかったというか、「政党のダメな部分というのは
自分たち国民のダメな部分を反映しているんだから、自分たちの方も律しないとダメだ」という
思考回路に結びつかずに、「あいつら(政党)はダメだ、軍部に期待しよう」という方向に
行ってしまったのがまずかったんだろうね。

陸軍も海軍も、所詮は官僚組織なんだから、自分トコの利益や予算獲得が最優先されるのであって、
「国民のための行動」をするかどうかなんて分かったもんじゃない。

そういう組織を民意の元にコントロールする目的で生まれたのが、国民の負託を受けたという
バックボーンを持つ「議会政治」というものなのに。

82:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/23 19:45:37.18 rMxAKQej0.net
>80
>テロに倒れた政治家が多いね

原敬や濱口雄幸がテロに倒れず、また病死した加藤高明あたりがもう少し長く政権の座に
留まっていたら、政党政治の消長はかなりの程度違ったものになっていたような気はする。

この時期の政党政治はそれなりに強固なものとしてその地盤が固まりつつあったから、
満州事変という出先の暴発さえなければ、そしてそれに陸軍全体が引っ張られるような
事がなければ、シビリアンコントロールは保たれ得ていた可能性はあったんじゃなかろうか。

83:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/24 10:57:58.44 EY1U52Wi0.net
大した差はないと思うが・・・

まず戦前の政党政治が今と比較にならないほど制約の多いものであることを
「軍部が全部悪いのは俗説」と主張している最近の論者は失念している。
言論統制は言うに及ばず、在郷軍人会の社会への浸透度を政党政治の根幹である
「世論」形成への前提条件に入れないようでは何を言っても空論にしかならないだろう。
(5・15の選挙により選ばれた「首相」殺人者に減刑嘆願が有権者から出されたことが
良い証左である。過去の「軍部元凶論者」はこの空気を吸ってきたのだから必然的な結論
になるだろう。近代史を必修化してもこのリアルすぎる「空気」を教えることができるかどうか・・・)

政党政治時代に統帥権干犯や尊氏賞賛による舌禍事件を政局に利用した政治家たちを
私利私欲の輩と批判するがそれが通用することこそが本質だろ。原を評価する向きも多いが
元老の山縣を権力亡者と軽蔑しながら手を結ぶなど、大正期の政党政治は議会政治と言うには
抜け道が多すぎる。これでイギリス、アメリカのような議会政治に発展するというのはあまりにも
甘い考えとしか言い様がない。

84:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/24 20:06:06.05 GCJqlAKo0.net
北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』は読了した。

筒井清忠『昭和戦前期の政党政治─二大政党制はなぜ挫折したのか 』
 と
井上寿一『政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか』
 はどう?

85:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/24 23:52:21.08 VIwqV2mo0.net
>83
>「軍部が全部悪いのは俗説」と主張している最近の論者は失念している。

これについては、近年の研究でこれまで見落とされていた部分に光が当たりつつある
という要因が大きく働いているように思う。

戦後の社会風潮の中では当時の時代の空気を強く記憶している人々が多かったが為に
「軍部元凶論」が圧倒的な実感を持って多くの人々に支持されていたけれども、
近年は政党政治の実際の有りようや、国家運営上においてその占める地位が
それほど低いものではなかったという事が近年の研究によって明らかにされつつある。

それらはあくまで、過去の「軍部絶対悪」思考への揺り戻しなのであって、
実際には軍部の責任は責任として冷徹に捉えており、決して軍の責任を軽いものに
しようとする指向を持った言説ではないのだけれど、おっちょこちょいな「右寄りの論者」が
そうした実証研究を援用することで彼らが主張してもいない「軍部は悪くなかった」式の
デマを振りまこうとしている点に問題があるんだろう。

以下の数値はあくまで比喩として使うものであってとくに学問的な根拠があってのものでは
ないことを承知しておいていただきたいのですが、それまで軍部が99%悪いというのが
通説だったところに、実際には政党政治や他省の官僚たちにもいくらかは悪いところがあったのが
分かってきて、軍部が95%悪くて残り5%くらいはそれ以外の組織にも責任があった、
という見方が出てきた、というのが現在の状況。

圧倒的に責任が重く、国家を破綻に導いた諸悪の根源と言って差し支えないのは変わらないけど
評判の悪いやつの行動に「良い行動」があると必要以上にその「良い」部分が大きく見えて、
評判が良いヤツの行動に「悪い行動」があると必要以上にその「悪い」部分が大きく見えてしまう
という力学が働いてしまう点については、注意が必要なんだと思う。

86:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/25 00:12:38.74 2jeUr0Lh0.net
>84
>北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』は読了した。

よかったら感想を聞かせて欲しい。

この本が面白かったんで、いま北岡氏の他の著作にも手を出しているところだから、
いろんな人の意見を聞いてみたいと思ってる。


>筒井清忠『昭和戦前期の政党政治─二大政党制はなぜ挫折したのか 』

これも面白かった。

政治や軍事に興味を持ってあれこれと読んでいると「統帥権干犯」という論点を
持ち出した政友会の犬養や鳩山の言動はすごく短絡的に見えてしまう。

でも、それ以前から政党政治という文化の中で、政権党を野党が批判するときに
「天皇の権威」という錦の御旗を掲げると国民が無条件に付いてくるという
現象に味を占めたが故の戦術だったというのが明らかにされてみると、
むしろ国家運営情のビジョンや政策といったものに関心を持たずに
天皇・皇族というシンボルに対して圧倒的な支持を寄せてしまう国民の
大雑把さの方にも大きな問題があったというのが分かってくる。

この辺は各政党の間で戦わされた政策論争と、醜聞の暴露や罵倒合戦を時系列に沿って
丹念に拾い集めて、政党内部の派閥対立や政党自体の合従連衡の動きを細かく
見ていくことで、この時期の政党政治の実態に光を当てようという著者の狙いが
かなりの程度で有効なものとして働いているように感じられた。

一次史料を丹念に当たり、通説では目が届かなかった部分に斬り込んでいくという、
この著者の指向性が遺憾なく発揮されていて、一読する価値は有る本だと思う。

題材は違うけど、2・26事件について扱った筒井氏のデビュー作、
『昭和期日本の構造-二・二六事件とその時代』も凄く面白い。
2・26事件に興味があったら絶対に読んでみた方が良い一冊。

>井上寿一『政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか』

こちらは未読です。
井上氏はこれまでにも何冊かの著作を興味深く読んできた方なので、
是非ともこの本も読んでみたい。

87:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/26 19:07:13.47 nNyxnB4w0.net
>>83
在郷軍人を票田として取り込んだ政友会の犬養首相を軍人が暗殺し、有権者が
減刑嘆願するというのは皮肉だね。まあ次の選挙では票を大きく減らすことになるが

88:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/26 21:07:44.35 QooEpG/80.net
>>86
では北岡本の感想というか粗筋。

このスレの主旨とは違うけど、ポイントは出世競争に走る官僚組織としての陸軍。
政党は腐って居るんだけど、それを無視・封殺して出世競争をするもんだから国のトップに「政治家」が不在となってしまった。
明治維新後に政治を主導した元老のような政治・調整をする存在が必要であったのではないか。
具体的には宇垣一成や南次郎の見識と歴史を比較している。ステーツマンの育たない官僚組織が政治を主導する弊害を描いているような感じってことで。

89:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/29 05:19:00.62 XW780J5D0.net
>88
ありがとう。

それではこちらも感想やらをつらつらと述べてみます。

官僚制というものに着目して、陸軍の消長を記述した内容に新鮮な感覚を覚えたのがまず大きい。
とりわけ印象に残った記述の一つとして以下のものを挙げてみます。

「第三章 陸軍派閥対立(1931-1935)の再検討」のなかで、南日記の記述を元に
以下のような解説をしている部分。(p199~p200)

「中堅軍官僚の多数は南に近いが、彼らは陸軍の内情が多少変化してもその地位を脅かされる
わけではなく、結束力に乏しい。これに対し皇道派の運命は荒木・真崎の運命に直結しており、
結束して彼等を盛り立てようとしている。それゆえに多数派・主流派は容易に皇道派を圧倒できない、
というのである」

この指摘自体もかなり新鮮な指摘だったのですが、より面白かったのはそれに続く以下の記述。

(軍にとって重要なのはどちらの派閥から「誰が」トップに立つか云々ではなく、軍の予算を
確保できるのはどちらの側かである、という南の指摘を元にして)
「つまり、軍備充実のための予算-そして予算獲得能力-こそが決定的に重要であり、
したがって派閥関係を変化させるであろうことを南は予測していたといってよい。
皇道派の没落は一九三四〈昭和九)年一月の荒木の陸相辞職を契機として進行していくが、
それは就任以来の荒木の、予算獲得能力に対する疑惑の広がりを背景として生じるのである」
という部分。

ここでは、官僚組織が自己の組織の拡大・増殖を求めるという摂理が、この時期の派閥対立の
重要な要素としてクローズアップされており、これまで重視されてきた両派の政策対立であるとか
感情的対立とかとは別次元のメカニズムが存在していたことが指摘されています。

現代の官僚組織においても、現役時に有力なポストを新設したり外郭機構を作ったりして
組織を拡大したり、天下り先の確保や民間からの有形無形の利益の供与などが「組織の病理」として
問題視されることがあるけど、同じように当時の陸軍においても「予算の獲得・組織の拡大」といった
官僚機構としての要請が陸軍を突き動かしていたことが分かります。

それはそのホンの数年前まで国内に強く存在した「軍縮」への国民的要求や、それにともなう
宇垣軍縮による「同僚軍人の解雇」という形で顕在化した、自分の生活基盤を脅かされる恐怖と
表裏一体のものだったでしょう。

こうした組織の肥大化というのは、その組織にとっての「個別合理性」であって、国家全体にとっては
余り歓迎するべき事柄ではないというのが、昭和期の陸軍が「国家にとっての癌」と化してしまった
原因だったように思います。

90:名無しさん@お腹いっぱい。
12/11/29 05:19:37.74 XW780J5D0.net
続き。

来るべき総力戦に備えなければ、という危機意識を持つのは軍人としては当然なのでしょうが、
彼等軍官僚は、それが「日本という国の経済規模や国際環境において可能であるのかどうか」
という視点を持ち合わせていなかった。

そうした「国家全体にとって」という視点を持つことが「政治家」にとって要求されるものであり、
かつての山縣-桂-田中あたりまでの陸軍トップはこうした視点を持っていたからこそ
バランスの取れた陸軍の統治が可能だったのに、昭和期に入ってから様々な要因によって
それが揺らいでしまったことがこの国に大きな不幸をもたらしたのだというのを
本書を通じて再確認しました。

この辺のことをふまえて「第一章 政治と軍事の病理学」の末尾の文章を読むと、腑に落ちるというか
非常に分かりやすいし、問題の所在が明確になるような気がします。

p86-p93の、「2・26事件と粛軍」から「おわりに」のあたり。

この書き込みを書くために本文をあちこちめくってみたけど、書きたいことや言及したいことが
余りにも多くってちょっと呆然としてしまうくらいに、個人的には密度の高い本だった。

薩長閥という派閥の存在意義についても、これまで漠然としてあった「必要悪」といった印象の
マイナスイメージがかなり払拭され、明治期の陸軍にとってはかなりの部分でプラスに働く
有益な存在だったという指摘についても目を開かされた思いです。
「権力核」という言葉で国家機構を束ねる必要性を説く主張に対しては、歴史学者としての
視点を超えた「政治学者」としての氏の力量を感じさせられました。

91:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/02 08:51:08.62 CTUV3Tft0.net
昭和戦前期になると、陸海軍は「軍部」という用語でくくられて、
なにか特殊な霊力をもっているような、エタイの知れないものとして
語られてきたのだが、その本来の性質は「軍務官僚」なんだよな。
ずっと以前から思っていたのだが、そのように叙述してくれる本はまれだった。

北岡氏の著作はまだ読んでいないが、『官僚制としての日本陸軍』という
視点はすごく大切だと思う。じっくり読んでみたい。

92:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/03 12:29:36.53 Q7x3Estl0.net
>91
これまで支配的だった「戦後空間の言説」では、<85>みたいに「軍部」という言葉で
旧軍人達を括って、彼等に全ての責任を押しつけるような形で「あの戦争」の受容が
行われてきたからね。

実際には軍部以外の官僚やマスコミや労働団体なども戦争に協力しようとした側面もあるし、
戦争を熱烈に支持していた国民も少なからず居た。
そういう「都合の悪い記憶」を封印するために、「軍部」という言葉に必要以上に重い位置付けを与え
現実以上に強力な存在だったというストーリーが生み出されたという側面があると思う。

もちろん、強力な「武力」を保持していた陸海軍に対して、他の組織や機構が無力だったのは事実だし、
憲兵や特高警察を使った強圧的な政治が行われた側面は無視できないモノだけれども、それだけであれほど
大規模に国家そのものを総動員する大戦争が4年間も(支那事変から数えれば8年も)行い続けられる筈がない。

93:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/05 07:42:24.09 iKjtH0Po0.net
>>92
>強力な「武力」を保持していた陸海軍に対して、他の組織や機構が無力だった

問題はここだよな。スレの趣旨に戻ると、あの時代の二大政党には
陸軍の統制など、とても出来ない。他の官僚の統制はどうか知らないが
お互いに殴り合って政権を争うだけの存在のようにみえる。

だが、田中とか宇垣ら陸軍指導者(とくに田中は政党総裁・首相にまでなった)が
政党政治に理解を示していた。にもかかわらず、軍を統制できなかったのは何故なのか。
あるいは、官僚制の外部に出た者は、たとえ元指導者であっても
官僚組織の心理を理解できなくなるのだろうか。外部からの統制に
服さないのが官僚制の宿痾だとすれば、これは現代の問題にも通じるかもしれない。

94:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/05 12:58:21.35 y7HQsSBs0.net
>93
>だが、田中とか宇垣ら陸軍指導者(とくに田中は政党総裁・首相にまでなった)が
>政党政治に理解を示していた。にもかかわらず、軍を統制できなかったのは何故なのか。

一番の出発点は、田中内閣時に起こった「張作霖爆殺閥殺事件」だったように思う。
あの時は首相であり、陸軍出身の田中が厳罰を下すために陸軍部内を統制してしようとしていたのに
陸軍内部からの突き上げと、他の閣僚からの反対などがあってその意志を貫けなかった。

石原完爾の行った満州事変が、河本の行為を基本的になぞってブラッシュアップさせたもの
であることを考えれば、あの時点で河本を死刑にしておければ満州事変を防げたかもしれない。
石原や板垣のように現場レベルで腹をくくっている人間は突っ走ったかもしれないが、
本庄繁や林銑十郎のような現地軍のトップは二の足を踏んでいた可能性が高い。

彼等が石原らの謀略を半ば疑いつつもそのレールに乗ったのは、河本への処分が大したものに
ならなかったという記憶が強く残っていたこともあるんじゃないだろうか。

その後、上官や陸軍トップの意向に逆らっても、「戦果を上げればこっちのモノ」という
いわゆる「下克上」の気風が強くなり、上司の命令や指示よりも自分の手柄を優先するような
規律の緩みが生じてしまい、陸軍自体が内部の軍人たちを統制できなくなっていった。

日中戦争勃発時に不拡大を主張した石原に対して、部下だった武藤章が「閣下のやったことを
やっているだけですよ」と言い返したという逸話もあるくらい、上司を上司とも思わない
人間が多くなり、戦争を拡大して「手柄を立てる」機会を増やす方に熱中してしまった。

そうやって個々の軍人が勝手な行動を取ってトップの考えに従わなくなっていった結果、
「船頭多くして船山をのぼる」という状態になっていったんだろう。

この辺は、内部の人事の問題や派閥闘争なども絡んでいるからスッキリとキレイに説明できる
自信はない。

コンパクトにまとまった解説としては去年放送された全四回シリーズのNHKの番組
『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』を書籍化したモノがあります。
上巻収録の「巨大組織“陸軍” 暴走のメカニズム」は一読の価値有り。

95:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/05 12:59:31.10 y7HQsSBs0.net
>93
>官僚制の外部に出た者は、たとえ元指導者であっても官僚組織の心理を理解できなくなるのだろうか。

これは側面として二つの問題があると思う。

一つは、官僚制の中にいたモノが外に出て行ったとき、内部にインフィーマルな繋がりを持つ人脈を
保持しているかどうか。官僚を操縦するときには書類や書面によって指示下達される訓令や辞令よりも、
この「人的な結合」を有しているかどうかというのが時に決定的な役割を果たすことがある。

かつての自民党政権時代にも、各省庁はその時の大臣の命令や指示で動くと言うよりも、
その大臣を出した「道路族」「建設族」などの族議員集団の意向を忖度していた。
それら族議員は、官僚の権力保持や予算配分においてその省の利益になることを志向する
からこそ官僚側も族議員の存在を保持し守るという相互関係が出来ていた。

田中の時には宇垣という後継者を残して「インフォーマルな繋がり」に期待していたけれども、
宇垣の方は必ずしも「田中の手下」というようなつもりを持っていなかったようだし、
張作霖爆殺事件の時には陸相の地位にはいなかった。
あのときに宇垣が陸相であったならば部内を統制し得ていたような気もする。

宇垣が外に出た後に陸軍への影響力を行使できなかったのは、「三月事件」での行動時に
部下である小磯や建川の計画に乗るそぶりを見せてから直前に回避したことで、
部下からは「裏切り者」という目で見られ、それ以外の軍人からは「クーデター指導者」として
忌避されたというところがあるのと、やはり宇垣の行った軍縮に対する反発心が軍の中に
根強く残っていたからと言うのがあると思う。


もう一つの問題というのが、陸軍の外に出た元陸軍トップが影響力を行使するには
陸軍以外の足場というものが必要だったということ。

山縣-桂-寺内といった面々は、強力な長州閥(山縣系官僚閥)という存在によって
その地位と影響力を確保し得ていたし、田中はその末席に連なりつつ「政友会総裁」という
政党政治の勢いに乗っかることで影響力を保持しようとしていた。

宇垣の方は、山縣の死によって既に長州閥が衰退して以降のこともあって他の省庁の
官僚との連携は出来なかったものの、民政党という官僚出身者の多い政党と提携する事で
影響力を保持しようとしていた。実際に宇垣が首相になろうとして民政党の総裁に就任
しようとしたことは何度か有る。

陸軍にとって、予備役となって退役した人間は、現役時にどれだけ高い地位にいようと
所詮は「他所の人」という扱いになる。部内に対する影響力というのはその人間がどれだけ
「陸軍という組織にとって役に立つ力を持っているかどうか」という点で測られるので、
「予算を引っ張ってこれる」「省の権益を保持してくれる」などの政治力を期待できない者に
従おうとはしなくなる。

そして、「省にとっての利益」と「国家にとっての利益」が対立したときに、省の方を
優先する人間には協力するが、国家の方を取る人間には協力しないという事態が起こってくる。

その意味では、これは本当に今に続く現代の問題でもあると思う。

96:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/20 10:16:58.52 IpYBRE/X0.net
軍部の暴走は何だったのかという理由で、議論されているが
原因論の一つとして陸軍の採用制度自体に目を向けるべきだと思う

士官学校などの士官採用制度は何度か改定されてきたけど
欧米と決定的に違う所は基本的に能力主義で入学を決めた所
もちろん、欧米の学校でも試験はあったわけだが
あちらの採用基準として上流層出身というのが重要な要素であり続けて
中流層が大半を占めるという自体は少なかった

大正時代になると将校は能力主義で決めているのに、
日本全体は民主化(=大衆化)が進んでいなかったことが悲劇
田舎の中流層が立身出世の登竜門として士官学校に入るも
大正時代は軍縮で人員削減と出世も出来ないという不安感

軍縮で退役しても仕事が無い←これが最大の問題だね
中流層が将校の中核を占めてしまい、予備役編入時の生活が不安定化
また、一般官吏と軍人の官位でのランクの差が、逆に退役時の再就職を困難にさせた

97:名無しさん@お腹いっぱい。
12/12/24 00:06:48.18 0h2sCBAL0.net
>96
>原因論の一つとして陸軍の採用制度自体に目を向けるべきだと思う

同感。
もうちょっと軍人の地位を保証し、生活が安定するように配慮する姿勢が政府にあったなら、
あそこまで激烈な「軍の暴走」ってのも無かったんじゃないかと思う。

西園寺公望もこんなことを言っている。

「(ヨーロッパ諸国の、軍人がきちんと評価され活動する環境を確保した状態と比べて)
しかるにわが国の如きは、国土狭小にして、かかる植民地のあるなく、軍人功業の活動舞台
皆無なるに加えて、近年軍縮の機運さかんとなり、ひたすらに経費節約をはかりて、
やや軍人を抑圧し過ぎたるきらいなきにしもあらず。
〈略)
社会組織の構成上、すでに軍人の存在ある以上、軍人の心裡省察もまた大切の事項なるに、
やや等閑に附し過ぎたる憾みなきにあらず。」
筒井清忠『昭和戦前期の政党政治─二大政党制はなぜ挫折したのか 』 p261-262


軍縮軍縮とやかましく言い過ぎずに、彼等軍人の感情を余り傷付けないように配慮しながら
徐々に軍備縮小を図っていっていればもうすこし違った結果が生じていたいように思う。

また、軍人が予備役に回された後にでもその受け皿となる組織を作るなり、再就職が出来るように
軍内部での意識改革を進めたり、一般社会で役に立つような将校への教育を行っておくよう、
軍自体に協力を求めるなりしていくべきだったろう。

98:名無しさん@お腹いっぱい。
13/01/13 09:00:04.03 WObTKA200.net
「不正選挙」を糾弾し始めたら、創価学会のヤクザから恫喝を受けました。
URLリンク(richardkoshimizu.at.webry.info)

2012年12月16日(日) 19時27分15秒 出口調査 三原じゅん子 自由民主党参議院議員
出口調査の結果があちこちから流れてきます。自民党、、、厳しいです。
マスコミの流した情報はなんだったのでしょう、、、、というくらい。全然違う(;゜0゜)
まだ、あと30分。どんな結果が出るのでしょうか。URLリンク(ameblo.jp)

今度の不正選挙で一番ビビっているのは、当の自民党議員であると思います。
彼らは、国家丸ごとのとんでもない不正が行われたのを知ってしまいました。
出口調査ではどう考えても大敗だったのに、なぜか、大差で勝ったことにされてしまった....
ほかの同僚も同じことを言っている....こんな大規模な不正が日本で行われ、自分も当事者だなんて....。
URLリンク(richardkoshimizu.at.webry.info)

99:名無しさん@お腹いっぱい。
13/01/16 14:08:04.67 Ft20wUvF0.net
>>92
特高警察など内務省の戦争責任がほとんど追及されなかったのがいけないとおもう。
内政面で戦争遂行をささえてきたのはたしかなのだし。

内務省が戦争遂行をささえてきたのは反共産主義が動機なのだろうけど、そのほかにも
財閥とのつながりがあったのかもしれない。

100:名無しさん@お腹いっぱい。
13/01/18 22:26:14.21 2AKVM8YkO.net
>>69
禿げしく同意

101:名無しさん@お腹いっぱい。
13/01/20 12:31:40.78 NG/S9zy60.net
>99
>特高警察など内務省の戦争責任がほとんど追及されなかった

特高警察はともかく、内務省に関しては警察行政という国政の要となる重要な部局を抱えていたから、
その戦争責任を追及しようとすると官僚による行政が麻痺しかねないというジレンマがGHQに
有ったことも原因の一つのような気がする。

公職追放でめぼしい人間は一時的に退けられたけど、やっぱりこれらの官僚による行政ってのは
専門知識やノウハウが絶対的に必要になるし、それなしに荒廃した日本の国土を整備して、
共産主義への防波堤としての役割を担わせることはむずかしかった。
結局のところ、「前科は不問にして、有能な人間は追放を解く」という現実的な判断が
求められたってことなんじゃないかな。

正力松太郎や岸信介なんかは、そうした象徴的な存在なんじゃなかろうか。

102:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/03 18:31:57.99 QjP2vsFS0.net
>>101
1970年代までは警察権力への反発が強かったわりには
元特高関係者の責任を追及しようという動きが民間レベルで
みれらなかったのが不思議なのだよね。

103:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/03 19:42:55.46 Ra81TCF/0.net
官僚の統制は今でも出来てない、今でも戦前と同じ課題が残っている。

104:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/03 22:28:07.53 QjP2vsFS0.net
>>103
東京大学の法学部を解体しないとだめなのでは。

105:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/04 00:45:02.94 GrlzEEVU0.net
内務省だけじゃなく、大蔵省も解体しないといけなかったのだろう。GHQの片手落ちだな。

106:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/11 07:13:51.83 h6O/TI3J0.net
良本を紹介してください。

107:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/11 17:38:44.11 FPchZ8XP0.net
>>104
戦後、天野貞祐が提議した東大の大学院大学化が実現していれば……

108:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/11 17:44:05.08 oSY319ID0.net
>106
井上寿一 『政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか』
筒井清忠 『昭和戦前期の政党政治: 二大政党制はなぜ挫折したのか』
坂野潤治 『自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治』

この辺がお勧め。

それぞれの著者によって推してる政党は違うけど、「軍部に圧倒されるだけだった戦前の政党と
愚かな選挙民」という理解の仕方に変更を迫るだけの力を持った著作だと思う。

戦前の日本が、それなりに複雑で重層的な政治体制と国家の統治機構を持っていたことが
理解出来ると思う。

109:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/17 06:01:36.97 Df3RTBf70.net
民政党は二年ちょっとの政権で総理二人。
寄り合い所帯で成立して空中分解するところなんかは民主党と色々かぶるよね?

110:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/18 09:45:54.30 v4uDRLeh0.net
浜口雄幸という偉大な総理を輩出してる時点で民主党とは違うよ

111:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/19 12:01:56.51 NvK+EBBV0.net
民政党の総理は、片っぽは暗殺された浜口雄幸だし、もう片っぽは満州事変と10月事件との
軍の謀略で倒されたも同然の若槻礼次郎だからねぇ。

少なくとも陸海軍の過激な連中が暗躍しなければ、どちらも長続きした政権だと思うが。

112:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/20 21:34:17.13 vtKLRZH60.net
民政党と政友会どちらにも名のしれた総理がいる所が
アメリカの二大政党みたいで良いね

113:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/23 00:27:25.22 COvM5Rj/0.net
自民党清和会、日本維新の会、みんなの党の思想のルーツはなんだろう。

114:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/23 19:30:48.39 X2Qtmvlx0.net
分裂騒動大杉だよね。
後継が難しい。

115:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/23 20:08:54.89 X2Qtmvlx0.net
結束力や調整力で党を統率できたのは原、浜口ぐらい?
あとは中間的だったり派閥的でまとまりがつかなかった。

116:名無しさん@お腹いっぱい。
13/02/26 21:56:03.87 kNmmPlm60.net
>115
逆に考えると、そういう強い力と意志を持った政治家はテロで殺されちゃうんだよね。
原しかり、浜口しかり。

「軍にとって都合の悪い人間は殺してしまえ」ってなノリが許容されてしまう空気が醸成されてしまったのが、
昭和初期の混沌とした世相を生み出した原因とも言える。

117:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/02 16:13:52.51 NnngjbOF0.net
>>116
ポイントは強い意志とか力じゃなく、調整能力でしょう。

118:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/02 22:20:14.44 rW0wNfg90.net
>117
「政治家の能力」ってのは基本的には調整能力があるか無いかにかかってくるモノだと思ってる。

官僚・財界・民衆などと言った集団の、それぞれが求める施策や政策の調整をしながら、
いかにバランスを取って国家の進む道筋を指し示すかというのが政治家の仕事であり、
そこでは各方面各層の要望や欲求を最大限汲み上げながら、
それぞれの持つ不満を最小限に抑えた最適解を探す必要が有る。

そこで力量を見せることが出来た人間こそが力を持つことが出来るし、
そういう面倒くさくてしんどい仕事をこなしていくためには
強い意志がなければなかなか出来るこっちゃない。

というか、ゴチャゴチャ言う人間を黙らせるぐらいの気迫や根性が無けりゃ無理だし、
ゴチャゴチャ言う人間をも最終的には納得して従わせるってのはさらに難しい仕事だからね。

119:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/05 05:28:44.31 fSQ4i2Jr0.net
>>118
最強派閥の代表というだけでは駄目だよね。

120:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/05 11:13:57.73 m8cHOIos0.net
>119
その派閥が一枚岩のようにガッチリと結束しているというのが重要。

原にしても浜口にしても、党内をしっかり固めて揺るぎのない体制を作っていたからこそ
「強い総理大臣」として名を残すことが出来た。

明治以来の歴代の総理大臣は、基本的には藩閥のバックアップを受けて官僚や軍部の
統制が可能だったからこそ強権を振るうことが出来た。

対して原敬以降から徐々に始まった政党内閣制では、そういった後ろ盾が無い分だけ
「国民の負託を受けた代議士」という議場にいる「個々の議員」の一人一人が持つ
存在価値が重くなった。

だからこそ、その「国会議員が何人か集まった集団」として政党の存在が重くなるし、
その政党の中の「派閥(政党内政党と言い代えてもいい)」の意味も重くなる。

政党政治においては、「頭数を揃えている」が「力を持っている」と同義になるから、
集団をまとめる結束力が弱くて、離合集散を繰り返すようでは強い力を持ち得ない。
最強派閥と最大派閥というのは、意味が被るところもあればそのままイコールとはならない
場合もあるね。

200人くらいの国会議員が在籍する政党があるとしよう。
その中で、50人程度しか束ねられていない比較的小さな派閥があったとして、
その集団がリーダーを中心に強固に束ねられていて、
どんな場面であっても結束して事に当たる場合は最強派閥となりうる。
逆に100人くらいを擁する最大の派閥があったとしても、
その中に20~30人程度の小リーダーを持つ複数のグループが存在していて、
何かあるとすぐにバラバラな方向に行こうとするようなまとまりのない集団だったら
最大ではあっても最強の政党とはなり得ない。

この場合は、200人の政党の中で50人の派閥が最強となり、残りは30~20程度の小派閥と、
それよりさらに小さい10人~5人程度の集まりや一匹狼が存在しているだけということになる。

121:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/05 11:17:44.60 m8cHOIos0.net
誤字があった。

下から三行目。

×最大ではあっても最強の政党とはなり得ない。
○最大ではあっても最強の派閥とはなり得ない。

122:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/12 05:05:15.59 /UoQComp0.net
>>120
たとえ政権党内で最強の派閥でも、他派閥の支持を得られなかったり
他党や官僚と交渉する能力がなければ、安定政権は作れないのではないだろうか。
最近では、小沢某とかいたじゃない。自分の派閥は鉄の結束で固めても
他の領袖から総スカンを喰えば、けっきょく何もできない。

原の党内統率力は言わずもがな。「浜口中心主義」と言われた民政党も
派閥はいくつかありながら、リーダーが健在なときは党全体が結束を誇った。
このあたりに、政党内閣の真価がある気がするのだが。

123:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/17 08:09:35.44 gbKLN+nh0.net
戦前のリーダーに必要なのは「能力」でも「人徳」でもなく「金」だよ。
今の選挙違反が優しいほどの金権選挙が展開されたんだから
角栄がうじゃうじゃいたようなものだよ。

124:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/17 10:14:58.18 oYGENI5J0.net
>122
>たとえ政権党内で最強の派閥でも、他派閥の支持を得られなかったり
>他党や官僚と交渉する能力がなければ、安定政権は作れないのではないだろうか。

これはもちろんその通り。
>118で書いたように、官僚・財界・民衆などの、それぞれ利害の違う集団の
意見を吸い上げてバランスを取った方針を打ち出すことが出来なければ
安定政権たり得ない。

官僚と言っても、大蔵省・外務省・農林省・商工省などでは、
それぞれ意見や立場も違うし、軍部と総称されがちな陸軍と海軍でも
激しい対立がある。

財界にしても、金融業と製造業とでは要求する政策が違うし、
財閥と呼ばれる巨大企業群と普通の大企業とでも違ってくる。
大企業と中小零細企業とでも大きな違いがある。

民衆という単位にしても、地方における地主層とそれに使われている
小作農や零細な自作農とでは置かれている立場がまったく違うし、
都市における企業経営者と工場労働者などのいわゆる「無産大衆」とでは
真っ向から対立すると言っても良い。


大正期まではこれらの利害対立は、山縣を頂点に置いた長州閥という
権力機構が存在していたが為に官僚や財閥という集団に関しては調整が可能だったし、
納税額が一定以上無ければ選挙権がないという選挙制度だったために
大地主や大企業の意向にさえ気を配っていればよかった。

大正デモクラシーの高潮の結果、選挙制度が変わって行き、男子普通選挙が
実施されることで小作農や都市労働者の発言力が強くなった。
「小作争議」「労働争議」という言葉が一般化するのもこの頃。
それと同時期に、山縣の死によって長州閥という存在が解消に向かい、
権力を集約する核と言える存在が居なくなってしまった。

この二つの要因によって、上記のような各階各層の個々の集団の利害対立が激しくなり、
その調整をするのが一気に難しくなった。
大正から昭和に入るあたりから、政治が一気に流動化して混沌とした様相を
呈してくるのはこの辺が理由だと思ってる。

125:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/17 10:15:34.18 oYGENI5J0.net
続き。

代議士というのはこれらのそれぞれ相対立する集団の利害を調整するために
存在していると言っても過言ではない。財閥の利益を重視する立場で
財界の後援を受ける政治家も居るし、地方の地主層からの支援を受けている
者は当然そうした層の利益を代弁せざるを得ない。また、官僚から転身して
政界に身を投じた人間は出身官庁の利害を重視する傾向がある。

浜口内閣で言えば、首相の浜口は大蔵省出身、外務大臣の幣原は外務省出身、
大蔵大臣の井上は日銀出身、商工大臣の俵・鉄道大臣の江木・法制局長官の
川崎は内務省出身。農林大臣の町田や拓務大臣の松田なんかは民政党での長い
党務歴を重視されて任命されてる。

党内・党外に存在する様々な意見を集約し、閣議というそれぞれの政策集団の
長が集まる場所でその利害調節して政策を決定することが内閣の仕事であり、
政党政治の果たすべき役割なんだろう。


そうした様々な背景を持った人間が寄り集まって政党を作り、その中で派閥を作る。
だからこそ、その個々の議員が持つ背景事情に考慮を払いながら調整をしていって
政策を決めていかなければならないし、対立する利害を調整するためには
対立している双方の意見を聞いた上で双方がある程度の納得を出来るだけの
政策を提示して双方の協力を求めなければならない。

口で言うのは簡単だけど、それがどれだけ難しいことか。
昨今の政党政治の迷走ぶりが如実に物語っている。

126:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/17 10:51:41.05 oYGENI5J0.net
>123
>戦前のリーダーに必要なのは「能力」でも「人徳」でもなく「金」だよ。
>今の選挙違反が優しいほどの金権選挙が展開されたんだから

一面では正しいけど、必ずしもそれだけとも言えない。
実際、浜口雄幸なんかはろくに金を持っておらず、その清廉さこそが
国民の信望を招いたという部分があるくらい。

金を持っている人間が選挙で当選しやすいという構造は確かにあったけど、
じゃあそうやって国会に登壇した人間が、上記のような他者との交渉や
利害調整・折衝能力を持っていたかというと必ずしもそうではないわけで。

>角栄がうじゃうじゃいたようなものだよ。

角栄クラスの力量を持った人間が居たのならば良かったのだけれども。

角栄があれほどの存在感を提示し得たのは、金をバラまくことのみに
よっていたわけではなくて、各省の官僚が提案する政策をきちんと理解し、
その調整を行いつつ全体を統御できる大きな政策指針を打ち出すことが
出来たが故のことでもあるので。

ある大企業から巨額の金を貰ってそれを身内にばらまくことで身内からの
結束を得られても、その大企業を優遇する政策が、大蔵省や通産省の
役人の指向することと相反していた場合には官僚からの協力は得られない。
逆に、官僚の協力を得ることを目指しているだけでは、特定企業の利益や
その企業の後援を受けた政治家の協力は得られない。

そのバランスを取るのが上手かったというのが田中角栄という政治家の
真骨頂であり、戦後政治に名を残した理由でもある。

田中の部下の政治家(誰だったか失念)の語った逸話の中に、
あちこちの省庁を回って新しい政策への協力を求めた時に、
ほとんどの省庁の実力者が「この政策は角サンの了解を得ているのか?」
という質問をしてきて、「そうだ」と答えると「わかった、協力しよう」
と言ってきた、というのがある。

誇張も入ってはいるだろうが、田中角栄という政治家がいかに上手く官僚を操縦し、
彼等にその手腕を振るわせる環境を整えることで彼等からの信頼を引き出し、
自己の力としていったのかを伺わせる逸話だと思う。

127:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/18 10:36:09.26 cFXNRLvE0.net
石油ショックであっという間に退陣に追い込まれた角栄こそ過大評価の最たる政治家だろう。
角栄に限らず戦前戦後ともに首相の在任期間は極めて短い。ここで言いたいのは内閣が短命だろうが
政府が機能停止状態になることはないことだろ。どうも戦前(戦後も)の政党政治をイギリスやフランスとの対比で
評価したがる向きが多いようだが、ヒトラーのようなクーデタ的な議会政治の破壊もなく政党政治が衰退というより
軍部をはじめとする官僚機構に擦り寄った日本の場合は議会を朝廷、官僚を武士に見立てて権門体制論的
に見たほうがしっくりくるよ。

128:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/18 10:46:15.47 838Z0Ub30.net
大陸各地に毛沢東廟や関羽廟があるように

角栄廟を作って神格化しよう!

若者は永田町にてデモをやって、角栄の肖像画を掲げよう!
角栄の時代はよかった! なにもかも懐古だ

129:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/24 07:21:55.59 vk0gB4gp0.net
党外総裁大杉

130:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/30 04:58:48.45 u5l6Dzjg0.net
>>89-90
やはり責任をもって決める主体というのを作れなかったのが大きいのかね

131:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/30 05:04:51.85 u5l6Dzjg0.net
>>95>>97
この問題は今でも同じだよな

132:名無しさん@お腹いっぱい。
13/03/30 10:12:29.28 ld+xEhvu0.net
西園寺の発言がいつのものなのかよくわからないのだが
軍部への社会の浸透は在郷軍人会や最近の体罰問題の起源で有名なように
学校教育の現場への起用など大正以後の世論を軍部よりにした要因になるほど
のものだよ。ロンドン軍縮会議で海軍の反対派は東郷を旗にして抵抗して
最後は天皇が抑えたように元老というジョーカーの存在が薄らぐと同時にそれと結びつくことの多かった
内閣、政党政治も後退に進むのも必然だよ。

133:名無しさん@お腹いっぱい。
13/04/03 22:01:38.49 v1lCGRvC0.net
>130
>やはり責任をもって決める主体というのを作れなかったのが大きいのかね

権力の担い手が分散してしまったことが一番の原因だったような気がしてる。

現在の日本では内閣を組織する総理大臣が一番強い権限を持っていて、
首相の方針に逆らったり従わない閣僚はクビにすることが出来る。

そして内閣を構成する閣僚は大臣として省庁のトップに座っていて、
従わない官僚のクビをすげ替えることが出来る。


対して、戦前の日本は徳川政権という「幕府」が、「日本古来の皇室をないがしろにしている」
というのを大義名分にして権力を奪い返した薩長藩閥が主体となった政権だったものだから、
「天皇が最終的な決定権を持つ」という名目を打ち出さなければならなかった。

そうはいっても、実態としては薩長の実力者が主体となって権力を握る体制でスタートしたから、
明治期までの薩長藩閥の他に対する圧倒的優位が保たれている間は「責任主体」という点では
大きな問題は生じなかった。


それが明治期の自由民権運動や大正デモクラシーといった社会の下層構造の変化によって
徐々にその優位性が崩れて行き、様々なプレイヤーが権力を分散して担い持つようになっていく。

政党政治家しかり、高等文官試験をクリアして官僚となり実務を積んだ知的エリート達しかり、
陸軍や海軍といった勢力を背景に持つモノ、枢密院や貴族院といった藩閥と官僚の集合体や、
西園寺-牧野伸顕を中心として徐々に形成された宮中勢力など、様々な出自を持つ人間が、
様々な背景の元に国政に参画するようになった。

当然、官僚出身の政治家や、藩閥出身の宮中勢力なんていう複雑な出自を持つものも出てくるので、
利害関係は錯綜するし、それぞれの政治上の選択も変わってくる。


一方、憲法の解釈やその運用が進む過程で「君主無答責」という考えが強くなってきて、
建前上の「天皇主権」という制度との乖離も無視しえなくなってきてしまった。
大きな失政があったときに、その責任が天皇に向けられて民衆の怨嗟の感情が皇室に
向けられるのを避けなければならないから。
シベリア出兵時に起こった米騒動なんて、内乱一歩手前までいったし。

天皇は責任を取らない、その一方で権力が一人の人間に集まるのではなく多数の勢力が分散して
分かち持つという体制なモノだから、強力なリーダーが責任を取って政治を進めるという状況が
出現しないと、あっというまに「船頭多くして船山に上る」という状態が現出する。

日中戦争の泥沼化と太平洋戦争の開戦は、まさにそうした「無責任の体系」が行き着いたものだった。

134:名無しさん@お腹いっぱい。
13/04/04 00:05:11.47 zfuJEjOg0.net
>132
>西園寺の発言がいつのものなのかよくわからないのだが

<97>での「やや軍人を抑圧し過ぎたるきらいなきにしもあらず。」
というヤツのことでしょうか?

この発言は、5・15事件時に犬養毅暗殺を受けての次の政権首班を
だれにするか、という時期のモノです。
『西園寺公と政局』に記載された発言ではなくて、『小山完吾日記』の
1932年5月25日の記述だそうです。


>学校教育の現場への起用など大正以後の世論を軍部よりにした要因になるほどのものだよ。

世論が軍部寄りになった理由はいくつかあるけど、学校教育に軍人を派遣したのが
主要因とは言えないと思う。

むしろ大正から昭和初期においては、シベリア出兵の失敗による戦費の損失や、
第一次大戦後の不況と関東大震災の復興予算による財政の逼迫を背景とした、
「税金泥棒」的な批判の方が大きかった。軍服を着て市電に乗っていた将校が、
「マントや拍車が邪魔だ」といって苦情を言われて通勤時には私服を着るように
したなんて話が残っているのもこの頃のこと。

また、第一次大戦後にヨーロッパを中心にして起こった軍縮気運も、軍人に対する
世論の風当たりを強くするのに一役買っていた。


そうした批判を受ける形で行われたのが山梨軍縮と宇垣軍縮という二つの軍縮政策で、
学校現場への軍人の派遣は、その軍縮で職場を失う将校の為の「再就職先」みたいな
意味合いが強い。
軍が政治的・宣伝的な意味合いで影響力強化を図った結果として学校現場に軍人が
派遣されたのではなく、世論の反発で人員整理を行わざるを得なくなった軍が
クビにする人間への配慮・温情として職場を用意したというのが実態に近かった。


このとき宇垣によってクビを切られた年代の人間達が、後に満州事変や支那事変を
起こして暴走していった中堅幕僚と呼ばれた一群の人間達とほぼ同年代というのを
考えれば、やはりそこになにがしかの因果関係を見いだしたくもなるというもの。

陸軍軍人その全員が、陸軍士官学校という全寮制の学校で十代後半の多感な時期を
「軍人になって国家に尽くす」ことを目指しながら同じ釜の飯を食って育つわけで、
同期生同士の繋がり・先輩と後輩の繋がりの深さや強さは並大抵のモノじゃない。
そうやって20年近く過ごしてきた仲間がクビにされて路頭に迷うような状況を
目の当たりにして、「運が悪ければ自分がそうなっていたかも」ってプレッシャーを
感じた軍人は相当多かったし、そんな状況を作り出した社会の軍人軽視の風潮に
憤懣を抱えていたのも間違い無いと思う。

135:名無しさん@お腹いっぱい。
13/04/04 22:18:42.56 zfuJEjOg0.net
>132
>軍部への社会の浸透は在郷軍人会や

それから、在郷軍人会の成立の経緯とその影響についてもちょっと発言しておきたい。

もともと在郷軍人会という組織が作られたのは、日露戦争後に戦場から帰ってきた
退役軍人たちの窮状を何とかしたい、せめてその戦場での行為が一定の評価をなされ、
地域社会の中で除隊した元兵士たちが受け入れられるような足場を作りたい、という
考えのもとに行われたモノ。

当時の徴兵された兵士の大多数を占めたのは、農民の次男や三男といった人々であり、
そうした人たちは地域社会に戻ってきても「兵隊上がり」といった偏見の目にさらされ
あまり積極的に地域社会からは歓迎されなかった。
表面的には「武勲を挙げた郷土の勇士」と賞賛されても、農村の一般常識とは
かけ離れた価値観や世界観を持つ軍隊という隔絶した社会で数年間を過ごした
元兵士達は、なかなか農村社会に溶け込めないし、農村の方も異分子として
彼等を排除する傾向にあった。

戦場において、同じ釜のメシを食った部隊の戦友の死に直面するという凄惨な体験をし、
朝鮮や満州で国土を蹂躙されている他国人の惨状などを目の当たりにするなどの
かなりキツイ精神状態で戻ってきた彼等は、地元でこれまで通りにのほほんと農業に
いそしんでいる親兄弟の生活実感と、自分の内面にあるそれとの乖離に苦しむという、
ベトナム戦争後のアメリカが直面した「帰還兵問題」に似た状態に置かれてしまった。

日露戦争で敢闘をした兵士に贈られる勲章を持ち、年金資格を持ってそれなりに
賞賛されるべき存在として陸軍が考えていたその元兵士達が、郷里に帰ってから
問題行動を起こして勲章を剥奪されるような事件を起こしている(といっても
割合的には勲章持ちの内の数パーセントだそうだけど)という調査結果が出て、
軍中央は愕然とした。

こういう実情に直面した軍中央が「何とかしなければ」という考えを持ち、
田中義一あたりが中心になって「良民良兵運動」をはじめたというのが
在郷軍人会の成立起源。

農村社会で尊重されるような良民こそが良い兵士となり、戦場で役に立つ
上官の命令に良く服して積極果敢に戦う良兵こそが除隊した後に良民になる、
という考えを進めて教育令や軍隊内務規律などを改革していった。

この辺は『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ』藤井忠俊(岩波書店)を
読んでほしい。
ググったらけっこう上の方に出てきた大学教授のブログにけっこう詳しい
書評が載ってる。
URLリンク(booklog.kinokuniya.co.jp)

136:名無しさん@お腹いっぱい。
13/04/04 22:20:23.38 zfuJEjOg0.net
その過程の中で、除隊して郷里に戻った彼等がそれぞれの村落内で孤立した
存在として分散するのではなく、何かの行事の度に「元軍人」として
集まって日頃の不満や愚痴を言い合って互いの情報交換をおこなったりする
場所を提供したり、戦死した戦友達の墓標となる忠魂碑の設立を行政に
働きかけて自分たちの存在を公的に認めて貰いたいという感情の受け皿に
なったのが在郷軍人会だった。

大正時代に入ってから大正デモクラシーの高揚の中で、一つの社会集団として
それなりに力を持つようになってきたこの在郷軍人たちが政治勢力として
力を増してきた。
田中義一が政友会加入時に「オラの後ろには在郷軍人会三百万人がいる」
と言ったのは有名な話。政党政治によって首相が選ばれるという慣例が
確立しはじめたこの時期に、この票田が持つ意味は大きい。

戦争が無くったって徴兵と除隊という行政行為は常に行われ続けているから、
在郷軍人という存在が一度組織化されはじめればその人数は常に増加し続ける。

軍隊に入隊していたときのことを記憶から抹消して忌避する人も中には
いたろうけど、多くの人にとっては人生の中で(それも若い頃の)数年間を
過ごした場所のことを悪くは思いたくないし、同じ経験をした人々と
話し合い語り合う場所があることはありがたいことだからね。



昭和に入ってから一気に日本が軍国主義に傾いていく原動力の一つとして
機能したことは間違いないけど、その設立からして軍国主義化を目的とした
陸軍の施策の一つとして考えるのは必ずしも正解ではない。

民衆の側にとっても、在郷軍人会の設立を望み、歓迎する動機があった。
それは国民皆兵という制度を採り、一定年齢になった国民全てが徴兵検査を
受けるというその当時の日本という国家のありようと密接に結びついたもの
だったことは記憶されるべきだと思っている。

137:名無しさん@お腹いっぱい。
13/05/07 05:56:42.13 GNfK3NUR0.net
非政友の勝率は低すぎ。

138:名無しさん@お腹いっぱい。
13/07/19 NY:AN:NY.AN vOIr7hNL0.net
Wikiの衆院選の項見たら戦前のも全選挙区&全議員の名前が出てて驚いた。
リンク先(もっと詳しく区割等が出てる)共々労作超乙。これは見てて飽きない。
当時の有名な議員がどこの選出とかが面白い。

139:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/02 NY:AN:NY.AN DjzMGpWz0.net
最近は帝国議会の議事録も全てWebで読めるし面白い。
デジタルアーカイブが充実して、良い時代になったものだ。

140:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/03 NY:AN:NY.AN fD2YJEk10.net
若槻の次は犬養じゃなくて斎藤か岡田の挙国一致内閣が
よかったんじゃないか。少数派の政友会は下野できない。

141:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/04 NY:AN:NY.AN AfL69TmL0.net
「憲政常道」への西園寺の固執が決定的な瞬間に日本の進路を誤らせたんだ。
政党主導の協力内閣ができないなら軍人首相で良かったんだ。その後、
西園寺は衆議院の過半数を制する政友会に政権を組織させずに政友会の
憤怒を煮え滾らせた。

142:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/06 NY:AN:NY.AN V3ELuXSo0.net
>>140
岡田啓介は大命降下した時点でもダークホースだったから
若槻の次は厳しいだろう。海軍なら斎藤実、陸軍では宇垣一成あたりか。
三月事件がなければ、宇垣でもありだったかもしれない。

143:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/06 NY:AN:NY.AN 3XjssaeM0.net
犬養を首相に就けて政友会に過半数を取らせたのが西園寺の
致命的な過ちだ。若槻総辞職の時点では少数派の政友会は
政権を強請できなかった。挙国一致内閣で入閣できればそれで
満足するしかなかった。

144:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/08 NY:AN:NY.AN bocKJqV+0.net
関東軍を抑えるには天皇を引き出すしかなかった。浜口なら
それぐらいやったかもしれない。とにかく若槻のヘタレぶりは・・・

145:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/08 NY:AN:NY.AN bocKJqV+0.net
衆議院議員で首相になったのは原、浜口、犬養の三人だけ。
三人とも殺されちゃった。衆議院の多数をバックにして
自分の意思を通そうとすれば殺されちゃうシステムだったんだね。

146:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/11 NY:AN:NY.AN wdkTD2eK0.net
>>139
明治期の施政方針演説の記録はありますか?

147:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/14 NY:AN:NY.AN Y8PsPxws0.net
>>146
あるよ。山縣の主権線・利益線演説なども読める。

148:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/12 00:56:08.17 MPxXVDkX0.net
>>83


149:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/12 04:29:27.57 MPxXVDkX0.net
正直、世界恐慌があと10年遅ければもう少し議会政治は力をつけたと思うけどね。
そもそも若槻内閣までは少なくとも陸軍中央は従っていたし、
シベリア出兵時を止められなかった大正初期と比較すると議会政治は
官僚機構に対して影響力をつけて権力移行が進んでいると解釈出来る。
実際、あと数年でもしかしたらシビリアンコントロールに関する法律も作ることが
出来ていたかもしれない。
そう思うと政党政治が政権を担っていた時に発生した世界恐慌は本当に不幸だった。
政党政治にとって最も大切である「信用」を一気に失ってしまったし
満州事変にしても支持を得る大きな原動力を生んでしまった。
個人的には憲政の常道が始まって5回しか首相は変わっていないんだから、
幾ら汚職が目立ったとしても国民の経済環境があそこまで悪くならない限り、
信用は失わなかったんじゃないかなと考えている。

150:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/12 07:25:08.52 3xAG92Bl0.net
>>143
憲政常道論的には少数与党は普通にあり得たシステムでしょ?
実績でも、政権移行時に少数、その後の選挙で多数を取るスタイルが多かったんだし…

原と浜口はともかく、犬養は少数派閥の亜流長老。鈴木と床次の分裂を防ぐための御輿であって、我意を通すのは困難な状況。

151:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/13 10:41:24.81 2hjYoIp90.net
元老西園寺の指名を得るために無理の多い組閣ばかりやるから
運営に困難をきたすことになる。結局普通選挙後も議会が軽い存在だったのは
この元老の推薦が必要な制度というより慣習がガンになった。
大正時代の議会政治をイギリスの議会政治に比定したり、元老を評価する向きが多いが
原が首相になるために結託した山縣を内心軽蔑していたことからも
元老はそんなに良い制度ではない、政党政治をゆがめてその信用を毀損し続けた
元凶と言っていい。

152:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/13 19:38:00.52 24sCrRXl0.net
>>151
元老の指名があってから大命降下して組閣するんであって、その論理では前提の順番が逆で狂っているよ?

153:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/14 14:31:54.66 MbrqsUjT0.net
>>152
組閣と書いたが政権構想ね。
元老の推薦以前に政党人との交渉があったのは西園寺の秘書の
原田熊雄の日記から分かる。

154:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/15 04:08:31.03 wDdh+y2G0.net
>>151
元老(まぁ厳密には元老という制度というより首相の決定方法が憲法に書いてないという状態)
が政党政治のためにはならないことは、作った伊藤なんかも知ってた。
それは勿論、井上毅がドイツ憲法型の国家を目指しただとか、伊藤が前代的な人間だったって
こともあるんだろうけど、それ以前に明治初期の政党の主義主張が現代の政党も真っ青な
めちゃくちゃもので、とてもじゃないが政権任せたらヤバイっていう
ある種当然な事情があったからだと思う。
実際、他の国でもアメリカも最初から今の選挙の形だったわけではないし、国民の権利を制限した憲法と
散々言われたプロイセン型の憲法ですら議会が原因で政権運営はスムーズにいかなかった。
じゃあ慣習化する前に何とか制度を変えるべきだったって言うんだろうけど
大隈板垣が政権に握ったら、ポストを巡って行政めちゃくちゃにしたり、
アメリカと外交問題を引き起こしかけるとかで予想以上に政党の信用を失ったので、
政権能力がついても政権を政党が握ることが難しくなってしまった。
正直、政党政治をゆがめていたのは政党政治自身にも原因があると思うね。

155:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/15 10:50:08.03 aez3Husd0.net
>>154
そんな国会開設期の混乱で大正期以後の政治混迷を正当化させるのは
無理筋だろ。弱い議会はそのまま内閣の弱さにつながり、満州事変後の
軍部の独走を抑止できない事態に苦慮した西園寺や宮中の牧野伸顕
などは天皇親政や準元老や重臣会議の創設による政府の統治能力の回復
を画したことからも制度設計の段階での失敗は明らかだろ。

原敬が首相になるために元老の山縣と組んだが原が本音では山縣を軽蔑
していたように戦前の日本の政党政治の歪みはここに集約されているだろう。

156:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/15 21:58:16.30 6L6Nd9Eo0.net
>>155
いやだから明治において元老の存在が必要だったのは否定できないだろ?
それを大正以後問題視した西園寺は元老の後継者を入れてない。
言いたいことは解るが、だからといってどこでどうすれば良かった等の対策を思いつくのか?

あと君の大好きな原敬だが、彼自身が普通選挙導入を反対するなど
「国民はまだそこまで成熟していない」と国民を馬鹿にした節がある。
確かに原は山縣の権力亡者のような振る舞いは嫌がったが、
だからといって果たして本当に議会や政党や国民を信じていたと言えるのかな。
むしろ原敬自身も政党政治や議会の歪みを肯定していた部分はあるんじゃないかね。
いっとくが原敬は性格悪いし、「俺が居るから政党政治は正しくなる」とか考えていても
不思議じゃないぞ

157:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/16 06:56:40.30 m+omrZ/z0.net
>>156
いや、実際に馬鹿にされた国民は民主的に未熟=馬鹿であったろ。
昔より多少マシかもしれぬが、今でも充分に怪しい感じだ。
前々回の政権交代の時にゃそう思ったね。

158:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/20 01:02:21.87 L9sg72E90.net
国民が成熟していなかったというのはその通りだと思うし、その反映としての政党政治も
まだまだ未熟なものだったというのは否定出来ないと思う。

ただ、原内閣あたりから徐々に政党政治が軌道に乗ってきて、昭和初年代あたりの時期には
相応の成熟を見せていたようにも思う。

政党政治が行き詰まってしまい、軍部が台頭してきてしまうという現実に起こった史実の流れは
制度的な必然とか政治の担い手の未熟さとかだけではなくて、様々な要因が複合的に連鎖していった
結果として招来されたものだったんじゃなかろうか。

159:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/21 01:03:11.07 8EucJs0V0.net
あと全く話変わるけど、戦前の純粋な政党政治家で
戦後に首相になったのは鳩山一郎と三木武夫だけで
主要な役職すらも吉田、岸みたいな官僚組や石橋や緒方みたいな新聞記者組み
が占めちゃってあんまり活躍出来てない傾向にあるよな。
だから三木武吉が生きている間はともかく、そのあとは
政党政治って面ではレベルが下がった部分もあると思う。
アメリカは日本に民主主義を教えてやったとドヤ顔しているけど、
政党政治に関しては確実に停滞したんじゃないかとGHQの豚どもに言ってやりたいわ

160:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/22 13:48:17.93 tc2hKJAQ0.net
>>159
それはアメリカのせいではないだろう。選挙のためにアメリカがくれたのは言論の自由と
内務省の選挙妨害の根絶だけだよ、そしてそれで十分だろ。政党政治というより議員の質が低いのは議席配分が
地盤看板カバンがあるものが勝つ農村部優遇のせいで、政党内部で候補者の選定における
競争原理が働かないせいだろ。国会が行政の監視役を果たせないのは議会自体や選挙制度の不備が
問題で別に日本人が低脳とかそういう話ではない。

161:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/20 13:05:36.68 5N5YpKPF0.net
総理になれなかった総裁は

立憲政友会: 鈴木喜三郎-中島知久平・久原房之助(鳩山一郎)

立憲民政党: 町田忠治

162:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/21 06:26:40.79 JeksXLs20.net
軍部とGHQを敵に回した鳩山一郎。
考えてみれば、よく首相になれたものだなー。

163:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/23 10:58:57.66 JCxP4dER0.net
戦犯として巣鴨に入った岸が首相になったことを見ればさほどのことでもないが
結局戦前(というより戦時体制)の残党をアメリカは存続させただけの話だ。

164:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/28 15:58:13.12 8gwleLl/0.net
アメリカとしては現実問題として行政実務に長けた人を残さないといけなかったのだろう
政治経済が停滞して、共産化するのを恐れたのだろう。

165:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/30 19:37:52.55 7DINWcv40.net
鳩山・石橋が首相になったときはアメリカも焦ったようだけどね
日本が占領政策を批判して、憲法改正とか親ソ親中路線に傾くのは困る
岸がピンチヒッターで登板したときは喜んだだろうな

166:名無しさん@お腹いっぱい。
13/12/01 11:52:29.59 iAQxjwgU0.net
歴代内閣総理大臣の通信簿

【AA+】伊藤博文(トップ)、原敬(2位)、吉田茂、池田勇人
【AA】山県有朋、桂太郎、鈴木貫太郎、幣原喜重郎、岸信介、小渕恵三
【A+】西園寺公望、山本権兵衛、加藤友三郎、加藤高明、東久邇宮稔彦王、鳩山一郎、福田赳夫、大平正芳
【A】黒田清隆、松方正義、高橋是清、犬養毅、石橋湛山、佐藤栄作、田中角栄、竹下登
【B+】若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸、斎藤実、岡田啓介、三木武夫、細川護熙、橋本龍太郎
【B】寺内正毅、米内光政、片山哲、芦田均、鈴木善幸、中曽根康弘、安倍晋三、麻生太郎
【C+】清浦奎吾、東条英機、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、羽田孜、福田康夫、野田佳彦
【C】広田弘毅、林銑十郎、平沼騏一郎、阿部信行、小磯国昭、森喜朗、小泉純一郎
【不可】大隈重信、近衛文麿、村山富市、鳩山由紀夫、菅直人

※安倍氏に関しては第1次政権のみ評価し、再登板後は未評価。
※異論は大いに認める。

URLリンク(i.imgur.com)

167:名無しさん@お腹いっぱい。
13/12/07 02:05:11.89 7RzlTe080.net
>165
鳩山や石橋は親ソ親中ではなく
自主独立路線では

168:名無しさん@お腹いっぱい。
13/12/10 13:55:13.62 5KycWTBc0.net
岸も自主憲法制定、再軍備、対米自主派だった。
鳩山が日ソ国交回復して国連加盟を実現したから
それを受けて対米関係の調整に乗り出した。

169:名無しさん@お腹いっぱい。
13/12/11 18:38:16.70 VclgKO1N0.net
晴耕雨読 13/12/10
自由人権協会の藤原弁護士曰く
「憲法を理解していない人たちが作っているとしか思えない法律」と批判。
「一番の問題は立法目的がないこと。何のために作るのか、という質問に答えられない」。
米国に背中を押され、ズルズルと軍事属国化してゆく。そのための秘密保護法制なのだけれど、
まさか、立法目的として、そうは主張できない。かといって、対立利益も示せない。

「日本政府の中枢に米国の諜報員がいるが、彼らが罰せられることはない。」海渡氏インタビュー
URLリンク(ustre.am)
米国内に「日本に長く求め続けてきたことがようやく実現した」と歓迎の声
info/201312/article_42.html

今すぐに武装した自衛隊を派遣しなければ、日本は経済的に大変な被害を被ると必ず宣伝します。
日本にその道を作ることで、安倍政権はアメリカから長期政権の存続を保障してもらうつもりです。
過去に中曽根首相や小泉首相のやったようにです。
URLリンク(www.kamiura.com)

中曽根首相時代に、アメリカには武器技術に限って解禁した。そして小泉時代に
日米が新型の対弾道ミサイルを迎撃できる新型ミサイルの共同開発を2度目の例外として解禁した。
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安倍政権は先日の日本版NSCの強行採決に次いで、今日は特定防衛秘密保護法を制定させた。
次は今月(12月)中に防衛大綱の見直しと、武器輸出3原則を解禁をするだろう。
さらには集団的自衛権の容認に転換させて、
自衛隊が世界で米軍の戦争に参戦できる体制作りを行うことは必至だ。
安倍政権は何としても、国民が正しい軍事知識に基づいた認識が出来る前に、
今回の特定秘密保護法で国民の目と耳を塞ぎたかったようだ。
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自民党は言葉遊びをしている。軍事は冷徹な論理に世界である。
いままでの「動的防衛力」と「統合機動防衛力」の違いについて倫理的な説明が必要。
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170:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/24 10:57:38.71 hN2abHSO0.net
新年age

171:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/25 10:24:40.05 Xr3KAh2m0.net
官僚派 対 党人派

172:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/26 18:19:46.73 KaGEo4gM0.net
>>171
政友会
(官僚)  (党人)
伊藤
西園寺


()

会: 鈴木喜三郎-中島知久平・久原房之助(鳩山一郎)

民政系
町田忠治

173:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/26 18:23:09.08 KaGEo4gM0.net
>>171
元老も官僚に入れてしまったけど色分けはこんな感じ?

政友会
(官僚)  (党人)
伊藤
西園寺

高橋
田中
       犬養
鈴木
       中島
       久原
       (鳩山)


民政系
(官僚)  (党人)
大隅
(桂)
加藤
若槻
浜口
若槻
(井上)
       町田

174:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/27 16:13:22.50 p+CnllxM0.net
原は官僚歴はあるけど党人派だろ。犬養にも官僚歴はある。
西園寺を官僚派に入れるのは無理すぎる。原、浜口、犬養は
三人共元官僚だが衆議院議員だったことがもっと重要。

175:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/27 18:49:33.41 hwCdoS+Z0.net
>174
前歴が官僚だった人間は大勢いたから、元官僚かそうでないかだけで色分けするのは確かに無理だね。

党人派か官僚派かの区分けをするには、選挙という「民意の付託」を受けているか否かという
区分けの方がスッキリする。

貴族院も枢密院も、選挙で選ばれた政治勢力ではないから、その意味で衆議院とは一線を画している。

大正期に起こった二度の護憲運動が含み持っていたパワーやうねりといったものは
コレでなかなか侮りがたいものだったようだし。


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