大政奉還後の新政府構想についてat HISTORY2
大政奉還後の新政府構想について - 暇つぶし2ch50:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/28 14:04:19.66 O/h+dnYD0.net
貴族院にやけに批判的だが
現代のイギリスでも貴族院は存在するからな
衆議院の劣化コピーの現在の参議院よりよっぽど

51:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/28 21:48:16.48 3NZ9GMxl0.net
>>50

日本方式の封建制度にはずいぶん批判してるけど、欧州方式の階級制は
OKなんですか?。確かに欧米主流の国際社会に出て、列強と対等な立場
になる為には欧米形式の国家制度にするのが最善だと思うし(明治政府が)
それを選択したのは、賢明だと思えばこそ批判はしないよ。只、どんな
形式にしろ華族制度はれっきとした階級制度だと思うし、非民主的な制度
である事には変わりないよ。

52:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/28 22:10:04.15 BPQnsBUx0.net
当時の庶民にとっては明治新政府の急進的な近代化は迷惑で幕府による緩やかな近代化が
望ましかったことは間違いない。

53:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/28 22:14:43.97 URaPtjK60.net
「幕府による穏やかな近代化」って幕府厨はよく言うんだけどさ、
幕府主導の近代化が穏やかであるという根拠は何なの?

54:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/29 00:20:03.55 n3uDokup0.net
>>51
そりゃ世界的に産業革命が始まってる頃に
封建制なら批判も当然だろ、逆に貴族院は近代的な
欧州諸国の制度だぜ時代性を鑑みるなら
別にそれほどのことじゃあない

55:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/29 10:07:02.16 h2IFhz6s0.net
>>51
貴方の論は時代性についての観念が欠落していますね
「民主主義」は古代ギリシャに始まったといわれますが
彼らの直接民主制が、奴隷制の上に成り立った
自由民男子のみによるものであることはご存じですよね?
貴方はその政体を、現代の民主主義の常識から批判しますか?
幕末維新期の政治体制について論じるなら、
同時期の世界の政治について勉強なさった方がいいですよ
当時もっとも貴方のいう「民主主義」に近い政体のアメリカでさえ
南北戦争の直後、つまり奴隷制がまだ生き残っていました
フランスはナポレオン三世皇帝が失脚、まだ試行錯誤の状態ですね
政治が貴族の独占状態から、財産のある者もまた政治に参加すべきだ
ということがようやく常識になった時代だということをお忘れなく
貴族院(上院)と中産階級による下院で政治が行われる二院制は
かなり進んだ政治体制でした

56:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/29 15:18:32.69 hRm1+H8h0.net
>>54 >>55

貴方達は本当にご都合主義ですね。だったら江戸時代の封建制度についても
同じ事が言えるのではないのですか?。薩長が主導した明治維新を「長く
閉ざされた封建制度からの画期的な転換期」などと言って江戸期の日本を
世界的に見て閉鎖的な絶対君主制みたいな事を言って否定的な論評を説いて
自己のクーデターを正当化した「王政復古史観」を鵜呑みにして四民平等を
画期的な平等政策などと賞賛して、前政権の徳川を非人権国家の権化みたいに
評価している方々の言い方とは思えませんね。そう、確かに当時はまだ民主制
度は発展途上でした。だから明治政府が布いた制度は当時としては普遍的な
制度でした(イギリスもドイツも帝政でしたしね)し、あれ以上の対策が無かった
のも事実です。でも、逆に言えば家康が江戸に幕府を開いたのはそれから遡る
こと2世紀半以上もの前ですから、その当時の世界の情勢から見ても徳川を頂点と
した絶対封建制も特に非人道的で遅れた政治体制では無い。だから、江戸時代を
「がんじがらめの封建制度に縛られた非人道的な時代」などという(実際はそれほど
厳格的なものでも無かった様ですが)史観そのものこそ「時代性を無視した」
論評であり、「江戸暗黒史観論」などはその最たるものです。だから大奥を非民主的な
制度と誹謗しておきながら、華族制度を「当時の世界常識に乗っ取った合理的な制度」
などと言う事自体矛盾して居るんですよ。
あと>>54の意見について
貴方は近代欧州の制度ならば非民主的な制度でも良いというのですね。それでいて近世日本の
制度は全面的に否定しているのなら、完全な欧米コンプレックス人間だわ。

57:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/29 17:31:22.28 VS9aTWlw0.net
>>56
自分は江戸幕府を落としたつもりはなく
単に変革期には一度制度を壊す必要があったよねといってるだけなんだが
そして明治政府の作った体制は万全なわけではなかったが
現代の民主主義の観点から批判するのはおかしいといってるだけなんだが

幕府に改革が出来たか否かは水掛け論になるだけっしょ
事実として、幕府の改革の進み方はは時代の勢いに追いつけなかった
事実として、明治政府の作った政体は譜代以外の出身者が
実力とやる気次第で政権を担える道を作った
当時の人間の評価はともかくとして、
現代の目から見てどっちが悪かったもよかったもないと自分は思ってる
ここで打った手はまずかっただろとかはあるけどね

58:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/29 17:43:16.69 VS9aTWlw0.net
そもそも、薩摩も長州も土佐もついでに水戸も、
最初は幕政改革で何とかしようとしてたじゃん
佐賀と福井はほぼ最後までそっちだし
どうしてこうなった?というのは当時誰でも思ったことだろう
最終勝者が「だって幕府がダメだったもん」といっちゃうのは
事実がどうであれ自然な流れなんじゃないの?

59:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/30 00:40:57.81 zxLT8T9y0.net
>>56
被害妄想が過ぎるなw
いつ俺が>前政権の徳川を非人権国家の権化みたいに評価なんて
したんだよw
ただ『幕末の時点』で大奥なんて害悪以外の何物でもなかったろう
まず金食い虫だし。
開明派幕臣の敵は討幕派だけでなく大奥を筆頭とした幕府内保守派
もだった事を忘れてはならんよ。

60:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/01 19:54:20.16 fGSQ2OYj0.net
>>57 >>59

悪い、悪い。あんたは単なる維新至上主義者じゃなかったんだね、お詫びします。
で、俺が言いたいのは明治維新というのはあくまでも日本独自の従来の国家システムから
西洋方式のシステムへの転換期という事であって、それによって国家が国民目線の政策を
始めたわけでも、完全な平等社会を実現したわけでも無いという事を言いたかった訳なの。
なんか2ちゃんを見ていると、あたかも薩長政府が民主国家を構築したみたいな事を言っている
人が目立つので異議を唱えただけです。

>>58
確かに歴史というのは最終勝者の都合で構成されるのは世の常で、薩長だけが特別ではない。
只、勝者の圧力という制約がない現在に於いては勝者側の視点で書かれている資料だけではなく
他面的からでの客観的な資料等で事の真偽を検証してみるのが、建設的な歴史探究ではないのでしょうか。

61:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/01 19:55:56.48 fGSQ2OYj0.net
>>60の訂正

他面的→多面的

62:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/01 20:48:59.97 rS+Yh3sg0.net
自分は明治初年オタの自覚はあるが
いまどき江戸時代が暗黒期みたいにいう極端な書き込みは相当の無知か釣りだろw
今では良いことも悪いこともいろいろわかってきているが
当時の誰もそんなこと俯瞰して見られなかった
当時の人々の言い分や思い込みと後世の批評は分けて考えるべきだし
同時に昔の人の誤解や決めつけに俺らが腹立てても意味ないってこと

63:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/02 11:02:16.38 Rnupi6Bv0.net
>>40 >>少なくとも言えるのは、主導したのが幕府だろうと明治政府だろうと
下から盛り上がっての改革ではないからそう簡単に今で言う「民主主義」の域にはいたらないよ

・・・自由民権運動が起きれば幕府と薩長政権ではどっちがより徹底的に弾圧したかな。

 幕府が延命してたら、四民平等、武士身分の廃止など可能だったか。

64:諸橋 嘉久
13/10/02 12:32:44.11 7XM5kgah0.net
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
URLリンク(search.yahoo.co.jp)

65:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/02 17:31:58.40 11BYIPZm0.net
>>40 >>少なくとも言えるのは、主導したのが幕府だろうと明治政府だろうと
下から盛り上がっての改革ではない

・・・薩長は下級武士(ほとんどが貧乏侍)が盛り上がって特に長州は革命派がクーデタを起こした政権だった。

 幕府主体となると旗本・御家人中心の幕藩体制維持派を排除できたか?

66:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/02 20:38:00.49 tLfZ/FlD0.net
>>幕府主体となると旗本・御家人中心の幕藩体制派を排除できたか?

なにしろ社会情勢が情勢であった事から、今までのようなわけにいかないだろうし。
何らかの形で政治システムを欧米スタイルに変えた(変えざろうえない)可能性はあるね。
只、武士身分を完全に無くせたかどうかは半信半疑だが(武士を軍人として活用していたかも)。
まぁ、いずれにしても倒幕により薩長に政権が渡ってしまった以上、これらはあくまでも空想上の話だけど
でも、長きに及ぶ鎖国政策を解いたのは幕府だし(その頃長州は攘夷などと言って、対外関係を悪くする事をしていましたが)
慶喜が幕政の抜本的な改革を模索していた事を考えると、(幕府による近代化政策の)可能性はゼロとは言えないね。

67:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/02 21:24:25.17 werL0ZB00.net
>>66
長州は当初開国派だよ。航海遠略策は知ってるだろ。
逆に幕府も四侯会議では薩摩が開国を唱えるのに
攘夷を主張するようになる。

68:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/03 21:27:50.70 FG9drzOl0.net
>>66 >>只、武士身分を完全に無くせたかどうかは半信半疑だが(武士を軍人として活用していたかも)。

・・・長州は幕府の長州征伐に対抗して身分に関わらない奇兵隊を作って撃退した。

 銃砲主体の時代に武士の軍事力としての役割は終わったということだろう。

 軍事力として無意味な武士階級は平民と並ぶしかないと長州戦争は教えた。

69:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/04 11:31:15.48 XUbeftzXO.net
当時は開国がただの国交ではなく植民地化される危険があったのと
幕府の弱腰姿勢で危機感が強かったのが問題だろ
ほとんどの一般人は知識もない状況
今では想像するのも困難な危機感だったはずだよ

70:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/04 14:17:35.38 CPoQ5+tPO.net
江戸期が暗黒時代云々かどうかでは無く、問題は明治維新が無かったとして
日本は武家政治体制のままで独立を維持出来ていたのかだろう。

改革を拒んで守旧派が実権を握っていた清国や李氏朝鮮がどう成ったか
日本が独立を維持出来たのかを考えればわかるかと。

江戸幕府体制の下で独立を維持出来たとしても
沖縄、小笠原、対馬、北海道は少なくとも列強に取られていたのは?

71:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/05 11:59:42.88 fZo17tzD0.net
当時の列強に日本の土地を租借する必要はなかった。そのための
シミュレーションではとてもペイしないことが分かっていたからだ。

諸外国が求めていたのは外国人居留区の安全だよ。
神戸で外国人が新政府の人間が殺害された事件ではすぐに犯人は
切腹している。欧米とのトラブルはこの程度であり、戊辰戦争がイギリスとフランス
の代理戦争とか言うのもトンデモで武器商人は横行していたが完全な自己責任
の商売で国家の保護は受けられなかった。欧米は一貫して非干渉的だから
北海道の旧幕府勢力は認知されなかった。

72:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/05 12:48:46.36 KK5wxb500.net
>>71 長州の攘夷戦争後に4カ国側は彦島の租借を要求したがな。

 高杉晋作がそれを蹴った。

 北海道共和国はフランスが承認したんではなかったか。

73:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/05 15:42:28.57 hknKXe9C0.net
>71
>当時の列強に日本の土地を租借する必要はなかった。そのための
>シミュレーションではとてもペイしないことが分かっていたからだ。

旧幕府軍と薩長が泥沼の内戦を4~5年くらい延々と続けてたら、
使い古しの銃器や大砲や艦船を高い値段で売りつけて借金漬けにして
無理矢理にでも土地を咀嚼させられたんじゃない?

統一政権が「幕府→新政府」へとスムーズに交代して、まがりなりにも
ひとつの国としてまとまっていてこそ諸外国に抵抗出来たのであって、
国内が四分五裂になっていたらイギリスもフランスもここぞとばかりに
足元を見てつけ込んできたろうと思うが。

74:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 00:57:38.01 UyF+RZhr0.net
>>71
諸外国の意図が実際どうだったかと、当時の日本人一般が抱えていた危機感は
実は連動しないものだと思うよ
そりゃ幕府の首脳部と外交担当者を含む一部の人間は意図を正確に知ってたかもだが
それにしたって事実として隣の大国・中国はひどい目に遭ってるし
ほかにもアジアは植民地だらけだし
日本も実際武力背景に強引な交渉されてるし 武力の差はあまりに歴然としている
「外国の意図は侵略じゃないから心配しないでください」って言われても
危機感を払拭出来るわけないっしょ

75:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 01:06:33.93 RBLYoZek0.net
そもそも遅れた国がどんどん植民地化されていた時代に
我が国だけは大丈夫、などと考えていたらかえって無能だろう…
を植民地支配してはいけないなんて考えは当時はなかったわけだし
直接外交した幕府の役人だって、相手の本心、いざとなったらのやり口までは
予想はできなかっただろうな

76:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 01:08:03.20 UyF+RZhr0.net
ああ、あとロシア船の対馬居座り問題もあったし
この件は結局イギリスが乗り出して解決したが
自力で解決できないことや、諸国間の紛争に巻き込まれる可能性の浮上など
これに大きな危機感を持ったのは幕府も諸藩も一緒だろうね
特に長州は姻戚だったからかなり運動してる

正直彦島租借の件は嘘か真か疑わしいが、対馬の事件はガチ

77:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 07:17:15.35 Pe4Nv5xo0.net
>>76 >>彦島租借の件は嘘か真か疑わしい

・・・連合国側にも交渉記録は残っているだろう。アーネスト・サトウの回顧録にも書いていた。

78:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 09:43:30.24 KMx3RyaN0.net
>>77
『一外交官が見た~』にも『遠い崖』にもそんな記述はなかったと思うが
魔王云々はあるけど

79:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 10:41:12.61 IX9BJfcB0.net
>>78 租借に失敗したという不面目な記録はのこさなかったかも知れんな。

80:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 14:48:54.06 zDvlvojh0.net
>>79
そりゃちょっと都合のよすぎる解釈でしょ
これ以上この件を語るとスレチになりそうだが
イギリス公使は、日本という新しく外交を進めなければならない相手について
さまざまな情報と見解を定期的に本国の外相宛に送っている
正しい判断を下すための材料になるようにね
租借の件を持ち出した際の日本人の反応という重要な情報を
本国に送らないのはありえない それこそ更迭もんの大失策だ
外交部と軍部と両方同席しているので隠蔽もまず不可能

81:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/06 15:13:18.11 69q6/M1m0.net
>>80
wikipedia 下関戦争より
この談判の際に四国連合側のすべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、高杉の努力によって彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が有名だが、
この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になってこの交渉の時に長州側の通訳をした伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である[9]。

・・・伊藤博文が高杉晋作を持ち上げるために粉飾したのかな。

82:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/07 07:33:31.26 +GxjvxQs0.net
>>80
wikipediaより
日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。
オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。
オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。
だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送るが、
この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。

・・・本国が戦争回避を指示しているのに現地公使の裁量で決行していた。これでオールコックは戦後更迭されたのかな。

83:諸橋 嘉久
13/10/07 10:58:03.65 21msbOYd0.net
イギリス留学を途中で止めた当時の伊藤博文の英語は日常会話レベルだろうから、
通訳は不可能だろう。

84:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/07 12:45:45.70 CJkNKYvj0.net
>>82
『長州留学生』だかに、イギリス外務省が長州留学生居残り組と話をしていて
日本&長州の友好度を実際より良くとらえていたようだとかあったな
オールコックは更迭されたが帰国後提出した報告書で名誉回復してる

伊藤の語学力がどの程度だったかはわからんが
微妙な交渉の中で誤解が生じた可能性はまああるね

85:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/07 19:33:13.22 r1A72X0D0.net
『長州留学生』じゃなくて『密航留学生たちの明治維新』だったスマソ

86:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/08 14:26:52.29 MSLCQGNx0.net
>>83 連合国側にシナ人通訳がいたら筆談で可能だったのにな。

 それと長州側に蘭学者がいたら、日常会話以上のことも理解し合えただろう。

87:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/08 20:08:01.90 5jshPe6G0.net
>>86
いや、そういう意味では向こうには薩道がいるし。あいつ無双。
伊藤の語学力だってそこまでは低くねえよw
ロンドン大学で授業を受けられる程度の力はあんのよw

88:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/09 22:02:43.66 Kq0L1Aql0.net
>>87 日常会話程度なら行きの船旅数ヶ月で十分だっただろうしな。

 帰りの船旅も加えると2年程度の英語訓練になったんだろう。

89:諸橋 嘉久
13/10/10 06:05:23.70 2OedAZqs0.net
>連合国側にシナ人通訳がいたら筆談で可能だったのにな。

上海で高杉晋作が書店に行きたいので人力車引きに紙に「書店」と書いて見せた所、
人力車引きは洋服屋の前で人力車を止めた。

>それと長州側に蘭学者がいたら、日常会話以上のことも理解し合えただろう。

NHK大河ドラマ『花神』では吉田松陰たちとペリー艦隊の水兵がオランダ語で会話して居ました。

90:諸橋 嘉久
13/10/10 06:11:09.98 2OedAZqs0.net
>ロンドン大学で授業を受けられる程度の力はあんのよw

皇太子と同じで実態は聴講生みたいなものでしょう。

イギリスの大学を卒業して居れば、話は別ですが。

91:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/10 06:39:28.15 sfeynId10.net
ウ゛ァーベックが聖書を叩き込み、日本は神の国になりました。侍はリストラ。 

92:諸橋 嘉久
13/10/10 07:06:30.74 2OedAZqs0.net
☓NHK大河ドラマ『花神』では吉田松陰たちとペリー艦隊の水兵がオランダ語で会話して居ました。

◯NHK大河ドラマ『花神』では下田奉行の役人とペリー艦隊の水兵がオランダ語で会話して居ました。

其の翌年に吉田松陰たちでしたね。

93:諸橋 嘉久
13/10/10 07:09:57.77 2OedAZqs0.net
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
URLリンク(search.yahoo.co.jp)

94:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/10 10:42:02.57 mnPy8ur10.net
>>89 >>上海で高杉晋作が書店に行きたいので人力車引きに紙に「書店」と書いて見せた所、
人力車引きは洋服屋の前で人力車を止めた。

・・・人力車引きと欧米公使付通訳とでは語学力・漢文能力が違いすぎるやろ。

95:諸橋 嘉久
13/10/10 12:34:01.33 2OedAZqs0.net
上海の人力車引きは間違って居ないのです。
当時のシナでは「書店」とは「洋服屋」なのです。

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

96:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/10 20:29:09.46 fZQkJln10.net
>>95 そやから欧米公使付シナ人通訳なら、日本語「書店」の意味がシナ語の意味と違うことくらいは分かっていたやろ。

97:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/10 23:43:12.85 klK1+eKO0.net
76だが、自分が余計なこと付け加えたせいで
話が変なほうにズレて正直すまんかったw

対馬のロシアによる一部占拠の件だけど、このとき対策担当の小栗は
ポサドニック号の艦長がロシア本国の指示で動いているわけではないと見て
ロシア本国の方と交渉するべきと考えていたんだよね
あと国際世論に訴えるべきだとか、今の目で見ればごくごく正統派の外交術だ
しかし幕閣に反対論があり不可とされ、小栗は辞職してひきこもり
結果としてイギリスに頼った解決となってしまったw

自分は小栗をよく知ってるわけじゃないから賞賛する気もないが
いわゆる万国公法的な行き方をわきまえてる人物ではあったよね
でも悲しいかなそういう真っ当なやり方が通らなかったのが
当時の幕府であり時代なわけで
新政府側が倒幕の勢いでいろいろ強引に変えたのは
結果的に正解だった気がするんだわ

外交の方針についていえば、幕府内にいた
「外交するのは仕方がないからどこまで譲歩できるか考えよう」派と
「外国が来たチャンスだこれを機に制度や技術を取り入れ力をつけよう」派が
ランダムに入れ替わって外交を担当し首尾一貫しない有様で、
特に前者の「譲歩は屈辱だわ~国辱モノだわ~」という愚痴が外部に漏れて
それを聞いた諸有志に徹底攘夷派が形成されてしまったという説がw首絞め乙w
時代的には仕方がないことだし
そういうところから学んだ新政府の開き直り外交に結実したともいえるんだがね

98:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/11 09:40:30.50 nqenxxIX0.net
>97
幕府の方針決定が、伝統的に「老中による合議」というモノで意志決定に時間が掛かる仕組みだったのも
そうした弊害に拍車をかけていたし、ペリー来航時に阿部正弘が「諸藩に意見を徴する」ということを
やったから、なおさら「外国の連中は失礼だ、屈辱的だ、打ち払え!」的な意見までが下から上がってくる
ようになっちゃった。

結局、外国と付き合って力を付けよう派と、イヤだけど妥協して外国と付き合おう派と、
外国人は追っ払っちまえ派とがそれぞれに別れちゃって、対立抗争を行うことになったのが
幕末日本の大雑把な姿で、その中でもっとも少数派だった「力を付けよう派」が西洋式の
武力という「現実的な力」を持って、反対派を黙らせていく政治過程が「明治維新」だった
ってことなんだろうね。

99:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/12 15:05:05.90 06YroRj20.net
>>98
阿部は意見を諸大名に求めたが開国を否定する藩など皆無で(徳川斉昭ですら)
開国は規定事項といって言い。しかし朝廷に許可を求めるということをやったために
混乱が始まった。

この時点というより明治直前まで開国反対だったのは朝廷とくに孝明天皇であり、
家斉時代には勅使を家来扱いさせ、関白を幕府のパシリ扱いしていたのが
ひっくり返るという事態を招いたのが幕末であり、内戦にまで行ったのは日本史伝統の
東西の断裂が起きただけだよ。

100:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/12 22:56:36.87 xnZThVh30.net
>99
それは話を単純化しすぎだ。

和親条約を結ぶことに関してはどこの藩も同意したけど、通商条約となると
必ずしも全ての藩が同意した訳じゃない。

和親条約にしたってペリーが武力をちらつかせて脅しを駆けてきたから
渋々同意したってだけで、積極的に条約を結ぼうなんて意見は少数派だった。

ましてや通商条約なんてって声は相当に大きかった。

諸大名が同意を与えているんだったら、そもそも堀田は朝廷に勅許を貰いに行こうなどとは
しなかった。同意しない大名を納得させるために勅許を貰おうとしたんだから。

また、諸大名が条約締結に同意を与えていたなら、当時はまだ大した影響力を持っていなかった
天皇や朝廷がどれだけ反対をしようが大勢には影響を与えなかったろう。
条約に反対する勢力が居たからこそ朝廷に対してテコ入れをして反対の方向に
誘導していったんだよ。

101:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/16 18:42:42.86 acd1IPZA0.net
明治維新に功績のあった雄藩地域にのみ参政権を与えて税を再分配する。
功績のない外様大名も引き続き参政権なし、税を巻き上げられるだけ。
譜代大名・親藩の地域も外様大名と同じように遇する。

江戸時代と立場を入れ替えるだけで充分改革できた予感。

102:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/17 08:07:28.71 knhCFym70.net
>>101 それで身分制度の廃止、廃藩置県などが可能だったか。

 または封建制度を続けたらよかったということか。

103:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/17 08:40:17.23 RegRp9kt0.net
>>101
それって軍制どーすんねん万国に対峙せにゃならんのに
中央集権にしたのは金の問題のためだけじゃないんだぜ
廃藩置県しても鹿児島とか半独立でえらいこっちゃだったのにさ

勤皇雄藩だけが実権握って安定した政権築ける時代でももうないよ
外国から怒濤のように情報もモノも流入してる
あと、おらが国意識から脱して日本という国づくりに向け意識改革せにゃ
雄藩の人間だって自藩権益優先脳から抜け出せず改革頓挫必至だね
実際明治二年に廃藩論ぶちあげちまった伊藤は自藩の連中に殺されかねない状況になった

104:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 13:44:47.90 yebcUZWD0.net
江戸時代の慣習を残したままゆるやかに変革すればよかったのに。
ドラスティックな改革をしたせいで色々な齟齬が生じた。

105:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 14:59:37.54 gW2+Odcr0.net
>>104 欧米の学者は明治維新は革命とは言えず、革新に過ぎないとか言うのが多いらしいけどな。

 江戸時代の慣習が何を指すのか分からんが、官庁や企業内部には江戸時代の慣習が根強く残っているだろ。

 言葉にもお上、重役、お歴々、貴社、弊社とかいう武家言葉がそのまま生きている。

106:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 18:27:55.60 ti8AD4eq0.net
>>105
>欧米の学者は明治維新は革命とは言えず、革新に過ぎないとか言う

それどころか、革新でも維新でもない。

Meiji Restoration(明治復古)といってるぞ。

107:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 18:50:17.07 P+88vn040.net
>>106 それを言えばイギリス名誉革命もフランス革命も王政、帝政に戻ったんだから革命でなくて復古にすぎないな。

108:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 19:00:11.40 P+88vn040.net
>>106 幕藩体制から中央集権国家(廃藩置県)、身分制度廃止、国民皆兵などが革命・変革でなく復古というのは単に「王政復古」を直訳しただけの用語だろう。

109:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 21:30:48.30 Mn796y3J0.net
英訳がMeiji Restorationなのは、王政復古という日本の用語の影響もあるが
文字通り古来国の頂点であった天皇を中心とした改革だという認識からだよ
頂点にいる権力者が代わってないし、上からの改革だしで
ヨーロッパ的な意味での革命=revolutionじゃねーもん
ヨーロッパ文明の流入と為政者の交代という大激動を伴ってたとはいえ
ヨーロッパでいえば啓蒙君主とその官僚による改革に近いんじゃね?

ちなみにイギリスの場合は、クロムウェルによる共和制をつぶして
王室を復活させたときはRestorationといってるが、その後
議会の力で王を追い出して新しい王を迎えたときはRevolutionと称している
迎えた王は追い出した王の娘とそのダンナとはいえ第一王位継承権者ではない
しかもいろいろ要求を突きつけて契約的に王にしているとこがrevolution

110:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 21:41:33.10 Mn796y3J0.net
ほんでさ、残すべき江戸時代の慣習ってのはどういうものなのか
どうすればそういったものを残したまま改革できたのか
そのへんを例示してくれるかな
たとえば兵制についていえば、慶喜でさえ御家人は諦めてたと思うんだけど…

111:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 22:16:38.28 u3Um6Tz50.net
>>109 >>ヨーロッパでいえば啓蒙君主とその官僚による改革

・・・当時16歳の明治天皇が啓蒙君主なのか。

112:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/18 22:41:36.50 m860DxKT0.net
レベルとしちゃそんなとこだろっていってんだよ
イコールなわけねーだろ

113:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/19 07:00:30.99 WI8PffZk0.net
>>109 >>ヨーロッパでいえば啓蒙君主とその官僚による改革

・・・明治初期の有司専制時代まではそうだろうが、自由民権運動・国会開設以後はプロシャ風立憲君主制だ。

 ちなみにシナがまだ有司専制時代のままで自由民権運動を弾圧している段階だ。あれも革命ではない。

114:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/20 17:46:19.39 gNqulPS10.net
シナ・朝鮮の「革命」は単なる国盗り物語といえる。

115:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/26 08:34:37.77 At62i5fr0.net
逆説の日本史で書かれていたけど
天然痘の予防接種があったので庶民ですら行っていたのに
時代錯誤の公家の多くは「ワクチン牛の血から作るので穢れる」と頑なに拒否していたそうな。
無能な孝明天皇も同様に天然痘の予防接種を行っておらず
周りの馬鹿公家を媒介にして感染したとさ。

天然痘は当時の馬鹿発見器だ。

116:名無しさん@お腹いっぱい
13/11/03 13:11:33.40 Jp/9n/3k0.net
>>109
日本の場合はどうしても天皇を重視した上で時代の政権ができるけど
ヨーロッパの場合はそこにキリスト教があるんでないか?
政権をとる者も、王家は倒すなりしても、キリスト教は利用するだろう
そういう宗教背景みたいな面もあるだろうよ

117:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/03 18:21:35.85 dPBLP8qx0.net
そりゃ当時のヨーロッパは宗教問題がっつり絡むけど
名誉革命ん時のイギリスはカトリックアレルギーで宗教利用とも微妙に違う
カトリックの王を追い出してプロテスタントの王を戴いたのは
フランスの影響を排除し対抗するためが大きかったのは事実だがね
国を統治するのに宗教を利用ってのが露骨なのはテューダー朝がピーク
テューダー朝~ピューリタン革命あたりの宗教的ごたごたにほとほと嫌気がさして
カトリック王排除し折衷的な英国国教会強化がFAってのが名誉革命

ところでここで「ほとほと嫌気がさし」ていたのはイギリス議会な
13世紀の「マグナ・カルタ」から議会の「権利」が意識されつつあったが
17世紀スチュワート朝に入ると議会が王権を左右するほど力を持ち始め
名誉革命時の「権利章典」で議会の優位が確立されたといえる
この後早くも二大政党による責任内閣制が生まれた
「マグナ・カルタ」も「権利章典」も現代イギリスに生き残っている法であり
それら議会制定法や議会が数百年積み重ねてきたさまざまな判断、
裁判の判例や批准した国際法の集合体がイギリスの不文憲法
木戸とかが板垣等に「イギリスの議会制なんて一朝一夕に真似られっか」
といったのは議会による政治の運用にあたりこの積み重ねの有無が重要なため
んでまず幕末にさんざん話題に上った「国是」の強化版「成文憲法」からな!てわけ

118:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/04 15:53:59.27 CVSNKtiW0.net
>>117
その成文憲法が議会軽視なんだよな。

119:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/04 23:10:21.88 AZWa+TGT0.net
明治初年の段階では議会軽視云々はあまり問題ではないよ
議会で政策決定出来るほど政治的に成熟してなかったし
議会が基本方針と出来るものもせいぜい御誓文ぐらいしかなかったし
集議院(not衆議院)だって会議は踊るされど進まずだったw
だから寡頭政治とそれを規制する憲法with天皇主権という選択は
当時はある意味理に適ってた

しかし実際に憲法制定した時点では、少なくとも
議会に比重を移していく前提の方針を打ち出しておくべきだったか
まあ海外じゃ憲法ってどんどん時代に合わせ変えてくんだよね
日本でそれが出来ないのは別に成立条件が厳しいからではなく
話し合ってコンセンサスを取るということが
とことんヘタクソな国民性ゆえなのだな
別に自分は改憲論者ではないが
そう考えると集議院のダンシング会議から日本の政治は
ほとんど進歩しとらんのかと暗澹としてしまふ……
軍部の天皇主権悪用だって
現代の憲法アクロバット解釈も本質的に変わっとらん気もするし

120:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/07 18:36:40.71 uIS9d2MB0.net
>>119 >>話し合ってコンセンサスを取るということがとことんヘタクソな国民性ゆえなのだな

・・・それは米露ドイツ・シナ・朝鮮その他多数の国にも当てはまることだがな。

121:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/07 18:39:46.98 uIS9d2MB0.net
>>119 >>そう考えると集議院のダンシング会議から日本の政治は
ほとんど進歩しとらんのかと暗澹としてしまふ……

・・・わしはシナ・朝鮮は千年前から何も進歩しとらんのかと暗澹としてしまふ。

122:名無しさん@お腹いっぱい。
13/11/16 21:17:54.03 h3PKNEuA0.net
そういう外国蔑視の精神は本当に吉田松陰あたりから何の成長もしていないな。

123:名無しさん@お腹いっぱい。
13/12/03 10:30:20.59 b4q9Ocos0.net
>>41
その大奥が、幕末には、実は政治的にパワーダウンしていたと言う説もある。

家茂は、薨去直前に田安亀之助への相続を口頭で述べていたし、大奥と紀州は、
それがダメなら紀州藩主の徳川茂承の徳川宗家相続と将軍任官で動いていた。

しかし、家茂人脈に属していた小栗ら親仏派幕権(近代化)派官僚らが、
従来は対立していた慶喜への支持に転向した事で慶喜の徳川宗家の相続が決定した。

将軍任官も数ヶ月の空位期間を置いたが、孝明天皇の強い要請で慶喜の将軍任官が決定している。

この様に大奥の意向とは異なり、慶喜による徳川宗家の相続と将軍任官が決定しており、
大奥の政治力は、幕末には、それ程ではなかった。むしろ近代化を志向する実務派の旗本
や御家人を主とする官僚化した徳川宗家直参家臣団の政治力の方が、大奥のそれを上回っていた。

この時期の幕府には、薩長の反抗はもちろん、外国による植民地化の脅威もあり、
速やかな幕府の近代化が求められていた。特に日本の政治体制の集権化と工業化
(武器の国産化)は、急務であり、小栗らは、慶喜が将軍任官直後から大奥の予算
を削り、慶応の改革を実行し製鉄所や造船所の建設、フランス軍制による幕府軍
の強化を実行している。

これらの政治状況から、平和な鎖国時代の大奥の政治力は、幕末期には失われていたと見なすべきである。

124:名無しさん@お腹いっぱい。
13/12/31 13:22:36.04 6JInlY3o0.net
>>123
家茂が死去したのは第2次長州征伐失敗の時で戦時司令官が必要になるかもしれないのに
子供の亀之助が将軍なんて慶喜嫌いの幕府官僚もできないだろう。慶喜の就任拒否は自分の立場の
弱さを自覚したものであり、亀之助を後継者として指名しなければいけなかったことを忘れてはいけないだろう。

慶喜の懸念通り、案の定鳥羽伏見では江戸におけるテロリズムなどの挑発に激昂した旗本たちを統制できない羽目になっている。
大奥という将軍のプライベート空間の主ではない慶喜を旗本たちは主君だとみなす権威がたりなかったのだろう。

125:dsf
14/01/04 17:39:55.86 zsYLdBJz0.net
【不買運動】福島県いわき市は男性を侮辱した女性専用車両広告を使う反社会的組織です

福島県いわき市は女性専用車両という卑劣な男性排除によって生じた女のみの状態となた場所に広告を出して金儲けをしようとする反社会的企業です。

「ハダカのおもてなし」の女性専用車両広告
URLリンク(www.youtube.com)
(音声はJR東日本中央線の駅員による女性専用車両乗車中の男子学生に対する暴言)

<女性専用車両にはこんな女が生息しています>
URLリンク(www.youtube.com)

126:名無しさん@お腹いっぱい
14/01/04 18:23:40.94 BYows2R/0.net
>>111
啓蒙君主はどちらかといえば薩長の指導者達というイメージだな
彼らはあの時点で藩におほぼトップだったわけだし

127:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/09 06:33:17.11 +ixC3zl70.net
>>126 啓蒙「君主」というなら天皇を操っていた岩倉具視が黒幕だろう。

128:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/17 10:17:32.50 43u4fCRR0.net
ヨーロッパの技術を導入すれば、僅かな年数で欧州強国並みの生活基盤が手に入る
と皮算用していた諸藩や幕府そして明治政府。

諸藩や幕府の西洋化は微妙な結果に終わり、
明治政府の殖産興業は成功するという
明暗分かれたのはなぜ?

129:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/21 23:54:43.62 O0vLPMo/O.net
変わろうとする意思の強さの違いが大きいかと
古い独裁体制が自分で自分を改革するというのは
一番難しいことだから

130:名無しさん@お腹いっぱい。
14/01/22 16:23:45.49 nkX4KlOr0.net
たしかに体制を維持しつつ変革するのは難しいですね。
ありがとうございます。

131:名無しさん@お腹いっぱい。
14/02/01 21:12:00.09 EKwavSPM0.net
明治政府は身分制度を事実上廃止したのが大きいではないか
身分制と近代化の相性が悪い
身分制というのは世襲で仕事をやっていく社会を前提としている

132:名無しさん@お腹いっぱい。
14/02/12 11:33:54.55 SdXvoWH60.net
test

133:名無しさん@お腹いっぱい
14/02/14 02:39:40.33 Up7PFcyJ0.net
>>131
それも大きいだろう
身分制を廃止した思い切った改革も含めて重要な要素だったと思う
幕府が存続した場合は、もし近代化という変化を起こそうとしても
上(支配側)は維持を続けることは前提で、変化すら幕府の支配体制を維持するため
ということになる
自分たち自身を半永久的に変化させない人達が、下々だけを変化させようとして、振り回すだけになる
これでは自然な形での近代化は無理がくるであろう

134:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/01 16:08:46.47 qwfF/BqH0.net
>>133
まあ明治新政府も元老とか譜代みたいな制度を作ったがな。
明治という時代(現在もそうだが)の特質は集権志向に尽きるな。
地方行政コストをひたすらケチり続けたのが昭和になって一気に
ツケが回ったのが運の尽きになった。

いまも道州制などで地方交付税を実質的に減らそうとするなど
国家運営の失敗の本質から目をそらし続けているがな。

135:名無しさん@お腹いっぱい
14/03/02 01:45:15.89 VFa4y9vE0.net
昭和になったらもう明治政府とは言わんだろ

136:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/03 22:38:07.26 1BipZ2Nk0.net
>>128
日清日露で勝ったのと第一次大戦で大儲けできたからでしょ?
それまではぶっちゃけ殖産興業いうても旧幕府の頃と対して変わらんでしょ
まぁ税金が高くなったのは富国強兵として実を結んだから言わないけどさ

137:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/03 22:45:05.09 cG+HT25QO.net
その前に新しい技術や制度を思い切りよく取り入れて行った姿勢は大きいね
それをしなきゃならないという
使命感が強かったのであろう

138:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/04 20:56:18.41 NjMRh5240.net
江戸時代に従来とは違う新しい試みを行う場合は必ず反対する勢力がいた。
明治維新の影響でそういった新しいものを恐れる反対の声が弱まったことが大きいと思う。
主力である紡績もすでに鎌倉時代には綿や桑から自家栽培して機を織る家内制手工業が一部で確立されていたが
品質も生産性も悪かった。そこで生産性改善のために天保年間に大坂や桐生で工場制手工業が導入された。
現代人から見れば明らかに効率的な分業制ですが、導入時には「各人が分業する」という
新しい概念に不安を抱いて反対する人が多く、足並みを揃えることに苦労している。
外国技術を幕府が導入しようとしても同じように恐れ、反発されて明治政府のようにうまくいかなかったかと思う。

139:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/08 01:56:40.12 lCE6LJlw0.net
江戸時代以前は仕事は家単位で保有し継承する家職制を基本としていた
そこを改めないと近代化はうまくいかなかったのだろう。

140:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/10 06:35:13.44 cQcygT3y0.net
じゃ
総力戦体制への創始者の田中儀一マンセーということで

141:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/11 10:14:53.45 4TstX10kO.net
明治政府が中央集権重視となったのは
日本が各地でバラバラに行動していては
内戦の原因にもなり、外国の侵略を防げない
という根本的なのが理念大きいはずです
あの時代にはそれが必要だった
外国から日本を守ることが
まず維新の志士達の強い意志です

142:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/15 15:59:09.42 oMGXttX/0.net
外国の侵略とは抽象的で実質のない言葉だよ。幕府は不平等条約を結んだが
居留地がいいように外国人は自由に移動できなかった。しかし新政府は
そう言うのもとっぱらってしまった。侵略されないためなんていうのは
「革命」の意義が曖昧であることの良い証左だといえる。

>>138
江戸時代の機内西国の商品作物経済(主に綿だが)の発達はにしん肥による生産の飛躍的な
増大が原因でマニュファクチャーはそこからの要請だよ。ただそこでの労働者はそれ専用
の労働者ではなく農民の副業であり、今日の都市部労働者と異なるものであり、
マルクス史観的にいう労働者階級は絶対的に数が足りていない時代であることを考慮すべきだ。

>>139
元老や薩長閥がいいように倒幕主導勢力でなければ上にいけないのは
譜代親藩とどう違うというのか。明治後も地方対立の際「賊軍」「官軍」
意識が大きく作用したことを忘れてはならないだろう。

143:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/16 13:06:38.13 QO/h/e+P0.net
>>142
出身地域で差別を導入する意図があるなら
導入が容易な倒幕側地域住民にのみ近代的基本的人権を付与し
(居住移転の自由や公民権を与え教育の機会を授け)
反発の強い佐幕側地域住民には祖法に倣い婚姻・職業・移転・教育・公民権の制限を継続した方が
楽に国政から不都合な国民の介入を排除できるので合理的でしょう。

144:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/17 03:40:54.21 scjKxx/C0.net
>>142
外国と対等につき合える国を目指したのですよ
曖昧とか抽象的とか言っても、それは主観の問題ですからねえ
実際、国を買えようとした人達いとっては、リアルに切実な目的だったわけです

145:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/17 03:56:39.61 scjKxx/C0.net
あと、明治になってから、世襲というものがかなり廃止され
交代が可能がシステムが作られていきました
もちろん世襲を好む人達も当然のこっていたでしょうし
いきなり現代と同じにできるはずもなかったでしょうけどね
それでも少しずつでも前に進む礎になっていったのです

146:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/21 21:56:01.68 BlCakIrJ0.net
>>143
地租改正や徴兵制のように全国一律の方式に改めるのに
身分制が邪魔なだけで人権向上ではないのは「新平民」からもよくわかる。
幕末の内戦でわかったことは身分制による国民の役割分担(戦闘員としての武士、租税、労役を負担する
農民)が非効率的なものであることがはっきりしたことだよ。
それでも出身地域差別は残ったがね。
出身地域差別は官僚、特に軍部が顕著であり、一次大戦後非長州閥
の下克上が軍部の暴走の原因にもなった。

>>144
内戦で外国に攻め込まれるというのは全くの被害妄想で、当時の列強の
求めていたことは居留地の安全の確保であり、それは幕府に肩入れしすぎた
オールコックが更迭されたことからも明白。内戦でのグラバーやスネルは完全に自己責任
の商売で軍事援助という性格のものではない。だからこそ五稜郭の旧幕勢力は
列強から交戦団体として認定されなかった。

>>145
元老の山縣がいいように原敬に日記で軽蔑され、石橋湛山に「死ぬのも奉公」と言われる
ほどのものが20世紀、大正にいたことや、枢密院という国民国家を否定する存在、
地方自治体首長が官選であるなど江戸時代とは違う中国王朝のような集権体制など
江戸⇒明治が近代的、進歩などというのは短絡的な考えだよ。

147:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/21 22:57:28.85 aoMTKw0xO.net
>>146
外国勢力に対する考え方はずいぶん楽観的ですな
当時の欧米の植民地政策を見ていれば
妄想とばかりは言えますまい
結果的に国を守れたから後でなんとでも言えますが
それも幕末の志士の危機感あってこそのものですね

148:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/21 23:32:07.37 aoMTKw0xO.net
もともとが復古というように古いものを尊重しつつ
世界情勢にあわせられるように変化したわけだから
それを進歩と言いたくない人にとってはそれでもいいのでは?
ただ明治になって変わっていくことが現代にも通じていく
権力を持ちたがる政治家は昔も現代にだっていくらでも出てくる
完璧な理想の国家など作られるわけないし志が低過ぎる者が多いことも問題だね

149:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/22 22:09:27.65 l0tNpk5/O.net
山県はねー
軍人に政治権力を持たせない方針の木戸がもう少し元気で生きていたら
もう少しコントロールされて政府もかなり変わっていただろうと思う
明治初期はまだ国を救おうとする志士達の使命感が残った時代だったが
開明的な理想を持ち続けた木戸が早死にしたのが明治政府では痛かったな

150:名無しさん@お腹いっぱい。
14/03/31 16:24:13.24 Vlg4ep4F0.net
>>146
中国と明治国家を中央集権というだけで
同一視するなんて短絡的な考えですなあ
原敬自身が、外様の家老が首相になれる時点で江戸時代とは全く違うのに

151:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/02 11:09:44.12 lC5hdtDF0.net
>>147
楽観的といわれても、オールコックが更迭されたのは事実だし。会津がプロイセンを巻き込もうとして
拒絶されたように。にかく当時の日本は治安が悪く、戦争に介入せず日本各地の居留民の安全を
確保することに必死なのはイギリス本国のマスコミや政府の当時の資料から明らか。
明治国家最大の危機は倒幕後の奇兵隊粛清からはじまる地方名士層の不平不満を
民権運動を経て国会開設にいたるまでの道のりだよ。


>>150
中国王朝も試験にパスすれば門地に限らず首相になれたけどね。原の「賊軍」出身というプロフィール
が枢密院をはじめとする藩閥勢力から警戒される中で、山縣にとっては普選を求める他の政党政治家
との比較の中でコントロールしやすいから手を組んだのであって必然性はないが、
原が首相になるためには絶対条件であることを考慮しなければならない。
>同一視するなんて短絡的な考えですなあ
一般に言われるイギリスを比較対象にするよりは穏当だろう。

152:名無しさん@お腹いっぱい。
15/12/25 11:19:08.81 XO0sd/x/0.net
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり


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