東京は薩摩・長州というテロリストの街や!at HISTORY2
東京は薩摩・長州というテロリストの街や! - 暇つぶし2ch1:怪獣の子供<kaijunokodomo> ◆dxakKNa1zM
11/03/16 13:50:08.13 PifIl6rA0.net
関西人の俺は、東京が大嫌いや!
なんでかって、東京は反天皇家、反日本国の都市やから。。。

衝撃的ではありますが、事実です

明治以降の日本は明治以前の日本(天皇家による徳の統治)とは全く違う国です
それは歴史を紐解けば明白です

幕末に、開国しろとひたすら叫んだ長州、薩摩が、徳川・天皇家に対するテロリストであることは、誰も否定しないでしょう
しかし、だとすれば、その長州・薩摩によって築かれた明治政府もまた、テロリストの政府なのです

「東京」は江戸とは別の都市であり、薩摩・長州による連合都市です

実際、もともと、薩摩・長州は、帝国の首都を大阪に置くつもりでした。
東京は徳川、江戸にあらず。東京とは、江戸に乗り込んできた、サツマイモ軍団の基地なのです。

このことは、考えれば当たり前のことなのに、今日では見通されがちです
しかし、戦前の日本では常識でした

繰り返します

関西人の俺は、東京を憎んでいます
しかし、徳川家康、そして下町の江戸文化を憎んでいるわけではないのです
関西人が東京を嫌うのは、決して、妬みではありません
少なくとも、歴史を知る人は、もっと深刻な理由で、東京支配の現状を憂いているのです・・・

281:名無しさん@お腹いっぱい。
21/12/21 16:58:52.36 iVVVpw870.net
>>280
京都大阪の贅六が九州人から嫌われる理由
(久留米、大村の荒くれ九州男児なら一度は手にしたことがあるといわれる魂の著『菊と龍』より抜粋)

 『菊』は乙装備で山砲は二門しかないのに『安』は四門を持つ甲装備である。
「ちきしょう。いいものをもってやがる」
横目で睨んで舌なめずりする兵隊たちはそこで意味ありげに目をかわした。
ところが『菊』の一群をみて今度は『安』の兵隊が奇声をあげておったまげた。
 「あきまへん、あきまへん」
脅えたような声であきまへんを連発している。
「なにがあきまへんだ!」
スクラップが立ち止まって一喝すると、わっと左右に逃げ散った。
 その夜ランチャガ付近の夜営地で山砲大隊の兵数名が『安』の宿営地を襲い兵器、弾薬、糧秣をぶん獲った。
「俺は菊だ。お前らがこんな上等なものをもってるのはもったいねえ。俺たちによこせ」
スクラップの敗残兵はそう凄んでみせて小銃から拳銃、米までごっそり強奪してしまった。
 このため『菊』は後々まで泥棒部隊とありがたくないニックネームを頂戴することになった。しかし泥棒といっても概念が違う。
「お前たちのような(関西の)腰抜けでは新編第一軍に歯が立たない。だから武器を俺たちによこせ」という戦闘意欲のあらわれであった。
 『菊』の将兵が大原生林の樹海から辛うじて脱出した直後そこにみたのは素晴らしい装備をもちながらも戦闘意欲に欠けた集団の姿であった。
マラリアにやられたから入院させてくれとか足にマメができて歩けないとか泣き言をいって全線へ出ようとしない(関西の)兵隊たちである。
『菊』の将兵は怒髪天を衝く思いだった。これだけの武器弾薬があるならなぜ俺たちに支給してくれなかったのだ。兵糧さえ与えてくれたら勝てたのだ。歯ぎしり、無念の涙をのんだフーコンの戦いであったのに…
 どうせ戦いに負ければ全部敵の手に渡ってしまう。それなら俺たちが分捕ってもう一度戦ってやる。
兵隊たちはそう言いあって次々に闇の中に飛び出していくのだ。
『安』はモウガンまで行軍してくる間に過半数の兵が落伍していたという。同じ日本人、同じ兵隊でありながらなぜこうも違うものかと精神力の差をまざまざ見せつけられた気がしてならなかった。
(光人社『菊と龍』P69~72,130)

282:名無しさん@お腹いっぱい。
22/02/03 10:29:55.28 Xs1QEWB50.net
『薩摩藩の人事評価』がツイッターで話題に。「現代にも通用する」「うちで採用してほしい」と賛成派の声多数
URLリンク(news.mynavi.jp)
日本企業では、長いこと「年功序列」という評価制度が採用されてきましたが、みなさんは、何でもって評価されるべきだと思いますか? 実は今、sem_masterさん(@semlabo)がツイッターに投稿したある評価制度が注目を浴びています。
URLリンク(news.mynavi.jp)
※写真はイメージ
もう評価制度はこれでいいのでは?
【薩摩藩の人事評価】
1,新たなことに挑戦して、成功した人
2,新しいことに挑戦したが、失敗した人
3,自分では挑戦しなかったけれども、挑戦した人を手助けした人
4,何もしなかった人
5,何もせずに批判している人
(@semlaboより引用)
この投稿を見た人からは、「これいい」「シンプルでいい基準だ」「うちで採用してほしい」「薩摩藩で働きたい」「2から1目指します」など、共感の声が多数寄せられていました。
また、「日本の大企業や役所は5が一番偉いのだ」「うちの会社では、5の人が出世しました」など、『5』が出世しやすい企業の体質に不満の声も。それゆえ、何もしない人よりも、たとえ失敗に終わったとて、そのチャレンジ精神は評価されるべきとする声も多く、「挑戦したか、どうかの評価基準は、いいですね!」「2が3よりえらいのが素敵」といった意見も目立ちました。
(略)

283:名無しさん@お腹いっぱい。
22/02/05 15:19:26.94 lnIUAzYJ0.net
【帝国陸軍の頭号連隊】東京第一連隊【一気呵成奪取の精神】
11月1日、玉(東京第1師団)の4隻はレイテ島オルモック湾に到達する。船団の内の1隻、能登丸は8割程度の揚陸が済んだころ、爆撃を受け沈没す。
11月4日、歩57(佐倉連隊)の佐藤第3大隊の占めたリモン北峠から、レイテ決戦の火蓋が切られる。歩1(東京連隊)は、現地35軍の作戦指導で、ピナ山への苦難の行軍を強いられていたが、状況の変化により、反転し、21日からリモン戦線に戦闘加入する。
ラポッグ上陸で、遅れて到着した歩1原口第2大隊(東京連隊)は、師団予備隊として温存させられていたが、砲兵陣地付近に迂回侵入した敵が、キライ高地(原口山)に陣地を占領しようとしたので、19日、この高地の戦闘に加入する。
キライ高地の戦闘は、レイテの戦闘のなかでも有数な激戦となる。南北4キロの細長い稜線上で、10日余りも激戦を展開し、一時は原口大隊が稜線の北端まで敵を追いつめるが、30日には敵の増援が加わり、一方補給のない原口大隊はやがて全滅の運命を辿る(『レイテ作戦の記録』田中賢一氏)。
12月2日、この日朝、歩1原口大隊に対する敵の攻撃は熾烈を極め、大隊長原口豊二大尉、副官寺谷晃中尉は、手榴弾、拳銃をもって敵と戦闘中狙撃されて戦死する。
大隊は500m後方に位置する第2機関銃隊中隊(すでに中隊長高島中尉は戦死)の矢島忠吉少尉以下僅か30余名となる。
矢島少尉は、残兵を指揮し戦闘を継続したが、12月5日に至り、一兵も残さず戦死する(第一師団レイテ会にて取材)。
東京からともに第1師団に赴任した同期の芳忠見習士官は、野砲兵第1連隊第1大隊付であった。
野砲はレイテ上陸直後より、激しい空爆と雨と泥濘に苦しめられる。牽引力である馬を失い、友軍の戦車に支援されるが、砲の陣地侵入は筆舌を絶する苦難の連続となる。万難を克服して砲列を構え、ようやく一弾発射するや、米軍火砲のお返しは15分間に4千発を数える。
12月に至るや、リモン戦線は敵味方入り乱れ、野砲陣地はすべて敵に包囲される。
12月20日、第1大隊は全員銃撃戦の末全滅す。火砲と運命を共とし、一兵も残さず。芳忠見習士官の命日は12月20日である(第一師団レイテ会にて取材)。
12月21日。第1師団はレイテ峠を撤退。1万3千人の内1万数百人がリモン峠の戦闘で戦死した。
昭和20年1月12日。セブ転進。4回にわたる輸送で743名がセブ島へ。以後は転進不能でレイテ島に2千名残留、全員餓死。
終戦までセブ島の戦死者288名、師団の生還者は455名である。
第1師団将兵の戦死は97%。
ちなみに、歩兵第1連隊(東京)は2550名の内生還者39名、戦死は98.5%(第一師団レイテ会にて取材)。
金井英一郎『ジーパン主計ルソン戦記』光人社NF文庫、122~124頁より


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