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松下村塾生
久阪は身を持すること謹厳方正、士卒と苦楽を共にし、営内に寄宿して居る。
久坂と高杉の差は、久坂には誰も附いて行きたいが、高杉には「どうもならぬ」と皆いふ程で、高杉の乱暴になり易いのには人望が少く、久坂の方は人望が多かった。
久坂の名は萩中に聞こえ居たり。君子の風あり、よく人を容る。性ははなはだ文才あり。
音吐明晰、鐘の如し。一見その風采の衆に秀出するを知るに足れり。
通武、人と為り公明誠実、音吐鐘の如し。常に諸子を率て東西に奔走す。人、皆推して盟主とす。
通武毎に謙譲して敢て居らず。然ども、事巨細となく通武に決せざるは無し。
其事を為に方て先ず衆を会し、慇懃事の本末を詳説し、胸襟を開て徐に其方略を議す。
人も亦其赤心に感じ、肝胆を碎て可否を論ず。故も以て事一も失墜なし。
奇兵隊士
高杉は直情径行、自我強く、部下の意見などは更に顧みず、無頓着無関心に只勇往邁進的であったに反し、久坂は深思遠謀よく部下の意見を容れ、衆智を集めて敢決断行の人であって、部下を愛する情至って深く、何れも心服して居た。
百話
慶応元年、長州藩の正義派が俗論党を捕え、巨魁を斬る時、巨魁らが語って言うには、今日久坂義助が居たとしたら、我らの死刑も免ぜられただろう、という。
これより前に水戸藩でも正奸両党の争いがあった。
奸党の巨魁結城寅壽が捕われた時、思わず呟いたのには、藤田東湖がもし居たとしたら、我らも極刑を免れたであろうが、今や東湖は死んでしまい、自分も免れることはない、と言い、結局彼は斬られた。