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おまけ
世良の手紙は会津が作ったと仙台が暴露
慶応4年8月29日(1868年10月14日)
仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を
歎願しようと正使氏家兵庫と副使堀省治を
熊本藩陣中へ遣わし、熊本藩は津田山三郎と
米田虎之助が応対した。この仙台藩の降伏交渉の際
仙台藩側は「会津藩が手を尽くして
本物のように見せ掛けた(拵えた)世良修蔵の
偽手紙に仙台藩を滅ぼすと書いてあったので
会津藩に味方すると決めて世良修蔵を殺害してしまったが
仙台藩には朝廷に背く意思はない」という
趣旨の弁明をし、世良修蔵の名で書かれた
慶応4年閏4月19日(1868年6月9日)付けの
大山格之助下参謀宛て密書は
会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。
また、福島城下・金沢屋について
遊廓・妓楼などと記した文献もあるが
実際には旅籠であった。