15/12/29 19:53:33.93 SS5xcP6T0.net
>>753
田中玄宰の「什の掟」の元は
田丸直昌(田中正玄の大叔父)が田中正長(田中正玄の父)に授けた家訓を範として田中正玄が作った田中正玄家訓13条だが、
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田丸直昌は織田信雄、羽柴秀吉に仕え、その後蒲生氏郷の与力として組み込まれ、蒲生氏が会津に転封されるとこれに従い須賀川城主となった
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一方、武田信玄の側近中の側近・曽根昌世は、武田勝頼が滅亡すると徳川氏に仕え、その後は蒲生氏郷に仕えて会津若松城の縄張りを行った
昌世は武田信玄から軍学や築城術などを直接学んでいたと言われており、これらの技能に精通していた
昌世の会津での仕官のほかに、後世において保科正之の領地となるなど会津は武田家と縁のある土地であり、
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会津の大東流合気柔術の創始者・武田惣角の先祖は甲斐武田氏の系譜
武田信玄が亡くなった翌年、武田氏と親交があった会津の蘆名氏に協力を求めるため、武田氏から蘆名氏に、
武田国継が武田信玄の遺書を持って遣わされ、織田信長と徳川家康によって甲斐武田氏が滅ぼされた後、
武田氏の血脈を残すために武田国継はそのまま会津に留まり、織田信長による武田の残党狩りを逃れるため、
三浦平八郎盛重と名乗り、会津の蘆名盛氏に地頭として仕えた
その後も武田家は会津に留まり、蘆名氏、蒲生氏、加藤氏、会津松平氏(保科氏)に仕えた
武田惣角はこの武田国継の子孫である
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このように会津と武田氏は、蘆名氏・蒲生氏の時代から(保科氏・松平氏の時代まで)密接に関係がある
よって、会津の家訓が武田氏の家訓の影響下にある可能性は否定できない
>長沼流は甲州軍学
長沼流
内容は、集団戦術を重んじる甲州流をベースに明の兵制を加味したもの
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>保科家も田中家も信州高遠ね、甲州じゃないよ
保科正之は、養父が甲斐武田氏の家臣の長男、養母が武田信玄の次女
田中玄宰の先祖・田中正玄の祖父は武田信玄に仕えた
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>甲州「最後はまとまりなさい」と会津「ベラベラと議論などするな、始めから年長者に従え」は違う
>「会津人は議論が出来ないからその会津人のために”議論なんか一切せず上に従え”という会津の掟が作られた」
早くクソ田舎会津の人間が議論できなかったというソースを出せよw
出せないならお前の妄想だろwwwww何回言わせるんだwwwwwww