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小野家と小野組は同じではない。京都にいた小野家は支店などないただの近距離限定の行商人の集まりだった。
小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年(寛文2-3年)ころ次男の主之が盛岡に下り、近江屋と称し、村井権兵衛を名乗った。
甥の子どもである盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助(1708年上洛)京都の鍵屋の小野権右衛門、南部盛岡で「紺印」の祖になった小野清助らがこれに協力した。小
野一族は、上方から棉・木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。