坂本龍馬と薩長at HISTORY2
坂本龍馬と薩長 - 暇つぶし2ch443:坂本弁証人・でん次郎
10/12/07 21:54:31 /o70qRQL0.net
6月28日の手紙は元治元年(1864年)6月8日の中川宮に陥れられ切腹した平井収二郎の一周忌に
坂本家の家門の付いた片袖を佐那に残して収二郎の弔いを決意した後に
千葉家での心遣いを想い龍馬が佐那との愛の情事の証を乙女に告げた手紙であって
文久3年(1863年)6月29日の手紙の前日では龍馬がここまで赤裸々に乙女に報告する意味が無い
そもそも同年8月14日の手紙が最初の佐那の紹介なのだからそれ以前の赤裸々な手紙はありえない
文久3年の収二郎が切腹した直後にこんな手紙を出したら故郷の坂本家は佐那を白眼視してしまう
だが実際に坂本家で白眼視されたのはお龍であって
その事実もこの手紙が元治元年6月28日のものである証拠である
文久3年(1863年)8月14日の手紙については暗示であり千葉家との両家の証にはなっていない
恐らく龍馬の初恋の女性は佐那の姉の里幾だったのだろう
里幾は優しく亡き母の様に一人江戸で剣術修行する龍馬を支えていたはずだ
土佐の実家には里幾の話ばかりしていて自分より剣術に優れた佐那に臆するところがあった
だが龍馬が江戸を離れた半年後に初恋の女性里幾は労咳でこの世を去った
加尾は幼馴染で龍馬にとって妹のような存在で龍馬の初恋というより加尾の初恋である
加尾の為に脱藩し大坂を出て江戸の千葉家を頼ると龍馬は佐那にどう接していいか分からなかった
だが佐那は姉の里幾が他界すると自分が龍馬の妻になると決心し
岡田星之助の悪意の有る強引な求愛を舌を噛み切る覚悟で拒んだ
文久3年(1863年)2月5日龍馬が星之助との真剣勝負の決闘に勝つと江戸で二人は結ばれた
だが平井収二郎が土佐に送還されると雲行きが怪しくなり
即正式結婚即土佐へ帰藩という訳にはいかなかったと思われる
文久3年(1863年)3月から文久4年(1864年)6月まで龍馬が江戸にいる時は二人は愛し合った
だが残念ながら佐那との間に子は出来なかった
龍馬としては道場に鳥取藩士がいて重太郎も鳥取藩に仕えている状況で心が休まる事は無かった
佐那は物静かな女で龍馬に抱かれるときも受身だったのだろう
男性経験の乏しい佐那はそれでいいのだと思っていた
だが龍馬は一方的な愛し方よりもっと女性に癒されながら相互に愛し合う方を望んだ
元治元年(1864年)6月28日の手紙には男にしか分からない性に対する切実な欲求が感じられる
二人の間には時間と精神的余裕が足りなかった
見事奸物中川宮を討ち果たせれば二人は幸せに暮らせただろう
6月28日の手紙は「ねぶと論」などではなく真実は「妻の小町の手紙」である
維新後佐那が針灸を営んだのはもっと龍馬を癒してあげればよかったという想いがあったのだろう
千葉佐那の墓石には坂本龍馬室と刻まれている


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch