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慶応2年12月4日(1867年1月9日)の権平への手紙に於いて
「黒木半兵衛とて千葉十太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず、人是をおどろく。」とあり黒木半兵衛とは鳥取藩士黒木小太郎の事で岡田星之助と共に千葉重太郎の門下であるが
龍馬と星之助の一対一の真剣勝負に於いて岡田の同郷の士でありながら冷静に勝負を見届けた
龍馬は自分の死を覚悟して岡田星之助に対し決闘というチャンスを与えた
場合によっては佐那は岡田に奪われ桶町千葉道場は岡田が継ぐ事になっただろう
だが重太郎は師範代として龍馬と星之助ではどちらが勝るか分かっていた
福井藩士山本龍二の晩年の話では
「同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが、
暴行を働いた時など、彼らは直ちに斬って捨てた。」
とあるが剣術の師を侮辱しその妹を強引に犯そうとした事は士道に反し万死に値する
だが岡田星之助は本来切腹すべきところ死を恐れ師を侮辱し京に逃げた
「偽浪の事を話す」のニセは福井藩士でありながら勝手に浪士組に加わろうとしたという意味と
「士にあらず」という意味である
「必ず割腹させる」には「させた」ではなく「必ずさせる」にある決意が籠められている
「水夫頭の三吉」の水夫頭とは湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を強姦した4人の与力達の事で
「三吉」とは三助と同格の産キチ(ガイ)与力という意味である
会津民謡「会津磐梯山」の「小原庄助」とは「汚胎娼好け」又は「悪腹産助」という意味が籠められ
いろは丸事件の談判で劣勢の海援隊の起死回生策として紀州を皮肉る歌を流行らせたのと同じである
4人の強姦与力も逃げずに切腹していれば後の会津の悲劇は起こらなかっただろう
文久3年(1863年)6月29日のせんたくの手紙において福井藩から2度の仕官の誘いがあったが
龍馬は2度とも仕官を求めなかったとしている
文久3年(1863年)2月25日龍馬は脱藩罪を赦免され
同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ佐那のいる江戸で過ごすが
江戸を出て大坂に帰着するのが同年4月9日だから3週間は江戸にいた
江戸にいた同年4月2日の大久保一翁への挨拶は松平春嶽への書状の依頼であるが
脱藩罪赦免の力添えのお礼なのだろう
千葉重太郎の計らいだと思われる
大久保一翁は松平春嶽と交友があるので
2度の福井藩の仕官の返答はこの時と同年1月25日の大久保一翁を訪問した時の筈だ
重太郎が仕える鳥取藩には岡田星之助を決闘で斬っているので龍馬は仕官できない
龍馬は手紙で「然に龍馬少しも仕えを求めず」として仕官は求めなかったが断った訳ではない
横井小楠は松平春嶽に願い福井藩から2度龍馬を藩に召抱える使者を出す
重太郎の思惑もあっただろうが横井はまるで親族のように龍馬を心配した