坂本龍馬と薩長at HISTORY2
坂本龍馬と薩長 - 暇つぶし2ch326:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/27 23:11:55 r90e66Vp0.net
大政奉還しようとも領土と幕軍が健在なら
自動的に徳川家が今まで通り諸侯のトップの座に収まるからな
慶喜もこの時は保身のために受けた
んで王政復古の大号令

327:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/28 00:01:44 0aReyhJU0.net
木戸と龍馬の手紙のやり取りで狂言とか大芝居の一件って言葉が出てくるけど
大政奉還のことなのだろうか

328:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/28 00:09:20 kbIRK2cPO.net
狂言=大政奉還
大芝居=倒幕
ってことでしょ?

329:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/28 09:22:49 Lic3UVFF0.net
>>303
>武市は過激思想で京都で勢力拡大
何、「過激思想」って?
攘夷思想は屈辱外交拒否・植民地化拒否って言う極めて真っ当な思想だし、
「過激派」にはなり得ない。
佐幕派全体が土佐勤皇党をつぶし龍馬・慎太郎を暗殺するほどに超ウルトラ過激派だっただけ。
司馬遼太郎の歴史改竄小説に騙されてちゃいかんな。
戦争で負けたわけですらないのに、
不平等条約を異勅で勝手に締結し、
函館、新潟、横浜、神戸、長崎を治外法権の実質割譲地として欧米列強に差し出そうとし、
逆らう者は徹底的に弾圧するという佐幕派全体が
自己保身に狂っているだけの低脳国賊かつ過激派であることは極めて明瞭だろ?
そういう低脳国賊かつ過激派がどういう形であれ処罰されるということは、社会として独立国として極めて健全である証。


330:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 14:22:35 C8JTnQLi0.net
>>316
大政奉還で先手打たれたor騙されたと臍を噛んだのは薩摩などの倒幕派&幕府in江戸や会桑の幕権派だろう。
倒幕派は討幕の密勅とか無駄になったんだし。
んで王政復古で倒幕派が巻き返したんだけど、小御所会議では容堂公や春嶽侯が頑張って
再びケーキちゃん(幕府は無くなったので徳川家)有利に傾いてた。
んだが、割と蚊帳の外だった江戸の幕権派が、乗ったのか乗せられたのか知らんが
会桑らの中に薩摩藩邸討伐って爆弾放り込んで鳥羽伏見が起きちゃった。
あわれ容堂公や春嶽侯の努力は水泡と消えましたとさ。

331:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 14:53:22 DIAoXjp1O.net
ただ大政奉還には薩摩の小松帯刀も尽力してたよね
結局大政奉還って何なの?

332:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 14:58:33 BaTvTuXT0.net
徳川排除による政治体制が究極の目的なら、大政奉還などアホ以下の物でしかなかった

333:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 15:02:53 1p8MM5X00.net
大久保一蔵も日記で「慶喜は大政奉還したというのに未だに権力を
持っており、このまま真の大政奉還を実行しなければ、慶喜への疑いは
晴れない」みたいなこと書いてる。大久保も大政奉還に期待してたみたいだね。

334:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 16:40:11 Y2RWC0Wp0.net
>>322
ちゃうちゃう
倒幕方の最終要求ラインは幕府の辞官納地。
徹底して骨抜きしなきゃ、未だ強大な幕府軍がどうリベンジしてくるか分からない。
大政奉還如きで


335:事が収まるなんて現代の平和ボケした論点だよ



336:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 17:03:59 RE+RVnBg0.net
>>326
その通り。
大政奉還は最もスムーズな倒幕のための一里塚に過ぎない。
龍馬自身、土佐藩に大量に武器を買わせて武力倒幕に土佐藩を備えさせている。
NHK龍馬伝が、またまたどういうデタラメを公共の電波で垂れ流すか?を監視してないといけない

337:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 18:58:54 2M0gbguY0.net
>>323
大政奉還とは、大奥や徒食旗本等を解雇するために、幕府を形式として消滅させる、ということ。
京都で徳川慶喜が新政府を諸藩と一緒に作れば、江戸の幕府連中の干渉は入りにくい。
ほら、星亮一(会津偏愛小説家)が、気に入らない自分のとこの会員を叩き出すために、
ファンクラブを解散して即お気に入りだけを選んで再建したじゃん。それと同じだよ。
但し、大政奉還の場合は日本国政府の地位を朝廷に返上することであり、
朝廷が新政府を認定する権利を保有することとなった。
そのため、一旦大政奉還を行ったら、徳川慶喜は朝廷を納得させない限り新政権を作れないし、
朝廷が他者に新政権の座を与えたら、そちらに新政権が移ってしまう。
徳川慶喜にとっては大政奉還は大失敗であり、討幕派にとっては大政奉還は望外の大成功だった。

338:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 19:08:45 RE+RVnBg0.net
>>328
>大政奉還とは、大奥や徒食旗本等を解雇するために、幕府を形式として消滅させる、ということ。
?????
イミフ

幕府が旗本解雇とかを考えていたのなら免職したり禄高を下げたりすればいいだけの話。

339:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 00:37:40 BuChfzY70.net
結果論だと倒幕側に有利に働いたよね。
しかし武力倒幕を見越しての大政奉還にしては小御所会議で難航し、戦いに持ち込むのも強引な感じ。
やっぱり政権を返上するとは思ってなかったんでは、四候会議の慶喜の態度を見ても。
木戸も狂言と言うくらいだし。

340:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 00:44:32 hJ/K8Ern0.net
そもそも「王政復古=倒幕派」なのであって「討幕派」じゃないのがミソさ。
だからこそ王政復古に親徳川の土佐・福井そして尾張徳川家が協力し、薩長と共に兵を動かした。
そして、討幕派=薩長の2に対し、倒幕派=土佐福井尾張徳川の3。2:3で親徳川が有利だったんだよ王政復古w。


341:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 01:04:40 hIcfgt3c0.net
親薩長系の安芸と宇和島が抜けている。
王政復古で小御所会議の役に付いた諸侯は、
尾張越前も含め、会津と桑名に対しては排除する意向を示していた。
徳川慶喜は、小御所会議の諸侯か、会津桑名か、どちらを支持基盤にするかに迷った挙句、
薩摩の江戸襲撃によって起こった、会津桑名の暴発を押さえられずに、
朝廷と小御所の諸侯全体を敵にした形で戦いを始め、自滅する。

342:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 05:19:57 ZyuxxXcF0.net
薩長も大政奉還をある程度認めてた(どうせ無理だろうけど「実権」返上するなら)
でやっぱり政権返上しても慶喜が主導権、実権を握ろうとした。
な?やっぱ実力行使しか無いわw・・となった。

343:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 11:13:36 a/kd35Kv0.net
徳川宗家のフランス式近代陸海軍が揃ったら、鹿児島城下が焼き払われるのは目に見えていたから
薩摩としてはリスクはあっても、弱いうちに倒幕に向かわざるをえなかったと思う。
長州はもう戦略以前に感情的に倒幕だし。

344:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 11:17:31 y/JNIWAI0.net
>>329
まぁそれだけのことだが、難しいんではないかな。
実際に原市之進は、その旗本に暗殺された訳で。
徳川家中の問題でもある以上、幕府解体してどうなるもんでも無いとも思うが。

345:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 11:57:22 6s57Pxk7O.net
財政の問題が大政奉還の後押しをしたかは分からんな。
ただ旗本・御家人・大奥女中という無駄の多い徳川家の体制を切り替えようとする試みは歩兵隊や海軍を組織する中でも見られた。
大政奉還をするしないに関わらず家中のリストラは段階的に進めたんじゃないか?

346:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 13:17:14 6Qqu2kleO.net
王政復古のクーデターは
大政奉還で幕府が無くなりただの徳川家になったから上手くいったのである。

幕府でない徳川家には薩摩のクーデターを強行策で止める大義名分が無かった。

347:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/31 15:42:52 OGxwlEL+O.net
大政奉還がワンクッションになったからこそ王政復古がスムーズにいったわけか

348:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 01:30:50 LmkktajvO.net
サツマイモと鰹のタタキと河豚かぁ。

349:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 03:30:16 efVAM6mi0.net
サツマイモ・鰹のタタキ・河豚VS朝鮮人参

350:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 06:51:08 KHPl7zVP0.net
萩名物は夏みかんだろ。

351:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 08:58:21 f7D55G+bO.net
大政奉還に武力倒幕を目論む薩長が焦ったとかよく言われてるけどこれ根拠ないよね

352:坂本弁証人・でんじろう
10/11/01 21:54:23 pGVeKMNE0.net
加尾に追い出され京を出た龍馬は文久2年(1862年)6月11日に大坂で沢村惣之丞と会い
同年7月23日大坂で桶口真吉に会って1両の金を借りているがこの金は江戸への船代だろう
この頃の龍馬は主に大坂に潜伏していたと思われる
楢崎将作の死を文久2年(1862年)6月20日とするのはお龍の「反魂香」からの引用であるが
文久2年(1862年)1月20日に死んだ将作の命日を
お龍が龍馬を偲んで同年6月20日に言い換えたもので
「父も此れくらいは許してくれる」という気持ちで偽ったものだ
六角獄舎や武信稲荷での龍馬の話はそれを口実に中川宮の淫行を粉飾している
ただしこれは加尾に追い出された龍馬が文久2年6月20日以降に一旦京に戻ったことを暗示している
中川宮に狙われたお龍が龍馬という武者を失い維新後に釈放された中川宮の影響力を恐れての偽装と
龍馬の真の婚約者である千葉佐那に対して対抗するお龍の詭弁を奸物が利用しているのだ
お龍の云う文久2年6月20日は大坂に売られた14歳になった光枝を取り返しに行って暴れた日で
加尾に追い出され大坂で希望を失いかけていた龍馬が悪党との間に入りお龍に助太刀した日である
龍馬の手紙ではこの日のお龍の状況をかなり詳しく書いてあるので龍馬自身が見た儘を書いたものだ
慶応元年(1865年)9月9日の乙女への龍馬の手紙で京の嶋原遊郭に売られた起美については
「としもゆかねバさしつまりしきづかいなし」
(幼かったので差し当たり気遣い無し) 
としているが当時の遊郭では12歳以上だと「としもゆかねバ」とはならず
この記述から起美が10歳(数えで11歳)の文久2年に於ける事件であることが分かる
大坂の女郎に売られた光枝については気遣いについての記述が無く
盗賊に家財道具を奪われ当座の資金も無く片道の船代の着物を売るのに手間が掛かり
京から女のお龍が一人で追い大坂で光枝達を探す事を考えると恐らく間に合わず
美人のお龍や起美に似た年頃の14歳の娘はすでに散散弄ばれた後だった筈だ
お龍は光枝の様子を見るや悪党を召集した中川宮に聞こえるように命を張って大立ち回りをし
そこへ偶然居合わせた龍馬が現れて光枝の貞操を奪ったことを理由に悪党から光枝を奪い返した
この時はまだ龍馬とお龍の間に愛は芽生えていないが
龍馬はお龍から執拗な奸物中川宮の非道を知り楢崎家の置かれた切実な状況を目の当たりにした
中川宮ら悪党はお龍が着物を売っても船代片道分にしかならないと分かっていたから
この時大坂からの女二人の夜道を襲うつもりで待ち伏せしていた筈だ
だが龍馬はお龍と光枝を船で京まで送り嶋原遊郭の起美を龍馬の脱藩資金で救出した
お龍が一人で大坂に乗り込んできたということは将作死後は勤王家の志士との縁が無い事が分かる
龍馬は京に居る長州藩士を探し元長州藩士楢崎家で起こっている惨状を訴えた
この時龍馬は淀川の船宿寺田屋のお登勢と知り合い
お登勢は悪党から3人の女達を救った龍馬に感服した
そしてお龍は亡くなった勤王家の父の再来のように龍馬を思慕した
これが「反魂香」に於ける楢崎将作の命日の文久2年6月20日の真実である
異常性欲を満たす為なら幼い子供さえも陥れる卑劣極まりない奸物中川宮の誘拐教唆の犯行に
龍馬はこの国を根本から正さねばならないと決意した
この事があって坂本龍馬は横井小楠に師事することになる
文久2年(1862年)7月大坂に戻った龍馬は脱藩時に持参した金を起美の奪還に使い切り文無しになり
桶口真吉に借りた1両の金でやっと千葉重太郎のいる江戸に向かった
只管美女二人を待っていた中川宮達悪党一行は落胆した面持ちで大坂から京の船着場に着いた
それを見てお登勢は「為て遣ったり」と喜んだ
龍馬は加尾の置かれた状況をまだ知らない

353:坂本弁証人・でん次郎
10/11/02 02:10:43 Xki3dP3K0.net
でんじろう先生と被るので改名します

354:坂本弁証人・でん次郎
10/11/02 21:54:24 Xki3dP3K0.net
龍馬が楢崎家の為に長州藩士を探して奔走している間に
土佐から岡田以蔵が京にいる加尾の警護の為に土佐勤王党を除名されてやってきた
龍馬は以蔵を見たかもしれないが脱藩の身であるため会うことは出来ない
以蔵は在京の長州藩士や攘夷派志士から龍馬が勤王家楢崎家の娘達を救ったことを聞いた
寺田屋のお登勢の話から攘夷派志士ではすでに龍馬は伝説になっていて
この話は薩摩の田中新兵衛にも届いていた
この時岡田以蔵は田中新兵衛と知り合う
以蔵が加尾の家を見張っていると猿の文吉が張り付いていた
以蔵が文吉を追跡調査すると文吉は養女を青侍島田左近の妾にしてその手先となっていた
紀州藩と親密で女癖の悪い九条尚忠に仕える諸大夫の宇郷重国と青侍の島田左近は
安政の大獄で攘夷派志士を弾圧していた
文久2年(1862年)7月20日島田左近は田中新兵衛らによって暗殺される
田中はこの時はまだ岡田の真意を知らず勤王家楢崎家の復讐として九条の青侍を殺害した
武家の未婚の絶世の美女は密室にした女湯で代わる代わる強姦しては湯で洗い流しまた強姦し
4人の与力達が飽きるまで絶え間なく強姦するという残酷なやり方で弄ばれた
与力達は絶世の美女との又と無い好機に夕刻の帰宅時間まで寄って集って美人の娘を陵辱した
もともと与力は不振な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
女湯が種付けと称して封鎖されるのは珍しいことではない
覚えの無い旦那はその子を人にやるか売るか捨てるかして悪党に落ちぶれる者も中にはいた
男が女湯に堂々と入れるのは種付け与力と三助だけであるから強姦与力はすでに判明している
この4人の与力も安政の大獄下で攘夷派志士の弾圧に加担していた
問題は髪型を見て武家の未婚の娘であることが判っていながら集団暴行事件を起こした背景である

355:坂本弁証人・でん次郎
10/11/02 22:19:58 Xki3dP3K0.net
>もともと与力は不振な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
>もともと与力は不審な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
に訂正

356:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/02 23:18:25 M4wM19u30.net
>>346
ウラヤマシス↑↑↑。

357:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 15:26:35 O3/8YDv60.net
そもそも
幕府、見回組説だったら暗殺する必要ないよね
堂々と捕まえればいいだけ

358:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 16:21:09 lHYJyjEqO.net
>>348
捕縛禁止命令出てなかった?

359:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 19:10:28 SuBiEdim0.net
>>348
三条辻の事件
(三条辻にあった旧幕府掲示物が破壊されたので、新撰組が犯人を捕縛尋問したら、
そいつは土佐藩士だったので、土佐藩を味方に付けたい京都の旧幕府上層部が慌てて釈放し、
逆に新撰組が処分された)
これを考えると、旧幕府側は当時土佐藩の庇護下にあった坂本龍馬を
正規に捕縛は出来ない。君の説には根拠がない。

360:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:10:52 ZWFgavod0.net
いや龍馬暗殺後は、土佐藩はけんもほろろという突き放した態度だったが

361:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:11:15 IzP1v4q80.net
>>342
薩長内部でも意見が統一されていたわけじゃないからね。
リスクの大きい武力討伐はやりたくない人間が大勢いるのは当たり前。
逆を言えば武力討伐をやりたい側の一部の人間が暴走する可能性は
無きにしもあらずだが、それ以上の事は分からないだろうな。

362:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:19:14 SuBiEdim0.net
>>351
暗殺直後に、新撰組犯行説が一般に信じられたからね。
これも結局は会津藩傘下だから、幕府上層部が暗殺について発言を避けても
土佐藩は、山内容堂一人を置いて一層討幕に走ることとなった。
会津は、坂本龍馬暗殺が土佐藩を討幕に向かわせるということを、考慮すべきであった。

363:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:44:18 3HbimVcK0.net
>>352
大政奉還があったお陰で武力倒幕のリスクはぐんと下がったと思うのだ�


364:ェ



365:坂本弁証人・でん次郎
10/11/03 21:54:24 zpOSY7Ld0.net
岡田以蔵は龍馬の楢崎家救済の縁で長州藩士と交流し新たな情報を得た
国学者長野主膳は井伊直弼の懐刀として安政の大獄を推進し島田左近らを使い朝廷工作をしていた
女癖の悪い九条尚忠に仕える青侍島田左近が集めた金は一万両にもなり
その金は九条尚忠や長野主膳に回りその遊興費となった
楢崎家の二人の娘を誑かしたのは嶋原遊郭の近くに住む長野主膳の愛人の村山加寿江とその息子で
息子の多田帯刀は長野主膳が打首されると遊ぶ金に困り起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
公卿方の人入れ稼業の平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛は中川宮の手の者に懐柔され悪党を雇い
将作没後の楢崎家から家財道具を盗ませそれを横流しして楢崎家の資金繰りを悪化させ
寺田屋事件に於ける急進的攘夷派粛清後の大原重徳の勅使の際には青侍として随行し
各地の役人に近々品のいい美人の未通娘を買い入れると吹聴してその「旦那」の呼び込みとなり
「交尾合体派」を集め起美の水揚げの手付金を徴収していた
平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛は中川宮の手先の言う「公武合体」を「交尾合体」だと信じて疑わなかった
寺田屋事件で一旦は急進派を粛清させた薩摩藩は文久2年(1862年)8月21日帰京中に生麦事件が起き
同年閏8月6日勅使一行が上洛すると薩摩藩は攘夷の先鋒として期待され閏8月23日京を出て帰藩する
この時すでに起美は龍馬が談判して嶋原遊郭から救出されていて
大原の勅使に随行しながら「旦那」を呼び込んだ平野屋と煎餅屋は役人達から吊し上げを食う
以蔵は大坂で足止めされている山内豊範の参勤交代一行にこれまでの報告をした
すると文久2年8月2日土佐藩下横目の井上佐一郎が探索していた
井上は岩崎弥太郎と共に行動していたが岩崎は極秘情報を得て先に帰藩していた
以蔵らは井上を酩酊させて首を絞め脇差で刺し殺した
文久2年5月21日に薩摩藩一行が京から江戸に向かった後での京の風紀の乱れの原因は
京に潜入させ中川宮に女心を弄ばれた加尾の犠牲によって
勤王家楢崎将作を嬲り殺し大坂に住居を移した奸臣池内大学の教示で公武合体派となり
合体に邪心を抱く奸物中川宮であることが断定した
文久2年閏8月20日中川宮と山内容堂との間での攘夷督促勅使の問題で攘夷派を装いながら
「公武合体派」中川宮の側で合体の実用性を説く本間精一郎を平井収二郎らは天誅として殺害した
以蔵はこの殺害に田中新兵衛を同行させ真実を話した
文久2年閏8月30日猿の文吉の屍骸の高札には「いぬ」と書かれていた

366:坂本弁証人・でん次郎
10/11/03 22:44:01 zpOSY7Ld0.net
>息子の多田帯刀は長野主膳が打首されると遊ぶ金に困り起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
>息子の多田帯刀は長野主膳が文久の改革で糾弾されると遊ぶ金に困り
>起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
に訂正


367:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 23:36:59 m1da2IyfO.net
薩長同盟も大成奉還も龍馬ではないと言う説が根強い9割は創られた群像坂本龍馬が正しいのでは
徳川光圀同様であろう、但し、坂本龍馬は当時は全く無名で何故司馬は龍馬を題材にしたのだろう?


368:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 00:29:15 tnjYuQKO0.net
無名ということはない。戦前の坂本龍馬は征韓論の先駆者、大陸浪人の鑑とされていた。
(これは明治維新後に後藤象二郎が、彼の持論の征韓論の補強に、
征韓論を坂本龍馬と西郷隆盛の遺志扱いして触れ回ったためであり、
この両人共に、後藤の考えた征韓論は実際は口にはしていない。)
司馬は元々は、時代小説家ではあったけれど、特権主義旺盛な武士が嫌いだったんだよ。
坂本龍馬は豪商の分家(本人は郷士)
大村益次郎は村医者
土方歳三は商家の次男
高杉晋作すら、特権意識旺盛な上級武士という実像は隠して、奇兵隊と平等主義を中心に描いた
西郷隆盛と大久保利通は、作品途中で「武士」とは何かという設問でわけが分からなくなって放り投げた
それを後になって、武士の品格だか品位だか持ち出して、特権意識を振りかざせば社会が良くなる、と考えた人間が
盛んに司馬の文章をつまみ食いしてひけらかした。本来の趣旨が否定された。

369:坂本弁証人・でん次郎
10/11/04 00:41:42 eXSCP5CJ0.net
龍馬を無名と抜かす奴は龍馬の手紙も読まないでこのスレに常駐する低脳
慶応3年6月24日の龍馬の乙女への手紙より
御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこく(他国)に出かけ候御つもりのよし。
右ハ私が論があります。
今出てこられてハ実ニ龍馬の名と云うものハ、もはや諸国の人々しらぬものもなし

370:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 02:17:24 oYNXThU/O.net
コジキに近い生活をしながら朝廷工作をやってた陸奥の親父でさえ坂本を知っていたらしいからな。
神戸の海軍学校の生徒総務、越前公の茶飲み友達、高級幕府官僚大久保一翁の書生
色んな側面がある

371:坂本弁証人・でん次郎
10/11/04 03:28:14 eXSCP5CJ0.net
色んな側面は大切だ

372:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 09:46:06 WTpSU6ck0.net
大政奉還後の坂本の構想は、慶喜を初代大統領にして、慶喜死後に、
大統領選挙をするというもの。

373:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 16:32:28 0+kAG2V60.net
>>362
木戸とか西郷とかは名前がちゃんとあるのに、
慶喜って名前すら入ってなかったような・・・・

374:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 17:43:27 tnjYuQKO0.net
しかも坂本龍馬・中岡慎太郎が同時に手がけていた薩土盟約では、
坂本龍馬本人が、「大政奉還で討幕の功績をあげ、薩摩に土佐のことを信じてもらおう」
と言った記録が土佐藩側に残っている。
大政奉還の折衝中、坂本は京都の幕府閣僚には、慶喜が首長となる政府案を提示しただろうけど、
本心はどこにあったのかというと、むしろ自らが先頭に立って進めてきた、薩長に土佐を加えた討幕運動なのではないか、
海援隊の、薩長側武器商社や討幕側の私設海軍としての活動を考えると、
大政奉還促進は、和平ではなく戦争へ向けた、幕府の弱体化を狙った活動ではなかったかと思われる。

375:坂本弁証人・でん次郎
10/11/04 21:54:28 eXSCP5CJ0.net
文久2年(1862年)安政の大獄で攘夷派志士の弾圧をしていた4人の与力達は
連日早朝の湯屋で武家の未婚の美人の娘がまるで旦那に抱かれた後のように後処理をするのを
女湯に入り羨ましく見ていた
与力達はそれを安政の大獄で南紀派を支持した女癖の悪い九条尚忠に仕え
攘夷派志士の弾圧をしていた諸大夫宇郷重国と青侍島田左近に知らせた
楢崎将作を嬲り殺した後で公武合体派となり女癖の悪い九条と連携する中川宮はその話を聞き
女癖の悪い九条尚忠の飼い犬の4人の与力達にその武家の未婚の美女を湯屋で犯すよう指示した
武家の未婚の絶世の美女を密室の湯屋の女湯で与力達に絶え間なく犯させ抵抗心を失わせると
中川宮はその武家の美人の娘を自分の屋敷に呼び寄せた
二人きりの部屋で湯屋の件を切り出すと武家の娘はよろめき抱き寄せても抵抗は無かった
それから連日のように中川宮邸に呼び出しては若い武家の美女の身体を散散弄んで陵辱した
武家の美人の娘は中川宮の子を宿すように兄から指示され言い成りだった
盛りのついた狐の中川宮は陰惨に陵辱できる玩具としての淑女だけが欲しかった
悲壮感の無い女に飽きた中川宮は出入りする本間精一郎を弟分として可愛がり
武家の美人の娘を無抵抗にさせて犯させ眺めて楽しんだ
中川宮に似て女に溺れる越後の商人出の本間精一郎は
夢にまで見た身分不相応の上級武家の絶世の美女との本格的合体に歓喜して精を放った
犬猫同然の猿の文吉はそれを羨ましそうに眺めていた
平井加尾はもう耐えられなかった
文久2年(1862年)閏8月20日本間精一郎は中川宮から貰った金で嶋原遊郭を豪遊した帰りに
平井収二郎及び岡田以蔵ら土佐藩士と田中新兵衛によって天誅として殺害された
九条家諸大夫宇郷重国は九条家河原町御殿に潜伏していたが
同年閏8月22日の宇郷の殺害犯を岡田以蔵らとする根拠の「官武通記」は会津寄りで虚偽である
実際は中川宮が攘夷派による天誅の矛先を九条家に向ける為に側近の有馬範顕にやらせたのだ
同年閏8月30日猿の文吉の屍骸の肛門には竹が刺さり頭まで突き抜けていた
以蔵は込み上げる悔しさを竹に籠めながら「いぬ」の「頭」まで突き刺した

376:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 06:22:21 yH3cR6hp0.net
>>363
坂本の政権構想のトップは、空欄になっていた。

377:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 08:47:14 YMbZeIPo0.net
夜に坂本と中岡が襲撃された時、土佐藩邸から100mも離れていない近江屋
での騒ぎでありながら、朝までの数時間も放置状態だったらしいね。
近江屋の隣に居を構えていた土佐藩重役の福岡藤次なんて襲撃時騒ぎを聞いて
いたのにもかかわらず、事件後も近江屋に行こうともしなかった。
なんで土佐藩はこんなにも坂本や中岡に冷たかったんだろうか。

378:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 10:01:39 qwqEu5bY0.net
それだけ嫌われてたって事なんだよボケ!!
その程度の事すら分らんのか?

379:坂本弁証人・でん次郎
10/11/05 21:54:24 /oh5gVXM0.net
本間精一郎は越後寺泊の豪商の家系の士で金には然程困らなかったが酒と女に溺れやすく
商売柄か特に女は金と浅知恵次第でどうにでもできるという自信過剰な性分であり
武士ではないため芯が弱く頼るものは自分が得た知識だけだった
そんな本間を士として支えるものは知識人との交流から得た情報のみである
本間は安積艮斎に師事し幕臣川路聖謨に仕えて京都に随行し
攘夷派の頼三樹三郎や松本奎堂らと交流する
だが安政の大獄で入獄すると商人出の故に伏見獄舎の獄内で悪党と交流し悪知恵を身につける
出獄すると伏見稲荷の悪党の伝で大獄でまだ永蟄居の姦淫坊主中川宮に出入りする
その後大坂で塾を開く松本奎堂と松林飯山に会い交友を深めるが
これが本間の拠点を京と大坂に置く口実となった(又松岡学舎・文久元年12月~文久2年5月)
岩崎弥太郎は松林飯山が教鞭をとる五教館で学んでいたことがあるが
岩崎は文久2年(1862年)4月8日の吉田東洋暗殺事件を松林に相談しそれが縁で本間を知る
大坂の酒場で本間の内輪話を聞いて驚愕した岩崎はそれを同僚の井上佐一郎に話した
岩崎が帰藩した後の文久2年8月2日井上は岡田以蔵らに酔った勢いでその驚愕の話をした
以蔵は井上の口を塞がなければならなかった
中川宮の侍講の奸臣池内大学は安政の大獄で軽い処分で中追放され京から大坂に寓居を移した
本間は商人出の池内と好を結び池内の指示で土佐や薩摩の探索に赴き
節操のない中川宮を教示する大坂の奸臣池内大学にそれを報告し指示を仰ぎ
京に戻り蟄居中の中川宮にそれを伝え奸臣池内大学と姦淫坊主中川宮との重要な情報網となっていた
本間は文久2年(1862年)1月20日勤王家楢崎将作を嬲り殺しにした中川宮に公武合体派へ転向と
お龍を盛りのついた中川宮の異常性欲から守る為に嬲り殺しにされた将作の死は
寺社奉行管轄内の病死扱いにするという奸臣池内大学の教示を伝えた
本間は攘夷派と称して勤王家楢崎将作没後の楢崎家を監視し
商人出の好で平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛を懐柔して楢崎家に盗賊を入れさせ資金繰りを悪化させ
嶋原遊郭街の悪党多田帯刀と共謀して楢崎将作の娘達を勾引し
獄舎で知り合った大坂の悪党の伝でお龍の妹光枝を女郎に売る手筈を整え大坂で14歳の光枝を犯した
中川宮はお龍に逃げられると三条家に出入りする武家の娘を異常性欲で散散陵辱してそれに飽きると
無抵抗にされた武家の未婚の絶世の美人の娘を商人出の本間に犯させ本間の本懐を遂げさせた
本間は一旦手中に収めた光枝を失い落胆していたが中川宮がその意を酌み
武家の美人の娘を本間に宛がう代わりにお龍を再度勾引して中川宮の前に引き立てるよう催促した
本間は嶋原遊郭で悪党多田帯刀と豪遊しながら再度楢崎家を狙いお龍を陥れる策を練っていた
文久3年(1863年)1月22日奸物中川宮を教示する奸臣池内大学は本間を失っても中川宮を援護したが
大坂に立ち寄った山内容堂の酒席の帰りに岡田以蔵らによって天誅として殺害された
晒された池内の首級は耳を削がれていた

380:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 22:31:46 9KTzs52Y0.net
この電波いつまで居座るつもりなのか

381:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 23:11:38 KFYNwHIMO.net
>>367
佐幕の土佐藩には龍馬中岡みたいな輩は不穏分子だから?
脱藩した前科者だから?

382:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/06 12:50:44 hoCKDjdk0.net
龍馬や慎太郎のほうが、上下意識の強い上士たちと距離を置いてたんだろ。
下手に土佐藩邸に入居して、会話などしたら最後、
「下士のくせに上士に講釈を垂れるのか!?無礼者!」
と上士に斬られる危険性が常時あっただろうからな

383:坂本弁証人・でん次郎
10/11/08 21:54:24 sf7H5C4+0.net
龍馬は加尾のために脱藩した後は江戸の千葉重太郎を頼った
龍馬は京で起こった勤王家楢崎家での度重なる不幸の話を重太郎に聞かせ
この国を根本から変えるのはどうすべきかを重太郎に尋ねた
重太郎は切れ者と噂される横井小楠の面会と開国派の勝海舟の真意を探る為に
龍馬と岡本健三郎に松平春嶽の許へ紹介状を受け取りに行かせる
千葉周作は福井藩で剣術指南をしていたこともあり千葉道場は福井藩と懇意であった
「春嶽手記」には「老生政事総裁職の命を受くるは六月也。」と前置きし
文久の改革で薩摩藩と勅使が江戸に入った後
松平春嶽が登城する或る日の朝に龍馬ら二人が面会を求めて来たとある
これは京都福井藩邸から6月に於ける楢崎家救済の坂本龍馬の活躍を聞いていたことを暗示する
重太郎は春嶽に前もってこの二人が来ることを伝えていた
紹介状を手に重太郎はまず横井小楠の許へ龍馬と連立って面会する
重太郎はすでに横井にも話を付けていた
横井は寺田屋事件後の京都に於ける勾引し事件に公武合体派が暗躍していることを察知した
横井は龍馬を気に入り「船中八策」の基になる考えを龍馬に伝えた
龍馬は横井の日本の将来を危惧する想いに共鳴し以後横井小楠を師と仰ぐ
龍馬が暗殺される直前までの松平春嶽との交流は佐那の婿という立場があってのものである
横井小楠に面会した後で龍馬と千葉重太郎は松平春嶽の紹介状を手に勝海舟に面会する
この頃千葉定吉は鳥取藩の剣術師範となり重太郎も鳥取藩に仕官していた
鳥取藩は水戸思想で尊皇攘夷派であり公武合体派の佐久間象山の開国論を疑問視する者もいた
重太郎は岡本健三郎として龍馬に供する
重太郎は公武合体派の佐久間象山に影響を受けた勝の真意によっては勝を斬るつもりだった
勝は直心影流の免許皆伝である
だが北辰一刀流桶町千葉道場師範代の重太郎とその直弟子で元塾頭の龍馬なら
直心陰流の勝に間違いなく勝てる
佐那と夫婦にさせ千葉道場を継がせる婿殿を開国派の剣客にむざむざ斬らせる訳にはいかない
勝にもそれは分かっていた
勝は有りの儘を龍馬と重太郎に話す
龍馬は一時期佐久間象山に師事していたこともあり勝海舟に興味があった
龍馬は勝の先見の明に驚き勝海舟の門弟となった

384:坂本弁証人・でん次郎
10/11/09 21:54:24 ACAi507L0.net
安政5年(1858年)1月坂本龍馬は桶町千葉道場で北辰一刀流長刀兵法目録を授かる
通常北辰一刀流の証書には千葉周作の名前のみ記され
桶町千葉道場では周作と定吉と重太郎の3人の名が記される
だが龍馬が授かった目録にはその3人の他に
定吉の3人の娘の長女里幾・次女佐那・三女幾久の名が記されている
佐那の話では龍馬とは安政5年(1858年)に婚約していたが
この時龍馬と婚約していたのは3人の娘の内一人と結ばれるというものだったのだろう
3人の娘は共に龍馬に興味を示し千葉家ではまだ龍馬と結ばせる娘を決めかねていた
目録に定吉の娘の名を記すよう催促したのは龍馬だが定吉も満更ではなかったらしい
この時点で龍馬はすでに免許皆伝に値する腕前で龍馬がこの3人の娘の誰かと結婚したら
正式に北辰一刀流を免許皆伝するものとして特別に3人の娘の名を記したのだ
皆伝とは皆全て伝えたという意味だが
龍馬の長刀目録には特別措置として3人の娘の名を免許として記したのである
その5ヶ月後には長女の里幾が労咳で他界し佐那が長女になる
千葉家は喪に服さなければならなくなり龍馬とすぐに結婚することは出来なかった
龍馬はその間に徳弘孝蔵から砲術を学び小栗流日根野道場で師範代を務め腕を磨く
佐那は嘉永4年(1851年)に北辰一刀流免許皆伝している
坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝の証書は佐那自身である

385:坂本弁証人・でん次郎
10/11/10 21:54:23 /WAduD4s0.net
龍馬の兄権平に嫡男は無く若い龍馬は坂本家に於いて掛け替えの無い跡取りである
千葉家に於いても重太郎に嫡男が無く跡取り問題は深刻であり龍馬に嫡男が生まれた場合
坂本家と千葉家のどちらを優先するかは大問題である
上士平井家でも収二郎以外に跡取りはいないがこの時点で収二郎はまだ若いので問題外とする
また楢崎家には男子が二人もいるので文久2年6月20日頃に龍馬がお龍と恋愛する意味が無い
よって六角獄舎や武信稲荷に於ける龍馬とお龍の男女関係の馴れ初めは虚偽である
ただ楢崎家姉妹を悪党中川宮から救った龍馬の正義感に対しお龍が亡き父の様に思慕しただけである
龍馬は大坂を出て江戸に着くと千葉重太郎を頼る
維新後の佐那は「龍馬は安政5年に土佐に戻ってから千葉道場には来ていない」と証言している
加尾に少しだけ未練を残す龍馬は婚約者の佐那には脱藩の身である為合わせる顔が無かった
その後脱藩の罪は許されたが正式に帰藩せずに奸物中川宮に暗殺されてしまった為
結局龍馬が道場で汗を流すことは無かった
だが江戸に戻った龍馬は佐那の兄の重太郎を頼り脱藩後の身の処し方について相談する
当然ながら脱藩の理由として加尾の件で脱藩したことを重太郎に話さなくてはならない
重太郎も龍馬と加尾の関係については察しがついたが飽くまでも龍馬は佐那の婚約者だ
妹佐那の婿として千葉道場を継がせる為に重太郎は龍馬の仕官の引き受け先を探す
また佐那は龍馬が道場に足を運ばなくても婚約者の自分と会っていないとは言っていない
それとも龍馬は佐那に見つからないように遠くから見詰めていただけなのだろうか
だとしても佐那には龍馬が近くに居ることは分かっていたのだろう
佐那は近くに居ながら自分に逢いに来ない龍馬の真意は分からないが
龍馬が自分を見詰める気持ちに偽りはないと悟った

386:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/11 01:54:49 o6wh62u30.net
明治維新は外国と組んで日本を破壊した売国テロ
今の民主党とそっくり    テロリスト最低

387:坂本弁証人・でん次郎
10/11/11 21:54:23 i2FFl3AX0.net
岡田以蔵が暗殺したように思われている岡田星之助は鳥取藩士で千葉重太郎の道場の門下だった
安政5年(1858年)に龍馬が江戸を去った後の万延元年(1860年)千葉重太郎は鳥取藩に仕官する
岡田星之助が千葉道場に入門したのは千葉重太郎が鳥取藩に仕官した前後だろう
だとすれば岡田星之助は龍馬と千葉家の娘達との馴れ初めを知らない
江戸で小千葉小町として有名な佐那ほどの美女が何年も男日照で
しかも婚約者とされる坂本龍馬が京にいる別の娘の為に脱藩したという情報を得た岡田星之助は
重太郎が龍馬の脱藩罪の赦免や仕官先探しに奔走している間に
道場での美女の佐那との手合わせにムラムラしてしまった
鳥取藩士岡田星之助は鳥取藩に仕官した重太郎に勝海舟は奸臣だと焚き付けた
勝が以前師事していた佐久間象山は公武合体派で攘夷派志士にとって汚らわしい存在だった
岡田星之助は直心影流免許皆伝の勝と北辰一刀流千葉道場師範代の重太郎を共倒れにさせ
それを他人事として面白がり美人の佐那を奪い桶町千葉道場の乗っ取りを謀る
だが桶町千葉道場師範代の重太郎が勝海舟の殺害に失敗し懐柔されたのを機として
星之助は重太郎が勝と連携するなら佐那と交尾合体してやろうと思い立つ
岡田星之助は辺りに人が居ない時に佐那に襲い掛かった(反魂香の佐那評から)
だが佐那を力尽くで組み敷くと佐那は舌を切ると覚悟を示し断固拒んだ
それを鳥取藩に知られると困る星之助は道場を抜け出し江戸を離れ帰藩も出来ず京に逃げ込んだ
重太郎と龍馬は文久3年(1863年)元日兵庫から大坂に向かい9日は大坂にいたが
その後江戸に帰ると佐那が岡田星之助に襲われたことを知る
文久3年(1863年)1月20日重太郎は江戸にいる勝を訪ね「偽浪の事を話す」とある(海舟日記)
ニセ浪人とは岡田星之助のことである
鳥取藩士の岡田の仲間は岡田星之助に清河八郎の浪士組に京都で加わるよう誘導した
重太郎は岡田星之助が京に潜伏している情報を得て江戸鳥取藩邸の命で1月24日京に向かう
重太郎は龍馬に死を覚悟して貞操を守った佐那のために岡田星之助を斬れと指示した
桶町千葉道場師範代千葉重太郎は介添人となり坂本龍馬と岡田星之助の決闘に立ち合った
文久3年(1863年)2月5日の岡田星之助殺害は北辰一刀流坂本龍馬による唯一の斬殺である

388:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 02:32:25 AAg0Dp3nO.net
龍馬は海援隊の時水夫の三吉も姦通罪で切って捨てちゅうぜよ

389:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 04:19:26 f/vTnz+C0.net
>>376
低脳国賊の糖質はさっさと入院しろ!
明治維新は日本人が世界に誇れる市民革命。

390:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 11:52:48 SVdiw7y50.net
明治維新がなければ今もちょん髷で着物だろ
しかも徳川家による独裁政治体制で

391:エビちゃん親衛隊
10/11/12 14:14:54 hYrawRTo0.net
>>380
>明治維新がなければ今もちょん髷で着物だろ
>しかも徳川家による独裁政治体制で
それはないわ。
幕末からすでに文明開化、軍の近代化の一部は始まっていたから。
ただ徳川による独裁政治体制維持は考えるだろう。
表面的には近代化し、渋々議会なり選挙なり憲法なりを制定しても、
新撰組・見廻組は内務省・特別高等警察として徳川への反対派暗殺を続行する。
薩長出身者が「天皇陛下の御為」と言って徳川に反対しても、
徳川もまた「天皇陛下の御為に内務省は存在する」と言って譲らんのだ。
保安条例により鹿児島・山口出身者の東京・京都への立ち入りは禁止されるかも知れん。
また反徳川派候補への露骨な選挙干渉もやるカモナー

392:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 14:21:40 t+53s/Hm0.net
世界的にみても真の民主国家なんかホンの一握り
だが、日本の民主党政権は数々の情報を隠蔽し、民主党本部へのデモも禁止にした
これからはネット規制や人権擁護とやらで徳川並みの独裁国家へまっしぐらだ

393:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 18:38:52 +di2uzeu0.net
幕藩体制じゃ日本守れないだろ
徳川に日本全体の安全保障に責任を負うという意識はなかったようだし

394:坂本弁証人・でん次郎
10/11/12 21:54:24 fCtnLfQh0.net
龍馬が勝の弟子になった後に勝をまだ信頼していない千葉重太郎は
文久2年(1862年)の年末に近藤長次郎らを供に勝海舟を訪ねる
勝海舟は重太郎を安心させる為に文久3年(1863年)1月16日伊豆下田に滞在する山内容堂を訪問し
龍馬の脱藩の赦免を要請する
同年1月20日重太郎は勝を訪ねニセ浪人岡田星之助の事を話す
同年1月23日江戸鳥取藩邸から了解を得て翌日京に向かう
龍馬は重太郎の計らいで同年1月25日大久保一翁を訪ねる
この間に岡田以蔵らが京で岡田星之助を探し出す
同年2月5日北辰一刀流坂本龍馬は勝の了解と重太郎の指示で鳥取藩士岡田星之助を斬殺する
同年2月龍馬は京都土佐藩邸において7日間謹慎し同年2月25日脱藩罪が赦免された
この7日間の謹慎で土佐藩は吉田東洋の暗殺が龍馬によるものではないと断定した
当然その断定理由が龍馬による三条家におけるシンボルの詰割り強襲後に
加尾が再度呼び寄せたからであり容堂もその話は三条家と平井から聞いていたのだ
本間精一郎の驚愕の話も岩崎弥太郎の情報から聞いている
勝は重太郎から初めて人を斬った龍馬の様子を聞きそれを土佐藩に伝えた
またその後の平井収二郎の切腹は東洋暗殺とは関係なく中川宮と平井の関係にある
よって坂本龍馬暗殺犯として後藤象二郎による東洋暗殺弔い説に根拠は無い
龍馬は岡田以蔵から加尾の置かれた現状を知った
本間精一郎が中川宮の見ている前で武家の未婚の娘を陵辱したことも聞いた
以蔵が幼い頃から加尾に惚れている事を知っていた龍馬は以蔵を
加尾の将来を任せられるような偉丈夫にする為に同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ
龍馬は龍馬への思いを貫いた佐那が待つ江戸に向かった
だが鳥取藩士岡田星之助を決闘で殺害しているので
他に何人も鳥取藩士のいる桶町千葉道場に龍馬は行っていない
龍馬が道場に行かず江戸に逗留する目的は佐那だけである
加尾の為に死ぬ気で脱藩した龍馬は佐那の為に又生きねばならん事になった

395:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/14 20:35:48 Fr8NgpFe0.net
海援隊は土佐藩の出資を受けて成り立ち、土佐藩から人材の出向も行われていた
いつの時代も資本を握る者が一番強い
少なくともこの時点で龍馬は土佐藩の指揮下にいた
龍馬の功績とされる薩長同盟の本当の立役者は薩摩藩家老の小松帯刀
両藩の人物で龍馬が一番親しかったのは小松だった
大政奉還については、大政奉還と徳川の領地返上は別問題
慶喜は大政奉還はしても領地は手放さなかった。大勢の行政官を抱えているから当たり前だが、
圧倒的な領地の大きさと軍事力で大政奉還後の会議でも慶喜が優勢だったし、
明治政府が結局は徳川の役人を多数官僚に採用したことからも、徳川の行政が優れていたことが分かる
この大政奉還を支持した中心人物に山内容堂、小松帯刀、坂本龍馬がいる
大政奉還したら慶喜は内乱を回避した上で政権を維持できることは当時明らかになっていた
大政奉還を勧めた時点でもう龍馬は、薩長の味方ではなかったことになる
さらに鳥羽伏見の戦いは、国許で療養中だった小松帯刀の命令を待たずに、西郷たちが勝手に始めた戦だった
島津久光と毛利敬親が明治時代に記者の取材に答えてそれぞれが「私に討幕の意志はなかった。家臣が勝手にやったこと」
と答えていることからも、西郷たちの独断であることは明白
龍馬はその時々の庇護者の歓心を買うために様々な立場からコメントを残しているが、
(企業家としては当たり前)
少なくとも最後は内乱の回避を目指して奔走していたのは事実

396:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 06:58:56 gqIkize40.net
坂本龍馬を和平派と主張する人は、
土佐藩を討幕軍に参加させようとしていた中岡慎太郎という存在を、意図的に無視していますなあ。
しかも発言内容に事実とか付けるわりに、その実は根拠がない。
坂本龍馬は当時薩長や土佐へ武器を供給していた。内乱回避を望んでいたなどとんでもない。

397:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 09:59:21 Uxv9WLl60.net
おいおい、龍馬と中岡は親友だけど二人が全く同じ思想を抱いてたなんて証拠もないぞ
中岡はガチの倒幕派だけど龍馬は商人の強かさで幕府方との繋がりも持っていたし
それに龍馬の最大の庇護者だった容堂の動きも無視するな
容堂はクーデターを企てた武市を粛清はしたけど、土佐藩の役に立つと見込んだ脱藩浪士を
支援することもしている。その人物が倒幕派でも
本人は佐幕派だけど土佐藩自体はどちらに転んでも生き残れるように計算してたわけだ
このことは容堂が家茂や慶喜を支持する一方で、薩長への支援もしていたことから分かる
妄想乙と言うかもしれないが、容堂が両派を利用するための人事を行っていたことは紛れもない事実
また幕末の諸藩はほとんどが日和見や倒幕・佐幕双方との繋がりを保ったりしていた
佐賀の鍋島直正がその典型例
だけど佐賀藩は最後は勝ち馬に乗った。土佐藩も同じことをしている
土佐藩が一枚岩ではなかったことを利用して容堂は生き残りを図っていた
このことは土佐藩の人事で倒幕派・佐幕派の勢力がコントロールされていたことからも分かる
けど容堂自身の心情は佐幕派だった。これは容堂の手紙や明治時代の取材で明らか
なので容堂は徳川家を最大勢力とする雄藩連合を構想し、各藩への根回しや
脱藩浪人への指示を行っていた
何で分かりきってる容堂のこと書いたかと言うと、龍馬は実家の坂本家を通じて容堂と繋がりを持っていたから
龍馬は悲運の脱藩者から成功したわけではなく、脱藩したすぐ後から実家の援助を受けている
実家の坂本家は武士であると同時に土佐屈指の豪商。山内家の普代でもなかった坂本家が豪商として成長したのは
土佐藩の商いに携わっていたから。土佐藩と坂本家の深い繋がりは商いや手紙からはっきりしている
最大の取引相手の意向を尊重するのは現代でも同じ
中国に進出した日本企業が中国政府の意向を気にするのと同じ
龍馬―坂本家―土佐藩―容堂の繋がりははっきり証明されているし、龍馬が佐幕派の大物とも
親交を結んでいた事実からも、龍馬が単純に倒幕の志士ではなかったことが分かる
少なくとも容堂はその気になれば龍馬の力の源で人脈維持に必要な
海援隊と坂本家を潰せる力を持っていた

398:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 10:02:37 Uxv9WLl60.net
土佐藩の発言力を高めるために薩長を利用する。けど徳川家を潰すことはさせない
それが容堂の指針で実際の行動もその指針に沿っていた

399:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 10:02:59 aCmuIQxHO.net
俺が龍馬ならさなこを妻にする

400:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 12:53:25 BuJX0u8OO.net
>>385
小松帯刀も龍馬と同じく大政奉還に尽力していたんだが…
大政奉還の件、龍馬は木戸や西郷にもちゃんと相談してたし
実現は難しいだろうと思われてはいたが反対はされてないぞ
あと小松帯刀が病気で出兵に加われず悔しがっている手紙も残されてる

401:坂本弁証人・でん次郎
10/11/15 21:54:27 clu0N16A0.net
慶応2年12月4日(1867年1月9日)の権平への手紙に於いて
「黒木半兵衛とて千葉十太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず、人是をおどろく。」とあり黒木半兵衛とは鳥取藩士黒木小太郎の事で岡田星之助と共に千葉重太郎の門下であるが
龍馬と星之助の一対一の真剣勝負に於いて岡田の同郷の士でありながら冷静に勝負を見届けた
龍馬は自分の死を覚悟して岡田星之助に対し決闘というチャンスを与えた
場合によっては佐那は岡田に奪われ桶町千葉道場は岡田が継ぐ事になっただろう
だが重太郎は師範代として龍馬と星之助ではどちらが勝るか分かっていた
福井藩士山本龍二の晩年の話では
「同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが、
暴行を働いた時など、彼らは直ちに斬って捨てた。」
とあるが剣術の師を侮辱しその妹を強引に犯そうとした事は士道に反し万死に値する
だが岡田星之助は本来切腹すべきところ死を恐れ師を侮辱し京に逃げた
「偽浪の事を話す」のニセは福井藩士でありながら勝手に浪士組に加わろうとしたという意味と
「士にあらず」という意味である
「必ず割腹させる」には「させた」ではなく「必ずさせる」にある決意が籠められている
「水夫頭の三吉」の水夫頭とは湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を強姦した4人の与力達の事で
「三吉」とは三助と同格の産キチ(ガイ)与力という意味である
会津民謡「会津磐梯山」の「小原庄助」とは「汚胎娼好け」又は「悪腹産助」という意味が籠められ
いろは丸事件の談判で劣勢の海援隊の起死回生策として紀州を皮肉る歌を流行らせたのと同じである
4人の強姦与力も逃げずに切腹していれば後の会津の悲劇は起こらなかっただろう
文久3年(1863年)6月29日のせんたくの手紙において福井藩から2度の仕官の誘いがあったが
龍馬は2度とも仕官を求めなかったとしている
文久3年(1863年)2月25日龍馬は脱藩罪を赦免され
同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ佐那のいる江戸で過ごすが
江戸を出て大坂に帰着するのが同年4月9日だから3週間は江戸にいた
江戸にいた同年4月2日の大久保一翁への挨拶は松平春嶽への書状の依頼であるが
脱藩罪赦免の力添えのお礼なのだろう
千葉重太郎の計らいだと思われる
大久保一翁は松平春嶽と交友があるので
2度の福井藩の仕官の返答はこの時と同年1月25日の大久保一翁を訪問した時の筈だ
重太郎が仕える鳥取藩には岡田星之助を決闘で斬っているので龍馬は仕官できない
龍馬は手紙で「然に龍馬少しも仕えを求めず」として仕官は求めなかったが断った訳ではない
横井小楠は松平春嶽に願い福井藩から2度龍馬を藩に召抱える使者を出す
重太郎の思惑もあっただろうが横井はまるで親族のように龍馬を心配した

402:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 23:12:05 1VZ3+Xzf0.net
>>381みたいな佐幕系は、内乱罪で、東京・京都への立ち入りを禁止どころか強制収容所送りだなwwwww

403:坂本弁証人・でん次郎
10/11/16 21:54:23 ugVePP8D0.net
文久3年(1863年)岡田以蔵が勝海舟を護衛していると
龍馬に代わって勝海舟の警護についた岡田以蔵を新参と侮った者か以蔵の仲間かは定かでないが
3人の刺客が襲い掛り以蔵は一人を撃退し2人は逃げていった
そんな以蔵を直心影流免許皆伝の勝は「無益な殺生は控えたほうがよい」と窘めた
「海舟日記」の文久3年3月8日に「この夜、三条の旅舎にて、千屋虎之助の義兄切腹。」とある
千屋虎之助はこれ以前からすでに勝の門人となっているが武市はそれを妬んだのだろうか
それとも水戸思想かぶれ岡田星之助の仇討ちか
だが以蔵はかわいい平井加尾に幼い頃から恋焦がれていた
以蔵は京に加尾がいる文久2年(1862年)8月から10月の間に特に集中的に暗殺剣を振るっている
本間精一郎が暴露した驚愕の話を酒場でうっかり吐露した岩崎弥太郎の同僚井上佐一郎
武家の未婚の美人の娘を妖狐中川宮の見ている前で歓喜して陵辱した商人出の本間精一郎
武家の未婚の美人の娘が本間に陵辱されるのを犬猫同然に眺め加尾の家に張り付いていた猿の文吉
密室にされた湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を絶え間なく陵辱した4人の与力達
以蔵は加尾を救った龍馬のように自分も加尾にとっての勇士になりたいと思っていた
龍馬もそんな以蔵の本心を見抜きそうなればいいと思った
だが山内容堂を公武合体派へ誘導する中川宮の侍講の奸臣池内大学を暗殺した事が
薩摩藩を随従させたい女狂いの中川宮を追い詰め平井収二郎を捕縛に向かわせた
結果的に以蔵の剣は加尾を悲しませる事になった
姉小路公知を中川宮の側近有馬範顕と山田時章と新参の3人に暗殺されたことが三条実美を震撼させ
公家の領分に入り過ぎ禍根を残した収二郎にけじめを付けさせた
平井は介錯無しの十文字の切腹で加尾の女心を散散弄んだ姦物中川宮への復讐を託し
武家の未婚の娘を湯屋の女湯で屈強な4人掛りで襲い掛かり陵辱し尽した卑劣な産キチ与力を見下し
最後に武士としてのけじめを示した

404:坂本弁証人・でん次郎
10/11/17 21:54:23 z31XK8Gz0.net
龍馬が江戸に向かい勝海舟の警護を岡田以蔵に任せた後
文久3年(1863年)3月8日の「海舟日記」には「三条の旅舎にて、千屋虎之助の義兄切腹。」とあった
千屋は龍馬が勝の弟子になるとすぐ勝の門下となり海援隊士となり
龍馬の死後に遺言としてお龍の妹の起美を妻とした
千屋虎之助といえば密航を試みて失敗した近藤長次郎を責め切腹に追い込んだともお龍は伝えるが
龍馬を慕う者達の間では龍馬の婚約者の佐那を襲い剣術の師である千葉重太郎に詫びず切腹もせずに
浪士組を頼り京に逃げた岡田星之助を士道に反する行為として糾弾する傾向が強くなり
薩長同盟直前の大切な時期に龍馬に迷惑を掛けたくないという思いから
近藤自身の判断で切腹したもので隊士の非難はなくはないが特定の者が追い込んだ訳ではない
近藤長次郎も龍馬と星之助の真剣勝負の決闘に立ち会っている
切腹には通常介錯が必要であり町人出の長次郎に十文字の切腹や田中新兵衛の様なやり方は出来ない
また切腹は単なる自殺ではなく介錯は上手な者にやらせないと大変辛い事になる
三島由紀夫の切腹の最初の介錯人は2度失敗し刃が折れ三島は腸を出しながら舌を噛み切っている
近藤長次郎の切腹は近藤が無理を言って天誅に加わ�


405:チた千屋に介錯を頼んだのだ 「反魂香」の大藤太郎が誰を示すかは分からないが龍馬に佐那への愛を貫けと諭したのだろう この事件から寺田屋事件の直前まで龍馬の思いはずっと佐那にあったと海援隊士が証明している 千屋虎之助を乱暴者とするのはお龍の「反魂香」からだが 龍馬に甘やかされた女のお龍が龍馬と千屋を比較した見識であって 志の高い海援隊士の中で千屋虎之助は当たり前の士である 士道に反し切腹せずに逃げた水戸思想かぶれの岡田星之助を佐那への対抗心から優男と表現し 志の高い海援隊士で義姉のお龍の面倒も看た千屋虎之助を「乱暴者、無鉄砲」と表現する事実から 寧ろお龍は志士である坂本龍馬の妻としての役目を果たしていない お龍は海援隊の精神的支柱である坂本龍馬と岡田星之助による真剣勝負の決闘の話を知らない 龍馬は佐那を懸けた1対1の男同士の命がけの戦いの話をお龍には話していない 龍馬の死後にお龍に親切だったのは西郷隆盛と勝海舟とお登勢だけだったと嘆く原因は 志の高い海援隊士が皆お龍のヒロイズムに愛想が尽き心の拠り所としての価値を失ったからだ お龍はただの女である



406:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 22:32:21 /dRVBwnJ0.net
>>385
朝敵に貶められている長州に対して、
圧倒的に優位な立場にいる薩摩側からは誰も薩長同盟を言い出さなかったわけだから
(薩摩が、長州のほうが幕末の主導権を握っていると判断していた可能性もあるぐらいで)
薩長同盟の功績が第一に小松帯刀にあるなどという主張は、残念ながら無理。
ボク的には、中岡慎太郎による薩摩説得工作が薩長同盟についても大政奉還についても第一の功績。
これがなかったら、後が続いてないから。

407:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 22:50:13 /dRVBwnJ0.net
>>387
>龍馬は商人の強かさで幕府方との繋がりも持っていたし
????? ソース!
>龍馬の最大の庇護者だった容堂
?????
龍馬の最大の庇護者は薩長。
薩摩には命を救ってもらい新婚旅行までさせてもらっているし、長州には護衛を付けてもらって妻を避難させていたりする。
>容堂が家茂や慶喜を支持する一方で、薩長への支援もしていた
?????
最終的には薩長に付くが、それまでは様子見。
容堂が江戸幕府に「破約攘夷」を飲まなければ「攘将軍」になると迫り、幕府に「破約攘夷」路線を飲ませたものの、
党の幕府が破約攘夷とは真逆なことをやり続けているわけだから様子見せざるを得なかった。


408:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/18 08:09:58 Gbzw5Hqz0.net
>>387
どちらかというと、三条辻高札事件・後藤象二郎の討幕軍京都派遣命令(容堂の命令で沙汰止み)等を考える限り、
土佐藩は、容堂一人だけが公武合体で、他の藩士は武装討幕に傾いていたように思います。
土佐藩を公武合体・佐幕派だと主張しているのは、中村彰彦・星亮一といった如何わしい小説家しか知りません。

409:坂本弁証人・でん次郎
10/11/18 21:54:22 QovmgoBy0.net
お龍の妹の起美はお龍に似て非常に美人で父の楢崎将作が中川宮に嬲り殺しになった後で
お龍の母が悪者中川宮の招集した悪党に狙われ数えで11歳で京の嶋原の舞妓として売られた
だが文久2年(1862年)6月20日光枝を奪還したお龍と龍馬は一旦京に戻り
龍馬が脱藩時の有り金全てを叩いて嶋原遊郭から起美を奪還した
龍馬は楢崎家の惨状を憂い長州藩士に楢崎家の救済を求める
楢崎将作の祖父源八郎は元長州藩士で将作の父は大造といい
源八郎はまだ幼い大造を知人の老夫婦に預け京に残したまま長州へ帰藩したとお龍は云う
文久2年(1862年)11月14日岡田以蔵や千屋寅之助や長州の楢崎八十槌ら20名が
奸臣中川宮によって嬲り殺しにされた勤王家楢崎将作を憂い
その遺児を嶋原遊郭に売り飛ばした京の嶋原の遊郭の近くに住む悪党多田帯刀を天誅として襲撃し
その母の村山加寿江を三条大橋に生晒しにし翌日その息子の悪党多田帯刀を蹴上刑場で斬殺した
悪党多田帯刀の首は奸物中川宮の勢力圏の粟田口に晒された
起美はその後龍馬によって弟太一郎とともに勝海舟の許へ預けられた
龍馬の手紙では起美はまだ幼かったので嶋原の遊郭での事は気遣い無しとのことだった
岡田以蔵はこの天誅に楢崎家を救済する為に奔走した坂本龍馬の代理として参加した
「公武合体」を「交尾合体」だと信じて疑わずに嶋原遊郭に売られた起美の
「旦那」の呼び込みをしていた平野屋重三郎及び煎餅屋半兵衛は
楢崎家の盗賊及び嶋原遊郭の起美の件には関与していたが
将作の死には関与せず嶋原遊郭に売られた起美もまだ幼く無事だったので殺すことはしなかった

410:坂本弁証人・でん次郎
10/11/19 21:54:24 EycDoicp0.net
攘夷派公卿姉小路公知の暗殺犯は田中新兵衛ではない
文久3年(1863年)5月20日姉小路公知を暗殺し遺留物を残す方法は坂本龍馬の暗殺と酷似する
犯人は覆面犯であるため目撃証言に信用性は無く坂本龍馬暗殺に於ける十津川郷士の件にも酷似する
また奸物中川宮と奸臣池内大学のパイプ役の本間精一郎を天誅として殺害された直後の天誅の矛先を
女癖の悪い九条尚忠に向ける為にその諸大夫宇郷重国を中川宮の側近が殺害したのと同じである
そもそも三条公恭の素行の悪さの原因は攘夷派公卿三条家に仕える美人の平井加尾に目を付け
加尾の陵辱と攘夷派公卿三条家の失墜を目論んだ女癖の悪い九条尚忠による姦策である
姉小路公知も宇郷重国も京都御苑内で殺害され宇郷の子息まで目撃者として殺された
公家が闊歩する御苑内で田舎侍が堂々と斬殺するのはかなり目立ち無理がある
反面公家や青侍及びその守衛にとって京都御苑内は庭であり身を隠すのは容易である
宇郷殺害を岡田以蔵とするのは仙台藩士の玉虫左太夫の著書「官武通記」からだが
玉虫は佐幕派でありこれは会津寄りの虚偽であり中川宮家臣の犯行を隠匿する為のものである
佐幕派の虚構「官武通紀」で玉虫が宇郷を殺害したとしている岡田以蔵は捕縛され土佐で処刑され
岡本八之助と村田忠三郎も慶応元年(1865年)閏5月11日に井上佐一郎殺害容疑で処刑されている
士道忘却事件で横井小楠を襲撃した肥後藩士堤松左衛門もすでに文久3年3月28日に自刀しているので
攘夷派の分断を画策した節操のないシンボルで国事を惑わす女狂いの中川宮を擁護するために
会津側に付く二本差しの玉虫が玉虫色に脚色し死者の魂を悪用したのは明白である
岡田以蔵や肥後勤王党の堤松左衛門が意味無く宇郷の息子を殺すのは筋が通らない
この時点でまだ天誅は継続しているので自責の念に駆られるような禍根を残している筈が無い
犯人とされている田中新兵衛は自白しないまま同年5月26日介錯無しで切腹した
武士の魂の刀は中川宮の守衛として潜り込む桐野利秋と酒場で飲み交わし盗まれたのだ
桐野利秋と田中新兵衛は同じ薩摩の士で同じ示現流である
桐野は中川宮に信用させ中川宮の闇行を探る為に同じ薩摩藩士の田中を犠牲にした
姉小路公知暗殺犯は中川宮側近伊勢新刀流師範有馬範顕と中川宮家臣で古参の山田時章と
まだ新参で中川宮にとって海の物とも山の物ともつかない中川宮守衛の示現流桐野利秋の3人である
目撃者に示現流の太刀筋を見せ態と逃がし田中新兵衛の刀を残した
文久3年のこの時点ではまだ薩摩藩は中川宮と敵対出来ず田中新兵衛は桐野を信じて自決したのだ
田中新兵衛は節操のないシンボルを討つべく桐野利秋に天誅を託した

411:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/19 22:43:05 GD0PHbeL0.net
>>387は、日本近代史スレや長州関連スレで暴れ回っているキ●ガイ低脳国賊p

412:坂本弁証人・でん次郎
10/11/22 21:54:46 jnJKwPh00.net
お龍の「反魂香」の佐那についての話で「辺りに人の居ない時は、年の若い優男を捉へて口説いたり」
とあるがこれは死を覚悟して信じた龍馬を偲ぶ女同志の嫉妬で
岡田星之助による剣術の師の妹佐那への暴行を逆に言って佐那を讒言したのは明白である
もしそんな事が実際にあったら「千葉の鬼小町」の噂は江戸中に広まる
だがそんな話をしているのは「反魂香」でのお龍だけだ
「反魂香」のこの話は文久3年(1863年)2月5日坂本龍馬との決闘で斬られた岡田星之助の事である
岡田が佐那を襲った時期は文久2年(1862年)年末から翌年正月上旬の間だろう
清河八郎が浪士組を招集していた時期だから京に行くだろうとは考えられ
実際岡田はそれを当てにして京に逃げてきたことは間違いない
だが佐那が舌を切ると覚悟を示した後で岡田が必ずしも紀伊以外の関西方面に逃げるとは限らない
実際文久3(1863年)年6月2日の広井磐之助の仇討ちに於いて
勝海舟と坂本龍馬が援助した広井磐之助の父の仇の棚橋三郎は紀州に逃げていた
鳥取藩に帰藩するのは無理だが一旦別の場所に逃げて時間稼ぎをすることは考えられる訳だから
佐那が脱藩した龍馬を赦免させる為に重太郎が居ない時に態と岡田を誘惑したとは考えられない
これは個人的問題だから浪士組に加わった後だと星之助を処分するのは難しくなる
まして星之助がそれでも強引に佐那を犯していたら免許皆伝の佐那は自ら命を絶った
本来士であるなら剣術の師に謝罪し切腹しなければならず水戸思想の攘夷派志士としては恥である
当初重太郎は龍馬の脱藩罪が赦免されれば自分と同じ鳥取藩に仕官させたいと考え奔走していたが
真剣勝負の決闘で鳥取藩士岡田星之助を斬る必要が生じた為に急遽福井藩に龍馬の仕官をお願いした
お龍は自分が中川宮から受けた姦謀とそれに対する覚悟に比べれば岡田など優男だと言っているのだ
つまり楢崎家の目も当てられない惨状は将作が仕えていた中川宮による謀略である証拠である

413:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 00:10:17 UVryQzgC0.net
売国テロリスト

414:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 01:37:46 UdUIa4L3O.net
>>397
藩論はどこも一つじゃねーわな
だが土佐藩は容堂がシメてるし政変で勤王党弾圧後は
吉田東洋配下だった後藤・新おこぜ組が藩政を担当してるのでやはり佐幕
上層部の武力討幕派は板垣ぐらい

415:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 01:55:47 WHnZ0v1S0.net
>>403
少なくとも、新おこぜ組(保守派)の人間も大政奉還の時期には武装討幕発言ばかりが見える。
陸援隊の中岡慎太郎はこの時期、乾(板垣)退助の土佐藩歩兵部隊との関係を強化していたようで、
乾退助自身、後には討幕のために土佐藩の命令を待たずに薩長軍に参加している。
公武合体論を唱えるものは、土佐藩から容堂一人を除いて一掃されていた。


416:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 01:59:20 WHnZ0v1S0.net
大体、後藤象二郎自体が土佐討幕挙兵を薩長に約束し、挙兵直前に山内容堂に止められているのだから、
新おこぜ組が佐幕派という説は成立しないのだが、分かっているのだろうか?

417:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 02:07:12 WHnZ0v1S0.net
土佐藩の藩論は、第二次長州征伐における幕府の失敗を契機に急速に尊王攘夷に傾斜してゆく。
その過程で、薩長討幕派に身を寄せていた坂本龍馬・中岡慎太郎と
土佐藩で指導的な役割を果たしていた後藤象二郎との和解が行われた。
坂本と後藤の和解の時点で、既に新おこぜ組は佐幕派ではないんだよ。
むしろ山内容堂一人を置き去りに、土佐藩は急進討幕へと向かう。

418:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 04:27:54 yH51MWmA0.net
薩長土の浪士は断じて英雄ではない
徳川様から力ずくで天下をもぎ取った謀反人である
将軍家はすすんで大政を奉還し、自ら議長国となって緒大名による合議制の国をつくりあげることを望んだ
これによって一滴の血も流さず新しい国が生まれるはずであった
然るに薩長土はあくまで武力による討幕を画策し暗躍
妙な合戦をしかけ、宮廷内の岩倉具視と組んで、新徳川派の孝明天皇を毒殺し新たに睦仁親王を立てて錦の御旗を手に入れたものである
これを謀反と言わずして、なんと言う!

419:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 09:35:03 bbvsHH770.net
まぁ第二次長伐を起こして血を流した挙句負けたのは幕府だったけどね。
やらない方が良かったね。
あとあのタイミングで孝明帝が死んで一番得をしたのは慶喜ちゃん。

420:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 15:02:36 UdUIa4L3O.net
>>405
藩上層部の武力討幕勢も徐々に増えてはいたが藩論は割れてた
討幕派と保守派が睨み合って後藤も板挟みだったんだよ
曖昧表現で板垣達をごまかしつつ容堂への話は建白案の方を優先させた
結局後藤が容堂に逆らえるわけもなく出兵出来ず西郷にキレられとるし
>>406
岩倉具視の考明帝暗殺は俗説だよw
岩倉が出世できた理由と考明帝死亡当時どこで何してたか調べてみるといい
大体天下統一したって理由で武家のトップ張ってた徳川家が
松平定信ん時に統治理由を説明できないからって大


421:政委任論持ち出し 有用な人材を弾圧するわグダグダな弱腰外交するわで そりゃ臣下に政権よこせって言われもするわ



422:坂本弁証人・でん次郎
10/11/23 21:54:43 lDZJgQsS0.net
龍馬は文久3年(1863年)6月29日の手紙で平井収二郎の十文字の切腹に対し
「誠にむごい。加尾の嘆きはいかばかりか。まだに少しは気遣いもする。」と加尾の様子を伺う
だが同年8月14日に龍馬が姉の乙女に宛てた手紙では
千葉佐那について「顔かたちは加尾より少し良し」とし今は佐那に夢中であることを仄めかす
この手紙は故郷の親族を安心させる為のものではあるが
幼い頃から妹のように可愛がっていた加尾を完全に諦める為に態と書いたものである
もし龍馬と加尾の婚姻を土佐藩が認めたら山内家と三条家との関係が険悪になることは確実だ
たとえ龍馬が白札郷士になり上士になったとしても御家のため二人が結ばれることは無い
龍馬は加尾の事は以蔵が守ってくれればいいと考えた
慶応2年(1866年)に龍馬がお龍を妻とすると加尾はすぐに郷士の婿養子を迎えたが
文久2年(1862年)10月に土佐に帰藩してからの3年以上結婚せずにいた事は
当時の適齢期を考えると美人の未婚女性の28歳(数えで29歳)の年齢は遅すぎる
文久3年には加尾は25歳で例えは悪いが12歳で水揚げする遊女ならすでにお婆さんである
遊女の発祥は巫女にあるようだが攘夷派の収二郎にとって美人の妹は都合が良かった
坂本龍馬や岡田以蔵は幼い頃から加尾に好意を寄せ加尾は今風でいうアイドル的存在だった
加尾は裕福で恰幅のよい龍馬が好きだったが安政5年(1858年)龍馬は千葉家の娘と婚約する
翌年12月加尾が20歳の時に三条家に仕えさせる為に上京させた目的は公家との婚姻である
上士である収二郎は美人の妹を勿体振り巫女の様に男達を加尾の下に平れ伏すよう画策した
京の公家達は突然土佐の田舎から20歳になった飛び切りの美女が現れ気後れした
下級上士の収二郎は御落胤の伏見宮系に加尾を嫁がせ南紀派を傅かせるつもりだった
だから素行の悪い三条公恭に悩む加尾を京から江戸に退避させる龍馬の策を収二郎は斥けた
収二郎は加尾を政争の道具に使ったが崇拝対象以外に加尾を嫁がせるつもりは無かった
もし収二郎が妹のために親身に考えていたら十文字の切腹をする事はなかっただろう
下級上士平井収二郎は武士としての本道を忘れ青侍に近いものに堕ちていた
文久2年(1862年)9月下旬天誅が京を震撼させる中で加尾は吐き気がするくらい気分が悪かった
中川宮は武家の未婚の美女を連日呼び出して陵辱しその美女の体調まで知り尽くしていた
仏門に身を置きながら女を身篭らせた姦淫坊主は土佐の上級田舎侍より知恵比べで上手だった
文久2年閏8月から8月へと遡りそして7月中旬頃に本間は大坂の酒場で破廉恥な武勇伝を豪語し
それを聞いた岩崎弥太郎は驚愕し帰藩した直後の8月2日に井上佐一郎は殺害される
本間が精を放った武家の未婚の美人の娘は悪阻が酷くなり故郷に帰り赤子を産んだ
その赤子は攘夷督促勅使問題で中川宮に付いた本間精一郎にそっくりだった
文久3年(1863年)6月8日山内容堂は上士平井収二郎に介錯無しで切腹を命じる
加尾は龍馬とお龍の婚姻が御公儀の為
兄収二郎の弔いの為
そして不浄な奸臣に弄ばれた自身の清めの為にそれも良しとしたのだ
明治になってから龍馬からの男装準備の手紙を開示した加尾は
日本を変えた龍馬が自分の為に命がけで動いてくれた事を嬉しく想った


423:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/24 05:40:59 VCr8wnfm0.net
そんなに小説を他人に披露したいならまずは同じ病棟の患者さんに見せたらどうか

424:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/24 11:02:17 bBLSHBkyO.net
相変わらずレベル低いねww

425:坂本弁証人・でん次郎
10/11/24 21:54:24 jBWdPCsE0.net
安政4年(1857年)土佐藩士広井大六は同じく土佐藩士の棚橋三郎に斬り殺された
文久3年(1863年)大六の子の広井磐之助は江戸で勝海舟や坂本龍馬の尽力で仇討ち免許状を与えられ
父の仇の棚橋三郎が紀州に逃げ込んでいることを突き止め
文久3年(1863年)6月2日紀州と和泉の境で仇討ちをした
仇討ちには公的な認可が必要だが広井磐之助は勝海舟の門下に入り
江戸にいる勝海舟と坂本龍馬の尽力で仇討ち免許状を得ることができた
これは龍馬にとって中川宮に対する収二郎と加尾の仇討ちへの始まりとなる
仇討ちには女敵討というものがある
これは妻帯者が妻を寝取られたときその相手を即座に無礼討ちできるというものだが
その代償として妻も斬らねばならない
坂本龍馬は元治元年(1864年)8月1日中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺でお龍と内祝言を挙げるが
これにより中川宮が龍馬の居ない隙にお龍を寝取れば即座に無礼討ちができる
中川宮の勢力圏で態々挙げるのだから知らなかったでは済まされない
その場合お龍を代償として斬らねばならないがお龍もその母の貞も将作の仇を討つ決心を決め
女敵討による中川宮殲滅作戦を了承した
光枝の女郎屋からの救出を手助けし起美の嶋原遊郭からの救出を自腹で談判した龍馬に
お龍は命を捧げると覚悟した
尚且つ青蓮院塔頭金蔵寺に人質にされている弟太一郎も救出できれば悔いはない
元治元年8月からお龍はお登勢の居る寺田屋に囮として入り龍馬は別室に待機した
維新後もし坂本龍馬が暗殺されていなければ最後の仇討ちは
勤王家楢崎将作の仇で婦女陵辱魔の中川宮朝彦に対する最後の天誅だったのだ

426:坂本弁証人・でん次郎
10/11/25 21:54:25 zjjF9z530.net
陸奥宗光は紀州藩の攘夷派志士で南紀派の中枢で異端になり脱藩する
陸奥にとって水戸思想の岡田星之助を斬殺した坂本龍馬は敵と映ったに違いない
岡田星之助の軽率な行動は剣術の師である千葉重太郎を侮辱し裏切るもので士道に反するものである
佐那は岡田に犯されず貞操を守っているので龍馬の婚約者の佐那を襲った件では不問にできるが
剣術の師を欺き侮辱しその妹を陵辱しようとしたことは慙死に値し本来岡田は切腹すべきである
よって鳥取藩に於いては桶町道場師範代の重太郎が岡田の遺族による龍馬に対する仇討ちを制御した
文久3年(1863年)6月上旬剣術を不得手とする陸奥は水戸浪士の兜惣助及び大和の乾十郎と謀り
乾十郎を生贄にして龍馬を誘き寄せ決闘で龍馬の殺害を目論む
千葉周作は水戸藩士であるため兜は玄武館の水戸藩士らと交友があったのだろう
もし龍馬が兜を斬れば清河八郎の浪士組から離脱した壬生浪士組を敵に回しかねない
また兜と行動を共にしていたのが神道無念流免許皆伝で浪士組局長の新見錦とも云われ
近藤勇と芹沢鴨も大坂に急行していたがこれを察知した沢村惣之丞は
大坂西町奉行の内山彦次郎に知らせ途中で力士に足止めさせ大坂角刀事件が起きる
沢村はその間に勝海舟に知らせ小笠原長行の調停で兜らと和解した
それは士道に反して切腹せずに逃亡した星之助に一分の望みを与え龍馬に僅かでも非があるかを
検証するために龍馬は星之助と一対一の真剣勝負の決闘に臨んだのであり
この真剣勝負には星之助と同郷の黒木小太郎が立会い正々堂々と行われた
もしこの検証が間違っているというなら北辰一刀流を侮辱するものとなり水戸思想に禍根を残す
そして先の天誅に於いて元凶の公武合体派の悪党から娘達を救った好漢こそ龍馬であり
悪党中川宮に女心を弄ばれながらも平井加尾が心を寄せ愛した男が龍馬だからだ
もし龍馬を殺害すれば水戸思想に泥を塗り京の攘夷派


427:は水戸浪士に天誅の矛先を向けるが それよりも真の敵は公武合体派の中心で不浄な交尾合体で国を惑わす妖狐の姦臣だと諭したのだ この調停の後で小笠原は水戸思想派から糾弾され同年6月老中職を罷免された 新見はこの後局長から副長に降格され後に切腹させられ芹沢は近藤の意を受けた者に暗殺される 生粋の水戸思想の芹沢鴨にとって中川宮の様な者こそ汚らわしい存在だと映ったに違いない 翌年の池田屋事件では中川宮を幽閉することを画策中に中川宮の意を受けた新撰組に襲撃される



428:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 00:42:50 KgSudUruO.net
毎日同じ時間に投稿したがる人は放っといてスレ立て直したら?

429:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 09:05:21 x88/nfK50.net
気持ち悪いぐらい毎回21:54に投稿してるな。誰も読んでないのにご苦労なことだ

430:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 18:22:00 Q4MQj1xi0.net
竜馬ゆかりの料亭写真が現存 横浜開港資料館に
URLリンク(www.47news.jp)

431:坂本弁証人・でん次郎
10/11/26 21:54:34 +EqmRzje0.net
陸奥宗光の策による兜惣助らによる乾十郎を囮にした坂本龍馬殺害計画は失敗した
新撰組の人気取りや裏切りの粛清等は士道に反しながら切腹せずに逃げた岡田星之助を
1対1の真剣勝負で斬り佐那の心を守ったなかなか隅に置けない色男の龍馬を模倣したものである
近藤ら新撰組は坂本龍馬を斬ることによって水戸思想に禍根を残すことに躊躇した
兜の事件以後新撰組が直接龍馬と対峙する事は無く間接的折衝に終始する
後に伊東甲子太郎も同門の好で龍馬と交友する
陸奥はその後龍馬に兄事するがどうやら最大の関心事はあっちの方だったようだ
陸奥は兄事する龍馬の妻としてお龍を認めていない
陸奥は外交術では勝海舟に及ばないが陸奥の思想は恐らく古代中国の縦横家蘇秦を理想とするものだ
龍馬が薩長同盟を導いたのはこの時の弱者の陸奥の立ち回りが起因している
また佐幕交尾合体派の奥羽列藩同盟もまた陸奥の縦横を無意味に真似たものだ
桂の女好きは別として高杉晋作の芸妓遊びに影響を与えたのも龍馬である
乾十郎は天誅組の挙兵に加わり敗れて処刑され兜惣助は天狗党の乱で処刑された
近藤らを力士に足止めさせた内山彦次郎は元治元年(1864年)5月20日芹沢鴨粛清後の新撰組若しくは
前年同日に姉小路公知宇を暗殺した桐野利秋と中川宮の家臣団に暗殺された
その半月後に攘夷派志士が中川宮幽閉を画策中に池田屋事件が起きる
龍馬は岡田星之助の仇討ちにはいつでも応じるつもりでいたようだ
高杉が龍馬に贈ったピストルやブーツは龍馬の身を案じたものである
仇討ちには免許が必要で許可無く実行すれば処罰される
もし岡田星之助の仇討ちをする場合正々堂々とやらねば恥の上塗りとなり水戸思想に泥を塗る
よって鳥取藩士及び攘夷派志士による坂本龍馬暗殺説を否定する
結果的に公武合体派で素行の悪い佐久間象山は勝海舟に売られた形で後に鳥取藩士に暗殺された
沢村惣之丞は龍馬が暗殺された翌年の慶応4年1月14日長崎を警備中に薩摩藩士を誤射してしまい
同年1月25日志の高い海援隊士として士道に反する行為を嫌い切腹した
後に龍馬とお龍が夫婦だった時期に龍馬にお元という芸妓の女がいたと証言したのは後藤象二郎だが
後藤は一体誰を庇おうとしていたのか

432:坂本弁証人・でん次郎
10/11/29 21:54:24 LVu394VV0.net
文久4年(1864年)2月勝海舟は四国艦隊との調停のために坂本龍馬を連立って長崎へ赴く
横井小楠は文久2年12月19日肥後藩江戸留守居役吉田吉之助の別邸での宴会中に
肥後勤王党の堤松左衛門と黒瀬市郎助と安田喜助の3人に襲撃された
横井は大小を差しておらずその場から逃走し吉田は死んだ
肥後藩は横井を士道忘却として士籍剥奪及び知行召し上げの処分を下し
横井は熊本郊外の沼山津村の四時軒に蟄居していた
勝は厳しい処分によって生活に困窮していた横井のもとへ龍馬に金品を持たせ時勢を伝えさせた
横井小楠の理想は佐幕でも攘夷でもなく共和制である
だがどういう過程で日本が共和制になるのかは不可思議だ
恐らくは禅譲なのだろう
その禅譲において龍馬のような純真な志士はなくてはならないと横井は考えた
当時の世襲親王家は桂宮に男系はなく閑院宮は当主を欠き伏見宮は御落胤であるため
天皇家以外に真に正当な世襲親王家といえるのは有栖川宮だけである
もし有栖川宮が禅譲を容認した後で坂本龍馬が生きていたら
好漢龍馬は日本国大統領になっていたかもしれない
禅譲によって日本をアメリカのように共和制にし
初代日本国大統領に徳川慶喜を就任させるのが横井小楠の本当の狙いである
当時かなり斬新なこの思想は急進的尊皇攘夷派の理解を得られず
結局横井は維新後に十津川郷士によって暗殺されてしまう
勝海舟もこの世で最も恐ろしい人物は横井小楠と西郷隆盛だとしている
勝自身も横井の思いが叶ったら慶喜の次の座を狙っていた筈だ
大日本帝国は百年にも満たない邪道である
大政奉還=帝政ではない
坂本龍馬の船中八策に有名無実の貴族の専制などという考えは微塵もない
西欧列強に対抗する為に国体を勝手に帝政に変え不浄な排泄公卿の専制にした岩倉使節の俗臭に
勤労を奨励し近親相姦や乱暴狼藉を嫌悪して否定したアマテラスは嘆いただろう
徳川に於いて家康を入り口として考えると紀州藩が交尾合体のシンボルなら
水戸思想を受け継ぐ慶喜は徳川家に於ける「コウモン様」である
慶喜は幕府の終焉と同時に不浄な公卿の粛清を実行する為のきっかけになる筈だった
当然伏見宮系は反対するが異様な悪臭を放つ排泄公卿は奸臣として全て粛清されただろう
つまり大政奉還後の慶喜の復権は肥溜めシンボルの浄化の後の予定であったのだ
龍馬が暗殺される前に京都土佐藩邸にも京都福井藩邸にも入れなかったのは
慶喜の待遇が決まっていなかったからだが龍馬の死は結果的に慶喜を不利にさせた
第2次長州征伐に於いて幕府軍唯一の優勢であった赤坂の戦いでは
肥後藩が近代装備で奮闘し長州軍を圧倒していたが小笠原長行と不調になり突然撤退した
小笠原長行といえば龍馬が壬生浪士組に狙われた時に調停した人物である
龍馬の海援隊が参加していることを知った横井小楠が小笠原長行と計らい撤退させたのだ

433:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/30 03:03:09 WDvORanNO.net
大政奉還がまずかったんだって!
犯人は大久保や西郷だって!

434:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/30 07:10:19 fmTtQjzVO.net
>>420
薩摩も大政奉還推進してたけど?
小松帯刀知らんのかw

435:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/30 11:46:24 ZpDUheyU0.net
坂本信者って坂本が特別だと思わせたいがため
坂本と薩長を殊更対立関係にあったように思わせたがるよね。


436:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/30 13:46:49 3sQ55qSF0.net
暗殺時期の龍馬の行動は大胆過ぎる
お登勢には「松平容保にも会ったから心配するな」
永井に危ないから昼に来るなと言われるまでは
白昼堂々と佐々木や見廻組の住む地域に現れ
近江屋に尋ねてきた土佐の仲間に2階から「上がってこいや」と
声高々に叫んだり自分が幕府側の人間から狙われているという自覚ゼロな行動
会津と桑名は大政奉還反対派で、事実手代木の残した手記見る限り
危険人物と見なしていたのにそこまで考えられなかったのか…

437:坂本弁証人・でん次郎
10/11/30 21:54:25 2ctDydhu0.net
勝海舟はお龍のもとへ奸物中川宮を誘き寄せ女敵討として無礼討ちする策を龍馬に伝授した
文久2年(1862年)6月20日大坂で希望を見出せない龍馬はお龍の大立ち回りの場に出くわし事を収めた
そのお龍を龍馬と結びつけたのは勝と中岡慎太郎だろう
中川宮に狙われた勤王家楢崎家の惨状を憂う龍馬が長州藩士を動かし中岡も加わった
直心影流免許皆伝の勝は自身が奸物中川宮に狙われることが分かっていてもそれを恐れず
龍馬や中岡達に思うようにやらせた
奸臣池内大学の教示で合体に邪心を持つ中川宮は悪党を招集しお龍一家を狙わせた
中川宮の性欲の執拗さは尋常ではない
奸臣池内大学を殺害され薩摩藩を懐柔する為の自信の糧を失った中川宮は
会津藩を実質的支配下に置き勢力の拡大を図り
八月十八日の政変で京から攘夷派を一掃する
異常な勢いで勢力を拡大する奸物中川宮に対抗するには急所を攻めるしかない
勝は素行の悪い三条公恭に対し詰腹の代わりにシンボルを詰割ると脅して片を付けた話を
龍馬から聞いていた
勝自身も幼少の頃に狂犬に睾丸を噛まれ生死を彷徨っていると龍馬に話す
この件に関して龍馬はかなり得意になってエヘン顔の手紙を乙女に送っている
平井収二郎が合体狂の中川宮の奸計で十文字の切腹で命を落としたことも知っている
その中川宮が執拗にお龍を狙っていることも龍馬から聞いて知っていた
現状で公武合体派の中枢中川宮を追い落とすには正攻法では無理だ
だが父将作を手に掛けた中川宮を仇としその異常性欲に狙われるお龍と
素行の悪い三条公恭をシンボルの詰割り強襲で片を付けた龍馬が手を携えて事に当たれば
必ず希代の姦淫坊主を打ち滅ぼせると勝海舟は確信した
たとえ龍馬の身に危険が及び自分の現在の地位が脅かされても
旗本としての勝が奸物に脅かされることはない
勝海舟にとって龍馬は君側の奸を静粛するための駒の一つに過ぎない
親身に龍馬を心配していたのは実家と千葉道場以外では横井小楠だけだ

438:坂本弁証人・でん次郎
10/12/01 21:54:25 anNlnyWl0.net
元治元年(1864年)4月6日熊本の四時軒で蟄居する横井小楠は
加尾を弄ばれ収二郎を切腹に追い込んだ中川宮を仇として討ちたいと相談しに来た龍馬に
「乱臣賊子となるなかれ」と警告する
お龍という勤王家の娘が中川宮に執拗に狙われている為その女と龍馬が中川宮の勢力圏で
形式上の夫婦となりお龍が一人になっている処へ中川宮を誘き寄せ
女敵討として中川宮を誰からも文句を言わせずに始末するというものである
龍馬は以前に岡田星之助を婚約者佐那を犯した罪で斬殺している
だが勝によるお龍の元へ中川宮を誘き寄せる桶狭間のようなやり方は危険性が大きい
もし失敗すれば奸物側にとっては賊子と映り
やり方次第でその奸物と変わらないことになってしまう
女敵討は仇討ちとしては品が無く尚且つ代わりに妻を斬らねばならない
奸物といえども長きに渉って日本で泡銭を貪ってきた連中だ
そう簡単に引き下がる輩ではなく乱臣にされては元も子もない
土佐勤王党武市瑞山もすでに逮捕されている
まして龍馬はすでに千葉佐那と婚約している
そもそも横井と龍馬を結びつけた縁は千葉道場である
横井は勝に対する見張りとして甥の左平太と大平の2人と門弟の岩男内蔵允を同行させる
もしかしたら「筑前の大藤太郎」はこの3人の内の誰かかもしれない
この3人は神戸海軍操練所で修行し操練所の閉鎖で熊本へ帰り
左平太と大平は慶応2年(1866年)4月にアメリカに留学する
その後の海援隊には福井藩陪臣山本龍二以下6名の福井藩出身者がいて
操練所廃止以後もお龍を妻として勝の策略で動く龍馬を佐那の元へ戻すべく従っていた
横井としては龍馬は千葉佐那と結ばれるべきだと考えていた
「お前さんを失いたくはない。呉々も奸物には用心しろよ。」という意味で龍馬に促した
横井小楠にとっては坂本龍馬を危険に晒す勝海舟も奸物であったかもしれない

439:坂本弁証人・でん次郎
10/12/02 21:54:23 9ieVynHo0.net
池田屋事件の直前の元治元年(1864年)6月2日龍馬は黒龍丸で江戸に向かう
千葉重太郎は龍馬の行く末を危惧する横井小楠から
龍馬が勝海舟に誑かされ奸物との危険な戦いに手を染めようとしている事を知らされていた
そして龍馬から奸物中川宮に執拗に狙われているお龍という女に罠を張り
開国後の国政から公武合体派の奸臣を一掃し退けるという考えを聞かされる
その罠の任に素行の悪い公恭をシンボルの詰割り強襲で震え上がらせた龍馬自らが当たり
龍馬が青蓮院でそのお龍とやらと内祝言を挙げて中川宮を誘き寄せると聞かされ重太郎は憤慨した
これは勝海舟にとって自分を斬りに来た千葉重太郎との鍔迫り合いみたいなものだろう
重太郎は美人だけが取柄の楢崎龍と危険な道を歩むより
才色兼備の妹佐那が好漢坂本龍馬の嫁であるべきだと考えた
だが龍馬は加尾の兄収二郎の弔いと勤王家楢崎家の不幸を繰り返させない為に勝の策に従った
龍馬は佐那が自決を覚悟してでも龍馬への思いを貫いた事は受け止めたが
幼い頃から好きだった加尾を異常性欲を満たす為だけに弄んだ挙句に
仲の良かった収二郎を切腹に陥れた中川宮朝彦を討たねばならなかった
龍馬は中川宮朝彦を殲滅し平井家の無念を晴らさない限り
佐那との幸せな結婚生活に甘んじる事は考えられなかった
その頃京の池田屋では攘夷派志士が奸物中川宮を襲撃するために会合していた
龍馬は奸物中川宮との直接対決に挑もうとしていた

440:坂本弁証人・でん次郎
10/12/03 21:54:23 FpIiqN5g0.net
龍馬は文久3年(1863年)8月の1ヶ月と文久3年11月から12月までの2ヶ月を江戸で過ごす
龍馬は江戸で千葉重太郎を頼ったが鳥取藩士が在籍する桶町千葉道場で汗を流すことは無かった
文久3年8月14日の乙女への手紙で佐那を褒めちぎり「今の平井、平井」と記し
「以前から好きだった加尾と同じくらい今は佐那のことを好いている」としている
「今」でない「平井」が龍馬にとって何かはこの手紙だけでは分からない
加尾と親交のある乙女への脱藩して最初の手紙ではある者を「詰腹」の代わりに男性器を詰割りさせた
「つめわり」は岡田星之助ではないが詰腹を決闘に変更して死んだのは星之助である
男性器の詰割りの対象は武士でなく商人農民でもなく公家である
加尾を幼い頃から好きだったのかそれともそれ以上の関係か
男装指示の手紙を開示した加尾の心情を推察する以外にない
だがこの時期婚約していた龍馬と佐那の二人の間に男女の関係があったとしても不思議ではなく
龍馬の女はお龍だけで佐那とは男女関係は無いとする研究学会は明らかにおかしい
文久3年2月5日道場に一人残る佐那を強引に犯そうとした岡田星之助を見つけ出し
重太郎の指示で決闘で斬殺した龍馬は同年2月25日勝海舟や重太郎の働き掛けで脱藩罪を赦免される
同年3月7日勝海舟の護衛を岡田以蔵に任せ約1ヶ月江戸に滞在した
脱藩して佐那に合わせる顔が無かった龍馬は
舌を切り自決する覚悟で岡田星之助を拒んだ佐那の思いに気付き二人は愛し合った
文久4年(1864年)の正月元旦の龍馬は千葉家が仕立てた紋付を着て
佐那と仲睦まじく新年を迎えるつもりだったが龍馬は土佐帰国命令を拒絶し再度脱藩する
元治元年(1864年)6月8日の平井収二郎の一周忌に龍馬は中川宮との対決を決心する
龍馬は奸物と戦い幽霊となる覚悟で紋付の片袖を佐那に渡した
着物の袖は破かずとも糸を解けばきれいに外れるので家門の付いた片袖を佐那が預かり
片袖を外した紋付は龍馬がお龍に分からないように仕舞った筈だ
無事平井の弔い合戦が終わった後で分かれた紋付を元に戻し
龍馬と佐那は正式に夫婦になる筈だった
この弔い合戦は楢崎将作の弔い及びお龍とその家族への仕打ちに対する復讐でもあるので
たとえその後に自分と別れる事になっても本懐を遂げたお龍は満足に違いないと龍馬は考えた
龍馬は6月8日にすぐに江戸を出るつもりだったが龍馬が下田に着いたのは6月17日になってしまった
佐那は龍馬を離そうとはしなかった

441:坂本弁証人・でん次郎
10/12/06 22:27:51 SS3cmOIj0.net
龍馬の乙女宛の元治元年(1864年)6月28日の手紙
かの小野小町が名歌読みても、
 (妻の小千葉小町の月の日を推察し)
よく日照りの順の良き時は請け合い、
 (佐那の機嫌のいい日は愛し合い)
雨が降り不申。
 (佐那の機嫌が悪く生理の日は何もしない)
亜れは北の山が曇りてきた所を、内々よく知りて読みたりし也。
 (佐那とのアレは妻の小町の体を気遣っての事である)
にったただつねの太刀収めて潮の引きしも、
 (新田義貞?仁田忠常?=拙者、只管日常的にシンボルを佐那の中に収めて愛し合う時も)
潮時を知りての事なり。
 (好機を見計らっての情事である)
天下に事を成す者はねぶともよくよくはれずては、
 (大願成就を成すためには母体もがんばって妊娠してくれなくては)
針へはうみをつけてもふさず候。
 (龍馬のあれは生ませようとしても羽化させることは出来ない)
おやべ殿は早、子ができたなどと申人あり、
 (おやべちゃんがせっかちに「龍馬さんに子ができた」などと申す人がいる)
いかが私しがいいよるというておやり、かしこ。
 (どうだ私がこの手紙で宣言しているぞと言っておやりなさい、かしこ)
おとめさまへ
此手がみ人にはけして々見せられんぞよ、かしこ。
 (この手紙は人には決して決して見せられないぞ、かしこ)

442:坂本弁証人・でん次郎
10/12/06 22:31:28 SS3cmOIj0.net
龍馬の乙女宛の元治元年(1864年)6月28日の手紙
かの小野小町が名歌読みても、
 (妻の小千葉小町の月の日を推察し)
よく日照りの順の良き時は請け合い、
 (佐那の機嫌のいい日は愛し合い)
雨が降り不申。
 (佐那の機嫌が悪く生理の日は何もしない)
あれは北の山が曇りてきた所を、内々よく知りて読みたりし也。
 (佐那とのアレは妻の小町の体を気遣っての事である)
にったただつねの太刀収めて潮の引きしも、
 (新田義貞?仁田忠常?=拙者、只管日常的にシンボルを佐那の中に収めて愛し合う時も)
潮時を知りての事なり。
 (好機を見計らっての情事である)
天下に事を成す者はねぶともよくよくはれずては、
 (大願成就を成すためには母体もがんばって妊娠してくれなくては)
針へはうみをつけてもふさず候。
 (龍馬のあれは生ませようとしても羽化させることは出来ない)
おやべ殿は早、子ができたなどと申人あり、
 (おやべちゃんがせっかちに「龍馬さんに子ができた」などと申す人がいる)
いかが私しがいいよるというておやり、かしこ。
 (どうだ私がこの手紙で宣言しているぞと言っておやりなさい、かしこ)
おとめさまへ
此手がみ人にはけして々見せられんぞよ、かしこ。
 (この手紙は人には決して決して見せられないぞ、かしこ)
に訂正

443:坂本弁証人・でん次郎
10/12/07 21:54:31 /o70qRQL0.net
6月28日の手紙は元治元年(1864年)6月8日の中川宮に陥れられ切腹した平井収二郎の一周忌に
坂本家の家門の付いた片袖を佐那に残して収二郎の弔いを決意した後に
千葉家での心遣いを想い龍馬が佐那との愛の情事の証を乙女に告げた手紙であって
文久3年(1863年)6月29日の手紙の前日では龍馬がここまで赤裸々に乙女に報告する意味が無い
そもそも同年8月14日の手紙が最初の佐那の紹介なのだからそれ以前の赤裸々な手紙はありえない
文久3年の収二郎が切腹した直後にこんな手紙を出したら故郷の坂本家は佐那を白眼視してしまう
だが実際に坂本家で白眼視されたのはお龍であって
その事実もこの手紙が元治元年6月28日のものである証拠である
文久3年(1863年)8月14日の手紙については暗示であり千葉家との両家の証にはなっていない
恐らく龍馬の初恋の女性は佐那の姉の里幾だったのだろう
里幾は優しく亡き母の様に一人江戸で剣術修行する龍馬を支えていたはずだ
土佐の実家には里幾の話ばかりしていて自分より剣術に優れた佐那に臆するところがあった
だが龍馬が江戸を離れた半年後に初恋の女性里幾は労咳でこの世を去った
加尾は幼馴染で龍馬にとって妹のような存在で龍馬の初恋というより加尾の初恋である
加尾の為に脱藩し大坂を出て江戸の千葉家を頼ると龍馬は佐那にどう接していいか分からなかった
だが佐那は姉の里幾が他界すると自分が龍馬の妻になると決心し
岡田星之助の悪意の有る強引な求愛を舌を噛み切る覚悟で拒んだ
文久3年(1863年)2月5日龍馬が星之助との真剣勝負の決闘に勝つと江戸で二人は結ばれた
だが平井収二郎が土佐に送還されると雲行きが怪しくなり
即正式結婚即土佐へ帰藩という訳にはいかなかったと思われる
文久3年(1863年)3月から文久4年(1864年)6月まで龍馬が江戸にいる時は二人は愛し合った
だが残念ながら佐那との間に子は出来なかった
龍馬としては道場に鳥取藩士がいて重太郎も鳥取藩に仕えている状況で心が休まる事は無かった
佐那は物静かな女で龍馬に抱かれるときも受身だったのだろう
男性経験の乏しい佐那はそれでいいのだと思っていた
だが龍馬は一方的な愛し方よりもっと女性に癒されながら相互に愛し合う方を望んだ
元治元年(1864年)6月28日の手紙には男にしか分からない性に対する切実な欲求が感じられる
二人の間には時間と精神的余裕が足りなかった
見事奸物中川宮を討ち果たせれば二人は幸せに暮らせただろう
6月28日の手紙は「ねぶと論」などではなく真実は「妻の小町の手紙」である
維新後佐那が針灸を営んだのはもっと龍馬を癒してあげればよかったという想いがあったのだろう
千葉佐那の墓石には坂本龍馬室と刻まれている

444:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/09 18:13:08 pg21mH3C0.net
 龍馬を考えるとき、いつも複雑な思いに駆られるのは、龍馬暗殺である。
 京都見廻組の幹部だった今井信郎の証言で、長い間、同じ見廻組の佐々木只三郎が実行犯にされてきた。
佐々木は会津藩重臣の手代木直右衛門(勝任)の実弟である。
 会津悪人説が出てくるゆえんである。
『佐々木只三郎』(史伝研究所)に、
「実兄の手代木が息を引き取る数日前に、坂本龍馬を殺したものは実弟只三郎であり、それは某諸侯の命に
よるものであることをはじめて語ったという。某諸侯というのは、のちに見廻組が属した京都守護職松平容保
すなわち手代木の藩主を指すのであるが、この事実を公にすると、累を藩主に及ぼす恐れがあるので、
直右衛門はずっと後代まで沈黙を守っていたのである」
 とある。
 しかし、これには首をかしげる部分が多い。会津藩の重臣たるものが、主君である松平容保にとって不利な
証言をするだろうか。しかも手代木の証言の時期が死ぬ数日前というのも、作り話の印象がある。容保の実弟、
京都所司代であり桑名藩主でもあった松平定敬の指示という文書もある。
 この時期、龍馬は幕府若年寄の永井尚志と再三、会っており、ハト派の政策を進めていた。戦争ではなく平和裏に、
新生日本を作ろうということだった。
 その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。
しかも手代木自身にも不可思議なことがあった。
戦犯として幽閉されていた手代木は明治五年、明治政府から特赦を受けた。戊辰戦争で敗れた会津藩の同僚が
青森県に流され、塗炭の苦しみにあえいでいたときのことである。手代木は明治政府に出仕し、香川、高知の
権参事(副知事)を経て、岡山県下の各郡長、区長を務め、正六位勲六等に叙せられた。
 明治政府の要人のだれかが龍馬暗殺の犯人として、只三郎を作り上げ、只三郎が無実であることを知っていた
兄の手代木を処遇し、口封じをはかったのではないかとも考えられる。
 何かが隠されている。そんな気がしてならない。
 土佐では薩摩黒幕説、あるいは土佐藩内部の抗争説、さまざまな説が語られていた。
 天衣無縫に生きた龍馬の輝ける生涯のなかで、最期の部分は依然、闇の中である。
                                   星 亮一

445:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/09 19:09:56 TVL7GqOe0.net
「生前に恩恵を与えて懐柔したのではないか」
「死ぬ数日前の告白というのが奇妙だ」
「坂本龍馬の大政奉還は、戦争ではなく平和裏に新生日本を作ろうということだった」
「その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。」
星亮一の文章は間違いだらけで溜息が出ます。
明治政府出仕者のなかで手代木の処遇は厚遇というほどでもありません。
元旗本でも遥かに出世した場合があります。
坂本龍馬の大政奉還に対する意図は、土佐藩の記述によると
幕府を政権の座から引き摺り下ろし、薩摩への手土産とする、です。彼は討幕派ですね。
また、松平容保や松平定敬は大政奉還に強硬に反対し、政権の再委任を要求したという記述が
各種史料に存在しています。両人は大政奉還に敵対していました。

446:坂本弁証人・でん次郎
10/12/17 21:54:26 Ad/d0pd/0.net
文久2年(1862年)京の加尾の元を離れ
元治元年(1864年)6月8日の収二郎一周忌に於ける片袖の決意まで龍馬の女は佐那一人だ
佐那が預かった坂本家の紋付はこの時はまだ片袖ではなく
文久3年(1863年)2月5日悪意で佐那を犯そうとした岡田星之助を真剣勝負の決闘で斬った龍馬が
同年2月25日京都土佐藩邸で脱藩罪を赦免され佐那と結婚する意志を固め
婚礼用に新調してもらうために坂本家の家紋の付いた古着を見本として千葉重太郎に渡したものだ
千葉重太郎は同日京都福井藩邸で福井藩重臣村田巳三郎を訪れている
六角獄舎の近くにある武信稲荷の榎木に彫ったとされる龍の字はお龍の龍であり
龍馬が木に登ったとされるのは龍馬が起美を嶋原遊郭から救出した後で楢崎家の苦境を憂い
獄舎に投獄されている攘夷派志士から楢崎将作を知る勤王家を探す為とも推測できるが
まだこの時点で龍馬とお龍に恋愛感情は無い
お龍の父楢崎将作は女狂いの中川宮が異常性欲を抑えられずにお龍を陵辱しようとした時に
身を犠牲にしてお龍を守り姦物中川宮に嬲り殺しにされた
龍馬の慶応2年12月4日(1867年1月9日)の乙女への手紙には女狂い中川宮の姦謀を怒りお龍を助け
異常性欲の中川宮を刺し殺さんとしたのが宮中に奉公の経歴がある学識のある中路某の老母とある
梁川星厳の妻の紅蘭のことか
坂本龍馬は慶応2年12月4日の乙女への手紙で因縁の宿敵が中川宮だと認めている
これは紛れも無いdying messageである
勤王家の侍医楢崎将作を嬲り殺しにした中川宮に一橋派から公武合体派への転換を教示したのは
中川宮の侍講である池内大学であり池内は中川宮の侍医でもある
慶応元年(1865年)9月9日に龍馬が乙女に宛てたお龍を紹介する手紙には
頼三樹三郎・梅田源二郎(雲浜)・梁川星厳・春日(潜庵)を名の聞こえし諸生太夫としているが
池内大学の名は朝廷に蔓延る奸臣であるから書かれていない
その池内大学の孫の池内宏は東京大学文学部東洋史専攻の名誉教授である
現在の坂本龍馬暗殺を間違った方向に誘導しているのは天下の東京大学と池内家ということだ
「万国万世に亙りて愧じ有名無実の赤門は潰さんといかんき!
 然もなくば何時迄待っちょってもニッポンの夜明けは来んがぜよ!」
現代に龍馬がいればそう申すだろう

447:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/18 15:51:29 dFhWsHtB0.net
>>431
犯人は見廻組の桂早之助だろ?
物的証拠と書状が霊山博物館にあるだろ?


448:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/19 21:54:26 +6soWlJJO.net
佐々木只三郎は暗殺時の見廻組メンバーのリーダー
直接手は下していない

449:坂本弁証人・でん次郎
10/12/20 21:55:15 T03+Rq850.net
楢崎家長男の太一郎は安政4年(1857年)に生まれた
文久2年(1862年)1月20日中川宮の侍医の将作が悪者中川宮に嬲り殺しにされ
その後奸臣池内大学の教示で悪者中川宮は公武合体派となり
その勢力下の青蓮院に置かれた太一郎は楢崎家及び勤王家に対する人質となっていた
悪者中川宮は大獄による隠居前の名を青蓮院宮といい粟田宮ともいう
慶応元年(1865年)9月9日の龍馬の手紙には文久3年(1863年)に数えで7歳になる太一郎の記述が無く
慶応2年12月4日(1867年1月9日)の乙女宛ての手紙では起美を12歳と基点にし「男の子一人」としている
龍馬の手紙によって起美が数えで12歳の文久3年(1863年)は
太一郎が楢崎家の親権の及ばない場所に拉致されていたことが判る
慶応元年(1865年)9月9日の乙女への手紙に
「五歳の男子ハ粟田口の寺へつかハせしなり。」とあるが「つかハせた」のは
光枝と起美を勾引させた「悪者」中川宮である
この「五歳の男子」は同じ手紙での
「此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引きとりて人にあづけおきすくい候。」
の「五歳になる男子」の事で
慶応2年12月4日の乙女への手紙での
「十二歳の妹名きみへ、男子太一郎ハ摂州神戸海軍所の勝安房に頼ミたり。」の太一郎のことである
太一郎が数えで5歳の時の文久元年(1861年)の末に美人のお龍の精神的介護に悶々とする中川宮が
お龍を陵辱するために将作を唆して勤王家に対する人質として勢力圏に置いたのだ
文久3年の龍馬にとっての最大の出来事は悪意で佐那を襲った岡田星之助との真剣勝負の決闘であり
姦謀で次々と若い女達を陥れる中川宮との対決を決意していることを示している
龍馬は元治元年(1864年)8月に中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺でのお龍との内祝言において
平井収二郎の仇である異常性欲奸臣中川宮に対する宣戦布告をして
神戸海軍塾の仲間を引き連れ悪者中川宮の勢力圏から太一郎を奪還した
だが奪還した太一郎は少々普通の子とは違っていた
美人の姉達に似て美形の太一郎は悪者中川宮の勢力圏の青蓮院で人質にされ
2年半もの長期に亘って天台宗青蓮院の男色坊主達に散散おもちゃにされていた
地獄を見た幼い太一郎は救出されたとき最早この世に絶望していた
太一郎は勝海舟の許で再教育し姉の起美の助力でなんとか立ち直っただろう
お龍は「反魂香」で男色坊主達に「さしきれ」にさせられた楢崎家長男太一郎を次男扱いにしている


450:坂本弁証人・でん次郎
10/12/21 21:54:25 Fk41r7+w0.net
姉小路公知の暗殺で三条実美は震撼し同年6月8日に平井収二郎を介錯無しで十文字の切腹をさせる
美人のお龍を陵辱しようとした異常性欲の中川宮を制止したお龍の父の勤王家楢崎将作を嬲り殺して
それを寺社奉行管轄の病死扱いにして中川宮を公武合体派への転向を教示したのは奸臣池内大学で
加尾の陵辱を目論み三条公恭の素行を悪くさせ攘夷派公卿三条家の失墜を謀ったのは九条尚忠だが
武家の未婚の美女を陵辱するために飼い犬の4人の屈強な与力に襲わせて悲壮感を楽しみ
言い成りで無抵抗にされた武家の未婚の美女を商人出の男に犯させ眺めて楽しみ
武家の娘にその商人出の男の子供を妊娠させて屈辱感を味合わせて優越感に浸り
楢崎家の幼い娘達を親元から引き離してその恐怖心を弄び
楢崎太一郎を勢力圏の天台宗男色坊主に弄ばせて喜び
お龍のいる寺田屋に近藤勇と桐野利秋の猛者を送り込んで力攻めでお龍の服従を迫る
これらは全て他人がやった事として責任逃れをして己の異常性欲を隠す点で共通している
この思考は当時でも特異であり他に類を見ず尚且つ
これら全てに関与し指示できる異常性欲のド変態御落胤は中川宮朝彦1人だけだ
余談だが九条尚忠は昭和天皇の母親の祖父であり昭和天皇の妻の香淳は中川宮の孫である
昭和天皇の母方の祖父は女癖の悪い交尾合体の重鎮で(所詮交尾の狐)
昭和天皇を太平洋戦争に導いた妻香淳は女狂いのド変態御落胤の孫である(所詮伏見宮系は御落胤)
また奸臣池内大学の孫の池内宏は東京大学文学部東洋史専攻の名誉教授である
つまりド変態ファシストの国史歪曲プロパガンダの長が東京大学だということだ
姉小路公知暗殺団指揮官はド変態中川宮朝彦に命令された側近の伊勢新刀流師範の有馬範顕である
そしてこの有馬範顕が中川宮朝彦の坂本龍馬暗殺団を統括し
暗殺後桐野利秋を懐柔し薩摩藩を追従させる為に桐野の真似をして態とらしい遺留物を残した
「官武通紀」は女狂いの中川宮を擁護する為の虚構である
中川宮は御落胤兄弟の北白川宮を手懐け異常性欲を満喫する為にニセ天皇になり
御落胤ハーレムを築こうとした
明治6年西郷らが征韓論敗北で下野し国政が岩倉らによって公家の専制になると
中川宮家臣で坂本龍馬暗殺団の一人である山田時章も明治政府で要職に就いた
西南戦争で田中新兵衛の遺志を果たせずに戦死した桐野は無念だっただろう
東武天皇の構想は後に関東軍を従えた満州での御落胤帝國へと引き継がれる
満州黒龍江省には太平洋戦争終結の後に発見された中国最大の油田があるが
関東軍は戦前からその地に油田があることを某中国人(某台湾人)から聞いていた
つまり大日本帝国の太平洋戦争開戦の目的は資源枯渇によるものではなく
天皇と日本国民の玉砕を礎とした満州に於ける御落胤ハーレム帝國の建国である
1941年4月成立(期限5年)の日ソ中立条約は御落胤穴熊帝國の為の囲いである
つまり御落胤宮家は日本を1946年4月までに玉砕させるつもりだったということだ
これが太平洋戦争に於ける伏見宮一族の真実である

451:坂本弁証人・でん次郎
10/12/22 21:54:23 Fjhlo38V0.net
元治元年(1864年)8月1日京に戻った龍馬はお龍を寺田屋に待避させ
中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげ青蓮院姦淫坊主朝彦に宣戦布告する
これに憤慨した中川宮朝彦はまず龍馬の師である勝に狙いを定め
元治元年(1864年)9月神戸海軍操練所に対して過激派の巣窟という嫌疑を掛けさせ
同年11月軍艦奉行を罷免された勝は塾頭龍馬に薩摩を頼るよう指示する
勝は君側の奸の中川宮と真っ向から対決する以上すでに覚悟は出来ていた
「坂本龍馬の空白の4ヶ月」は君側の奸中川宮粛清のための薩摩との共同作戦である
龍馬は中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺での内祝言で朝彦を誘き寄せ朝彦を斬るつもりだった
奸物中川宮は勝の罷免の直後の11月及び12月に
奸物らしき近藤勇と奸物の守衛として就いている桐野利秋をお龍の元に差し向けた
北辰一刀流の龍馬は朝彦自身が痺れを切らしてお龍のもとへ乗り込んでくるのを待ち構えたが
中川宮が公武合体における君側の奸である確証は得ることができた
第一次長州征伐で西郷が穏便に収拾したのは日本の真の憂いは君側の奸にあると勝が諭したからだ
八月十八日の政変から孝明天皇崩御まで君側の奸として朝廷で君臨していたのが中川宮朝彦であり
この間朝彦は保身の為及び異常性欲を満たす為に佐幕派を意のままに動かすことができた
だが五卿の処分は西郷に従い中岡慎太郎の奔走で福岡預かりとなり長州征伐は決着する
龍馬は三条家でシンボルの詰割り強襲で脅した時と同じように
お龍に忍び寄る中川宮を斬るために寺田屋の片隅に潜んでいた
お龍の話では寺田屋には家内の者でも知らない秘密の部屋や階段があったそうだ
その間に新撰組が寺田屋を新撰組の定宿したいと言ってきたがお登勢は従わず
お登勢が新撰組に縛れれていた時も龍馬は隠し部屋に潜み寺田屋は新撰組に休息だけ了承し
龍馬が潜む寺田屋に新撰組がウロウロする状況が続いた
だが公恭からシンボルの詰割りの話を聞いていた朝彦は結局龍馬を恐れ自ら忍び寄ることは無く
佐幕派を動かし元治2年(1865年)3月18日勝の神戸海軍操練所を廃止させる
慶応元年(1865年)4月22日龍馬は西郷とともに薩摩へ向かう
続きは>74

452:坂本弁証人・でん次郎
10/12/23 22:15:19 xLscci7o0.net
お龍と加尾が美人でなかったなら明治維新は成す事が出来なかったといえる
文久3年(1863年)6月29日の龍馬の乙女へのせんたくの手紙に於いて
「美人を連れて行ってはいけない」�


453:ニ忠告している これは素行の悪い奸物の中に加尾のような若くて美人の女を行かせなければ 加尾が酷い目に遭わず平井収二郎が無駄に命を落とすことは無かったという意味だ もし加尾の代わりに強情で強い婆さんが三条家に行っていたら 公恭の素行が悪くなってもそれを窘め姦淫坊主中川宮に対し付け入る隙を与えなかった そして龍馬は顔かたちは加尾より上という千葉佐那と普通に夫婦になり 平井収二郎は美人の妹加尾の嫁ぎ先探しに懸命だっただろう だが武市瑞山率いる土佐勤王党を以ってしても奸物共を打ち破ることは出来ない 長州は久坂も高杉も桂も幕府との戦いで憤死し 薩摩は幕府による圧制のなか孤立し西郷は篤姫奪還を試みるが失敗し小松は無念のうちに息絶え 大久保は君側の奸の御用聞きとなり唐行き達を海外に売り飛ばす手筈で身を削る 姦淫坊主中川宮朝彦は朝廷と佐幕派を牛耳り性欲発散人生を満喫する 美人のお龍は中川宮に強引に陵辱され亡父の跡を追う 国体は「いぬ」に占有され神話とは完全に「別物」になり日本人は誇りを全て失い 志を立てる者はいなくなると以蔵は言う 天台宗青蓮院を勢力下に置く奸物の殲滅は一人ではできない 「一人でやればそれはそれは恐ろしい目を見るぞよ。  これをやろうと思えばよく人の心を見定めなくてはいかん。」 奸物共は今でも節操のないシンボルの矛先を獲物に向けようとしている あなたは奸物のシンボルを信じますか それとも英雄たちの志を信じますか



454:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 22:32:26 56U/TswlO.net
龍馬伝総集編やってるね

455:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 21:24:18 4G2qCQxz0.net
URLリンク(ameblo.jp)

456:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/15 23:28:22 ORwkuncl0.net
大河終わったらスレ終了か
底が浅いな

457:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/08 06:10:18 ppgqskW10.net
坂本龍馬と薩長同盟真実
1864年10月頃、福岡藩の早川養敬と月形洗蔵によって立案される
同年11月、早川中岡慎太郎と面会、同盟の重要性を説く
同年12月、早川月形の斡旋で西郷隆盛、高杉晋作の会談が実現
その後、早川月形は藩政が急転し失脚し脱落、活動は中岡土方へ受け継がれる
1865年1月、中岡は高杉山縣と会談、二月、中岡は長州藩勇士に対する薩長和解の必要性を説き
京の薩摩藩邸に出入り、4月下関大村益次郎・伊藤博文、桂小五郎らと面談しさらに強く薩長和解の必要性を説いた
同時に土方に坂本龍馬を説得し協力させる
龍馬参戦は1865年の3月辺りに桂小五郎と会談、亀山社中発足と同時進行
5月、西郷に下関で桂と会談することを了解させる
以下、ドラマ小説への世界へ
翌年1866年一月に薩長同盟成立  
結論、中岡土方のおかげでした


458:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/08 23:41:11 yuurn5GT0.net
薩長同盟を成立させるためには、薩摩から長州に武器を輸送する
ことが必要条件だった。結局それを実行できたのが竜馬だったんだよ。
薩長両方に顔が利き、船を操れる人間が不可欠だった。
理論ができても実行できなければ絵に描いた餅になってしまう。

459:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/09 10:34:01 skqNt1GC0.net
長州はグラバーと関係を持っていたので
わざわざボッタクリ価格で薩摩から買わずとも
自力でも調達できたんじゃね?


460:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/10 08:30:00 nIR/kAGj0.net
下関で堂々と外国商船から購入してたら、それを長州攻めの口実にされそうだったとか?

461:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/10 16:12:55 kBcTVcyYO.net
何たる知識の低さよ。
長崎での正規の武器貿易は幕府の長崎奉行を経由することが条約で定められている。
長州藩には絶対無理だ。
つまり薩摩藩が横流しするしかない。
密貿易をするにも過去に異国船に無差別砲撃をしたので長州の港に来る異国船は少ない。
黒船で直接上海辺りまで出向いて購入しようにも、黒船の購入自体薩摩の横流し頼みだし
結局この時期の長州藩は薩摩藩に依存していた。


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