10/10/20 13:01:52 q/rQcd6YO.net
>>231
何を言いたいのかさっぱり分からない(・ω・)
下手な例えは表現したい内容をかえって分かりにくくするよ
240:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 13:13:06 AIUlakEUO.net
>>223
お前大河ドラマ板にも同じこと書いたろw
241:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:40:14 dLEpQhpQO.net
>>230
局地戦で負けただけ
第二次世界大戦もシンガポール攻略時点で連合国が撤退したような物
常識的に考えれば徳川の圧勝だから
242:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:47:35 XLUq1Zh50.net
スレの上の方を読む限りでは、
大政奉還で得をする人
・土佐藩(徳川慶喜が勝てば彼の新政権、薩長が勝てば彼らの新政権の成立を応援したことになる)
・薩長(幕府が政権を手放せば、自らの薩長新政権成立の可能性が増す)
・朝廷(大政奉還によって自らの権威が増す)
・各藩諸侯(幕府を廃止し諸侯会議に政権が移行すれば、
徳川慶喜が首班だろうが薩長が主導権をとろうが自らの政権参加が可能)
大政奉還で損をする人
・江戸の幕府・旗本(一部の実務員を除くとリストラ対象)
・会津・桑名(諸侯の嫌われ者。尾張の慶勝や越前の春嶽あたりからも引退・自重を求められていた)
大政奉還とは、徳川慶喜が諸侯会議を政権とするにあたり、会津・桑名から諸諸侯に支持基盤を乗り換えようとした行為であった。
243:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:49:44 dLEpQhpQO.net
なんか日本語変になった…
長州征伐も鳥羽伏見も第二次世界大戦に例えるなら、日本がシンガポールを攻略した時点で連合国が撤退したような物
常識では考えられない敗戦であり、>>230的発想は結果論だけの短絡的な考え
大政奉還って部分だけを取り上げるなら、損をした人間など皆無だし一番得をする筈だったのが徳川
じゃなかったら大政奉還なんかしないから
244:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:54:27 bNv9uLJ90.net
例えが悪すぎる。
圧倒的な連合軍と、もはや死に体の幕府を同列に語るな。
245:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:08:53 dLEpQhpQO.net
>>237
幕府が死に体?
冗談は顔だけにしとけ
246:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:12:27 bNv9uLJ90.net
あたりまえだろ。
もし、政治も経済も軍事もきちんとしてたら、
長州なんか袋叩きできてただろうよ。
247:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:30:04 dLEpQhpQO.net
>>239
んじゃ貴方が言う圧倒的な連合国は日本の電撃作戦で撤退を繰り返したのかな?
表明的な部分しかみれない浅はかな考えは捨てた方が良いよ
結果だけを見て薩長のやり方を良しとした結果が第二次世界大戦の始まり
残念ながらルーズベルト君には、現人神の存在が何ら脅威では無かった
それが幕末と第二次世界大戦の違い
薩長が勝ったのは奇跡でしかないから
248:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:35:36 bNv9uLJ90.net
第二次大戦前に暗躍したのは、東北閥だろ。
249:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:36:59 bNv9uLJ90.net
例えるなら番長づらしてた奴が、
あいつ弱いんじゃねってちょっかいかけられて、
自分だけじゃ怖いから仲間よんで(仲間も番長が弱いんじゃねって疑いはじめてる)、
そいつをリンチしようとして、逆にぼこられた癖に、
この辺にしといてやらあって逃げ台詞はいて、引きこもりになったようなもん。
250:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:43:05 dLEpQhpQO.net
>>241
東北閥だろが薩長閥だろうがやり方は同じ
>>242幼稚過ぎるので以後スルーします
251:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:46:54 bNv9uLJ90.net
あたまのおかしなばかでもわかるようにかいてあげたよ
252:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:01:54 dLEpQhpQO.net
大政奉還に話を戻して書きます
一番得をする筈なのが徳川と書きましたが、その理由を書きます
当時の幕府にとって国内情勢で頭を抱えていたのは内乱ばかりではありません
開国による物価高騰と言う問題も抱えてました
しかしながら諸外国の圧力に負け不平等条約を勝手に結んだのは徳川幕府
当然ながら打開策となるべき政策など皆無
そこで大政奉還なんです
中央政権から諸藩に成り下がれば、その問題からは逃げられますよね
また、その難問は新政府に丸投げされる訳です
薩長がいくら朝廷を抱えこんで新政府を騒いだ所でその問題を解決出来る訳も無く、庶民の怒りもまた新政府に向けられる訳です
253:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:05:36 bNv9uLJ90.net
東北閥は狂信性一本槍。
悲惨な結果を生んだ。白虎隊にも通ずる。
長州は、暴走はするが現実的なところが強い。
254:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:15:19 XLUq1Zh50.net
>>245
>>235参照。あなたの説は一時的な逃避
255:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:24:52 XLUq1Zh50.net
不平等条約改正問題は、政権を背負ったなら必然的についてくる。
幕府は政権に留まろうとし、徳川慶喜は新政権で首班を手に入れることを当然のものとしていた。
徳川慶喜には政権を放棄するつもりが無かった。
不平等条約問題による政権投げ出し説は、この意味で全く不合理だ。
256:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:31:57 dLEpQhpQO.net
>>248
書き方が悪かったかな…
あくまでも一時的な策
大政奉還により物価高騰などの問題から抜け出せるって事
当然薩長で不平等条約を含む市民の不満を解決出来ず、最終的に徳川に泣き付いてくると踏んでいた
257:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:36:52 XLUq1Zh50.net
一時的でも同じこと。
政権担当能力は、徳川幕府より明治新政府の方が高かった。
258:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:47:37 dLEpQhpQO.net
>>250
それは結果論
大政奉還時点では徳川が無くなる事も予測出来なければ、慶喜自信が「新政府の方が自分達より優れてる」なんて思わないから
慶喜の思惑では市民の怒りは新政府に向けられ、薩長政権は朝廷からの信頼も失う
結果、徳川に泣き付いてくる
あくまでも大政奉還時点の話しでお願いいたしますよ…
259:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:52:57 8iZaB4d7O.net
>>251
その説を裏付ける史料はありますか?
260:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:02:20 dLEpQhpQO.net
>>252
噂の史料厨って奴ですか?
ここは学会でも無いし、私は自説を「史実である」と認めて貰うつもりすらありませんから
あくまでも自説を書いてるだけで、その自説の是非を皆さんに聞いてるだけです
勉強になりますからね
261:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:02:24 XLUq1Zh50.net
>>251
大政奉還と王政復古を混同した話を展開されても困る。
大政奉還時、徳川慶喜は政権担当の継続を望み、王政復古へも撤回を求めた。
それが「政権を彼らに与えれば、担当能力のない彼らが投げ出すだろう」に変わるのは、
王政復古以後のことであり、大政奉還時に徳川慶喜は王政復古が起こることを必然と考えていたわけではない。
「条約問題による政権投げ出し」説は、根本からして不合理だ。
262:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:08:47 dLEpQhpQO.net
>>254
>
> 大政奉還時、徳川慶喜は政権担当の継続を望み
勉強不足ですいませんが、これは慶喜が誰に対し望んだのですか?
私の知識では大政奉還したにも関わらず「慶喜が政権担当を望んでいた」なんてのを知らなかったので…
その話しなら、大政奉還したのに政権を手放さないつもりだったて事ですよね?
マジっすか??
263:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:14:16 jjwd9uWqO.net
ようは慶喜が腰抜けなだけw
錦の御旗、朝廷にびびっちまったんだよ
決死の覚悟で大阪城に留まっていれば、こんな惨めな負け方はしなかった
つまり覚悟の違いだね
結果的に水戸学が仇となったな
264:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:19:42 XLUq1Zh50.net
>>255
大政奉還時、政権は暫定的に旧幕府に継続されると朝廷と旧幕府は声明を出し
徳川慶喜は列強諸国領事にも、政権は依然として私にあると宣言しました。
これが変化したのが王政復古であり、朝廷内で二条摂政らを解任し明治天皇の親政を開始するための諸処置として、
旧幕府組織への全面否定が決定されました。
これに徳川慶喜は抵抗し、王政復古の撤回と旧幕府への政権委任の継続を要求しましたが、
これが容れられないと、慶喜は大阪へ旧幕府勢力を移転させました。
これが普通習う歴史なのですが、あなたは何を学習してきたのですか?
265:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:29:19 XLUq1Zh50.net
要するに、徳川慶喜の求める大政奉還(及び朝廷の下での慶喜新政権樹立)とは、
旧政権である幕府の主たる徳川慶喜から、新政権である諸侯会議の長たる徳川慶喜への交代であって、
徳川慶喜には、政権を降りるつもりはこれっぽっちも無かったということです。
しかし、一回手放した政権は戻っては来ませんでした。
手放したこと事態が徳川慶喜にとっての大失策となりました。
266:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:32:21 dLEpQhpQO.net
>>257
それは暫定的でしょ…
大政奉還した直後に新政府が設立される訳も無く、朝廷が委任した物
大政奉還その物は徳川が政権を返上し、一諸藩に成り下がる事ですよ…
267:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:45:44 dLEpQhpQO.net
>>258
なんか結果論と史実を交えた書き方だからイマイチ意味がわからない…
大政奉還時点での根本的な情勢を書きますよ
第二次長州征伐の失敗により幕威は衰退していましたが、客観的な国力も軍事力も徳川が薩長を圧倒しています
それは大政奉還で政権を形式上返還しても何ら変わりはありません
貴方の論調は「武力による倒幕が成った」って結果論から成り立っているようで、イマイチ論点がズレてると思いますよ
268:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:52:31 XLUq1Zh50.net
>>259
いいえ、徳川慶喜は大政奉還までの間に、諸侯会議の雛形となる参預会議及び四候会議において、
会議の創設者である島津
269:久光を排除する形で会議の主導権を握ることに成功しています。 徳川慶喜は大政奉還後、各藩諸侯へ二条城へ集合し、諸侯の合議制会議を開始することを布告しました。 徳川慶喜はこの会議の長として、新政権の主となることを既定事項と考えていました。 大政奉還は政権放棄ではなく、自らの政権継続の手段と徳川慶喜は認識していました。 しかし、実際は諸藩は流動的な政局に尻込みし二条城に代表を送らず、慶喜の望む諸侯会議は成立せず、 また、この後の薩摩及び尊王攘夷派公家が起こした王政復古による朝廷内の小御所会議にも、集まった諸侯は少数でした。 この時薩摩が朝廷、つまり天皇を擁し、尾張や越前・彦根や土佐、淀(国許)まで小御所会議に取り込んでいたことが 彼らに有利に働くこととなります。
270:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:19:13 XLUq1Zh50.net
>>260
どうもあなたは、徳川慶喜による二条城における諸侯会議開催通知と、
諸侯への二条城への召集布告を知らないのではないか、と疑問に思います。
徳川慶喜は、大政奉還において自らが政権を手放すとは全く考えていませんでした。
暫定的に旧幕府を維持し、諸侯会議成立と共に旧幕府の有用な官僚を連れて
自らが新政権の主となることを自明のこととしていました。
この徳川慶喜の望みを砕いたのが、王政復古による旧幕府否定でした。
271:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:46:49 dLEpQhpQO.net
>>262
召集布告までの暫定政権が旧幕府ですよね
そもそも貴方の意見に矛盾を感じます
慶喜は政権を手放す気がない。大政復古の大号令がそれを阻止した
これが貴方の主張です
では大政復古のクーデターに慶喜は何故抵抗しなかったのですか?
矛盾ですよね?
最終的に朝廷は徳川に泣き付き政権を取り戻せると踏んでいた。故に一時的に政権を手放す事は厭わなかったのでは?
272:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:49:41 bNv9uLJ90.net
客観的な軍事力なんて、当時の幕府には把握できてなかっただろうな。
イギリスからの最新の武器を手にいれてた長州に、逆に圧倒されてびびったのが事実。
273:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:59:30 q/rQcd6YO.net
下手な例えの繰り返しで何を言いたいのか分からない書き込みばっかり(・ω・)
274:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 23:02:33 XLUq1Zh50.net
>>263
全然矛盾ではありません。大政奉還時と王政復古以降の徳川慶喜の姿勢とは、また別なのですから。
それに、あなたは大政奉還時の徳川慶喜の姿勢として「政権を薩長に与えれば投げ出す」と主張していますが、
それは王政復古以後のことでしょう。
大政奉還後、王政復古まで徳川慶喜は朝廷と協調し、暫定的に旧幕府政権を維持していました。
政権は依然徳川慶喜の手にあり、諸侯会議開催によって再びこの長となる徳川慶喜に名実共に帰還するものと思われていました。
これが破れるのは王政復古、朝廷が旧幕府を否定し、朝廷内に別の諸侯会議・小御所会議を設立したときです。
王政復古に徳川慶喜は抵抗し撤回を求めますが、その時点では朝廷の譲歩を得られず、
配下の暴発を防ぐと称し徳川慶喜及び旧幕府勢力は大阪に移転します。
徳川慶喜の政権維持意欲をあなたは無視しています。
あなたの論理は根本的に矛盾しています。
275:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 23:24:29 XLUq1Zh50.net
徳川慶喜は大政奉還後も、旧幕府、そして二条城で開催されるはずだった諸侯会議の主という形で政権を維持しようとしました。
徳川慶喜側の大政奉還の理由として「政権を幕府が手放せば、朝廷は手に余り投げ出す」説を挙げる不合理さは、
ご理解いただけたのではないかと思います。
大政奉還後も徳川慶喜は政権を維持していたのですから、この間の政治課題は相変わらず徳川慶喜が処理するしかありません。
責任は相変わらず徳川慶喜が背負っていました。責任逃れには使えません。
276:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 02:23:52 oBkJiNdsO.net
幕府て第二次長州征伐で完敗したくせに
その後、その教訓が全然活かされてないよね
末期的組織てはそういうもんなんだろうけど
277:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 02:27:43 LA1iyZtJP.net
龍馬没後の徳川対薩長の話ばかりだな
スレ違いだから
278:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 11:00:12 6b5+aA4JO.net
>>266
相変わらず結果論ありきの論調ですね…
大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は不可能
つまり大政復古以降に政権を手放したのは、大政奉還時点から考えれば結果論ですよね
貴方がおっしゃる説ならば慶喜は大政復古のクーデターを断固阻止してなきゃおかしいのでは?
279:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 12:07:51 ctiniw1x0.net
>>270
>>266参照。
あなたの文章の三行目と四行目の論理が対立し断絶しています。
>つまり大政復古以降に政権を手放したのは、大政奉還時点から考えれば結果論ですよね
この行では、「大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は不可能である」ことをあなたは主張しています。
>貴方がおっしゃる説ならば慶喜は大政復古のクーデターを断固阻止してなきゃおかしいのでは?
この行では、「大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は可能である」ことをあなたは主張しています。
あなたはこのスレの上の部分で、大政奉還と王政復古を混同し、
「大政奉還で徳川慶喜は、政権を投げ出せば朝廷が手に余って手放すと慶喜は思った」と主張してきました。
しかし、その論理は実際は矛盾だらけで不整合なものであり、
逆に徳川慶喜が自らが政権を維持することに意欲を燃やしていたという事実は、既に説明されています。
徳川慶喜が京都から大阪に移転したのは王政復古の後、朝廷が旧幕府に与えていた暫定政権の座を否定し、
徳川慶喜が旧幕府に代わる自らの政権基盤として設立を急いでいた諸侯会議を朝廷が否定し、
代わりに朝廷内に別の諸侯会議・小御所会議を創設した時です。
大政奉還の徳川慶喜側の理由として「大政奉還で徳川慶喜は、政権を投げ出せば朝廷が手に余って手放すと慶喜は思った」
を挙げることは不合理極まりない虚偽でしょう。
大政奉還時には徳川慶喜は、これは暫定政権としての旧幕府と将来の政権基盤としての諸侯会議との移行手続きと考え、
大政奉還実行が自らが政権を手放すことになるとは思っていなかったのですから。
あなたの意見は、検討する限り成立する余地がないのです。
280:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 19:10:12 ctiniw1x0.net
あなたの言った「大政奉還時に慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」
という説は、徳川慶喜の監修によって世に出た「徳川慶喜公伝」及び勝海舟の明治以降の多くの供述等で
何度も主張されています。半ば定説のように語る人もいます。しかし両人の明治以降の説明という点が問題です。
大政奉還後、徳川慶喜は朝廷から暫定的に政権として承認されていた旧幕府を維持する一方、
全国の各藩に二条城での諸侯会議開催を通知し、各藩代表を召集していました。
徳川慶喜の主催する諸侯会議が開催されたなら、徳川慶喜はこの諸侯会議の長として、
諸侯会議及び徳川慶喜の選抜した旧幕府官僚による組織を新政権として承認することを朝廷に要求したでしょう。
旧幕府から諸侯会議への政権移行が発生するだけで、どちらも首班は徳川慶喜です。
要するに、徳川慶喜は政権を手放すつもりは全くありませんでした。
しかし王政復古が起こり、朝廷によって旧幕府は政権としては否定され、
諸侯会議も徳川慶喜の主催ではなく朝廷内に小御所会議として設立されることが通知されました。
徳川慶喜の政権構想は明確に否定されました。
「慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」はこの時期、
徳川慶喜及び旧幕府勢力が京都から退去し、大阪に移転した時点のものでしょう。
断じて大政奉還の時点の徳川慶喜の意見ではありえません。
なぜなら、大政奉還後も徳川慶喜は政権を維持し、さらに朝廷の承認の下での自らの政権の継続を望んでいたのですから。
「大政奉還時に慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」
という見解が生まれた背景についてですが、明治以降の徳川慶喜・勝海舟両名の見解だということを念頭に入れましょう。
明治維新の結果として、明治以降の徳川慶喜の立場は明治新政府に逆らった元犯罪人、
国家元首としての天皇の下、名門であり顕職ではあるが実権のない廷臣の一人でした。
明治以降の徳川慶喜にとって大政奉還とは、天皇を国家元首とする新体制誕生への先駆けとしての
自らの決断として、明治の体制における徳川慶喜自身の立場を強化するものに変貌を遂げていました。
その同じ徳川慶喜が幕末には、大政奉還後も自らが首班となる政権を維持継続しようとした、
まして、彼自身のの構想した新政権で首班はおろか国家元首として想定されていた可能性すらある、などということは
明治天皇を国家元首と仰ぎ、明治新政府の治下にある両名にとって、最も隠蔽されなければならない事項でした。
そのためこの両名にとっては、大政奉還と王政復古を意図的に混同させることで
徳川慶喜が政権維持へ強い意欲を持っていたという事実への言及を避け、
明治新政府の元での廷臣としての自らの立場を守るという意味があったと思われます。
しかし、それは処世術であり欺瞞であり隠蔽です。
あなたは、あなたの記述で言うところの「結果論ありきの論調」としての徳川慶喜の明治以降の供述に踊らされています。
徳川慶喜は、大政奉還によっても政権を手放すことはありませんでしたし、政権維持に並々ならぬ意欲を示していました。
「大政奉還時に慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」という論は成立しません。
要するに大政奉還とは、論理上所有していても徳川慶喜にとって親近感のない江戸の幕府は廃棄し、
京都で徳川慶喜自らが主宰する諸侯会議及び自らの京都における幕僚達による国家体制に移行する、
政権の移し換えを実行する手段として、当時の徳川慶喜は考えていた、ということです。
281:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 20:10:18 19qLw/M8O.net
>>272
長いw
手短に言うと維新前後で発言の意図が変わるからそこは斟酌が必要って事だろ?
282:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 22:29:35 AGJwX7300.net
安政6年(1859年)12月7日中川宮は隠居永蟄居に処分される
同年同月平井加尾は三条家に仕えるために上京する
これは朝廷内で重い処分を受けた中川宮を癒す為及び中川宮の動向を探らせる為だろう
三条公恭の素行の悪さに悩む加尾は中川宮に個人的に相談しに行ったかもしれない
中川宮は桜田門外の変以後もまだ永蟄居のままだった
この頃中川宮は美人のお龍の精神的看護に悶々としていた
勤王家の楢崎将作の無残な死とその後のお龍に降りかかる苦難は平井加尾の帰郷に尾を引く
文久2年(1862年)4月土佐を脱藩した坂本龍馬は加尾を救うために長州から京に向かっていた
同じ頃中川宮は赦免され同年4月16日薩摩藩が護衛のために上京し
同年4月23日寺田屋事件が発生する
この時桐野利秋は中川宮の守衛列藩となる
龍馬より先に脱藩し寺田屋事件の翌日に京に入った吉村虎太郎は捕縛され土佐送りとなった
龍馬は寺田屋事件後の厳戒態勢を振り切って加尾の元に馳せ参じた
加尾は自分を助けるために危険を顧みずに駆けつけ脱藩の罪を背負ってしまった龍馬に
申し訳なく感じた
幼い頃から兄のように親しんでいた龍馬の死を覚悟した命がけの再訪に
生まれ育った故郷土佐を離れ京で三条公恭の素行の悪さに悩まされ続けた加尾は
最早込み上げる感情を抑える事は出来なかった
283:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 11:24:00 ARruf7nFO.net
>>271
根本を書かせて頂きます
貴方は「結果論」の意味を理解されてないのでは?
また慶喜が大政復古のクーデターを阻止可能だったなんて書いてませんよ
貴方の設なら何故慶喜は大政復古のクーデターを静観したのかを疑問に思い質問してるのです
申し訳ありませんが全く纏まらない文が長文となってるので全ては読んでません
284:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 11:38:14 ARruf7nFO.net
>>272
> 徳川慶喜の主催する諸侯会議が開催されたなら、徳川慶喜はこの諸侯会議の長として、
> 諸侯会議及び徳川慶喜の選抜した旧幕府官僚による組織を新政権として承認することを朝廷に要求したでしょう。
本当に長文ですね…
どっかのサイトのコピーですか?
その上記の部分が貴方と私が違う部分
なぜなら全く根拠が無いからですよ
285:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 12:20:06 1oB5mYPT0.net
>>275
詳しく結果論について、アホでもわかるように説明してください。
286:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 15:30:31 gVR05oNW0.net
薩長政権が出来なければ徳川慶喜の政権が継続したわけですが、
結果に囚われて徳川慶喜の政権に将来が元々無かったことにしてしまう、そんな結果論で語る携帯の人
相手を罵倒するロジックに相手は嵌らず、自分が嵌っているだなんて、ばかみたい
287:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 15:47:05 DSvHzKNz0.net
どうせなら、慶喜ちゃんスレを盛り上げてくれw
288:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 16:40:52 ARruf7nFO.net
>>277
結果から遡って語る事
289:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 16:49:48 ARruf7nFO.net
>>278
> 薩長政権が出来なければ徳川慶喜の政権が継続したわけですが、
それが慶喜の狙いなら、何故大政復古のクーデターを慶喜は静観したのですか?
薩長政権が出来た所で政権維持は不可能と慶喜が考えていたと考えるのが妥当では?
内政・外交と問題は山積み
これらを解決出来なければ朝廷からの信頼を失い、朝廷は当然徳川に泣き付くでしょう
また名ばかりでは無い薩長政権を設立するには武力で徳川を倒さ無ければならない
じゃ無ければ諸藩は付いて来ないですから
大政奉還時点で徳川が武力で敗れるなど非現実的
故に慶喜は政権を一時的に放棄しても必ず戻ってくると踏んでいた
290:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 16:55:00 ARruf7nFO.net
>>281
修正
大政復古では無く王政復古ですね…
291:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:01:24 S/cJ2VQe0.net
おお、結果論に乗っかって相手を結果論と罵る変態さん来訪
徳川慶喜の政権は結果として倒れたから、彼の将来政権構想は存在しないって言い出した人
大政奉還後は二条城に諸侯を集め、彼らのトップとして新政権樹立宣言をするつもりだったというのは、
徳川慶喜の政権構想としては順当だと思うけどね
現に徳川慶喜は諸侯に二条城への代表招集をかけてるし
これに対抗して薩摩らが朝廷内に作って諸侯に召集をかけたのが、小御所会議だし
292:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:04:05 ARruf7nFO.net
>>278
> 結果に囚われて徳川慶喜の政権に将来が元々無かったことにしてしまう、そんな結果論で語る携帯の人
>
誰がそんな主張をしてるんですかね?
聞き手の粗相は言い手の粗相と言いますから、もし万が一私の主張がそう思えたのなら謝ります
大変申し訳ありません
現実的では私に限らず他の方も「徳川政権の未来について」など語ってません
293:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:05:05 ARruf7nFO.net
>>283
> おお、結果論に乗っかって相手を結果論と罵る変態さん来訪
> 徳川慶喜の政権は結果として倒れたから、彼の将来政権構想は存在しないって言い出した人
>
そう思うレスのアンカーお願いいたします…
294:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:06:28 1oB5mYPT0.net
>>281
>大政奉還時点で徳川が武力で敗れるなど非現実的
なんで非現実的なの?
295:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:10:06 ARruf7nFO.net
>>283
>
> 大政奉還後は二条城に諸侯を集め、彼らのトップとして新政権樹立宣言をするつもりだったというのは、
> 徳川慶喜の政権構想としては順当だと思うけどね
>
その根拠が全く無いので質問させて頂いてるんです
諸侯への召集をしたのは朝廷
その召集までの暫定政権を任命したのも朝廷ですよ
296:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:12:29 ARruf7nFO.net
>>286
それが解らない方とは議論に為らないと思いますので、申し訳ありませんがスルーさせて頂きます
297:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:14:22 1oB5mYPT0.net
>>288
説明もできないのに、、
都合が悪くなると結果論だって口癖のように言ってるのは卑怯ですよ。
298:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:14:40 S/cJ2VQe0.net
どうも妄想に乗っかっていることに気付いていないらしい
かわいそうだと思う
299:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:16:23 ARruf7nFO.net
てかそもそもですよ、慶喜は諸侯会議での徳川新政権を企ててたと言うならば、なんの為の大政奉還なのですか?
元も中央政権に君臨していた慶喜は、大政奉還したのか?教えてください
300:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 17:26:37 ARruf7nFO.net
なんか煽りたいだけの方が多いようなので、他の場所で勉強させて頂きます
お騒がせさせてすいませんでした
301:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 18:17:10 S/cJ2VQe0.net
なんだか、土俵から足が出ているのに負けていない、それは結果論だって言っているみっともなさ
302:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 18:36:53 S/cJ2VQe0.net
ああ、この人の言う「結果論」とは、史実上現実に起きた事物からその背景を類推思考することではなく、
それらの思考で得られた結論を「結果論」として無視し、別の妄想を模索することだったのか。
それは本来の用法とは違うよ。
303:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 19:41:54 N4+t2lCu0.net
龍馬ドコー?
304:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 20:13:43 S/cJ2VQe0.net
なーんか龍馬から大政奉還へ、
その中で「龍馬は佐幕派でー、薩長を懲らしめるために大政奉還をやったんだよ」(馬鹿かw)
と言いたげな人が変な煽りをやらかして、事後処理にかかりたいな、というところ。
305:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/22 21:54:23 Gdh6arkz0.net
中川宮は公武合体派の中心で自身もその節操のないシンボルで合体する邪心を抱く
お龍に逃げられた中川宮は次に公恭の素行の悪さに悩む武家の娘の美人の加尾に興味がわく
だが三条公恭から龍馬によるシンボルのつめ割り強襲の話を聞いていた中川宮は龍馬を警戒し
素行の悪い三条公恭の抱き込みによる攘夷派公卿三条家の分断を優先させた
中川宮は薩摩の後ろ盾と公恭の抱き込みによる三条家との板挟みなら
武家の娘の加尾でも陵辱できると判断し慎重に加尾に迫り苦境に耐える若い女心を弄んだ
平井収二郎は一橋派だった中川宮が楢崎将作の死後に公武合体派に心変わりした理由を
加尾の探索によってある程度知らされていた
中川宮は伏見宮の系統であるが伏見宮は土佐藩と険悪な紀州藩と親密であり尚且つ御落胤である
節操のないシンボルを持て余す奸臣で御落胤の朝彦を妹加尾を使った色仕掛けで丸め込み
積年の恨みのある紀州藩に一泡吹かせようと収二郎は考えた
加尾は京で脱藩した龍馬と再会した後は三条公恭による鬱憤も晴れ兄の言い成りになった
平井収二郎は土佐勤王党が入京した2ヵ月後取敢えず加尾を土佐に帰郷させた
収二郎は弄ばれた加尾を京に残さなくても中川宮はすでに美人の加尾の虜となっていると考え
1年の間を置いた後で再度加尾を上京させるつもりだった
だが中川宮の加尾に対する執着はお龍に対する執拗さに比べると小さかった
中川宮は陰惨に陵辱できる玩具としての淑女が欲しかったのであり
武家との難しい国政問題を抱えながらの悩ましさの薄れた娘との情事には興味を示さなかった
加尾が土佐に戻って3ヶ月後には収二郎を見限り中川宮は山内容堂に平井の件を告げる
306:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/23 11:16:19 6tvnixh2O.net
キモい妄想ss垂れ流してる奴は何がしたいの?
307:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/23 12:50:04 WBg5sqoN0.net
加尾の兄収二郎を奸計で陥れた中川宮の真の狙いは
素行の悪い三条公恭の抱き込みによる攘夷派の分断及び
公恭の素行の悪さに悩む美人の加尾への自身の奸索を利用された腹癒せである
三条公恭の祖父三条実万が安政6年に他界し桜田門外の変で綱紀粛正が緩んだ後
中川宮は自分の家臣チンピラ青侍を使って三条公恭の素行を乱し
三条家に非難を向けさせることによって姦淫坊主の自分の永蟄居を解いた
中川宮が大獄で処分され家臣の有馬範顕と山田時章も連座し許された後も中川宮に従った
平井収二郎は加尾を弄んだ事を口実に色仕掛けで中川宮を操り
一橋派から勤王派楢崎将作の死後に公武合体派となった中川宮を再度尊皇攘夷派に変えさせ
土佐勤王党と親密な攘夷派公卿として藩政改革の令旨を請うつもりだった
だが文久3年1月22日池内大学を暗殺された中川宮は土佐勤王党を嫌悪した
お龍への陵辱を制止した勤王家楢崎将作を嬲り殺しにした後の中川宮に
侍講として公武合体派への転換を教示したのが池内である
中川宮は池内の教示で薩摩藩と渡り合い随従させるはずだったがその自信の糧を失った
中川宮にとって下級上士の娘の加尾との情事は飽くまで遊びであり
御落胤の系統ではあるが世間体には世襲親王家である自分の嫁としては藩主の娘以上を要求した
中川宮はこれを同年1月25日に上京した山内容堂に告げ容堂は激怒した
歴史上平井収二郎は中川宮に信任されていて中川宮の密告で容堂を激怒させた事になっているが
文久2年8月に上京してから容堂が上京する文久3年1月までの僅か半年間で
尊皇攘夷派武士と公武合体派公家が信頼関係を築けるとは考えられず
簡単に平井収二郎が中川宮に信任されていたとする現在の理論は出鱈目である
平井収二郎と中川宮朝彦との関係は山内容堂が激怒するくらい泥沼だったはずだ
308:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/23 14:02:27 B2UaXyq0O.net
大政奉還ばかりが話題になってるがもう少し遡って長州征伐ぐらいからの慶喜や薩摩、土佐、会津、尾張の動きを見た方が状況の変化とかそれぞれの思惑が見えるんじゃないの?
薩摩、土佐、伊予、越前との会議が決裂した時点で幕藩体制の維持も諸侯会議での政権運営もかなり難しいように思うんだが…
309:坂本龍馬の魅力
10/10/23 23:00:04 pQo7enNv0.net
俺が不思議に思うのは、尊敬する歴史上の人物を挙げるとして
URLリンク(uyoku.wiki.fc2.com)
URLリンク(image.blog.livedoor.jp)
(右翼として活動している奴)
URLリンク(www.jtu-net.or.jp)
URLリンク(f.hatena.ne.jp)
(日教組として活動している奴)
の両方とも“坂本龍馬”と“吉田松陰”を挙げる奴が多いことだ。
※三島由紀夫は除外する。
日本を洗濯した偉人(坂本龍馬)は、右と左の垣根を越えて共鳴するものがあり、強く支持されるのだろう。
(俺は右翼も日教組もどちらも同人種だと思っているが……。)
※いくらかは、日教組の方がましかも知れんが……。
(川柳) 日本人
右翼(みぎ)も左翼(ひだり)も
龍馬好き
310:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 13:41:50 2Ru2S7pP0.net
ウヨサヨはよそでやってくんないかな
311:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 15:30:16 J/SVKUKv0.net
坂本龍馬、土佐の豪商の息子として誕生
希望により武士の称号を得江戸で武術修行、黒船来航
親戚の武市半平太の尊王攘夷運動に共鳴、土佐勤王党設立時に名を連ねる
長州藩久坂玄瑞の藩を超えた尊王攘夷連帯に応じ脱藩、長州へ
武市は過激思想で京都で勢力拡大、土佐でも暗殺で実権を得る
しかし京都では島津久光の公武合体論へ主流が移動、土佐でも後藤象二郎が武市を捕縛、土佐勤王党壊滅
坂本、神戸で勝海舟が運営していた幕府海軍操練所へ入門
操練所が潰れると勝海舟の斡旋で小松帯刀や西郷隆盛の薩摩に引き取られ、長崎で亀山社中を設立
薩摩藩の資金で蒸気船を保有し貿易業(主に薩摩の武器購入)に従事
薩摩藩、徳川慶喜との関係悪化により倒幕へ転換、薩長同盟締結。亀山社中は長州へも武器納入
京都での尊王攘夷派巻き返しに伴って土佐藩後藤象二郎、坂本龍馬へ接近
土佐藩の資金投入で亀山社中は海援隊へ改組、土佐へも武器納入
坂本、薩土盟約締結を斡旋する一方で土佐へ大政奉還を推進するよう進言
徳川慶喜、後藤象二郎の大政奉還提案を受け容れる
坂本、京都にて京都主義職配下の見廻組によって暗殺される
312:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 16:01:43 ya00STtA0.net
江戸時代の与力には毎朝湯屋の女湯に入れるという特権があり髪結に髷を結わせてから出仕した
庶民の家には大抵風呂はなく夫のいる女は夜旦那に抱かれた後の早朝は湯屋でその後処理をした
早朝湯屋に来る女は決まって旦那がいる女であり年頃の生娘が朝湯に入ることはまずない
もし未婚の娘が朝出仕する前に連日与力が女湯にいる朝湯に入っていたら与力は訝るだろう
ましてその娘が高揚した飛び切りの美女だったなら与力の下半身はとんでもない事になった
与力・力士・鳶の頭は江戸の三男と呼び伊達男として持て囃された
会津の民謡「会津磐梯山」に出てくる小原庄助は朝寝・朝酒・朝湯が大好きで財産を潰したという
当時の朝湯は贅沢だったのだ
この小原庄助は元禄時代の人とも戊辰戦争時代の人ともいう
倒幕の原因を元禄時代の放蕩に準えた物だろう
戊辰戦争の敗戦で混乱した会津では婦女に対する強姦も多発したらしい
岡田以蔵が関わったとされる暗殺に森孫六・大川原重蔵・渡辺金三郎・上田助之丞の4人の
京都奉行所与力の殺害がある
この4人の与力は安政の大獄で志士の弾圧に加担したということで攘夷派に狙われ
文久2年(1862年)9月23日この4人が江戸に逃げようと夜に江州石部宿に着いたところを
30人以上の志士で襲撃し殺害した
上田助之丞は逃走し打ち漏らしたが深手を負わせたため死亡
森孫六・大川原重蔵・渡辺金三郎の首は青蓮院のある京都粟田口に晒された
中川宮は大獄による隠居前は青蓮院宮または粟田宮と称し青蓮院はその勢力圏である
中川宮の合体の邪心に狙われた某美女は某勇者との抱擁の後で
連日早朝出仕前に好奇に満ちた4人の与力のみのいる女湯に入ってきた
313:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 17:00:18 juG3N6+J0.net
龍馬がいなかったら、薩長同盟はなかったのだろうか
314:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 17:37:09 ya00STtA0.net
>304
>連日早朝出仕前に湯屋の女湯で後処理をし
>ある日好奇に満ちた4人の与力のみのいる女湯に入ってきた
に訂正
湯屋の女湯を与力の手引きで密室にされ4人の屈強な与力に代わる代わる犯された某美女は
悲壮な面持ちで帰途に着いた
彼女は某勇者に真実を打ち明けられないまま以後某勇者との契りを拒んだ
もし打ち明ければ某勇者は間違いなく与力の元に単身乗り込み命を捨てることになる
某美女は某勇者を愛していた
某美女は自分が受けた屈辱に絶え某勇者を心配した
某美女は以前から兄にその某勇者と関わるなという指示をされていた
それを口実に某美女は某勇者を追い出した
某勇者は已む無く江戸に向かった
猿の文吉はその一部始終を見張っていた
315:坂本龍馬の魅力
10/10/24 19:45:00 DT+N32Ff0.net
>>302スレ違いでしたか......。
どうもすいませんでした。
316:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 19:57:24 J/SVKUKv0.net
妄想小説馬鹿も居るのだから、そんなに気にする必要はない。
だが、小説はソースにしない、これは鉄則。
317:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 20:52:10 NNRFYUePO.net
歴史小説を書くのは誤った情報を蔓延させる犯罪にも近い行為だしな。
318:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/24 21:09:35 ya00STtA0.net
>308
>309
お主は奸臣池内宏の手先か
319:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/25 18:20:03 FNwJzFdj0.net
電波小説はツイッターでやれ
そのためにあるんだろ?ああいうのは
320:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/25 20:54:03 2J6UURg50.net
龍馬が江戸に向かった後で一人京に残された加尾は寂しさと恐怖心に苛まれた
そんな加尾に追い討ちを掛けるように変態公卿中川宮の魔の手が伸びる
加尾はこれまでのことを収二郎に知らせたが収二郎は加尾にもう少し三条家で我慢するように伝えた
そして中川宮の件についてはこれまで以上に親身に接するよう指示した
その間に岡田以蔵を土佐勤王党の名簿から除外し京に先行して潜入させ
内々に加尾の身辺警護に向かわせる
以蔵が加尾の家を張っていると怪しい男が加尾に張り付いていた
調べてみると島田左近の手先で岡っ引きの猿の文吉だった
以蔵は土佐勤王党が上洛した後で清岡治之介と阿部多司馬の3人で猿の文吉を三条河原に連行し
刀の穢れとして斬殺ではなく河原にあった細引き網の縄を使い絞殺した
その死体を裸に引ん剥き三条河原の杭に縛り竹の棒を肛門から頭まで貫き高札には「いぬ」と書いた
その頃加尾はまだ三条家に仕えていた
問題はその飼い犬である
その後何故4人の与力がそろって京から逃げなければならなかったのか
それ以前に与力が天誅されたことはなく4人が示し合わせてそろって逃げるのはおかしい
誰か犠牲になってから逃げるのならまだ話は分かる
個人的なら一人ずつの方が動きやすいし伊達男の与力4人がそろって動くのはかなり目立つ
尚且つ江州近江まで追って殺害した与力の首を京都まで持ってきたのは分かるが
何故中川宮の勢力圏の粟田口に晒したのかだ
30人以上の志士で天誅をしその首を殺害した場所と離れた場所に晒した以上
その晒し首の場所の名には必ず意味がある
つまり粟田宮と名乗っていた中川宮に対する天誅である
これは勤王家楢崎将作を嬲り殺しにし奸臣池内大学に教示され公武合体派に変更して
合体に邪心を持つ性的異常者中川宮に対する脅しだ
321:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/26 21:42:57 2DXxWxkpO.net
単に武力討幕するのと大政奉還挟むのとではどう違う訳?
大義名分?
322:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/26 21:55:13 on8NYHy00.net
単なる口実
およそ飲めない事を拒絶する事で討伐の名目ができるからな
323:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/26 22:26:17 zGMRBuoG0.net
いや、大政奉還をしていない幕府と敵対した場合、日本国政府と敵対することになる。
大政奉還後は朝廷が政権を持っていたので、朝廷の命令に従っているほうが正しいと中間諸藩は考えた。
324:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/26 22:35:05 UZAsWTE/0.net
ってことは幕府は騙されたようなものでしょうか?
325:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/27 01:28:08 PCTMD+AKO.net
>>316
なぜそう思う?
326:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/27 23:11:55 r90e66Vp0.net
大政奉還しようとも領土と幕軍が健在なら
自動的に徳川家が今まで通り諸侯のトップの座に収まるからな
慶喜もこの時は保身のために受けた
んで王政復古の大号令
327:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/28 00:01:44 0aReyhJU0.net
木戸と龍馬の手紙のやり取りで狂言とか大芝居の一件って言葉が出てくるけど
大政奉還のことなのだろうか
328:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/28 00:09:20 kbIRK2cPO.net
狂言=大政奉還
大芝居=倒幕
ってことでしょ?
329:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/28 09:22:49 Lic3UVFF0.net
>>303
>武市は過激思想で京都で勢力拡大
何、「過激思想」って?
攘夷思想は屈辱外交拒否・植民地化拒否って言う極めて真っ当な思想だし、
「過激派」にはなり得ない。
佐幕派全体が土佐勤皇党をつぶし龍馬・慎太郎を暗殺するほどに超ウルトラ過激派だっただけ。
司馬遼太郎の歴史改竄小説に騙されてちゃいかんな。
戦争で負けたわけですらないのに、
不平等条約を異勅で勝手に締結し、
函館、新潟、横浜、神戸、長崎を治外法権の実質割譲地として欧米列強に差し出そうとし、
逆らう者は徹底的に弾圧するという佐幕派全体が
自己保身に狂っているだけの低脳国賊かつ過激派であることは極めて明瞭だろ?
そういう低脳国賊かつ過激派がどういう形であれ処罰されるということは、社会として独立国として極めて健全である証。
330:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 14:22:35 C8JTnQLi0.net
>>316
大政奉還で先手打たれたor騙されたと臍を噛んだのは薩摩などの倒幕派&幕府in江戸や会桑の幕権派だろう。
倒幕派は討幕の密勅とか無駄になったんだし。
んで王政復古で倒幕派が巻き返したんだけど、小御所会議では容堂公や春嶽侯が頑張って
再びケーキちゃん(幕府は無くなったので徳川家)有利に傾いてた。
んだが、割と蚊帳の外だった江戸の幕権派が、乗ったのか乗せられたのか知らんが
会桑らの中に薩摩藩邸討伐って爆弾放り込んで鳥羽伏見が起きちゃった。
あわれ容堂公や春嶽侯の努力は水泡と消えましたとさ。
331:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 14:53:22 DIAoXjp1O.net
ただ大政奉還には薩摩の小松帯刀も尽力してたよね
結局大政奉還って何なの?
332:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 14:58:33 BaTvTuXT0.net
徳川排除による政治体制が究極の目的なら、大政奉還などアホ以下の物でしかなかった
333:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 15:02:53 1p8MM5X00.net
大久保一蔵も日記で「慶喜は大政奉還したというのに未だに権力を
持っており、このまま真の大政奉還を実行しなければ、慶喜への疑いは
晴れない」みたいなこと書いてる。大久保も大政奉還に期待してたみたいだね。
334:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 16:40:11 Y2RWC0Wp0.net
>>322
ちゃうちゃう
倒幕方の最終要求ラインは幕府の辞官納地。
徹底して骨抜きしなきゃ、未だ強大な幕府軍がどうリベンジしてくるか分からない。
大政奉還如きで
335:事が収まるなんて現代の平和ボケした論点だよ
336:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 17:03:59 RE+RVnBg0.net
>>326
その通り。
大政奉還は最もスムーズな倒幕のための一里塚に過ぎない。
龍馬自身、土佐藩に大量に武器を買わせて武力倒幕に土佐藩を備えさせている。
NHK龍馬伝が、またまたどういうデタラメを公共の電波で垂れ流すか?を監視してないといけない
337:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 18:58:54 2M0gbguY0.net
>>323
大政奉還とは、大奥や徒食旗本等を解雇するために、幕府を形式として消滅させる、ということ。
京都で徳川慶喜が新政府を諸藩と一緒に作れば、江戸の幕府連中の干渉は入りにくい。
ほら、星亮一(会津偏愛小説家)が、気に入らない自分のとこの会員を叩き出すために、
ファンクラブを解散して即お気に入りだけを選んで再建したじゃん。それと同じだよ。
但し、大政奉還の場合は日本国政府の地位を朝廷に返上することであり、
朝廷が新政府を認定する権利を保有することとなった。
そのため、一旦大政奉還を行ったら、徳川慶喜は朝廷を納得させない限り新政権を作れないし、
朝廷が他者に新政権の座を与えたら、そちらに新政権が移ってしまう。
徳川慶喜にとっては大政奉還は大失敗であり、討幕派にとっては大政奉還は望外の大成功だった。
338:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/29 19:08:45 RE+RVnBg0.net
>>328
>大政奉還とは、大奥や徒食旗本等を解雇するために、幕府を形式として消滅させる、ということ。
?????
イミフ
幕府が旗本解雇とかを考えていたのなら免職したり禄高を下げたりすればいいだけの話。
339:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 00:37:40 BuChfzY70.net
結果論だと倒幕側に有利に働いたよね。
しかし武力倒幕を見越しての大政奉還にしては小御所会議で難航し、戦いに持ち込むのも強引な感じ。
やっぱり政権を返上するとは思ってなかったんでは、四候会議の慶喜の態度を見ても。
木戸も狂言と言うくらいだし。
340:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 00:44:32 hJ/K8Ern0.net
そもそも「王政復古=倒幕派」なのであって「討幕派」じゃないのがミソさ。
だからこそ王政復古に親徳川の土佐・福井そして尾張徳川家が協力し、薩長と共に兵を動かした。
そして、討幕派=薩長の2に対し、倒幕派=土佐福井尾張徳川の3。2:3で親徳川が有利だったんだよ王政復古w。
341:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 01:04:40 hIcfgt3c0.net
親薩長系の安芸と宇和島が抜けている。
王政復古で小御所会議の役に付いた諸侯は、
尾張越前も含め、会津と桑名に対しては排除する意向を示していた。
徳川慶喜は、小御所会議の諸侯か、会津桑名か、どちらを支持基盤にするかに迷った挙句、
薩摩の江戸襲撃によって起こった、会津桑名の暴発を押さえられずに、
朝廷と小御所の諸侯全体を敵にした形で戦いを始め、自滅する。
342:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 05:19:57 ZyuxxXcF0.net
薩長も大政奉還をある程度認めてた(どうせ無理だろうけど「実権」返上するなら)
でやっぱり政権返上しても慶喜が主導権、実権を握ろうとした。
な?やっぱ実力行使しか無いわw・・となった。
343:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 11:13:36 a/kd35Kv0.net
徳川宗家のフランス式近代陸海軍が揃ったら、鹿児島城下が焼き払われるのは目に見えていたから
薩摩としてはリスクはあっても、弱いうちに倒幕に向かわざるをえなかったと思う。
長州はもう戦略以前に感情的に倒幕だし。
344:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 11:17:31 y/JNIWAI0.net
>>329
まぁそれだけのことだが、難しいんではないかな。
実際に原市之進は、その旗本に暗殺された訳で。
徳川家中の問題でもある以上、幕府解体してどうなるもんでも無いとも思うが。
345:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 11:57:22 6s57Pxk7O.net
財政の問題が大政奉還の後押しをしたかは分からんな。
ただ旗本・御家人・大奥女中という無駄の多い徳川家の体制を切り替えようとする試みは歩兵隊や海軍を組織する中でも見られた。
大政奉還をするしないに関わらず家中のリストラは段階的に進めたんじゃないか?
346:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 13:17:14 6Qqu2kleO.net
王政復古のクーデターは
大政奉還で幕府が無くなりただの徳川家になったから上手くいったのである。
幕府でない徳川家には薩摩のクーデターを強行策で止める大義名分が無かった。
347:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/31 15:42:52 OGxwlEL+O.net
大政奉還がワンクッションになったからこそ王政復古がスムーズにいったわけか
348:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 01:30:50 LmkktajvO.net
サツマイモと鰹のタタキと河豚かぁ。
349:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 03:30:16 efVAM6mi0.net
サツマイモ・鰹のタタキ・河豚VS朝鮮人参
350:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 06:51:08 KHPl7zVP0.net
萩名物は夏みかんだろ。
351:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 08:58:21 f7D55G+bO.net
大政奉還に武力倒幕を目論む薩長が焦ったとかよく言われてるけどこれ根拠ないよね
352:坂本弁証人・でんじろう
10/11/01 21:54:23 pGVeKMNE0.net
加尾に追い出され京を出た龍馬は文久2年(1862年)6月11日に大坂で沢村惣之丞と会い
同年7月23日大坂で桶口真吉に会って1両の金を借りているがこの金は江戸への船代だろう
この頃の龍馬は主に大坂に潜伏していたと思われる
楢崎将作の死を文久2年(1862年)6月20日とするのはお龍の「反魂香」からの引用であるが
文久2年(1862年)1月20日に死んだ将作の命日を
お龍が龍馬を偲んで同年6月20日に言い換えたもので
「父も此れくらいは許してくれる」という気持ちで偽ったものだ
六角獄舎や武信稲荷での龍馬の話はそれを口実に中川宮の淫行を粉飾している
ただしこれは加尾に追い出された龍馬が文久2年6月20日以降に一旦京に戻ったことを暗示している
中川宮に狙われたお龍が龍馬という武者を失い維新後に釈放された中川宮の影響力を恐れての偽装と
龍馬の真の婚約者である千葉佐那に対して対抗するお龍の詭弁を奸物が利用しているのだ
お龍の云う文久2年6月20日は大坂に売られた14歳になった光枝を取り返しに行って暴れた日で
加尾に追い出され大坂で希望を失いかけていた龍馬が悪党との間に入りお龍に助太刀した日である
龍馬の手紙ではこの日のお龍の状況をかなり詳しく書いてあるので龍馬自身が見た儘を書いたものだ
慶応元年(1865年)9月9日の乙女への龍馬の手紙で京の嶋原遊郭に売られた起美については
「としもゆかねバさしつまりしきづかいなし」
(幼かったので差し当たり気遣い無し)
としているが当時の遊郭では12歳以上だと「としもゆかねバ」とはならず
この記述から起美が10歳(数えで11歳)の文久2年に於ける事件であることが分かる
大坂の女郎に売られた光枝については気遣いについての記述が無く
盗賊に家財道具を奪われ当座の資金も無く片道の船代の着物を売るのに手間が掛かり
京から女のお龍が一人で追い大坂で光枝達を探す事を考えると恐らく間に合わず
美人のお龍や起美に似た年頃の14歳の娘はすでに散散弄ばれた後だった筈だ
お龍は光枝の様子を見るや悪党を召集した中川宮に聞こえるように命を張って大立ち回りをし
そこへ偶然居合わせた龍馬が現れて光枝の貞操を奪ったことを理由に悪党から光枝を奪い返した
この時はまだ龍馬とお龍の間に愛は芽生えていないが
龍馬はお龍から執拗な奸物中川宮の非道を知り楢崎家の置かれた切実な状況を目の当たりにした
中川宮ら悪党はお龍が着物を売っても船代片道分にしかならないと分かっていたから
この時大坂からの女二人の夜道を襲うつもりで待ち伏せしていた筈だ
だが龍馬はお龍と光枝を船で京まで送り嶋原遊郭の起美を龍馬の脱藩資金で救出した
お龍が一人で大坂に乗り込んできたということは将作死後は勤王家の志士との縁が無い事が分かる
龍馬は京に居る長州藩士を探し元長州藩士楢崎家で起こっている惨状を訴えた
この時龍馬は淀川の船宿寺田屋のお登勢と知り合い
お登勢は悪党から3人の女達を救った龍馬に感服した
そしてお龍は亡くなった勤王家の父の再来のように龍馬を思慕した
これが「反魂香」に於ける楢崎将作の命日の文久2年6月20日の真実である
異常性欲を満たす為なら幼い子供さえも陥れる卑劣極まりない奸物中川宮の誘拐教唆の犯行に
龍馬はこの国を根本から正さねばならないと決意した
この事があって坂本龍馬は横井小楠に師事することになる
文久2年(1862年)7月大坂に戻った龍馬は脱藩時に持参した金を起美の奪還に使い切り文無しになり
桶口真吉に借りた1両の金でやっと千葉重太郎のいる江戸に向かった
只管美女二人を待っていた中川宮達悪党一行は落胆した面持ちで大坂から京の船着場に着いた
それを見てお登勢は「為て遣ったり」と喜んだ
龍馬は加尾の置かれた状況をまだ知らない
353:坂本弁証人・でん次郎
10/11/02 02:10:43 Xki3dP3K0.net
でんじろう先生と被るので改名します
354:坂本弁証人・でん次郎
10/11/02 21:54:24 Xki3dP3K0.net
龍馬が楢崎家の為に長州藩士を探して奔走している間に
土佐から岡田以蔵が京にいる加尾の警護の為に土佐勤王党を除名されてやってきた
龍馬は以蔵を見たかもしれないが脱藩の身であるため会うことは出来ない
以蔵は在京の長州藩士や攘夷派志士から龍馬が勤王家楢崎家の娘達を救ったことを聞いた
寺田屋のお登勢の話から攘夷派志士ではすでに龍馬は伝説になっていて
この話は薩摩の田中新兵衛にも届いていた
この時岡田以蔵は田中新兵衛と知り合う
以蔵が加尾の家を見張っていると猿の文吉が張り付いていた
以蔵が文吉を追跡調査すると文吉は養女を青侍島田左近の妾にしてその手先となっていた
紀州藩と親密で女癖の悪い九条尚忠に仕える諸大夫の宇郷重国と青侍の島田左近は
安政の大獄で攘夷派志士を弾圧していた
文久2年(1862年)7月20日島田左近は田中新兵衛らによって暗殺される
田中はこの時はまだ岡田の真意を知らず勤王家楢崎家の復讐として九条の青侍を殺害した
武家の未婚の絶世の美女は密室にした女湯で代わる代わる強姦しては湯で洗い流しまた強姦し
4人の与力達が飽きるまで絶え間なく強姦するという残酷なやり方で弄ばれた
与力達は絶世の美女との又と無い好機に夕刻の帰宅時間まで寄って集って美人の娘を陵辱した
もともと与力は不振な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
女湯が種付けと称して封鎖されるのは珍しいことではない
覚えの無い旦那はその子を人にやるか売るか捨てるかして悪党に落ちぶれる者も中にはいた
男が女湯に堂々と入れるのは種付け与力と三助だけであるから強姦与力はすでに判明している
この4人の与力も安政の大獄下で攘夷派志士の弾圧に加担していた
問題は髪型を見て武家の未婚の娘であることが判っていながら集団暴行事件を起こした背景である
355:坂本弁証人・でん次郎
10/11/02 22:19:58 Xki3dP3K0.net
>もともと与力は不振な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
>もともと与力は不審な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
に訂正
356:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/02 23:18:25 M4wM19u30.net
>>346
ウラヤマシス↑↑↑。
357:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 15:26:35 O3/8YDv60.net
そもそも
幕府、見回組説だったら暗殺する必要ないよね
堂々と捕まえればいいだけ
358:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 16:21:09 lHYJyjEqO.net
>>348
捕縛禁止命令出てなかった?
359:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 19:10:28 SuBiEdim0.net
>>348
三条辻の事件
(三条辻にあった旧幕府掲示物が破壊されたので、新撰組が犯人を捕縛尋問したら、
そいつは土佐藩士だったので、土佐藩を味方に付けたい京都の旧幕府上層部が慌てて釈放し、
逆に新撰組が処分された)
これを考えると、旧幕府側は当時土佐藩の庇護下にあった坂本龍馬を
正規に捕縛は出来ない。君の説には根拠がない。
360:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:10:52 ZWFgavod0.net
いや龍馬暗殺後は、土佐藩はけんもほろろという突き放した態度だったが
361:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:11:15 IzP1v4q80.net
>>342
薩長内部でも意見が統一されていたわけじゃないからね。
リスクの大きい武力討伐はやりたくない人間が大勢いるのは当たり前。
逆を言えば武力討伐をやりたい側の一部の人間が暴走する可能性は
無きにしもあらずだが、それ以上の事は分からないだろうな。
362:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:19:14 SuBiEdim0.net
>>351
暗殺直後に、新撰組犯行説が一般に信じられたからね。
これも結局は会津藩傘下だから、幕府上層部が暗殺について発言を避けても
土佐藩は、山内容堂一人を置いて一層討幕に走ることとなった。
会津は、坂本龍馬暗殺が土佐藩を討幕に向かわせるということを、考慮すべきであった。
363:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 21:44:18 3HbimVcK0.net
>>352
大政奉還があったお陰で武力倒幕のリスクはぐんと下がったと思うのだ�
364:ェ
365:坂本弁証人・でん次郎
10/11/03 21:54:24 zpOSY7Ld0.net
岡田以蔵は龍馬の楢崎家救済の縁で長州藩士と交流し新たな情報を得た
国学者長野主膳は井伊直弼の懐刀として安政の大獄を推進し島田左近らを使い朝廷工作をしていた
女癖の悪い九条尚忠に仕える青侍島田左近が集めた金は一万両にもなり
その金は九条尚忠や長野主膳に回りその遊興費となった
楢崎家の二人の娘を誑かしたのは嶋原遊郭の近くに住む長野主膳の愛人の村山加寿江とその息子で
息子の多田帯刀は長野主膳が打首されると遊ぶ金に困り起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
公卿方の人入れ稼業の平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛は中川宮の手の者に懐柔され悪党を雇い
将作没後の楢崎家から家財道具を盗ませそれを横流しして楢崎家の資金繰りを悪化させ
寺田屋事件に於ける急進的攘夷派粛清後の大原重徳の勅使の際には青侍として随行し
各地の役人に近々品のいい美人の未通娘を買い入れると吹聴してその「旦那」の呼び込みとなり
「交尾合体派」を集め起美の水揚げの手付金を徴収していた
平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛は中川宮の手先の言う「公武合体」を「交尾合体」だと信じて疑わなかった
寺田屋事件で一旦は急進派を粛清させた薩摩藩は文久2年(1862年)8月21日帰京中に生麦事件が起き
同年閏8月6日勅使一行が上洛すると薩摩藩は攘夷の先鋒として期待され閏8月23日京を出て帰藩する
この時すでに起美は龍馬が談判して嶋原遊郭から救出されていて
大原の勅使に随行しながら「旦那」を呼び込んだ平野屋と煎餅屋は役人達から吊し上げを食う
以蔵は大坂で足止めされている山内豊範の参勤交代一行にこれまでの報告をした
すると文久2年8月2日土佐藩下横目の井上佐一郎が探索していた
井上は岩崎弥太郎と共に行動していたが岩崎は極秘情報を得て先に帰藩していた
以蔵らは井上を酩酊させて首を絞め脇差で刺し殺した
文久2年5月21日に薩摩藩一行が京から江戸に向かった後での京の風紀の乱れの原因は
京に潜入させ中川宮に女心を弄ばれた加尾の犠牲によって
勤王家楢崎将作を嬲り殺し大坂に住居を移した奸臣池内大学の教示で公武合体派となり
合体に邪心を抱く奸物中川宮であることが断定した
文久2年閏8月20日中川宮と山内容堂との間での攘夷督促勅使の問題で攘夷派を装いながら
「公武合体派」中川宮の側で合体の実用性を説く本間精一郎を平井収二郎らは天誅として殺害した
以蔵はこの殺害に田中新兵衛を同行させ真実を話した
文久2年閏8月30日猿の文吉の屍骸の高札には「いぬ」と書かれていた
366:坂本弁証人・でん次郎
10/11/03 22:44:01 zpOSY7Ld0.net
>息子の多田帯刀は長野主膳が打首されると遊ぶ金に困り起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
>息子の多田帯刀は長野主膳が文久の改革で糾弾されると遊ぶ金に困り
>起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
に訂正
367:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/03 23:36:59 m1da2IyfO.net
薩長同盟も大成奉還も龍馬ではないと言う説が根強い9割は創られた群像坂本龍馬が正しいのでは
徳川光圀同様であろう、但し、坂本龍馬は当時は全く無名で何故司馬は龍馬を題材にしたのだろう?
368:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 00:29:15 tnjYuQKO0.net
無名ということはない。戦前の坂本龍馬は征韓論の先駆者、大陸浪人の鑑とされていた。
(これは明治維新後に後藤象二郎が、彼の持論の征韓論の補強に、
征韓論を坂本龍馬と西郷隆盛の遺志扱いして触れ回ったためであり、
この両人共に、後藤の考えた征韓論は実際は口にはしていない。)
司馬は元々は、時代小説家ではあったけれど、特権主義旺盛な武士が嫌いだったんだよ。
坂本龍馬は豪商の分家(本人は郷士)
大村益次郎は村医者
土方歳三は商家の次男
高杉晋作すら、特権意識旺盛な上級武士という実像は隠して、奇兵隊と平等主義を中心に描いた
西郷隆盛と大久保利通は、作品途中で「武士」とは何かという設問でわけが分からなくなって放り投げた
それを後になって、武士の品格だか品位だか持ち出して、特権意識を振りかざせば社会が良くなる、と考えた人間が
盛んに司馬の文章をつまみ食いしてひけらかした。本来の趣旨が否定された。
369:坂本弁証人・でん次郎
10/11/04 00:41:42 eXSCP5CJ0.net
龍馬を無名と抜かす奴は龍馬の手紙も読まないでこのスレに常駐する低脳
慶応3年6月24日の龍馬の乙女への手紙より
御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこく(他国)に出かけ候御つもりのよし。
右ハ私が論があります。
今出てこられてハ実ニ龍馬の名と云うものハ、もはや諸国の人々しらぬものもなし
370:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 02:17:24 oYNXThU/O.net
コジキに近い生活をしながら朝廷工作をやってた陸奥の親父でさえ坂本を知っていたらしいからな。
神戸の海軍学校の生徒総務、越前公の茶飲み友達、高級幕府官僚大久保一翁の書生
色んな側面がある
371:坂本弁証人・でん次郎
10/11/04 03:28:14 eXSCP5CJ0.net
色んな側面は大切だ
372:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 09:46:06 WTpSU6ck0.net
大政奉還後の坂本の構想は、慶喜を初代大統領にして、慶喜死後に、
大統領選挙をするというもの。
373:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 16:32:28 0+kAG2V60.net
>>362
木戸とか西郷とかは名前がちゃんとあるのに、
慶喜って名前すら入ってなかったような・・・・
374:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 17:43:27 tnjYuQKO0.net
しかも坂本龍馬・中岡慎太郎が同時に手がけていた薩土盟約では、
坂本龍馬本人が、「大政奉還で討幕の功績をあげ、薩摩に土佐のことを信じてもらおう」
と言った記録が土佐藩側に残っている。
大政奉還の折衝中、坂本は京都の幕府閣僚には、慶喜が首長となる政府案を提示しただろうけど、
本心はどこにあったのかというと、むしろ自らが先頭に立って進めてきた、薩長に土佐を加えた討幕運動なのではないか、
海援隊の、薩長側武器商社や討幕側の私設海軍としての活動を考えると、
大政奉還促進は、和平ではなく戦争へ向けた、幕府の弱体化を狙った活動ではなかったかと思われる。
375:坂本弁証人・でん次郎
10/11/04 21:54:28 eXSCP5CJ0.net
文久2年(1862年)安政の大獄で攘夷派志士の弾圧をしていた4人の与力達は
連日早朝の湯屋で武家の未婚の美人の娘がまるで旦那に抱かれた後のように後処理をするのを
女湯に入り羨ましく見ていた
与力達はそれを安政の大獄で南紀派を支持した女癖の悪い九条尚忠に仕え
攘夷派志士の弾圧をしていた諸大夫宇郷重国と青侍島田左近に知らせた
楢崎将作を嬲り殺した後で公武合体派となり女癖の悪い九条と連携する中川宮はその話を聞き
女癖の悪い九条尚忠の飼い犬の4人の与力達にその武家の未婚の美女を湯屋で犯すよう指示した
武家の未婚の絶世の美女を密室の湯屋の女湯で与力達に絶え間なく犯させ抵抗心を失わせると
中川宮はその武家の美人の娘を自分の屋敷に呼び寄せた
二人きりの部屋で湯屋の件を切り出すと武家の娘はよろめき抱き寄せても抵抗は無かった
それから連日のように中川宮邸に呼び出しては若い武家の美女の身体を散散弄んで陵辱した
武家の美人の娘は中川宮の子を宿すように兄から指示され言い成りだった
盛りのついた狐の中川宮は陰惨に陵辱できる玩具としての淑女だけが欲しかった
悲壮感の無い女に飽きた中川宮は出入りする本間精一郎を弟分として可愛がり
武家の美人の娘を無抵抗にさせて犯させ眺めて楽しんだ
中川宮に似て女に溺れる越後の商人出の本間精一郎は
夢にまで見た身分不相応の上級武家の絶世の美女との本格的合体に歓喜して精を放った
犬猫同然の猿の文吉はそれを羨ましそうに眺めていた
平井加尾はもう耐えられなかった
文久2年(1862年)閏8月20日本間精一郎は中川宮から貰った金で嶋原遊郭を豪遊した帰りに
平井収二郎及び岡田以蔵ら土佐藩士と田中新兵衛によって天誅として殺害された
九条家諸大夫宇郷重国は九条家河原町御殿に潜伏していたが
同年閏8月22日の宇郷の殺害犯を岡田以蔵らとする根拠の「官武通記」は会津寄りで虚偽である
実際は中川宮が攘夷派による天誅の矛先を九条家に向ける為に側近の有馬範顕にやらせたのだ
同年閏8月30日猿の文吉の屍骸の肛門には竹が刺さり頭まで突き抜けていた
以蔵は込み上げる悔しさを竹に籠めながら「いぬ」の「頭」まで突き刺した
376:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 06:22:21 yH3cR6hp0.net
>>363
坂本の政権構想のトップは、空欄になっていた。
377:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 08:47:14 YMbZeIPo0.net
夜に坂本と中岡が襲撃された時、土佐藩邸から100mも離れていない近江屋
での騒ぎでありながら、朝までの数時間も放置状態だったらしいね。
近江屋の隣に居を構えていた土佐藩重役の福岡藤次なんて襲撃時騒ぎを聞いて
いたのにもかかわらず、事件後も近江屋に行こうともしなかった。
なんで土佐藩はこんなにも坂本や中岡に冷たかったんだろうか。
378:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 10:01:39 qwqEu5bY0.net
それだけ嫌われてたって事なんだよボケ!!
その程度の事すら分らんのか?
379:坂本弁証人・でん次郎
10/11/05 21:54:24 /oh5gVXM0.net
本間精一郎は越後寺泊の豪商の家系の士で金には然程困らなかったが酒と女に溺れやすく
商売柄か特に女は金と浅知恵次第でどうにでもできるという自信過剰な性分であり
武士ではないため芯が弱く頼るものは自分が得た知識だけだった
そんな本間を士として支えるものは知識人との交流から得た情報のみである
本間は安積艮斎に師事し幕臣川路聖謨に仕えて京都に随行し
攘夷派の頼三樹三郎や松本奎堂らと交流する
だが安政の大獄で入獄すると商人出の故に伏見獄舎の獄内で悪党と交流し悪知恵を身につける
出獄すると伏見稲荷の悪党の伝で大獄でまだ永蟄居の姦淫坊主中川宮に出入りする
その後大坂で塾を開く松本奎堂と松林飯山に会い交友を深めるが
これが本間の拠点を京と大坂に置く口実となった(又松岡学舎・文久元年12月~文久2年5月)
岩崎弥太郎は松林飯山が教鞭をとる五教館で学んでいたことがあるが
岩崎は文久2年(1862年)4月8日の吉田東洋暗殺事件を松林に相談しそれが縁で本間を知る
大坂の酒場で本間の内輪話を聞いて驚愕した岩崎はそれを同僚の井上佐一郎に話した
岩崎が帰藩した後の文久2年8月2日井上は岡田以蔵らに酔った勢いでその驚愕の話をした
以蔵は井上の口を塞がなければならなかった
中川宮の侍講の奸臣池内大学は安政の大獄で軽い処分で中追放され京から大坂に寓居を移した
本間は商人出の池内と好を結び池内の指示で土佐や薩摩の探索に赴き
節操のない中川宮を教示する大坂の奸臣池内大学にそれを報告し指示を仰ぎ
京に戻り蟄居中の中川宮にそれを伝え奸臣池内大学と姦淫坊主中川宮との重要な情報網となっていた
本間は文久2年(1862年)1月20日勤王家楢崎将作を嬲り殺しにした中川宮に公武合体派へ転向と
お龍を盛りのついた中川宮の異常性欲から守る為に嬲り殺しにされた将作の死は
寺社奉行管轄内の病死扱いにするという奸臣池内大学の教示を伝えた
本間は攘夷派と称して勤王家楢崎将作没後の楢崎家を監視し
商人出の好で平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛を懐柔して楢崎家に盗賊を入れさせ資金繰りを悪化させ
嶋原遊郭街の悪党多田帯刀と共謀して楢崎将作の娘達を勾引し
獄舎で知り合った大坂の悪党の伝でお龍の妹光枝を女郎に売る手筈を整え大坂で14歳の光枝を犯した
中川宮はお龍に逃げられると三条家に出入りする武家の娘を異常性欲で散散陵辱してそれに飽きると
無抵抗にされた武家の未婚の絶世の美人の娘を商人出の本間に犯させ本間の本懐を遂げさせた
本間は一旦手中に収めた光枝を失い落胆していたが中川宮がその意を酌み
武家の美人の娘を本間に宛がう代わりにお龍を再度勾引して中川宮の前に引き立てるよう催促した
本間は嶋原遊郭で悪党多田帯刀と豪遊しながら再度楢崎家を狙いお龍を陥れる策を練っていた
文久3年(1863年)1月22日奸物中川宮を教示する奸臣池内大学は本間を失っても中川宮を援護したが
大坂に立ち寄った山内容堂の酒席の帰りに岡田以蔵らによって天誅として殺害された
晒された池内の首級は耳を削がれていた
380:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 22:31:46 9KTzs52Y0.net
この電波いつまで居座るつもりなのか
381:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 23:11:38 KFYNwHIMO.net
>>367
佐幕の土佐藩には龍馬中岡みたいな輩は不穏分子だから?
脱藩した前科者だから?
382:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/06 12:50:44 hoCKDjdk0.net
龍馬や慎太郎のほうが、上下意識の強い上士たちと距離を置いてたんだろ。
下手に土佐藩邸に入居して、会話などしたら最後、
「下士のくせに上士に講釈を垂れるのか!?無礼者!」
と上士に斬られる危険性が常時あっただろうからな
383:坂本弁証人・でん次郎
10/11/08 21:54:24 sf7H5C4+0.net
龍馬は加尾のために脱藩した後は江戸の千葉重太郎を頼った
龍馬は京で起こった勤王家楢崎家での度重なる不幸の話を重太郎に聞かせ
この国を根本から変えるのはどうすべきかを重太郎に尋ねた
重太郎は切れ者と噂される横井小楠の面会と開国派の勝海舟の真意を探る為に
龍馬と岡本健三郎に松平春嶽の許へ紹介状を受け取りに行かせる
千葉周作は福井藩で剣術指南をしていたこともあり千葉道場は福井藩と懇意であった
「春嶽手記」には「老生政事総裁職の命を受くるは六月也。」と前置きし
文久の改革で薩摩藩と勅使が江戸に入った後
松平春嶽が登城する或る日の朝に龍馬ら二人が面会を求めて来たとある
これは京都福井藩邸から6月に於ける楢崎家救済の坂本龍馬の活躍を聞いていたことを暗示する
重太郎は春嶽に前もってこの二人が来ることを伝えていた
紹介状を手に重太郎はまず横井小楠の許へ龍馬と連立って面会する
重太郎はすでに横井にも話を付けていた
横井は寺田屋事件後の京都に於ける勾引し事件に公武合体派が暗躍していることを察知した
横井は龍馬を気に入り「船中八策」の基になる考えを龍馬に伝えた
龍馬は横井の日本の将来を危惧する想いに共鳴し以後横井小楠を師と仰ぐ
龍馬が暗殺される直前までの松平春嶽との交流は佐那の婿という立場があってのものである
横井小楠に面会した後で龍馬と千葉重太郎は松平春嶽の紹介状を手に勝海舟に面会する
この頃千葉定吉は鳥取藩の剣術師範となり重太郎も鳥取藩に仕官していた
鳥取藩は水戸思想で尊皇攘夷派であり公武合体派の佐久間象山の開国論を疑問視する者もいた
重太郎は岡本健三郎として龍馬に供する
重太郎は公武合体派の佐久間象山に影響を受けた勝の真意によっては勝を斬るつもりだった
勝は直心影流の免許皆伝である
だが北辰一刀流桶町千葉道場師範代の重太郎とその直弟子で元塾頭の龍馬なら
直心陰流の勝に間違いなく勝てる
佐那と夫婦にさせ千葉道場を継がせる婿殿を開国派の剣客にむざむざ斬らせる訳にはいかない
勝にもそれは分かっていた
勝は有りの儘を龍馬と重太郎に話す
龍馬は一時期佐久間象山に師事していたこともあり勝海舟に興味があった
龍馬は勝の先見の明に驚き勝海舟の門弟となった
384:坂本弁証人・でん次郎
10/11/09 21:54:24 ACAi507L0.net
安政5年(1858年)1月坂本龍馬は桶町千葉道場で北辰一刀流長刀兵法目録を授かる
通常北辰一刀流の証書には千葉周作の名前のみ記され
桶町千葉道場では周作と定吉と重太郎の3人の名が記される
だが龍馬が授かった目録にはその3人の他に
定吉の3人の娘の長女里幾・次女佐那・三女幾久の名が記されている
佐那の話では龍馬とは安政5年(1858年)に婚約していたが
この時龍馬と婚約していたのは3人の娘の内一人と結ばれるというものだったのだろう
3人の娘は共に龍馬に興味を示し千葉家ではまだ龍馬と結ばせる娘を決めかねていた
目録に定吉の娘の名を記すよう催促したのは龍馬だが定吉も満更ではなかったらしい
この時点で龍馬はすでに免許皆伝に値する腕前で龍馬がこの3人の娘の誰かと結婚したら
正式に北辰一刀流を免許皆伝するものとして特別に3人の娘の名を記したのだ
皆伝とは皆全て伝えたという意味だが
龍馬の長刀目録には特別措置として3人の娘の名を免許として記したのである
その5ヶ月後には長女の里幾が労咳で他界し佐那が長女になる
千葉家は喪に服さなければならなくなり龍馬とすぐに結婚することは出来なかった
龍馬はその間に徳弘孝蔵から砲術を学び小栗流日根野道場で師範代を務め腕を磨く
佐那は嘉永4年(1851年)に北辰一刀流免許皆伝している
坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝の証書は佐那自身である
385:坂本弁証人・でん次郎
10/11/10 21:54:23 /WAduD4s0.net
龍馬の兄権平に嫡男は無く若い龍馬は坂本家に於いて掛け替えの無い跡取りである
千葉家に於いても重太郎に嫡男が無く跡取り問題は深刻であり龍馬に嫡男が生まれた場合
坂本家と千葉家のどちらを優先するかは大問題である
上士平井家でも収二郎以外に跡取りはいないがこの時点で収二郎はまだ若いので問題外とする
また楢崎家には男子が二人もいるので文久2年6月20日頃に龍馬がお龍と恋愛する意味が無い
よって六角獄舎や武信稲荷に於ける龍馬とお龍の男女関係の馴れ初めは虚偽である
ただ楢崎家姉妹を悪党中川宮から救った龍馬の正義感に対しお龍が亡き父の様に思慕しただけである
龍馬は大坂を出て江戸に着くと千葉重太郎を頼る
維新後の佐那は「龍馬は安政5年に土佐に戻ってから千葉道場には来ていない」と証言している
加尾に少しだけ未練を残す龍馬は婚約者の佐那には脱藩の身である為合わせる顔が無かった
その後脱藩の罪は許されたが正式に帰藩せずに奸物中川宮に暗殺されてしまった為
結局龍馬が道場で汗を流すことは無かった
だが江戸に戻った龍馬は佐那の兄の重太郎を頼り脱藩後の身の処し方について相談する
当然ながら脱藩の理由として加尾の件で脱藩したことを重太郎に話さなくてはならない
重太郎も龍馬と加尾の関係については察しがついたが飽くまでも龍馬は佐那の婚約者だ
妹佐那の婿として千葉道場を継がせる為に重太郎は龍馬の仕官の引き受け先を探す
また佐那は龍馬が道場に足を運ばなくても婚約者の自分と会っていないとは言っていない
それとも龍馬は佐那に見つからないように遠くから見詰めていただけなのだろうか
だとしても佐那には龍馬が近くに居ることは分かっていたのだろう
佐那は近くに居ながら自分に逢いに来ない龍馬の真意は分からないが
龍馬が自分を見詰める気持ちに偽りはないと悟った
386:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/11 01:54:49 o6wh62u30.net
明治維新は外国と組んで日本を破壊した売国テロ
今の民主党とそっくり テロリスト最低
387:坂本弁証人・でん次郎
10/11/11 21:54:23 i2FFl3AX0.net
岡田以蔵が暗殺したように思われている岡田星之助は鳥取藩士で千葉重太郎の道場の門下だった
安政5年(1858年)に龍馬が江戸を去った後の万延元年(1860年)千葉重太郎は鳥取藩に仕官する
岡田星之助が千葉道場に入門したのは千葉重太郎が鳥取藩に仕官した前後だろう
だとすれば岡田星之助は龍馬と千葉家の娘達との馴れ初めを知らない
江戸で小千葉小町として有名な佐那ほどの美女が何年も男日照で
しかも婚約者とされる坂本龍馬が京にいる別の娘の為に脱藩したという情報を得た岡田星之助は
重太郎が龍馬の脱藩罪の赦免や仕官先探しに奔走している間に
道場での美女の佐那との手合わせにムラムラしてしまった
鳥取藩士岡田星之助は鳥取藩に仕官した重太郎に勝海舟は奸臣だと焚き付けた
勝が以前師事していた佐久間象山は公武合体派で攘夷派志士にとって汚らわしい存在だった
岡田星之助は直心影流免許皆伝の勝と北辰一刀流千葉道場師範代の重太郎を共倒れにさせ
それを他人事として面白がり美人の佐那を奪い桶町千葉道場の乗っ取りを謀る
だが桶町千葉道場師範代の重太郎が勝海舟の殺害に失敗し懐柔されたのを機として
星之助は重太郎が勝と連携するなら佐那と交尾合体してやろうと思い立つ
岡田星之助は辺りに人が居ない時に佐那に襲い掛かった(反魂香の佐那評から)
だが佐那を力尽くで組み敷くと佐那は舌を切ると覚悟を示し断固拒んだ
それを鳥取藩に知られると困る星之助は道場を抜け出し江戸を離れ帰藩も出来ず京に逃げ込んだ
重太郎と龍馬は文久3年(1863年)元日兵庫から大坂に向かい9日は大坂にいたが
その後江戸に帰ると佐那が岡田星之助に襲われたことを知る
文久3年(1863年)1月20日重太郎は江戸にいる勝を訪ね「偽浪の事を話す」とある(海舟日記)
ニセ浪人とは岡田星之助のことである
鳥取藩士の岡田の仲間は岡田星之助に清河八郎の浪士組に京都で加わるよう誘導した
重太郎は岡田星之助が京に潜伏している情報を得て江戸鳥取藩邸の命で1月24日京に向かう
重太郎は龍馬に死を覚悟して貞操を守った佐那のために岡田星之助を斬れと指示した
桶町千葉道場師範代千葉重太郎は介添人となり坂本龍馬と岡田星之助の決闘に立ち合った
文久3年(1863年)2月5日の岡田星之助殺害は北辰一刀流坂本龍馬による唯一の斬殺である
388:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 02:32:25 AAg0Dp3nO.net
龍馬は海援隊の時水夫の三吉も姦通罪で切って捨てちゅうぜよ
389:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 04:19:26 f/vTnz+C0.net
>>376
低脳国賊の糖質はさっさと入院しろ!
明治維新は日本人が世界に誇れる市民革命。
390:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 11:52:48 SVdiw7y50.net
明治維新がなければ今もちょん髷で着物だろ
しかも徳川家による独裁政治体制で
391:エビちゃん親衛隊
10/11/12 14:14:54 hYrawRTo0.net
>>380
>明治維新がなければ今もちょん髷で着物だろ
>しかも徳川家による独裁政治体制で
それはないわ。
幕末からすでに文明開化、軍の近代化の一部は始まっていたから。
ただ徳川による独裁政治体制維持は考えるだろう。
表面的には近代化し、渋々議会なり選挙なり憲法なりを制定しても、
新撰組・見廻組は内務省・特別高等警察として徳川への反対派暗殺を続行する。
薩長出身者が「天皇陛下の御為」と言って徳川に反対しても、
徳川もまた「天皇陛下の御為に内務省は存在する」と言って譲らんのだ。
保安条例により鹿児島・山口出身者の東京・京都への立ち入りは禁止されるかも知れん。
また反徳川派候補への露骨な選挙干渉もやるカモナー
392:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 14:21:40 t+53s/Hm0.net
世界的にみても真の民主国家なんかホンの一握り
だが、日本の民主党政権は数々の情報を隠蔽し、民主党本部へのデモも禁止にした
これからはネット規制や人権擁護とやらで徳川並みの独裁国家へまっしぐらだ
393:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 18:38:52 +di2uzeu0.net
幕藩体制じゃ日本守れないだろ
徳川に日本全体の安全保障に責任を負うという意識はなかったようだし
394:坂本弁証人・でん次郎
10/11/12 21:54:24 fCtnLfQh0.net
龍馬が勝の弟子になった後に勝をまだ信頼していない千葉重太郎は
文久2年(1862年)の年末に近藤長次郎らを供に勝海舟を訪ねる
勝海舟は重太郎を安心させる為に文久3年(1863年)1月16日伊豆下田に滞在する山内容堂を訪問し
龍馬の脱藩の赦免を要請する
同年1月20日重太郎は勝を訪ねニセ浪人岡田星之助の事を話す
同年1月23日江戸鳥取藩邸から了解を得て翌日京に向かう
龍馬は重太郎の計らいで同年1月25日大久保一翁を訪ねる
この間に岡田以蔵らが京で岡田星之助を探し出す
同年2月5日北辰一刀流坂本龍馬は勝の了解と重太郎の指示で鳥取藩士岡田星之助を斬殺する
同年2月龍馬は京都土佐藩邸において7日間謹慎し同年2月25日脱藩罪が赦免された
この7日間の謹慎で土佐藩は吉田東洋の暗殺が龍馬によるものではないと断定した
当然その断定理由が龍馬による三条家におけるシンボルの詰割り強襲後に
加尾が再度呼び寄せたからであり容堂もその話は三条家と平井から聞いていたのだ
本間精一郎の驚愕の話も岩崎弥太郎の情報から聞いている
勝は重太郎から初めて人を斬った龍馬の様子を聞きそれを土佐藩に伝えた
またその後の平井収二郎の切腹は東洋暗殺とは関係なく中川宮と平井の関係にある
よって坂本龍馬暗殺犯として後藤象二郎による東洋暗殺弔い説に根拠は無い
龍馬は岡田以蔵から加尾の置かれた現状を知った
本間精一郎が中川宮の見ている前で武家の未婚の娘を陵辱したことも聞いた
以蔵が幼い頃から加尾に惚れている事を知っていた龍馬は以蔵を
加尾の将来を任せられるような偉丈夫にする為に同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ
龍馬は龍馬への思いを貫いた佐那が待つ江戸に向かった
だが鳥取藩士岡田星之助を決闘で殺害しているので
他に何人も鳥取藩士のいる桶町千葉道場に龍馬は行っていない
龍馬が道場に行かず江戸に逗留する目的は佐那だけである
加尾の為に死ぬ気で脱藩した龍馬は佐那の為に又生きねばならん事になった
395:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/14 20:35:48 Fr8NgpFe0.net
海援隊は土佐藩の出資を受けて成り立ち、土佐藩から人材の出向も行われていた
いつの時代も資本を握る者が一番強い
少なくともこの時点で龍馬は土佐藩の指揮下にいた
龍馬の功績とされる薩長同盟の本当の立役者は薩摩藩家老の小松帯刀
両藩の人物で龍馬が一番親しかったのは小松だった
大政奉還については、大政奉還と徳川の領地返上は別問題
慶喜は大政奉還はしても領地は手放さなかった。大勢の行政官を抱えているから当たり前だが、
圧倒的な領地の大きさと軍事力で大政奉還後の会議でも慶喜が優勢だったし、
明治政府が結局は徳川の役人を多数官僚に採用したことからも、徳川の行政が優れていたことが分かる
この大政奉還を支持した中心人物に山内容堂、小松帯刀、坂本龍馬がいる
大政奉還したら慶喜は内乱を回避した上で政権を維持できることは当時明らかになっていた
大政奉還を勧めた時点でもう龍馬は、薩長の味方ではなかったことになる
さらに鳥羽伏見の戦いは、国許で療養中だった小松帯刀の命令を待たずに、西郷たちが勝手に始めた戦だった
島津久光と毛利敬親が明治時代に記者の取材に答えてそれぞれが「私に討幕の意志はなかった。家臣が勝手にやったこと」
と答えていることからも、西郷たちの独断であることは明白
龍馬はその時々の庇護者の歓心を買うために様々な立場からコメントを残しているが、
(企業家としては当たり前)
少なくとも最後は内乱の回避を目指して奔走していたのは事実
396:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 06:58:56 gqIkize40.net
坂本龍馬を和平派と主張する人は、
土佐藩を討幕軍に参加させようとしていた中岡慎太郎という存在を、意図的に無視していますなあ。
しかも発言内容に事実とか付けるわりに、その実は根拠がない。
坂本龍馬は当時薩長や土佐へ武器を供給していた。内乱回避を望んでいたなどとんでもない。
397:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 09:59:21 Uxv9WLl60.net
おいおい、龍馬と中岡は親友だけど二人が全く同じ思想を抱いてたなんて証拠もないぞ
中岡はガチの倒幕派だけど龍馬は商人の強かさで幕府方との繋がりも持っていたし
それに龍馬の最大の庇護者だった容堂の動きも無視するな
容堂はクーデターを企てた武市を粛清はしたけど、土佐藩の役に立つと見込んだ脱藩浪士を
支援することもしている。その人物が倒幕派でも
本人は佐幕派だけど土佐藩自体はどちらに転んでも生き残れるように計算してたわけだ
このことは容堂が家茂や慶喜を支持する一方で、薩長への支援もしていたことから分かる
妄想乙と言うかもしれないが、容堂が両派を利用するための人事を行っていたことは紛れもない事実
また幕末の諸藩はほとんどが日和見や倒幕・佐幕双方との繋がりを保ったりしていた
佐賀の鍋島直正がその典型例
だけど佐賀藩は最後は勝ち馬に乗った。土佐藩も同じことをしている
土佐藩が一枚岩ではなかったことを利用して容堂は生き残りを図っていた
このことは土佐藩の人事で倒幕派・佐幕派の勢力がコントロールされていたことからも分かる
けど容堂自身の心情は佐幕派だった。これは容堂の手紙や明治時代の取材で明らか
なので容堂は徳川家を最大勢力とする雄藩連合を構想し、各藩への根回しや
脱藩浪人への指示を行っていた
何で分かりきってる容堂のこと書いたかと言うと、龍馬は実家の坂本家を通じて容堂と繋がりを持っていたから
龍馬は悲運の脱藩者から成功したわけではなく、脱藩したすぐ後から実家の援助を受けている
実家の坂本家は武士であると同時に土佐屈指の豪商。山内家の普代でもなかった坂本家が豪商として成長したのは
土佐藩の商いに携わっていたから。土佐藩と坂本家の深い繋がりは商いや手紙からはっきりしている
最大の取引相手の意向を尊重するのは現代でも同じ
中国に進出した日本企業が中国政府の意向を気にするのと同じ
龍馬―坂本家―土佐藩―容堂の繋がりははっきり証明されているし、龍馬が佐幕派の大物とも
親交を結んでいた事実からも、龍馬が単純に倒幕の志士ではなかったことが分かる
少なくとも容堂はその気になれば龍馬の力の源で人脈維持に必要な
海援隊と坂本家を潰せる力を持っていた
398:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 10:02:37 Uxv9WLl60.net
土佐藩の発言力を高めるために薩長を利用する。けど徳川家を潰すことはさせない
それが容堂の指針で実際の行動もその指針に沿っていた
399:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 10:02:59 aCmuIQxHO.net
俺が龍馬ならさなこを妻にする
400:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 12:53:25 BuJX0u8OO.net
>>385
小松帯刀も龍馬と同じく大政奉還に尽力していたんだが…
大政奉還の件、龍馬は木戸や西郷にもちゃんと相談してたし
実現は難しいだろうと思われてはいたが反対はされてないぞ
あと小松帯刀が病気で出兵に加われず悔しがっている手紙も残されてる
401:坂本弁証人・でん次郎
10/11/15 21:54:27 clu0N16A0.net
慶応2年12月4日(1867年1月9日)の権平への手紙に於いて
「黒木半兵衛とて千葉十太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず、人是をおどろく。」とあり黒木半兵衛とは鳥取藩士黒木小太郎の事で岡田星之助と共に千葉重太郎の門下であるが
龍馬と星之助の一対一の真剣勝負に於いて岡田の同郷の士でありながら冷静に勝負を見届けた
龍馬は自分の死を覚悟して岡田星之助に対し決闘というチャンスを与えた
場合によっては佐那は岡田に奪われ桶町千葉道場は岡田が継ぐ事になっただろう
だが重太郎は師範代として龍馬と星之助ではどちらが勝るか分かっていた
福井藩士山本龍二の晩年の話では
「同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが、
暴行を働いた時など、彼らは直ちに斬って捨てた。」
とあるが剣術の師を侮辱しその妹を強引に犯そうとした事は士道に反し万死に値する
だが岡田星之助は本来切腹すべきところ死を恐れ師を侮辱し京に逃げた
「偽浪の事を話す」のニセは福井藩士でありながら勝手に浪士組に加わろうとしたという意味と
「士にあらず」という意味である
「必ず割腹させる」には「させた」ではなく「必ずさせる」にある決意が籠められている
「水夫頭の三吉」の水夫頭とは湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を強姦した4人の与力達の事で
「三吉」とは三助と同格の産キチ(ガイ)与力という意味である
会津民謡「会津磐梯山」の「小原庄助」とは「汚胎娼好け」又は「悪腹産助」という意味が籠められ
いろは丸事件の談判で劣勢の海援隊の起死回生策として紀州を皮肉る歌を流行らせたのと同じである
4人の強姦与力も逃げずに切腹していれば後の会津の悲劇は起こらなかっただろう
文久3年(1863年)6月29日のせんたくの手紙において福井藩から2度の仕官の誘いがあったが
龍馬は2度とも仕官を求めなかったとしている
文久3年(1863年)2月25日龍馬は脱藩罪を赦免され
同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ佐那のいる江戸で過ごすが
江戸を出て大坂に帰着するのが同年4月9日だから3週間は江戸にいた
江戸にいた同年4月2日の大久保一翁への挨拶は松平春嶽への書状の依頼であるが
脱藩罪赦免の力添えのお礼なのだろう
千葉重太郎の計らいだと思われる
大久保一翁は松平春嶽と交友があるので
2度の福井藩の仕官の返答はこの時と同年1月25日の大久保一翁を訪問した時の筈だ
重太郎が仕える鳥取藩には岡田星之助を決闘で斬っているので龍馬は仕官できない
龍馬は手紙で「然に龍馬少しも仕えを求めず」として仕官は求めなかったが断った訳ではない
横井小楠は松平春嶽に願い福井藩から2度龍馬を藩に召抱える使者を出す
重太郎の思惑もあっただろうが横井はまるで親族のように龍馬を心配した
402:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/15 23:12:05 1VZ3+Xzf0.net
>>381みたいな佐幕系は、内乱罪で、東京・京都への立ち入りを禁止どころか強制収容所送りだなwwwww
403:坂本弁証人・でん次郎
10/11/16 21:54:23 ugVePP8D0.net
文久3年(1863年)岡田以蔵が勝海舟を護衛していると
龍馬に代わって勝海舟の警護についた岡田以蔵を新参と侮った者か以蔵の仲間かは定かでないが
3人の刺客が襲い掛り以蔵は一人を撃退し2人は逃げていった
そんな以蔵を直心影流免許皆伝の勝は「無益な殺生は控えたほうがよい」と窘めた
「海舟日記」の文久3年3月8日に「この夜、三条の旅舎にて、千屋虎之助の義兄切腹。」とある
千屋虎之助はこれ以前からすでに勝の門人となっているが武市はそれを妬んだのだろうか
それとも水戸思想かぶれ岡田星之助の仇討ちか
だが以蔵はかわいい平井加尾に幼い頃から恋焦がれていた
以蔵は京に加尾がいる文久2年(1862年)8月から10月の間に特に集中的に暗殺剣を振るっている
本間精一郎が暴露した驚愕の話を酒場でうっかり吐露した岩崎弥太郎の同僚井上佐一郎
武家の未婚の美人の娘を妖狐中川宮の見ている前で歓喜して陵辱した商人出の本間精一郎
武家の未婚の美人の娘が本間に陵辱されるのを犬猫同然に眺め加尾の家に張り付いていた猿の文吉
密室にされた湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を絶え間なく陵辱した4人の与力達
以蔵は加尾を救った龍馬のように自分も加尾にとっての勇士になりたいと思っていた
龍馬もそんな以蔵の本心を見抜きそうなればいいと思った
だが山内容堂を公武合体派へ誘導する中川宮の侍講の奸臣池内大学を暗殺した事が
薩摩藩を随従させたい女狂いの中川宮を追い詰め平井収二郎を捕縛に向かわせた
結果的に以蔵の剣は加尾を悲しませる事になった
姉小路公知を中川宮の側近有馬範顕と山田時章と新参の3人に暗殺されたことが三条実美を震撼させ
公家の領分に入り過ぎ禍根を残した収二郎にけじめを付けさせた
平井は介錯無しの十文字の切腹で加尾の女心を散散弄んだ姦物中川宮への復讐を託し
武家の未婚の娘を湯屋の女湯で屈強な4人掛りで襲い掛かり陵辱し尽した卑劣な産キチ与力を見下し
最後に武士としてのけじめを示した
404:坂本弁証人・でん次郎
10/11/17 21:54:23 z31XK8Gz0.net
龍馬が江戸に向かい勝海舟の警護を岡田以蔵に任せた後
文久3年(1863年)3月8日の「海舟日記」には「三条の旅舎にて、千屋虎之助の義兄切腹。」とあった
千屋は龍馬が勝の弟子になるとすぐ勝の門下となり海援隊士となり
龍馬の死後に遺言としてお龍の妹の起美を妻とした
千屋虎之助といえば密航を試みて失敗した近藤長次郎を責め切腹に追い込んだともお龍は伝えるが
龍馬を慕う者達の間では龍馬の婚約者の佐那を襲い剣術の師である千葉重太郎に詫びず切腹もせずに
浪士組を頼り京に逃げた岡田星之助を士道に反する行為として糾弾する傾向が強くなり
薩長同盟直前の大切な時期に龍馬に迷惑を掛けたくないという思いから
近藤自身の判断で切腹したもので隊士の非難はなくはないが特定の者が追い込んだ訳ではない
近藤長次郎も龍馬と星之助の真剣勝負の決闘に立ち会っている
切腹には通常介錯が必要であり町人出の長次郎に十文字の切腹や田中新兵衛の様なやり方は出来ない
また切腹は単なる自殺ではなく介錯は上手な者にやらせないと大変辛い事になる
三島由紀夫の切腹の最初の介錯人は2度失敗し刃が折れ三島は腸を出しながら舌を噛み切っている
近藤長次郎の切腹は近藤が無理を言って天誅に加わ�
405:チた千屋に介錯を頼んだのだ 「反魂香」の大藤太郎が誰を示すかは分からないが龍馬に佐那への愛を貫けと諭したのだろう この事件から寺田屋事件の直前まで龍馬の思いはずっと佐那にあったと海援隊士が証明している 千屋虎之助を乱暴者とするのはお龍の「反魂香」からだが 龍馬に甘やかされた女のお龍が龍馬と千屋を比較した見識であって 志の高い海援隊士の中で千屋虎之助は当たり前の士である 士道に反し切腹せずに逃げた水戸思想かぶれの岡田星之助を佐那への対抗心から優男と表現し 志の高い海援隊士で義姉のお龍の面倒も看た千屋虎之助を「乱暴者、無鉄砲」と表現する事実から 寧ろお龍は志士である坂本龍馬の妻としての役目を果たしていない お龍は海援隊の精神的支柱である坂本龍馬と岡田星之助による真剣勝負の決闘の話を知らない 龍馬は佐那を懸けた1対1の男同士の命がけの戦いの話をお龍には話していない 龍馬の死後にお龍に親切だったのは西郷隆盛と勝海舟とお登勢だけだったと嘆く原因は 志の高い海援隊士が皆お龍のヒロイズムに愛想が尽き心の拠り所としての価値を失ったからだ お龍はただの女である
406:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 22:32:21 /dRVBwnJ0.net
>>385
朝敵に貶められている長州に対して、
圧倒的に優位な立場にいる薩摩側からは誰も薩長同盟を言い出さなかったわけだから
(薩摩が、長州のほうが幕末の主導権を握っていると判断していた可能性もあるぐらいで)
薩長同盟の功績が第一に小松帯刀にあるなどという主張は、残念ながら無理。
ボク的には、中岡慎太郎による薩摩説得工作が薩長同盟についても大政奉還についても第一の功績。
これがなかったら、後が続いてないから。
407:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 22:50:13 /dRVBwnJ0.net
>>387
>龍馬は商人の強かさで幕府方との繋がりも持っていたし
????? ソース!
>龍馬の最大の庇護者だった容堂
?????
龍馬の最大の庇護者は薩長。
薩摩には命を救ってもらい新婚旅行までさせてもらっているし、長州には護衛を付けてもらって妻を避難させていたりする。
>容堂が家茂や慶喜を支持する一方で、薩長への支援もしていた
?????
最終的には薩長に付くが、それまでは様子見。
容堂が江戸幕府に「破約攘夷」を飲まなければ「攘将軍」になると迫り、幕府に「破約攘夷」路線を飲ませたものの、
党の幕府が破約攘夷とは真逆なことをやり続けているわけだから様子見せざるを得なかった。
408:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/18 08:09:58 Gbzw5Hqz0.net
>>387
どちらかというと、三条辻高札事件・後藤象二郎の討幕軍京都派遣命令(容堂の命令で沙汰止み)等を考える限り、
土佐藩は、容堂一人だけが公武合体で、他の藩士は武装討幕に傾いていたように思います。
土佐藩を公武合体・佐幕派だと主張しているのは、中村彰彦・星亮一といった如何わしい小説家しか知りません。
409:坂本弁証人・でん次郎
10/11/18 21:54:22 QovmgoBy0.net
お龍の妹の起美はお龍に似て非常に美人で父の楢崎将作が中川宮に嬲り殺しになった後で
お龍の母が悪者中川宮の招集した悪党に狙われ数えで11歳で京の嶋原の舞妓として売られた
だが文久2年(1862年)6月20日光枝を奪還したお龍と龍馬は一旦京に戻り
龍馬が脱藩時の有り金全てを叩いて嶋原遊郭から起美を奪還した
龍馬は楢崎家の惨状を憂い長州藩士に楢崎家の救済を求める
楢崎将作の祖父源八郎は元長州藩士で将作の父は大造といい
源八郎はまだ幼い大造を知人の老夫婦に預け京に残したまま長州へ帰藩したとお龍は云う
文久2年(1862年)11月14日岡田以蔵や千屋寅之助や長州の楢崎八十槌ら20名が
奸臣中川宮によって嬲り殺しにされた勤王家楢崎将作を憂い
その遺児を嶋原遊郭に売り飛ばした京の嶋原の遊郭の近くに住む悪党多田帯刀を天誅として襲撃し
その母の村山加寿江を三条大橋に生晒しにし翌日その息子の悪党多田帯刀を蹴上刑場で斬殺した
悪党多田帯刀の首は奸物中川宮の勢力圏の粟田口に晒された
起美はその後龍馬によって弟太一郎とともに勝海舟の許へ預けられた
龍馬の手紙では起美はまだ幼かったので嶋原の遊郭での事は気遣い無しとのことだった
岡田以蔵はこの天誅に楢崎家を救済する為に奔走した坂本龍馬の代理として参加した
「公武合体」を「交尾合体」だと信じて疑わずに嶋原遊郭に売られた起美の
「旦那」の呼び込みをしていた平野屋重三郎及び煎餅屋半兵衛は
楢崎家の盗賊及び嶋原遊郭の起美の件には関与していたが
将作の死には関与せず嶋原遊郭に売られた起美もまだ幼く無事だったので殺すことはしなかった
410:坂本弁証人・でん次郎
10/11/19 21:54:24 EycDoicp0.net
攘夷派公卿姉小路公知の暗殺犯は田中新兵衛ではない
文久3年(1863年)5月20日姉小路公知を暗殺し遺留物を残す方法は坂本龍馬の暗殺と酷似する
犯人は覆面犯であるため目撃証言に信用性は無く坂本龍馬暗殺に於ける十津川郷士の件にも酷似する
また奸物中川宮と奸臣池内大学のパイプ役の本間精一郎を天誅として殺害された直後の天誅の矛先を
女癖の悪い九条尚忠に向ける為にその諸大夫宇郷重国を中川宮の側近が殺害したのと同じである
そもそも三条公恭の素行の悪さの原因は攘夷派公卿三条家に仕える美人の平井加尾に目を付け
加尾の陵辱と攘夷派公卿三条家の失墜を目論んだ女癖の悪い九条尚忠による姦策である
姉小路公知も宇郷重国も京都御苑内で殺害され宇郷の子息まで目撃者として殺された
公家が闊歩する御苑内で田舎侍が堂々と斬殺するのはかなり目立ち無理がある
反面公家や青侍及びその守衛にとって京都御苑内は庭であり身を隠すのは容易である
宇郷殺害を岡田以蔵とするのは仙台藩士の玉虫左太夫の著書「官武通記」からだが
玉虫は佐幕派でありこれは会津寄りの虚偽であり中川宮家臣の犯行を隠匿する為のものである
佐幕派の虚構「官武通紀」で玉虫が宇郷を殺害したとしている岡田以蔵は捕縛され土佐で処刑され
岡本八之助と村田忠三郎も慶応元年(1865年)閏5月11日に井上佐一郎殺害容疑で処刑されている
士道忘却事件で横井小楠を襲撃した肥後藩士堤松左衛門もすでに文久3年3月28日に自刀しているので
攘夷派の分断を画策した節操のないシンボルで国事を惑わす女狂いの中川宮を擁護するために
会津側に付く二本差しの玉虫が玉虫色に脚色し死者の魂を悪用したのは明白である
岡田以蔵や肥後勤王党の堤松左衛門が意味無く宇郷の息子を殺すのは筋が通らない
この時点でまだ天誅は継続しているので自責の念に駆られるような禍根を残している筈が無い
犯人とされている田中新兵衛は自白しないまま同年5月26日介錯無しで切腹した
武士の魂の刀は中川宮の守衛として潜り込む桐野利秋と酒場で飲み交わし盗まれたのだ
桐野利秋と田中新兵衛は同じ薩摩の士で同じ示現流である
桐野は中川宮に信用させ中川宮の闇行を探る為に同じ薩摩藩士の田中を犠牲にした
姉小路公知暗殺犯は中川宮側近伊勢新刀流師範有馬範顕と中川宮家臣で古参の山田時章と
まだ新参で中川宮にとって海の物とも山の物ともつかない中川宮守衛の示現流桐野利秋の3人である
目撃者に示現流の太刀筋を見せ態と逃がし田中新兵衛の刀を残した
文久3年のこの時点ではまだ薩摩藩は中川宮と敵対出来ず田中新兵衛は桐野を信じて自決したのだ
田中新兵衛は節操のないシンボルを討つべく桐野利秋に天誅を託した
411:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/19 22:43:05 GD0PHbeL0.net
>>387は、日本近代史スレや長州関連スレで暴れ回っているキ●ガイ低脳国賊p
412:坂本弁証人・でん次郎
10/11/22 21:54:46 jnJKwPh00.net
お龍の「反魂香」の佐那についての話で「辺りに人の居ない時は、年の若い優男を捉へて口説いたり」
とあるがこれは死を覚悟して信じた龍馬を偲ぶ女同志の嫉妬で
岡田星之助による剣術の師の妹佐那への暴行を逆に言って佐那を讒言したのは明白である
もしそんな事が実際にあったら「千葉の鬼小町」の噂は江戸中に広まる
だがそんな話をしているのは「反魂香」でのお龍だけだ
「反魂香」のこの話は文久3年(1863年)2月5日坂本龍馬との決闘で斬られた岡田星之助の事である
岡田が佐那を襲った時期は文久2年(1862年)年末から翌年正月上旬の間だろう
清河八郎が浪士組を招集していた時期だから京に行くだろうとは考えられ
実際岡田はそれを当てにして京に逃げてきたことは間違いない
だが佐那が舌を切ると覚悟を示した後で岡田が必ずしも紀伊以外の関西方面に逃げるとは限らない
実際文久3(1863年)年6月2日の広井磐之助の仇討ちに於いて
勝海舟と坂本龍馬が援助した広井磐之助の父の仇の棚橋三郎は紀州に逃げていた
鳥取藩に帰藩するのは無理だが一旦別の場所に逃げて時間稼ぎをすることは考えられる訳だから
佐那が脱藩した龍馬を赦免させる為に重太郎が居ない時に態と岡田を誘惑したとは考えられない
これは個人的問題だから浪士組に加わった後だと星之助を処分するのは難しくなる
まして星之助がそれでも強引に佐那を犯していたら免許皆伝の佐那は自ら命を絶った
本来士であるなら剣術の師に謝罪し切腹しなければならず水戸思想の攘夷派志士としては恥である
当初重太郎は龍馬の脱藩罪が赦免されれば自分と同じ鳥取藩に仕官させたいと考え奔走していたが
真剣勝負の決闘で鳥取藩士岡田星之助を斬る必要が生じた為に急遽福井藩に龍馬の仕官をお願いした
お龍は自分が中川宮から受けた姦謀とそれに対する覚悟に比べれば岡田など優男だと言っているのだ
つまり楢崎家の目も当てられない惨状は将作が仕えていた中川宮による謀略である証拠である
413:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 00:10:17 UVryQzgC0.net
売国テロリスト
414:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 01:37:46 UdUIa4L3O.net
>>397
藩論はどこも一つじゃねーわな
だが土佐藩は容堂がシメてるし政変で勤王党弾圧後は
吉田東洋配下だった後藤・新おこぜ組が藩政を担当してるのでやはり佐幕
上層部の武力討幕派は板垣ぐらい
415:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 01:55:47 WHnZ0v1S0.net
>>403
少なくとも、新おこぜ組(保守派)の人間も大政奉還の時期には武装討幕発言ばかりが見える。
陸援隊の中岡慎太郎はこの時期、乾(板垣)退助の土佐藩歩兵部隊との関係を強化していたようで、
乾退助自身、後には討幕のために土佐藩の命令を待たずに薩長軍に参加している。
公武合体論を唱えるものは、土佐藩から容堂一人を除いて一掃されていた。
416:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 01:59:20 WHnZ0v1S0.net
大体、後藤象二郎自体が土佐討幕挙兵を薩長に約束し、挙兵直前に山内容堂に止められているのだから、
新おこぜ組が佐幕派という説は成立しないのだが、分かっているのだろうか?
417:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 02:07:12 WHnZ0v1S0.net
土佐藩の藩論は、第二次長州征伐における幕府の失敗を契機に急速に尊王攘夷に傾斜してゆく。
その過程で、薩長討幕派に身を寄せていた坂本龍馬・中岡慎太郎と
土佐藩で指導的な役割を果たしていた後藤象二郎との和解が行われた。
坂本と後藤の和解の時点で、既に新おこぜ組は佐幕派ではないんだよ。
むしろ山内容堂一人を置き去りに、土佐藩は急進討幕へと向かう。
418:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 04:27:54 yH51MWmA0.net
薩長土の浪士は断じて英雄ではない
徳川様から力ずくで天下をもぎ取った謀反人である
将軍家はすすんで大政を奉還し、自ら議長国となって緒大名による合議制の国をつくりあげることを望んだ
これによって一滴の血も流さず新しい国が生まれるはずであった
然るに薩長土はあくまで武力による討幕を画策し暗躍
妙な合戦をしかけ、宮廷内の岩倉具視と組んで、新徳川派の孝明天皇を毒殺し新たに睦仁親王を立てて錦の御旗を手に入れたものである
これを謀反と言わずして、なんと言う!
419:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 09:35:03 bbvsHH770.net
まぁ第二次長伐を起こして血を流した挙句負けたのは幕府だったけどね。
やらない方が良かったね。
あとあのタイミングで孝明帝が死んで一番得をしたのは慶喜ちゃん。
420:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/23 15:02:36 UdUIa4L3O.net
>>405
藩上層部の武力討幕勢も徐々に増えてはいたが藩論は割れてた
討幕派と保守派が睨み合って後藤も板挟みだったんだよ
曖昧表現で板垣達をごまかしつつ容堂への話は建白案の方を優先させた
結局後藤が容堂に逆らえるわけもなく出兵出来ず西郷にキレられとるし
>>406
岩倉具視の考明帝暗殺は俗説だよw
岩倉が出世できた理由と考明帝死亡当時どこで何してたか調べてみるといい
大体天下統一したって理由で武家のトップ張ってた徳川家が
松平定信ん時に統治理由を説明できないからって大
421:政委任論持ち出し 有用な人材を弾圧するわグダグダな弱腰外交するわで そりゃ臣下に政権よこせって言われもするわ
422:坂本弁証人・でん次郎
10/11/23 21:54:43 lDZJgQsS0.net
龍馬は文久3年(1863年)6月29日の手紙で平井収二郎の十文字の切腹に対し
「誠にむごい。加尾の嘆きはいかばかりか。まだに少しは気遣いもする。」と加尾の様子を伺う
だが同年8月14日に龍馬が姉の乙女に宛てた手紙では
千葉佐那について「顔かたちは加尾より少し良し」とし今は佐那に夢中であることを仄めかす
この手紙は故郷の親族を安心させる為のものではあるが
幼い頃から妹のように可愛がっていた加尾を完全に諦める為に態と書いたものである
もし龍馬と加尾の婚姻を土佐藩が認めたら山内家と三条家との関係が険悪になることは確実だ
たとえ龍馬が白札郷士になり上士になったとしても御家のため二人が結ばれることは無い
龍馬は加尾の事は以蔵が守ってくれればいいと考えた
慶応2年(1866年)に龍馬がお龍を妻とすると加尾はすぐに郷士の婿養子を迎えたが
文久2年(1862年)10月に土佐に帰藩してからの3年以上結婚せずにいた事は
当時の適齢期を考えると美人の未婚女性の28歳(数えで29歳)の年齢は遅すぎる
文久3年には加尾は25歳で例えは悪いが12歳で水揚げする遊女ならすでにお婆さんである
遊女の発祥は巫女にあるようだが攘夷派の収二郎にとって美人の妹は都合が良かった
坂本龍馬や岡田以蔵は幼い頃から加尾に好意を寄せ加尾は今風でいうアイドル的存在だった
加尾は裕福で恰幅のよい龍馬が好きだったが安政5年(1858年)龍馬は千葉家の娘と婚約する
翌年12月加尾が20歳の時に三条家に仕えさせる為に上京させた目的は公家との婚姻である
上士である収二郎は美人の妹を勿体振り巫女の様に男達を加尾の下に平れ伏すよう画策した
京の公家達は突然土佐の田舎から20歳になった飛び切りの美女が現れ気後れした
下級上士の収二郎は御落胤の伏見宮系に加尾を嫁がせ南紀派を傅かせるつもりだった
だから素行の悪い三条公恭に悩む加尾を京から江戸に退避させる龍馬の策を収二郎は斥けた
収二郎は加尾を政争の道具に使ったが崇拝対象以外に加尾を嫁がせるつもりは無かった
もし収二郎が妹のために親身に考えていたら十文字の切腹をする事はなかっただろう
下級上士平井収二郎は武士としての本道を忘れ青侍に近いものに堕ちていた
文久2年(1862年)9月下旬天誅が京を震撼させる中で加尾は吐き気がするくらい気分が悪かった
中川宮は武家の未婚の美女を連日呼び出して陵辱しその美女の体調まで知り尽くしていた
仏門に身を置きながら女を身篭らせた姦淫坊主は土佐の上級田舎侍より知恵比べで上手だった
文久2年閏8月から8月へと遡りそして7月中旬頃に本間は大坂の酒場で破廉恥な武勇伝を豪語し
それを聞いた岩崎弥太郎は驚愕し帰藩した直後の8月2日に井上佐一郎は殺害される
本間が精を放った武家の未婚の美人の娘は悪阻が酷くなり故郷に帰り赤子を産んだ
その赤子は攘夷督促勅使問題で中川宮に付いた本間精一郎にそっくりだった
文久3年(1863年)6月8日山内容堂は上士平井収二郎に介錯無しで切腹を命じる
加尾は龍馬とお龍の婚姻が御公儀の為
兄収二郎の弔いの為
そして不浄な奸臣に弄ばれた自身の清めの為にそれも良しとしたのだ
明治になってから龍馬からの男装準備の手紙を開示した加尾は
日本を変えた龍馬が自分の為に命がけで動いてくれた事を嬉しく想った