10/10/14 22:12:49 sopV2aDo0.net
安政6年(1859年)2月中川宮朝彦は安政の大獄によって謹慎処分とされ同年12月隠居永蟄居に処分される
謹慎は日中の外出禁止で期間は30日
隠居とは官職を退き家督を譲ることで
蟄居とは門を閉じ屋敷の一室に引き篭もるが封鎖されてはいないので本人以外の出入りは自由
当然医師の出入りは可能
美人のお龍も得意の花道や茶道や香道で引き篭もる朝彦を癒す
この時平井加尾も京で攘夷派公卿三条家に仕えていた
安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変によって大獄による弾圧は収束し朝彦も気を緩める
美人のお龍の精神的看護で気を良くした朝彦は悶々とした性欲を抑えられずお龍を慰み者にしようとした
文久2年(1862年)1月お龍の父将作が異常性欲を抑えられない朝彦に嬲り殺しに遭い
お龍を狙う朝彦の魔の手から逃れるため楢崎家の家計はどん底になる
お龍の母がチンピラに騙され妹が女郎として大阪に売られると知ったお龍は大阪に行き
「殺し殺されに遥々大阪に下りてきたのよ。それはおもしろい殺せ殺せ。」と大立ち回りをして妹を奪還する
これは自身に付け狙う異常性欲ストーカー朝彦の野望を知っての虚勢である
公家は青侍と呼ばれる下男を従えていたが青侍とは今で言うならパチンコ屋で屯するチンピラだ
お龍の父将作の死は寺社奉行管轄下で朝彦とチンピラ青侍達によって大獄の後遺症として処理された
楢崎将作は勤王家だったため勤王家の仕返しを恐れこれと縁を切り以後朝彦は公武合体派となる