10/10/11 22:17:40 +rY1SuLY0.net
中川宮が残した「朝彦親王日記」は大政奉還上奏直前の慶応3年9月29日で終わっているが
朝彦が幽閉されるまでの続きは公家の専制下の新政府が接収した可能性がある
朝彦直筆の原書は焼失しているが原書が存在すれば続き部分を削除した痕跡が残っているはずだ
もしくは削除もせず写本の段階で除外したのだろう
征韓論敗北後の明治11年(1878年)2月14日の伊勢神宮豊宮崎文庫の失火で焼失したとすれば
明治8年7月(1875年)から中川宮が祭主となった当時の豊宮崎文庫の火災は証拠隠滅である
尚他の蔵書は都合よく移動され無事だった
つまり朝彦の思い出日記の原書を焼くためだけに伊勢神宮豊宮崎文庫を燃やしたのだ
大久保利通は西南戦争後の明治11年5月14日に暗殺された
龍馬は元治元年(1864年)8月お龍を寺田屋に預け青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげたが
朝彦の日記はその後の元治元年11月と12月が欠けている
この原書の2ヶ月に近藤勇と桐野利秋をお龍の元へ使わした形跡があったはずだ
近年お龍の写真が本人であることが確認され当時かなりの美人であることが実証された
中川宮(青蓮院宮)は仏門の身でありながら女犯によって児を生し天台座主を降ろされるが
蟄居させられた朝彦の精神的看護を侍医将作の美人の娘が生け花や茶道で癒していたとすれば
異常性欲の朝彦が悶々としない筈がない
中川宮の勢力圏青蓮院塔頭金蔵寺での内祝言は朝彦を誘き寄せる為の策略である
女犯の経歴の中川宮朝彦は欲求に耐えられず龍馬の策に填り近藤勇と桐野利秋を差し向け
私利私欲のために朝廷で実権を握る君側の奸であることが明白となった
これで大政奉還において奸物の粛清を大前提とすることができたのだ