10/09/17 22:58:57 hBTlbeSj0.net
>>49
お前が死んだっていうのなら、それ以上知る意味はないけどな
坂本龍馬なら、ちょっとは意味がある
51:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/17 22:58:59 rvAMf6rU0.net
峰吉野望説だよ
「最近、中岡と坂本は競って俺をパシリにしやがる。ムカつく(怒)
もう一人ブタがいるんだから、アレを使えよ。ダイエットにもなるだろうが
まぁ、今日で連中も潮時だがな。ははは」
「思った通りに天パーが軍鶏を買ってこいとよ。どこまで上からなんだよ」
―佐々木様、今ですぜ!―
「あとは谷あたりにゴマすって取り入ってもらえれば・・・」
「ぎゃはっはっは、、、ワシも倒幕維新の歴史的人物。天才じゃあ」
と言う、証言はないな
52:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 01:04:42 Ub9VVFZBO.net
>>50
ちょっとだけかよw
53:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 01:22:19 AGRw6Wl/0.net
天満屋事件において殺害対象は三浦休太郎一人に絞られていた
三浦の身辺は紀州藩から会津藩への命で用意周到に新撰組が守衛に当たっていた
三浦は西条藩出身の紀州藩公用人でいろは丸の交渉で海援隊との折衝に当たっていたが
いろは丸の賠償金は8万3千両だが支払われたのは龍馬の死後で7万両である
近江屋事件の夜龍馬と中岡はいろは丸事件について三浦と会談していたと考えれば
この事件を解くのは容易である
当時紀州藩は十津川との間で銀に関わる問題を抱えていた
紀州藩は十津川の要求を受け入れる代わりにいろは丸の賠償金を減額しろと直談判してきた
三浦は「今宵は十津川から使者が来るから会ってほしい」と言い
軍鶏肉を買いに行かせるのを合図にしばらくして十津川郷士と名乗る者達が来た
「才谷先生しばらく」と挨拶して龍馬を判別し三浦の背を盾にして暗がりから襲い掛かる
そのとき刺客は「こなくそ!」と伊予訛りの掛け声で真剣を振るった
三浦はその「こなくそ」の意味に意表をつかれ動けなくなった
それは伊予西条藩の訛りだったからだが
刺客は三浦に分かるようにそして瀕死の中岡に証言させるためにコナクソ必殺剣を用意した
そして念を入れて原田の草履も用意した
その発想は武士に有るまじき幼稚さで剣術の指南は受けているが所詮公家
中川宮朝彦は自宅のある京都御苑もしくは境内の隅で阿呆になってコナクソ必殺剣を修行した
つまり「こなくそ」は三浦に対しての「麻呂が生きるも死ぬも紀州藩と一緒ぞ」という脅しである
孝明天皇の崩御によって再度失脚した中川宮は薩長同盟の立役者の自らの手による暗殺で
紀州藩を牛耳り佐幕派をコントロールし起死回生を狙ったのだ
尚且つ安政の大獄直後の一橋派から変貌の原因を恋敵に奪われた中川宮にとって
龍馬暗殺は慶喜に取り入るための絶対条件だったのだ
54:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 01:26:27 XC/JTFbP0.net
岩崎弥太郎だろ。
55:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 01:58:22 m1dXTJ2q0.net
>>52
所詮は小物だからな
56:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 03:01:03 AGRw6Wl/0.net
文久2年(1862年)一橋派から公武合体派に変貌した中川宮に対し
島津久光は公武合体推進とその護衛のために上京する(4月16日京都着)
同年4月23日には寺田屋事件が発生
お龍の寝床を襲った桐野利秋もこのとき同行したが
討手側には加わらず中川宮護衛に専念していたようだ
お龍の父将作が息を引き取ったのが文久2年1月20日であるから
中川宮邸において将作死亡直後のお龍にも桐野は会っていない
だが密偵探索を得意とする桐野は
悶々とする中川宮のお龍への異常性欲に気付いたはずだ
当然ながら藩主島津も中川宮の下ネタには興味がある
脱藩後の桐野はその後も中川宮側にいたのだろう
だから中川宮はお龍を誘き出すために薩摩藩脱藩浪士桐野を寺田屋に送った
桐野はまず泥酔を装い力攻めに出た
だがそのお龍が坂本の女であることを知った桐野は
お龍に詫び�
57:ト引き下がり中川宮にはお龍奪還の失敗を報告した 異常性欲を抑えられない中川宮は次の手として新撰組の近藤を使うがこれも失敗 武門一途で妻帯者の近藤に軟派な策を使う方が無理 満たされず悶々とした日々を送る中川宮の下に龍馬の寺田屋逗留が報告される 次の手として見廻組に龍馬の捕縛をさせるが 龍馬に応戦の末逃げられ愛しのお龍も奪われたことを知る その後に起きたワイルウェフ号沈没はその腹癒せだ 池内蔵太ら12名は中川宮の腐りきった欲望の面当てにされ命を落とした
58:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 07:51:09 hIV2Vm/tO.net
坂本龍馬って殺すほどの価値はなかったんじゃないの?
政策でじゃなく、ただの恨みで殺されたと言う説が最近では主流だろ
西郷や勝、高杉、桂らより遥かに格下の存在であったし
当時坂本龍馬の名は世にほとんど浸透してなく無名の輩だったしな
59:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 08:02:56 3E5lwseu0.net
坂本暗殺の黒幕=松平容保・定敬兄弟
会津厨が話誤魔化そうとしてるけどこれが事実
60:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 13:14:53 nDWkFEt0P.net
>>58
それなら新撰組にやらせる方がずっといいじゃん
アホと違うか
61:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 14:08:10 3E5lwseu0.net
>>59
見廻組は京都守護職の下部組織であり、「御指図」があったとしても何ら問題ありませんが?何か?
会津藩士手代木直右衛門は死の直前に「某諸侯の命を受けて自分の実弟佐々木只三郎がやった」と証言していますが?何か?
まあそんな基礎的なことも知らないから同じことしか言えんのだろうがここで語るにはちょっと知識不足過ぎだね┐(´ー`)┌
62:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 15:18:43 vleSGvV90.net
>53
>そして念を入れて原田の草履も用意した
>そして念を入れて原田の鞘も用意した
に訂正
>60
東北の堅物が関西郷士を装って真に騙せるか疑問
藤吉は近江出身力士
63:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 15:27:50 vleSGvV90.net
失敗し切腹し東北に残す親族を考えたら
失敗の危険性のあることはできない
見廻組はせいぜい近江屋までの護衛及び見張り役までだ
64:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 16:01:31 vleSGvV90.net
見廻組の戊辰戦争後の自白は紀州藩と親密な伏見宮による必然的助命を考慮したもの
中川宮を処刑しなかったのは紀州藩及び薩摩藩に擁護された伏見宮の身勝手から
維新後西郷は征韓論で敗れ近衛家や伏見宮の専横を許す
65:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 16:42:26 vleSGvV90.net
西郷の征韓論主張=広島に幽閉中の異常性欲ストーカー中川宮の処刑の要求
征韓論敗北=龍馬暗殺犯中川宮の自由放免
66:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 18:28:23 pIxlevj40.net
一番の謎は坂本龍馬のような雑魚が何故狙われたのかということだ
67:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 20:50:31 vleSGvV90.net
何故坂本が美人達にもてたのかそれは謎だ
68:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 21:08:51 ssOGASAg0.net
今日の大河ドラマを見て来ました。
薩摩は長州の危機に動かなかったけど
これでは薩長同盟って意味なくないか?
69:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 21:27:43 3E5lwseu0.net
小説とマンガとテレビ番組しか見てないからそんな結論に到達するんだよ
中川宮がどうとか言ってるのも同様
こんな珍説このスレで初めて見たわ
70:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 21:37:03 ssOGASAg0.net
いきなり決め付けで人格否定する頭のおかしい人ですか?
71:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 21:41:04 vleSGvV90.net
男なら倒すべき相手に大して例え一人でも戦い抜くということだ
72:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 21:42:46 vleSGvV90.net
>対して
に訂正
73:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 22:27:17 pIxlevj40.net
>>67
同盟ってのはそういうもんじゃね?
74:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/20 01:15:14 V5dCo0bsO.net
>>67
大河は見てないから知らんが、薩長同盟の最初の取り決めは
①お互いに物資(米や武器、船)の融通
②長州の朝敵(天皇に背いた罪)の汚名を返上するのに薩摩が協力する
③薩摩は長州征伐に極力参加せず、戦闘が早く終結するよう幕府を揺さぶる
この三点のみ。
幕府を倒すどうこうという軍事同盟になるような内容はもう少し後になってから決められた。
75:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/20 18:10:23 j00kCZrn0.net
異常性欲ストーカー中川宮に狙われたお龍を寺田屋に預けた龍馬は
薩長和解を画策し慶応元年5月1日鹿児島に着き西郷の家に寄宿した
西郷はこのとき岩山糸子と3度目の結婚をしていたが
西郷が自宅に居ないとき替えの褌が無かった龍馬は糸子に
「一番古い褌を下さらぬか」と頼んだ
糸子は言われるままに古い褌を龍馬に与えた
帰ってきてそのことを聞いた西郷は
「お国の為に命を捨てようという人だと知らないか!
さっそく一番新しいのと換えて差し上げろ!」
と糸子に怒鳴った
西郷は龍馬から異常性欲ストーカー中川宮による非道な行為を聞いていた
その節操のないシンボルしか守る物の無い中川宮から一人の女を救い
大敵と対峙する龍馬を男として誇りに思い尊敬すらしていた
篤姫を大奥に残す薩摩にとって龍馬の生き様は希望に見えたに違いない
もし征韓論において桐野利秋を重用する小松帯刀が生きていたら大久保は反対派に付かず
征韓そのものは別として坂本龍馬殺害犯中川宮朝彦は処刑されていただろう
だが放免され異常性欲の果てに生まれた梨本宮守正は
征韓論敗北の象徴として日朝ファシズムの長となる
76:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/20 21:33:05 41OLYJvi0.net
犢鼻褌の新旧つうのが昭和初期の貸本少年誌みたいでイカス。
坂本某の重要人物じゃなかったことには賛成だが、人物までボロクソする気はねぇし。
逸話みる限り面白そうなヤシじゃねえか、世間がサワギ杉なだけで。
77:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/21 02:28:13 vkhPH2hF0.net
みんな好きだねー
坂本某重大事件。
78:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 00:23:10 v2T954x/0.net
あの時点で一番坂本を憎悪していたのは誰かって考えると、やはり幕府側の人間だろう。
幕府側の一部のボンクラが憎悪と失意のあまり暗殺に向かったと見るのが妥当。
薩長は大政奉還により武力討幕路線を一時的にせよ足元すくわれたように言われるが、
続く王政復古のクーデターを見ると、大政奉還は倒幕のための華麗なパスワークの一つにすぎないとも言われている。
大政奉還→王政復古→鳥羽伏見の勝利が必殺のスルーパスとなり→江戸城無血開城がシュート ってところだろう。
つまり薩長の武力討幕派にとって、大政奉還は倒幕計画の一部に過ぎないという見方だ。
この理屈だと薩摩藩陰謀説も動機の上から成り立ちにくい。
79:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 01:32:51 0eg2tl0X0.net
パスワーク云々は言葉を飾りすぎのような気がするが、
大政奉還運動は当初薩摩が推進していたということを、「討幕派は大政奉還で虚を付かれた」説の人は無視している。
幕府から、天皇を権威上の後ろ盾とした統一政府へと日本国の政体を移行するにあたり、
幕府の頂点である征夷大将軍徳川慶喜が、政府としての地位を天皇の朝廷に一旦返納する、
というのが大政奉還の要諦だが、
実際は将軍である徳川慶喜は、政権の座を一旦朝廷に預けて無役となる必要は全くなかった。
単に、全国から諸藩代表を集め諸侯会議を開催し、
その場で、「日本国政府の地位は、幕府及び征夷大将軍たる徳川慶喜から、諸侯会議及びその首班たる徳川慶喜に移行した」
と宣言すれば済む話で、一旦無役になる危険を冒すのは慶喜にとって有害無益でしかなかった。
にもかかわらず徳川慶喜が土佐藩の斡旋で大政奉還を行ったのは、将来の諸侯会議における土佐藩の協力を重視していたからに
他ならない。
一方、討幕派にとって大政奉還は、幕府を日本国の地位から外すという点で、
推進はするものの、慶喜にとってあまりに一方的に不利であるため、実現の可能性は低いと思っていた。
このため薩摩は、幕府を一方的に朝敵認定し討伐する、勅(天皇の命令書)を手に入れようとした。
しかし実際に手に入れたものは怪文書レベルの根拠の薄いもので、とてもこれを基に天下に討幕を宣言することはできなかった。
坂本龍馬は、土佐藩なら大政奉還を徳川慶喜に説得できる可能性があると考え、実行した。
政府としての地位から幕府が自主的に降りたことで、これを論拠として討幕運動は勢いを増すこととなった。
大政奉還は討幕の密勅の効力を奪うものではなく、むしろ討幕の密勅には足りない客観性と実効性をもって
幕府を日本国政府から引き摺り下ろす、討幕派にとって知らない親戚の莫大な遺産を相続したかのような夢のような出来事だった。
80:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 01:52:10 v2T954x/0.net
>>78
なるほどね。補足サンクス。
結局、大政奉還は土佐藩や慶喜の思惑とは違い、むしろ討幕派の勢いを加速させたってことだね。
幕府から見たら詐欺に近いが、その後すんなり王政復古のクーデターが成功しちゃうところを見ても、勢いは薩長にあったんだろうね。
81:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 02:17:31 OwP4KwfLO.net
>>78
慶喜が大政奉還した理由が土佐藩の協力を得るためっていうのが説得力に欠けると感じた。
土佐一国、容堂1人に何を期待できるんだ?って。
薩長が何らかの企みを持っている事は察知していた幕府、佐幕派が味方を増やしたいと考えていたのは間違いないと思うけど。
82:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 02:43:32 0eg2tl0X0.net
他には、徳川慶喜自身が徳川幕府を嫌っていた、としか言いようがないね。
京都で副総裁の地位を得、会津・桑名の軍を動かし、
家茂の死によって幕府自体を手に入れた後も、京都の自らの陣営に必要な人員を引き抜くだけで
江戸は放置され続けた。
慶喜はどこかの時点で江戸の幕府を潰すつもりだった。
朝廷に近すぎたせいか、自らの権威は幕府に立脚しているということに無頓着だった。
小沢一郎が、自民党内の闇将軍でありながら自民党を潰して自分の新党を作ろうとした、というのと似ているかもしれない。
83:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 07:19:46 v2T954x/0.net
大政奉還の運動時における会津・桑名の動きってどうだったんだろう?
幕府や佐幕派諸藩が勢力を増やしたいのであれば率先して賛同しただろうが、そのような話は聞いたことがない。
逆に妨害するような動きはなかったのだろうか?
慶喜が大政奉還を宣言した直後、薩藩の小松帯刀などは急いで朝廷に裁可を取り付けに行ったという話があるが、
この逸話を知る限り、大政奉還を待ち焦がれていたのは薩長土ら倒幕派であった気がする。
84:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 07:48:51 DHKhkyB40.net
いろは丸の賠償金は慶応3年10月19日から長崎で行なわれ中島作太郎が交渉に当たった
龍馬はその頃福井で松平春嶽に謁見し11月3日に福井を立ち5日に帰京した
11月10日長崎でいろは丸の賠償金が7万両に減額で妥協したが
この妥協に隊長の龍馬や参政の後藤は同席していない
ここで三浦休太郎は10日まで長崎にいて正式に談判するために5日かけて京に入り
土佐にいる後藤の代わりに岡本健三郎が立会い岡本は談判が正式に成った
岡本帰宅後3人で談笑している間に談判の当事者として十津川郷士が挨拶に来る代わりに
中川宮とその家臣青侍達7人が十津川を装い
今井信朗の見張りの下襲撃しに来たとすれば辻褄が合う
そうでないと正式な談判とはいえず龍馬の死後の7万両はおかしい
85:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 07:52:06 DHKhkyB40.net
>土佐にいる後藤の代わりに岡本健三郎が立会い談判が正式に成った
に訂正
86:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 07:58:18 DHKhkyB40.net
つまりいろは丸賠償金は慶応三年5月29日の8万3千両の談判がそのまま効力を持つはずだ
87:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 11:20:33 OwP4KwfLO.net
>>81
13代就任を巡るいきさつからも感情面で折り合わないところはあったとは思うが…
政治の主軸を江戸に根差す親藩・一門の幕府から京都(二条城)に拠点を置く雄藩連合へ移す意図があったという解釈かな?
88:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 11:41:05 h/t4PyTi0.net
>>82
会桑は佐幕の筆頭のような扱いをされるが実態はちと違う
大政奉還の影響で京での地位権力を失い、倒幕派からだけでなく公儀政体派からも疎んじられている為
徳川が新政府の首班になれたとしても重用される見込みが薄く、土佐に対しても敵意を持って大政再委任を唱えていた
この辺りは都合が悪いのか、歴史の急展開に翻弄される会津みたいな書かれ方をして、うやむやにすることが多いのが問題
むしろ幕府方の中では特殊な部類と言ってもいいぐらい
というか幕末の研究が一部の藩に偏りすぎてて
数ある親藩、譜代の動向なんか(勿論外様もだが)がスルーされてるのが
幕末の最終局面を理解するのを妨げているんだよな
89:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/23 01:57:55 gV99C3nV0.net
龍馬が暗殺された慶応3年11月をもう一度顧みると
11月5日坂本帰京
同日福岡藤次と神山左多衛に会い松平春嶽の返書を渡す
10日長崎でいろは丸賠償金8万3千両が7万両に減額する妥協が成る(中島作太郎VS三浦休太郎)
15日龍馬が福岡を午後に2回訪ねるが福岡不在
同日夕刻中岡と岡本と峯吉が近江屋に来る
同日9時岡本近江屋を離れ峰吉が軍鶏を買いに行く
同日峯吉が離れた直後十津川郷士と名乗る刺客に襲われ龍馬は即死で中岡と藤吉は重症
16日藤吉死亡
17日中岡死亡
12月7日三浦休太郎が怪しいとして天満屋襲撃
ここで注目したいのが11月5日に帰京して福岡に会い5日後の10日に賠償金減額の妥協
その5日後の15日福岡日中不在でその夜襲撃に遭い三浦を犯人として絞るが
この5日の間隔での福岡と三浦の動きは京と長崎の旅程だと推測できる
つまり11月10日長崎に居たはずの三浦がその5日後京都に居たのだ
福岡は11月5日に京から長崎に向かい龍馬の承諾を中島に伝え
10日三浦は正式な談判をするため京に向かい15日日中に京都到着
福岡も10日長崎を離れ15日夜京都到着したが長旅の疲れと禁欲で堪らず女に逢いに行く
同日夕刻龍馬は中岡と岡本立会いのもと三浦と談判
同日9時すぎ岡本が帰った後坂本中岡三浦の3人と藤吉が居るなか
三浦と襲撃犯の
90:示し合わせたの上で襲撃される ところで紀州藩公用人の三浦は京都見廻組などのために徒労はしない だから犯人は紀州藩と親密な伏見宮の一族中川宮朝彦とその家臣青侍達なのだ
91:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/23 08:16:18 BVUcDMUm0.net
>>82
>大政奉還の運動時における会津・桑名の動きってどうだったんだろう?
動きは知らんけど手代木は春嶽に謁見した際大政奉還を批判しているから他の会津藩関係者も同意見だろうな
92:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/24 03:18:43 YrbsfHQc0.net
土佐藩は古くからの鰹漁の問題で紀州藩を快く思っていなかった
紀州藩は大型船で遥々土佐湾まで鰹漁に来るが鰹節の生産は独占し
土佐の漁師は廃業に追い込まれ紀州藩の鰹節生産に低賃金で働かされていた
土佐にとって大政奉還は紀州藩に一泡吹かせる千載一遇のチャンスであり長年の悲願であった
紀州藩に長年の鬱憤があるが徳川に恩義のある土佐藩は慶喜の清廉潔白に期待し
海援隊に土佐から後藤象二郎を差し向け倒幕における紀州藩の処遇を検討する
薩摩藩は紀州藩に対してそれほど嫌悪感はなく篤姫が薩摩帰国を拒否して大奥を仕切る状況で
近衛家の思惑もあり幕府との戦いに紀州藩を巻き込むのは得策でなく他の打開策を模索した
だが将軍に慶喜が就任したこともあり慶喜の気質からいずれ対決は避けられない
薩摩の後押しの下で海援隊を率いる龍馬にとって薩摩の意向は無視できず
脱藩の許しが出ていたが故郷土佐と薩摩の狭間で対紀州対策を練っていた
龍馬の戦争回避はこのときの考察であり龍馬は決して平和主義者ではない
いろは丸事件の賠償問題はその対応次第で新政府の紀州藩の地位を決するものであり
これにより事実上紀州藩の地位を著しく下げることになり積年の恨みをはらすことができる
もし呑まなければ紀州を主戦場にして焼き野原にすることになるが
8万3千両が高いか安いかそれは紀州藩主が決めろというものだった
紀州藩有利になりつつあった裁定も海援隊による国力を以って争うという姿勢に屈し
慶応3年5月29日紀州藩が8万3千両を支払うことで談判した
だが実際には龍馬の死の5日前の慶応3年11月10日
龍馬の長崎不在中に7万両の減額に妥協し龍馬の死後に支払われた
長崎の五大友厚が7万両で裁定した以上慶応3年11月10日から龍馬の死の15日までの間に
海援隊隊長坂本龍馬と紀州藩公用人三浦休太郎とで正式な談判がなければならないが
三浦休太郎を陸奥宗光の単なる勘違いとして容疑者から外し人々の関心を逸らしている
現在の高収入な歴史研究家の学術は欺瞞である
93:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/24 03:43:10 5/yDxkHl0.net
一会桑は、孝明天皇の攘夷政策を幕府に押し付けて外交上の矛盾を発生させたこともあり、
一会桑を佐幕派として語るのには無理がある。
大政奉還時には徳川慶喜は、島津久光から主導権を奪っていた諸侯会議を拡張する形で、
二条城に諸藩代表を集め、彼らの合議制の上に自らが政府代表として乗っかる形を構想していた。
これに対し会津・桑名は、諸侯会議の人々と全く仲が良くなかった。
会津関係者が兄弟愛の存在を主張する尾張の徳川慶勝は、両者に隠居を求め政治から手を引くよう勧告していた。
徳川慶喜の弟である岡山の池田も、藩内は勤皇が多数で天皇に抗してまで徳川を支持する気はなかった。
松平春嶽は一会桑の他諸侯を抑えての独断専攻に警告を行っていた。
宇和島の伊達宗城は諸侯会議では一会桑よりも島津久光を支持していた。
広島の浅野は元より薩長支持だった。
この条件で、徳川慶喜の大政奉還が、「�
94:c喜の主催する諸侯会議の政府化」という形に実を結べば、 徳川慶喜は盟主になったとしても、会津・桑名へは引退勧告が必至で、両者には受け容れられるものではなかった。 その為、会津・桑名は大政奉還に激怒し、大政奉還を主張した者へは敵意をむき出しにし、今すぐ大政を将軍に戻すように主張した。
95:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/24 05:56:32 6k6S+5E90.net
新政府入りするまでは、政局を優位に進める為直属の武力を持たない一橋は会桑の武力を頼りにしてたが
入った後は有力諸侯との軋轢しかない会桑は厄介者でしかないしな
大政奉還を訴える勢力と大政再委任を訴える勢力は相当不和なんだが
この辺りは会津系の人が、徳川より自藩の権力を保持しようとしたことを隠したいのか、曖昧にされるんだよな
96:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/24 21:54:44 ejeoIPzD0.net
無名の一般脱北者がキム将軍の敵対する2組の組織に裏で武器を売りつけ力をつけさせ
他の組織に危機感を煽りキム将軍を政権から降ろさせた
そしてキム将軍側近の恨みから殺されたが後の岡田大臣クラスに称えられた
社会主義国家にいながら資本こそが武力という稀有な発想を持っていた無名な一般人
武力で改革を行えば儲けれたはずだがしなかった、りっぱな現代人
わかりやすく指摘お願いします
97:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/24 22:21:22 wAjo75Z9O.net
龍馬って西郷のパシリじゃん!!何を有り難がってんのさ~!
98:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 07:32:33 0YHZnYUL0.net
薩摩と土佐が対立しているように見えるのは後世からの視点だからそう見えるだけ
当時は大政奉還の黒幕は土佐ではなく薩摩だと認識していたのが会桑や幕臣の多数派
彼らからは土佐は薩摩とつるんで幕府を潰そうとしているようにしか見えていない
大政奉還そのものに反対なのだからそれはそれで当然
大政奉還が幕府にとって有益で坂本龍馬が幕府の味方であるなどという認識は彼らには無い
99:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 12:15:32 inJ87xGe0.net
薩摩と土佐はライバルであったとは思うが、対立してるなんてはじめて聞いたw
幕末の薩摩と土佐は島津斉彬時代から幕府VS諸藩賢侯の図式で、仲間としてずっとやってきているイメージ。
強いて言えばクライマックスの小御所会議で、容堂が慶喜を擁護しようと薩摩に反発した一瞬だけじゃないか?
結局、西郷に短刀一本で黙らされたのが史実かは知らんが、薩摩に対してはその程度の反動があったくらい。
ただ歴史が大転回した劇的シーンの一節であることから、さも薩摩と土佐が対立していたかのような印象になるのかも。
大政奉還については薩摩を納得させているのだから、薩摩と土佐が協調路線であるのは間違いない。
大政奉還が倒幕派の陰謀をくじき、幕府を守るための策であると勘違いされているのが、
いつのまにか坂本龍馬が幕府の味方であるという本末転倒な捏造につながっているのかもね。
100:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 15:42:48 HJKnLhGY0.net
「大政奉還は、坂本龍馬が平和的な政権作りのために武闘に走る薩摩に突き降ろした鉄槌、土俵際のうっちゃりなのだ」説は、
中村彰彦あたりが声高に唱えたが、
当時の坂本龍馬の言行からはとても考えられず、逆に坂本は討幕派を有利にするために
幕府を政府の座から引き摺り下ろそうとして、山内容堂と徳川慶喜を詐欺に掛けたのではないかと思う。
土佐藩の佐々木高行が薩土盟約締結時の経過を克明に記しているのだが、その中に次の文章がある。
此日才谷曰く 吾が藩は是迄幾度も藩論を変じたる故 薩藩も未だ疑念解けず (中略)
才谷、石川両人の考えにも大政返上等の事を吾が藩主張し 其主人と相成候はば
薩藩も必ず信用すべし
(ここでは才谷が坂本龍馬で、石川が中岡慎太郎の変名)
要するに、「土佐藩は大政奉還を推進し幕府を政府の座から引き摺り下ろし、この功績で薩摩藩に味方だと信じてもらおう」
と坂本龍馬は言っている。
もっとも、大政奉還には「徳川慶喜の目指した新政権への先鞭」という意味もあり、この場合も推進をしておけば損をすることはない。
土佐藩にとっては、薩摩に政権が転んだ場合でも徳川慶喜が維持した場合でも、大政奉還を主張していれば自分の立場は有利だった。
そのため、公武合体説をとっていた山内容堂も大政奉還を熱心に支持した。
しかし、坂本自身の考えは、討幕だったと思う。
101:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 15:48:10 lSKp0oJU0.net
政局の主導権をどこが取るかっていうつばぜり合いぐらいだろうな。
基本的には慶喜を13代に擁立しようとした時の勢力はそのまま小御所会議まで緩やかな連合だったし。
主導権争いと政策路線の対立は分けて考えないとな。
幕末ギリギリの段階で慶喜一派にしろ雄藩連合にしろ開国して富国強兵へ向かおうとしていたのは間違いない。
その時の日本のかじ取りをする政権に幕府・佐幕派や慶喜一派を含めるかどうかという部分で対立していた訳だ。
薩長は「慶喜いらね」と言い安芸や備前などにも「いらねーよな?」と呼びかける。
土佐や越前は「250年政権を担当した徳川氏を排除するのはおかしくね?」とそれに待ったをかける。
慶喜一派は「江戸では不評で心許ないから京都で仲間増やしつつ主導権を…」と多数派工作。
会津・桑名は「これまで尊王の本拠地京都を守ってきた俺達は爪弾きかよっ!」とヘソを曲げ始める。
諸勢力・人物が全く違う思惑と感情を持っていた。
この状況に対し「取りあえずこれで水入りにして様子を見ましょうよ」というアイデアが大政奉還だったと思う。
大政奉還実現後はどの勢力にも次の主導権を握れる可能性を匂わせるアイデアであったから実現できた。
102:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 16:28:37 HJKnLhGY0.net
だが、その中村あたりの説を採ると、
慶喜の大政奉還表明後、薩摩の小松と土佐の後藤が朝廷に日参してすぐ受理するよう
朝廷内を説得したという史実や、会津・桑名が激怒して大政奉還停止、後では即時再委任を
主張して回ったことへの説明がつかないんだよ。
大政奉還で得をするのは、
1.討幕に走る薩摩・長州・芸州
2.諸侯会議に属する有力諸侯の尾張・越前・岡山・宇和島・佐賀・土佐
3.新政権を夢見る徳川慶喜
あたりで、諸侯会議の構成員と全く不仲であった会津・桑名にとっては現状が最高であり
大政奉還では実権の全てを失う恐れがあった。
103:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 16:42:53 HJKnLhGY0.net
少なくとも、大政奉還は「取りあえずこれで水入りにして様子を見ましょうよ」などというものではない。
徳川慶喜が、せっかく既得権として持っていた政権の座を、政争の賞品に加えてしまったので、
俄かに政争が日本の将来を決定する重要極まりないものに転じてしまった。
菅直人が唐突に、「首相の座を尖閣諸島を実効支配している人に譲ります」と宣言したようなものだ。
海洋調査船どころじゃない、大軍が本気で来てしまう。
104:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 18:26:47 ujCDyfaMO.net
>>100
慶喜自身は一旦政権の座から退く事で薩長の武力蜂起は回避できると思っていたのでは?
薩長が大政奉還までした自分を武力討伐にまで走れば薩長と微妙な距離を置く土佐、伊予をはじめとする非薩長や譜代、親藩は自分につく。
そんな慶喜の予定を覆したのが「錦の御旗」。
ペリー来航以来、外交交渉で手詰まりになった幕府が時間稼ぎと責任転嫁で利用していた天皇。
10数年間の間にその天皇の政治的影響力と統治者としての正統性を幕府自体が認め、諸藩もそれに倣った。
鳥羽伏見に錦の御旗が登場し薩長が勝利した事で、慶喜の京都での足場はなくなった。
105:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 18:47:36 jlKvAcMs0.net
ところでみなさん大河ドラマの方は見てる?
自分は脱落。
106:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 19:33:30 HJKnLhGY0.net
.>慶喜自身は一旦政権の座から退く事で薩長の武力蜂起は回避できると思っていたのでは?
もしそう考えていたのなら、ものを見る目が全くない。
朝廷を手にした者に次の政権が与えられる、と徳川慶喜自身が宣言したのだから
次は朝廷争奪戦になる。
現に尾張の徳川慶勝・越前の松平春嶽らも大政復古には兵を出し、
薩摩・安芸等と共に会津桑名を朝廷から追い出してしまった。
朝廷を押さえることなしに主導権は得られない。主導権を得たものが次の政権を持つ。
その程度のことはこの時期の在京諸侯なら把握していた。
107:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 20:00:08 ujCDyfaMO.net
>>103
だからこそ錦の御旗を見て東帰したのでは?
108:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 20:13:58 HJKnLhGY0.net
>>104
それでは遅すぎるし、自らの手の内に朝廷がなければますます不利になる。
徳川慶喜の鳥羽伏見の戦いにおける逃亡は、朝廷重視というよりも、慶喜の過剰な自尊だろう。
「慶喜という人間には地位がなくとも天皇に近い価値がある」、と慶喜自身が思っていた。
実際は、天皇を絶対視した時には、将軍は僭称者・敵対者扱いされてもおかしくないのに。
まして徳川家は彼が継がなくても良い。家茂も別の人間を後継に指名していたし、その人間が明治維新後は跡を継いだ。
109:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 22:44:52 kwk111g50.net
>>105
>朝廷を押さえることなしに主導権は得られない。主導権を得たものが次の政権を持つ。
>その程度のことはこの時期の在京諸侯なら把握していた。
に対しての>>104だよ。
少し落ち着いて人の書き込みの意図を感じようよ。
110:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 23:09:30 HJKnLhGY0.net
それでは説明が足りない。
その上に説明まで間違っている。
その上質問自体に意味がない。
ゆえにもう一度答える。
回答は「それでは遅すぎる。慶喜ってますます馬鹿みたい。」
これでいいだろう。
111:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 23:35:12 ujCDyfaMO.net
>>107
意味がないと思うならわざわざ答えず他の人の意見を待ったら?
気持ち悪いわ
112:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 23:41:27 HJKnLhGY0.net
徳川慶喜自身の大政奉還によって、政権の座は朝廷に返上された。
朝廷を手にしたものが政権を手に入する状況が生まれた。
自らの手に朝廷がなければ、恭順したところでまな板の上の鯉だ。
そのことに鳥羽伏見の闘いにおける錦旗登場で気付いたのなら、慶喜はとんでもない間抜けということになる。
まして、その後江戸へ逃げ帰ってしまったのだから、大局というものを見ていない小人ということになってしまう。
また、王政復古の時点で直ちに朝廷奪還を行わなかったこと自体、危機管理としては落第だ。
天皇の身を案じたから直ちに朝廷を占領しなかったのだ、ということを理由にするにしても、
結局は鳥羽伏見の戦いを起こしてしまった。その間に薩摩も長州も軍を上陸させ、薩長に時間を与えてしまった。
私は、徳川慶喜が王政復古時に、朝廷で直ちに尊王攘夷派と戦わなかったのは、
朝廷尊重よりも、慶喜の自尊、つまり自惚れのせいではないかと思っている。
将軍でもない徳川慶喜個人に、天皇に近い価値があると慶喜自身は考えていた。
そのため、自分自身がいれば将軍つまり日本国政府代表者でなくても、朝廷に対抗できると思っていたように思う。
だから、朝廷を薩摩に取られても大阪に退き、闘いが不利だと江戸に退いた。
自分というものの価値を過剰に信じていたのだと思う。
113:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 23:43:36 HJKnLhGY0.net
他人の意見を待っていたら、この板は数ヶ月でも数年でも経過する。
それだけ過疎なのだ。君の論は正しくない。
114:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/26 23:50:02 HJKnLhGY0.net
正しくは「第三者がたまたまこのスレに注目するだなんて、この板ではほとんど考えられない。
なぜなら過疎だから。ゆえに相手の発言に返事をしなかったら、返答は全く期待できない。」ということになる。
ゆえに、反対意見や「なに世迷言を」的な苦言も、返答を期待する場合は書く。
115:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/27 20:27:20 ydDs4r3ZO.net
キモっ(´Д`)
116:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/27 21:53:16 0zSpz/zS0.net
反論できなくなったら罵倒?
117:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/27 22:39:00 wDeniDl30.net
せっかく途中まで読んでて面白かったのにな。
「錦の御旗」が出たあたりからどうでも良くなってきたw
要は大政奉還が慶喜にとって夢をかけたものか、討幕派が描いた絵だったのかは、両方の要素があるわけだし。。
慶喜の現実認識の甘さを思い知らされるのが鳥羽伏見戦の錦の御旗出現か、江戸東帰後なのかなんて正直どっちでも良い。
ただ前説に対しては、個人的には旗くらいで動揺するのか?ってずっと半信半疑。 慶喜が過剰反応しすぎというか・・・
薩長はすでに京と朝廷を抑えているのだから、大義を示すために作り物の旗くらい出してくるのは当然だろうと思うのだが。
島津と毛利の連合軍ではなく、朝廷の軍であることをアピールしたのがよほど衝撃だったのかな?
118:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 00:11:51 XwpuC+Ql0.net
坂本龍馬は薩摩の武器商人なんですよ。
そして、大政奉還は薩摩にも徳川慶喜にも将来の利益を感じさせるものだった。
坂本龍馬は、どっちつかずの土佐藩の内部から大政奉還を推進し、
薩摩も慶喜も両者共に、土佐藩のことをを高く買うように仕向けた。
「坂本龍馬は武力に訴えようとする薩摩を懲罰し、平和裏の政権移行を行うべく、幕府のために大政奉還を推進した」
という一部の人々の見解は妄想に近く、むしろ坂本龍馬自身の発言を拾う限りでは、
薩摩への手土産として幕府を政権の座から蹴落とそうと狙って起こした活動であった、ということになるわけです。
徳川慶喜は錦旗に恐れおののいたのか、ということですが、
朝廷を重視していたのなら、王政復古を甘受することなどなかったと思います。
私は、徳川慶喜が自らを天皇に匹敵する権威と考えていたから簡単に撤退したのだと思っています。
いくら行動が惰弱でも、日本国を代表する権威として扱われたなら後醍醐天皇のように巻き返しは可能です。
むしろその場合、自らの死の方が危険要素です。ゆえに危ないことはしません。
もっとも、薩長新政府は旧幕府の武力が問題にならなくなるまでは徳川慶喜の権威を極力無視し、
後になれば謹慎中の地域領主として扱いました。徳川慶喜の自尊心は空回りし続けたわけです。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 00:42:27 w7/7IhVY0.net
大政奉還が薩摩への手土産だった説は面白いね。
坂本の正体は薩摩の御用商人と言われても仕方ない面があるし、
その行動の根源には討幕思想が土台になっているという点は自分も同意見。
慶喜については自分が勉強不足なので、いまいち行動原理を理解してはいないが、
自尊心からくる江戸への撤退だったという説は新鮮で面白い。
たしかに後に徹底恭順した点などは、自分の命を大事にしている感じを受けるしね。
命をかけられない時点でやはり殿様だなとも思うし。
最後まで慶喜の自尊心が空回りし続けたのは、最後の将軍にふさわしいとも言えるし、
時代とともに消え去った人物を象徴しているように感ずる。
120:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 00:54:01 V3iLIQGf0.net
>>115
121:ありがとう御座いました。竜馬の実態がつかめずにおりましたが武器商人ですか。司馬遼その他の著作でも さっぱり正体がつかめずにおりました。また慶喜の逃げ足が速かった原因も納得です。
122:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 04:29:46 8iiMeD9E0.net
慶喜が自分が天皇に匹敵する権威と思ってたってのは大げさじゃないか
薩長と徳川との私戦でなく、朝幕間での戦争となれば支持を失うことを
認識していなかったとは思えない。
123:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 12:07:19 XmJadlg2O.net
慶喜は自尊心が高いというより、単に優柔不断だったように思う。
124:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 17:04:45 xH88VzjtO.net
>>115
なんかめちゃめちゃww
そもそも薩長の手見上げって…
大政奉還は龍馬が成し遂げたとでも?
また保身の為の逃走って…
鳥羽・伏見だけを考えるなら圧倒的有利だったのは旧幕府軍
勝ち戦から逃げ出したのは朝敵になりたく無かった事は明白ですよ
125:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 17:44:18 rjkGXK+gO.net
元々慶喜の出身が水戸学に浸かってるから、朝敵嫌だは当然の思考だな
彼も幕府と水戸学の板挟みで苦しかったろうとは思う
126:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 18:45:46 XwpuC+Ql0.net
>>120
>なんかめちゃめちゃww
な ID:xH88VzjtO
>そもそも薩長の手見上げって…
>大政奉還は龍馬が成し遂げたとでも?
土佐藩で大政奉還を吹聴したのは坂本
>また保身の為の逃走って…
>鳥羽・伏見だけを考えるなら圧倒的有利だったのは旧幕府軍
圧倒的有利だったのは薩長軍
>勝ち戦から逃げ出したのは朝敵になりたく無かった事は明白ですよ
どこが明白なのか、わけが分からない。
ID:xH88VzjtOの発言には、どこにも根拠がない。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 19:13:14 xH88VzjtO.net
>>122
学が無いから根拠を見出だせないのだよww
大政奉還は慶喜の功績
鳥羽伏見は軍事力も地理的条件も旧幕府軍が圧倒的有利ですよ
薩長軍は京都で完全に孤立してますから
大阪を抑えられてる薩長は補給線を絶たれてます
128:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 20:36:24 Y/VYBOrV0.net
補給船が絶たれてて長期戦が難しく陣地として不利だったのは薩長らしいな。
ただ火力に関しては薩長の方が優勢だったのと、
幕府側の諸藩が日和見を決め込んだり寝返ったりしたため繰り返し幕軍が後退し思いの外早く大阪まで引き上げた。
慶喜たちが大阪から消えたことで関西での戦闘は諦める事になった訳だし。
そういう意味では関ヶ原と同じような感じがする。
129:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 23:09:53 w7/7IhVY0.net
関ヶ原よりもはるかに見た目上の兵力には差がある。
それなのに幕軍には裏切りが出たりして負けたのが不思議なくらいだ。
つまり鳥羽伏見は純戦術論的なものではなく、きわめて政治色の強い戦いとして見るべきでしょう。
だから慶喜は長期戦に持ち込んで薩長軍の補給線を完全に絶てたのに、それをしなかった。
幕軍に足りなかったのは、時勢という波と味方内の結束力に尽きる気がする。
朝敵になりたくなかったのも含めて。
ただ、それだと何故に慶喜が王政復古のクーデター時にすごすごと二条城から大阪に引いたのか、いまいち理解できない。
やはり難しいな幕末は・・・
130:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 23:13:11 Y/VYBOrV0.net
二条城から撤退する方が有利になると判断したんだろうが、なぜそう思ったのかだな重要なのは
131:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 23:56:06 XwpuC+Ql0.net
その意味では、ID:xH88VzjtOの意見には中傷だけで見るべきものがなくて嘆息する。
説すらまともな見解とは懸け離れている。敗北軍絶対勝利とはどういう意見なのか問いたい。
まるで会津史あたりの、「我々は各地で全面勝利して有利だったが全体では敗北した」という陳腐な文と変わらない。
敗北した側を「有利」とは呼べない。軍備が優れていようが指揮がおかしければ全体としては不利な弱軍だ。
二条城からの撤退に関しては、
・天皇の身柄の安全に配慮した
・平和裏の政権移行が可能だと認識していた
・徳川慶喜は惰弱だった
という説があるが、どれも決定的なものとは思えない。
天皇の身柄に配慮する場合、天皇を尊く思うなら却って皇居突入を行ったと思う。
平和裏の政権移行が可能と認識していた、というなら鳥羽伏見の戦いで進軍させてはいけない。
どんなに軍に怒りが充満していても、進軍はせず待つべき場面ということになる。
惰弱だった、にしては禁門の変における一橋慶喜は勇猛果敢であった。
要するに、どれも既存の説ではしっくり来ないように思える。
ゆえに私は、「将軍の地位を継いだ時、天皇と肩を並べた権威になったと思った」を挙げる。
天皇を担いでいたとしても慶喜本人の権威で対抗可能と思ったので、朝廷を簡単に手放したのだろう、と。
とんだ自惚れだったのだが。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 10:30:45 ThPHjwjkO.net
>>127
すまんが全く意味が解らない…
てか貴方は敗軍って結果にこだわるみたいだし、結果論でしか物事を考えられないみたいだね
論外だよ
133:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 10:41:52 ThPHjwjkO.net
>>125
王政復古のクーデターを阻止する理由は無いでしょ
大政奉還時点で朝廷に政権を返上してるのだから
薩長が朝廷を取り込んだところで最後は徳川に泣きつくと踏んでいたのが本音では?
慶喜には朝廷が徳川討伐の決断をするとは夢にも思わないだろうし
実際に錦の美旗だって偽物
134:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 12:21:48 Slp5oHl2O.net
>>129
朝廷が徳川に泣きつくとしたら理由は何だろう?
外交の実務的な処理とか全国諸大名への政令を行き渡らせる行政面かな?
135:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 13:29:21 ThPHjwjkO.net
>>130
純粋に国力も軍事力も薩長より徳川が上
史実では鳥羽伏見で薩長が勝ち、徳川及びそれに見方する物が明確に朝敵とされたから諸藩の多くは薩長の新政府を官軍と見なし協力したが、その結果がなければ新政府は徳川を気にする他藩からの協力が得られず維持出来なかったと推測します
136:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 13:45:10 1rGdeqzXO.net
大阪に下坂するよう勧めたのは慶永、慶勝。慶喜が下坂することによって、
軍事上経済上重要な拠点の大阪を押さえることができた。
それは薩長にとっては不利なことであり、新政府内部では公議政体派が慶喜の議定職就任の
周旋がしやすくなった。
って考え方もあったよね。
137:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 14:00:34 VFCbxORq0.net
鳥羽伏見で薩長が勝てた理由は火力で上回ってただけ?
138:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 15:45:10 ThPHjwjkO.net
>>133
局地戦で勝利しただけで戦局は徳川が有利
徳川の敗因は大将が戦意喪失して敵前逃亡したから
139:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 15:48:06 VSnuL7Ej0.net
>>128,129,131
どうも、君の話の方が論外に思える。
徳川慶喜が大政奉還を阻止する理由は現実には大有りだ。
阻止しなかったせいで、政権を失った上に失った政権の座を敵対者に利用されてしまった。
>薩長が朝廷を取り込んだところで最後は徳川に泣きつくと踏んでいたのが本音では?
>慶喜には朝廷が徳川討伐の決断をするとは夢にも思わないだろうし
想像できなかったのなら、無能だ。
禁門の変でも、長州は天皇を連れ去る算段を行っていた、と変鎮圧後の幕府方が報告しているのに。
>実際に錦の美旗だって偽物
薩長方が一旦朝廷に献上し、本物として薩長方が使用する許可を得てから使用しているのだから、本物です。
>純粋に国力も軍事力も薩長より徳川が上
それをまるで生かせなかったから、不利な弱軍であったというのです。旧幕府軍は全然優位にたっていません。
>>133
1.戦略が正しくなかった
・薩長軍の方が兵力が小さいのに、旧幕府軍は鳥羽・伏見の二方向のみで進攻したので薩長軍に拠点防御が可能だった。
西国街道や近江方向からの軍を編成していれば薩長は全て防御が可能だったのか疑問
2.指揮が悪かった
・旧幕府陸軍の前線の指揮官は突撃だけを命令し、狙撃を受け撤退を繰り返した。
司令官は所在不明な上、拠点防御を前線が行った頃に撤退を命令した。
3.新撰組・会津軍は役立たずだった
・槍では銃撃を受けるだけで、近代戦では的になるだけだった
140:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 16:13:53 VSnuL7Ej0.net
>>131
>史実では鳥羽伏見で薩長が勝ち、徳川及びそれに見方する物が明確に朝敵とされたから諸藩の多くは薩長の新政府を官軍と見なし協力したが、
>その結果がなければ新政府は徳川を気にする他藩からの協力が得られず維持出来なかったと推測します
薩長の鳥羽伏見の戦いにおける当初プランでは、京で一戦を行い敗れても、天皇と共に広島に御所を立てて反幕府の号令を行う、
広島が維持できなくなれば山口へ、更に鹿児島へ、琉球へ、台湾へ、と国姓爺合戦のような話があったのだが
天皇を連れ去られたらどうするつもりだったのだ、と問いたい。
徳川慶喜が本当に天皇重視なら、王政復古の甘受なんてありえない。
どうも、中村彰彦あたりの床屋談義を真に受けて話をされても困る。
141:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 17:16:32 VSnuL7Ej0.net
>>135
おっと、「大政奉還」ではなく「大政復古」だな。訂正の必要がある。
どうも、鳥羽伏見の戦いの敗戦原因を、瀧川・竹中・会津候松平容保らに帰するべき部分まで
無理に徳川慶喜に押し付けようとする連中がいて、この戦いの解説は特に会津系に不正記述が多い。
142:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 18:36:55 ThPHjwjkO.net
>>135
なんかダラダラ結果論ばかり…
朝敵にされたのも全て結果
大政奉還時点では武力討幕の大義名分は失われてる為、徳川は朝敵になりえない
また禁門の変云々も意味不明
仮に長州が天皇奪還を成功させていたとしても、どこの藩が長州を官軍と見なしていたのかと…
いずれにせよ論外だよ
143:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 18:42:21 ThPHjwjkO.net
>>136
敗軍が幼帝を連れ去ってどんな大義名分を打ち出せるのかと…
徳川が「薩長は幼帝を連れ去った逆賊」と言えば諸藩は間違いなく徳川に付くだろうよ
勝てば官軍なのよ
144:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 19:40:16 VSnuL7Ej0.net
なんだか、ID:ThPHjwjkOの意見は反対したいという意思だけで、
何も中身がない。
>朝敵にされたのも全て結果
朝廷を手放したのが悪い
>大政奉還時点では武力討幕の大義名分は失われてる為、徳川は朝敵になりえない
天皇の意思が勅であり、朝敵か否かは天皇の意思次第
>また禁門の変云々も意味不明
目を瞑り思考を停止しているだけ。会津武士道並みに卑劣な行為
>敗軍が幼帝を連れ去ってどんな大義名分を打ち出せるのかと…
>徳川が「薩長は幼帝を連れ去った逆賊」と言えば諸藩は間違いなく徳川に付くだろうよ
南朝はそうならなかった
ID:ThPHjwjkOの意見は、全てが意味不明かつ論外な虚偽だと思われます。
145:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 00:15:13 X0eIkdSG0.net
天皇拉致って安徳天皇かよw
天皇拉致計画は幕府側の捏造。だいたいそのような計画をしている側に全く下準備の痕跡がないのは不自然じゃね?
146:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 00:31:52 x1nU/errO.net
>>141
備前、安芸の退路確保はできてたと記憶しているが
名前忘れたが、安芸藩家老の某とは入京前から兵士の輸送やら兵糧確保の話をまとめてあった
で、備前も入京に協力してその後天皇推戴に関しても薩長側につく書面を出してたかと
147:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 10:17:49 jp1DE30RO.net
>>140
意味が解らないなら論外だからもういいよ
手取り足取り教えるつもりはないから
148:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 13:10:57 x1nU/errO.net
(・ω・)
149:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 13:17:52 K0afy3Hc0.net
会津の偏見親父は
論証に勝てず撤退
150:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 16:46:18 LzrL3Ayd0.net
いやあ見てて面白い
何が面白いかって?
知識の差
知識のある者は、議論できる
知識のない者は、文句しか言わない
当然なことなのだろうけど、
知識の大切さを改めて実感しました
ありがとう
151:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 17:24:26 x1nU/errO.net
概念と知識だけでは人と議論する事はできないよ(・ω・)
152:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 20:21:54 K0afy3Hc0.net
今回の会津さんは、あちこち発言に初歩的な間違いがある上に、
鳥羽伏見の戦いの初期幕府軍劣勢まで徳川慶喜のせいにしようとしたので、全くお話にならなかった。
あの敗戦は現場、瀧川・竹中・松平容保・松平定敬や大多喜あたりの責任が大きい。
私はそれと、旧幕府陸軍で、フランス軍軍事顧問の教育が悪かったのではないかと言いたい。
ライフル銃普及後、歩兵の持つ銃の射程距離と破壊度は格段に向上していた。
なのに旧幕府陸軍は密集突撃だけを繰り返し、指揮官は狙撃死、部隊は四散するという惨憺たる状態に陥った。
旧幕府陸軍の戦術が前時代、ゲベール銃あたりのものだった。時代は散兵術、遮蔽物に隠れながらの射撃に移っていた。
中村彰彦あたりの駄文では、その後のフランス人顧問出身の将兵の立身出世を誇らしげに書いているが、
そんな実績があったのか疑問だ。盗人に追銭を与えるような文章であり、私はこのような卑怯な文を嫌う。
おっと、話が逸れまくったが、スレは「坂本龍馬と薩長」だ。
土佐勤王党の初期メンバーであった坂本は、久坂玄瑞の「藩の境を越えて尊王攘夷で決起せよ」という檄文に呼応し
脱藩を行い長州藩へ転がり込む。その後勝海舟との出会い、亀山社中設立と薩摩との関係が濃くなる坂本だが、
はじめは長州の尊王攘夷運動に傾倒していたことは忘れるべきではないだろう。
153:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 21:38:03 2zcOFJlE0.net
>122
>>大政奉還は龍馬が成し遂げたとでも?
>土佐藩で大政奉還を吹聴したのは坂本
土佐藩と薩摩藩を取り持って後藤に大政奉還を進めたのが坂本だ
薩土密約及び薩土盟約が前提
154:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 21:56:27 2zcOFJlE0.net
>100
>菅直人が唐突に、
>「首相の座を尖閣諸島を実効支配している人に譲ります」
>と宣言したようなものだ
ということは次期首相は沖縄県民からということだな
155:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 22:05:54 2zcOFJlE0.net
慶応3年6月9日に坂本龍馬が後藤象二郎に示した船中八策に
「一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、
宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。」とあり
龍馬は大政奉還だけでなく新政府における不浄な公家の排除も検討していた
当然お龍一家をその異常性欲で陥れた中川宮朝彦がその排除対象の筆頭である
慶応三年6月22日に結ばれた薩土盟約では
「一、国体を匡正し、万世万国に亙りて恥じず、是れ第一義。」とあり
現状の国体に悪しき系統が有ることを両藩が指摘しそれを正さなければならないとし
これは系統が極めて怪しく世襲親王家として腹ボテ補完以外に役に立たない伏見宮一族を指し
中川宮の追放及び伏見宮の世襲親王家としての降格を意味する
この薩土盟約には薩摩から小松と西郷と大久保が出席し
土佐から後藤と福岡と寺村と真辺が出席それに坂本と中岡が同席した
将軍慶喜に大政奉還を迫る以上公家の汚点も指摘し排除しなければ新政府に憂いを残す
仏門で修行した身でありながら節操のないシンボルで国政を惑わす中川宮に対し
武士として毅然と挑む坂本龍馬は武士側ではすでに英雄であり
将軍慶喜への建白も自信をもって示すことができる
慶喜に恥を忍んで将軍を降りてもらい武士主導の政を終わらせる以上
前年の孝明天皇崩御ですでに明治天皇から遠ざけられた中川宮はそれ相応の処遇は必然だ
節操のないシンボルは新政府に不相応
これが家康公の名を汚すことなく徳川の世を終わらせる最低条件だったのだ
156:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/30 23:53:45 iii4zlpk0.net
鳥羽伏見の頃の旧幕府軍の武器は火縄銃は使わなかったの?
157:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/01 00:07:23 G9LgVHExO.net
>>152
幕府歩兵隊は最先端の銃器装備
会津、桑名は安い先込め式
その他佐幕派の緒藩は火縄銃、弓が多かった
158:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/01 00:57:59 hl1Pu9GW0.net
当時、日本にあった銃を分類するとこうなる。
滑腔銃
・火縄銃(火縄式・滑腔・先込め)
・ゲベール銃(雷管式・滑腔・先込め) 東北戦争で列藩同盟が新潟などで購入 全くの無駄
ライフル銃
・ヤーゲル銃(雷管式・施条・先込め)・・・弾丸を押し込む操作が困難 東北戦争で会津軍が購入 使用困難で苦悶
ミニエー銃(ミニエー式弾丸を用いる。弾丸装填が容易になった)
・エンフィールド銃(雷管式・施条・先込め) 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍・新政府軍の双方が使用
・スナイドル銃(雷管式・施条・元込め) エンフィールド改変型、東北戦争などで新政府軍が使用
・スペンサー銃(雷管式・施条・元込め・連発式) 薩摩軍が大量に所持
・シャスポー銃(雷管式・施条・薬莢式元込め) フランスから徳川慶喜への贈答品、使用記録に乏しい
この中で、滑腔銃はほとんど役に立たなかった。
鳥羽伏見の戦いでは、
旧幕府歩兵:大砲・エンフィールド (一部にシャスポーを使用していたという主張あり)
薩長兵:大砲・エンフィールド
会津・桑名兵:槍
となり、両者に武器の優劣はないか、もしくは旧幕府歩兵の方が有利であったということになる。
しかし鳥羽伏見の戦いで幕府軍は前進できなかった。これには、エンフィールド銃の銃弾装填時に筒を立てる必要があり、
遮蔽物がないと標的になりやすいという欠点が指摘されている。
159:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/01 10:30:14 +9T7H866O.net
>>148
> 今回の会津さんは、あちこち発言に初歩的な間違いがある上に、
会津さん?
脳内認定ってやつ?レッテル付けは2ちゃん脳末期
恐ろしいですね
160:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/01 12:33:39 vNGLZ050O.net
はいはいワロスワロス
161:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 03:14:37 fUDvwRKE0.net
来たれ「正義は長州にあり」の熱血長州男児、来たれいざ 歴史難民版の 「何でも白馬青牛先生に聞いてみんさい」 へ
162:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 07:13:54 Lr2u5F5+0.net
明治維新には、インチキがあった
URLリンク(akiba.geocities.jp)
それは、明治時代の薩長の藩閥政治にあった。
163:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 16:28:19 kmEggSM40.net
>>157
あの人は広島礼賛じゃなかったか?w
164:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 17:23:40 18WG3IVy0.net
大河板で聞いたけど答えがないのでここで伺います。
『龍馬伝』公式サイトの大友ディレクターの最新インタビューにあるのですが、、
>徐々に龍馬は孤立し、対抗勢力による包囲網にじわじわと追い詰められていきます。
それは、当然と言えば当然ですよね。それまでの士農工商という、武士を頂点としたピラミッドを壊して、
「みんな同じでいいじゃない」という発想は、権力者たちにしてみれば危険思想そのものですから。
でも、龍馬のその発想がなければ、今の日本はきっとなかったはず。
URLリンク(www9.nhk.or.jp)
龍馬が大政奉還や新政権のシステムの提案者の一人だというのはわかりますが、
四民平等を唱えて孤立したとは知りませんでした。これは本当でしょうか?
165:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 17:57:05 onikO6t1O.net
身分制度の全廃とかその手段を名言した資料とかそれに関して述べた論文や本は見たことがないな
神戸の訓練所にしろ海援隊、亀山社中にしろ出身地や身分がバラバラだったからある感覚として何か持っていたかも知れないけど臆測でしかない
むしろ幕府の歩兵や長州の諸隊の方が設立趣旨や運営、運用でハッキリした身分制解体への動きを見せている
NHK大河はあくまでエンターテイメント
ちゃんとした資料や証言、物証に裏打ちなしで作っている
166:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 18:00:57 XnWZx2Bp0.net
んー、坂本龍馬は政治論をあまり著さず、この面では同僚の中岡慎太郎のものがよく引用される。
中岡の「時勢論」において討幕と身分解消による統一国家論が主張されている。
山内容堂らの公武合体論を否定し、その上で
>邑有る者は邑を投げ捨て 家財有る者は家財を投げ捨て
>勇有る者は勇を振るい 智謀有る者は智謀を尽し
>一技一芸有る者は其の技芸を尽し 愚なる者は愚を尽し
>公明正大おのおの一死をもって至誠を尽し 然るべき後政教立つべく、
>武備充実国威張るべく 信義は外国に及ぶべき成
と、身分の差を越えた国家体制を作るべきだと主張している。
これには西郷隆盛の永久革命論も関係していて、西郷は
革命と戦乱が身分制社会を吹き飛ばし、その中から日本人が生まれると主張している。
>>161には根拠がない。
167:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 18:14:59 XnWZx2Bp0.net
孤立というよりは、当時の西郷や中岡らの、革命による身分制度破壊論は
時代としては過激で、この流れに坂本も乗っかっていたということなのでしょう。
168:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 18:43:07 EP9o7edm0.net
木戸神社
坂本神社
大久保神社
南洲神社
いっぱいありますねー
169:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 19:23:14 XnWZx2Bp0.net
議論に負けて、中傷を置いて逃げたか
170:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 19:28:29 PeTSyz0J0.net
>>160
四民平等をうたう坂本龍馬の海援隊には平民はどのくらい参加していたのでしょうか?
171:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 21:29:22 XnWZx2Bp0.net
発言内容からすると、>>161が資料を持っているのではないでしょうか。
172:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/04 22:45:09 cif5ZAOd0.net
お龍を異常性欲公卿中川宮の魔の手から救い出し節操の無い公家に対し
武士として毅然と挑む龍馬は幕臣攘夷派を問わず武士達の中では一目置く存在
だが他の攘夷派武士が公家とべったりなのに比べると公家との交流は少なく
公家の坂本に対する評価はそれほど高くはない
また小松帯刀や西郷隆盛らに比べると公卿寄りの大久保利通とは薩長同盟締結以外親交がない
大久保は岩倉具視ら公卿を意識して
173:龍馬との親睦を避けたというべきだ 龍馬は横井小楠らが提唱する大政奉還論に自らの妻が被った不浄な公卿による体験談を踏まえ 節操のないシンボルが新政府の国政に及ぼす危険性を考慮し その不浄な公家の粛清を加えて将軍慶喜を納得させ判断を仰ぎやすくしたのであって 決して公家の専制の為に大政奉還を主張した訳ではない 土佐山内容堂の将軍慶喜への大政奉還建白書に 「万世に亙りて不愧、万国に臨んで恥ざるの大根底を建てざるべからず」とあり この大政奉還で徳川が後世に愧じることはないと断言し 諸外国との交流において恥じることのない国体を築かなければならないとし 恥ざるの大根底とは即ち御落胤を国体に含めない事を意味する またその別紙では 「万国万世に不恥者を以て本旨とすべし、奸を除き良を挙げ寛恕の政を施行し・・・」とあり 不恥者とは正当な世襲による国体の存続であり御落胤を除くものである 奸とは異常性欲シンボル中川宮を指し 良は節操のないシンボルに狙われたお龍を救いその奸物に挑む龍馬のことで 寛恕には龍馬及び志の高い者への「寛恕」と奸物中川宮に対する「奸徐」の意味がある 国の恥たる御落胤とは紀州家と親密な伏見宮一族を指し水戸家出身の将軍慶喜もこれに納得した つまり公武合体の終焉として徳川の世との引き換えに 国体の匡正を第一義として悪しき世襲親王家の降格及び不浄な公卿の粛清を実行するとしたのだ 土佐藩の建白を受けて慶喜が上奏した大政奉還に二条斉敬ら公卿は大反対し 京都御苑にまだ居座る中川宮はこのままでは粛清されると悟り恐怖した これが大政奉還直後に引き起こされた中川宮朝彦の龍馬暗殺の直接的動機である これまで幾度も失敗してきた大政奉還は両成敗に持ち込める龍馬がいたからこそ成就できたのだ 倒幕を公家の専制にしたのは龍馬亡き後の中川宮や伏見宮ら奸物が参加した王政復古後であり 実質的には岩倉使節団で公卿寄りの大久保が懐柔された西南戦争後だ
174:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/04 23:40:13 K6DeZFK20.net
>士農工商という、武士を頂点としたピラミッドを壊して、
これは武力倒幕側、ひいては維新後の明治政府が取り組んでいった共通課題なんじゃ?
まあ「龍馬」伝だから仕方ないのか。
それよりも新政府プランに自分の名前がなかったってのはフィクションだろ…大丈夫か制作
175:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 00:08:12 jui3oVMHO.net
>>169
北海道開拓と通商行政を担当するつもりだったらしいな
維新後の再開発や貿易振興で巨額になるだろう部門を丸ごと手中にするつもりだったから巷説とは正反対w
176:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 01:16:53 Ok0iou720.net
>寛恕には龍馬及び志の高い者への「寛恕」と奸物中川宮に対する「奸除」の意味がある
に訂正
177:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 06:03:34 HEjsCeo80.net
龍馬伝、しかし後藤象次郎の描き方がひどすぎるんじゃないだろか?オレが色々
読んだ中ではもっとぜんぜん魅力的人物だと思われるが・・
178:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 11:09:23 OISENfcP0.net
>>168
大久保と坂本は親交あるよ。
坂本が薩摩に滞在していた折には、大久保と議論して
「天下の事衰頽救ふべからず、感慨の話多し。
一人薩の大久保なるもの事を共にすべし」
と大久保を高評価してる(徳富一敬筆記) 。
さらに、坂本龍馬が着用していた衣服と刀は坂本
自身が大久保からもらったものだと発言してる(青山白雲)。
仲が悪かったら議論したり刀をもらったりしない。
179:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 18:45:24 Ok0iou720.net
>173
事務的な親交はあっただろう
龍馬の大久保評はそれに近い挨拶
>薩長同盟締結以外親交がない
と記したが前にも記したが薩土盟約でも同席している
意見が噛み合わないとかいがみ合っていたという事象はないが事務的に仕事を熟していた
衣服や刀も大久保個人の好意というより事務的なものだろう
>公家の坂本に対する評価はそれほど高くはない
と記したがまったく無いわけではなく大宰府で東久世道禧は三条実美らと同席して論じ
「偉人なり。奇説家なり。」と評している
つまり奇説家が攘夷派公家の龍馬評である
龍馬と大久保がどれだけ意気投合していたかが不明
公家が龍馬の考えに心酔していたとも言い難い
それより大久保の龍馬評が知りたい
まあ大久保が贈った刀の銘も知りたくもあるが正直どうでもいい
尚大久保は龍馬暗殺には関わっていない
薩摩の勢力が二分していた訳ではなくこの段階での大久保単独(7人)は考えられない
近江屋襲撃について大久保は中岡のことは残念であり新撰組の仕業だとしている
だが龍馬暗殺犯中川宮朝彦を野放しにした件については限りなく黒だ
180:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 19:35:35 jui3oVMHO.net
>>174
西郷が下関に赴く前に大久保は吉井友実とか黒田清隆と萩に行ってて、その時は確か坂本が橋渡し役になってる。
その後も大久保が鹿児島から京、京から長崎に行く時に坂本の船に二、三度乗っていたと思うが。
二人がどの程度の話をしていたかまでは分からないが顔見知り以上の関係であったのでは?
181:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 19:50:50 2nKx++bM0.net
では坂本が死んだ時の日記はなぜないんだ?
182:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 19:56:44 jui3oVMHO.net
>>176
そこまで知らんよw
183:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/05 19:59:29 nywiMBM80.net
桐野利秋日記はあるなあ
反面、当時の会津側からは記録が出てこない
184:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/10 00:22:42 Mlv1Ypak0.net
>>176
わしゃ、今殺されたぜよ
とか書くかな、もしあったら
185:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/10 04:14:56 ZsH4vu4s0.net
大政奉還後の会津・桑名藩の動きが分る
お勧めの参考図書ってない?
186:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/10 09:22:09 YXDGOcZp0.net
>>178
会津公が下知したのだから当たり前
187:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 03:14:38 a+Tje2aW0.net
>>180
個人的な推薦は、「幕末政治と薩摩藩」(佐々木 克 著)
君が佐幕派なら、「幕末維新 消された歴史」(安藤 優一郎 著)が手に入れやすいだろう。
AMAZONのブックレビューは「薩長が武器で勝っていたのは明らかなのにそう書いてない」と、
主張しているが、戦術は前近代的であったが武器は劣っていなかった、と私は考えている。
あと、星亮一の本はクズばっかりでため息が出る。
188:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 07:30:36 bWg5vRlJ0.net
幕府直属の歩兵部隊は薩長と同様ミニエー銃を使ってたからね
189:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 11:08:35 4ix2t4a+0.net
>>182
武器と戦術が噛みあってないのは致命的な失敗だと思うんだが…
いかに最新の武器でも使い方を間違ってその性能を活かせない戦術って意味がないよな
持ってる武器が良いというだけではどうにもならん
190:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 15:38:22 TP4LrvnQ0.net
黒鉄ヒロシの『京都見廻組』は酷すぎる
幕府軍は刀と鎗、薩長軍は銃の戦いで初めから戦にならなかったという内容
所詮マンガだけどな
191:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 16:25:21 bWg5vRlJ0.net
会桑見廻組新選組辺りのことならあながち間違いでもない
あの人なら調べ直してまたなんか書きそうだけど
192:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 19:34:09 d2OsfS/j0.net
>>182
ありがとう
どちらかというと倒幕派だけど
政治的な動きは佐幕倒幕両方から俯瞰してみたいな
193:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 22:17:40 +rY1SuLY0.net
中川宮が残した「朝彦親王日記」は大政奉還上奏直前の慶応3年9月29日で終わっているが
朝彦が幽閉されるまでの続きは公家の専制下の新政府が接収した可能性がある
朝彦直筆の原書は焼失しているが原書が存在すれば続き部分を削除した痕跡が残っているはずだ
もしくは削除もせず写本の段階で除外したのだろう
征韓論敗北後の明治11年(1878年)2月14日の伊勢神宮豊宮崎文庫の失火で焼失したとすれば
明治8年7月(1875年)から中川宮が祭主となった当時の豊宮崎文庫の火災は証拠隠滅である
尚他の蔵書は都合よく移動され無事だった
つまり朝彦の思い出日記の原書を焼くためだけに伊勢神宮豊宮崎文庫を燃やしたのだ
大久保利通は西南戦争後の明治11年5月14日に暗殺された
龍馬は元治元年(1864年)8月お龍を寺田屋に預け青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげたが
朝彦の日記はその後の元治元年11月と12月が欠けている
この原書の2ヶ月に近藤勇と桐野利秋をお龍の元へ使わした形跡があったはずだ
近年お龍の写真が本人であることが確認され当時かなりの美人であることが実証された
中川宮(青蓮院宮)は仏門の身でありながら女犯によって児を生し天台座主を降ろされるが
蟄居させられた朝彦の精神的看護を侍医将作の美人の娘が生け花や茶道で癒していたとすれば
異常性欲の朝彦が悶々としない筈がない
中川宮の勢力圏青蓮院塔頭金蔵寺での内祝言は朝彦を誘き寄せる為の策略である
女犯の経歴の中川宮朝彦は欲求に耐えられず龍馬の策に填り近藤勇と桐野利秋を差し向け
私利私欲のために朝廷で実権を握る君側の奸であることが明白となった
これで大政奉還において奸物の粛清を大前提とすることができたのだ
194:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/12 01:48:26 rV6JlPa20.net
歴史群像シリーズの幕末戦史というのが本屋にあったのでパラッと捲ってみたけど
会津戦争の項は参考文献が星亮一だったせいか、薩長土の罵倒に終始した酷い内容だったな
195:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/12 07:19:53 Y9P+xK4v0.net
龍馬は過大評価?
URLリンク(ryomado.in.coocan.jp)
196:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/13 02:31:08 i2XePb88O.net
>>189
昔からあのシリーズは間違いのオンパレードだよ
歴史に興味持ち始めた人には地図とか相関図とか人物紹介が分かり易く感じるだけ。
何冊か他の本を読んだら「学研いい加減…」ってなって二度と読まないw
197:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/13 13:49:48 649xT7DS0.net
学研だったら腐れ犬の助だったかな、あいつの文章が一番酷い。
何でもかんでもこじつけをして、これは佐幕が正義、薩長が悪なることの証明なのであるー、ってさ。
馬鹿な文章もあそこまで行けば、便所紙にも使ってもらえなくなる。
198:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 22:12:49 sopV2aDo0.net
安政6年(1859年)2月中川宮朝彦は安政の大獄によって謹慎処分とされ同年12月隠居永蟄居に処分される
謹慎は日中の外出禁止で期間は30日
隠居とは官職を退き家督を譲ることで
蟄居とは門を閉じ屋敷の一室に引き篭もるが封鎖されてはいないので本人以外の出入りは自由
当然医師の出入りは可能
美人のお龍も得意の花道や茶道や香道で引き篭もる朝彦を癒す
この時平井加尾も京で攘夷派公卿三条家に仕えていた
安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変によって大獄による弾圧は収束し朝彦も気を緩める
美人のお龍の精神的看護で気を良くした朝彦は悶々とした性欲を抑えられずお龍を慰み者にしようとした
文久2年(1862年)1月お龍の父将作が異常性欲を抑えられない朝彦に嬲り殺しに遭い
お龍を狙う朝彦の魔の手から逃れるため楢崎家の家計はどん底になる
お龍の母がチンピラに騙され妹が女郎として大阪に売られると知ったお龍は大阪に行き
「殺し殺されに遥々大阪に下りてきたのよ。それはおもしろい殺せ殺せ。」と大立ち回りをして妹を奪還する
これは自身に付け狙う異常性欲ストーカー朝彦の野望を知っての虚勢である
公家は青侍と呼ばれる下男を従えていたが青侍とは今で言うならパチンコ屋で屯するチンピラだ
お龍の父将作の死は寺社奉行管轄下で朝彦とチンピラ青侍達によって大獄の後遺症として処理された
楢崎将作は勤王家だったため勤王家の仕返しを恐れこれと縁を切り以後朝彦は公武合体派となる
199:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 01:41:45 ds3A+hvw0.net
竜馬よりも、日本人らしい会津士魂
URLリンク(one2010eight.iza.ne.jp)
今、竜馬が話題になっているが、それぞれの地方の贔屓目で自慢ですね。
現に、テレビの視聴率は、大したことがないらしい。
あまりにも、でたらめすぎるからかな?
当時、日本で自分たちだけが正義だと、決めつけて戦争を仕掛けた。
その西側勢力を集め、長州、薩摩が仕掛けたものでしょう。
旧体制保持の東側を無理やり、戊辰戦争とやら起こして巻き込んだ。
で、一連の国内戦争になった訳です。
長州などは、初め京で、殺人事件や放火未遂事件などを策略した。
そこで、戦争するには、相手を作らなければならず、
徳川をつぶすためにも、会津などが標的になってしまったのです。
その頃、侍魂の日本人の心を持った人が会津に多かったようです。
詳しくは、早乙女貢著「会津士魂」をどうぞ。
200:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 11:18:02 Sw2R1VzZ0.net
会津士魂を否定するつもりはないが、突っ込み所が多い。
まず、幕府や会津は薩摩の決意をなめていた点は否めない。
大阪から京に上がる幕軍については、本当に戦争になる認識なんてなかった。
大軍で上京すれば一方的に薩摩が降伏すると踏んでいた。
ところが意に反して、薩長は徹底抗戦してきたので鳥羽伏見の激戦となってしまった。
慶喜は自分たち(幕府)から仕掛けては絶対ダメだと言っていた。
だが、江戸の薩摩藩邸焼き討ち以降は会津・桑名ら抗戦派の勢いが凄まじく、
とても抑えられるものではなかったと後年語っている。
だが、それも自己弁護が入っており、そうした薩摩討伐を慶喜が許可したのは間違いない事実だ。
また、上記の鳥羽伏見戦が起こった経緯を見ると、会津が標的にされたような被害者的発言は
全くおかしなわけで、むしろ戦犯と言われても仕方がない立場。
決して無理やり国内戦争に巻き込まれたわけではないのだ。むしろ巻き起こしたと言った方が適格。
もっとも薩長が初めから戦争するつもりで挑発を繰り返したのも事実。
薩長にしてみれば願ったりの思う壺だったが、これほど上手く勝てるとは思っていなかったようだ。
さらに日本人の心云々についても言わせてもらうと、これこそ島国根性丸出しw
早乙女は会津系作家だから会津寄りの発言を持つのは当然で、
西郷隆盛が明治期の代表的日本人と言われるように、侍魂を持った日本人というのは薩摩にも多かった。
201:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 12:50:52 oPMxlzp70.net
鳥羽伏見は本当に紙一重の勝利だったと思う
幕府軍が火力でも兵力でも圧倒的だったのに勝てたのは
薩長軍が比叡おろしを予め計算してたらしい
それであの様な布陣をしたのかと
実際強烈な風で幕府軍の銃隊が狙いを上手く定める事が出来なかったらしい
202:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 17:49:44 Vv9X0Oj80.net
> その頃、侍魂の日本人の心を持った人が会津に多かったようです。
お年寄りの無邪気なブログなようだから突っ込んでも仕方がないけど
こんな他愛のない手合いが多いのかな
↓ぶろぐ爺ちゃんの近くのスーパーでやってた会津店の袋
URLリンク(one2010eight.iza.ne.jp)
プラマークまで含めてなかなかの作品になってる
ペラペラのプラスティックの袋に描かれたの象徴的な赤ベコ
とりあえず大河ドラマがでたらめなのは爺ちゃんに同意
203:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 19:15:54 hY7q33760.net
>>196
ちなみに歴史上、戦陣で京都を守る側に立った者は、薩長以外に勝利した例はほとんどない。
木曽義仲に敗れた平氏も、源義経に敗れた木曽義仲も、北条政子に負けた後鳥羽上皇も
足利尊氏に負けた六波羅の北条も、朽木越えから帰還した織田信長に敗れた足利義政も、
山崎で豊臣秀吉を迎え撃った明智光秀も、みんなみんな敗れた。
京都は本来守りにくい場所。
それでも旧幕府軍は負けた。
204:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 20:47:26 RYZr/eeVO.net
>>198
確かに京都を守って勝った話は聞いた事がないね。
薩長以外が勝てなかった理由は地形的な守り難さより政治的な流れ、大勢が攻める側にあったような気もするけど。
205:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 21:02:12 Sw2R1VzZ0.net
薩長のパワーは上の敗れた面々とはかけ離れてからな。
どちらかというと地理的な要因よりも、
新興勢力か既存勢力かで勝敗がわかれている気がする。
206:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 22:00:11 Nsm89GSM0.net
士気云々言うが、薩摩の度重なる挑発に怒りに燃えた徳川軍の士気は相当な物だったらしい
だから関係ないと思う
207:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 23:44:40 Sw2R1VzZ0.net
幕軍は怒りに燃えていたが、大軍で京に攻め上がれば、戦わずして薩摩は降伏すると観測していたようだ。
そのため戦争準備という点では薩長軍に大きく出遅れ、初戦で甚大な被害を出してしまった。
計画性の無さが敗戦の要因と言えるし、怒りにまかせた突出的挙兵は西郷・大久保あたりの思う壺でしかなかった。
着実に作戦を練ってから上京すべきであったのに、それすらもしなかった。
しょせんは既存勢力�
208:ニいうのは、勃興した新興勢力をどこか見くびっているからな。 戦いに臨む本気度のところで大きく差が出て、鳥羽伏見のように大方の予想を覆す結果も起きるということさ。
209:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 23:53:39 o1OVfFZ30.net
聞くところによると幕軍は開戦するまで銃に弾丸を込めていなかったようだね
210:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/16 00:00:30 5jO/jVTK0.net
やはり、その程度だろう。
「やりたい放題の薩摩をこらしめてやる」程度のつもりで、開戦する気などなかったらしい。
211:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/16 14:27:47 8CUUvE4Z0.net
まぁ兵力差三倍以上だから、油断したのも仕方ない。
しかし緒戦は兎も角、その後もたまに勝ちつつも結局ずるずると大阪まで追いやられたのは
どうよと思うが。
212:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 00:13:02 M7x3sAzw0.net
立て直しもできない程、準備不足だったのだろう。
兵糧も行き渡っておらず、大阪への敗走時には飢え死に寸前の幕軍兵士が大勢いたそうだ。
京方の緒戦勝利によって大勢が傾き、錦旗が出たところで淀藩のような裏切りが続出したのだから、
幕府方にとっては踏んだり蹴ったりという表現がピッタリだろうな。
213:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 02:51:43 AuX0EicZ0.net
>>194
会津の人たちはいまだに非常に悪い意味でいさぎよくないって意味のブログだね。
>日本で自分たちだけが正義だと、決めつけて戦争を仕掛けた。
八月十八日の政変や池田屋事変や蛤御門の変や長州征伐のことだね。
>殺人事件や放火未遂事件などを策略した。
新選組や会津藩のことだね。
蛤御門の変ででは放火未遂どころじゃなくて実際に放火しまくって、
とっくに大阪へ敗走している長州にいまだに責任転嫁しまくりp
>徳川をつぶすためにも、会津などが標的になってしまったのです。
イミフw ひょっとして会津藩から将軍を出すつもりだったのか?w 諸藩が従うわけねえだろp
214:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 08:00:12 lz+ttp4T0.net
>>192
>学研だったら腐れ犬の助だったかな、あいつの文章が一番酷い
あー、あれは酷いね。
片方の正義を讃美し片方の正義をけなす旧日本軍や、北朝鮮みたいだった。
事実認識も間違っている上で、そうした歪んだ歴史観を組み立てているので痛すぎる。
俺的には、犬以外のライターは良いと思うけどな。河井の中立論など嘘だと論説してみたりしてるし。
215:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 14:08:32 iXqSPSsf0.net
龍馬の初恋とされる平井加尾は大獄下の安政6年(1859年)12月三条家に仕える為に京へ向う
加尾が仕える三条家では三条実美の甥の公恭の素行が悪かった
特に桜田門外の変による弾圧収束で気が緩んだ後は酷かった
その頃龍馬は井口村刃傷事件の収拾で頭角を現していた
加尾は龍馬に助けてほしかった
文久元年(1861年)9月龍馬の手紙で加尾に男装の用意をさせ三条公恭から加尾を遠ざけようとした
同年10月龍馬は長州に向うついでに京の加尾の元へ立寄り脱走を試みるが思うようにいかず
龍馬は風呂上りの公恭の虚を突き
「運の悪い奴はシンボルを失うこともあるぜよ」
とでも言ったのか三条公恭を脅すことで片を付けた
加尾は龍馬が京を離れた後に兄達が吉田東洋の暗殺を企んでいることを知る
文久2年(1862年)1月龍馬は長州を訪れ同年2月土佐に戻った
この時龍馬に思いを寄せ龍馬の身を案じたのは加尾だった
加尾は龍馬を暗殺に加担させないために再度龍馬を呼び寄せる
文久2年(1862年)3月24日龍馬は脱藩し先ず長州に向かい同年4月1日白石正一郎を訪れ
その足で京の佐那の元へ向かう
同年4月8日東洋は龍馬以外の者で暗殺される
216:先に脱藩していた吉村虎太郎はすでに京に向かっていた 吉村は加尾の男装の際にも龍馬と行動を連携させ長州に向かっている 寺田屋事件の騒動の京で龍馬は自分のことよりも加尾のことを優先した 加尾にとって龍馬は頼もしく愛しかった だが兄を思う加尾は龍馬と結ばれることは出来ず龍馬は大坂から江戸に向かう 佐那の話だと龍馬は安政5年(1858年)にすでに佐那と婚約していた 龍馬は加尾に対する未練を少し残しながら江戸に向かい佐那のいる千葉道場を目指す そして松平春嶽に拝謁して紹介状を請い横井小楠に謁見する
217:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 14:38:11 iXqSPSsf0.net
>その足で京の佐那の元へ向かう
>その足で京の加尾の元へ向かう
に訂正
218:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 15:02:47 qgtHaJtK0.net
武家権力は衰退すると
いかに大軍でも少数兵力に負けるジンクスがある
くりから峠の戦いで平家の大軍10万が木曽義仲に大敗
千早城の戦いで鎌倉幕府軍100万?が大苦戦の末に敗北
近江六角征伐で足利義尚軍2万はゲリラ戦法に苦しんで最後は和睦
そして第二次長州征伐
219:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 15:47:43 dBOI0EnBO.net
>>211
鎌倉軍100万ってw
同時の東日本に住んでた人全員幕府軍?www
220:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 17:36:05 lz+ttp4T0.net
>>212
俺は>>211ではないが、ぶっちゃけその時代の数字はわからんのだよw。
太平記などの軍記物を参考にするしかないが、物語なので”どう考えても変だろ”的数字が出て来る。
でも数字を示さなければ、「多い・少ない」だけの表記になって状況を表現し辛い。
結局、みんな”嘘と解っちゃいるけど”と思いつつ、物語で書かれた数字(ソースはあるからね)を書くしかないんだよね。
戦国でもあるでしょ
桶狭間の戦いで織田信長三千に対し、今川軍三万(最近は七千ぐらいが事実だろうと推測されている)とかねw。
221:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 23:09:59 KCiINn3s0.net
長州、薩摩、そして坂本に共通してるのは金持ってたということだな。
長州はきわめて優良財政のうえ戦国毛利の莫大な遺産(1兆円以上?)があったといわれる。
薩摩は奄美砂糖の大規模搾取で、おそらく日本一の現金収入があった。
坂本は実家が富豪で、本人に金集めの才もあり、金の力をうまく使い、立ち回ったように思われる。
逆に幕府、会津、ひより見の諸藩には金が無い。
これらの勢力にも薩長と同等の人材はいたはずである。
徳川慶喜は「我が方に西郷、大久保のごとき人材がいない」と嘆いたとも伝えられている。
現代では、維新の原動力は薩長の人材力、それを結んだ坂本の人間的魅力であったかのごとく語られ、
とくに薩長については経済的側面から語られることがほとんど無い。
これは危険なことだと思われる。
日本は幕末も日露戦争も太平洋戦争敗戦後もうまく切り抜けてきた。
伝統的に教育国家であるから、その人材力、あるいは精神力や気概というものがあったからこそできたんだという発想は危険だと思う。
日露戦争では、日本国債を買ってくれたユダヤ富豪がいなかったら、ロシアの植民地になってたかもしれない。
太平洋戦後も、朝鮮特需が無ければ、粗悪な日本製品が売れることはなかったかもしれない。
222:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 23:28:28 QWwAERWe0.net
長州藩の羽振りが良かったのは戦国毛利の莫大な遺産、とやらじゃなくて天保改革期の村田清風と坪井九右衛門の財政再建政策と切り札の撫育金があったから
223:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/17 23:58:22 dBOI0EnBO.net
>>214
『幕末の長州』『幕末の薩摩』『調所広郷』その他もろもろ。
30年近く前に出てて新書や吉川人物業書みたいな手に入りやすい本で散々既出。
224:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 00:13:12 6ppGUflj0.net
精神論を口にするのは、むしろ文藝春秋等に陣取った東北武士道の連中。
彼らの物質軽視は救いがたい。
彼らは現在の社会に関しても口出しして、清貧論だか武士道の清真さだかを謳っているが、
経済抑圧で社会が良くなるわけがない。失業や自殺から社会が崩壊してゆくだけだろう。
225:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 04:14:51 73Fm6q8+O.net
>>217
こいつら未だに吉宗、定信マンセーで田沼はカスな考えなんだろうなぁ
226:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 09:50:15 FEdtNRaB0.net
坂本龍馬が大政奉還を目指した理由は?
1.日本が内乱に陥り、そこに外国勢力の影響が入るのを恐れた
2.薩長に遅れをとっていた土佐の勢力挽回策
3.坂本龍馬が平和主義者だったから(笑)
4. 大政奉還は倒幕の段階的手段だと考えていた
5. 徳川家を主体とした諸侯合議体制、いわゆる公儀政体を目指した
どれでしょう?
227:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 16:00:10 73Fm6q8+O.net
3以外
228:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 20:23:59 gLU17KOg0.net
1と3は可能性低いんじゃない?
大政奉還が行われれば内戦はもう起こらないという考えは現代人特有の甘っちょろい理想主義でしかない。会津・桑名の反発ぶりを見よ。
そういうのは坂本龍馬に自分の平和主義思想を投影しているだけ。
よって2と5を餌にした4と考える。
229:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 20:32:22 WpwpL6xJO.net
もし龍馬が暗殺されなかったら、新政府では中心人物になってた?
230:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/18 20:53:50 I83rghh60.net
いや一番肝心な鳥羽伏見で土佐が戦闘に参加せずあのザマだから
あの戦いで薩長政権が決まったような物
231:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/19 00:26:31 LG9h0v0W0.net
>>222
むしろ参与に名前を入れなければ暗殺されなかったかも?w
232:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/19 09:00:45 85fJJQQM0.net
早くビデオで検証してみよう坂本竜馬を殺したのはだれか
233:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/19 22:43:25 GglYY75P0.net
土佐勤王党が上京した直後から京では暗殺剣が振るいだした
岡田以蔵が最初に殺害したのは大坂での土佐藩下横目の井上佐一郎だがこれは偶然性が高い
武市は龍馬による素行の悪い公恭に対するシンボルのつめ割り強襲の顛末を収二郎から聞いていた
加尾は日頃の鬱憤を晴らして気が高揚してしまい龍馬の武勇伝を収二郎に伝えていた
武市はこれを利用し公武合体派を粛清させるために岡田以蔵を刺客に仕立てる
三条公恭を震え上がらせた龍馬の急襲は京での尊皇攘夷の高揚に転換できると判断した
また土佐藩と親密な三条家に対する配慮でもある
平井家は下級上士ではあったが郷士の坂本家と懇意にしていた
坂本家は郷士だが龍馬の祖父山本覚右衛門は白札郷士であり
覚右衛門の次男で龍馬の父直足が坂本家に養子に入った
本質的には白札郷士の武市家と郷士の坂本家は格という点で近い
だが土佐藩に於いて上士は単なる武士ではなく山内家の名誉を守るための士であり
山内家の全てを背負う者でなければならない
御家は長い歴史に於いて輝かしい面もあれば負の遺産も背負っている
上士はその全てを自身とし事に当たらねばならず
白札郷士から上士になるのは無理ではないが相当の藩への貢献が必要であった
武市は上士になり山内容堂に認められるためにかなりの無理をすることになる
武市の吉田東洋暗殺は龍馬による公恭に対するのシンボルのつめ割り強襲に奮起されたものだろう
龍馬が長州に行っている間に加尾が兄収二郎に龍馬の武勇伝を知らせてしまった途端
土佐勤王党は吉田東洋暗殺に向かってしまったのだ
234:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 09:04:03 fFPqyODb0.net
今なら、民主党売国奴政権の大臣は全員暗殺だな
国を必死で売る事しかしないカスどもばっかだからな
235:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 11:04:20 dLEpQhpQO.net
>>221
内戦は起きただろうが幕軍の圧勝だったろうね
236:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 11:17:14 dLEpQhpQO.net
>>219
当然5
徳川の国力・軍事力は薩長を圧倒していたのは紛れも無い事実
大政奉還で形式上政権を返上した所で勢力図に大した影響は無い
つまり大政奉還以前・直後の真っ当な考えでは、徳川無しで新政府設立は不可能
237:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 12:23:51 qryL+cS/0.net
圧倒してたら第二次長州でも鳥羽伏見でも負けないだろw
それに諸大名も幕命に唯々諾々と従ってない情勢だ
238:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 12:39:56 WcIypbc/0.net
大政奉還は、薩長以外の勢力にとってはいいことづくめだから、
フリーの龍馬がそれを推してもぜんぜん不思議ないだろ。
龍馬にとって(長州にとってもだが)、内実がブラック企業ばりの薩摩藩なんか必要悪でしかないわけだから。
239:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 13:01:52 q/rQcd6YO.net
>>231
何を言いたいのかさっぱり分からない(・ω・)
下手な例えは表現したい内容をかえって分かりにくくするよ
240:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 13:13:06 AIUlakEUO.net
>>223
お前大河ドラマ板にも同じこと書いたろw
241:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:40:14 dLEpQhpQO.net
>>230
局地戦で負けただけ
第二次世界大戦もシンガポール攻略時点で連合国が撤退したような物
常識的に考えれば徳川の圧勝だから
242:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:47:35 XLUq1Zh50.net
スレの上の方を読む限りでは、
大政奉還で得をする人
・土佐藩(徳川慶喜が勝てば彼の新政権、薩長が勝てば彼らの新政権の成立を応援したことになる)
・薩長(幕府が政権を手放せば、自らの薩長新政権成立の可能性が増す)
・朝廷(大政奉還によって自らの権威が増す)
・各藩諸侯(幕府を廃止し諸侯会議に政権が移行すれば、
徳川慶喜が首班だろうが薩長が主導権をとろうが自らの政権参加が可能)
大政奉還で損をする人
・江戸の幕府・旗本(一部の実務員を除くとリストラ対象)
・会津・桑名(諸侯の嫌われ者。尾張の慶勝や越前の春嶽あたりからも引退・自重を求められていた)
大政奉還とは、徳川慶喜が諸侯会議を政権とするにあたり、会津・桑名から諸諸侯に支持基盤を乗り換えようとした行為であった。
243:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:49:44 dLEpQhpQO.net
なんか日本語変になった…
長州征伐も鳥羽伏見も第二次世界大戦に例えるなら、日本がシンガポールを攻略した時点で連合国が撤退したような物
常識では考えられない敗戦であり、>>230的発想は結果論だけの短絡的な考え
大政奉還って部分だけを取り上げるなら、損をした人間など皆無だし一番得をする筈だったのが徳川
じゃなかったら大政奉還なんかしないから
244:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 18:54:27 bNv9uLJ90.net
例えが悪すぎる。
圧倒的な連合軍と、もはや死に体の幕府を同列に語るな。
245:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:08:53 dLEpQhpQO.net
>>237
幕府が死に体?
冗談は顔だけにしとけ
246:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:12:27 bNv9uLJ90.net
あたりまえだろ。
もし、政治も経済も軍事もきちんとしてたら、
長州なんか袋叩きできてただろうよ。
247:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:30:04 dLEpQhpQO.net
>>239
んじゃ貴方が言う圧倒的な連合国は日本の電撃作戦で撤退を繰り返したのかな?
表明的な部分しかみれない浅はかな考えは捨てた方が良いよ
結果だけを見て薩長のやり方を良しとした結果が第二次世界大戦の始まり
残念ながらルーズベルト君には、現人神の存在が何ら脅威では無かった
それが幕末と第二次世界大戦の違い
薩長が勝ったのは奇跡でしかないから
248:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:35:36 bNv9uLJ90.net
第二次大戦前に暗躍したのは、東北閥だろ。
249:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:36:59 bNv9uLJ90.net
例えるなら番長づらしてた奴が、
あいつ弱いんじゃねってちょっかいかけられて、
自分だけじゃ怖いから仲間よんで(仲間も番長が弱いんじゃねって疑いはじめてる)、
そいつをリンチしようとして、逆にぼこられた癖に、
この辺にしといてやらあって逃げ台詞はいて、引きこもりになったようなもん。
250:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:43:05 dLEpQhpQO.net
>>241
東北閥だろが薩長閥だろうがやり方は同じ
>>242幼稚過ぎるので以後スルーします
251:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 19:46:54 bNv9uLJ90.net
あたまのおかしなばかでもわかるようにかいてあげたよ
252:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:01:54 dLEpQhpQO.net
大政奉還に話を戻して書きます
一番得をする筈なのが徳川と書きましたが、その理由を書きます
当時の幕府にとって国内情勢で頭を抱えていたのは内乱ばかりではありません
開国による物価高騰と言う問題も抱えてました
しかしながら諸外国の圧力に負け不平等条約を勝手に結んだのは徳川幕府
当然ながら打開策となるべき政策など皆無
そこで大政奉還なんです
中央政権から諸藩に成り下がれば、その問題からは逃げられますよね
また、その難問は新政府に丸投げされる訳です
薩長がいくら朝廷を抱えこんで新政府を騒いだ所でその問題を解決出来る訳も無く、庶民の怒りもまた新政府に向けられる訳です
253:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:05:36 bNv9uLJ90.net
東北閥は狂信性一本槍。
悲惨な結果を生んだ。白虎隊にも通ずる。
長州は、暴走はするが現実的なところが強い。
254:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:15:19 XLUq1Zh50.net
>>245
>>235参照。あなたの説は一時的な逃避
255:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:24:52 XLUq1Zh50.net
不平等条約改正問題は、政権を背負ったなら必然的についてくる。
幕府は政権に留まろうとし、徳川慶喜は新政権で首班を手に入れることを当然のものとしていた。
徳川慶喜には政権を放棄するつもりが無かった。
不平等条約問題による政権投げ出し説は、この意味で全く不合理だ。
256:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:31:57 dLEpQhpQO.net
>>248
書き方が悪かったかな…
あくまでも一時的な策
大政奉還により物価高騰などの問題から抜け出せるって事
当然薩長で不平等条約を含む市民の不満を解決出来ず、最終的に徳川に泣き付いてくると踏んでいた
257:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:36:52 XLUq1Zh50.net
一時的でも同じこと。
政権担当能力は、徳川幕府より明治新政府の方が高かった。
258:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:47:37 dLEpQhpQO.net
>>250
それは結果論
大政奉還時点では徳川が無くなる事も予測出来なければ、慶喜自信が「新政府の方が自分達より優れてる」なんて思わないから
慶喜の思惑では市民の怒りは新政府に向けられ、薩長政権は朝廷からの信頼も失う
結果、徳川に泣き付いてくる
あくまでも大政奉還時点の話しでお願いいたしますよ…
259:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 20:52:57 8iZaB4d7O.net
>>251
その説を裏付ける史料はありますか?
260:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:02:20 dLEpQhpQO.net
>>252
噂の史料厨って奴ですか?
ここは学会でも無いし、私は自説を「史実である」と認めて貰うつもりすらありませんから
あくまでも自説を書いてるだけで、その自説の是非を皆さんに聞いてるだけです
勉強になりますからね
261:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:02:24 XLUq1Zh50.net
>>251
大政奉還と王政復古を混同した話を展開されても困る。
大政奉還時、徳川慶喜は政権担当の継続を望み、王政復古へも撤回を求めた。
それが「政権を彼らに与えれば、担当能力のない彼らが投げ出すだろう」に変わるのは、
王政復古以後のことであり、大政奉還時に徳川慶喜は王政復古が起こることを必然と考えていたわけではない。
「条約問題による政権投げ出し」説は、根本からして不合理だ。
262:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:08:47 dLEpQhpQO.net
>>254
>
> 大政奉還時、徳川慶喜は政権担当の継続を望み
勉強不足ですいませんが、これは慶喜が誰に対し望んだのですか?
私の知識では大政奉還したにも関わらず「慶喜が政権担当を望んでいた」なんてのを知らなかったので…
その話しなら、大政奉還したのに政権を手放さないつもりだったて事ですよね?
マジっすか??
263:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:14:16 jjwd9uWqO.net
ようは慶喜が腰抜けなだけw
錦の御旗、朝廷にびびっちまったんだよ
決死の覚悟で大阪城に留まっていれば、こんな惨めな負け方はしなかった
つまり覚悟の違いだね
結果的に水戸学が仇となったな
264:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:19:42 XLUq1Zh50.net
>>255
大政奉還時、政権は暫定的に旧幕府に継続されると朝廷と旧幕府は声明を出し
徳川慶喜は列強諸国領事にも、政権は依然として私にあると宣言しました。
これが変化したのが王政復古であり、朝廷内で二条摂政らを解任し明治天皇の親政を開始するための諸処置として、
旧幕府組織への全面否定が決定されました。
これに徳川慶喜は抵抗し、王政復古の撤回と旧幕府への政権委任の継続を要求しましたが、
これが容れられないと、慶喜は大阪へ旧幕府勢力を移転させました。
これが普通習う歴史なのですが、あなたは何を学習してきたのですか?
265:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:29:19 XLUq1Zh50.net
要するに、徳川慶喜の求める大政奉還(及び朝廷の下での慶喜新政権樹立)とは、
旧政権である幕府の主たる徳川慶喜から、新政権である諸侯会議の長たる徳川慶喜への交代であって、
徳川慶喜には、政権を降りるつもりはこれっぽっちも無かったということです。
しかし、一回手放した政権は戻っては来ませんでした。
手放したこと事態が徳川慶喜にとっての大失策となりました。
266:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:32:21 dLEpQhpQO.net
>>257
それは暫定的でしょ…
大政奉還した直後に新政府が設立される訳も無く、朝廷が委任した物
大政奉還その物は徳川が政権を返上し、一諸藩に成り下がる事ですよ…
267:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:45:44 dLEpQhpQO.net
>>258
なんか結果論と史実を交えた書き方だからイマイチ意味がわからない…
大政奉還時点での根本的な情勢を書きますよ
第二次長州征伐の失敗により幕威は衰退していましたが、客観的な国力も軍事力も徳川が薩長を圧倒しています
それは大政奉還で政権を形式上返還しても何ら変わりはありません
貴方の論調は「武力による倒幕が成った」って結果論から成り立っているようで、イマイチ論点がズレてると思いますよ
268:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 21:52:31 XLUq1Zh50.net
>>259
いいえ、徳川慶喜は大政奉還までの間に、諸侯会議の雛形となる参預会議及び四候会議において、
会議の創設者である島津
269:久光を排除する形で会議の主導権を握ることに成功しています。 徳川慶喜は大政奉還後、各藩諸侯へ二条城へ集合し、諸侯の合議制会議を開始することを布告しました。 徳川慶喜はこの会議の長として、新政権の主となることを既定事項と考えていました。 大政奉還は政権放棄ではなく、自らの政権継続の手段と徳川慶喜は認識していました。 しかし、実際は諸藩は流動的な政局に尻込みし二条城に代表を送らず、慶喜の望む諸侯会議は成立せず、 また、この後の薩摩及び尊王攘夷派公家が起こした王政復古による朝廷内の小御所会議にも、集まった諸侯は少数でした。 この時薩摩が朝廷、つまり天皇を擁し、尾張や越前・彦根や土佐、淀(国許)まで小御所会議に取り込んでいたことが 彼らに有利に働くこととなります。
270:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:19:13 XLUq1Zh50.net
>>260
どうもあなたは、徳川慶喜による二条城における諸侯会議開催通知と、
諸侯への二条城への召集布告を知らないのではないか、と疑問に思います。
徳川慶喜は、大政奉還において自らが政権を手放すとは全く考えていませんでした。
暫定的に旧幕府を維持し、諸侯会議成立と共に旧幕府の有用な官僚を連れて
自らが新政権の主となることを自明のこととしていました。
この徳川慶喜の望みを砕いたのが、王政復古による旧幕府否定でした。
271:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:46:49 dLEpQhpQO.net
>>262
召集布告までの暫定政権が旧幕府ですよね
そもそも貴方の意見に矛盾を感じます
慶喜は政権を手放す気がない。大政復古の大号令がそれを阻止した
これが貴方の主張です
では大政復古のクーデターに慶喜は何故抵抗しなかったのですか?
矛盾ですよね?
最終的に朝廷は徳川に泣き付き政権を取り戻せると踏んでいた。故に一時的に政権を手放す事は厭わなかったのでは?
272:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:49:41 bNv9uLJ90.net
客観的な軍事力なんて、当時の幕府には把握できてなかっただろうな。
イギリスからの最新の武器を手にいれてた長州に、逆に圧倒されてびびったのが事実。
273:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 22:59:30 q/rQcd6YO.net
下手な例えの繰り返しで何を言いたいのか分からない書き込みばっかり(・ω・)
274:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 23:02:33 XLUq1Zh50.net
>>263
全然矛盾ではありません。大政奉還時と王政復古以降の徳川慶喜の姿勢とは、また別なのですから。
それに、あなたは大政奉還時の徳川慶喜の姿勢として「政権を薩長に与えれば投げ出す」と主張していますが、
それは王政復古以後のことでしょう。
大政奉還後、王政復古まで徳川慶喜は朝廷と協調し、暫定的に旧幕府政権を維持していました。
政権は依然徳川慶喜の手にあり、諸侯会議開催によって再びこの長となる徳川慶喜に名実共に帰還するものと思われていました。
これが破れるのは王政復古、朝廷が旧幕府を否定し、朝廷内に別の諸侯会議・小御所会議を設立したときです。
王政復古に徳川慶喜は抵抗し撤回を求めますが、その時点では朝廷の譲歩を得られず、
配下の暴発を防ぐと称し徳川慶喜及び旧幕府勢力は大阪に移転します。
徳川慶喜の政権維持意欲をあなたは無視しています。
あなたの論理は根本的に矛盾しています。
275:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/20 23:24:29 XLUq1Zh50.net
徳川慶喜は大政奉還後も、旧幕府、そして二条城で開催されるはずだった諸侯会議の主という形で政権を維持しようとしました。
徳川慶喜側の大政奉還の理由として「政権を幕府が手放せば、朝廷は手に余り投げ出す」説を挙げる不合理さは、
ご理解いただけたのではないかと思います。
大政奉還後も徳川慶喜は政権を維持していたのですから、この間の政治課題は相変わらず徳川慶喜が処理するしかありません。
責任は相変わらず徳川慶喜が背負っていました。責任逃れには使えません。
276:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 02:23:52 oBkJiNdsO.net
幕府て第二次長州征伐で完敗したくせに
その後、その教訓が全然活かされてないよね
末期的組織てはそういうもんなんだろうけど
277:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 02:27:43 LA1iyZtJP.net
龍馬没後の徳川対薩長の話ばかりだな
スレ違いだから
278:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 11:00:12 6b5+aA4JO.net
>>266
相変わらず結果論ありきの論調ですね…
大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は不可能
つまり大政復古以降に政権を手放したのは、大政奉還時点から考えれば結果論ですよね
貴方がおっしゃる説ならば慶喜は大政復古のクーデターを断固阻止してなきゃおかしいのでは?
279:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/21 12:07:51 ctiniw1x0.net
>>270
>>266参照。
あなたの文章の三行目と四行目の論理が対立し断絶しています。
>つまり大政復古以降に政権を手放したのは、大政奉還時点から考えれば結果論ですよね
この行では、「大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は不可能である」ことをあなたは主張しています。
>貴方がおっしゃる説ならば慶喜は大政復古のクーデターを断固阻止してなきゃおかしいのでは?
この行では、「大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は可能である」ことをあなたは主張しています。
あなたはこのスレの上の部分で、大政奉還と王政復古を混同し、
「大政奉還で徳川慶喜は、政権を投げ出せば朝廷が手に余って手放すと慶喜は思った」と主張してきました。
しかし、その論理は実際は矛盾だらけで不整合なものであり、
逆に徳川慶喜が自らが政権を維持することに意欲を燃やしていたという事実は、既に説明されています。
徳川慶喜が京都から大阪に移転したのは王政復古の後、朝廷が旧幕府に与えていた暫定政権の座を否定し、
徳川慶喜が旧幕府に代わる自らの政権基盤として設立を急いでいた諸侯会議を朝廷が否定し、
代わりに朝廷内に別の諸侯会議・小御所会議を創設した時です。
大政奉還の徳川慶喜側の理由として「大政奉還で徳川慶喜は、政権を投げ出せば朝廷が手に余って手放すと慶喜は思った」
を挙げることは不合理極まりない虚偽でしょう。
大政奉還時には徳川慶喜は、これは暫定政権としての旧幕府と将来の政権基盤としての諸侯会議との移行手続きと考え、
大政奉還実行が自らが政権を手放すことになるとは思っていなかったのですから。
あなたの意見は、検討する限り成立する余地がないのです。