邪馬台国畿内説 Part1014at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part1014 - 暇つぶし2ch59:1
24/04/17 21:25:01.48 .net
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

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(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎―黄鐘律管が容積・重量の基準―になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。

 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

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◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

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◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

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◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 


64:南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png  魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。  当の唐会要倭国条が 大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。 開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。  を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。



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◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

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◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

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◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

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◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安~齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

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◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

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◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

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◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
URLリンク(i.imgur.com)
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

72:1
24/04/17 21:31:30.91 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

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24/04/17 21:32:31.34 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

74:1
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◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

75:1
24/04/17 21:33:31.46 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 URLリンク(i.imgur.com)
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

76:1
24/04/17 21:34:00.61 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

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24/04/17 21:34:31.38 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

78:1
24/04/17 21:35:01.17 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

79:1
24/04/17 21:35:31.32 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

80:1
24/04/17 21:36:01.59 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

81:1
24/04/17 21:36:32.02 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。
 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 URLリンク(i.imgur.com)
同空撮 URLリンク(i.imgur.com)
建物B空撮 URLリンク(i.imgur.com)
Dより西を望む URLリンク(i.imgur.com)
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )


82:とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。  また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。  註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



83:1
24/04/17 21:37:02.35 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

84:日本@名無史さん
24/04/17 21:37:20.86 .net
~さらば九州説~
九州の山から水銀朱産出せず

85:日本@名無史さん
24/04/17 21:39:30.51 .net
九州説テンプレ
投馬国は朝鮮半島南岸
伊都国に監禁されたため、筑紫平野の邪馬台国まで陸行一月かかった

86:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
前スレの続きだが、古墳はその社会と被葬者を象徴する共同体のモニュメントなんだよ。だから大規模墳丘墓の出現と同時に過去の共同体モニュメント(銅鐸・青銅製武器)は役割を失って全国で破棄埋納されていくの。
一方で勾玉は王個人の威信財、全然役割が違うだろ。数秒考えりゃわかる

87:日本@名無史さん
24/04/17 21:43:10.47 .net
やはり前方後円墳大王が円墳大王に滅ぼされたんだな

88:日本@名無史さん
24/04/17 21:43:50.65 .net
邪馬台国が畿内か九州かはさておき
>>1~は病的すぎる
もっとおおらかに邪馬台国について語り合いたい

89:日本@名無史さん
24/04/17 21:45:05.76 .net
悪口しか言えない人は心の病気

90: 警備員[Lv.12(前25)][苗]
24/04/17 21:50:00.04 .net
ここまで比定済み

◆投馬国の官
・彌彌   ヤイミミ 八井耳
・彌彌那利 ヌナカワミミ 綏靖天皇

◆邪馬台国の官
・伊支馬 イキマ 垂仁天皇

・彌馬升 ミマショウ(御間(崇神)の叔) ヒコイマス

・彌馬獲支 ミマカンキ(御間(崇神)の名を獲た干岐) ツヌガアラシト(うしきありしちかんき)

・奴佳鞮 ヌカテイ 垂仁朝の中臣連祖(クニナズノオオカシマ等)

91:日本@名無史さん
24/04/17 21:53:13.26 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
まあ九州説は論外だとして、問題は狗奴国だ。「魏晋からの支援」を象徴する曹操高陵からも出土する小札革綴冑は近畿で集中出土しているのよ。
仮に狗奴国が熊本だったとしたら北部九州にもうちょっと「魏晋からの支援」を象徴する小札革綴冑が出ててもいい気がするんだけどね

92:日本@名無史さん
24/04/17 21:55:04.69 .net
異常な長さのテンプレに意義を呈しただけなのだが

93:日本@名無史さん
24/04/17 21:55:45.31 .net
前方後円墳は見るものを威圧し当地の領有を宣言するためのもの
畿内は外部勢力により自分たちを威圧するためのモニュメントを自分たちの手で作らされたわけだ
剰え古墳築造のための労働力は全国にバラ撒かれ、その痕跡が「畿内系土器」として前方後円墳の分布に沿うように残された

94:日本@名無史さん
24/04/17 21:58:58.67 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
小札革綴冑は朝鮮半島南部から殆ど出土しないから、魏晋と倭の直接朝貢交易で齎された蓋然性は極めて高いわけだろ。
ただ九州からは豊前石塚山くらいしか出ない。那珂八幡あたり掘れば出てくるのかな

95:日本@名無史さん
24/04/17 22:01:59.20 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>84
いや俺から見たらありがたいわ
バカは活字苦手だから邪魔にしか思えないんだろうけど

96:日本@名無史さん
24/04/17 22:02:24.80 .net
>>78
銅鏡は?w
ほんと都合の良いところだけ取り上げて無理やりストーリー作るよなあ

97:日本@名無史さん
24/04/17 22:02:39.10 .net
崇神天皇の代に疫病が大流行し、国民の半分ほどが死亡
幕末にもあったが外国人が来るとそうなる
帯方郡からの亡命者?
神武東征?

98:日本@名無史さん
24/04/17 22:03:55.27 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>88
銅鏡も個人の威信財だぞ

99:日本@名無史さん
24/04/17 22:05:44.95 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
えっもしかして「銅鐸祭祀から銅鏡祭祀へ」みたいな半世紀前に流行った説を未だに信じてるんですか?
個人墓に副葬され続けてきた中国鏡と、土中埋納されてた後期の武器型青銅器・銅鐸とじゃ社会的機能がまるで違うじゃん

100:日本@名無史さん
24/04/17 22:05:46.83 .net
邪馬台国は奈良、狗奴国は河内湖と大和川の南の河内和泉でいいんだよ
弥生時代末期河内和泉には船橋遺跡や池上曽根遺跡で龍の絵画土器が見つかっている
弥生時代後期から一世風靡した龍の拠点だな
河内と播磨の土器が大量に見つかっている博多湾岸も龍の絵画土器の地
壱岐も同じ
古墳時代、九州北部で急増するのは河内の土器だ
狗奴国の河内和泉が古墳時代に続くヤマト政権の母体だな
卑弥弓呼は香の孝昭天皇のモデルだね

101:日本@名無史さん
24/04/17 22:06:23.31 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
銅鐸と武器型青銅器と銅鏡の区別もつかないやつが邪馬台国論争に参加してるってマジ?

102:日本@名無史さん
24/04/17 22:08:43.81 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ガチもんのバカのために教えてやるんだが、銅鐸が個人墓に副葬された例は皆無なのよ。銅矛も中広形段階はともかく広形からは個人墓に埋葬されず土中埋納されるようになる。つまり銅鐸や銅矛は個人の所有物じゃなくて共同体のマツリの道具なの

銅鏡や勾玉とは全然機能が違うの。

103:日本@名無史さん
24/04/17 22:09:27.45 .net
今のところ『隋書』と『旧唐書』を覆す証拠はない
『隋書』には魏の時代の倭国は30国とある。30なら九州のこと。九州の外には畿内までに70国ある
その70国は魏に朝貢せず『魏志』には「別の倭種」と記載されている
『旧唐書』ではその70国を日本と呼び、倭国とは別と述べている。では倭国とは何かというと古の奴国とある。
そもそも卑弥呼は朝貢した30国の中にある。畿内までのその他70ではない。
魏志のあとの『広志』にも邪馬台国は伊都国のすぐ南とあるので九州北部の範囲を出ないと分かる
今のところこれらの記述を覆す証拠はない。これらの記述を無視することで畿内説は存在している
(続く)

104:日本@名無史さん
24/04/17 22:11:03.59 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
旧唐書ってそもそも別種説と同種説の両論併記だから。旧唐書原文読んでないバカが騒いでるだけじゃん

105:日本@名無史さん
24/04/17 22:11:04.37 .net
(続き)
倭が古の奴国というのは『旧唐書』『新唐書』の両方に書かれている。しかし
『旧唐書』には小国だった日本が倭を併合したとある。日本=小国
『新唐書』では倭が小国の日本を併合したとある。日本=小国
この二つは矛盾しない
例えば西郷隆盛は東征して明治政府を作ったが明治政府に西征されて自害している
『新唐書』は物部氏の東征を意味する。神話上はニギハヤヒ東征。小国だった日本は物部氏が乗り込んできた瞬間から大発展していく。例えば茶臼山古墳
『旧唐書』の方は物部氏が大国に作り変えた後の畿内が九州を併合したことを言っている
畿内説は「大久保利通も明治天皇も東京に住んでいたんだから薩摩は都内にあった」と言うようなもの

106:日本@名無史さん
24/04/17 22:13:33.15 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
なにがニギハヤヒだかw

107:日本@名無史さん
24/04/17 22:14:10.67 .net
そういえば奈良盆地でも南大和に大和の起源があるのも興味深い
南大和から遅れた北へ北へと北の平地を開拓していった日本の歴史もあるし

108:日本@名無史さん
24/04/17 22:15:29.76 .net
>>95
>魏志のあとの『広志』にも邪馬台国は伊都国のすぐ南とあるので

ないよ

109:日本@名無史さん
24/04/17 22:15:35.32 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
中河内と中勢が纒向建設に関与してたからじゃね?奈良盆地東南部は比較的生産力が高くてポテンシャルあったというのもあるだろう。

110:日本@名無史さん
24/04/17 22:19:07.38 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
大王だけ見れば北へ北へ開拓していったようにも見えるんだけど、纒向王権初期の段階で先遣隊(椿井大塚山:彦坐王)が山城に行ってるんすよね。
おそらく彼等の根拠地は奈良盆地北部で、後に倭王が東南部から北部に移動すると合流することになり佐紀王権が誕生する。

111:日本@名無史さん
24/04/17 22:19:34.50 .net
空船の逸話の成り立ちは
今の交野市あたりは当時は海沿いで
そこに船でニギハヤヒが来たんだろ

それで「船で王様がきた」というエピソードだけが交野市に残って
後世の人が「こんな内陸部に?船で?」って困ったあげく
「船で空を飛んでやったきたに違いない!」ってなったわけだ

神話の成り立ちを「合理的に」想像すると面白いよ

112:日本@名無史さん
24/04/17 22:20:02.45 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ちなみに椿井大塚山古墳にも中国製の小札革綴冑がある。魏から貰ったやつ

113:日本@名無史さん
24/04/17 22:22:20.36 .net
>>87
まったく、その言い方が下品だとは思わないのか?
こんなに長々とテンプレを連ねるのはやめた方がいいと言っただけだ

114:日本@名無史さん
24/04/17 22:23:27.44 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
視野狭すぎ。
たまたまニギハヤヒの話が記紀に採用されたから有名なだけであって、本来はいくらでもニギハヤヒに類する祖神はいただろうよ。
古事記の元ネタになった旧辞の文書化時期が継体から欽明で、ちょうど物部氏の全盛期だったから物語になってるって考えつけよアホ

115:日本@名無史さん
24/04/17 22:23:53.72 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

116:日本@名無史さん
24/04/17 22:24:00.32 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>105
じゃあ別のスレ立てれば?(笑)

117:日本@名無史さん
24/04/17 22:26:06.99 .net
>>106
つまり群雄割拠だったってことだろ

物部氏の神社に「倭王旨」の鉄剣が収められてるし

物部氏が倭王だった時代があるということじゃん

118:日本@名無史さん
24/04/17 22:28:16.99 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>109
物部の「部」がどういう意味か理解してたら物部倭王説なんてあり得ないことわかると思うんだけどな

119:日本@名無史さん
24/04/17 22:31:11.61 .net
奈良盆地の南大和に大和の起源があるのも興味深い
神武天皇が未開な部族を制圧した東方征伐のすえ
南奈良盆地の橿原市で神武天皇が日本国を興したのも象徴している
そして南大和から文化程度が劣る遅れた北へ北へと北の平地を
開拓していった日本の歴史も面白い

120:日本@名無史さん
24/04/17 22:34:05.32 .net
>>110
もとから物部と名乗ってたわけじゃないだろ
王位争いに負けて仕方なく物部を名乗りだしたと考えたほうが自然

121:日本@名無史さん
24/04/17 22:47:34.64 .net
魏略で北九州の南に狗奴国があると書いてあったから熊本だろう

魏志で初めて九州以外の国名が出て来る

122:日本@名無史さん
24/04/17 22:53:34.89 .net
>>113
えーーー魏略で北九州という文字が出てくるなんて初耳だわ!

魏略のどの辺に北九州なんて文字が出てくるの!

教えて教えて調べてみるから!!

123:日本@名無史さん
24/04/17 22:55:49.50 .net
畿内説は大嘘つきが多そう「

124:日本@名無史さん
24/04/17 22:59:46.51 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
畿内説はもう確定だから、その後の王権の歩みについて迫りたいな。そもそもここは畿内説スレであって九州論者が来るのはルール違反だし
そう思わんか?

125:日本@名無史さん
24/04/17 23:01:48.34 .net
このスレ回してるの九州説の人たちやん

126:日本@名無史さん
24/04/17 23:02:51.16 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
日本史板にもどんぐりシステム導入してもらうように運営に頼んでみるか
俺UPLIFT入ってるから荒らしBAN出来るわけだし

127:日本@名無史さん
24/04/17 23:03:01.62 .net
>>116
苦しいんなら現実を直視してラクになりな

128:日本@名無史さん
24/04/17 23:04:42.15 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
それか、出来れば次スレはどんぐりレベル制限して立ててほしい
コマンド使えば出来るっしょ?

129:日本@名無史さん
24/04/17 23:07:55.30 .net
>>120
トナカイよ、お前のXのアカウントを教えてくれないか?

130:日本@名無史さん
24/04/17 23:08:39.58 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>107
いやぁ黒塚の被葬者は男だな
「大海」という地名が近辺にあるから尾張系という指摘があったりw

131:日本@名無史さん
24/04/17 23:15:19.78 .net
弥生時代後期、遠賀川、博多湾、壱岐、五島列島、九州全県、松江、広島香川岡山兵庫大阪奈良三重愛知静岡京都滋賀石川富山、神奈川東京に一斉に龍の絵画土器が誕生する
東京湾岸、三重奈良大阪、岡山広島香川、九州北部壱岐では特に流行っていた
九州から関東まで影響を及ぼす勢力がいたということだ
黒い龍神、トミの勢力だろう
遠賀川には南方刀美があちこちで祀られている
柏原の弥生時代後期の遺跡である船橋遺跡からも龍の絵画土器が見つかっている
柏原は奈良から降りてきた龍神が留まり大和川の治水を行った伝承が残る
安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
各地の首長たちが集まり夜に水の祭祀を行っていた伊勢遺跡の特徴や大和風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻の記述とも矛盾しない諡号だね
安寧天皇は龍やトミと関係があるかもしれない

132:日本@名無史さん
24/04/17 23:19:40.66 .net
>>114
末路~不彌までが北九州

133:日本@名無史さん
24/04/17 23:20:17.55 .net
龍の絵画土器の密集地、壱岐には竜宮への信仰が篤い夫婦が暮らしていて、龍の女神から禿童、萩原のことか?を授かり繁栄したという伝承が残っている

遠賀川の香月に生まれた小僧の鎮西上人は立派に育ち飯塚の伝承となった
鎮西上人伝説は南方刀美の伝説じゃなかろうか?

134:日本@名無史さん
24/04/17 23:25:40.90 .net
倭国大乱前の倭国の版図は南は九州全域から北は東京湾迄広がっていたんじゃないか?
倭国王帥升の時代だな

135:日本@名無史さん
24/04/17 23:37:46.60 .net
隋書の阿毎多利思北孤と記紀の推古天皇
記紀が正しいと思う奴は話しにならん

136:日本@名無史さん
24/04/17 23:39:07.41 .net
NHKはヤマト政権の始祖は邪馬台国の卑弥呼であると放送したがそれは誤りでは無かろうか?
卑弥呼より100年以上前から九州全域、吉備、近畿、東海、東京に及ぼす龍をシンボルとする枠組みがあった
倭国王帥升の記録も中国に残っている
龍神伝承の地柏原は安寧天皇の宮の位置とも重なる
既にヤマト政権は卑弥呼より前から始まっていたと考えるのが妥当だろう

137:日本@名無史さん
24/04/17 23:43:55.06 .net
>>126
↑何だか倭人伝の筆者みたいな独自の方位感覚の持ち主がここにいるようだ。

138:日本@名無史さん
24/04/17 23:45:46.28 .net
>>128
面土国は飽くまで倭王ではないだろう

139:日本@名無史さん
24/04/17 23:49:12.74 .net
>>130
帥升は倭王だと書いてある

140:日本@名無史さん
24/04/17 23:49:27.01 .net
長らく朝廷があった京都
朝廷の直轄地畿内の内3つを占める大阪

国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究によれば、東北富山石川和歌山は同じグループで、京都大阪が一番近かったのもこのグループだった
東北は黒い龍神伝承の地だな

三内丸山遺跡からは大量のヒスイが見つかっているが楔状耳飾りも見つかっている
三内丸山遺跡は遼河文明そのものの遺跡で、遼河文明は龍をトーテムとし楔状耳飾りも使われていた
日本でも縄文時代日本海側を中心に各地で楔状耳飾りが見つかっている
旧石器時代からのサヌカイトの採集地である二上山
その麓の藤井寺の国府遺跡は旧石器時代からの人々の営みが残る遺跡で、縄文時代前期の早い時期に5体の楔状耳飾りをした人骨が見つかっている
旧石器時代からサヌカイトの石器を使っていた集団と楔状耳飾りの集団は縄文時代の早い時期に既に出会い共に暮らし始めていたということだな

141:日本@名無史さん
24/04/17 23:49:56.20 .net
>>130
倭国王だったかな?

142:日本@名無史さん
24/04/17 23:50:34.20 .net
>>113
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。
よって狗古智卑狗=菊地彦の解釈は誤り

143:日本@名無史さん
24/04/17 23:55:58.93 .net
魏志の南は間違いだけど、魏略の南は正解です。

144:日本@名無史さん
24/04/17 23:57:48.44 .net
狗奴≠クマ
拘右智≠キクチ

145:日本@名無史さん
24/04/18 00:01:22.02 .net
>>135
方位はこの地図が正しい↓

方位がズレた江戸時代の九州地図
URLリンク(www.lib.fukuoka-u.ac.jp)
九州の地名もこのズレた方位と一致
URLリンク(stat.ameba.jp)

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

146:日本@名無史さん
24/04/18 00:03:59.36 .net
>>137
弥生時代にこれだけの地図を想像するのは絶対無理

147:日本@名無史さん
24/04/18 00:15:02.75 .net
新嘗祭や大嘗祭の翌日に行う豊明の節会に使う三角柏
葛城の磐の姫の時代は熊野に生えていて取りに行く話がある
朝廷の儀式に不可欠なものが当時は熊野にあり、葛城の磐の姫はその所在を知る人物だったということだな
因みに奈良時代に書かれた志摩国風土記逸文に、当時は堺に三角柏が生えていて行基が志摩国にも三角柏を植えた話が残っている

弥生時代末期熊野の阿須賀神社の境内とその周辺に突然集落が誕生する。古墳時代前期迄営みがあったようだ
その集落跡からは大阪湾岸と同じ形の製塩土器が見つかっている
倭国大乱以降の国内の騒動から逃れる為、ヤマト政権の核となるものは一時熊野に逃れていたんじゃないか?
そして古墳時代中期には再び畿内の中枢に戻ってきたと考えられる
三角柏は別名隠れ蓑の葉や大谷渡りとも言う
熊野の神は初めゴトビキ岩に降臨しその後熊野川の対岸の阿須賀神社の地に移ったという

148:日本@名無史さん
24/04/18 00:17:40.74 .net
>>139
弥生時代末期熊野の阿須賀神社
この一文で脱力するわ
ねえわそんなもん

149:日本@名無史さん
24/04/18 00:19:44.71 .net
>>140
読解力ないね

150:日本@名無史さん
24/04/18 00:21:30.16 .net
>>141
とりあえず弥生時代の狛犬の一つでも掘り出してきて

151:日本@名無史さん
24/04/18 00:30:30.04 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
龍の絵画土器は実際興味深い。人口増大と鉄器生産普及と交易活動の活発化が起きていた弥生時代後期に、中国から北部九州へ齎された情報が断片的ながらも東進していった事を語ってくれてるんだろう。
新羅本紀に、旱魃の時に龍を描いて降雨を祈願したという記事がある。おそらく弥生人が龍の絵画土器を描いたのも似たような理由だと考える。

152:日本@名無史さん
24/04/18 00:35:58.28 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
圧倒的な抗い難い超自然の力を実感していた弥生人にとって、自然に干渉出来る(降雨を操作できる)生物の登場が齎したインパクトが絶大であった事は想像に難くないのだな

153:日本@名無史さん
24/04/18 00:41:09.74 .net
>>138
弥生時代に現在の地図を作るのも不可能

154:日本@名無史さん
24/04/18 00:48:02.04 BE:237216734-2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ちなみに龍の絵画を西日本連合政権の誕生の根拠と見るのは明らかに飛躍な

155:日本@名無史さん
24/04/18 00:53:34.35 .net
>>137
なるほど
山鹿郡=邪馬台国とその東南にある菊池郡=狗奴国の関係もその45度回転でキレイに南北に補正されるな

156:日本@名無史さん
24/04/18 00:59:11.64 .net
龍の絵画土器は楽浪郡との交流が始まった事を意味している

157:日本@名無史さん
24/04/18 03:39:42.67 .net
>>147
倭国の東は山口県を突き抜けて日本海になるけどな

158:日本@名無史さん
24/04/18 05:40:36.71 .net
URLリンク(i.imgur.com)
方角のズレは日の出(アガリ)を東にすれば良い

159:日本@名無史さん
24/04/18 06:00:05.63 .net
URLリンク(yamataikokunokai.com)
URLリンク(smtgvs.weathernews.jp)
古代日本列島は何か時空が歪んでたとしても、プレート構造的におかしくはない

160:日本@名無史さん
24/04/18 06:22:58.64 .net
列島ぐるぐる

161:日本@名無史さん
24/04/18 06:27:16.94 .net
>>128
NHKではない
寺澤がそのように発言した
寺澤はアンチ畿内自生説なので、ヤマト王権の初代の王を卑弥呼とする
他方、畿内自生説を採る岸本直文などは、帥升も畿内とは断定しないまでも、畿内ではないか?というスタンスなので、畿内自生説なら帥升を初代の王と見ることもできる

162:日本@名無史さん
24/04/18 06:32:57.89 .net
倭面土は「ヤマト」の発音に極めて近いので、ヤマトと同義だろう
ただ、時代がかなり後の史書の引用なので、何とも言えない

163:日本@名無史さん
24/04/18 06:42:19.83 .net
>>79
前スレでも書いた
上石津ミサンザイ古墳、津堂城山古墳、仲ツ山古墳、五社神古墳、築山古墳、摩湯山古墳と富雄丸山古墳はほぼ同時年にあり、これらの古墳は富雄丸山よりもはるかに大きい
そして、上記古墳の後に誉田御廟山古墳→大仙陵古墳となる
富雄丸山の被葬者はヤマト王権内の王ではないが位の高い人物

164:日本@名無史さん
24/04/18 06:43:34.43 .net
同じ議論を繰り返す馬鹿のふりし続けないといけない病気か何かか?w
こりゃAIに置き換わっていくはずだわw

165:日本@名無史さん
24/04/18 06:46:31.58 .net
大仙陵古墳は仁徳天皇陵だよ
仁徳天皇の没後に作られたとされてるのは
仁徳天皇より後の天皇の没年が長く盛られてるから結果的に
仁徳天皇陵作られた時より前に死んだように思われてるだけ
日本書紀の天皇没年捏造問題を何とかしないと日本の古代史は滅茶苦茶なまま

166:日本@名無史さん
24/04/18 06:46:54.21 .net
>>116
語り合おう
それと畿内自生説も

167:日本@名無史さん
24/04/18 06:49:54.34 .net
>>131
倭面土国 主帥だから、倭王ではない

168:日本@名無史さん
24/04/18 06:52:04.85 .net
生口となった哀しい歴史
ドナドナドナドーナー

169:日本@名無史さん
24/04/18 06:52:34.15 .net
日本書紀の天皇没年は捏造じゃなくて、本当の年代が分からなかっただけ
卑弥呼と台与の在位期間だけは中国の記録で分かった(201~269年 神功皇后)

170:日本@名無史さん
24/04/18 06:53:56.12 .net
自ら出陣した神功皇后は卑弥呼ではありえない。
偽装するにしても違いすぎ。
あるとしたら台与かな。

171:日本@名無史さん
24/04/18 06:59:40.13 .net
>>161
分からなかったから捏造したんだろ
そもそも2~9代の天皇には国を統治したことを示す事績がない
実在したかどうか疑わしい

172:日本@名無史さん
24/04/18 07:01:35.28 .net
記紀編纂当時でも、3〜4世紀は、
不確定な伝承ぐらいで後は創作と思うけどね。

173:日本@名無史さん
24/04/18 07:01:45.60 .net
幕府があったから直接統治はしてなかったのだろう。

174:日本@名無史さん
24/04/18 07:18:12.24 .net
>>159
倭國王帥升と書いてある
倭面土国は日本語に文字をあてたんでしょう

175:日本@名無史さん
24/04/18 07:20:49.75 .net
>>161
隋書の阿毎多利思北孤と記紀の推古天皇
記紀が正しいと思う奴は話しにならん

176:日本@名無史さん
24/04/18 07:31:10.93 .net
>>165
一大率でしょう
各地の豪族がその役割を担ってた

177:
24/04/18 07:33:10.29 .net
キクチヒコ? コウチヒコ? 誰ですか、それ?
珍彦こと、槁根津日子 ← コウコンツヒコとも読めるねw
人物比定も明確にまるっと考察済み!
>天津サイド
初代卑弥呼 アマテラス
曹魏    タカミムスビ
・黄憧   オモイカネ(卑弥呼と思いを兼ねる魏の皇帝)
・黄幢   ヨロズハタヒメ(万のハタに匹敵!)
載斯烏越  サイシウ・エツ→祭主サイシュ・フツ(ヌシ)
VS
>国津サイド
卑弥弓呼  ヒミコト(日命。ニギハヤヒ)
狗古智(拘右智)卑狗 ウヅヒコ(珍彦。槁根津日子。東征中の神武に従属)

178:日本@名無史さん
24/04/18 07:40:09.41 .net
基地外の脳内世界をわかりやすく体現

179:日本@名無史さん
24/04/18 07:50:12.89 .net
スカイネットのAIがこのスレ見たら、このバカども滅ぼさなきゃって結論に至るのかな?w

180:日本@名無史さん
24/04/18 07:54:07.00 .net
①まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
②次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
③さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
URLリンク(pbs.twimg.com)

181:日本@名無史さん
24/04/18 07:56:05.25 .net
「帯方郡から12000里(900㎞)で女王国に至る」の内訳
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850㎞)。
残り700里(50㎞)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50㎞でピッタリです!

182:日本@名無史さん
24/04/18 08:02:50.20 .net
つまり記録文献のどっこにも畿内説を思わせる記述はありませんと

183:日本@名無史さん
24/04/18 08:03:16.83 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
URLリンク(pbs.twimg.com)
魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。
※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島~奄美大島~沖縄本島=「陸行一月」)
⇩魏志倭人伝の世界観
URLリンク(pbs.twimg.com)

184:日本@名無史さん
24/04/18 08:03:24.48 .net
>>173
そんな姑息なことをしているから、だからいつまでたっても、トンどものまま。   @阿波   

185:日本@名無史さん
24/04/18 08:05:28.68 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?~西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A~Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

186:日本@名無史さん
24/04/18 08:12:57.82 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺(見た目は老人、頭脳は小学生)

187:日本@名無史さん
24/04/18 08:14:29.67 .net
>>177
旧唐書  四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之

188:日本@名無史さん
24/04/18 08:15:52.16 .net
九州説がなぜ滅亡したかよくわかる

189:日本@名無史さん
24/04/18 08:16:04.15 .net
⇩不弥国から「南水行十日陸行一月」の真相
URLリンク(pbs.twimg.com)

190:日本@名無史さん
24/04/18 08:21:37.15 .net
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。
よって狗古智卑狗=菊地彦の解釈は誤り
よって狗奴国=熊本も誤り

191:日本@名無史さん
24/04/18 08:24:34.14 .net
帯方郡、百済との繋がりで畿内の勝ちだ!

192:日本@名無史さん
24/04/18 08:26:46.13 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ


193:盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。 そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。 その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。



194:日本@名無史さん
24/04/18 08:35:35.36 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。
ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓
で良いだろう。

195:日本@名無史さん
24/04/18 08:53:02.16 .net
>>182
>よって狗奴国=熊本も誤り
当り前。 そんな熊本に超大国「狗奴国」など興る訳がない。   @阿波

196:日本@名無史さん
24/04/18 08:53:26.50 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。
そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。
さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

197:日本@名無史さん
24/04/18 08:54:58.33 .net
>>185
姑息に、「阿波」を飛ばしている。   @阿波

198:日本@名無史さん
24/04/18 08:55:21.58 .net
ざっくりとスレ読んでみたけど
虚構で積み上げた畿内説はトドメを刺されたかも

199:日本@名無史さん
24/04/18 08:56:34.62 .net
>>187
いつまで妄想を楽しむつもりだ?   @阿波

200:日本@名無史さん
24/04/18 08:59:24.62 .net
>>175
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
「女王国東渡海千里(A)、複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)
「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡は後世の追加&追葬)を比定。

201:日本@名無史さん
24/04/18 09:02:15.75 .net
なにが神社だ?あほらしい

202:日本@名無史さん
24/04/18 09:02:47.07 .net
九州説の主張て、東の海を渡ると倭種がいる(実際は東は太平洋で倭種はいない)と、
狗奴国の狗古智卑狗は菊池彦(実際は拘右智卑狗で関係無い)ぐらいしか無いよね

203:日本@名無史さん
24/04/18 09:05:56.76 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

204:日本@名無史さん
24/04/18 09:08:43.99 .net
>>173
>>175
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw
全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」w
「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

205:日本@名無史さん
24/04/18 09:13:17.96 .net
デスラー総統とか言ってると歳がばれるぞ

206:日本@名無史さん
24/04/18 09:14:41.03 .net
YAMATOが最近、西Pの息子にリバイバルされただろ、大学生かもしれんぞ

207:日本@名無史さん
24/04/18 09:42:41.18 .net
久住猛雄は狗奴国=肥後、狗古智卑狗=ククチ彦説
これが最も自然で妥当な解釈だろう
狗奴国=東海説だの狗古智卑狗=カワチ彦説だのは畿内説の結論ありきのこじつけで論外
以下、久住のXより
「久努国造って遠江西部のはずなのに、遠江東部沼津の高尾山古墳を狗奴国王墓とか、無茶苦茶過ぎます。
土器様相の急な相違や大型銅鐸の分布有無とか、天竜川の東西で全然違う考古学的文化なのに、それを一緒くたにするような「狗奴国」論は考古学的に成立しかねる、と指摘させていただきます。」
「そんでもって謎の「王」号所持。どこかで魏か公孫氏か後漢後半に少なくとも楽浪、帯方郡と直接接触したはずと考えますが(仁藤敦史「卑弥呼と邪馬台国」)、正直言って3世紀中頃までの遠江地域の首長にそれを期待するのはかなり困難。」
「女王と「素より和せず」、さらに脅かすほどの戦争仕掛ける勢力が、遠江西部にいたのか?
考古学的に証明していただきたく存じます。」
「近代史学の邪馬台国畿内大和説の祖は東洋史の碩学内藤湖南だが、内藤は「狗奴国」を「肥後国菊池郡城野(キノ)郷」にその本拠を比定する。
「クマ」でなく「キノ」が一つの根拠というのに気づいた(「狗古智卑狗」は「ククチ彦」)。」
「内藤湖南の狗奴国=肥後国説、
他の肥後国説が「クマ←→クナ」説だが、「キノ←→クノ」説だったっぽい。明治大正時代に、中国の音韻変化について知ってた?しかし東洋史学の泰斗、何か知ってたかも?清代とかに、清の皇帝が編纂した大辞典に中国語(漢字)の歴史的音韻変化の研究があったとか?」
「ここキノ郷は、後に鞠智城ができるが、方保田東原に並ぶ弥生終末の肥後の二大集落の一つうてな遺跡もある。偶然か?」
「肥後に初期古墳はないが、大型方形周溝墓は古墳初頭に出てきます。しかしながらここで重要なのは、むしろ典型的「古墳」を受容していないことこそが、「女王に属さず」を徹底しているとも言えることです。
一方で集落は大規模、舶載遺物も多く、鉄器生産(「製鉄」としてる方は誤り)盛んです」

208:日本@名無史さん
24/04/18 09:47:04.06 .net
>>198
当てはめようとするのが間違ってる
阿毎多利思北孤は誰なんだよ?

209:日本@名無史さん
24/04/18 10:13:38.70 .net
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數
こんなに詳しく書いてくれてるのに誰だかわからん
阿毎多利思北孤天皇は確実に居ただろ?

210:日本@名無史さん
24/04/18 10:22:28.96 .net
記紀の目的は、隋の天子煬帝に無礼を働いた倭王阿毎多利思比孤(冠位十二階)を、厩戸王子との合成人格「聖徳太子(憲法十七条)」で消すことだよ

211:日本@名無史さん
24/04/18 10:29:07.68 .net
>>198
そもそも狗古智卑狗は転写誤字
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

212:日本@名無史さん
24/04/18 10:33:20.89 .net
隋書俀国伝で、日出処の天子「天垂彦(阿毎多利思比孤)」は、倭国統治を兄弟に喩えているが、兄王朝が九州本家(倭国)、弟王朝が大和分家(日本国=推古朝)だったわけだ
URLリンク(pbs.twimg.com)
それが旧唐書になると、日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑ったという記述に繋がるわけだ。

213:日本@名無史さん
24/04/18 10:34:08.17 .net
>>198
それに東海・関東には毛野国やら鬼怒川やら、クノ系の地名は山ほどあるからね
久野村(カテゴリ:同名の地名)
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久野城 - 茨城県牛久市久野町にあった城。
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。

214:日本@名無史さん
24/04/18 10:34:54.12 .net
狗古智卑狗が河内(大阪)彦でないことはたしかw

215:日本@名無史さん
24/04/18 10:38:49.13 .net
>>204
邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺(畿内説)の小細工、乙!w

216:日本@名無史さん
24/04/18 10:41:17.73 .net
>>184
バーカ
魏使は王族の墓制を記したとは書いてないわ
魏使が見た範囲での墓と王族の墓制が違ってもなんも矛盾しない

217:日本@名無史さん
24/04/18 10:42:02.70 .net
>>207
バカはお前だったようだw

218:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
>>88
というか教えてあげたんだから礼くらい言えや

219:日本@名無史さん
24/04/18 10:58:09.42 .net
>>200
後宮に6、700人も女を集められる大王がはたして居ただろうか
東の倭種特有の「尊大で誠実に答えない」かもしれんな

220:日本@名無史さん
24/04/18 10:59:23.19 .net
>>181
日本海ルート(出雲投馬国)はありえんな

221:日本@名無史さん
24/04/18 11:03:07.13 .net
>>208
バーカ
魏使は王族の墓制を記したとは書いてないわ
魏使が見た範囲での墓と王族の墓制が違ってもなんも矛盾しない

222:日本@名無史さん
24/04/18 11:03:54.69 .net
>>211
>日本海ルート(出雲投馬国)はありえんな
いや、」日本海ルートはあったが、「魏志倭人伝」とは無関係なだけのこと。   @阿波

223:日本@名無史さん
24/04/18 11:06:57.86 .net
>>212
一つ覚えのバカはお前だったようだw

224:日本@名無史さん
24/04/18 11:07:50.42 .net
>>203
使者A~Cが別々のことを言ったということではなくて、そういういろいろなうわさがあった、ということでは

225:日本@名無史さん
24/04/18 11:10:33.72 .net
>>211
瀬戸内海ルート(吉備投馬国)もないよ
陸続きの大阪まで水行十日する必要がないし、纏向まで陸行一月wなら確実に里数表記に変わるはずw
20㎞×30日=600㎞とすると、大阪から東京(498㎞)大宮(520㎞)水戸(620㎞)あたりで、其南有狗奴国 官狗古智卑狗は北になってしまうwww

226:日本@名無史さん
24/04/18 11:18:22.68 .net
>>200
息を吐くように嘘を付け足すなよ汚内説よ
隋書倭国伝の原文には阿毎多利思北孤の文言の後に
天皇なんて称号は付いてないわ
中国側で隋書倭国伝が記録された年代は
西暦600年頃で日本は額田部皇女(のちの諡号で推古天皇)の時代
正確には苗字は阿毎(あま)、名は多利思北孤(たりしほこ)
天豊財重日足(のちの諡号で斉明天皇)が西暦661年に
繋がりのある九州筑紫に大和から皇宮を遷し朝鮮制圧に乗り出したが
天豊財重日足が亡くなり、一時的に日本は混乱し称制で統治したが
大海人皇子が西暦673年に即位し日本で初めて天皇の称号を使い始めたの起源だよ

227:日本@名無史さん
24/04/18 11:21:14.17 .net
>>216
つまり不弥国「南水行十日」投馬(都萬)国(耳川)は、豊後水道ルートが正解ということだね

>>181

228:日本@名無史さん
24/04/18 11:23:49.37 .net
狗右智卑狗 Google翻訳では 正しい知的劣等コンプレックスを持つ犬
だそうな

229:日本@名無史さん
24/04/18 11:24:38.23 .net
>>218
しかし、大国「投馬國」を宮崎になどと蔑ろにしてはいけない。   @阿波

230:日本@名無史さん
24/04/18 11:24:41.49 .net
>>215
何故そんな妙な解釈になるの?
わけわかんねえ

231:日本@名無史さん
24/04/18 11:25:42.16 .net
>>217
「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」
姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌(おおきみ=大王)
ちなみに「天皇=大王+百」w
一白
大王
「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」
妻は雞彌といい、後宮に600~700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利である

232:日本@名無史さん
24/04/18 11:34:46.57 .net
>>217
號の阿輩雞彌ってなによ?
てかこんな事もわからんのだから当てはめようとするなと言ってるんであって河内彦でも同じだ

233:日本@名無史さん
24/04/18 11:37:50.80 .net
>>222
>号は阿輩雞彌(おおきみ=大王)
阿波爺が阿波君とか言い出しそうだなw

234:日本@名無史さん
24/04/18 11:38:12.76 .net
>>221
藤堂明保訳の倭国伝ではそう読める
そもそも一緒に行った使者がばらばらの事を言うわけがない

235:日本@名無史さん
24/04/18 11:38:20.92 .net
>>223
>號の阿輩?彌ってなによ?
つまり、トンデモの話はそんなものってこと。 それぐらいしか、話せるものがないってこと。   @阿波

236:日本@名無史さん
24/04/18 11:42:55.14 .net
>>225
問い詰められてるんだぞ

237:日本@名無史さん
24/04/18 11:43:24.63 .net
>>214
バーカ
魏使は王族の墓制を記したとは書いてないわ
魏使が見た範囲での墓と王族の墓制が違ってもなんも矛盾しない

238:日本@名無史さん
24/04/18 11:44:02.75 .net
>>228
バカの一つ覚えはお前だったようだw

239:日本@名無史さん
24/04/18 11:45:20.37 .net
倭人伝では単に「倭人の習俗」として墓制の紹介が出てくるだけ
卑弥呼の墓についての記述とは別の項目に書かれてる
倭人の習俗としての墓制と
卑弥呼の墓の墓制を結びつけるのは完全に間違い

240:日本@名無史さん
24/04/18 11:51:45.27 .net
>>230
いずれにせよ、「卑弥呼」の墓は、「前方後円墳」ではないから。   @阿波

241:日本@名無史さん
24/04/18 11:51:56.84 .net
倭人A「わてらは元は小国やけど倭国を併せたったんですわ」
倭人B「なんばいよっとかわいら倭国が日本を併せたったい!」

242:日本@名無史さん
24/04/18 11:53:31.75 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

243:日本@名無史さん
24/04/18 12:00:47.21 .net
邪馬台国の漢化の代償が夷狄時代の過去を隠蔽工作www

244:日本@名無史さん
24/04/18 12:01:36.21 .net
>>222
当時の日本は島国の大王レベル
だから西安まで中国の煬皇帝に謁見する為に
大和から中国西安に使者を送ってるほど
大王レベルの日本と天皇称号を用い始めた日本と
社会文化水準の差がありすぎるよ
で日本の歴史書には登場しない
毎字多利思北孤は後の天皇諡号では誰に当たるのよ?(笑)
大海人皇子が日本における初の正式天皇になった天武天皇は
古来からの日本の正式な歴史を残すため
我が国初の正式国史書となる日本書紀の執筆開始
家系による氏族系譜上の確立
令制制度による日本初の中央集権体制を確立など
古い大和の文化レベルでは出来なかった新日本の船出を実現してるほど

245:日本@名無史さん
24/04/18 12:02:18.88 .net
槨について必死に議論してるやつって、時間の無駄だということを認めたくなくてさらに必死になるんだろうな
無駄なもんな無駄だぞ
王族の墓制と倭人の習俗としての墓制が違っててもなんも矛盾しないんだから
倭人の習俗としての墓制を根拠に大王墓クラスの古墳がどうとか語るのはまったく無意味で無駄

246:日本@名無史さん
24/04/18 12:03:46.03 .net
>>230
卑弥呼の墓は「径百余歩、殉葬百余人」とハッキリ書いてある
そして100%合致する墓は発見されていない
それが現実

247:日本@名無史さん
24/04/18 12:05:50.23 .net
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了
解散!

248:日本@名無史さん
24/04/18 12:06:28.31 .net
つまり倭人は庶民と統治者で民族が違ったんやな

249:日本@名無史さん
24/04/18 12:12:57.53 .net
>>237
バカの一つ覚え乙!w

250:日本@名無史さん
24/04/18 12:15:02.73 .net
>>237
祇園山古墳が一番近いだろう
基本的に倭人伝の距離やサイズの記述は「キリのいい数字で多めに書く」という方針で貫かれてる
工程の里数も◯百里と、ほぼすべての箇所で有効数字一桁で書かれてる
径百余歩というのも同じように、有効数字一桁で書いてる
「有効数字一桁、切り上げ」のルールを適用すると実際の数値が50歩~100歩なら「径百歩」と書くことになる
祇園山古墳は直径30mほどで、径百余歩に当てはまる


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