邪馬台国畿内説 Part997at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part997 - 暇つぶし2ch650:日本@名無史さん
24/03/01 13:39:34.30 .net
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
つまり弥生時代の鉄器共有地域=邪馬臺連合国ってことよ
【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
URLリンク(i.imgur.com)

651:日本@名無史さん
24/03/01 13:40:25.39 .net
>>612
説得力あるし、私も近い考えなんですが熊本平野が邪馬台国の中心地なら水行10日だけの記載でいいような気がして…。

652:日本@名無史さん
24/03/01 13:42:39.67 .net
仮に>>614の図の北部九州~若狭湾沿岸を女王国とすると奈良、大阪は狗奴国となる

653:日本@名無史さん
24/03/01 13:51:27.67 .net
東に海を渡ると倭種の国
この一文があるせいで畿内説は致命的

女王国の北は伊都国に一大率を置き諸国を検察させている
この一文があるせいで畿内説の地理的描写は壊滅的

654:日本@名無史さん
24/03/01 13:51:28.50 .net
弥生時代後期の佐賀は興味深い
七ヶ瀬遺跡からは弥生時代後期木棺とそこからヒスイの勾玉が出土
ピンポイントで畿内と共通した墓制が現れる
吉野ヶ里遺跡の日吉神社からは石棺墓
これは瀬戸内海沿岸部や遠賀川と共通する
卑弥呼より前の時代、伊勢遺跡の時代でもある弥生時代後期、佐賀に畿内や瀬戸内海出身の人が現れる
埋葬のされ方からも非常に身分の高い人物

弥生時代後期のごくわすがな期間、近畿辺りの勢力が佐賀の勢力と繋がり始めたがすぐにその時代は終わったようだ

畿内の勢力が九州各地の主要な勢力に婿入りでもしたのか?

655:日本@名無史さん
24/03/01 13:55:35.87 .net
>>615
高千穂は邪馬台国の政治の中心地、熊本平野は軍事経済の中心地で、
主邑は山鹿市の方保田東原から菊池市の臺地区にかけてだった。
その山鹿・菊池は、唐津から佐賀平野の伊都国・不彌国(吉野ヶ里)を経て、陸行1300里(20日)くらい。

656:日本@名無史さん
24/03/01 13:56:17.11 .net
魏志倭人伝には狗奴国が古代から何度も直接中国大陸に渡海していたことが書かれている
東シナ海に面していたということ

657:日本@名無史さん
24/03/01 13:57:20.21 .net
七ヶ瀬遺跡のある佐賀市、旧佐嘉郡の謂れが肥前国風土記にある

昔、この村には1株の樟が生えており、それは幹と枝がとても高く、たくさんの葉が生い茂っていた。朝日によって出来た木陰は杵島郡の蒲川の山を覆い、夕日によって出来た木陰は養父郡の草横の山を覆った。

日本武尊が巡幸した時、この生い茂る樟を見て「この国は栄国(さかのくに)と言うべきだ」と言ったので、これによって栄郡と呼ぶようになり、これが後に佐嘉郡と改められた。

658:日本@名無史さん
24/03/01 13:59:08.42 .net
記紀の命名エピソードはなんなんだろうな
そのタイミングで支配下に組み込んだという隠喩なのだろうか

659:日本@名無史さん
24/03/01 13:59:31.44 .net
記紀じゃなくて風土記か

660:日本@名無史さん
24/03/01 14:05:09.73 .net
>>609
>邪馬台国内陸部説には賛同だが

古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

661:日本@名無史さん
24/03/01 14:06:33.17 .net
>>612
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

662:日本@名無史さん
24/03/01 14:07:58.92 .net
>>619
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

663:日本@名無史さん
24/03/01 14:08:28.61 .net
女王国の傍国が奴国
魏の使者の行程で奴国より手前の国々は女王国ではないんだな
佐賀辺りは弥生時代後期畿内の勢力と良好な関係だったんじゃないのかな?
卑弥呼より前の時代の畿内は銅鐸とヒスイの勾玉、鳥形と龍の絵画土器の地域
弥生時代末期以降はそれらの特徴は見られなくなる 
佐賀も畿内の旧勢力側だったんじゃないのか?

664:日本@名無史さん
24/03/01 14:09:24.98 .net
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波

665:日本@名無史さん
24/03/01 14:10:19.40 .net
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波

666:日本@名無史さん
24/03/01 14:18:59.51 .net
なんか邪馬台国は複数あったんじゃないか?!と思えてきた。九州の邪馬台国が本国で四国や近畿に植民地的な感じで邪馬台国分国があって、600年ころ植民地だった近畿の邪馬台国分国が本国に勝って逆転。今までのウップンを晴らすかのように九州の邪馬台国を徹底的に壊滅的破壊した。近畿の邪馬台国は元は植民地だったのは恥ずかしい事だったから改ざんして邪馬台国がわからないようにした。
全く根拠はないけど。
こんな事を言ってる学者いる?

667:日本@名無史さん
24/03/01 14:21:33.14 .net
阿蘇と阿波では月とスッポン。阿波よ、口惜しいだろう

阿蘇・高千穂の女王・卑弥呼の所都には、天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北の祖母山を守護神とし、東・西・南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25?もの渓谷断崖で守られていました。
なんと、奈良の三輪山を含む桜井市と、ほぼ同面積の天然の大要塞だったのです。

依って、縄文~弥生の昔から、幾多の王国が興亡を繰り返してきました。
紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝があり、更に神武後孫の高千穂王朝も続きました。
紀元後には、土蜘蛛女王の卑弥呼が馬台を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設しました。
そしてその後は、宇佐神宮大神氏が建てた大神王朝から、三田井王朝へと続きました
ここは高天原以来の、万年の理想郷なのです。

668:日本@名無史さん
24/03/01 14:41:35.77 .net
>>630
いないね

669:日本@名無史さん
24/03/01 14:44:38.66 .net
つまり畿内説には存在理由がありませんでしたと

670:日本@名無史さん
24/03/01 14:46:58.59 .net
古代の大陸人は日本列島は南に垂れ下がっていると思ってたのだ
それだけの話
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(qph.cf2.quoracdn.net)

671:日本@名無史さん
24/03/01 14:58:04.80 .net
>>634
日中の学者が皆「それはない」と口を揃えてる畿内説馬鹿の妄言を未だに繰り返してる情弱爺さん乙w

672:日本@名無史さん
24/03/01 15:00:40.67 .net
邪馬台国が近畿や阿波なら狗奴国との戦いの仲裁や援軍をわざわざ遠くの中国の魏に頼むのはどうなんだろう?

673:日本@名無史さん
24/03/01 15:11:49.16 .net
邪馬台国?
卑弥呼だよ。共立されたのは卑弥呼。
邪馬台国ではない。女王国が魏を頼る。
卑弥呼が九州だな。邪馬台国は九州以外の遠方地

674:日本@名無史さん
24/03/01 15:15:33.12 .net
>>616
鉄鏃、骨鏃等の武器出土がほとんどない。

675:日本@名無史さん
24/03/01 15:54:57.18 .net
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波

676:日本@名無史さん
24/03/01 15:55:36.62 .net
>>631
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

677:日本@名無史さん
24/03/01 16:39:09.46 .net
>>634
残念だがその地図は朝鮮人の合成図だw

678:日本@名無史さん
24/03/01 16:46:49.84 .net
スッポン阿波が未練たらたら、、
古今東西、アレがドンブラコと流れきてたまる大河のほとりに起こったのは、しもじもの大衆文明。
高貴なお方の王朝は、大河の川上の清浄な環境に興ったのだよ。
伊都国は佐嘉川の川上、女王の都は五ヶ瀬川の源流。

679:日本@名無史さん
24/03/01 16:47:12.67 .net
>>634
畿内説のソースは月刊ムー

680:日本@名無史さん
24/03/01 16:56:19.18 .net
>>641
URLリンク(blog-imgs-127-origin.fc2.com)
中華の宋の地図でも関東や東北に居るはずの毛人や蝦夷が南になってるよ

681:日本@名無史さん
24/03/01 17:07:23.29 .net
>>644
昔からここのFAQ71に乗ってるけど、九州説は目を背けて逃げてるよ

「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)

682:日本@名無史さん
24/03/01 17:26:21.92 .net
URLリンク(youtu.be)

卑弥呼の時代(紀元後200年前後)の日琉語の分布をイメージするとヒントが得られるかも
特に半島日琉語の状況や列島日琉語の東方への広がり

683:日本@名無史さん
24/03/01 17:28:32.69 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

684:日本@名無史さん
24/03/01 17:33:31.66 .net
ちゃんと日本を入れるとこうなるURLリンク(i.imgur.com)

685:日本@名無史さん
24/03/01 17:35:48.98 .net
つまり畿内説は何の根拠も存在しない超架空の物語

686:日本@名無史さん
24/03/01 17:37:19.28 .net
畿内説は詐欺。

687:日本@名無史さん
24/03/01 17:45:19.38 .net
どれもこれも東側にスペースがない地図ばっかじゃん
東南大海の中にあったとされた国の情報を無理矢理詰め込んで上から順に描いたら
メジャーなのが上、マイナーなのが下になっただけでは

688:日本@名無史さん
24/03/01 17:49:25.42 .net
弥生時代だと、半島北部は楽浪郡帯方郡に圧迫されてるものの、半島の主流な言語は日琉語。
日本列島は九州南部をのぞき岐阜県ぐらいまでは日琉語。東海地方はアイヌ語。
韓ワイ倭の日琉語人世界では狗邪韓国から対馬海峡を挟んで伊都国がその中心だったと言えるね。当時の纏向はまだ辺境で、鎌倉時代の関東ぐらいの感じかな。異民族への前線。

689:日本@名無史さん
24/03/01 18:03:06.87 .net
>>648
日本は波より小さかった。小国だったんですね。

690:日本@名無史さん
24/03/01 18:05:03.05 .net
>>653
赤枠が日本だよアホ

691:日本@名無史さん
24/03/01 18:07:29.73 .net
海の中に硫黄山ってのがあるな
硫黄島か火山島か

692:日本@名無史さん
24/03/01 18:07:50.79 .net
>>654
そうなんですか。黄色の日本は何ですか?

693:日本@名無史さん
24/03/01 18:08:10.25 .net
地図でもチェリーピッキングする畿内説

694:日本@名無史さん
24/03/01 18:24:18.22 .net
地図がちょいバズしてたな
継体天皇が北陸の都の邪馬台国から南下するまで
非効率稲作だったんだろ
急に大陸文化も鉄も技術も入るし
河内狗奴国の頭だけ取って
歴史捏造文書見せてお前らのカシラの
親戚だから支配する権利ありますよーって居座った

695:日本@名無史さん
24/03/01 19:14:32.14 .net
唐代以降でも倭の概念が
曖昧と言うことは、地図でも解る。
陳寿倭人伝は魏代で白眉の記録だが
以降で初出は600年の三月行五月行
である。 逆行だろwww
日本は満州で清王朝を保護国にした。
台湾の亡命政権を守った。
高句麗と戦い、牛馬の富国強兵を実現
古代韓の百済新羅を成立させた。
ヤマト女王が、狗奴国と戦争で
三国志で公孫氏や韓王にてこずってる
魏に朝貢で帯方郡使に魏郡の旗貰って
王権維持したって、歴史が有り得るのか?
とこの、任那日本府の女酋長だよ?

696:日本@名無史さん
24/03/01 19:35:28.91 .net
>>658
3世紀も15世紀も江戸時代も、さして測量技術の進歩はないんじゃないかな。 光学機器が発明されるまでは。 
手漕ぎ船から帆船に替わったような技術革新は、測量技術においては、なかったのでは?   @阿波 

697:日本@名無史さん
24/03/01 19:35:48.85 .net
京都と地方を結ぶ水の道
-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-
URLリンク(www.kunaicho.go.jp)

今日初めて知って驚いたこと
>琵琶湖の水運について
>2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運
>当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。

それと、この文章を書いた皇太子の時の天皇陛下の博識

698:日本@名無史さん
24/03/01 19:44:32.79 .net
邪馬台国論争は、
日本人の歴史認識の異常
から始まってるだろ?

戦後の考古学は普通に
東夷伝の歴史を証明してるのだが?

まあ、文献依存の九州説でも
卑弥呼が九州の女酋長は正しい。

畿内説は平原に
原爆落とすべきだったなwww

アタシャ変なネトウヨになったか?

699:日本@名無史さん
24/03/01 19:44:41.59 .net
>>661
つまり、海や湖の恵みを一切得られない奈良盆地に、古代王都など興り得ないことを皇太子の時の天皇陛下が説明してくれている。   @阿波

700:日本@名無史さん
24/03/01 19:48:54.21 .net
>>661
つまり、海や湖の恵みを一切得られない九州の山奥に、古代王都など興り得ないことを皇太子の時の天皇陛下が説明してくれている。   @阿波

701:日本@名無史さん
24/03/01 19:52:19.42 .net
>>663
皇太子殿下のご講演では、



702:>京都が都になる以前には,都は京都の南にあります奈良にありました



703:日本@名無史さん
24/03/01 19:55:04.75 .net
>>665
倭国(阿波)からの遷都な。   @阿波

704:日本@名無史さん
24/03/01 19:57:54.76 .net
アメリカ下の現行法律で今の法律が決まっているだけで、
日本は天皇家が統一したのですから、
昔から天皇のための国民なんです。
ここが現代人はさっぱり理解できていない。

705:日本@名無史さん
24/03/01 19:59:40.66 .net
一人一説雑多九州説の始まりは九州文学小説

706:日本@名無史さん
24/03/01 20:06:56.99 .net
西部劇とか中国の歴史ドラマを見ているからなのか日本にも馬車が昔からあったように思っていました
wikipediaにも記事があります
>日本と馬車
>古代中国で馬車より騎馬への転換が完了した時期に日本へウマが伝来したために騎馬の文化は普及したが、馬車の文化は普及しなかった。一方、ウシを用いた牛車は近世期でも使われていたものの、ウマの引く乗用車は明治時代まで存在しなかった。
ただ、人を乗せる馬車ではなく木材を運ぶ荷車のようなものはあったのかもしれません

707:日本@名無史さん
24/03/01 20:11:58.23 .net
>>667
君の理解が足りない
明治の国家神道はその時に作り上げられたもの
古来の我が国の伝統とは関係がない

708:日本@名無史さん
24/03/01 20:29:35.89 .net
駄賃馬稼
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)とは、近代以前の日本において馬の背中に貨物や人を乗せて輸送に従事する職業のこと。この職業に従事する人を馬借(ばしゃく)あるいは馬子(まご)、使用された馬を駄馬(だば)あるいは稼馬(かせぎうま)・荷馬(にうま)、輸送料金を駄賃(だちん)と称した。

709:日本@名無史さん
24/03/01 20:31:40.09 .net
>>645=>>1
FAQ71どうしようもないね
無い知恵だしたはいいが
まず、畿内説の学者でこんなんで解説したやつ見たことない。
畿内説間でよくもんでから出したら。
奥山の努力は買うけどさ、推古紀と同じ。
奥山のアタオカ

710:日本@名無史さん
24/03/01 20:34:13.64 .net
>>668
毎日、毎日「私は馬鹿です」という自己紹介するなよ

711:日本@名無史さん
24/03/01 20:44:47.88 .net
邪馬台の卑弥呼は耶麻等の比弥王、日女尊のこと
アマテラスヒルメとオキナガタラシヒメ最強

712:日本@名無史さん
24/03/01 22:20:00.50 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
URLリンク(www.yoshinogari.jp)
伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

713:日本@名無史さん
24/03/01 22:31:09.96 .net
.



投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)



.

714:日本@名無史さん
24/03/01 22:43:08.66 .net
>>672
>FAQ71どうしようもないね
反論ひとつできない負け組九州説は悪口いうだけ
みじめだねえ

715:日本@名無史さん
24/03/01 22:44:16.07 .net
郡から水行20日で半島南部の投馬国に着く。
水行10日で伊都国に着く(末盧国から伊都国も正規のルートは水行であることは本文を読めば明らか)。
伊都国から陸行30日で邪馬台国に着く。
・水行は1日350里進む。
・陸行は1日50里進む。
・投馬国はかっての狗邪韓国など半島南部の数ヵ国を含む広域の国。
・邪馬台国は伊都国や奴国や女王国など九州北中部の数ヵ国を含む広域の国。
つまり日数記事は里数記事を日数に換算したもの。
郡から女王国まで里数12000里は日数にすると60日かかると説明したものにすぎない。
日数記事作成者は一里=434メートルで考えている。
里数12000里は政治的な誇大な数字のため日数記事も現実に即しないものとなっている。

716:日本@名無史さん
24/03/01 22:46:23.61 .net
ツイッターで邪馬台国関連を語るやつ多いけど、久住にフォローされてないやつは雑魚
読む価値なし
もちろんおれはフォローされてる

717:日本@名無史さん
24/03/01 22:48:07.99 .net
久住「ダンワラ鉄鏡、由来を誤魔化している可能性大」
URLリンク(i.imgur.com)

718:日本@名無史さん
24/03/02 00:20:51.11 .net
>>680
曹操の鉄鏡と同レベルのお宝と判明したのは何十年も後になってからだから
当時、そのような知見がない時代に由来を誤魔化す意味がないけども……

719:日本@名無史さん
24/03/02 00:25:22.50 .net
>>677
毎日、毎日「私は馬鹿です」という自己紹介するなよ

720:日本@名無史さん
24/03/02 00:49:05.84 .net
トナカイかw

721:日本@名無史さん
24/03/02 01:32:24.96 .net
帯方郡から南に行くとフィリピンに到る。船でおよそ30日。
孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったりしてるので数多異国と呼ばれた。これがなまって邪馬台国となった。

722:日本@名無史さん
24/03/02 01:34:36.52 .net
>>681
梅原に鉄鏡を売った古物商か、この鏡を古物商に売った人物が
由来を誤魔化している可能性大ということだろ
梅原は古物商から買った現代の幼稚な贋作を古代のガラス製品と信じ込ん人だから

723:日本@名無史さん
24/03/02 01:35:43.73 .net
>>681
梅原末治は鉄鏡だけでなく銅鏡の由来も間違った情報流しまくりだしガラス製品でもやらかしてるぞ
由来を誤魔化す理由ならいくらでもある
曹操の鏡と同型だと判明する遥か前の1998年から梅原末治は批判されている
URLリンク(www.mars.dti.ne.jp)

724:日本@名無史さん
24/03/02 01:36:12.00 .net
同じシチュエーションで畿内由来だったら鬼の首とったように騒いだと思うわ

725:日本@名無史さん
24/03/02 01:37:02.83 .net
またダンワラ詐欺師が喚いてんのw

726:日本@名無史さん
24/03/02 01:37:25.74 .net
ダンワラバカ「梅原末治を信じろ!」


wwwww

727:日本@名無史さん
24/03/02 01:39:47.97 .net
金印も曹操の鉄鏡も畿内から出なくて残念だねえ

728:日本@名無史さん
24/03/02 01:40:31.45 .net
>>690
壊れちゃったw

729:日本@名無史さん
24/03/02 01:40:48.69 .net
ダンワラバカ、精神崩壊w

730:日本@名無史さん
24/03/02 01:42:23.29 .net
九州説でも高島忠平とか安本美典とか実証主義な人はダンワラ鉄鏡に否定的だよ
キチガイが執着してるだけで、まともな人は取り合ってない

731:日本@名無史さん
24/03/02 01:43:58.00 .net
日田なんて何も無いが
吉野ヶ里や平塚川添にはデカい環濠集落があるからな。まっとうな九州論者はそれを使う
キチガイは日田の鉄鏡を持ち出す

732:日本@名無史さん
24/03/02 01:49:17.54 .net
プロ画を日田の鉄鏡にしてる某がブチギレw
見に行ったら底辺みたいなツイートしかしてなくてワロタw恥ずかしいねぇw

733:日本@名無史さん
24/03/02 01:53:19.12 .net
>>695
底辺で悪かったな。

734:日本@名無史さん
24/03/02 01:56:28.26 .net
邪馬台国は博多
対馬800里
壱岐600里
忘れるな

735:日本@名無史さん
24/03/02 01:58:20.81 .net
博多は2万戸の奴国の中心地
後漢書の倭国の一番南の倭奴国

736:日本@名無史さん
24/03/02 02:01:54.65 .net
朝鮮投馬国も島巡りもトンデモです

737:日本@名無史さん
24/03/02 02:03:27.64 .net
平塚川添の環濠は小さいよ
行ったことあるのかな

738:日本@名無史さん
24/03/02 02:05:06.88 .net
日田よりはデカい

739:日本@名無史さん
24/03/02 02:08:15.92 .net
あくまでも日田は邪馬台国の入り口だよ。

740:日本@名無史さん
24/03/02 02:10:14.33 .net
投馬国の国境を越えるとそこは日田。

741:日本@名無史さん
24/03/02 02:26:16.44 .net
私も甘木あたり邪馬台国はあったと踏んでる。

742:日本@名無史さん
24/03/02 02:29:59.31 .net
甘木あたりと九州最大の外港都市博多は何の関係も無い

743:日本@名無史さん
24/03/02 02:39:43.11 .net
甘木や博多は甕棺文化圏で繋がりは深いURLリンク(i.imgur.com)

744:日本@名無史さん
24/03/02 02:45:05.24 .net
3世紀は首狩り甕棺墓はすでにど没落している

745:日本@名無史さん
24/03/02 02:57:30.31 .net
>>707
甕棺墓が使われなくなったからと言って人種が入れ替わったわけではあるまいに

746:日本@名無史さん
24/03/02 02:58:14.91 .net
>>707
そして畿内式前方後円墳が博多湾岸に現れる

747:日本@名無史さん
24/03/02 03:22:18.67 .net
まだ定型前の模索タイプの前方後円墳

748:日本@名無史さん
24/03/02 03:26:22.32 .net
>>708
北部九州の人種ではなくて、
弥生中期に盛行する屈葬の首狩り甕棺墓は一部の集団で、
優勢な集団が伸展葬の木棺墓、石棺墓集団にに替わるということなんだな
甕棺墓は朝鮮半島西南部の全羅南道では6世紀くらいまで存続する
朝鮮半島南部~西北九州やベトナム中部のサーフィン文化で盛行する甕棺墓は
東アジアで最も古い甕棺墓はカリマンタン島とされている

749:日本@名無史さん
24/03/02 07:06:58.03 .net
久住猛雄氏(福岡市埋蔵文化財課)によると、那珂八幡古墳の造営時期は彼自身の久住編年IB期、215-250年だそうです(『二万余戸の実像 奴国』伊都国歴史博物館 2021年)。
URLリンク(i.imgur.com)

750:日本@名無史さん
24/03/02 07:15:46.33 .net
>>712
お墓しか語るものが無い時点で、脱落。   @阿波

751:日本@名無史さん
24/03/02 07:40:32.87 .net
九州説て投馬国が比定できないよね 
女王国より北で船で行く5万戸の大都市

752:日本@名無史さん
24/03/02 07:41:43.43 .net
末盧国→伊都国 500里
   伊都国→→→邪馬台国 1500里

753:日本@名無史さん
24/03/02 07:44:04.03 .net
投馬国は日向豊国。

754:日本@名無史さん
24/03/02 07:47:57.27 .net
九州説もう死んでるから

755:日本@名無史さん
24/03/02 07:50:17.5


756:6 .net



757:日本@名無史さん
24/03/02 07:52:17.59 .net
>>718
1万2000里から1万500里を引けばいいだけ

758:日本@名無史さん
24/03/02 07:53:21.88 .net
>>717
畿内説は詐欺だとバレてるよ

759:日本@名無史さん
24/03/02 07:56:15.45 .net
>>719
1万500里の記述もない

760:日本@名無史さん
24/03/02 07:57:57.94 .net
不弥国には岡県に岡田宮があり
投馬国には宇佐がある。
これ神武の東征ルートなり

761:日本@名無史さん
24/03/02 08:02:38.90 .net
>>714
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
筑紫平野の北部

762:日本@名無史さん
24/03/02 08:03:22.14 .net
>>721
URLリンク(cdn.amebaowndme.com)

763:日本@名無史さん
24/03/02 08:11:33.23 .net
筑紫君磐井は卑弥呼など北九州の権力を持った王族の流れだろう

764:日本@名無史さん
24/03/02 08:12:42.96 .net
7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという九州説
古代に九州発達しすぎだろ

765:日本@名無史さん
24/03/02 08:15:19.14 .net
>>726
>7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという九州説
そんな大国が興り得るのは、温暖黒潮太平洋沿岸地域のみ。   @阿波

766:日本@名無史さん
24/03/02 08:18:02.93 .net
筑後 投馬国
熊本 邪馬台国

767:日本@名無史さん
24/03/02 08:19:52.26 .net
延喜式で九州の人口は71万人URLリンク(i.imgur.com)

768:日本@名無史さん
24/03/02 08:21:08.76 .net
・1国の戸数ではなく、ここまでの推計説(筑紫平野は福岡平野より広大、少なくともこの時代は畿内より北九州の方が人口が多かった)
・戸数、里数、日数は10倍説(但し、日数は20ヶ国以上訪問したら、それ位かかるという話も)

>南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌、副官は彌彌那利である。推計5万戸余。
>南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?があり、推計7万余戸。

769:日本@名無史さん
24/03/02 08:21:10.67 .net
>>729
肥後に注目

770:日本@名無史さん
24/03/02 08:21:28.52 .net
>>726
7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという奈良の場所はどこだい?

771:日本@名無史さん
24/03/02 08:22:46.90 .net
魏志倭人伝の行程記事を読む
帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)
ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?筑前国儺県の一部または周辺?)
と進んだ
さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)
邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)
さらに倭の地を巡り歩くこと�


772:ワ千里とある これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう 帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する (一万二千里-七千里=五千里) (続く)



773:日本@名無史さん
24/03/02 08:23:24.37 .net
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符合する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ
地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる
なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離や戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう
実際、これらを大真面目に議論して合理的結論に至った人を私は未だかつて一人も見たことがない

774:日本@名無史さん
24/03/02 08:25:00.19 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

775:日本@名無史さん
24/03/02 08:30:33.25 .net
>>733
「倭国に阿蘇山あり」
倭国は九州全体を


776:指す 女王国が福岡平野&筑紫平野 >女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない。 「遠く絶たっていて」というのは、山で隔絶されているからだろう 北九州、大分、熊本は隔絶されている 筑紫平野の南端に山門の女王山がある 但し、狗奴国(熊本、菊池彦)は有明海を少し南に行けば行ける 帰路は有明海から玄界灘迄「周囲を巡れば5000余里ほどである。」がちょうど当て嵌まる その時に見たのが、「女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り」 本州だろう 「さらに侏儒国がその南にあり、人の背丈は三、四尺で、女王国から4000余里のところである。」 土佐の小童伝説だろう 山門より4000余里も当て嵌まる



777:日本@名無史さん
24/03/02 08:35:08.92 .net
魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記の小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する
では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する
(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)

778:日本@名無史さん
24/03/02 08:35:19.55 .net
>>736
そのコースだと倭種国は見えないよ
大分まで出ないと本州四国は見えない

779:日本@名無史さん
24/03/02 08:36:49.60 .net
「侏儒(しゅじゅ)国」を探し求めて、高知県は土佐清水市、足摺岬まで
URLリンク(blog-imgs-95.fc2.com)

780:日本@名無史さん
24/03/02 08:38:03.14 .net
本州は玄界灘から見えるが

781:日本@名無史さん
24/03/02 08:38:55.41 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)
考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている
例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)

782:日本@名無史さん
24/03/02 08:39:34.29 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

783:日本@名無史さん
24/03/02 08:40:03.25 .net
>>740
帰路のどこから?

784:日本@名無史さん
24/03/02 08:48:53.24 .net
九州に大きな権力はなかった
そういうことだ

785:日本@名無史さん
24/03/02 08:49:41.47 .net
>>743
URLリンク(lh3.googleusercontent.com)

786:日本@名無史さん
24/03/02 08:51:16.33 .net
>>744
委国というのは属国という意味だからな

787:日本@名無史さん
24/03/02 08:53:09.90 .net
北九州市は陸では行けない
有明海から倭国を周回しようとすると、本州が見えた
菊池川(菊池彦)下流の有明海から本州が見えるところまで5000里はぴったりと合う

788:日本@名無史さん
24/03/02 08:53:42.28 .net
阿波説だと狗奴国はどこになるん?

789:日本@名無史さん
24/03/02 08:54:22.91 .net
>>732
投馬国(於投馬)=出雲~中国地方一帯
邪馬台国=大和~近畿一帯
斯馬国(志摩)・巳百支国(伊吹)・伊邪国(伊賀・伊勢)・都支国(土岐)
弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国
姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国
鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国
躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)
奴国(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・鬼怒・毛野)=東海道~北関東一帯
古代大陸人の日本地理観
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(blog-imgs-127-origin.fc2.com)
隋書倭国伝
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
(都はヤマト、魏志でいうところの邪馬台国なり)

790:日本@名無史さん
24/03/02 08:54:52.11 .net
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる
次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと�


791:jは考古学的にも裏付けられる (続く)



792:日本@名無史さん
24/03/02 08:55:18.44 .net
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ
「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ

793:日本@名無史さん
24/03/02 08:57:25.35 .net
妄想乙


 

794:日本@名無史さん
24/03/02 08:58:32.31 .net
>>745
帰路で関門海峡に行く必要はないだろ

795:日本@名無史さん
24/03/02 08:59:47.69 .net
>>749
また朝鮮人の合成図を出すアホ

796:日本@名無史さん
24/03/02 09:01:08.41 .net
畿内説がまた詐欺してる

797:日本@名無史さん
24/03/02 09:03:05.23 .net
>>752
君の脳の「バカの壁」が客観的事実や合理的解釈を受け入れられないのだろう
可哀想に

798:日本@名無史さん
24/03/02 09:05:48.94 .net
崇神天皇の母親は饒速日を祖とする物部氏なんだよな

799:日本@名無史さん
24/03/02 09:06:34.03 .net
つまり畿内説がいうには、
倭人伝のあらかたは信用できないが、
1万2千里の大和に邪馬台国が有ったという、天の声だけは信じる天里教。

800:日本@名無史さん
24/03/02 09:19:15.26 .net
>>749
朝鮮投馬国レベルの話になってきたな

801:日本@名無史さん
24/03/02 09:27:17.97 .net
>>753
>>747

802:日本@名無史さん
24/03/02 09:27:40.77 .net
>>748
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。   @阿波   

803:日本@名無史さん
24/03/02 09:31:15.94 .net
太陽の出る方角だから南と東を間違えるわけない
但し、数字に関しては、里、戸、日ともにアバウトである
その証拠に、1000余里渡ると対馬国 1000余里渡ると一大国 1000余里渡ると末廬国
これらの距離は実際は違う
特に、末廬国までは半分ぐらいである

804:日本@名無史さん
24/03/02 09:33:40.09 .net
>>760
関門海峡に行く必要が無いし、関門海峡付近はなんと言う国なんだい?

805:日本@名無史さん
24/03/02 09:45:04.04 .net
>>762
日の出の時に太陽が真東から出ても、方角はすぐさま南へ傾く。
顔を洗った頃には東南東、9時には東南、12時には南だ。方角を定める役には立たぬ。
壱岐から末盧国は1000里の半分といっても、それは呼子とみるからだ。
唐津湾内の松浦川をさかのぼった、久里双水古墳辺りの淡水の港(津)が停泊港、
四捨五入すれば1000里、伝は正確に書いている。。

806:日本@名無史さん
24/03/02 09:45:55.99 .net
>>763
周回したのだから行く必要も何も無い

807:日本@名無史さん
24/03/02 09:47:01.40 .net
>>764
だとしたら、宇美から山門の1300里はもっと正確過ぎる

808:日本@名無史さん
24/03/02 09:48:26.20 .net
対馬から南に行くと一支があると書かれた以上どうしようもない
対馬の南に一支がくるところまで地図を傾けるしかない

809:日本@名無史さん
24/03/02 09:49:28.43 .net
>>765
周回したと言うのなら行ったと言う事だろう

810:日本@名無史さん
24/03/02 09:52:58.78 .net
>>766
唐津から宇美までが方角も里もハチャメチャ、
唐津からは東南、つまり佐賀平野だ。

811:日本@名無史さん
24/03/02 09:55


812::09.70 .net



813:日本@名無史さん
24/03/02 09:58:23.67 .net
>>766
戦前の佐賀は旧制高等学校だった。だが博多は九州帝国大学だった。、
だから倭人伝論争も、佐賀を軽蔑して、博多尊重の今に至っているのだ。オメもそのクチ、

814:日本@名無史さん
24/03/02 10:03:01.02 .net
女王国は佐賀と二分している
URLリンク(cdn.amebaowndme.com)

815:日本@名無史さん
24/03/02 10:09:00.40 .net
>>770
>忌部は天皇家と近しいと言うが
忌部とは限らない。
讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。   @阿波

816:日本@名無史さん
24/03/02 10:12:35.10 .net
>>773
今上天皇の直系の先祖は誰かと聞いている

817:日本@名無史さん
24/03/02 10:14:50.81 .net
>>774
分かるか、アホ! 興味もない。   @阿波

818:日本@名無史さん
24/03/02 10:15:53.27 .net
つまり畿内は東の倭種の国確定ですよと

819:ネトウヨボクメツ隊!
24/03/02 10:15:54.20 .net
百田とか竹田宮とか渡邉とかは九州説なんだよな
あれ?あれれ?
ネトウヨはなんでみんな九州説なの?

820:日本@名無史さん
24/03/02 10:18:15.38 .net
>>774
●が天皇でない皇族で、現在の皇室に血筋がつながる人物です。
○数字は北朝の天皇です。
1神武天皇……(全て直系)……12景行天皇―●倭建命―14仲哀天皇―15応神天皇
―●稚淳毛二派皇子―●意富富杵王―●乎非王―●彦主人王―26継体天皇―29欽明天皇
―30敏達天皇―●押坂彦人皇子―34舒明天皇―38天智天皇―●施基皇子―49光仁天皇
―50桓武天皇―52嵯峨天皇―54仁明天皇―58光孝天皇―59宇多天皇―60醍醐天皇
―62村上天皇―64円融天皇―66一条天皇―69後朱雀天皇―71後三条天皇―72白河天皇
―73堀河天皇―74鳥羽天皇―77後白河天皇―80高倉天皇―82後鳥羽天皇―83土御門天皇
―88後嵯峨天皇―89後深草天皇―92伏見天皇―93後伏見天皇―①光厳天皇―③崇光天皇
―●伏見宮栄仁親王―●伏見宮貞成親王―102後花園天皇―103後土御門天皇
―104後柏原天皇―105後奈良天皇―106正親町天皇―●誠仁親王(陽光院)
―107後陽成天皇―108後水尾天皇―112霊元天皇―113東山天皇―●閑院宮直仁親王
―●閑院宮典仁親王(慶光天皇)―119光格天皇―120仁孝天皇―121孝明天皇
―122明治天皇―123大正天皇―124昭和天皇―125今上(現在の天皇陛下)

821:日本@名無史さん
24/03/02 10:19:08.88 .net
>>776
倭種は山口県の事
畿内まで行ったという記述が無い

822:日本@名無史さん
24/03/02 10:20:05.75 .net
>>770
>忌部は天皇家と近しいと言うが
忌部とは限らない。
讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。   @阿波

823:日本@名無史さん
24/03/02 10:22:16.81 .net
>>778
その中に忌部氏に繋がる人はいますか?

824:日本@名無史さん
24/03/02 10:24:31.52 .net
阿波は解答不能だったか

825:日本@名無史さん
24/03/02 10:25:52.68 .net
>>781
「仮称忌部


826:一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、 残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 物部氏の衰退後から、忌部氏が歴史に登場し始める。   @阿波



827:日本@名無史さん
24/03/02 10:26:38.74 .net
>>779
魏は畿内の事を全く知らないね。

828:日本@名無史さん
24/03/02 10:28:44.21 .net
>>762
海峡の幅は歩測や紐で実測出来ないから一律に1000里としてるな。

829:日本@名無史さん
24/03/02 10:30:18.39 .net
>>759
そこまで高いレベルの話ではないな。

830:日本@名無史さん
24/03/02 10:35:54.44 .net
ウヨとかサヨとか関係なく、関西人以外の日本人の多くは九州説
URLリンク(j-town.net)

831:日本@名無史さん
24/03/02 10:39:12.52 .net
阿波の忌部は偽皇室だったのか

832:日本@名無史さん
24/03/02 10:42:22.36 .net
>>778参照
URLリンク(www.kunaicho.go.jp)

833:日本@名無史さん
24/03/02 10:43:14.73 .net
>>788
飛騨王朝みたいなもんだろ
王朝は奈良一つじゃないのだから

834:日本@名無史さん
24/03/02 10:50:48.01 .net
今上は神武73世である

835:日本@名無史さん
24/03/02 10:52:56.94 .net
>>790
阿波説だと7世紀まで阿波が王都だと言い張っているよ

836:日本@名無史さん
24/03/02 10:55:01.02 .net
>>724
方300里、400里がない。
倭人伝記述、無視している。

837:日本@名無史さん
24/03/02 10:56:18.19 .net
>>779
山口県まで行った記述はない

838:日本@名無史さん
24/03/02 11:01:58.92 .net
邪馬台国まで万二千餘里の記述はない。
女王国までが万二千餘里。
奴国の南に狗奴国。

839:日本@名無史さん
24/03/02 11:02:53.87 .net
朝鮮投馬国がいます

840:日本@名無史さん
24/03/02 11:08:50.37 .net
>>795
邪馬壱国の南が狗奴国
奴国と狗奴国の間には傍国がある

841:日本@名無史さん
24/03/02 11:11:34.82 .net
>>796
ひとりごと?

842:日本@名無史さん
24/03/02 11:11:35.72 .net
>>729
北半分が邪馬壱国7万戸(約35万人)で南半分が狗奴国だな。

843:日本@名無史さん
24/03/02 11:14:39.80 .net
孝謙天皇は藤原不比等の孫(聖武天皇)と子供(光明子)の子供だから凄いと思うわ

844:日本@名無史さん
24/03/02 11:17:26.19 .net
>>797
平行線だな。ボツ
奴国の南に狗奴国。
其餘旁國遠絶 不可得詳
方角の記述はない

845:日本@名無史さん
24/03/02 11:21:52.12 .net
>>801
壱岐から海渡、東千里、倭種は
福津、宗像方面(傍国の一部)
奴国の南に狗奴国だよな。
投馬国、邪馬台国、傍国の一部は半島、九州以外ですね。

846:日本@名無史さん
24/03/02 11:34:19.80 .net
畿内説は三世紀初めには九州から近畿まで西日本をおおうように倭国があったとし、その政治的中心は纒向であったとする。
しかし、倭の五王は彼らの時代になってから衆夷=九州を制したという。
つまり、畿内説がいう西日本をおおった倭国など卑弥呼の時代にあるわきゃーないのである。

847:日本@名無史さん
24/03/02 11:45:34.33 .net
>>802
奴国の南に狗奴国のみ一致だ。
伊都国から邪馬台国の千五里はボツ
投馬国は半島以外

848:日本@名無史さん
24/03/02 12:04:54.32 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

URLリンク(stat.ameba.jp)






.

849:日本@名無史さん
24/03/02 12:27:05.65 .net
>>803
卑弥呼の時代はないが
イヨトヨの時代はある

850:日本@名無史さん
24/03/02 12:33:52.46 .net
>>799
奈良時代は魏志倭人伝の時代の五百年後ですけど

851:日本@名無史さん
24/03/02 13:47:27.31 .net
阿波より先にアニメ化来たぞw

<サイエンスSARU×MBSオリジナルショートアニメ大作戦!>
オオクニヌシとスクナビコナ
URLリンク(tver.jp)

852:日本@名無史さん
24/03/02 14:12:00.43 .net
【画像】奈良時代の大阪あたりの地図がこれ。河内湖がすごい [455830913]
スレリンク(poverty板)

853:日本@名無史さん
24/03/02 14:37:14.76 .net
ヤマト王権って白村江の戦いにドー関わっていたと言うんだ?
ヤマトは「ウチは倭国ではなく『日本国』ですから」って立場でその後も遣唐使を再開させてるじゃないか。
「白村江の戦いは別の王朝(倭国)がやったこと」で「吾、関せず(全く関係ない)」じゃないか!
白村江の戦いで大敗したのは別に「九州王朝が、、、」と言うつもりはないけどヤマトとは違う倭国の勢力圏が有ったんだろう。
つまりソレこそが邪馬台国の流れを組む倭国の本流だ。
敗戦後、壊滅した「倭国(邪馬台国)」」に代わって「日本国」を名乗るヤマト王権が全国を支配するに至った、、、
勢いに乗る中国の日本への更なる侵攻を恐れた出雲や吉備などの各勢力はヤマトに追従した。
「我々は倭人ではなく日本人ですから」と赤の他人のふりw

854:日本@名無史さん
24/03/02 14:47:43.91 .net
>>810
>遣唐使を再開させてる
そりゃ、倭国(阿波)からの避難疎開遷都が完了したからさ。   @阿波

855:日本@名無史さん
24/03/02 14:49:11.11 .net
白村江の戦いの前に建てたのが朝倉橘広庭宮

856:日本@名無史さん
24/03/02 14:50:32.41 .net
>>812
>朝倉橘広庭宮
橘といえば、温暖「阿波」   @阿波

857:日本@名無史さん
24/03/02 14:51:56.33 .net
>>812
>朝倉橘広庭宮
広い庭に「橘」がいっぱいあったんだろう。   @阿波

858:日本@名無史さん
24/03/02 14:53:45.33 .net
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  @阿波

859:日本@名無史さん
24/03/02 14:58:36.53 .net
戦前の佐賀は旧制高等学校だったが、博多は明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝に明記されてる「末盧国東南陸行佐賀平野を疎んじ、
糸島イト国だの、博多奴国だの、宇美不彌国だのと、旧帝中心の流れになっているのだ。

860:日本@名無史さん
24/03/02 15:33:36.65 .net
京都帝国大学の内藤、東京帝国大学の白鳥
系譜からの脱却だな。
卑弥呼(女王国)と邪馬台国の分離が主流になりそう。

861:日本@名無史さん
24/03/02 15:40:58.53 .net
お前だけだろw

862:日本@名無史さん
24/03/02 15:47:08.94 .net
>>817
古荘さんの思考に近い

863:日本@名無史さん
24/03/02 15:49:55.11 .net
>>801
奴国も傍国も邪馬壱国の内部の話
傍国は邪馬壱国の南部諸国で話を聞いてだけの国
邪馬壱国の南に狗奴国。
>>817
公孫氏時代に伊都国、奴国、不弥国の事を女王国と呼んでいた
邪馬壱国は正始元年(240)に倭を訪れた梯儁が北部九州地域の国を指して読んだ名称だ。

864:日本@名無史さん
24/03/02 15:53:06.30 .net
朝鮮投馬国

865:日本@名無史さん
24/03/02 15:54:33.66 .net
朝鮮に投馬国が在ったら都合が悪いのか?
貴方は半島人ですか?

866:日本@名無史さん
24/03/02 16:02:08.67 .net
つまり畿内説は違う地球の話をしているぞと

867:日本@名無史さん
24/03/02 16


868::03:17.30 .net



869:日本@名無史さん
24/03/02 16:18:29.39 .net
>>824
魏志倭人伝には梯儁の報告書を基に朝鮮半島南部地域に投馬国、北部九州地域全体が邪馬壱国と書いてある。

870:日本@名無史さん
24/03/02 16:32:54.67 .net
馬韓伝記載の大木を立てる糸島と博多を中心とした奴国は文化が違う
3世紀前半の博多は畿内と葬制を共有する政治連合
糸島は非倭人の小隷属国

871:ネトウヨ撲滅隊!
24/03/02 16:37:20.40 .net
ヤマト王権の文化は纏向遺跡に始まる
この纏向の支配層は九州や吉備からやってきた外来者であった
纏向遺跡内にあり王家の宗廟と推測されている最古の墳墓が纏向石塚古墳である
オレはこの古墳の被葬者が記紀の神武天皇伝説のモデルになったヤマト王権の初代王であると考える
畝傍山の東北にある所謂「神武天皇陵」は飛鳥時代の何処かで作られた参り墓だろう
当時のヤマト王権では初代王の墓所に関する伝承が失われていたために祭祀用の墓が倭京や藤原京の宮廷から歩いていける場所に設けられたと考えられる
古事記の太安万侶の墓も実物が発見されており、今に伝わる太安万侶墓は参り墓だったことが分かっている
このように参り墓と埋め墓は混同されて後世に伝わっていく
宮内庁が欠史八代の墓として治定している墳墓?も恐らくは参り墓で、崇神以前の王陵の実物は纏向勝山や東田大塚やホケノ山といった古墳が該当するのだろう

872:ネトウヨ撲滅隊!
24/03/02 16:43:59.50 .net
今の日本では建国記念日を紀元前660年2月11日と定めてネトウヨは素直にこれを信じている
これは明らかに間違いであり、卑弥呼が即位した西暦188年の正月に変更するべきである

873:日本@名無史さん
24/03/02 16:53:22.83 .net
持統天皇 689年に日本最初の律令「飛鳥浄御原(きよみはら)令」
>>828
賊軍なのにか?
女山(ぞやま)の眼下に広がるみやま市はかつて山門(やまと)郡とよばれていました...
史書によれば この地は二度も 大和朝廷の征伐に遭っています
最初は景行天皇(12代)の九州巡幸のとき
南筑明覧という江戸時代の地誌に 「この地の女酋 葛築目(玖津女:くずちめ)が
勅命に従わないため景行天皇に征せられた」 という古老の話が載っています
二度目は神功皇后(14代仲哀天皇妃)の熊襲征伐のとき
日本書紀に...
「山門郡(やまと:今のみやま市と柳川市)の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が
仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた」
「田油津媛には夏羽という兄がいたが 夏羽率いる軍は妹の死を聞いて逃亡した」
という記載があります

874:日本@名無史さん
24/03/02 17:04:01.22 .net
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了
解散!

875:日本@名無史さん
24/03/02 17:04:22.24 .net
>>825
書いてねえよ
九州説って嘘つきだな

876:日本@名無史さん
24/03/02 17:04:33.89 .net
西暦238年=開花32年

877:日本@名無史さん
24/03/02 17:30:36.87 .net
>>831
東夷伝では
馬韓54国列記 10万戸
弁辰韓24国列記 5万戸
邪馬台国21国列記 7万戸
で、書式が統一してるかと?
瀬戸内海~奈良まで行ったら
30万戸超えるかも?

878:日本@名無史さん
24/03/02 17:42:30.32 .net
北九州だけここまで詳しく描いて、畿内は邪馬台国一国だけ?

対馬国 大官は卑狗、副官は卑奴母離。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。
山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
一大国 官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。
3000許りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
末廬国 4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
伊都国 長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚。1000余戸が有る。世、王が居た。
皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
奴国 長官は?馬觚、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。
不弥国 長官は多模、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。

879:日本@名無史さん
24/03/02 17:54:21.22 .net
伊都国の隣の国名有って、
その後
船で30泊寄港して国内官名無いとか
同じ記録の訳無いだろ?

880:日本@名無史さん
24/03/02 17:59:48.40 .net
>>834
>北九州だけここまで詳しく描いて
北部九州は2万戸の奴国以外は小さい国だから

881:日本@名無史さん
24/03/02 18:00:03.19 .net
10倍説なら計6日、そのまま読むと計2ヶ月
6日なら全国訪問出来ない、2ヶ月なら十分
宇美が福岡平野の北東にあって、そこからは主に福岡平野の各国を訪問して投馬国へ
そこから筑紫平野の各国を訪問して最南端の山門国へ
といったところだろう

882:日本@名無史さん
24/03/02 18:08:17.57 .net
倭地(=女王を共立した倭人の国々)に至る手前の5千里までには、
或いは絶へ(離島)、或いは連なり(官無末盧国や隷属国)が有り、
女王国は全体の風習、産物として書かれている

883:日本@名無史さん
24/03/02 18:09:56.65 .net
山門あたりは特に何もないから捨てられた土地だろう

884:日本@名無史さん
24/03/02 18:11:18.67 .net
明治天皇は、真正の睦仁親王ではないから、
明治天皇以下、今上陛下の直系の先祖は誰か分かりませんね。
当然、皇族では有るでしょうから、
行き着くところは神武天皇でしょうけどね。
そこから上の、邪馬台国の人物は、
誰になるんでしょうね。
帝だからガド族ですから、
ユダ族のソロモンではありません。

885:日本@名無史さん
24/03/02 18:11:53.65 .net
talk 宗教板 てす★3スレにいます
裏天皇

886:日本@名無史さん
24/03/02 18:11:55.33 .net
>>839
邪馬台と発音ぜんぜん違うしな

887:日本@名無史さん
24/03/02 18:16:13.94 .net
邪馬臺(ヤマダ)

888:日本@名無史さん
24/03/02 18:17:15.47 .net
>>837
>10倍説なら計6日、
小さすぎる九州に収めたいので無理を重ねる九州説
無駄な足掻きが見てて恥ずかしい

889:日本@名無史さん
24/03/02 18:18:55.35 .net
里数も過大、戸数も過大、しかし日数だけは正確だと根拠なく言い張る畿内説
さくらんぼ詰みすぎ

890:日本@名無史さん
24/03/02 18:19:32.57 .net
一里は435メートルと決まってる
そして帯方郡(楽浪郡の可能性もあり)から12000里に女王国はあった。
当時の中国は直線距離を算出する高度な技術を持っていた。
となると候補地は二つ。
ジャワ島かパプアニューギニである。
どちらかと言うとジャワ島説が有利だろう。

891:日本@名無史さん
24/03/02 18:22:49.37 .net
1里432メートルだと言い張って崩壊する畿内説URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

892:日本@名無史さん
24/03/02 18:23:43.92 .net
里数は誤魔化せない
しかし、戸数は10倍説が自然でしょう

弥生時代の日本列島の人口が100万人もいない

893:日本@名無史さん
24/03/02 18:25:48.68 .net
畿内説は百襲姫を卑弥呼に比定して、その墓を箸墓としているようだね。
でも、日本書紀を読んでも百襲姫が魏に使いを派遣したとか、金印をもらった(献上された)とか、狗奴国と争ったとかの記録はないよね?
卑弥呼と結びつける記録が何一つとしてないんだけど、畿内説の人はどう考えてんの?

894:日本@名無史さん
24/03/02 18:29:09.72 .net
モモソヒメは日本書紀と古事記でも整合しない

895:日本@名無史さん
24/03/02 18:29:47.75 .net
投馬国であるが、三潴は水間で、筑後川が作った湿地の中の少し高い場
所と思われ、三潴の「潴(づま)」が「投馬」に通じることと、上・下妻郡の「妻
(づま)」が「投馬」に通じることから、この辺り一帯が投馬国ではなかったかと
思われる。また、投馬国は官職にもあるように頭に「み」の字を使うこと好きで
あり、この辺りに御笠郡、御原郡、御井郡、三潴郡、三池郡などと頭に「み」が
付く地域が多く残っていることからすると、これらの地域を含んでいた時期もあ
ったのではないかと思われる。

896:日本@名無史さん
24/03/02 18:33:40.53 .net
>>851
筑後平野で12万戸は無理でしょ

897:日本@名無史さん
24/03/02 18:35:23.53 .net
倭語は語頭に濁音が来ることはない。
投馬国は、語頭が濁るので、倭語による国名ではあり得ない。 
縄文語(アイヌ語)か韓系言語かツングース語のどれかと関係あるんだろ

898:日本@名無史さん
24/03/02 18:39:40.38 .net
>>852
累計でしょう

投馬国に至る。推計5万戸余。

女王の都のある邪馬台国に至る。推計7万余戸。

899:日本@名無史さん
24/03/02 18:43:14.16 .net
筑紫平野て今も何にも無いぞ
大きい都市で久留米市(30万人)、佐賀市(23万人)ぐらい

900:日本@名無史さん
24/03/02 18:43:28.86 .net
>>854
伊都国や不弥国の時点で累計になっていないからな

901:日本@名無史さん
24/03/02 18:48:34.68 .net
宇美より南は20数ヶ国を訪問した

宇美から三潴までは山に囲まれた細い土地だから水行がメイン

三潴から山門までは東西に平野部が広がるので陸行がメイン

902:日本@名無史さん
24/03/02 18:49:20.93 .net
>>856
不弥国(宇美)からの南下で20数ヶ国を訪問

903:日本@名無史さん
24/03/02 18:52:17.67 .net
宇美を不弥国とするのが間違いURLリンク(i.imgur.com)

904:日本@名無史さん
24/03/02 18:55:24.39 .net
>>853
九州は半島系の地名が結構あるそうだし
倭人が半島のあちこちに居たように
九州にも半島系のコロニーがあちこちにあって不思議はないな

905:日本@名無史さん
24/03/02 19:00:58.21 .net
九州末盧國で船降りて伊都行っても良いけど
また、末盧國に戻らないと船無いでしょ?

で、日本海で宗像、長門、、、全く国名無し官名無し、
投馬国?出雲。 舞鶴とか上陸地の名前は?

丹後の山越えて京都とか一か月も魏軍が歩けるのか?
日本海から奈良なら琵琶湖ルートだろうけど
迎えが来たとか、そんな話には、なって無いだろ?

畿内説は、ヤマトは奈良ってだけで
歴史と地理と文献には無関係。

なんで日本の女王が帯方郡の役人に
奈良の南の国との戦争手伝ってもらうよ?

906:日本@名無史さん
24/03/02 19:03:32.48 .net
>>820
ボツですね。
旧唐書 倭国条
邪馬台国の記述はない。

907:ネトウヨボクメツ隊!
24/03/02 19:06:33.32 .net
九州にはバルの付く地名が多い
これは韓人集落があった事を示している

天皇家が故郷としているヒムカは恐らく伊都国だろうが、その中心地域は筑前前原であり、ここもバル地域となっている
ヤマト以前のヒムカの時点で既にこの国の王家は韓人との強力なつながりを持っていたのである

日本書紀でもニニギは韓国に向かう良い土地としてヒムカに降臨している
ネトウヨが思っているよりも遥かに日本は韓国と深いつながりを持っているのである

908:日本@名無史さん
24/03/02 19:08:01.85 .net
舊唐書は編集がいい加減な文献だからね

909:日本@名無史さん
24/03/02 19:11:35.93 .net
不彌国はトヨタマヒコの国

多模 = 多くを模する = 玉造

トヨタマヒコと
玉祖命こと豊玉神が同一人物かは不明だが
宇美と防府で地理的には一致

910:日本@名無史さん
24/03/02 19:13:22.58 .net
奴国の南に狗奴国。
奴国、傍国、投馬国、邪馬台国には行っていない。不彌国、奴国でそれぞれ万二千餘里

911:日本@名無史さん
24/03/02 19:16:54.85 .net
九州説は算数のできないノータリンということだな

912:日本@名無史さん
24/03/02 19:21:03.12 .net
縄文時代晩期(2900年前)から弥生時晩期(1800年前)までの1100年間の人口増大、
すなわち「弥生時代人口/縄文時代晩期人口」は、福岡県が66倍、その他の県は4~13倍で、福岡県の人口増大が圧倒的でした。

URLリンク(blog-imgs-129.fc2.com)

913:日本@名無史さん
24/03/02 19:23:31.96 .net
>>851
正解
そして筑後の久留米あたりを投馬国の中心とするなら、距離が近すぎて遺跡でも見劣りする山門説は消える

914:日本@名無史さん
24/03/02 19:24:38.40 .net
伊都国から邪馬台国まで1500里とか
ノータリンだしな。

915:日本@名無史さん
24/03/02 19:25:32.18 .net
山門は女王が都するところで、人口が多かったわけではないのでは

筑紫平野南端の山麓だし、7万戸というのは女王国全体というか、これまで訪問した倭国(半島も含む)の累計

916:日本@名無史さん
24/03/02 19:27:41.20 .net
三潴は筑紫平野の北側に位置し、山門は筑紫平野の南端

筑紫平野は東西に広いので、ここの全国を訪問しようとするとかなりの日数がかかる
1ヶ国あたり、1~2日は滞在するとしても
雨の日は移動しなかったかもしれんし

917:日本@名無史さん
24/03/02 19:29:10.92 .net
方300里、400里を島周りとか書く人も
ノータリンだしな。

918:日本@名無史さん
24/03/02 19:31:37.47 .net
自郡 至 女王國 萬二千餘里
は、間違っている。 これ重要。

倭人伝里で
対馬が女王国なら8000里だし、
九州島が女王国であれば水行里程は計10000里。
さらに、
女王之所都=女王宮迄の陸行一月を加えると
240年梯儁の全行程となり、女王国迄ではなく
卑弥呼に会うまでの旅程が12000里なのである。

陸行一月=2000里は
梯儁と陳寿の共有認識。

919:日本@名無史さん
24/03/02 19:35:44.96 .net
紀元前1年に即位されたのが、懿徳天皇でイザナギ10世にあたる

今上はイザナギ79世

即ち、2019年/69世=29.3年/世

平均して29.3歳で子を産んだ事になる

920:日本@名無史さん
24/03/02 19:38:54.15 .net
倭人伝里なんてものは無い
現代日本人の妄想あるいは都市伝説

それが証拠に
そんなもの誰も算出した人がいない

921:日本@名無史さん
24/03/02 19:44:32.67 .net
倭人伝の1里が432メートルだと言う人はアタオカ

922:日本@名無史さん
24/03/02 19:44:53.56 .net
7万戸より卑弥呼のいた女王国の都が北九州にあったのか、なかったのかが問題で
纏向のあるヤマトより不利になる
無かったのか、見つかっていないだけなのかは、考古学者で


923:ないのでわからない



924:日本@名無史さん
24/03/02 19:46:14.41 .net
吉野ヶ里は都城と言える場所だな

925:日本@名無史さん
24/03/02 19:47:29.23 .net
>>868
宮崎そんな人口いたのか

926:日本@名無史さん
24/03/02 19:48:35.33 .net
戦前の佐賀は旧制高等学校だったが、博多は明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝に明記されてる「末盧国東南陸行(佐賀平野)」を疎んじ、
糸島イト国だの、博多ナ国だの、宇美フミ国だのと、旧帝中心の流れになっているのだな。

927:日本@名無史さん
24/03/02 19:48:54.97 .net
>>876
三国志の韓伝と倭人伝に有るのは事実。
陳寿が共有した理由が解らないだけ。
もちろん私達も、今も版本時の物を読んでいる。
存在した理由が無い、という事が無い。

陳寿が、これを里程として採用したのは
景初から正始年間の公文書からの引用である。

もちろん、韓方可4000里は
後世で改定されなければおかしいが
倭人伝は、当時の記録の引用である。

928:日本@名無史さん
24/03/02 19:49:07.37 .net
>>868
著者って誰?

929:日本@名無史さん
24/03/02 19:52:02.28 .net
投馬国、邪馬台国は半島、九州にはない。
卑弥呼、宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛、冢は九州。

930:日本@名無史さん
24/03/02 19:57:06.79 .net
>>834
>世、王が居た。
>皆、女王国に属する。

「世、王が居た」・・と過去形なら、皆、女王国に属した」・・と、これも過去形だろうね。
つまり、女王卑弥呼の共立以前の後漢時代のこと。


奴国 長官は?馬觚、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。

不弥国 長官は多模、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
0835

931:日本@名無史さん
24/03/02 20:03:09.87 .net
>>882
>三国志の韓伝と倭人伝に有るのは事実。

事実と言いながら証明できないんだから
妄想でしょそれ

932:日本@名無史さん
24/03/02 20:04:32.97 .net
戸と家の違い?
韓伝で書かれている
戸と家の意味が違う?
兵、税の違いとかの説も鵜呑みにはできない。

933:日本@名無史さん
24/03/02 20:05:38.09 .net
>>885
「丗有王(これ・ここに、王有り)」 
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。   

934:日本@名無史さん
24/03/02 20:08:07.67 .net
>>874
>自郡 至 女王國 萬二千餘里
>は、間違っている。

まちがっていないよ。行程記事は卑弥呼が共立女王になる前の時代を書いている。
つまりこの女王国は、卑弥呼がまだ邪馬台国の女王だった時代のこと。
だから、女王国=邪馬台国=1萬二千余里が正解。

935:日本@名無史さん
24/03/02 20:12:07.85 .net
>>876
倭人伝の部分では1里76~80mくらいで書かれていること明白。
「倭人伝里」はなかなか良い表現。ま、公孫里とも短里とも云うけどな。

936:日本@名無史さん
24/03/02 20:16:25.75 .net
戦前の佐賀は旧制高等学校だったが、博多は明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝に明記されてる「末盧国東南陸行(佐賀平野)」を疎んじ、糸島イト国だの、博多ナ国だの、
宇美フミ国だのと、旧帝大中心の流れになっているわけだ。つまり邪馬台国論争の正体は不毛の旧帝論争。

937:日本@名無史さん
24/03/02 20:20:46.77 .net
倭人伝、
主線行程始点の末盧国は、古代遺跡が集中する唐津インター出口の中原の津 →
→ 東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡 →、
… 東南至奴国100里は、傍線行程行き止まりの佐賀城址。
→元の佐賀川上伊都国に戻って、東行100里の不彌国は吉野ヶ里、ここが主線行程の終点。

938:日本@名無史さん
24/03/02 20:21:42.00 .net
「丗有王 皆統屬女王國」
「ここに、王有り  みな、女王国に属し統べる」  だな。   @阿波

939:日本@名無史さん
24/03/02 20:22:22.66 .net
>>889
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。   
萬二千余里から引き算されるとは、陳寿も青天の霹靂だ。   @阿波

940:日本@名無史さん
24/03/02 20:22:35.44 .net
(倭人伝続き)
この終点からは、東至 西至 南至 北至の四至説明となり、以下の南至2国を列記。
→ 南至の投馬国は、宮崎平野5万戸、(自郡至)水行20日。
→ 同じく南至の邪馬台国は、熊本~阿蘇7万戸、(自郡至)水行10日陸行1月。
尚、自女王国以北 其戸數道里可得略載から、里数なき投馬国は女王国の南180?の宮崎平野と確定する。
又、自郡至女王国1万2000里から、主線行程不彌国・吉野ヶ里までの1万600里を差し引けば1400里、
故に、不彌国・吉野ヶ里の南至1400里(約110?)に女王の宮殿城柵があったとなる。
驚くなかれ、そこは、阿蘇高千穂・三田井の天照大御神と日向三代の宮跡!

941:日本@名無史さん
24/03/02 20:37:54.49 .net
>>890
>倭人伝の部分では1里76~80mくらいで書かれていること明白。

言い張るだけで誰も算出してないんだから
妄想なのが明白だね

942:日本@名無史さん
24/03/02 21:20:47.53 .net
>>877
>倭人伝の1里が432メートルだと言う人はアタオカ
罵っても反論にならないよ

943:日本@名無史さん
24/03/02 21:30:39.66 .net
知って下さい!拡散希望
緊急事態条項(改憲)は危険!自〇党の改憲草案97条最高法規は基本的人権の削除 !!
このままでは、国民の人権がなくなります、日本が滅びます!!
URLリンク(twitcasting.tv)

944:日本@名無史さん
24/03/02 22:44:32.39 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)


久 努 国 ( く の の く に )


久 努 国 ( く の の く に )


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

945:日本@名無史さん
24/03/02 23:25:36.92 .net
>>897
倭人伝では1里432メートルは間違いだからな

946:日本@名無史さん
24/03/02 23:29:47.61 .net
>>900
根拠もなく言い張る九州説はインチキ宗教

947:日本@名無史さん
24/03/02 23:34:25.22 .net
魏の時代の1里は1800尺、432メートルとするならば、
里数は10倍、戸数も10倍説が自然でしょう
日数は10倍説なら計6日となる
「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能」とあるので、
20数ヶ国の調査が6日だと足りない気もするが・・・
宇美より南は各国訪問したから日数表記なのだろう

948:日本@名無史さん
24/03/02 23:49:17.87 .net
1里が432メートルで無い事は小学生でもわかるURLリンク(i.imgur.com)

949:日本@名無史さん
24/03/03 00:02:50.24 .net
末盧国から伊都国が500里です。
1里432メートルだと216キロになります。これを見ても432メートルが間違いだとわかります。

950:日本@名無史さん
24/03/03 00:03:12.67 .net
不弥国(福岡県宇美町)から邪馬壹國(山門)までは南行1300里。
実際にも宇美町から山門までは南へ50km程度なので、誤差の範囲でほぼ一致する。

951:日本@名無史さん
24/03/03 00:12:59.56 .net
>>905
宇美は儺県なので奴国だよ

952:日本@名無史さん
24/03/03 00:22:33.76 .net
>>904
>末盧国から伊都国が500里です。
>1里432メートルだと216キロになります。これを見ても432メートルが間違いだとわかります。
九州説信者は知能が低いので500里が間違いということに気づけない
知能低く生まれつくって可哀想

953:日本@名無史さん
24/03/03 00:24:51.21 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

954:日本@名無史さん
24/03/03 00:25:24.50 .net
>>907
それ誰の説?

955:日本@名無史さん
24/03/03 00:27:06.66 .net
チェリーピッキングだらけの畿内説

956:日本@名無史さん
24/03/03 00:34:39.42 .net
畿内説にとって倭人伝は都合の悪い書物です。

957:日本@名無史さん
24/03/03 00:38:14.29 .net
学問の通説畿内説は行程記事で比定をしないので
日数が正確などとは言わない
一人一説雑多九州説は行程記事でどんぴしゃり比定と言いながら
日数はちょろまかすのでそれはおかしいと言っている

958:日本@名無史さん
24/03/03 00:39:16.35 .net
>>907
郡から狗邪韓国 7000里 
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里
これらの行程の全てを間違いとするのか?

959:日本@名無史さん
24/03/03 00:43:17.63 .net
>>912
伊都国から邪馬台国の里数だけちゃっかり使うチェリーピッキングの畿内説

960:日本@名無史さん
24/03/03 00:45:17.12 .net
>>914
学問の通説畿内説では使わない

961:日本@名無史さん
24/03/03 00:51:07.92 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、
検証には用いる

テンプレで「使わない」と書いている

962:日本@名無史さん
24/03/03 00:57:19.16 .net
>>909
>それ誰の説?

通説

963:日本@名無史さん
24/03/03 00:59:03.61 .net
>>913
>これらの行程の全てを間違いとするのか?

そりゃ当然
ひとつでも正しいの、ある?

964:日本@名無史さん
24/03/03 01:14:40.24 .net
>>916
それチェリーピッキングじゃ無いの?

965:日本@名無史さん
24/03/03 01:19:10.19 .net
つまり畿内説は倭人伝無視のトンデモでした

966:日本@名無史さん
24/03/03 01:25:23.45 .net
>>919

「使わない」からピッキングをしていない

967:日本@名無史さん
24/03/03 01:26:31.19 .net
>>919
>それチェリーピッキングじゃ無いの?

当然ちがう
だってチェリーピッキングだって言う理由ないだろ?

968:日本@名無史さん
24/03/03 01:32:40.66 .net
>>921
使わないと言うチェリーピッキングだな

969:日本@名無史さん
24/03/03 01:33:45.65 .net
つまり畿内説はチェリーピッキングのトンデモでした

970:日本@名無史さん
24/03/03 01:35:00.37 .net
>>923

チェリーがないので「使わない」

971:日本@名無史さん
24/03/03 01:40:24.89 .net
>>923
>使わないと言うチェリーピッキングだな

チェリーピッキングって言葉の意味しらないで罵りの言葉として使ってるのかな?
無学な九州説さんらしいね

972:日本@名無史さん
24/03/03 01:49:20.18 .net
畿内説にとって不利な情報は使わないからチェリーピッキングだな

973:日本@名無史さん
24/03/03 01:51:14.17 .net
Wikiより
チェリー・ピッキング(英語: cherry picking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為のことである
まさに畿内説。

974:日本@名無史さん
24/03/03 01:58:05.30 .net
畿内説にとって不利な情報なのではなくて、
倭人伝が行程から推定している「當在会稽東冶之東」という地理観が
日本列島には一致しないので史料批判によって使用しない

975:日本@名無史さん
24/03/03 02:05:07.94 .net
>>929
倭人伝の東が30度ずれているだけだ、会稽の東は九州で問題ない

976:日本@名無史さん
24/03/03 02:06:19.68 .net
一人一説雑多九州説は、行程記事には【南至】というチェリーがあるが
日数や戸数はどうも都合が悪いのでちょろまかそうという
これが「チェリーピッキング」(自説に都合がいいことだけを根拠にする)

977:日本@名無史さん
24/03/03 02:07:43.20 .net
史料批判を否定する九州説は歴史学に反するな

978:日本@名無史さん
24/03/03 02:08:48.45 .net
奈良は7000戸なので問題外

979:日本@名無史さん
24/03/03 02:09:22.92 .net
>>930
中国の�


980:�北は30度ずれないので 倭人伝の東が30度ずれると北側にずれる



981:日本@名無史さん
24/03/03 02:11:14.23 .net
>>930
根拠なく方位をずらすのは詐欺だな
会稽東冶の東だというのは筆者による机上の計算なのだから、東は正しく東でなければならないのに

982:日本@名無史さん
24/03/03 02:13:05.25 .net
>>933
>奈良は7000戸なので
ナンセンスな意見だね
反論にならないよ
畿内説は畿内説なのであって奈良県説じゃないんだから


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