邪馬台国畿内説 Part997at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part997 - 暇つぶし2ch62:狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ! A:定説に従う。  金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。  帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。  二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。 近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。  以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。  楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。   ◆FAQ 63 Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ! A:「古○○也」は政治的連続を表さない。 同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。 唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64 Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!   径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない! A:基礎知識の誤りである。   現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅) 人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)



63:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:45:01.61 .net
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

64:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:45:31.51 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎―黄鐘律管が容積・重量の基準―になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

65:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:46:00.90 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付


66:した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)  乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。 「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。  なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。 ◆FAQ 67 Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!   なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!   倭人伝にある方位に間違いはないのだ! A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。  東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。 松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。  ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)  ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)  ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡) であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。  ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。 また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。 https://i.imgur.com/qfiOJLu.png  因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。  地名が実際の地勢と著しく異なる。



67:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:46:31.07 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

68:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:47:01.14 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華�


69:ホ区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png  魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。  当の唐会要倭国条が 大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。 開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。  を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。



70:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:47:30.96 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

71:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:48:01.43 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

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72:カ駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。 これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。 ◆FAQ 75 Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!   畿内説は皇国史観の徒である! A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。  遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995) 家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。  複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。



73:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:48:31.28 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

74:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:49:01.17 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安~齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

75:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:49:31.40 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

76:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:50


77::01.07 .net



78:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:50:31.21 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

79:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:51:01.27 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

80:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:51:31.37 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺�


81:A斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。 因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。 常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。  類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。 「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。  魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85 Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ! A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。  K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。  庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。 今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006) 4世紀初頭頃の実年代が与えられている。



82:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:52:01.77 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

83:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:52:31.12 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から


84:目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。  また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。  江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。  参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』  https://i.imgur.com/LCI37Lk.png また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。  このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89 Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!    3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな! A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。 3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。 本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。  下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。 ・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。 対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は ・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏 ・中西部瀬戸内が平形銅剣圏 ・東辺が三遠式銅鐸圏 に分裂している。  この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。  夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。 https://i.imgur.com/EXTU3lu.png



85:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:53:01.16 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

86:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:54:02.60 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

87:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:54:32.17 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

88:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:55:02.42 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても


89:普通に食用であった。   「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注   「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注  纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。 ◆FAQ 98 Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない! A:合理的な理由がない。  纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。  一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。 よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。 また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。 よって此の因果関係も求め難い。  纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。 導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。 以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。



90:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:55:32.16 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
URLリンク(i.imgur.com)


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家


91:)  「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。   至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)  「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四) ✳︎茅山:会稽山の別称  秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。  会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。  以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。 「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。 「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。 (参考:FAQ40)



92:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:56:02.29 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 URLリンク(i.imgur.com)
同空撮 URLリンク(i.imgur.com)
建物B空撮 URLリンク(i.imgur.com)
Dより西を望む URLリンク(i.imgur.com)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

93:1 ◆ondZSOlfxeS6
24/02/28 12:56:32.06 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

94:日本@名無史さん
24/02/28 13:06:35.98 .net
1里432メートルだと計算の合わない畿内説URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

95:日本@名無史さん
24/02/28 13:10:15.92 .net
で、纏向の遺物で魏志倭人伝の記述と一致するも


96:のなんてあるの?



97:日本@名無史さん
24/02/28 13:24:40.94 .net
①まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
②次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50㎞)の範囲で、伊都→博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野にいくしかないこと。
③そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(の海上)にあり」とするための方便(蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(架空の女王国)

98:日本@名無史さん
24/02/28 14:40:30.59 .net
つまり畿内説には根拠と言えるものがありませんよと

99:日本@名無史さん
24/02/28 14:48:28.65 .net
アワ国とキビ国があるなら、ヒエ国とコメ国も無ければおかしい。

100:日本@名無史さん
24/02/28 14:51:35.67 .net
万二千里は直線距離で、パプアニューギニかジャワ島にあたる。
つまり、インチキな数字ってこと。
本当は二千数百里と言ったところだろう。

101:日本@名無史さん
24/02/28 15:02:17.00 .net
邪馬台国もインチキだろ

102:日本@名無史さん
24/02/28 15:04:33.65 .net
12000里=900㎞
帯方郡から吉野ヶ里まで900kmでピッタリ!

103:日本@名無史さん
24/02/28 16:11:00.88 .net
本当は二千数百里で、洛陽から帯方郡までの五千里(これもインチキ)を足しても八千里程度。これでは大月氏国までの一万六千里よりも近くなってしまう。そこで万二千里なる数字が出てきた。一里は435メートルなんだからそれじゃあジャワ島まで行っちゃうよ。

104:日本@名無史さん
24/02/28 16:22:15.89 .net
つまり畿内説はインチキ

105:日本@名無史さん
24/02/28 16:41:59.37 .net
洛陽市→ソウル市が1900km(主要幹線道路経由)くらい
420m=1里とすると、約4500里
少しおおげさに言ったとして五千里でいいんじゃね

106:日本@名無史さん
24/02/28 16:57:54.06 .net
82
邪馬台国は中国人らが字(あざな)読みで文献書いたのやろ

107:日本@名無史さん
24/02/28 17:00:32.49 .net
里数の間違いじゃなくて東夷伝の里が432メートルでは無いという事だよ

108:日本@名無史さん
24/02/28 17:00:54.48 .net
実際にその名称の名前の国があったかどおかではなくて中国人らに取ってどんなものか?ってんで名称(状況)を書いてるんだわ
邪馬台から耶麻当に進化したかどおか知らないけどよ
てより繋がりでもあるやたらでないと正確な位置は特定できないだろ
中国でも文献書いたやつらみんなバラバラだぜ

109:日本@名無史さん
24/02/28 17:02:25.45 .net
日本=倭地(漢族が移民してきたとこ)を後世のやつらが邪馬台国と勘違いしている可能性もある

110:日本@名無史さん
24/02/28 17:28:14.75 .net
畿内説は倭人伝の記載で畿内に都合の悪い事は間違いにする。
寺澤薫の読み換えがそれにあたる

111:日本@名無史さん
24/02/28 17:28:47.43 .net
伊都国は第二の帯方郡の役目だった。、
邪馬台国、邪馬国、投馬国、斯馬国は、渡来の馬韓族が建てた入植地の国だった。
それらの国が東遷して、奈良盆地に邪馬台国を移した。ヤマタイ→ヤマト。
奈良はヤマタイ人の理想郷になった。

112:日本@名無史さん
24/02/28 17:30:32.54 .net
>>81
>万二千里は直線距離で、パプアニューギニかジャワ島にあたる。
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
URLリンク(blog-imgs-50-origin.fc2.com)

113:日本@名無史さん
24/02/28 17:32:47.53 .net
>>83
>帯方郡から吉野ヶ里まで900kmでピッタリ!
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
URLリンク(blog-imgs-50-origin.fc2.com)

114:日本@名無史さん
24/02/28 17:34:18.22 .net
阿波説は内乱中w

115:日本@名無史さん
24/02/28 17:44:10.30 .net
>>95
藤井氏も笹田氏も、どっちも実質的には岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」のパクリ。   @阿波

116:日本@名無史さん
24/02/28 17:46:05.70 .net
>>96
日蓮系のカルトの争いに似てきたなw

117:日本@名無史さん
24/02/28 17:47:27.19 .net
なんで  
阿波は小文字?

118:日本@名無史さん
24/02/28 17:50:00.98 .net
畿内説は算数が出来ない、馬鹿だから

119:日本@名無史さん
24/02/28 17:50:46.31 .net
九州説は説得力がない
なぜなら何百年たっても九州説の統一見解が出せないから

120:日本@名無史さん
24/02/28 17:51:42.16 .net
>>100
お前のテンプレだって妄想まみれで矛盾だらけなのによく言うわw

121:日本@名無史さん
24/02/28 17:53:59.62 .net
畿内説は東遷説に舵を切って生き残ろうとしている

122:日本@名無史さん
24/02/28 17:56:49.77 .net
>>101
九州説は証拠を出さない
ウソばかり言ってるから

123:日本@名無史さん
24/02/28 18:00:02.18 .net
>>94
この地図は見飽きたので止めて欲しい。

124:日本@名無史さん
24/02/28 18:01:59.15 .net
>>98
アラシのテンプレと阿波はアボンだがw
小文字?はaaフォントに変換された時の表記。

125:日本@名無史さん
24/02/28 18:02:53.56 .net
卑弥呼は伊都国の南に居た。これが正解

126:日本@名無史さん
24/02/28 18:03:09.53 .net
寺澤は森浩一の、柳田は原田大六の弟子なので、もともと:東遷論者
卑弥呼時代より前に東遷しているから邪馬台国は畿内だという邪馬台国畿内説だ

127:日本@名無史さん
24/02/28 18:05:11.56 .net
>>106
それ、宗


128:教



129:日本@名無史さん
24/02/28 18:05:53.01 .net
寺澤は卑弥呼は伊都国生まれ説

130:日本@名無史さん
24/02/28 18:07:21.36 .net
>>101
誰でも1に見えるのは病気だよ

131:日本@名無史さん
24/02/28 18:07:58.61 .net
邪馬台国と言う国は無い。
240年梯儁は自分が女王宮で和音で参問、
漢字にした21国の邪馬国で卑弥呼の臺を見た。
これは、和音国名では無く表意文字の国名。
帳政と陳寿は女王国と表記している。
梯儁が女王国の仮称を邪馬臺国としたが、
誰にも採用されなかった。
陳寿は、初探検者の意見を尊重して
報告書の漢字で引用した。
廣志では邪馬嘉国
曹操の高楼を意味する臺でなければ
魏晋では、壹でも嘉でも良かったのである。
臺が魏では、絶対的な表意文字なのである。

132:日本@名無史さん
24/02/28 18:08:42.23 .net
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
女王国の北が伊都国です

133:日本@名無史さん
24/02/28 18:08:47.20 .net
度量衡は国家の定めるもの
勝手に地方の郡が短里なるものを使っていたら、国家への反逆となるよ
よって短里などというものはあり得ない
魏晋の一里は434m
これしかない

134:日本@名無史さん
24/02/28 18:09:18.24 .net
>>109
証拠なし
九州説って捏造病だね

135:日本@名無史さん
24/02/28 18:10:23.64 .net
>>103
推古紀裴世清はまだ陸行と信じてるのが証拠だ

136:日本@名無史さん
24/02/28 18:12:00.52 .net
>>113
郡から一里432メートルだと邪馬台国はフィリピンの東になるのでボツ❌URLリンク(i.imgur.com)

137:日本@名無史さん
24/02/28 18:12:33.09 .net
>>103
じゃあ テンプレとアンタの違いがあんのか????

138:日本@名無史さん
24/02/28 18:12:48.14 .net
>>111
>邪馬台国と言う国は無い。
九州説は文献無視だね

139:日本@名無史さん
24/02/28 18:14:00.94 .net
>>113
432Mじゃあなかった????

140:日本@名無史さん
24/02/28 18:14:37.73 .net
>>117
畿内説は九州説と違って一人一説の泡沫説じゃないもんでね

141:日本@名無史さん
24/02/28 18:15:13.08 .net
>>110
初心者なんですが、
キナイコシと奥山は同一人物で>1なんですか?
テンプレはコテハンで、アボンできるのですが?

142:日本@名無史さん
24/02/28 18:16:19.73 .net
>>119
1月里は400m以上で間違いない

143:日本@名無史さん
24/02/28 18:16:53.04 .net
>>114
寺澤は卑弥呼東遷説なのを知らないアホがいます

144:日本@名無史さん
24/02/28 18:17:11.06 .net
>>114
あんたが適任だ
纏向で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記せよ
こないだの奴は弱っちすぎてダメだったWw

145:テンプレが泣いている
24/02/28 18:18:44.90 .net
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

146:日本@名無史さん
24/02/28 18:19:08.09 .net
ジャワ島→ジャワト→シャワト→ャワト→ヤマト
もう分かったよな

147:日本@名無史さん
24/02/28 18:20:05.18 .net
>>121
全1病といわれる追跡妄想を病んだ人がめちゃくちゃ言ってるだけ
畿内説は一人しかいない、九州説が多数派だ.--という妄想に取り憑かれてる可哀想な人だよ

148:日本@名無史さん
24/02/28 18:20:44.45 .net
つまり畿内説はガセでしたと

149:日本@名無史さん
24/02/28 18:21:37.71 .net
>>124
反論出来ずにチェンジ要求する負け組九州説

150:日本@名無史さん
24/02/28 18:22:08.62 .net
>>120
畿内説は上意下達か???
宗教界な

151:日本@名無史さん
24/02/28 18:22:23.52 .net
桃の匂いはラクトンなんだ
ラクトンは女子高生の匂いなんだ
桃を常食していた卑弥呼は女子高生の匂いのするおばあちゃんだったんだ

152:日本@名無史さん
24/02/28 18:23:06.58 .net
ヤマト王権と関わりが深い遺跡は纏向ではなく、これだ
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末~5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
URLリンク(www.sankei.com)

153:日本@名無史さん
24/02/28 18:23:56.32 .net
>>123
九州説はウソつきだという証拠
また出ました

154:日本@名無史さん
24/02/28 18:25:11.81 .net
1里432メートルだと、郡から南に4000里行っただけで1728キロです。畿内説は破綻していることがわかります

155:日本@名無史さん
24/02/28 18:26:40.94 .net
>>113
郡使、帳政の作った報告書を陳寿が採用して、
後世で版本にもなっているんだが?
倭人伝の景初~正始年間で
公文書が短里で書かれる可能性が有る。
三国志のスケールでは、陳寿には短里は有り得ないので、
景初~正始年間の何かの原因、意外で陳寿は短理を採用しないと思うぞ。
韓方可4千里は修正不能な
中国史の永遠の間違いなんだが?
倭人伝では中華は韓の属国ニダ、とかなwww

156:日本@名無史さん
24/02/28 18:26:56.39 .net
>>133
おまえは寺澤の「卑弥呼とヤマト王権」を読んで無いだろ

157:日本@名無史さん
24/02/28 18:41:47.23 .net
>>113
>魏晋の一里は434m
「魏志倭人伝」は西晋時代。 西晋が短里を採用していたってこと。   @阿波

158:日本@名無史さん
24/02/28 18:43:42.94 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)ことの合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離�


159:竚ヒ数が不自然なまでに誇張されていたのだ このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する



160:日本@名無史さん
24/02/28 18:50:24.00 .net
>>121
>キナイコシと奥山は同一人物で>1なんですか?

>>1=奥山=キナイコシで良いですよ
まず キナイコシですが 
畿内説=kinaisetu を sをぬかして
kinaietu=畿内越 となったからキナイコシと呼ぶようになった
奥山は以前>>1のトリが>>1=1#okuyamaとばれたから奥山
いまはトリを変えてる

161:日本@名無史さん
24/02/28 18:51:32.60 .net
公孫氏が自分を大きく見せようとして何倍にも盛ったのかもしれん
その結果、東夷全体で見れば中華に匹敵するデカさになった

162:>>1=キナイコシ=奥山
24/02/28 18:52:49.03 .net
まず キナイコシですが 
畿内説=kinaisetu を sをぬかして
kinaietu=畿内越 となったから「キナイコシ」と呼ぶようになった
奥山は以前>>1のトリが>>1=1#okuyamaとばれたから「奥山、いまはトリを変えてる

163:日本@名無史さん
24/02/28 18:57:02.95 .net
公孫氏時代の倭との外交文書なんて無いだろ?
倭には国体が無いし、地域有力者と交流しただけ。
壱岐、対馬は、日本海ルート、も
九州なら、熊本天草五島、宮崎、薩摩ルート、も一緒。
脱税だからなwww てか、放置なんだよ。

164:日本@名無史さん
24/02/28 18:59:38.19 .net
後漢の時代には30国からなる倭国を統べる大倭王が朝貢していた記録がある
卑弥呼の時代には東夷からの朝貢は公孫氏によって途絶させられていたが
だからと言って東夷各国が朝貢しなかったとは思えない
朝貢先が中華王朝から公孫氏にすり替わっていただけ

165:日本@名無史さん
24/02/28 19:09:38.25 .net
>>141 139
ご教示、ありがとうございます。
スレ主はキナイコシとか奥山で、
認定されて、反論されていて
スレ内では名無しで、根拠なし、とか、
アラシ系レスで反論してる?
で、良いですか?

166:日本@名無史さん
24/02/28 19:14:08.89 .net
上古音により近い発音から推測して、「投馬」国のことを「ツマ」国と解釈して、投馬国=出雲国説を提唱したい。
イツモの「イ」は母音の発語、音が軽いから自然に省かれる。
「マ」と「モ」は同類音で相通ずるから、出雲と投馬両国名は全く一敦する可能性が高い。
この場合、魏志倭人伝に出てくる投馬国、邪馬台国までの水行を日本海沿岸航路と解釈していくことになる。
「投馬」国のことを「ツマ」国として、投馬国=出雲国とするのには、他にいろいろ要因がある。
宋版「大平御覧」の「倭人伝」では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。
今日、出雲の人は出雲を「エヅモ」となまって言うから、 この時代もそうで、中国人はそれを聞き取ったのかもしれない。
また、投馬国の官名が異彩をはなっているのも注目だ。
彌彌(ミミ)と彌彌那利(ミミナリ)である。
実は、この「ミミ」がつく名称は、記紀では、出雲系や神代系に多く登場する名前である。
これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる。
出雲神話は、日本神話の中での比重が高かったりし、古代から日本海航路の重要な港として栄えた地である。
人口が5万余戸や、中世以降の諸侯の勢力範囲から想像して、魏志倭人伝の時代の出雲の勢力は、出雲、石見、伯耆、因幡などの山陰地方の大半を勢力圏としていたのかもしれない。

167:日本@名無史さん
24/02/28 19:18:20.46 .net
邪馬台国=大和で、
周辺国もおおよそ比定できる
このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。
そこで、それらを列挙すると、斯馬国(志摩)・巳百支国(�


168:ノ吹)・伊邪国(伊賀)・都支国(土岐)・弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国・姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)・奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる (魏志倭人伝)



169:日本@名無史さん
24/02/28 19:19:02.23 .net
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏

170:日本@名無史さん
24/02/28 19:19:32.39 .net
>>143
倭王は、漢と三国分裂の魏の違いが判らないのか?
246年は遼東は呉が入って魏は火の車だぞ?
倭の五王は南朝に高句麗との交戦権を求めた。
倭人伝論争は、どうも歴史とは無縁の話
なんだと思うが? 判るか?

171:日本@名無史さん
24/02/28 19:19:39.12 .net
「宋書倭国伝」には雄略天皇の言葉として「東は毛人を制すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあります。
 雄略天皇は大和国の泊瀬の朝倉宮(奈良県)に居を構えていたので、奈良から見て東が毛人、西を衆夷との認識があったようです。
 これを解釈すると、東日本は毛人国→毛野国であり、元は狗奴国だったのではないかと考えます。
 毛野(Ke-No)と狗奴(Ku-Na)はよく似てます。
 3世紀前半の段階で、狗奴国(毛野国)は東日本の東海道、東山道に広がっていたのではないかと考えられます。その後、東日本まで大和政権の支配が確定したあとの律令国制度では、狗奴国の名は関東に追いやられてしまった、そして毛野国は狗奴国の名残りなんだと思います。
 他に、東海道にあった狗奴国の名残りとしては、遠江国(静岡県)にあった、久努国造もそうなのではないでしょうか。
 久努は「クヌ」とも読めます。東海道、東山道一帯が狗奴国だったその名残りは、久努国造と上毛野国造、下毛野国造の3ヶ所だけに残されたようです。

172:日本@名無史さん
24/02/28 19:25:37.85 .net
久野・久能(クノ=狗奴)という地名の残る場所
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名。
狗奴国は愛知・静岡・神奈川・千葉・茨城・栃木・群馬あたりに広がっていたと思われる
(ヤマトタケルの東征ルートと一致)

173:日本@名無史さん
24/02/28 19:30:15.99 .net
>>144
なんにも証拠のない主観を事実のように言いふらすのが九州説
という、いい例が出たよ

174:日本@名無史さん
24/02/28 19:31:03.97 .net
韓を制圧できない公孫氏に
倭国が朝貢する理由は無い。
それは、対価に対する交易である。
魏は卑弥呼の朝貢と言った。
238年に公孫氏を追った戦中で直後である。
この同盟は難升米が濡れ手に粟なのは当たり前だろ?
所詮、戦国時代なのに倭王だの魏王だの
薩摩王は、パリ万博に琉球と出典したぞ?
薩摩が独立国で良いんだな?
阿波はいいらしいw アボンだけどw

175:日本@名無史さん
24/02/28 19:42:13.29 .net
>>150
かつては木曽三川以東がクノノクニだったんだろうな
だがヤマトノクニに侵略されて�


176:V竜川以西の領土を失った 卑弥呼の時代のクノノクニの領土は天竜川以東から 都は沼津の足高尾上遺跡群



177:日本@名無史さん
24/02/28 19:54:51.33 .net
>>144
そのとおりです
キナイコシ=>>1は
質問に答えず 1,2行で
証拠は? とか 根拠は? 理由は? とか永遠に続ける人
友達もいなく24時間張り付いてるから 相手が根負けするまで続ける
ひどいのは「無い証拠を出せ」
無いもん無いのに馬鹿みたいに言ってくる。
あるならキナイコシがあるものを示せばよいだけなのに
相手にならず 放置すればよい 

178:日本@名無史さん
24/02/28 20:02:13.62 .net
>>149
狗奴国は南だし
東は海を渡ると倭種の国だ

179:日本@名無史さん
24/02/28 20:03:06.30 .net
悪魔の証明を理解する脳みそのない人がそれか

180:日本@名無史さん
24/02/28 20:25:25.98 .net
不  弥(宇 美)---福岡県宇美町
---------------------(2ヶ月かけて以下の各国訪問)---------------------
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
斯  馬(志 摩)---福岡県糸島市
己 百 支(柴 刈)---福岡県久留米市
伊  邪(伊万里)---佐賀県伊万里市
都  支(筑 紫)---福岡県筑紫野市
彌  奴(耳 納)---福岡県久留米市
好 古 都(多 久)---佐賀県多久市
不  呼(浮 羽)---福岡県うきは市
姐  奴(竹 野)---福岡県久留米市
對  蘇(鳥 栖)---佐賀県鳥栖市
蘇  奴(佐 嘉)---佐賀県佐賀市
呼  邑(糟 屋)---福岡県粕屋町
華奴蘇奴(神 埼)---佐賀県神埼市---吉野ヶ里遺跡
  鬼  (杵 島)---佐賀県白石町
爲  吾(生 葉)---福岡県うきは市
鬼  奴(嬉 野)---佐賀県嬉野市
邪  馬(八 女)---福岡県八女市
躬  臣(御 笠)---福岡県太宰府市
巴  利(把 伎)---福岡県朝倉市
支  惟(基 肄)---佐賀県基山町
烏  奴(大 野)---福岡県大野城市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
--------------------------( ↑ 女王以北 ↑ )--------------------------
邪 馬 壹(山 門)---福岡県みやま市---女王山・女山(ぞやま)
狗  奴( 熊 )---熊本県(狗古智卑狗=菊池彦)
-------------------------------------------------------------------------------------
侏  儒(少 童)---高知県
URLリンク(cdn.amebaowndme.com)
URLリンク(cdn.amebaowndme.com)

181:日本@名無史さん
24/02/28 20:25:48.99 .net
狗奴国は、天津に相対する国津の国全般を指す
どことかない

182:日本@名無史さん
24/02/28 20:31:20.79 .net
金沢大などの研究チームによれば、現代日本人の核ゲノムのうち、
71%が東アジア系(古墳時代に流入)、
16%が北東アジア系(弥生時代に流入)、
13%が縄文系、
の遺伝情報を保有してる。
弥生時代の段階ではまだ、
北東アジア系40%、
縄文系60%の比率だった
縄文人が弥生人に進化したとか、邪馬台国畿内自生説とか言って妄想してる。
歴史捏造説(大爆笑\(^o^)/オワタ

183:日本@名無史さん
24/02/28 20:31:35.59 .net
>>149
衆夷が九州だとすると、ヤマト王権は倭の五王の時代になって初めて九州を支配下に置いたことになる。
卑弥呼の時代にはヤマトの勢力はまだ九州を支配できていなかったことを意味する。
一大卒をイト国に置いて玄界灘諸国を


184:監察していたとする倭人伝と整合しない。 ここでも畿内説は成立しないことがわかるね。



185:日本@名無史さん
24/02/28 20:35:07.53 .net
>>159
縄文人はアイヌ語
弥生人は日琉語
古墳人は日琉語?
なのかね?

186:日本@名無史さん
24/02/28 20:37:16.99 .net
>>161
古墳人が京阪式アクセントをもたらした
京阪式アクセントはシナ系言語の影響と言われてる

187:日本@名無史さん
24/02/28 20:46:29.01 .net
>>162
古墳人の言語がシナ系言語だとして
上にあるように遺伝子の70%をもたらすほど
多数が渡来してきたのなら、私たちはシナ系言語を使ってなければおかしくないかな?

188:日本@名無史さん
24/02/28 20:47:34.55 .net
九州で注目は弥生時代後期壱岐の原の辻遺跡から龍の絵画土器が見つかっていることだな
壱岐の伝承によると壱岐には龍神への信仰があつい夫婦が住んでいて、竜宮に招かれ信仰への褒美として竜宮一の宝物、禿童を授かり栄えたという
弥生時代後期の壱岐は、同じく龍の絵画土器が見つかっている橿原や清水風遺跡、池上曽根遺跡と同じ勢力圏に属していたんじゃないか

189:日本@名無史さん
24/02/28 21:07:09.17 .net
また古墳時代史解題が久住にコテンパンにやられてるな

190:日本@名無史さん
24/02/28 21:17:13.96 .net
全ての日本人は
縄文人の遺伝子を保有する。
アマテラスの遺伝子の無い
日本人は居ない。
欧州人で、縄文遺伝子が
1%であっても有るものには有る。

191:日本@名無史さん
24/02/28 21:20:12.72 .net
>>163
単語レベルではほぼシナ系。
大和言葉と呼ばれているものも実はシナ系が多い。
馬(うま)、梅(うめ)、邑(いへ)、室(さと)、築(つく)、槅(かき)、析(さく)、閾(ゆか)、
絹(きぬ)、秈(しね)、蛺(かひこ)、竹(たけ)、麦(むぎ)、松(すぎ)、琢(とぐ)、剥(はぐ)、
湿(しほ)、郡(くに)、盆(ふね)、坩(かま)、鎌(かま)、熊(くま)、酪(さけ)、

192:日本@名無史さん
24/02/28 21:20:43.47 .net
>>160
日本書紀にも九州を平定したとは書かれていない

193:日本@名無史さん
24/02/28 21:49:00.07 .net
>>163
チンコロが入植した考古痕跡なんか一切ないし、チンコロが入植したなんて
中卒ギャグ飛ばしてるウハウハ考古学専攻学者の中卒ギャグ論文もない
チンコロ工作員は日本のサイトからさっさと失せましょう

194:日本@名無史さん
24/02/28 22:15:04.26 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)


久 努 国 ( く の の く に )


久 努 国 ( く の の く に )


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

195:琪瑛教大祭酒
24/02/29 00:00:05.11 .net
無駄だよ、道教嫌いがどうにもならなくて箸墓だけは神が築き上げた女性墓だ、とまで言ってんだから。
その後は朝鮮アサガオだよ
光る君は朴だよ

196:ネトウヨ撲滅タイ!
24/02/29 00:33:27.35 .net
近畿方言はジャポニックの正統派を伝えているのだろう
元々日本語は大陸の言語であって弥生人が日本列島に持ち込んだものだ
縄文語はアイヌ系の言葉であって縄文人は日本民族ではなかった

畿内の日本語は半島日流語(Peninsular Japonic)の声調を最も正しく継承している言語だ
ネトウヨの縄文文明論なるバカ丸出しの妄説を信じている連中はしるべきである
ジャップの起源は南満州であり日本民族は日本列島先住民ではなかったのだとな
日本の先住民はアイヌ民族だったのである

差別用語を平気で口にして恥じないレイシストがウポポイに対する酷い中傷を行っている
明らかに日本に義務教育では人権教育が足りていない

197:日本@名無史さん
24/02/29 01:49:17.08 .net
>>172
北海道を乗っ取ろうとするチョンコがいます

198:日本@名無史さん
24/02/29 02:49:04.81 .net
普通の日本人をネトウヨと言う差別用語を使ってヘイトするチョンコがいます

199:これが>>1=奥山=キナイコシ
24/02/29 05:17:24.29 .net
101
>九州説は証拠を出さない ウソばかり言ってるから
129
>反論出来ずにチェンジ要求する負け組九州説
133
>九州説はウソつきだという証拠 また出ました
100
>九州説は説得力がない
なぜなら何百年たっても九州説の統一見解が出せないから
110
>誰でも1に見えるのは病気だよ
114
>証拠なし 九州説って捏造病だね

200:日本@名無史さん
24/02/29 05:21:57.29 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

201:日本@名無史さん
24/02/29 05:37:08.41 .net
これが>>1=奥山=キナイコシ

特徴
答えない、答えられない
オウム返し
言葉尻だけとらえ本論に入らない(逃げる)
長文はしない(ボロが出るから)
丁寧語が苦手 使うときはぎこちないからわかる(育ちが悪い?)

@@@@
「奥山の自己満足」
スレが進む(もうすぐ1000スレ)ので「俺はスレの運営が日本一うまい」と誤解している。
同じ 話題をループさせてるのと、投稿者をあおりまくってるだけ。・・ひょっとして馬鹿を演じてるかもしれない。
@@@@@
「奥山の嘆き」
悲しいかな、奥山が一番知っているが、この畿内説のスレを賑やかにしてるのは九州説、阿波説であり
畿内説支持者はまず投稿しない。奥山がほとんどとみてよい。

以上

馬鹿奥山を酒のつまみにしながら投稿するのも このスレの楽しみ方ですから。。。ご自由に

202:日本@名無史さん
24/02/29 06:07:35.58 .net
>>170
「クヌ」だ馬鹿 漢字読めないのか

203:日本@名無史さん
24/02/29 07:06:44.07 .net
寺澤薫的には、伊都国が東遷しなければ畿内は倭国でも無かったって事だよね。  


 三世紀初め、この国はイト倭国体制から新生倭国体制へと大きく舵を切った。同じ「倭国」という名称であっても、歴史的国家形態からいえば、それは部族的国家連合の段階から王国という段階への飛躍であった。それに応じて倭国の王都も、イト国の三雲・井原遺跡群からヤマト国の纒向遺跡へと一気に東遷したのである。  しかもこの二つの倭国には、決定的な違いがあった。つまり、イト倭国の王都が置かれていたイト国はまさに倭国の盟主国であったが、新生倭国の大王都が置かれたヤマト国は、けっして新しい倭国の盟主国ではなかったということである。

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

204:日本@名無史さん
24/02/29 07:16:24.60 .net
卑弥呼共立前は
邪馬台国は倭国ではなかったんだよ

205:日本@名無史さん
24/02/29 07:17:37.63 .net
>>179
寺澤薫的には、伊都国の東遷なんて無かった

206:日本@名無史さん
24/02/29 07:20:12.18 .net
>>179
寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波

207:日本@名無史さん
24/02/29 07:23:34.63 .net
倭国や王都に見合う集落遺跡て何?
何があるの?

208:日本@名無史さん
24/02/29 07:25:57.53 .net
>>181
イト国が東遷したと書いてるけど

209:日本@名無史さん
24/02/29 07:30:38.10 .net
>>180
邪馬台国は伊都国の南にあるよ

210:日本@名無史さん
24/02/29 07:32:47.77 .net
>>185
南へ水行20日と10日陸1月だね

211:日本@名無史さん
24/02/29 07:34:14.00 .net
九州以外にあるけど
行っていない。

212:日本@名無史さん
24/02/29 07:34:41.19 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けており、まともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)
考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている
例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)

213:日本@名無史さん
24/02/29 07:35:40.20 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

214:日本@名無史さん
24/02/29 07:36:59.96 .net
考古学者の北條芳隆は畿内説ではあるが、非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた古臭い畿内自生説ではなく、柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動を想定している

その根底には、畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承との整合が念頭にあるようだ

以下参照

URLリンク(bunkazai.city.fukuoka.lg.jp)

「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」

215:日本@名無史さん
24/02/29 07:37:41.23 .net
>>186
そう、周旋すると伊都国の南になる

216:日本@名無史さん
24/02/29 07:39:22.11 .net
客観的に見て、纒向調査の進展で理論的に崩壊したのは畿内自生説だ

纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、邪馬台国の可能性は、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力が関与した、あるいは北部九州から遷都したヤマト王権が魏志倭人伝の邪馬台国とする最近の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立したとする北部九州説、
の大きく二つに絞られるだろう

最近の考古学者は①の方向性が増えているが(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は主に以下の3つ
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること
ⅱ)描かれた倭人のクニの様子や行程がどう見ても北部九州であること
ⅲ)纒向には大陸との交流の痕跡がないこと

217:日本@名無史さん
24/02/29 07:40:06.61 .net
>>190
矛盾してもいいんだよ。
神武東征に馬が登場するけど?
記紀と整合性とる必要性や必然性はない

218:日本@名無史さん
24/02/29 07:43:43.71 .net
>>192
畿内説ではないが、遠方地
当然、大陸との交流の痕跡がない
のが邪馬台国の一部かもしれん

219:日本@名無史さん
24/02/29 07:44:40.34 .net
>>193
神話・伝承で重要なのは骨子だ
日本に限らず神話・伝承の骨子は多くの場合何らかの史実を反映する

他の神話・伝承と異なり神武東征に限っては骨子まで架空と主張するのであれば、記紀を編纂した当時の朝廷が皇室の由来をでっち上げた動機やメリットを「合理的に」説明出来なければ説得力を持たない

220:日本@名無史さん
24/02/29 07:46:56.83 .net
>>195
逆だよ。記紀に説得力はない。
実際に東征があった痕跡は?

221:日本@名無史さん
24/02/29 07:48:03.77 .net
>>195
何らかの史実を反映する?
思い込み?

222:日本@名無史さん
24/02/29 07:48:45.69 .net
九州 倭国大乱ー卑弥呼ー台与ー266朝貢途絶
畿内 ーーーーーー四道将軍ーーヤマトタケルーー三韓征伐ーー倭の五王

そんな難しい話じゃないのに
九州と畿内を無理矢理くっつけようとするから無理が起こる

223:日本@名無史さん
24/02/29 07:50:17.49 .net
記紀原理原則論は不要だな。

224:これが>>1=奥山=キナイコシ
24/02/29 07:50:18.15 .net
@@@@
>>1奥山の悩み

スレを立てたときは寺沢信奉者だったが、、
寺澤の論調が変わってしまった。また畿内説の学者で纏向や箸墓が王都、卑弥呼と言うことに疑義を抱く人も増えてきた。
今更テンプレも変更できず旧態依然の古い畿内説をテンプレに記載。

225:日本@名無史さん
24/02/29 07:53:02.13 .net
>>200
妄想の九州説あわれ

226:日本@名無史さん
24/02/29 07:53:23.71 .net
>>196
東征の痕跡こそ纒向遺跡だ
纒向は西日本の中でも政治的・文化的に劣後していた奈良盆地に突発的に現れ、現地の銅鐸祭祀を一掃し、北部九州の部族制国家の仕組みや埋葬儀礼、吉備の特殊器台や桃核祭祀などを持ち込んだ
まさに九州勢力が吉備を経由して奈良盆地を征服した神武東征の「骨子」そのままだ

227:日本@名無史さん
24/02/29 07:53:46.98 .net
つまり畿内説は低能の妄想作文でしたと

228:日本@名無史さん
24/02/29 08:00:19.15 .net
>>202
思い込み?
鉄鏃や骨鏃武器の出土がない。
東征における馬登は?

229:日本@名無史さん
24/02/29 08:06:38.91 .net
ホメロスの書いたトロイ戦争や司馬遷の書いた殷王朝
何れもかつては作り話だとされていたが、実際に遺跡が発掘されて史実性が証明された

纒向遺跡も神武東征伝承の史実性の証明になりつつあるのではないか

230:日本@名無史さん
24/02/29 08:07:08.25 .net
>>192
>纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、
👆
何度も投稿していますが、 ここサラッと流していますね。
纏向の調査からは東遷の根拠は無に等しいと思います。
初期ヤマト王権の都とぶち上げてしまったのがそもそもの間違いだったのでしょう。
なんら都にふさわしいものは見つかっていません。神社のような祭祀場のような遺物や、古墳造営か灌漑用とみられる水路は見つかっていますが。
纏向を王都とぶち上げたのがそもそもの間違いだったと思う。
だから、畿内説の学者の論調も変化してきている。

231:日本@名無史さん
24/02/29 08:07:33.32 .net
>>204
壹与の後では?

232:日本@名無史さん
24/02/29 08:08:54.62 .net
つまり畿内説は平気で嘘をつく低能宗教ですよと

■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
 
■鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。

233:日本@名無史さん
24/02/29 08:09:02.48 .net
>>205
何を持って東征があったと証明できるのだろうか?

234:日本@名無史さん
24/02/29 08:13:05.65 .net
>>209
東征も東遷もなく。
狗奴国の人々が移住させられたとか?
熊野古道

235:日本@名無史さん
24/02/29 08:13:26.68 .net
>>206
私は九州説だが纒向は政治(≒祭祀)の中心都市としか思えない
政治的中心地は必ずしも農業工業商業が盛んであったり人が密集しているとは限らない

例えば東京の永田町は現在の日本の政治の中心だが、行ってみるとガランとしていて人もまばらだ

纒向が初期ヤマト王権の王都であったことは権力の象徴たる巨大前方後円墳や祭祀の痕跡から見て疑いようもなかろう
ただ、ここが魏志倭人伝の邪馬台国であったとする合理的根拠が何も無いだけだ

236:日本@名無史さん
24/02/29 08:14:44.49 .net
合理的根拠てどういうの?

237:日本@名無史さん
24/02/29 08:15:48.46 .net
>>212
邪馬台国に関して言えば、魏志倭人伝の記述との広汎な一致ないし決定的物証

238:日本@名無史さん
24/02/29 08:17:56.89 .net
邪馬台国について伊都国並みの
詳細な説明はない。

239:日本@名無史さん
24/02/29 08:18:57.38 .net
>>212
お前の思考回路に無いもの

240:日本@名無史さん
24/02/29 08:19:47.98 .net
>>215
何?

241:日本@名無史さん
24/02/29 08:21:39.65 .net
都合の悪い結果は発表しない事で有名な畿内説さん
いつになったらこの調査結果を発表するの?
他所のはすぐ発表されてたけど

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
URLリンク(www.sankei.com)

242:日本@名無史さん
24/02/29 08:27:38.45 .net
>>217
ミューオンの調査だけで都合の悪いものが発見されるって、どんなものを想定できるの?

243:日本@名無史さん
24/02/29 08:28:28.55 .net
>>215
君の思考回路にあるものが
邪馬台国とは限らない。

244:日本@名無史さん
24/02/29 08:29:04.87 .net
>>183
>倭国や王都に見合う集落遺跡て何?
「鍛冶炉遺構」や「勾玉工房」など、いろいろな先進文化の遺構が残る集落遺跡の群だな。   @阿波

245:日本@名無史さん
24/02/29 08:31:21.33 .net
>>218
石室があったり、横穴式だったりとか、馬具がが写ってたとか

246:日本@名無史さん
24/02/29 08:34:02.13 .net
>>198
3世紀の大和王朝の範囲は奈良、大阪だろう
その前に岡山に行幸したという記述があるぐらいで
九州が出てくるのは垂仁天皇の頃だから少し後ではないか
それも土蜘蛛と書かれているので支配下ではない

247:日本@名無史さん
24/02/29 08:36:16.39 .net
>>182
@阿波 
その通りですよ。纏向の最大の問題点は。
花火をぶち上げたがいいが、王都に見合う集落跡が見つからない。
定住者100人にも満たない遺跡かも????
>寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波

248:日本@名無史さん
24/02/29 08:37:52.72 .net
賛同する
>寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波

249:日本@名無史さん
24/02/29 08:38:24.94 .net
>>190
天照大神以降は南九州ではないか
彼等が南九州へ向かったのは倭国大乱と関係ありそうだが

250:日本@名無史さん
24/02/29 08:39:37.20 .net
>>201
okuyama
>妄想の九州説あわれ
得意の一行投稿Ww

251:日本@名無史さん
24/02/29 08:43:25.45 .net
>>209
北部九州と奈良周辺は同じ地名、山名がかなりある
配置も似ている
移住した人がいた可能性は実際あるのでは?

252:日本@名無史さん
24/02/29 08:46:02.47 .net
>纏向を王都とぶち上げたのがそもそもの間違いだったと思う。

その通り、、今の畿内説の学者の首を絞める結果となっている。
邪馬台国と関連付けるために必死になってる。
その手法の一つが初期ヤマト王権の都とすることだった。
しかし、調査すれど都にふさわしい集落跡が見つからないのが現実のようだ。

253:日本@名無史さん
24/02/29 08:51:33.58 .net
>>211
永田町???
君 何も知らないのかな???議員宿舎、警視庁本部、、、、、

254:日本@名無史さん
24/02/29 08:52:36.73 .net
阿波説を推進していた阿波国古代研究所が仲間割れしていてワロタ。
>新着情報 / 2024年02月18日
> 雨水の侯、我が家の遅咲きの梅も三分咲きでいよいよ春到来です!
>昨春以来一年近く皆様にお待たせしておりました新刊本『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』も、去る11日建国記念の日にようやく上梓することが出来てホッと一息ついております。(11日付け当欄「新着情報」参照)
> さて、当塾「阿波古代史講座」の今月開催は次のとおりですので、宜しくお願い致します。

 新刊本も販売を開始されましたので、当日は次のことについても説明をさせていただきます。
① NPO法人阿波国古代研究所理事長笹田孝至氏から新刊本の内容が彼の説?のパクリだとの批判を展開されていることについて、
② 後に私の新刊本を出版される予定の東京の出版社あて、彼は「自説のパク本にリ違いないので、出版するな。」という未だ出されてもいない時点で前代未聞の “ 質問状 ” を4通も送りつけていることについて、
③ また彼の全権委任を受けたという竹岡誠治氏が私の本のプロデューサー小倉一夫編集計画研究所へ乗り込み、「藤井の本は出すな。」、「自分が知事に提案?して県内活動グループをまとめて発足する(仮称)「阿波ヤマト国財団」(4月発足予定の県の財団)の傘下に入れ。
 入ったら藤井の新刊本も笹田の出す新刊本と一緒に4月14日のクレメントでの設立記念(出版記念)パーテイーで披露してやる。」という高飛車な圧力をかけられましたが、小倉氏とともにこれを拒絶していることについて。
 講座当日は、
① これらの顛末についてご報告し、
② 笹田説なるものは存在しないこと、
③ 彼の著述のほぼすべては岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」(一~三)の記述を基にしており、いわば実質的には大閑氏のパクリであることを説明させていただきます。


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