邪馬台国畿内説 Part997at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part997 - 暇つぶし2ch500:日本@名無史さん
24/02/29 20:43:36.72 .net
竜宮城に行った浦島太郎、丹後国風土記には浦島子は常世に行ったとある
記紀には三毛入野命は常世に行ったとある
和泉国風土記逸文には和泉国は三毛入野命の所領だったとある
和泉の地は常世で竜宮城の認識だったのかもな
池上曽根遺跡からも龍の絵画土器が見つかっているね

501:日本@名無史さん
24/02/29 20:44:45.19 .net
>>467
畿内が倭国だったとする資料が無い

502:日本@名無史さん
24/02/29 20:45:23.72 .net
>>463
倭人伝にそのような


503:記載はない



504:日本@名無史さん
24/02/29 20:48:54.83 .net
>>467
倭国は倭人の居住地のうち、倭地(狗奴国と南西諸島)と倭種(四国)を除いた領域
当時倭人はどこにいたのかが問われる
それは考古学的な証拠から北部九州から東北南部の範囲

505:日本@名無史さん
24/02/29 20:49:02.78 .net
必死に否定する九州説
だが根拠は何もない

 

506:日本@名無史さん
24/02/29 20:49:58.07 .net
>>471
それは考古学的な客観的な事実

507:日本@名無史さん
24/02/29 20:57:28.70 .net
>>474
箸墓が卑弥呼の墓だとすれば成立するが、そもそも確証がない

508:日本@名無史さん
24/02/29 21:22:56.46 .net
>>475
魏志倭人伝の記述と後円部の大きさが確証となる

509:日本@名無史さん
24/02/29 21:28:26.01 .net
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権の墓。桜井茶臼山古墳が
箸墓、邪馬台国卑弥呼の墓と比べて圧倒的に立派だと言っているの
だろうか。発掘したら内容が豪華だったのだろうな。

510:日本@名無史さん
24/02/29 21:30:31.17 .net
>>476
魏志倭人伝は正しいのか?

511:日本@名無史さん
24/02/29 21:31:01.01 .net
竜宮城は帯方郡のことだよ。

512:日本@名無史さん
24/02/29 21:34:36.47 .net
>>477
箸墓に続く古墳は巨大化してゆくが
前方後円墳のスタイルが継承されてゆくことは興味深いこと
卑弥呼の存在の特異性が発揮されているのかもしれない

513:日本@名無史さん
24/02/29 21:35:42.36 .net
>>476
倭人伝の記述では東には行っていない

514:日本@名無史さん
24/02/29 21:40:32.84 .net
>>478
魏志倭人伝の記述が間違っていることも当然あるだろう
しかし、過去多くの研究者によって研究・検討されてきた
そのことと、中国が史記以来、史書に対する尊敬がある文化であることは重みがあると思う

515:日本@名無史さん
24/02/29 21:46:04.05 .net
>>476
それはおそらく写本作成時の錯誤によるもの
北部九州から船で南に行くこともできない
(川を使うという主張もあるが無理がある)
北・西は戻ることになるので除外、行く可能性があるのは東となる

516:日本@名無史さん
24/02/29 21:47:13.65 .net
>>483>>481についてのレスでした

517:日本@名無史さん
24/02/29 21:50:14.25 .net
>>483
遠賀川から田川までは水行で行ける、無理では無い

518:日本@名無史さん
24/02/29 21:53:51.31 .net
不弥国から遠賀川を水行陸行で邪馬台国の入り口の日田に至ります。伊都国から1500里の行程で倭人伝にピッタリ整合しますURLリンク(i.imgur.com)

519:日本@名無史さん
24/02/29 21:54:49.01 .net
九州を南に行くと紀伊半島に着くんだよ
不思議だが事実なんだから仕方がない
紀伊半島に上陸して1か月歩いたところが邪馬台国なんだな
奈良ということだ
纏向遺跡より南に広がる南河内と和泉の地が狗奴国
ヤマト政権が理由は不明だが分裂していたということだな
下克上みたいなことが起きたのかもな
或いは神さまが人民に政治を委ねることで争いを終結させたという可能性も僅かだがある
鳥形、龍の絵画土器、勾玉、銅鐸が消え鏡の時代に
櫛と鏡は従軍する巫女の象徴
兵の時代になったんだろう

520:日本@名無史さん
24/02/29 21:55:43.76 .net
魏志倭人伝の記述からして山の中というのはないな
有明海を望む山門だよ
「倭人皆海に潜る」

521:日本@名無史さん
24/02/29 21:55:53.33 .net
>>485
20日の行程は不自然であるし
到達点からさらに10日の水行の区間がある

522:日本@名無史さん
24/02/29 21:56:40.68 .net
>>485
>遠賀川から田川までは水行で行ける
曳船するのか?   @阿波

523:日本@名無史さん
24/02/29 21:58:33.92 .net
むかぁし、むかぁしのこと、堺では、まだ人間は住んでなくて神様ばかりが住んでおられましたのやと。
その時代、堺は浜のえべっさんのあたりまで海であったそうですが、ある日のこと、この浜に葦の葉で編んだ舟に乗って目も鼻もまだ出来ていない、未熟児の神様がこの浜にたどり


524:着かれたそうです。 そしてこの浜でどのような修行をなさったのか、誰も知りませんがこの地でえべっさんと言う立派な神様におなりになったそうです。神様になられるまでの年月はわかりませんが、それは長い年月だったと思います。長い長い年月の後、この地には神様だけではなく人間も、動物、魚、鳥と住むようになったそうです。 このようにして、堺は神様を中心にりっぱな村落が築かれたのだそうです。こうして出来た村落に流れる、石津川上流へ向かった所にもう一柱の天地を守るえべっさんが五色に光る石を持って御降臨なさったそうです。こうして、浜と陸の神様に守られた堺の地上には、木々が生え、草花が咲き、鳥は舞い、動物は駆けめぐり、海にはたくさんの魚が泳ぎ、それは素晴らしい楽園であったと言われております。 このようにすばらしい楽園をお造りになった神々はやがて天へと住まいを移されたそうです。 ところが、神々によって満たされた地上で万物が平和に暮らしているというのに、神様と同じ姿をした人間だけが、欲という感情を持つようになったそうです。この欲という感情は喜びや悲しみの感情を生みふくらませて、どんどんそうした感情の種類を増やして、戦いの感情や支配する感情など、色々な感情が広がっていったそうです。



525:日本@名無史さん
24/02/29 21:58:52.87 .net
>>489
田川で投馬国に到着し、田川から今の添田町まで水行したのだよ

526:日本@名無史さん
24/02/29 22:01:09.49 .net
>>490
下った船は使い捨てでは無い

527:日本@名無史さん
24/02/29 22:01:53.57 .net
こうした中で浜のえべっさんは、どんなときでもどんな願いも必ず聞いて下さるのだそうです。
村落の人達はそんな浜のえべっさんを慕いあがめて、お願いへと鳥居をくぐり、いつの時代においても変わらず手を合わせているそうです。また五色に光る陸のえべっさんの御陰で、いかなる転変地変が起きようとも、それが自然によって起きたものであれ、人間のごうがなしたことであれ、へだてなくこの地で生きる人々に再生の力を授けてくださるのだそうです。
それから、同じえべっさんでも、浜のえべっさんへお願いする時は、神社の後ろ側から拝むのだそうです。ここから拝むと、どのような願いでも叶えてもらえるそうです。浜のえべっさんは耳が遠いので、前から拝んでは聞こえないのだそうです。
さて、蛭子のえべっさんがたどり着いたと言われるこの浜は、石津川からちぬの海へ流れる河口にあり、ここに浜のえべっさんがあります。川を少し上ると陸のえべっさんがありここから少しのぼると温泉の採集地だそうです。
松原はもちろん奈良から長尾街道、竹ノ内街道を、列をなして『堺の塩湯』へ行く女性達の姿を今もまだ90歳前後の人からは活き活きと聞くことが出来ます。
この塩湯は浜と陸のえべっさんの間の距離にあり石津川の川を挟んで反対側にあるそうです。このあたりは『浜寺』と言って海水浴場もある遊園で大人子供も楽しめる賑やかな所だったそうです。また、えべっさんがたどり着かれた、ちぬの海のそばにある堺の塩湯について、採集地の温泉につかりながら次のように採集しました。
「堺の塩湯は今もあります。ここいらはどこでも井戸水は塩水です。昔は海やったと聞いています。塩湯は夏のあせもに効くと言うてあちらこちらから子供を連れて入った。入るとすぐ治った。塩湯は、おふろ屋さんだから今も昔も宿泊は出来ない」そうです

528:日本@名無史さん
24/02/29 22:03:28.61 .net
>>492
北部九州から30日をかけてそこに移動するというのは無理がある

529:日本@名無史さん
24/02/29 22:03:39.57 .net
堺の塩湯には奈良時代や平安時代にも都から人々が湯


530:浴みにやってきたと記録に残っている 長い歴史がある風習なんだな



531:日本@名無史さん
24/02/29 22:06:47.95 .net
>>493
だから、上流まで曳船をしていくのか?   @阿波

532:日本@名無史さん
24/02/29 22:07:45.64 .net
>>495
案内人の卜骨がチョイスしたルートだろうね、遠賀川は宗像族のテリトリーだから安心なルートでもある

533:日本@名無史さん
24/02/29 22:10:00.05 .net
>>468
じゃあ祇園山古墳でいいじゃん
年代ぴったり

534:日本@名無史さん
24/02/29 22:10:28.52 .net
>>497
仁徳の皇后も淀川を曳舟させているから不可能では無い。

535:日本@名無史さん
24/02/29 22:12:04.07 .net
>>495
>30箇国が使者を通わせている
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能
全部行けば1ヶ月以上はかかるだろう
行かないと戸数・道里は
実際に行けたのは20ヶ国程度という事だろう
戸数・里数・日数は誇張している
戸数・里数10倍説もあるから、日数も10倍とすると、水行3日、陸行3日となる
でもこれでは20ヶ国は回れない
日数は2ヶ月のスケジュールを正直に記載したのではないだろうか

536:日本@名無史さん
24/02/29 22:14:29.71 .net
>>500
曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。   @阿波

537:日本@名無史さん
24/02/29 22:15:20.59 .net
大阪の地は旧石器時代から人々の営みの跡が残っており、当時は起伏に富んだ古大阪平野が広がり大部分は現在では沖積層の下であるが千里や泉北、羽曳野丘陵の上では現在でも確認できる
二上山は旧石器時代からのサヌカイトの採集地で、麓の藤井寺からは20000年前の日本最古の竪穴式住居が見つかっている
堺にも旧石器時代の定住跡がある
縄文時代前期には藤井寺の国府遺跡から5体の楔状耳飾りをした人骨が見つかっている
楔状耳飾りは勾玉の原型という説もある。身分の高い人が身につける装飾品だったらしい
浜寺の現役の墓地は縄文時代から脈々と使われてきたのが調査の結果わかっている
大阪の地は旧石器時代から常に栄えてきた場所なのである

538:日本@名無史さん
24/02/29 22:17:28.03 .net
>>502
海人族は船を使う

539:日本@名無史さん
24/02/29 22:18:08.16 .net
>>501
邪馬台国までで倭国は8か国、残りは21か国もある
これらの国々については詳らかではないとしている
つまり行っていない

540:日本@名無史さん
24/02/29 22:19:09.33 .net
>>504
>海人族は船を使う
海でな。   @阿波

541:日本@名無史さん
24/02/29 22:19:36.25 .net
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了
解散!

542:日本@名無史さん
24/02/29 22:20:26.46 .net
>>504
>海人族は船を使う
海人族でも、曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。   @阿波

543:日本@名無史さん
24/02/29 22:20:48.06 .net
>>506
遠賀川は古遠賀湾だから宗像族は縄文時代から船を使っている

544:日本@名無史さん
24/02/29 22:22:07.81 .net
>>509
海でな。   @阿波

545:日本@名無史さん
24/02/29 22:26:06.10 .net
>>510
古遠賀湾は海だURLリンク(i.imgur.com)

546:ネトウヨボクメツ隊!
24/02/29 22:39:21.82 .net
ネトウヨの九州説には笑えるよな
奴らは壺と日本会議だからな
江戸時代の平田学派や明治の日ユ同祖論を否定しない学説を選考して主張している
あのなネトウヨどもさぁそれ無理だから
安倍元総理の下痢糞はこんな低知能を支持基盤としていたらしいな
ジャップの民族主義なんてこんな底辺の戯言なんだぜ
純粋な日本人がいると信じているのだろうがジャップの正統は遼河文明人なんだぜ
ネトウヨは何を妄想しているんだよwwwwwwwwww
在日もその他もDNA的には何も変わらないんだぜ
縄文文明人だと?
笑える妄想だぜ。ジャップも韓民族も出自は同じなのだよ

547:日本@名無史さん
24/02/29 22:41:46.26 .net
熊野水軍の将は鈴木氏で穂積氏の系譜だな
和歌山の鈴木屋敷かわからないが和歌山の桃屋敷に関係する民話が隣の和泉の地に残っている
ある時、赤鬼が嫁取りに和泉の地にやってきた
目当ての娘は未だ幼く数年後にまた来ると言い残し一旦去ったという
和泉の地には赤鬼が苦手とする桃は生えていなかった
困った村人は和歌山の桃屋敷に頼み込み桃の木を分けてもらったという
数年後見事に桃が実り、再び嫁取りにやって来た赤鬼を桃で撃退したという
○海人とも仲良くやっていた
○桃が和泉の地に住み始めたのは赤鬼が日本列島にやってきた後というのが読み取れる
桃はミミだろうな
九州の投馬国にもミミがいたんだよな
昔話は別にしてサヌカイトの石器や大量の紀ノ川の石包丁、石器の祠、木製の男根、鳥形、龍の絵画土器、ヒスイの勾玉のあった池上曽根遺跡からは蛸壺も見つかっている
海と山の境にある集落でもあるからね
松江の西川津遺跡にも港があり鳥取の青谷上寺町遺跡にもある
どちらも池上曽根遺跡と同じ形の鳥形が見つかっている
西川津遺跡は樫の鳥形だな
和泉の地は楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承が残る地だな
神さまが乗る船が鳥の磐樟船、日本書紀によればひるこが乗る船でもある

548:日本@名無史さん
24/02/29 22:45:41.32 .net
池上曽根遺跡の神殿の両脇には2本の柱が建てられていて1つは先が二股に分かれた木の柱である
先が二股に分かれた木は山の女神と木樵の間では言われているね

549:日本@名無史さん
24/02/29 22:49:05.55 .net
>>512
チョンコはチョン国に帰ってチョンの出生率を上げろや

550:日本@名無史さん
24/02/29 23:04:24.47 .net
>>512
13000年前に完新世が始まりだすと対馬海峡が広がって半島から列島に
渡ってこれなくなったからな
その間に両者の人種は分かれた


コリア人=中央蒙古人種(中央モンゴロイド、シニーデ)
日本人=日本人種

朝鮮人は異人種です

551:日本@名無史さん
24/02/29 23:13:50.71 .net
>>512
URLリンク(i.imgur.com)
ウソをつくな

552:日本@名無史さん
24/02/29 23:46:31.23 .net
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ここは台湾の田舎町。どこからか南方太鼓を叩く音が聞こえてくる。
見てみると叩いているのはそう、東南アジア顔した台湾人。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
半裸で意味不明の南方語の掛け声を唱えては太鼓をしきりに叩いている。
叩く。叩く。しきりに叩く黒い手。
そして黒い顔に潰れた広い鼻。突き出した口元とゴツゴツとした輪郭。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
一瞬、ニューギニアの奥地に居るような感覚に私は襲われたのである。

.

553:日本@名無史さん
24/03/01 03:28:07.17 .net
>>385
卑弥呼はもっと早い時期から即位してて250年には死んでしまう

554:日本@名無史さん
24/03/01 05:09:58.23 .net
投馬国(於投馬)=出雲~山陰一帯
邪馬台国=大和~近畿一帯
斯馬国(志摩)・巳百支国(伊吹)・伊邪国(伊賀)・都支国(土岐)
弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国
姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国
鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国
躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)
奴国(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・鬼怒・毛野)=東海道~北関東一帯

555:日本@名無史さん
24/03/01 06:28:04.14 .net
投馬国は玉
つまり岡山の事

556:日本@名無史さん
24/03/01 06:31:47.99 .net
>>511
>古遠賀湾は海だ
縄文時代の海進だな。 残念。 海人族でも、曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。   @阿波

557:日本@名無史さん
24/03/01 06:35:06.84 .net
纏向遺跡
大きな居館・・・・倭人伝に記述なし
箸墓・・・・・・・前方後円墳も倭人伝に記述なし
残念だね畿内説君 

558:日本@名無史さん
24/03/01 06:48:57.94 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外
ですね

559:日本@名無史さん
24/03/01 06:50:32.13 .net
>>521
岡山は吉備じゃないの

560:日本@名無史さん
24/03/01 06:52:07.28 .net
隋書倭国伝
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
(都はヤマト、魏志でいうところの邪馬台国なり)

561:日本@名無史さん
24/03/01 06:53:42.72 .net
>>522
>曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。 
可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん
条件次第
客人を歩かせるか否や
路が有るや否や
遠賀川沿いに遺跡は散在しており河川航行はあっても不思議ではない

562:日本@名無史さん
24/03/01 07:04:09.13 .net
現代の状況で弥生期を比較できないが参考
   (内は大和川)
遠賀川 延長 61km (68 km)
平均流量 18.4 m³/s (13.51 m³/s)
流域面積 1,026 km² (1,070 km²)

563:日本@名無史さん
24/03/01 07:19:10.06 .net
宗像以東は倭種だな。
傍国の一部。

564:日本@名無史さん
24/03/01 07:27:46.41 .net
>>526
文字記録もない蛮族の何百年も前のはなしをどうやって調べたのか

565:日本@名無史さん
24/03/01 07:55:32.65 .net
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん
比定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   @阿波

566:日本@名無史さん
24/03/01 07:56:45.56 .net
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん
否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   @阿波

567:日本@名無史さん
24/03/01 08:01:15.13 .net
>>530
邪馬台国が九州なら隋にもそう伝わってたろうな
一大率の目の前だから

568:日本@名無史さん
24/03/01 08:07:21.88 .net
>>533
一大率と隋となんの関係が?

569:日本@名無史さん
24/03/01 08:14:47.18 .net
つまり畿内説は頭の悪い学者モドキが描いた妄想作文でしたと

570:日本@名無史さん
24/03/01 08:19:58.78 .net
魏志倭人伝に記載された時代と隋書倭国伝に記載された時代では、徳川家光の時代と現代に等しいレベルの時間的隔たり、すなわち大きな政治的・社会的変化があることをまずもって理解して議論すべき

571:日本@名無史さん
24/03/01 08:38:00.30 .net
妄想の国邪馬台国。

572:日本@名無史さん
24/03/01 08:38:19.39 .net
>>408
畿内説のバカどもが、どうして瀬戸内海の高地性集落を倭国大乱の痕跡!なんて「二階から目薬」の頓珍漢なことを言うのか、やっと判ったぞ!w

あいつら、(後漢鏡を持ってなかったw)吉備の楯築弥生墳丘墓を帥升の墓ってことにしたいだけなんだよw

つまり、漢委奴国(博多)王→帥升(吉備楯築)→卑弥呼(箸墓) のストーリーの伏線を張ろうとしてるんだよw

573:日本@名無史さん
24/03/01 09:07:19.91 .net
>>519
戦乱の世が去って吉野ケ里にも平和が訪れたのは卑弥呼が即位したから
それが世の中のありようを変えた
長い戦乱の時代があって吉野ケ里は築かれていた

574:日本@名無史さん
24/03/01 09:17:57.63 .net
>>538
帥升の都、初代の倭国の都は
その時代の倭国の最大の都市遺跡である伊勢遺跡だと思っている

575:日本@名無史さん
24/03/01 09:23:06.50 .net
107年に生口160人を後漢の安帝に朝貢した帥升。
倭国大乱前の1~2世紀における後漢鏡の出土状況から見て、伊都国であることは間違いない。
では、後漢代の面土(めんど)が、なぜ魏代には伊都(いと)と発音されるようになったのかはもはや永遠の謎だが、
あえて妄想を膨らませれば、後漢の役人の聞き間違え、もしくは倭国における呼称変更がとりあえず考えられる。
いずれにしても、面土(めんど)→伊都(いと)だけに、いと(とても)面倒くさい問題だねw

576:日本@名無史さん
24/03/01 09:23:18.91 .net
畿内はせいぜい東鯷人

577:日本@名無史さん
24/03/01 09:33:02.30 .net
>>536
千ウン百年後のお前らの議論よりよっぽど信頼出来るわ

578:日本@名無史さん
24/03/01 09:38:15.60 .net
委奴国イナコク(イのなこく)
委都国イツコク(イのみやこ)
伊都国イトコク

579:日本@名無史さん
24/03/01 09:41:03.86 .net
>>543
そしたら
倭王武のいう先祖、倭王賛のいう祖父が西に66国平定したのも信頼できるし
旧唐書に書かれた倭人が「日本はもと小国、倭の地を併合した」というのも信頼できるね

580:日本@名無史さん
24/03/01 09:52:50.38 .net
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波

581:日本@名無史さん
24/03/01 09:53:56.65 .net
弥生後期に突如現れる巨大祭祀空間の遺跡
URLリンク(ise-iseki.yayoiken.jp)

>このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。
中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。
このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。

582:日本@名無史さん
24/03/01 10:03:17.62 .net
>>547
「矢野遺跡 十数棟の掘立柱建物に注目」 令和5年 6月13日(火) 徳島新聞朝刊
矢野遺跡の一部に含まれる県立国府支援学校内の発掘調査では、
弥生時代中後期の竪穴住居跡や掘立柱建物を確認し、
矢野遺跡における弥生集落の形態を知る手掛かりを得た。
注目すべきは掘立柱建物十数棟だ。
桁の間が2~4間、梁の間が1間の建物が並ぶ。
最も精緻な建物の寸法は、桁の間1.5m等間、梁の間が3mあり、他の建物も近い。
1尺がおおむね25cmすれば、桁の間6尺、梁の間12尺の整数倍の数値が得られる。
また、祖霊祭祀に関わるとみられる建物があった。
掘立柱建物の中で唯一、建物の方位が異なる「独立棟持柱建物」だ。
竪穴住居や掘立柱建物が混在したエリアだが、土器が埋められていたため、
共同体の祭祀をする施設の役割を果たしたのだろう。
調査から弥生集落の様相の一端を垣間見ることができた。
(勝浦康守・県埋蔵文化財センター主席研究員)   @阿波

583:日本@名無史さん
24/03/01 10:11:36.95 .net
馬って「ば」と読むんじゃないのかな?三国志でも馬超(ばちょう)馬騰(ばとう)赤兎馬(せきとば)だし。
そうなると「ヤバイ(ヤバト)(ヤバタ)」と発音するような?

584:日本@名無史さん
24/03/01 10:31:51.81 .net
おーい
奥山
サボルな

ハッケヨイ

今日は病院か?

585:日本@名無史さん
24/03/01 10:31:52.48 .net
おーい
奥山
サボルな

ハッケヨイ

今日は病院か?

586:日本@名無史さん
24/03/01 10:32:08.66 .net
>>549
それらは現代日本語読み

587:日本@名無史さん
24/03/01 10:32:11.98 .net
>>549
おかあさんが馬を叱る。
URLリンク(gogakuru.com)

最後のmǎが馬の発音マーァのような感じ

588:日本@名無史さん
24/03/01 10:34:42.54 .net
つまりどう足掻いても畿内説は霊感商法詐欺にしかなりませんよと

589:日本@名無史さん
24/03/01 10:44:27.04 .net
>>331
脊振【山】地南麓の高【台】国で邪馬台国。
大和【山門(二上山)⛰⛩⛰】じゃない。
だいたい牛馬【駅伝制】もなく、鉄鏃🏹鉄剣🗡⚔もなく、文字使用痕(硯)も出ない2~3世紀の大和が、どうやったら遠隔の北部九州を安定統治できるのか?

590:日本@名無史さん
24/03/01 10:53:23.55 .net
大国魏の公式使節団だから最新鋭の船でさらに大量の荷物を載せているはず、わざわざ伊都国に陸行しているのは伊都国は遠回りしても必ず船でいけない場所…つまり内陸部にある。
邪馬台国が近畿なら積み下ろしの手間を考えたら必ず敦賀辺りか大阪辺りまで船旅。壱岐島から500里で敦賀や大阪は無理。近畿は厳しいと思うのだが?

591:日本@名無史さん
24/03/01 10:56:03.78 .net
>>545
そう邪馬台国は元小国だったのだよ
卑弥呼の時代には可7万戸と広域。

592:日本@名無史さん
24/03/01 11:01:35.23 .net
魏使が纏向まで行ったのなら、日数表記じゃなく里数表記になるはずw

593:日本@名無史さん
24/03/01 11:15:02.76 .net
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波

594:日本@名無史さん
24/03/01 11:22:35.95 .net
じゃあ、あれかい?
皇帝陛下から預かった金印や、親魏倭王に冊封する旨の詔書や、下賜する大量の宝物を、伊都国の倭人役人に渡して、仕事が終わったというのかい?
そんなわけあるかいw

595:日本@名無史さん
24/03/01 11:23:30.92 .net
みんな、勘違いしてると思う。
学者も勘違い。

邪馬台国からヤマトは派生していない。
倭国の倭からヤマトとなった。

つまり、ヤマト王権の前身は倭国。
倭国は魏志倭人伝記述の倭国とみて良い。
その倭国が連合体から単一国家となり東遷して創ったのがヤマト王権。

596:日本@名無史さん
24/03/01 11:28:49.82 .net
キナイコシは算数できないな!
まだテンプレ直して無いな

597:日本@名無史さん
24/03/01 11:30:14.40 .net
正しいもの直す人いない

598:日本@名無史さん
24/03/01 11:32:48.03 .net
近畿説だと末盧(宗像辺り)で降り伊都まで歩いてまた不禰(中津辺り)まで歩き、又、船。実に無駄な動きだし、末盧に寄る意味がない。
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は九州だけど、女王の都は奈良ならあり得るような気もする。

599:日本@名無史さん
24/03/01 11:35:09.32 .net
>>558
>魏使が纏向まで行ったのなら、日数表記じゃなく里数表記になるはずw
なぜ?

600:日本@名無史さん
24/03/01 11:39:07.49 .net
そうだね
畿内説をとると
九州を陸行したことが説明できない
だから普通の人はその時点で
畿内説を見限るんだよ

601:日本@名無史さん
24/03/01 11:44:05.45 .net
>>566
説明できないって言い張る根拠は?

602:日本@名無史さん
24/03/01 11:54:41.32 .net
もしかしたら魏志倭人伝に記載されてない陸行の理由があるのかもしれないな。陸行の謎が解ければ近畿説も理解出来る。

603:日本@名無史さん
24/03/01 11:54:56.83 .net
卑弥呼の遺跡が見つからないのは賊軍、まつろわぬ者だったからに他ならない

604:日本@名無史さん
24/03/01 11:58


605::23.70 .net



606:日本@名無史さん
24/03/01 12:00:13.77 .net
魏志倭人伝に列記されている倭国29か国は
ただ単に帯方郡に近い順番に並べられているだけ
誰かがその順番に旅をしたとか、通常の旅程の経路ということではない
倭国の地理が分からない魏の人々に向けて倭国内の国々の情報を列記しているだけ

607:日本@名無史さん
24/03/01 12:00:46.74 .net
畿内説は、3世紀後半と4世紀前半をごちゃ混ぜチャンポンにしてるんじゃないの。

608:日本@名無史さん
24/03/01 12:02:51.79 .net
つまり畿内説は3世紀~5世紀の歴史をチェリーピッキングてし出来た妄想作文でしたと

609:日本@名無史さん
24/03/01 12:03:19.83 .net
>>569
卑弥呼の遺跡が見つからないのは、畿内や九州を探すからだよ。   @阿波

610:日本@名無史さん
24/03/01 12:07:56.10 .net
>>545
倭は九州、日本は奈良大阪

611:日本@名無史さん
24/03/01 12:09:17.55 .net
不禰国からの2回目の船旅が倭国の船なのか?あらかじめ準備してあった魏の船なのか?この辺りもかなり謎。なんとなく倭国の船なような気もするが魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし。末盧〜不禰までなぜ陸行したのか?理由くらい書いて欲しかったな。

612:日本@名無史さん
24/03/01 12:10:36.75 .net
>>526
山門だね

613:日本@名無史さん
24/03/01 12:10:39.96 .net
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里(375?)」ですよ?
九州の南北の長さは門司港から鹿児島の佐多岬まで330?。
ほぼピッタリじゃないですか?
当時の中国側の認識は「女王国東渡海千里 複有国皆倭種(本州)」からも判るように、倭国(倭地)=九州なんですよ。
畿内なわけないでしょw

ちなみに、門司港から鹿児島佐多岬まで330?(四千五百里)というのは、GPS🛰で計った直線距離ですよ?
3世紀なら五千里(375?)は誤差の範囲でせう?

614:日本@名無史さん
24/03/01 12:12:29.52 .net
>>578
その南は土佐のワダツミ(小人)だからな

615:日本@名無史さん
24/03/01 12:13:32.79 .net
>>578
古代日本地図
URLリンク(qph.cf2.quoracdn.net)

616:日本@名無史さん
24/03/01 12:13:43.21 .net
⇩魏志倭人伝の正解
URLリンク(i.imgur.com)

617:日本@名無史さん
24/03/01 12:14:07.67 .net
九州 倭国大乱―卑弥呼―台与―266朝貢途絶
畿内 ―――四道将軍―ヤマトタケル―三韓征伐―倭の五王

※倭王武の上表文(478年)
 自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
 東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國

※倭王讃の上表文(425年/冊府元龜/卷0963)
 自昔祖父,躬擐甲胄,䟦渉山川,不遑寕處。
 東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國

※景行→(子)日本武尊→(子)仲哀→(子)応神
 応神の祖父にあたるのが日本武尊

618:日本@名無史さん
24/03/01 12:15:08.17 .net
五千里というのは狗奴国沖の有明海から玄界灘までの距離だよ
そして本州山口に上陸して倭種を確認

619:日本@名無史さん
24/03/01 12:18:53.63 .net
>>580
その畿内説が創った図は、
「女王国東渡海千里 複有国皆倭種(本州)」は置いといて、続く「又有侏儒国(四国)在其南 去女王四千里」を忘れているw

620:日本@名無史さん
24/03/01 12:19:30.53 .net
>>580
女王以北以外隔絶されていないから☓

福岡平野、筑紫平野は山門の南と東が山地で隔絶されているも、
狗奴国は有明海渡りすぐ行ける

621:日本@名無史さん
24/03/01 12:19:43.73 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

622:日本@名無史さん
24/03/01 12:20:23.87 .net
大陸人が描いた古い日本連投
URLリンク(yamataikokunokai.com)

623:日本@名無史さん
24/03/01 12:20:44.32 .net
>>580
東側に謎のムー島があるな

624:日本@名無史さん
24/03/01 12:20:54.08 .net
>>580
全部陸行できるのでバツ!w

625:日本@名無史さん
24/03/01 12:20:55.10 .net
千里で北海道、その南のワダツミまで4千里を証明出来ないので☓
ワダツミは土佐

626:日本@名無史さん
24/03/01 12:21:59.87 .net
>>581
それだ!

627:日本@名無史さん
24/03/01 12:24:01.75 .net
結論は出てるな
投馬国は半島南部
邪馬壱国は北部九州地域
狗奴国は南部九州地域
倭種は中国地方
侏儒国は四国地方

628:日本@名無史さん
24/03/01 12:24:55.44 .net
>>566
実際は世間から見限られてるのは九州説なんだがね

629:日本@名無史さん
24/03/01 12:26:28.81 .net
日本国民の殆どが九州説支持なんだが
畿内説を信じてる人は少数派

630:日本@名無史さん
24/03/01 12:27:01.84 .net
魏志倭人伝は(本場中国人に対して)里数表記と日数表記で、実際に行ったところと倭人官僚からの伝聞を区別して書き分けているんだねw

631:日本@名無史さん
24/03/01 12:27:59.17 .net
>>581
よく読み解いたね

632:日本@名無史さん
24/03/01 12:28:36.91 .net
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波

633:日本@名無史さん
24/03/01 12:32:32.82 .net
>>331
吉野ヶ里なんて、邪馬台国とか卑弥呼なんて言わなくても、人が大勢来るが、
纏向なんていくら叫んでも誰も来やしないw

634:日本@名無史さん
24/03/01 12:32:38.91 .net
>>595
里数表記してあるのは公孫氏時代の記録からの引用で
日数表記してあるのは正史元年(240年)に梯儁が倭を訪れた時の記録からの引用だね

635:日本@名無史さん
24/03/01 12:34:09.15 .net
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波

636:日本@名無史さん
24/03/01 12:35:10.01 .net
>>595
>魏志倭人伝は(本場中国人に対して)里数表記と日数表記で、実際に行ったところと倭人官僚からの伝聞を区別して書き分けているんだねw


夷人里数を知らずだから、そうすることで本場中国人が読めばすぐ判るようにしていたんだねw

637:日本@名無史さん
24/03/01 12:37:33.15 .net
>>599
里程も日程も帯方郡から倭への同じ行程を記したものだったのですね
書いた人、書かれた時期が違うんですね
陳寿の編集によって続けて記載されてるんですね。

638:日本@名無史さん
24/03/01 12:39:18.72 .net
>>594
>日本国民の殆どが九州説支持なんだが

九州説なんて説は存在してないだろ?

639:日本@名無史さん
24/03/01 12:40:41.46 .net
そうそう、魏使や張政が曹叡死後の正始年間に纏向まで来ていたら、必ず(本場中国人に判るように)里数表記になってるはずw
ということは、つまり?w

640:日本@名無史さん
24/03/01 12:43:18.96 .net
>>603
アンケート調査だと6割九州説3割畿内説だね。

641:日本@名無史さん
24/03/01 12:43:38.45 .net
つまり大本営発表の畿内説は、こんなにマスコミが卑弥呼の墓って洗脳報道してるけど、ボロ負けしてるのに勝った勝ったと報道させた大本営と同じで、誰も信じてないってことw

642:日本@名無史さん
24/03/01 12:47:16.98 .net
>>556
>わざわざ伊都国に陸行しているのは伊都国は遠回りしても必ず船でいけない場所
>…つまり内陸部にある。

その通り、東南陸行500里到る伊都国は内陸部。
同様に、南至る邪馬台国(水行10日)陸行1月も内陸部。

643:日本@名無史さん
24/03/01 12:51:58.09 .net
>>602
つまり、7000里に水行2


644:0日、440里に水行10日、600里に陸行1日(月)掛かるってことですね。



645:日本@名無史さん
24/03/01 13:03:26.25 .net
>>607
邪馬台国内陸部説には賛同だがそうすると東に海の説明がつかないんだよな。
後、九州の内陸部で7万戸も収容出来る盆地も見当たらない。
卑弥呼は内陸部の山の中の別荘みたいな所にいて邪馬台国自体は違う所にあるのでは?とも最近思っている。それが九州なのか近畿なのか四国なのかはわからんが。

646:日本@名無史さん
24/03/01 13:18:04.20 .net
卑弥呼は共立で九州
邪馬台国は、九州以外ですね。
邪馬台国には行っていません。

647:日本@名無史さん
24/03/01 13:19:40.70 .net
第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演
URLリンク(www.kunaicho.go.jp)
初代倭国王帥升の都伊勢遺跡、卑弥呼の都纏向遺跡とも琵琶湖の水運で各地と結ばれていたのだろう

648:日本@名無史さん
24/03/01 13:22:38.41 .net
>>609
女王国東渡海千余里・・これは卑弥呼共立の記事のあとに出てくるので、この女王国は倭30国のこと。
則ち倭国(九州島)の東という意味で、後世の太平御覧倭人伝では、倭国東渡海千余里と書き直されている。
邪馬台国は、不彌国・吉野ヶ里の南至るの、熊本平野~阿蘇盆地の広範囲7万戸、女王之所都は、
その一角の高千穂町にあり、周囲を総延長25?の五ヶ瀬川渓谷で守られた天然の大要塞内にあったでOK。

649:日本@名無史さん
24/03/01 13:38:01.07 .net
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね

650:日本@名無史さん
24/03/01 13:39:34.30 .net
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
つまり弥生時代の鉄器共有地域=邪馬臺連合国ってことよ
【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
URLリンク(i.imgur.com)

651:日本@名無史さん
24/03/01 13:40:25.39 .net
>>612
説得力あるし、私も近い考えなんですが熊本平野が邪馬台国の中心地なら水行10日だけの記載でいいような気がして…。

652:日本@名無史さん
24/03/01 13:42:39.67 .net
仮に>>614の図の北部九州~若狭湾沿岸を女王国とすると奈良、大阪は狗奴国となる

653:日本@名無史さん
24/03/01 13:51:27.67 .net
東に海を渡ると倭種の国
この一文があるせいで畿内説は致命的

女王国の北は伊都国に一大率を置き諸国を検察させている
この一文があるせいで畿内説の地理的描写は壊滅的

654:日本@名無史さん
24/03/01 13:51:28.50 .net
弥生時代後期の佐賀は興味深い
七ヶ瀬遺跡からは弥生時代後期木棺とそこからヒスイの勾玉が出土
ピンポイントで畿内と共通した墓制が現れる
吉野ヶ里遺跡の日吉神社からは石棺墓
これは瀬戸内海沿岸部や遠賀川と共通する
卑弥呼より前の時代、伊勢遺跡の時代でもある弥生時代後期、佐賀に畿内や瀬戸内海出身の人が現れる
埋葬のされ方からも非常に身分の高い人物

弥生時代後期のごくわすがな期間、近畿辺りの勢力が佐賀の勢力と繋がり始めたがすぐにその時代は終わったようだ

畿内の勢力が九州各地の主要な勢力に婿入りでもしたのか?

655:日本@名無史さん
24/03/01 13:55:35.87 .net
>>615
高千穂は邪馬台国の政治の中心地、熊本平野は軍事経済の中心地で、
主邑は山鹿市の方保田東原から菊池市の臺地区にかけてだった。
その山鹿・菊池は、唐津から佐賀平野の伊都国・不彌国(吉野ヶ里)を経て、陸行1300里(20日)くらい。

656:日本@名無史さん
24/03/01 13:56:17.11 .net
魏志倭人伝には狗奴国が古代から何度も直接中国大陸に渡海していたことが書かれている
東シナ海に面していたということ

657:日本@名無史さん
24/03/01 13:57:20.21 .net
七ヶ瀬遺跡のある佐賀市、旧佐嘉郡の謂れが肥前国風土記にある

昔、この村には1株の樟が生えており、それは幹と枝がとても高く、たくさんの葉が生い茂っていた。朝日によって出来た木陰は杵島郡の蒲川の山を覆い、夕日によって出来た木陰は養父郡の草横の山を覆った。

日本武尊が巡幸した時、この生い茂る樟を見て「この国は栄国(さかのくに)と言うべきだ」と言ったので、これによって栄郡と呼ぶようになり、これが後に佐嘉郡と改められた。

658:日本@名無史さん
24/03/01 13:59:08.42 .net
記紀の命名エピソードはなんなんだろうな
そのタイミングで支配下に組み込んだという隠喩なのだろうか

659:日本@名無史さん
24/03/01 13:59:31.44 .net
記紀じゃなくて風土記か

660:日本@名無史さん
24/03/01 14:05:09.73 .net
>>609
>邪馬台国内陸部説には賛同だが

古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

661:日本@名無史さん
24/03/01 14:06:33.17 .net
>>612
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

662:日本@名無史さん
24/03/01 14:07:58.92 .net
>>619
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

663:日本@名無史さん
24/03/01 14:08:28.61 .net
女王国の傍国が奴国
魏の使者の行程で奴国より手前の国々は女王国ではないんだな
佐賀辺りは弥生時代後期畿内の勢力と良好な関係だったんじゃないのかな?
卑弥呼より前の時代の畿内は銅鐸とヒスイの勾玉、鳥形と龍の絵画土器の地域
弥生時代末期以降はそれらの特徴は見られなくなる 
佐賀も畿内の旧勢力側だったんじゃないのか?

664:日本@名無史さん
24/03/01 14:09:24.98 .net
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波

665:日本@名無史さん
24/03/01 14:10:19.40 .net
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波

666:日本@名無史さん
24/03/01 14:18:59.51 .net
なんか邪馬台国は複数あったんじゃないか?!と思えてきた。九州の邪馬台国が本国で四国や近畿に植民地的な感じで邪馬台国分国があって、600年ころ植民地だった近畿の邪馬台国分国が本国に勝って逆転。今までのウップンを晴らすかのように九州の邪馬台国を徹底的に壊滅的破壊した。近畿の邪馬台国は元は植民地だったのは恥ずかしい事だったから改ざんして邪馬台国がわからないようにした。
全く根拠はないけど。
こんな事を言ってる学者いる?

667:日本@名無史さん
24/03/01 14:21:33.14 .net
阿蘇と阿波では月とスッポン。阿波よ、口惜しいだろう

阿蘇・高千穂の女王・卑弥呼の所都には、天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北の祖母山を守護神とし、東・西・南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25?もの渓谷断崖で守られていました。
なんと、奈良の三輪山を含む桜井市と、ほぼ同面積の天然の大要塞だったのです。

依って、縄文~弥生の昔から、幾多の王国が興亡を繰り返してきました。
紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝があり、更に神武後孫の高千穂王朝も続きました。
紀元後には、土蜘蛛女王の卑弥呼が馬台を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設しました。
そしてその後は、宇佐神宮大神氏が建てた大神王朝から、三田井王朝へと続きました
ここは高天原以来の、万年の理想郷なのです。

668:日本@名無史さん
24/03/01 14:41:35.77 .net
>>630
いないね

669:日本@名無史さん
24/03/01 14:44:38.66 .net
つまり畿内説には存在理由がありませんでしたと

670:日本@名無史さん
24/03/01 14:46:58.59 .net
古代の大陸人は日本列島は南に垂れ下がっていると思ってたのだ
それだけの話
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(qph.cf2.quoracdn.net)

671:日本@名無史さん
24/03/01 14:58:04.80 .net
>>634
日中の学者が皆「それはない」と口を揃えてる畿内説馬鹿の妄言を未だに繰り返してる情弱爺さん乙w

672:日本@名無史さん
24/03/01 15:00:40.67 .net
邪馬台国が近畿や阿波なら狗奴国との戦いの仲裁や援軍をわざわざ遠くの中国の魏に頼むのはどうなんだろう?

673:日本@名無史さん
24/03/01 15:11:49.16 .net
邪馬台国?
卑弥呼だよ。共立されたのは卑弥呼。
邪馬台国ではない。女王国が魏を頼る。
卑弥呼が九州だな。邪馬台国は九州以外の遠方地

674:日本@名無史さん
24/03/01 15:15:33.12 .net
>>616
鉄鏃、骨鏃等の武器出土がほとんどない。

675:日本@名無史さん
24/03/01 15:54:57.18 .net
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波

676:日本@名無史さん
24/03/01 15:55:36.62 .net
>>631
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波

677:日本@名無史さん
24/03/01 16:39:09.46 .net
>>634
残念だがその地図は朝鮮人の合成図だw

678:日本@名無史さん
24/03/01 16:46:49.84 .net
スッポン阿波が未練たらたら、、
古今東西、アレがドンブラコと流れきてたまる大河のほとりに起こったのは、しもじもの大衆文明。
高貴なお方の王朝は、大河の川上の清浄な環境に興ったのだよ。
伊都国は佐嘉川の川上、女王の都は五ヶ瀬川の源流。

679:日本@名無史さん
24/03/01 16:47:12.67 .net
>>634
畿内説のソースは月刊ムー

680:日本@名無史さん
24/03/01 16:56:19.18 .net
>>641
URLリンク(blog-imgs-127-origin.fc2.com)
中華の宋の地図でも関東や東北に居るはずの毛人や蝦夷が南になってるよ

681:日本@名無史さん
24/03/01 17:07:23.29 .net
>>644
昔からここのFAQ71に乗ってるけど、九州説は目を背けて逃げてるよ

「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)

682:日本@名無史さん
24/03/01 17:26:21.92 .net
URLリンク(youtu.be)

卑弥呼の時代(紀元後200年前後)の日琉語の分布をイメージするとヒントが得られるかも
特に半島日琉語の状況や列島日琉語の東方への広がり

683:日本@名無史さん
24/03/01 17:28:32.69 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

684:日本@名無史さん
24/03/01 17:33:31.66 .net
ちゃんと日本を入れるとこうなるURLリンク(i.imgur.com)

685:日本@名無史さん
24/03/01 17:35:48.98 .net
つまり畿内説は何の根拠も存在しない超架空の物語

686:日本@名無史さん
24/03/01 17:37:19.28 .net
畿内説は詐欺。

687:日本@名無史さん
24/03/01 17:45:19.38 .net
どれもこれも東側にスペースがない地図ばっかじゃん
東南大海の中にあったとされた国の情報を無理矢理詰め込んで上から順に描いたら
メジャーなのが上、マイナーなのが下になっただけでは

688:日本@名無史さん
24/03/01 17:49:25.42 .net
弥生時代だと、半島北部は楽浪郡帯方郡に圧迫されてるものの、半島の主流な言語は日琉語。
日本列島は九州南部をのぞき岐阜県ぐらいまでは日琉語。東海地方はアイヌ語。
韓ワイ倭の日琉語人世界では狗邪韓国から対馬海峡を挟んで伊都国がその中心だったと言えるね。当時の纏向はまだ辺境で、鎌倉時代の関東ぐらいの感じかな。異民族への前線。

689:日本@名無史さん
24/03/01 18:03:06.87 .net
>>648
日本は波より小さかった。小国だったんですね。

690:日本@名無史さん
24/03/01 18:05:03.05 .net
>>653
赤枠が日本だよアホ

691:日本@名無史さん
24/03/01 18:07:29.73 .net
海の中に硫黄山ってのがあるな
硫黄島か火山島か

692:日本@名無史さん
24/03/01 18:07:50.79 .net
>>654
そうなんですか。黄色の日本は何ですか?

693:日本@名無史さん
24/03/01 18:08:10.25 .net
地図でもチェリーピッキングする畿内説

694:日本@名無史さん
24/03/01 18:24:18.22 .net
地図がちょいバズしてたな
継体天皇が北陸の都の邪馬台国から南下するまで
非効率稲作だったんだろ
急に大陸文化も鉄も技術も入るし
河内狗奴国の頭だけ取って
歴史捏造文書見せてお前らのカシラの
親戚だから支配する権利ありますよーって居座った

695:日本@名無史さん
24/03/01 19:14:32.14 .net
唐代以降でも倭の概念が
曖昧と言うことは、地図でも解る。
陳寿倭人伝は魏代で白眉の記録だが
以降で初出は600年の三月行五月行
である。 逆行だろwww
日本は満州で清王朝を保護国にした。
台湾の亡命政権を守った。
高句麗と戦い、牛馬の富国強兵を実現
古代韓の百済新羅を成立させた。
ヤマト女王が、狗奴国と戦争で
三国志で公孫氏や韓王にてこずってる
魏に朝貢で帯方郡使に魏郡の旗貰って
王権維持したって、歴史が有り得るのか?
とこの、任那日本府の女酋長だよ?

696:日本@名無史さん
24/03/01 19:35:28.91 .net
>>658
3世紀も15世紀も江戸時代も、さして測量技術の進歩はないんじゃないかな。 光学機器が発明されるまでは。 
手漕ぎ船から帆船に替わったような技術革新は、測量技術においては、なかったのでは?   @阿波 

697:日本@名無史さん
24/03/01 19:35:48.85 .net
京都と地方を結ぶ水の道
-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-
URLリンク(www.kunaicho.go.jp)

今日初めて知って驚いたこと
>琵琶湖の水運について
>2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運
>当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。

それと、この文章を書いた皇太子の時の天皇陛下の博識

698:日本@名無史さん
24/03/01 19:44:32.79 .net
邪馬台国論争は、
日本人の歴史認識の異常
から始まってるだろ?

戦後の考古学は普通に
東夷伝の歴史を証明してるのだが?

まあ、文献依存の九州説でも
卑弥呼が九州の女酋長は正しい。

畿内説は平原に
原爆落とすべきだったなwww

アタシャ変なネトウヨになったか?

699:日本@名無史さん
24/03/01 19:44:41.59 .net
>>661
つまり、海や湖の恵みを一切得られない奈良盆地に、古代王都など興り得ないことを皇太子の時の天皇陛下が説明してくれている。   @阿波

700:日本@名無史さん
24/03/01 19:48:54.21 .net
>>661
つまり、海や湖の恵みを一切得られない九州の山奥に、古代王都など興り得ないことを皇太子の時の天皇陛下が説明してくれている。   @阿波

701:日本@名無史さん
24/03/01 19:52:19.42 .net
>>663
皇太子殿下のご講演では、



702:>京都が都になる以前には,都は京都の南にあります奈良にありました



703:日本@名無史さん
24/03/01 19:55:04.75 .net
>>665
倭国(阿波)からの遷都な。   @阿波

704:日本@名無史さん
24/03/01 19:57:54.76 .net
アメリカ下の現行法律で今の法律が決まっているだけで、
日本は天皇家が統一したのですから、
昔から天皇のための国民なんです。
ここが現代人はさっぱり理解できていない。

705:日本@名無史さん
24/03/01 19:59:40.66 .net
一人一説雑多九州説の始まりは九州文学小説

706:日本@名無史さん
24/03/01 20:06:56.99 .net
西部劇とか中国の歴史ドラマを見ているからなのか日本にも馬車が昔からあったように思っていました
wikipediaにも記事があります
>日本と馬車
>古代中国で馬車より騎馬への転換が完了した時期に日本へウマが伝来したために騎馬の文化は普及したが、馬車の文化は普及しなかった。一方、ウシを用いた牛車は近世期でも使われていたものの、ウマの引く乗用車は明治時代まで存在しなかった。
ただ、人を乗せる馬車ではなく木材を運ぶ荷車のようなものはあったのかもしれません

707:日本@名無史さん
24/03/01 20:11:58.23 .net
>>667
君の理解が足りない
明治の国家神道はその時に作り上げられたもの
古来の我が国の伝統とは関係がない

708:日本@名無史さん
24/03/01 20:29:35.89 .net
駄賃馬稼
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)とは、近代以前の日本において馬の背中に貨物や人を乗せて輸送に従事する職業のこと。この職業に従事する人を馬借(ばしゃく)あるいは馬子(まご)、使用された馬を駄馬(だば)あるいは稼馬(かせぎうま)・荷馬(にうま)、輸送料金を駄賃(だちん)と称した。

709:日本@名無史さん
24/03/01 20:31:40.09 .net
>>645=>>1
FAQ71どうしようもないね
無い知恵だしたはいいが
まず、畿内説の学者でこんなんで解説したやつ見たことない。
畿内説間でよくもんでから出したら。
奥山の努力は買うけどさ、推古紀と同じ。
奥山のアタオカ

710:日本@名無史さん
24/03/01 20:34:13.64 .net
>>668
毎日、毎日「私は馬鹿です」という自己紹介するなよ

711:日本@名無史さん
24/03/01 20:44:47.88 .net
邪馬台の卑弥呼は耶麻等の比弥王、日女尊のこと
アマテラスヒルメとオキナガタラシヒメ最強

712:日本@名無史さん
24/03/01 22:20:00.50 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
URLリンク(www.yoshinogari.jp)
伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

713:日本@名無史さん
24/03/01 22:31:09.96 .net
.



投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)



.

714:日本@名無史さん
24/03/01 22:43:08.66 .net
>>672
>FAQ71どうしようもないね
反論ひとつできない負け組九州説は悪口いうだけ
みじめだねえ

715:日本@名無史さん
24/03/01 22:44:16.07 .net
郡から水行20日で半島南部の投馬国に着く。
水行10日で伊都国に着く(末盧国から伊都国も正規のルートは水行であることは本文を読めば明らか)。
伊都国から陸行30日で邪馬台国に着く。
・水行は1日350里進む。
・陸行は1日50里進む。
・投馬国はかっての狗邪韓国など半島南部の数ヵ国を含む広域の国。
・邪馬台国は伊都国や奴国や女王国など九州北中部の数ヵ国を含む広域の国。
つまり日数記事は里数記事を日数に換算したもの。
郡から女王国まで里数12000里は日数にすると60日かかると説明したものにすぎない。
日数記事作成者は一里=434メートルで考えている。
里数12000里は政治的な誇大な数字のため日数記事も現実に即しないものとなっている。

716:日本@名無史さん
24/03/01 22:46:23.61 .net
ツイッターで邪馬台国関連を語るやつ多いけど、久住にフォローされてないやつは雑魚
読む価値なし
もちろんおれはフォローされてる

717:日本@名無史さん
24/03/01 22:48:07.99 .net
久住「ダンワラ鉄鏡、由来を誤魔化している可能性大」
URLリンク(i.imgur.com)

718:日本@名無史さん
24/03/02 00:20:51.11 .net
>>680
曹操の鉄鏡と同レベルのお宝と判明したのは何十年も後になってからだから
当時、そのような知見がない時代に由来を誤魔化す意味がないけども……

719:日本@名無史さん
24/03/02 00:25:22.50 .net
>>677
毎日、毎日「私は馬鹿です」という自己紹介するなよ

720:日本@名無史さん
24/03/02 00:49:05.84 .net
トナカイかw

721:日本@名無史さん
24/03/02 01:32:24.96 .net
帯方郡から南に行くとフィリピンに到る。船でおよそ30日。
孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったりしてるので数多異国と呼ばれた。これがなまって邪馬台国となった。

722:日本@名無史さん
24/03/02 01:34:36.52 .net
>>681
梅原に鉄鏡を売った古物商か、この鏡を古物商に売った人物が
由来を誤魔化している可能性大ということだろ
梅原は古物商から買った現代の幼稚な贋作を古代のガラス製品と信じ込ん人だから

723:日本@名無史さん
24/03/02 01:35:43.73 .net
>>681
梅原末治は鉄鏡だけでなく銅鏡の由来も間違った情報流しまくりだしガラス製品でもやらかしてるぞ
由来を誤魔化す理由ならいくらでもある
曹操の鏡と同型だと判明する遥か前の1998年から梅原末治は批判されている
URLリンク(www.mars.dti.ne.jp)

724:日本@名無史さん
24/03/02 01:36:12.00 .net
同じシチュエーションで畿内由来だったら鬼の首とったように騒いだと思うわ

725:日本@名無史さん
24/03/02 01:37:02.83 .net
またダンワラ詐欺師が喚いてんのw

726:日本@名無史さん
24/03/02 01:37:25.74 .net
ダンワラバカ「梅原末治を信じろ!」


wwwww

727:日本@名無史さん
24/03/02 01:39:47.97 .net
金印も曹操の鉄鏡も畿内から出なくて残念だねえ

728:日本@名無史さん
24/03/02 01:40:31.45 .net
>>690
壊れちゃったw

729:日本@名無史さん
24/03/02 01:40:48.69 .net
ダンワラバカ、精神崩壊w

730:日本@名無史さん
24/03/02 01:42:23.29 .net
九州説でも高島忠平とか安本美典とか実証主義な人はダンワラ鉄鏡に否定的だよ
キチガイが執着してるだけで、まともな人は取り合ってない

731:日本@名無史さん
24/03/02 01:43:58.00 .net
日田なんて何も無いが
吉野ヶ里や平塚川添にはデカい環濠集落があるからな。まっとうな九州論者はそれを使う
キチガイは日田の鉄鏡を持ち出す

732:日本@名無史さん
24/03/02 01:49:17.54 .net
プロ画を日田の鉄鏡にしてる某がブチギレw
見に行ったら底辺みたいなツイートしかしてなくてワロタw恥ずかしいねぇw

733:日本@名無史さん
24/03/02 01:53:19.12 .net
>>695
底辺で悪かったな。

734:日本@名無史さん
24/03/02 01:56:28.26 .net
邪馬台国は博多
対馬800里
壱岐600里
忘れるな

735:日本@名無史さん
24/03/02 01:58:20.81 .net
博多は2万戸の奴国の中心地
後漢書の倭国の一番南の倭奴国

736:日本@名無史さん
24/03/02 02:01:54.65 .net
朝鮮投馬国も島巡りもトンデモです

737:日本@名無史さん
24/03/02 02:03:27.64 .net
平塚川添の環濠は小さいよ
行ったことあるのかな

738:日本@名無史さん
24/03/02 02:05:06.88 .net
日田よりはデカい

739:日本@名無史さん
24/03/02 02:08:15.92 .net
あくまでも日田は邪馬台国の入り口だよ。

740:日本@名無史さん
24/03/02 02:10:14.33 .net
投馬国の国境を越えるとそこは日田。

741:日本@名無史さん
24/03/02 02:26:16.44 .net
私も甘木あたり邪馬台国はあったと踏んでる。

742:日本@名無史さん
24/03/02 02:29:59.31 .net
甘木あたりと九州最大の外港都市博多は何の関係も無い

743:日本@名無史さん
24/03/02 02:39:43.11 .net
甘木や博多は甕棺文化圏で繋がりは深いURLリンク(i.imgur.com)

744:日本@名無史さん
24/03/02 02:45:05.24 .net
3世紀は首狩り甕棺墓はすでにど没落している

745:日本@名無史さん
24/03/02 02:57:30.31 .net
>>707
甕棺墓が使われなくなったからと言って人種が入れ替わったわけではあるまいに

746:日本@名無史さん
24/03/02 02:58:14.91 .net
>>707
そして畿内式前方後円墳が博多湾岸に現れる

747:日本@名無史さん
24/03/02 03:22:18.67 .net
まだ定型前の模索タイプの前方後円墳

748:日本@名無史さん
24/03/02 03:26:22.32 .net
>>708
北部九州の人種ではなくて、
弥生中期に盛行する屈葬の首狩り甕棺墓は一部の集団で、
優勢な集団が伸展葬の木棺墓、石棺墓集団にに替わるということなんだな
甕棺墓は朝鮮半島西南部の全羅南道では6世紀くらいまで存続する
朝鮮半島南部~西北九州やベトナム中部のサーフィン文化で盛行する甕棺墓は
東アジアで最も古い甕棺墓はカリマンタン島とされている

749:日本@名無史さん
24/03/02 07:06:58.03 .net
久住猛雄氏(福岡市埋蔵文化財課)によると、那珂八幡古墳の造営時期は彼自身の久住編年IB期、215-250年だそうです(『二万余戸の実像 奴国』伊都国歴史博物館 2021年)。
URLリンク(i.imgur.com)

750:日本@名無史さん
24/03/02 07:15:46.33 .net
>>712
お墓しか語るものが無い時点で、脱落。   @阿波

751:日本@名無史さん
24/03/02 07:40:32.87 .net
九州説て投馬国が比定できないよね 
女王国より北で船で行く5万戸の大都市

752:日本@名無史さん
24/03/02 07:41:43.43 .net
末盧国→伊都国 500里
   伊都国→→→邪馬台国 1500里

753:日本@名無史さん
24/03/02 07:44:04.03 .net
投馬国は日向豊国。

754:日本@名無史さん
24/03/02 07:47:57.27 .net
九州説もう死んでるから

755:日本@名無史さん
24/03/02 07:50:17.5


756:6 .net



757:日本@名無史さん
24/03/02 07:52:17.59 .net
>>718
1万2000里から1万500里を引けばいいだけ

758:日本@名無史さん
24/03/02 07:53:21.88 .net
>>717
畿内説は詐欺だとバレてるよ

759:日本@名無史さん
24/03/02 07:56:15.45 .net
>>719
1万500里の記述もない

760:日本@名無史さん
24/03/02 07:57:57.94 .net
不弥国には岡県に岡田宮があり
投馬国には宇佐がある。
これ神武の東征ルートなり

761:日本@名無史さん
24/03/02 08:02:38.90 .net
>>714
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
筑紫平野の北部

762:日本@名無史さん
24/03/02 08:03:22.14 .net
>>721
URLリンク(cdn.amebaowndme.com)

763:日本@名無史さん
24/03/02 08:11:33.23 .net
筑紫君磐井は卑弥呼など北九州の権力を持った王族の流れだろう

764:日本@名無史さん
24/03/02 08:12:42.96 .net
7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという九州説
古代に九州発達しすぎだろ

765:日本@名無史さん
24/03/02 08:15:19.14 .net
>>726
>7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという九州説
そんな大国が興り得るのは、温暖黒潮太平洋沿岸地域のみ。   @阿波

766:日本@名無史さん
24/03/02 08:18:02.93 .net
筑後 投馬国
熊本 邪馬台国

767:日本@名無史さん
24/03/02 08:19:52.26 .net
延喜式で九州の人口は71万人URLリンク(i.imgur.com)

768:日本@名無史さん
24/03/02 08:21:08.76 .net
・1国の戸数ではなく、ここまでの推計説(筑紫平野は福岡平野より広大、少なくともこの時代は畿内より北九州の方が人口が多かった)
・戸数、里数、日数は10倍説(但し、日数は20ヶ国以上訪問したら、それ位かかるという話も)

>南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌、副官は彌彌那利である。推計5万戸余。
>南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?があり、推計7万余戸。

769:日本@名無史さん
24/03/02 08:21:10.67 .net
>>729
肥後に注目

770:日本@名無史さん
24/03/02 08:21:28.52 .net
>>726
7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという奈良の場所はどこだい?

771:日本@名無史さん
24/03/02 08:22:46.90 .net
魏志倭人伝の行程記事を読む
帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)
ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?筑前国儺県の一部または周辺?)
と進んだ
さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)
邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)
さらに倭の地を巡り歩くこと�


772:ワ千里とある これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう 帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する (一万二千里-七千里=五千里) (続く)



773:日本@名無史さん
24/03/02 08:23:24.37 .net
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符合する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ
地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる
なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離や戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう
実際、これらを大真面目に議論して合理的結論に至った人を私は未だかつて一人も見たことがない

774:日本@名無史さん
24/03/02 08:25:00.19 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

775:日本@名無史さん
24/03/02 08:30:33.25 .net
>>733
「倭国に阿蘇山あり」
倭国は九州全体を


776:指す 女王国が福岡平野&筑紫平野 >女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない。 「遠く絶たっていて」というのは、山で隔絶されているからだろう 北九州、大分、熊本は隔絶されている 筑紫平野の南端に山門の女王山がある 但し、狗奴国(熊本、菊池彦)は有明海を少し南に行けば行ける 帰路は有明海から玄界灘迄「周囲を巡れば5000余里ほどである。」がちょうど当て嵌まる その時に見たのが、「女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り」 本州だろう 「さらに侏儒国がその南にあり、人の背丈は三、四尺で、女王国から4000余里のところである。」 土佐の小童伝説だろう 山門より4000余里も当て嵌まる



777:日本@名無史さん
24/03/02 08:35:08.92 .net
魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記の小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する
では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する
(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)

778:日本@名無史さん
24/03/02 08:35:19.55 .net
>>736
そのコースだと倭種国は見えないよ
大分まで出ないと本州四国は見えない

779:日本@名無史さん
24/03/02 08:36:49.60 .net
「侏儒(しゅじゅ)国」を探し求めて、高知県は土佐清水市、足摺岬まで
URLリンク(blog-imgs-95.fc2.com)

780:日本@名無史さん
24/03/02 08:38:03.14 .net
本州は玄界灘から見えるが

781:日本@名無史さん
24/03/02 08:38:55.41 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)
考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている
例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)

782:日本@名無史さん
24/03/02 08:39:34.29 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

783:日本@名無史さん
24/03/02 08:40:03.25 .net
>>740
帰路のどこから?

784:日本@名無史さん
24/03/02 08:48:53.24 .net
九州に大きな権力はなかった
そういうことだ

785:日本@名無史さん
24/03/02 08:49:41.47 .net
>>743
URLリンク(lh3.googleusercontent.com)

786:日本@名無史さん
24/03/02 08:51:16.33 .net
>>744
委国というのは属国という意味だからな

787:日本@名無史さん
24/03/02 08:53:09.90 .net
北九州市は陸では行けない
有明海から倭国を周回しようとすると、本州が見えた
菊池川(菊池彦)下流の有明海から本州が見えるところまで5000里はぴったりと合う

788:日本@名無史さん
24/03/02 08:53:42.28 .net
阿波説だと狗奴国はどこになるん?

789:日本@名無史さん
24/03/02 08:54:22.91 .net
>>732
投馬国(於投馬)=出雲~中国地方一帯
邪馬台国=大和~近畿一帯
斯馬国(志摩)・巳百支国(伊吹)・伊邪国(伊賀・伊勢)・都支国(土岐)
弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国
姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国
鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国
躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)
奴国(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・鬼怒・毛野)=東海道~北関東一帯
古代大陸人の日本地理観
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(blog-imgs-127-origin.fc2.com)
隋書倭国伝
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
(都はヤマト、魏志でいうところの邪馬台国なり)

790:日本@名無史さん
24/03/02 08:54:52.11 .net
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる
次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと�


791:jは考古学的にも裏付けられる (続く)



792:日本@名無史さん
24/03/02 08:55:18.44 .net
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ
「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ

793:日本@名無史さん
24/03/02 08:57:25.35 .net
妄想乙


 

794:日本@名無史さん
24/03/02 08:58:32.31 .net
>>745
帰路で関門海峡に行く必要はないだろ

795:日本@名無史さん
24/03/02 08:59:47.69 .net
>>749
また朝鮮人の合成図を出すアホ

796:日本@名無史さん
24/03/02 09:01:08.41 .net
畿内説がまた詐欺してる

797:日本@名無史さん
24/03/02 09:03:05.23 .net
>>752
君の脳の「バカの壁」が客観的事実や合理的解釈を受け入れられないのだろう
可哀想に

798:日本@名無史さん
24/03/02 09:05:48.94 .net
崇神天皇の母親は饒速日を祖とする物部氏なんだよな

799:日本@名無史さん
24/03/02 09:06:34.03 .net
つまり畿内説がいうには、
倭人伝のあらかたは信用できないが、
1万2千里の大和に邪馬台国が有ったという、天の声だけは信じる天里教。

800:日本@名無史さん
24/03/02 09:19:15.26 .net
>>749
朝鮮投馬国レベルの話になってきたな

801:日本@名無史さん
24/03/02 09:27:17.97 .net
>>753
>>747

802:日本@名無史さん
24/03/02 09:27:40.77 .net
>>748
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。   @阿波   

803:日本@名無史さん
24/03/02 09:31:15.94 .net
太陽の出る方角だから南と東を間違えるわけない
但し、数字に関しては、里、戸、日ともにアバウトである
その証拠に、1000余里渡ると対馬国 1000余里渡ると一大国 1000余里渡ると末廬国
これらの距離は実際は違う
特に、末廬国までは半分ぐらいである

804:日本@名無史さん
24/03/02 09:33:40.09 .net
>>760
関門海峡に行く必要が無いし、関門海峡付近はなんと言う国なんだい?

805:日本@名無史さん
24/03/02 09:45:04.04 .net
>>762
日の出の時に太陽が真東から出ても、方角はすぐさま南へ傾く。
顔を洗った頃には東南東、9時には東南、12時には南だ。方角を定める役には立たぬ。
壱岐から末盧国は1000里の半分といっても、それは呼子とみるからだ。
唐津湾内の松浦川をさかのぼった、久里双水古墳辺りの淡水の港(津)が停泊港、
四捨五入すれば1000里、伝は正確に書いている。。

806:日本@名無史さん
24/03/02 09:45:55.99 .net
>>763
周回したのだから行く必要も何も無い

807:日本@名無史さん
24/03/02 09:47:01.40 .net
>>764
だとしたら、宇美から山門の1300里はもっと正確過ぎる

808:日本@名無史さん
24/03/02 09:48:26.20 .net
対馬から南に行くと一支があると書かれた以上どうしようもない
対馬の南に一支がくるところまで地図を傾けるしかない

809:日本@名無史さん
24/03/02 09:49:28.43 .net
>>765
周回したと言うのなら行ったと言う事だろう

810:日本@名無史さん
24/03/02 09:52:58.78 .net
>>766
唐津から宇美までが方角も里もハチャメチャ、
唐津からは東南、つまり佐賀平野だ。

811:日本@名無史さん
24/03/02 09:55


812::09.70 .net



813:日本@名無史さん
24/03/02 09:58:23.67 .net
>>766
戦前の佐賀は旧制高等学校だった。だが博多は九州帝国大学だった。、
だから倭人伝論争も、佐賀を軽蔑して、博多尊重の今に至っているのだ。オメもそのクチ、

814:日本@名無史さん
24/03/02 10:03:01.02 .net
女王国は佐賀と二分している
URLリンク(cdn.amebaowndme.com)

815:日本@名無史さん
24/03/02 10:09:00.40 .net
>>770
>忌部は天皇家と近しいと言うが
忌部とは限らない。
讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。   @阿波

816:日本@名無史さん
24/03/02 10:12:35.10 .net
>>773
今上天皇の直系の先祖は誰かと聞いている

817:日本@名無史さん
24/03/02 10:14:50.81 .net
>>774
分かるか、アホ! 興味もない。   @阿波

818:日本@名無史さん
24/03/02 10:15:53.27 .net
つまり畿内は東の倭種の国確定ですよと

819:ネトウヨボクメツ隊!
24/03/02 10:15:54.20 .net
百田とか竹田宮とか渡邉とかは九州説なんだよな
あれ?あれれ?
ネトウヨはなんでみんな九州説なの?

820:日本@名無史さん
24/03/02 10:18:15.38 .net
>>774
●が天皇でない皇族で、現在の皇室に血筋がつながる人物です。
○数字は北朝の天皇です。
1神武天皇……(全て直系)……12景行天皇―●倭建命―14仲哀天皇―15応神天皇
―●稚淳毛二派皇子―●意富富杵王―●乎非王―●彦主人王―26継体天皇―29欽明天皇
―30敏達天皇―●押坂彦人皇子―34舒明天皇―38天智天皇―●施基皇子―49光仁天皇
―50桓武天皇―52嵯峨天皇―54仁明天皇―58光孝天皇―59宇多天皇―60醍醐天皇
―62村上天皇―64円融天皇―66一条天皇―69後朱雀天皇―71後三条天皇―72白河天皇
―73堀河天皇―74鳥羽天皇―77後白河天皇―80高倉天皇―82後鳥羽天皇―83土御門天皇
―88後嵯峨天皇―89後深草天皇―92伏見天皇―93後伏見天皇―①光厳天皇―③崇光天皇
―●伏見宮栄仁親王―●伏見宮貞成親王―102後花園天皇―103後土御門天皇
―104後柏原天皇―105後奈良天皇―106正親町天皇―●誠仁親王(陽光院)
―107後陽成天皇―108後水尾天皇―112霊元天皇―113東山天皇―●閑院宮直仁親王
―●閑院宮典仁親王(慶光天皇)―119光格天皇―120仁孝天皇―121孝明天皇
―122明治天皇―123大正天皇―124昭和天皇―125今上(現在の天皇陛下)


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