邪馬台国畿内説 Part997at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part997 - 暇つぶし2ch200:日本@名無史さん
24/02/29 05:21:57.29 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

201:日本@名無史さん
24/02/29 05:37:08.41 .net
これが>>1=奥山=キナイコシ

特徴
答えない、答えられない
オウム返し
言葉尻だけとらえ本論に入らない(逃げる)
長文はしない(ボロが出るから)
丁寧語が苦手 使うときはぎこちないからわかる(育ちが悪い?)

@@@@
「奥山の自己満足」
スレが進む(もうすぐ1000スレ)ので「俺はスレの運営が日本一うまい」と誤解している。
同じ 話題をループさせてるのと、投稿者をあおりまくってるだけ。・・ひょっとして馬鹿を演じてるかもしれない。
@@@@@
「奥山の嘆き」
悲しいかな、奥山が一番知っているが、この畿内説のスレを賑やかにしてるのは九州説、阿波説であり
畿内説支持者はまず投稿しない。奥山がほとんどとみてよい。

以上

馬鹿奥山を酒のつまみにしながら投稿するのも このスレの楽しみ方ですから。。。ご自由に

202:日本@名無史さん
24/02/29 06:07:35.58 .net
>>170
「クヌ」だ馬鹿 漢字読めないのか

203:日本@名無史さん
24/02/29 07:06:44.07 .net
寺澤薫的には、伊都国が東遷しなければ畿内は倭国でも無かったって事だよね。  


 三世紀初め、この国はイト倭国体制から新生倭国体制へと大きく舵を切った。同じ「倭国」という名称であっても、歴史的国家形態からいえば、それは部族的国家連合の段階から王国という段階への飛躍であった。それに応じて倭国の王都も、イト国の三雲・井原遺跡群からヤマト国の纒向遺跡へと一気に東遷したのである。  しかもこの二つの倭国には、決定的な違いがあった。つまり、イト倭国の王都が置かれていたイト国はまさに倭国の盟主国であったが、新生倭国の大王都が置かれたヤマト国は、けっして新しい倭国の盟主国ではなかったということである。

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

204:日本@名無史さん
24/02/29 07:16:24.60 .net
卑弥呼共立前は
邪馬台国は倭国ではなかったんだよ

205:日本@名無史さん
24/02/29 07:17:37.63 .net
>>179
寺澤薫的には、伊都国の東遷なんて無かった

206:日本@名無史さん
24/02/29 07:20:12.18 .net
>>179
寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波

207:日本@名無史さん
24/02/29 07:23:34.63 .net
倭国や王都に見合う集落遺跡て何?
何があるの?

208:日本@名無史さん
24/02/29 07:25:57.53 .net
>>181
イト国が東遷したと書いてるけど

209:日本@名無史さん
24/02/29 07:30:38.10 .net
>>180
邪馬台国は伊都国の南にあるよ

210:日本@名無史さん
24/02/29 07:32:47.77 .net
>>185
南へ水行20日と10日陸1月だね

211:日本@名無史さん
24/02/29 07:34:14.00 .net
九州以外にあるけど
行っていない。

212:日本@名無史さん
24/02/29 07:34:41.19 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けており、まともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)
考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている
例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)

213:日本@名無史さん
24/02/29 07:35:40.20 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

214:日本@名無史さん
24/02/29 07:36:59.96 .net
考古学者の北條芳隆は畿内説ではあるが、非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた古臭い畿内自生説ではなく、柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動を想定している

その根底には、畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承との整合が念頭にあるようだ

以下参照

URLリンク(bunkazai.city.fukuoka.lg.jp)

「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」

215:日本@名無史さん
24/02/29 07:37:41.23 .net
>>186
そう、周旋すると伊都国の南になる

216:日本@名無史さん
24/02/29 07:39:22.11 .net
客観的に見て、纒向調査の進展で理論的に崩壊したのは畿内自生説だ

纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、邪馬台国の可能性は、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力が関与した、あるいは北部九州から遷都したヤマト王権が魏志倭人伝の邪馬台国とする最近の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立したとする北部九州説、
の大きく二つに絞られるだろう

最近の考古学者は①の方向性が増えているが(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は主に以下の3つ
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること
ⅱ)描かれた倭人のクニの様子や行程がどう見ても北部九州であること
ⅲ)纒向には大陸との交流の痕跡がないこと

217:日本@名無史さん
24/02/29 07:40:06.61 .net
>>190
矛盾してもいいんだよ。
神武東征に馬が登場するけど?
記紀と整合性とる必要性や必然性はない

218:日本@名無史さん
24/02/29 07:43:43.71 .net
>>192
畿内説ではないが、遠方地
当然、大陸との交流の痕跡がない
のが邪馬台国の一部かもしれん

219:日本@名無史さん
24/02/29 07:44:40.34 .net
>>193
神話・伝承で重要なのは骨子だ
日本に限らず神話・伝承の骨子は多くの場合何らかの史実を反映する

他の神話・伝承と異なり神武東征に限っては骨子まで架空と主張するのであれば、記紀を編纂した当時の朝廷が皇室の由来をでっち上げた動機やメリットを「合理的に」説明出来なければ説得力を持たない

220:日本@名無史さん
24/02/29 07:46:56.83 .net
>>195
逆だよ。記紀に説得力はない。
実際に東征があった痕跡は?

221:日本@名無史さん
24/02/29 07:48:03.77 .net
>>195
何らかの史実を反映する?
思い込み?

222:日本@名無史さん
24/02/29 07:48:45.69 .net
九州 倭国大乱ー卑弥呼ー台与ー266朝貢途絶
畿内 ーーーーーー四道将軍ーーヤマトタケルーー三韓征伐ーー倭の五王

そんな難しい話じゃないのに
九州と畿内を無理矢理くっつけようとするから無理が起こる

223:日本@名無史さん
24/02/29 07:50:17.49 .net
記紀原理原則論は不要だな。

224:これが>>1=奥山=キナイコシ
24/02/29 07:50:18.15 .net
@@@@
>>1奥山の悩み

スレを立てたときは寺沢信奉者だったが、、
寺澤の論調が変わってしまった。また畿内説の学者で纏向や箸墓が王都、卑弥呼と言うことに疑義を抱く人も増えてきた。
今更テンプレも変更できず旧態依然の古い畿内説をテンプレに記載。

225:日本@名無史さん
24/02/29 07:53:02.13 .net
>>200
妄想の九州説あわれ

226:日本@名無史さん
24/02/29 07:53:23.71 .net
>>196
東征の痕跡こそ纒向遺跡だ
纒向は西日本の中でも政治的・文化的に劣後していた奈良盆地に突発的に現れ、現地の銅鐸祭祀を一掃し、北部九州の部族制国家の仕組みや埋葬儀礼、吉備の特殊器台や桃核祭祀などを持ち込んだ
まさに九州勢力が吉備を経由して奈良盆地を征服した神武東征の「骨子」そのままだ

227:日本@名無史さん
24/02/29 07:53:46.98 .net
つまり畿内説は低能の妄想作文でしたと

228:日本@名無史さん
24/02/29 08:00:19.15 .net
>>202
思い込み?
鉄鏃や骨鏃武器の出土がない。
東征における馬登は?

229:日本@名無史さん
24/02/29 08:06:38.91 .net
ホメロスの書いたトロイ戦争や司馬遷の書いた殷王朝
何れもかつては作り話だとされていたが、実際に遺跡が発掘されて史実性が証明された

纒向遺跡も神武東征伝承の史実性の証明になりつつあるのではないか

230:日本@名無史さん
24/02/29 08:07:08.25 .net
>>192
>纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、
👆
何度も投稿していますが、 ここサラッと流していますね。
纏向の調査からは東遷の根拠は無に等しいと思います。
初期ヤマト王権の都とぶち上げてしまったのがそもそもの間違いだったのでしょう。
なんら都にふさわしいものは見つかっていません。神社のような祭祀場のような遺物や、古墳造営か灌漑用とみられる水路は見つかっていますが。
纏向を王都とぶち上げたのがそもそもの間違いだったと思う。
だから、畿内説の学者の論調も変化してきている。

231:日本@名無史さん
24/02/29 08:07:33.32 .net
>>204
壹与の後では?

232:日本@名無史さん
24/02/29 08:08:54.62 .net
つまり畿内説は平気で嘘をつく低能宗教ですよと

■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
 
■鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。

233:日本@名無史さん
24/02/29 08:09:02.48 .net
>>205
何を持って東征があったと証明できるのだろうか?

234:日本@名無史さん
24/02/29 08:13:05.65 .net
>>209
東征も東遷もなく。
狗奴国の人々が移住させられたとか?
熊野古道

235:日本@名無史さん
24/02/29 08:13:26.68 .net
>>206
私は九州説だが纒向は政治(≒祭祀)の中心都市としか思えない
政治的中心地は必ずしも農業工業商業が盛んであったり人が密集しているとは限らない

例えば東京の永田町は現在の日本の政治の中心だが、行ってみるとガランとしていて人もまばらだ

纒向が初期ヤマト王権の王都であったことは権力の象徴たる巨大前方後円墳や祭祀の痕跡から見て疑いようもなかろう
ただ、ここが魏志倭人伝の邪馬台国であったとする合理的根拠が何も無いだけだ

236:日本@名無史さん
24/02/29 08:14:44.49 .net
合理的根拠てどういうの?

237:日本@名無史さん
24/02/29 08:15:48.46 .net
>>212
邪馬台国に関して言えば、魏志倭人伝の記述との広汎な一致ないし決定的物証

238:日本@名無史さん
24/02/29 08:17:56.89 .net
邪馬台国について伊都国並みの
詳細な説明はない。

239:日本@名無史さん
24/02/29 08:18:57.38 .net
>>212
お前の思考回路に無いもの

240:日本@名無史さん
24/02/29 08:19:47.98 .net
>>215
何?

241:日本@名無史さん
24/02/29 08:21:39.65 .net
都合の悪い結果は発表しない事で有名な畿内説さん
いつになったらこの調査結果を発表するの?
他所のはすぐ発表されてたけど

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
URLリンク(www.sankei.com)

242:日本@名無史さん
24/02/29 08:27:38.45 .net
>>217
ミューオンの調査だけで都合の悪いものが発見されるって、どんなものを想定できるの?

243:日本@名無史さん
24/02/29 08:28:28.55 .net
>>215
君の思考回路にあるものが
邪馬台国とは限らない。

244:日本@名無史さん
24/02/29 08:29:04.87 .net
>>183
>倭国や王都に見合う集落遺跡て何?
「鍛冶炉遺構」や「勾玉工房」など、いろいろな先進文化の遺構が残る集落遺跡の群だな。   @阿波

245:日本@名無史さん
24/02/29 08:31:21.33 .net
>>218
石室があったり、横穴式だったりとか、馬具がが写ってたとか

246:日本@名無史さん
24/02/29 08:34:02.13 .net
>>198
3世紀の大和王朝の範囲は奈良、大阪だろう
その前に岡山に行幸したという記述があるぐらいで
九州が出てくるのは垂仁天皇の頃だから少し後ではないか
それも土蜘蛛と書かれているので支配下ではない

247:日本@名無史さん
24/02/29 08:36:16.39 .net
>>182
@阿波 
その通りですよ。纏向の最大の問題点は。
花火をぶち上げたがいいが、王都に見合う集落跡が見つからない。
定住者100人にも満たない遺跡かも????
>寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波

248:日本@名無史さん
24/02/29 08:37:52.72 .net
賛同する
>寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波

249:日本@名無史さん
24/02/29 08:38:24.94 .net
>>190
天照大神以降は南九州ではないか
彼等が南九州へ向かったのは倭国大乱と関係ありそうだが

250:日本@名無史さん
24/02/29 08:39:37.20 .net
>>201
okuyama
>妄想の九州説あわれ
得意の一行投稿Ww

251:日本@名無史さん
24/02/29 08:43:25.45 .net
>>209
北部九州と奈良周辺は同じ地名、山名がかなりある
配置も似ている
移住した人がいた可能性は実際あるのでは?

252:日本@名無史さん
24/02/29 08:46:02.47 .net
>纏向を王都とぶち上げたのがそもそもの間違いだったと思う。

その通り、、今の畿内説の学者の首を絞める結果となっている。
邪馬台国と関連付けるために必死になってる。
その手法の一つが初期ヤマト王権の都とすることだった。
しかし、調査すれど都にふさわしい集落跡が見つからないのが現実のようだ。

253:日本@名無史さん
24/02/29 08:51:33.58 .net
>>211
永田町???
君 何も知らないのかな???議員宿舎、警視庁本部、、、、、

254:日本@名無史さん
24/02/29 08:52:36.73 .net
阿波説を推進していた阿波国古代研究所が仲間割れしていてワロタ。
>新着情報 / 2024年02月18日
> 雨水の侯、我が家の遅咲きの梅も三分咲きでいよいよ春到来です!
>昨春以来一年近く皆様にお待たせしておりました新刊本『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』も、去る11日建国記念の日にようやく上梓することが出来てホッと一息ついております。(11日付け当欄「新着情報」参照)
> さて、当塾「阿波古代史講座」の今月開催は次のとおりですので、宜しくお願い致します。

 新刊本も販売を開始されましたので、当日は次のことについても説明をさせていただきます。
① NPO法人阿波国古代研究所理事長笹田孝至氏から新刊本の内容が彼の説?のパクリだとの批判を展開されていることについて、
② 後に私の新刊本を出版される予定の東京の出版社あて、彼は「自説のパク本にリ違いないので、出版するな。」という未だ出されてもいない時点で前代未聞の “ 質問状 ” を4通も送りつけていることについて、
③ また彼の全権委任を受けたという竹岡誠治氏が私の本のプロデューサー小倉一夫編集計画研究所へ乗り込み、「藤井の本は出すな。」、「自分が知事に提案?して県内活動グループをまとめて発足する(仮称)「阿波ヤマト国財団」(4月発足予定の県の財団)の傘下に入れ。
 入ったら藤井の新刊本も笹田の出す新刊本と一緒に4月14日のクレメントでの設立記念(出版記念)パーテイーで披露してやる。」という高飛車な圧力をかけられましたが、小倉氏とともにこれを拒絶していることについて。
 講座当日は、
① これらの顛末についてご報告し、
② 笹田説なるものは存在しないこと、
③ 彼の著述のほぼすべては岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」(一~三)の記述を基にしており、いわば実質的には大閑氏のパクリであることを説明させていただきます。

255:日本@名無史さん
24/02/29 08:54:55.33 .net
>>206 賛同する
>纏向の調査からは東遷の根拠は無に等しいと思います。
初期ヤマト王権の都とぶち上げてしまったのがそもそもの間違いだったのでしょう。
なんら都にふさわしいものは見つかっていません。神社のような祭祀場のような遺物や、古墳造営か灌漑用とみられる水路は見つかっていますが。

256:日本@名無史さん
24/02/29 08:55:40.69 .net
>>229
建物はもちろんある
しかし新宿や銀座や渋谷のような喧騒はなく空間も広い
近くの赤坂見附あたりのごちゃっとした商業地とはまるで違う

257:日本@名無史さん
24/02/29 09:07:50.53 .net
>>230 追加
なお、古代史塾主宰 藤井榮氏のプロフィールw
代表紹介・あいさつ
藤井ふじい榮さかえ
昭和24年 徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)生まれ。
昭和51年 中央大学法学部法律学科卒
昭和54年 徳島県庁入庁
平成22年 徳島県庁�


258:゙職 岩利大閑著『道は阿波より始まる(一~三)』に感銘を受け、かねてより興味を抱いていた阿波古代史についてNPO法人阿波国古代研究所会員として学び始める。平成26年からは中心メンバーの県内外の現地調査や勉強会に参加するなど本格的に勤しむ。 平成27年から『阿波古代史入門講座』(令和元年度に『邪馬台国阿波説入門講座』より改称)を開講。その傍ら板東英二氏のラジオ番組(『板東板東晴れ板東!(ラジオ関西)』、『板東英二の喜怒哀楽(ラジオ大阪)』等)にゲスト出演して阿波古代史を語る。 現在、古代阿波“倭”人全国進出の足跡についての調査を主なテーマとして活動中。 当サイトではこれらの成果を踏まえ、古代阿波の実像について写真等を交えながら解説することを始め、YouTube配信なども含めて情報発信に努めたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。



259:日本@名無史さん
24/02/29 09:12:57.76 .net
寺澤
:纏向遺跡は生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河等の土木工事が行われている。
ここまで寺澤がわかっていれば、古墳造営の基地とみなしてもよいのではないだろうか?
土木工事が都市建設のためであるとしたら、大集落が発見されてもよいものだ、いまだ住居跡はわずかである。

260:日本@名無史さん
24/02/29 09:20:17.65 .net
>>232
永田町なんて狭い町ですよ 千代田区と比較すべきでしょうな
一応永田町にある施設(さて纏向では??)
国会議事堂 - 衆議院、参議院
国立国会図書館
りそな銀行参議院・衆議院支店
議員会館
内閣総理大臣官邸・内閣総理大臣公邸
国会記者会館 - 官邸前
日枝神社 - 周辺は桜の名所として知られた
衆議院議長公邸・参議院議長公邸 - 互いに隣接している
日本水準原点標庫 - 1891年5月、当時の参謀本部陸地測量部庁舎内に設置された(重要文化財)
内閣府庁舎 - 内閣官房と内閣府が入っている
中央合同庁舎第8号館
憲政記念館
自由民主党本部
立憲民主党本部
千代田区立永田町小学校(廃校)
東京都立日比谷高等学校・星陵会館
山王飯店
全国町村会館
みずほ銀行町村会館出張所
ザ・キャピトルホテル 東急
赤坂エクセルホテル東急
プルデンシャルタワー - 1982年に火災を起こしたホテルニュージャパン跡地に建設された
山王パークタワー - 1936年に二・二六事件の起きた山王ホテル跡地に建設された 現在はNTTドコモの本社が入居
ラルフ・ローレン日本法人本社
三菱総合研究所本社
メキシコ合衆国大使館

261:日本@名無史さん
24/02/29 09:20:50.61 .net
>>234
どう見ても古墳造営基地局だよな

262:日本@名無史さん
24/02/29 09:23:19.96 .net
>>235
住所はともかく山王パークタワーやキャピトル東急は赤坂の商業地兼オフィス用地の圏内
私が例示する永田町には含まない
私のはあくまでも例示なので、論旨を汲み取って欲しい
頭のいい人と議論するとそのあたりがスムーズに通じるのだが

263:日本@名無史さん
24/02/29 09:25:49.66 .net
巨大な土盛りまんじゅうの土砂はどっからもってきたんだ
埋まってた唐古・鍵の大環濠を掘り返して出た土か?

264:日本@名無史さん
24/02/29 09:26:44.20 .net
>>232
官庁街の
霞が関、丸の内、麹町、などなどはなぜ外したの?

265:日本@名無史さん
24/02/29 09:28:19.44 .net
>>239
そこも含んでいいよ
論旨は変わらないから
例示なので排他的ではない

266:日本@名無史さん
24/02/29 09:29:45.13 .net
>>240
ああ、でも麹町や丸の内は民間主体なのでちょっと違うか
霞が関はもちろん含んでもいい

267:日本@名無史さん
24/02/29 09:32:23.02 .net
日本旧小国、倭地併合というのが全てだろう
遠く離れた畿内から外交するような国ではなかった

268:日本@名無史さん
24/02/29 09:32:44.59 .net
>>190
>考古学者の北條芳隆は畿内説ではあるが、、、
>柳田、寺澤、久住らと同様、北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動を想定している
ついに、大崩れしたか。
これは「平原イト国(俗説)」の大崩壊の予兆でもある。
真正の伊都国は、佐賀城址・奴国、吉野ヶ里・不彌国と共に、佐賀平野中央部にあった。

269:日本@名無史さん
24/02/29 09:33:02.37 .net
古墳造営の基地とか思うのは相当に無知な人だけだから、そんなこと連呼しても馬鹿と思われるだけ
纒向の始まりは古墳の造営が始まるだいぶ前だからね

270:日本@名無史さん
24/02/29 09:36:08.54 .net
土地があれば人は住んでても当然だ。
大和と関係あるか無いかだろうね。

271:ネトウヨ撲滅隊!
24/02/29 09:37:18.80 .net
神武東征伝説というのは九州にいた倭王(恐らく伊都国王)が地域大連合を作って、文化後進地域で開拓の余地のあった奈良盆地を制圧し、ここに新王府として邪馬台国(纏向遺跡)を建てたという話が元になって成立したものなのだろう
地域大連合の元になったのが太陽神への信仰で、その要が太陽の巫女である卑弥呼だった
初代のヤマト王が神武天皇のモデルになった人物(以降、彼を神武と書く)であり、ヤマトの建国は桓霊の頃すなわちAD180年の前後であると推測できる
オレは纏向石塚古墳がヤマト王権の初代王の陵墓であり、神武の没年をAD200年頃と推定する

272:日本@名無史さん
24/02/29 09:38:13.40 .net
巨大古墳の造営自体が王としての政治的活動の一環だからね
大和の地方政権であった初期ヤマト王権の重要な活動だ

273:日本@名無史さん
24/02/29 09:38:56.59 .net
妄想

274:日本@名無史さん
24/02/29 09:40:59.73 .net
巨大古墳の造営は王権を引き継ぐ儀式のステージだというのが定説
つまり古墳のひと世代前から王権があった

275:日本@名無史さん
24/02/29 09:44:28.67 .net
つまり初代崇神が四道将軍派遣して
次代垂仁が巨大な土まんじゅうをつくった

276:ネトウヨ撲滅隊!
24/02/29 09:47:30.80 .net
纏向遺跡は西暦180年頃から構築が開始されて、最初の墳墓である石塚古墳が作られるのが西暦200年頃
ヤマトの初代王の名前が本当にイワレヒコだったかどうかわからないから、神武のモデルになった人物としか書けないが、纏向が古墳造営キャンプなら石塚古墳の二十年前に建設が始まったのは意味不明である
そもそも大古墳を幾つも作れる時点で纏向周辺地域が巨大な人口を抱えていたことが明らかである
纏向遺跡内に住居が見つかっていないのは、まだ居住区の調査がされていないか、坪井大福遺跡など近隣の邑から宮に通勤する形態だったからだろう
初代王の名前が伝承でイワレヒコというくらいだから、磐余の範囲にある坪井大福が居住区だったのかもしれない

277:日本@名無史さん
24/02/29 09:47:58.54 .net
>>237 >>241
まず永田町と比較するのが間違いのもとですよ
>頭のいい人と議論するとそのあたりがスムーズに通じるのだが
あなたと議論が通ずる頭のいい人とは頭の悪い人ですよ
私は、中央省庁を長年担当してましたからあのあたりの地理感、官庁街はよくわかってますよ。
あなたは永田町=纏向の大型建物周辺との比較でしょうね
 
あなたが纏向遺跡を政治都市とするならば、永田町を取り巻く


278:官庁街と比較すべきでしょうね。 また、官庁に務める人は現代では電車通勤は可能ですが、当時は歩きでしょう。すると纏向および、その近辺に巫女千人とは言いませんが大人数の住居は必要でしょう。



279:日本@名無史さん
24/02/29 09:49:18.05 .net
>>222
>3世紀の大和王朝の範囲は奈良、大阪だろう だろう
碌に鉄器さえも作れない奈良、大阪がか?   @阿波

280:日本@名無史さん
24/02/29 09:53:49.67 .net
ついこの間まで東遷馬鹿にしてたのに伊都国から東遷してきたことになったり
神武のモデルがいたことになったり
どうすんだこれ

281:日本@名無史さん
24/02/29 09:56:27.16 .net
>>241
>でも麹町や丸の内は民間主体なのでちょっと違うか
ではなぜあの近辺に民間の大企業の本社が多いのか考えたことがありますか?
答え 監督省庁があるのが一番の理由です。許認可等々、、、それも含め政治都市でしょうね。
   例えば日本生命の本社は大阪ですが、東京本社として官庁街に店があります。
   地方銀行の多くも省庁の近辺に主張所を設けています。
   これが政治都市なのです。
纏向と比較するのがそもそもの間違いでしょう

282:日本@名無史さん
24/02/29 09:58:52.51 .net
>>244
あんた知らんの??
古墳造営基地と言ってる研究者いるの 知らんの????
無知ね Www

283:日本@名無史さん
24/02/29 10:02:37.11 .net
>>244
>纒向の始まりは古墳の造営が始まるだいぶ前だからね
そして、纏向遺跡は、大和・柳本古墳群の造営終了と共に消滅する。   @阿波

284:日本@名無史さん
24/02/29 10:03:03.12 .net
女王国の条件
・郡から南方にある国
・漢の時代から代々王を継いできた国
・船で辿り着ける地域
・まだ馬が居ない時代であった
・南の国と戦争をしていた
・東に海があり、その先千里にまた倭種の国がある

285:日本@名無史さん
24/02/29 10:04:10.91 .net
>>251
全部妄想じゃん

286:日本@名無史さん
24/02/29 10:04:35.57 .net
>>254
情けないよね
あれだけ東遷説を笑って、九州みたいな田舎に政権があるわけないと散々バカにしてきたのに
よほど纏向の遺品がしょぼくて詰んでるのだろう
昨年、伊都国歴史博物館で唐古・鍵遺跡、纏向遺跡の企画展示展をやっていたんだけど
伊都国の出土品と比較すると素人目に見てもしょぼかった
畿内説さん、もっと頑張れよ

287:日本@名無史さん
24/02/29 10:05:04.29 .net
>>258
でも邪馬台国の条件ではないかもしれん

288:日本@名無史さん
24/02/29 10:06:29.99 .net
>>251
200回だっけ?
しつこく発掘してきたのになかなか住居跡が見つからないんだよね
いつか見つかるさ
スコップ持って手伝ってあげるよ

289:日本@名無史さん
24/02/29 10:06:54.50 .net
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
URLリンク(i.imgur.com)

290:日本@名無史さん
24/02/29 10:08:57.10 .net
>>260
それがもうそうだと気がついた時、あなたは気が狂ってしまうんだろうね

291:日本@名無史さん
24/02/29 10:09:18.03 .net
>>258
まぁ、こんな感じよね

     北
  朝鮮半島

    伊都国
西  【邪馬台国】  東
(記載なし) 海の向こうに


292:倭種     狗奴国      南



293:日本@名無史さん
24/02/29 10:10:43.39 .net
>>263
>卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏

つまり、これは鉄器王国「阿波」から下賜された地域を示す。   @阿波

294:日本@名無史さん
24/02/29 10:10:59.30 .net
>>264
意味不明

295:日本@名無史さん
24/02/29 10:12:07.57 .net
纏向が畿内説を窮地に追い込んだ現況
石野は早々と吉備説へ
寺澤はようわからんカメレオンだから

296:日本@名無史さん
24/02/29 10:17:37.56 .net
つまり畿内説は頭の悪い学者モドキの作り話でしたと

297:日本@名無史さん
24/02/29 10:18:55.73 .net
>>264
気が狂った書き込み乙

298:日本@名無史さん
24/02/29 10:21:19.56 .net
九州説、追い詰められてるね

もう終わりって気付いてるんだろ?





w

299:日本@名無史さん
24/02/29 10:21:34.02 .net
>>269
学者モドキ?
失礼ね
お給料をいただいてんだからプロの学者に間違いないわよ
金にならんのに考古学やってるアマチュアとは違うんだよ

300:日本@名無史さん
24/02/29 10:22:45.00 .net
>>271
え?なんで九州説?
畿内の話でしょ
どれだけ九州を意識してんの
情けない

301:日本@名無史さん
24/02/29 10:26:13.76 .net
>>272
偏差値やIQの高いやつが考古学なんか専攻する訳ないだろ世間知らず
自ずと馬鹿の寄せ集めになってしまう分野なんだよ
世間にはお前より賢い人の方が圧倒的に多いんだよ

302:日本@名無史さん
24/02/29 10:28:27.32 .net
世間には自分より賢い人の方が圧倒的に多いという現実を受け入れられないのが文系の特徴であり、馬鹿にされる理由でもある

303:日本@名無史さん
24/02/29 10:29:25.97 .net
>>244
>纒向の始まりは古墳の造営が始まるだいぶ前だからね

馬鹿じゃねーの 纏向に人がだれも住んでないと言ってねーよ。日本全国に古墳時代以前に人は住んでたんだから。
纏向にも人は住んでたよ。
ただそんだけのもんよ

304:日本@名無史さん
24/02/29 10:30:16.40 .net
>>274
IQ低くてアホだろうと何だろうと
【仕事】としてやってんだからプロなんだよ
プロなんだからお給料もらうために頑張るさ

305:日本@名無史さん
24/02/29 10:32:14.72 .net
>>247
>巨大古墳の造営自体が王としての政治的活動の一環だからね

地方豪族どもの共同墓地 
統一性はない 墓の向きがバラバラ

306:日本@名無史さん
24/02/29 10:35:53.79 .net
>>268
>纏向が畿内説を窮地に追い込んだ現況

結局、自生畿内説も東遷説も、奈良湿地の底なし沼に吸い込まれてしまう運命ってこと。   @阿波

307:日本@名無史さん
24/02/29 10:41:09.94 .net
>>272
お給料をいただいてるのに間違った研究してた気付いたから
捏造するしかなくなってる畿内説。

308:日本@名無史さん
24/02/29 10:47:09.52 .net
>>263
北陸、関東まであるので
ボツだq

309:日本@名無史さん
24/02/29 10:47:58.83 .net
>>279
小松島飛鳥の宮説を推進していた阿波国古代研究所が仲間割れを起こしている件はどうお考えですか?

310:日本@名無史さん
24/02/29 10:53:57.22 .net
>>251
>そもそも大古墳を幾つも作れる時点で纏向周辺地域が巨大な人口を抱えていたことが明らかである

土木作業員は野宿でも簡易的なわら小屋でもいいの
そういうのは集落と呼ばないし、見つからないのだよ。

要は纏向遺跡では当時の弥生遺跡にみられる竪穴式や掘立て柱の住居が多く見つかってないのよ。
いつか出るだろうと憶測で調査するのは公金チュウチュウの体質。

311:いっつも思う
24/02/29 10:58:17.04 .net
いつも思う
弥生期 日本全国に人が住んでたんだから
何処でも 掘ってたら弥生時代の遺物が出る可能性はある
問題は
その遺物が邪馬台国と関係あるかどうかが問題。
邪馬台国と関係あるかどうかは魏志倭人伝の記述に頼るしかない。
これが原理原則
だから、畿内説の方に纏向遺跡で倭人伝の記述と一致する遺物を数多く列記してもらいたいのです。

312:日本@名無史さん
24/02/29 10:59:06.57 .net
>>280
気付いても気付かない振りを続けていたのが旧石器時代捏造事件
それ以降も同じ事を繰り返してるだけ

313:日本@名無史さん
24/02/29 11:03:06.27 .net
>>284
しかも畿内説は日本に色んなルートで色んな民族が渡ってきて住み着いたという事すら想定していない
まるで古代から日本原人が日本列島を支配してきたかのように妄想している

314:日本@名無史さん
24/02/29 11:03:57.06 .net
今見つかっている纏向の掘立て建物群は、
仮設の祭祀場でしょ?
祭祀を行うたびに建て替えしてるのかも。

315:日本@名無史さん
24/02/29 11:07:18.27 .net
>>280
>捏造するしかなくなってる畿内説。
私もそれを恐れています。纏向は調査すれどさしたる成果なし。公金だけが費やされました。
アタオカがでないとも限りません。

316:日本@名無史さん
24/02/29 11:09:05.96 .net
巻向遺跡が大和発祥の地かもしれんが、魏志倭人伝とは関係ない。

317:日本@名無史さん
24/02/29 11:12:20.11 .net
そもそも畿内は、明治の内藤説を奉って発掘し、複勝してきただけ。
見込み違いに気づいても、畿内の鉄は腐ってなくなったとか、
開き直って通り抜けようとしてる・・、

318:日本@名無史さん
24/02/29 11:13:20.31 .net
巻向遺跡は現代の学者が付けた名称、範囲であって、3世紀頃には無いから

319:日本@名無史さん
24/02/29 11:20:05.56 .net
九州 倭国大乱―卑弥呼―台与―266朝貢途絶
畿内 ―――四道将軍―ヤマトタケル―三韓征伐―倭の五王
※倭王武の上表文(478年)
 自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
 東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
※倭王讃の上表文(425年/冊府元龜/卷0963)
 是年,倭國王倭讃遣使奉表,獻方物。
 表曰:「封國偏逺,作藩于外。自昔祖父躬擐甲胄,䟦渉山川,不遑寕處。
 東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
※景行→(子)日本武尊→(子)仲哀→(子)応神→(子)仁徳
  応神の祖父にあたるのが日本武尊ということになる
※天皇位は景行→(子)成務→(甥)仲哀と継がれた

320:日本@名無史さん
24/02/29 11:20:49.64 .net
想像上の国、邪馬台国は巻向遺跡だった。
ならば、そうかもしれん

321:日本@名無史さん
24/02/29 11:20:56.24 .net
>>253
だから日本旧小国なんだよ

322:日本@名無史さん
24/02/29 11:25:36.59 .net
>>265
邪馬台国の西は有明海
倭人海に潜るは有明海の事

323:日本@名無史さん
24/02/29 11:28:57.54 .net
>>289
いや、普通に畝傍山麓でいいだろ

324:日本@名無史さん
24/02/29 11:29:36.55 .net
>>282
マウント争い。   @阿波

325:日本@名無史さん
24/02/29 11:32:19.57 .net
>>289
東日本にもいくつもの王朝があっただろう
それらが魏志倭人伝に記載されていないのと、大和が記載されていないのは同じ事だろう
大和も大陸から離れた辺境の王朝に過ぎない

326:日本@名無史さん
24/02/29 11:36:08.34 .net
淡路島→大日本豊秋津洲→伊予二名洲→筑紫洲→隠岐洲→越洲→大洲→吉備子洲
この順番は、その場の思いつきとかでは無いと考えますが。

327:日本@名無史さん
24/02/29 11:38:12.88 .net
>>287
同意します
>今見つかっている纏向の掘立て建物群は、
仮設の祭祀場でしょ?
祭祀を行うたびに建て替えしてるのかも。
👆
大型建物と言われてる建物の柱穴は浅く、柱もあまり太くありません。
また、纏向は湧水が出るように当時はもっとじめじめしてたでしょうが、他遺跡で発見されている柱の基礎とな礎石、礎板の類はありません。
耐久性は低いと言わざるを得ません。
建て替え立て替えがあったのか、祭事のおりに簡易的に建てられたのかもしれません
一説によると一時的な葬儀に使われたかもと言われています。祭事で人が集ったとき市が立ったのかも???

328:日本@名無史さん
24/02/29 11:39:40.89 .net
>>284
畿内さん
「巨大古墳だー卑弥呼の墓に違いない」
「柱の跡だー卑弥呼の祭殿に違いない」
「桃の種だー卑弥呼の鬼道に違いない」
「花粉だー大陸と交流していたに違いない」
「銅鏡だー卑弥呼の鏡に違いない」

これがおかしいのが理解できない不思議

329:日本@名無史さん
24/02/29 11:40:21.40 .net
>>299
出だしの淡路島が間違い。 吉野川中州の粟島などだ。   @阿波

330:日本@名無史さん
24/02/29 11:43:39.52 .net
>>299
これは、物部(忌部)の郷周辺地域を言っている。   @阿波

331:日本@名無史さん
24/02/29 11:56:09.67 .net
>>300
祭祀の都度=古墳建造の都度

332:日本@名無史さん
24/02/29 12:04:40.95 .net
【最新】発掘調査結果報告(2024年2月29日時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら
・ミュー粒子を使った箸墓古墳透視調査結果(未だ未公表)

333:日本@名無史さん
24/02/29 12:35:30.53 .net
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね

334:日本@名無史さん
24/02/29 12:36:11.06 .net
①まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
②次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50㎞)の範囲で、伊都→博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかないこと。
③そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(の海上)にあり」とするための方便(蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振


335:山地▲▲.....↓【関門海峡】 女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里 ...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓ 狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里 ......................投馬国(宮崎平野) ............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」 会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(架空の女王国)



336:日本@名無史さん
24/02/29 12:36:46.35 .net
>>303
古事記とは違うようですが、何か理由はあるんでしょう。
大和の都合もあるかもしれない

337:日本@名無史さん
24/02/29 12:41:16.54 .net
>>308
>古事記とは違うようですが
古事記は、「阿波」の物語。   @阿波

338:日本@名無史さん
24/02/29 12:42:24.35 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)


久 努 国 ( く の の く に )


久 努 国 ( く の の く に )


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

339:日本@名無史さん
24/02/29 12:48:47.66 .net
⇩魏志倭人伝の正解
URLリンク(i.imgur.com)

340:日本@名無史さん
24/02/29 12:48:58.26 .net
>>310は畿内説が行き詰まった時に貼るコピペ

341:日本@名無史さん
24/02/29 12:52:26.95 .net
⇩会稽東冶之東「南水行十日陸行一月」のカラクリ
URLリンク(i.imgur.com)

342:日本@名無史さん
24/02/29 12:52:32.29 .net
おーーい
奥山
ハッケヨイ

343:日本@名無史さん
24/02/29 12:54:01.05 .net
九州説の方、魏の使者が狭い九州の事ばかり書いて、目の前の出雲の事を一切書かないとかおかしくないですか

344:日本@名無史さん
24/02/29 12:55:41.06 .net
「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里」
書いてありますw

345:日本@名無史さん
24/02/29 12:57:07.10 .net
>>315
東の倭種ってちゃんとかいてある

346:日本@名無史さん
24/02/29 12:59:23.22 .net
>>302
潮の雫が固まって島になったっていってるんだから、
川の中洲では無いよ。

347:日本@名無史さん
24/02/29 12:59:24.68 .net
>>317
情報少なすぎるだろ

348:日本@名無史さん
24/02/29 13:00:29.79 .net
出雲も元々は筑紫の勢力の分家だったと思う

349:日本@名無史さん
24/02/29 13:00:34.08 .net
>>319
女王国の傍国ですら名前以外なにもわからんので
女王国以外の東倭種なんて名前すらわからん

350:日本@名無史さん
24/02/29 13:02:18.60 .net
>>321
山陰は半島からハングル書かれたゴミが流れて来るような距離だぞ

351:日本@名無史さん
24/02/29 13:02:55.64 .net
>>316
渡海千里って、九州島と本州島の距離じゃ無いじゃないですか。
九州と本州はすぐ目と鼻の先です。
ちょっと広めの川ぐらいの距離でしか無い。

352:日本@名無史さん
24/02/29 13:04:12.48 .net
>>315
郡使は北部九州沿岸から山口県くらいまでしか行ってないから

353:日本@名無史さん
24/02/29 13:04:36.02 .net
>>322
魏使にとって興味があったのは
後漢の時代から使訳を通じてた30余国連合の大倭王が統べる倭国(=九州)なのであって
東の蛮族などどうでもよかった

354:伊太乃に居たの
24/02/29 13:07:05.02 .net
>>302
粟島が南岸から分離して川中島になったのは平安時代の事なんですが?

355:日本@名無史さん
24/02/29 13:07:45.20 .net
楼観なし 城柵なし の纏向遺跡w

356:日本@名無史さん
24/02/29 13:10:51.05 .net
郡使は九州の内陸の傍国にも行ってないし、九州南部の狗奴国へも行ってないね
本州とか殆ど行ってないみたい。

357:日本@名無史さん
24/02/29 13:12:25.49 .net
>>322
行きはいいけど、帰りが大変そう。

358:日本@名無史さん
24/02/29 13:18:02.60 .net
>>3


359:01 「巨大古墳だー卑弥呼の墓に違いない」 「柱の跡だー卑弥呼の祭殿に違いない」 「桃の種だー卑弥呼の鬼道に違いない」 「花粉だー大陸と交流していたに違いない」 「銅鏡だー卑弥呼の鏡に違いない」 邪馬台国は奈良盆地にあったに違いない 10年前の岸本論文で多くの考古学者はそう思ったらしい 畿内説では10年後の今でもそう思っているらしい



360:日本@名無史さん
24/02/29 13:20:40.15 .net
⇩魏使が見た女王卑弥呼の王宮
URLリンク(pbs.twimg.com)

361:日本@名無史さん
24/02/29 13:23:52.30 .net
>>331
まんま吉野ヶ里じゃん

362:日本@名無史さん
24/02/29 13:25:44.77 .net
>>331
ワロタw

363:日本@名無史さん
24/02/29 13:39:59.63 .net
纏向は楼観と城柵を見つけられるんかな
まぁ頑張れ

364:日本@名無史さん
24/02/29 13:44:06.36 .net
基本的なことを知らないので、教えてください。   
古事記の天地開闢に登場する「陰陽斯開二靈」を伊邪那岐命と伊邪那美命に比定したのは、誰なんだろうね。   @阿波

365:日本@名無史さん
24/02/29 13:50:33.85 .net
>>330
墳墓や古墳はあちこちにある
柱の跡など弥生時代末期の建物もあちこちにある
桃の種なら吉備のほうが大量に出土している
花粉は交易レベルでしかなく、交易なら日本全国どことでも繋がってる
銅鏡もあちこちから出土している
あれ?
邪馬台国は吉備じゃね?www

366:日本@名無史さん
24/02/29 13:55:19.78 .net
基本的なことを知らないので、教えてください。
特殊器台とか円筒形埴輪が出土したのはどの地域?

367:日本@名無史さん
24/02/29 13:59:14.79 .net
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と吉備ヤマト王権が共存。
266年、巫女だけに跡継ぎがいない台与は吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に報告「複立男王 並受中国爵命」。
そして箸墓が造られ、筑紫邪馬台国は倭国大乱の戦後処理内閣(臨時倭王権)としての役割を終える。

368:日本@名無史さん
24/02/29 14:02:08.15 .net
東遷と言うのがちょっとわかりにくいんですよね。
東征ならわかります。辺縁を東に広げることで分かりやすい。
しかし東遷となると、中心が東に一時的ではなく永続的に移ることですよね。
つまりセンターというか王権、統治機構がゴッソリ移動する。
今まで九州北部で得ていた地政学的な利得や優位性、これらを捨て去ってなぜか他の地方に移る。しかもど田舎に。朝鮮半島特に楽浪や帯方郡など、中国との交通、半島南部の国々との貿易による利得、そして鉄製品の獲得の優位さあったでしょう。九州北部が他の地域から抜きん出る事を可能にした優位性を投げ打って、後進的な地域に移動する。
しかも王を含め統治機構全体が移動するわけですから、家族やら含めて数千人規模の移動になる。その構成員たる豪族たちはそれぞれ土地と結びついているわけで、彼ら累代の聖地というか、墳墓のようなものも、それぞれ豪族たちは持っていたでしょうから、そういったものも全てをなげうって鉢植えのように引っこ抜いて移動させなければならない。
しかも移動するにしても当時は馬もないし、船だってろくなものがないでしょう。瀬戸内海も何回も船を乗り換えなければならない。街道だって碌なもんじゃない。ほとんどが徒歩での移動だったはず。それが数千人規模で、遥か遠くの奈良まで移動しなければならない。これは大変な事ですよ。
そこまでして東遷せざるを得なかった、その理由が知りたい。

369:日本@名無史さん
24/02/29 14:05:31.34 .net
東遷など存在せんよ
あったのは征西
畿内ヤマトが東西にその影響力を広げ
やがて九州も併合した
そうなって初めて「ど田舎」にいた九州くまモンが
「中央」奈良の大和


370:政権に仕えるようになっただけ



371:日本@名無史さん
24/02/29 14:06:20.06 .net
倭王権は、北部九州から大和に遷ってはいない。
倭王権は天智まで一貫して北部九州にあり続け、王墓だけが大和に造られたのです。

372:日本@名無史さん
24/02/29 14:06:34.59 .net
×ど田舎 ○辺境

373:日本@名無史さん
24/02/29 14:07:53.74 .net
つまり九州王朝説が史実(天垂彦が裴世清に説明した兄弟王朝=九州本家+大和分家)ということ。

374:日本@名無史さん
24/02/29 14:15:13.95 .net
江戸時代の大名のお国替えのように、行列組んで一斉に移った訳じゃなかろ。
10年、20年、30年かけての大事業。
理由は、日本神話にある天地を揺るがす南海トラフの大地震と阿蘇山の噴火だった。
だから神武が、日向の美々津から船出したことになっているのではないか、

375:日本@名無史さん
24/02/29 14:23:00.94 .net
人が移動する時はプッシュの要素とプルの要素がある
異民族の攻撃とか気候変動で農耕できなくなったとかがプッシュの要素
移動先の方が豊かとか農耕に適してるなんてのがプルの要素
卑弥呼東遷説にはそういった要素ないからインチキだと思います。

376:日本@名無史さん
24/02/29 14:28:46.40 .net
古墳時代は、九州本家(半島派兵王)と大和分家(内政築造王)という車の両輪で国家経営されていた。
天垂彦の後、阿蘇山が大噴火したため、天智が阿蘇邪靡堆から太宰府に北遷。
その後乙巳の変や大化の改新を経て、白村江の完敗で大津宮に疎開し、大和分家の天武と合流したのである。
倭王権は漢委奴国王~帥升~卑弥呼台与~讃珍済興武~天垂彦~天智太宰府まで、一貫して北部九州にあったわけである。
大和はその奥津城「王家の谷」であって、倭王権は東遷などしていない。

377:日本@名無史さん
24/02/29 14:34:12.46 .net
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

378:日本@名無史さん
24/02/29 14:42:27.01 .net
>>337
>特殊器台とか円筒形埴輪が出土したのはどの地域?
吉備と大和が中心で伊予、播磨、出雲、伯耆、丹後に波及

379:日本@名無史さん
24/02/29 14:44:24.90 .net
基本的なことを知らないので、教えてください。   
古事記の天地開闢に登場する「陰陽斯開二靈」を伊邪那岐命と伊邪那美命に比定したのは、誰なんだろうね。   @阿波

380:日本@名無史さん
24/02/29 14:44:49.57 .net
>>348
倭種の国らしくていいね
九州は石人だっけ?

381:日本@名無史さん
24/02/29 14:50:53.97 .net
仁徳の難波高津宮からも、雄略の泊瀬朝倉宮からも、見つかったのは掘立柱の茅葺倉庫だけw

382:日本@名無史さん
24/02/29 14:55:29.53 .net
継体の樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮からは何も出てこないw
大和分家は纏向含め、古墳を築造していたのだから、大王宮ではなく古墳造営キャンプw

383:日本@名無史さん
24/02/29 15:08:01.63 .net
>>349
天児屋命の子孫

384:日本@名無史さん
24/02/29 15:15:39.51 .net
おーーーい
奥山
ハッケヨイ

385:日本@名無史さん
24/02/29 15:16:41.69 .net
>>352
だから古墳時代は大王宮が転々とするわけか...orz

386:日本@名無史さん
24/02/29 15:17:17.27 .net
>>352
古墳造営キャンプに列島最大の建物群があるとかw
九州説は全国に恥を晒して滅んでいくなあ
貧すれば鈍すってやつ?

387:日本@名無史さん
24/02/29 15:19:31.80 .net
>>331
スゲェ!纏向とは比べ物にならんなw

388:日本@名無史さん
24/02/29 15:21:56.48 .net
>>356
列島最大の建物群wwwww
うん、おもしろいからそのままで

389:日本@名無史さん
24/02/29 15:22:40.30 .net
>>357
纏向の脳内には列島最大の建物群が見えるらしいよ

390:日本@名無史さん
24/02/29 15:23:58.35 .net
>>331
なんじゃこりゃ...orz

391:日本@名無史さん
24/02/29 15:26:07.45 .net
伊勢遺跡ならまだ分かるが纏向かよw

392:日本@名無史さん
24/02/29 15:32:34.62 .net
纏向遺跡URLリンク(i.imgur.com)

393:日本@名無史さん
24/02/29 15:37:24.92 .net
吉野ヶ里
URLリンク(i.imgur.com)

394:日本@名無史さん
24/02/29 15:43:12.17 .net
>>356
大型建物群???な掘立柱建物というか知ってるか?
 掘立柱建物は、礎石を用いず、地面を掘った穴の中に柱を立てた建物。
柱穴は浅いし、柱は細いし、基礎は礎石や礎板はないし。
簡易的な豚小屋みたいなもん。
地震が来たら真っ先に壊れる

395:日本@名無史さん
24/02/29 15:49:01.36 .net
>>364
こらこら伊勢神宮の悪口を言うんじゃ無い。

396:日本@名無史さん
24/02/29 15:50:53.05 .net
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と吉備ヤマト王権が共存。
247年卑弥呼の跡を継ぎ、張政の指導で狗奴国卑弥弓呼を滅ぼしたお祝いに魏帝から曹操鉄鏡(日田で出土)を貰い、266年、巫女だけに跡継ぎがいない台与は吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に報告「複立男王 並受中国爵命」。
そして箸墓が造られ、筑紫邪馬台国は倭国大乱の戦後処理内閣(臨時倭王権)としての役割を終える。

397:日本@名無史さん
24/02/29 15:53:43.79 .net
3世紀中には廃絶の建物URLリンク(i.imgur.com)

398:日本@名無史さん
24/02/29 15:57:13.51 .net
九州説がバカ晒す
無駄な抵抗
上代の宮殿はそういうもんなの

399:日本@名無史さん
24/02/29 15:57:23.59 .net
>>364
掘建柱建物は基礎がグラグラしてるから地震には強いと思うよ。
長持ちはしないだろうね。纏向は湿地帯だし、、
宮殿なんて大きく出たもんだが、、、、あばら家かな

400:日本@名無史さん
24/02/29 15:57:46.30 .net
>>367
倭種には倭種の歴史があったんだよ

401:日本@名無史さん
24/02/29 16:02:40.04 .net
>>366
つまり箸墓は、266年に築造が開始された「複立男王 並受中国爵命」の墓ってこと?

402:日本@名無史さん
24/02/29 16:02:56.12 .net
平塚川添遺跡
(柱穴   礎板例)
URLリンク(inoues.net)

403:日本@名無史さん
24/02/29 16:04:46.57 .net
シンプルに、7万戸や5万戸の巨大都市が古代の九州にあるわけ無いだろ

404:日本@名無史さん
24/02/29 16:04:55.51 .net
畿内説は阿波説と同じオレオレ詐欺に過ぎなかったわけで、九州説と九州王朝説のどちらが正しいかを議論すべき段階に来ているな

405:日本@名無史さん
24/02/29 16:06:50.50 .net
>>373
奴国2万戸(福岡平野250㎢)だから、その5倍弱の筑紫平野(1,200㎢)には10万戸まで可能w

406:日本@名無史さん
24/02/29 16:07:21.14 .net
>>365
良い指摘です
伊勢神宮も掘立柱建物です。耐久性は低いです。
だから20年の一度立て替えます(式年遷宮)

407:日本@名無史さん
24/02/29 16:08:54.17 .net
>>368
例を挙げてくれないと???

408:日本@名無史さん
24/02/29 16:14:45.33 .net
>>368
良い指摘です
伊勢神宮も掘立柱建物です。耐久性は低いです。
だから20年の一度立て替えます(式年遷宮)
纏向の建物も建て替え、立て替えの柱穴とではないかと言う人もいますね。
すると、大型でなく中型か小型かもしれませんね。
いずれにせよ大きいからどうしたの???ということでしょうね。
倭人伝にも大きな居とも記述ないし、、
大きいから何?????

409:日本@名無史さん
24/02/29 16:18:22.13 .net
>>356
墓地だろ 斎場ぐらいあるさ

410:日本@名無史さん
24/02/29 16:19:14.14 .net
セレモニーホールだねw

411:日本@名無史さん
24/02/29 16:23:15.40 .net
ストリップ小屋でもあった

412:日本@名無史さん
24/02/29 16:26:37.42 .net
纒向に古墳が多数あるのは霊園だった証拠であり、当然副葬品の出土数は多くなる
しかし墓の被葬者は地元の首長とは限らないし、副葬品も地元産とは限らない
纏向で出土した物を迷わず纏向産と位置付けてる考古学者はかなり頭が悪い
よって畿内説は馬鹿の妄想説でしたと

413:日本@名無史さん
24/02/29 16:29:16.08 .net
>>375
そんなに住んでた考古学的証拠あんの?

414:日本@名無史さん
24/02/29 16:35:53.42 .net
敗退九州説の馬鹿さが際立つ

415:日本@名無史さん
24/02/29 16:36:18.08 .net
吉野ヶ里遺跡
URLリンク(ja.wikipedia.org)
古墳時代
>古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。
また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
なぜ「戦乱の世が治ま」ったのか?
それは卑弥呼が即位したから
卑弥呼が纏向で即位してから吉野ケ里遺跡は機能を失う

416:日本@名無史さん
24/02/29 16:37:10.72 .net
距離も方位もデタラメな畿内が邪馬台国のわけがない

417:日本@名無史さん
24/02/29 16:37:14.33 .net
>>383
北部九州では~3世紀の墓地が多数発見されているので多くの住人がいた事は確実だ
弥生の箱式石棺墓29基出土 行橋市の長井遺跡 大小密集、家族墓か
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)

418:日本@名無史さん
24/02/29 16:38:59.12 .net
卑弥呼が女王となったのち、倭国で飢饉が発生し多くの人々が半島に食糧を求めてやってきたという記録がある

419:日本@名無史さん
24/02/29 16:39:31.08 .net
つまり畿内説はウソ

420:日本@名無史さん
24/02/29 16:41:12.81 .net
>>387
墓29基じゃなくて7万戸住んでた証拠を出せよ
1戸4人でも28万人だぞ

421:日本@名無史さん
24/02/29 16:44:20.84 .net
筑後と肥国で7万戸だな

422:日本@名無史さん
24/02/29 16:44:22.26 .net
>>390
墓の残存率、発見率とか頭に無いのか?
さすが低IQ文系の代表格畿内説w

423:日本@名無史さん
24/02/29 16:45:01.11 .net
4世紀後半奈良に誕生する円墳と蛇行剣
4世紀末には同じく円墳の堺の七観山古墳や豊中から蛇行剣が見つかっている
蛇行剣は九州南部で大流行した剣だな
九州南部は竹内宿禰の伝承が残り、竹内宿禰と手を組んでいた鹿皮の服を着た配下に持つ日向牛諸井の拠点である
竹内宿禰との逸話が残る大鷦鷯という名はミミヅクと交換した名である
宮崎は耳津などミミの地名が残る地だな

424:日本@名無史さん
24/02/29 16:45:26.35 .net
ここはひとつ、7万戸や5万戸の巨大都市が古代の奈良にあった証拠出そうぜ

425:日本@名無史さん
24/02/29 16:45:32.05 .net
奈良は7000戸 by寺澤薫

426:日本@名無史さん
24/02/29 16:49:19.46 .net
帯方郡の渡来人が多い地域が邪馬台国ニダ

427:日本@名無史さん
24/02/29 16:50:10.48 .net
推理推測が優先 
倭人伝記述に基づく証拠なんてわずか
ポツンと大きな建物が何???倭人伝に倭国で一番大きな建物が宮殿って書いてあるの?
楼観 城柵 があったほうが説得力がますよ。定住者の大集落跡があるとか。。。
なんでもみつかりゃ 邪馬台国と大騒ぎ
倭人伝に記述あるかどうか確かめてから公表すべき

428:日本@名無史さん
24/02/29 16:51:05.45 .net
つまり畿内は下手すりゃ狗奴国だったかもよと

429:日本@名無史さん
24/02/29 16:51:35.17 .net
おーーうい
奥山
ハッケヨイ

430:日本@名無史さん
24/02/29 16:53:19.36 .net
>>397
敗北九州説必死の悪あがき

431:日本@名無史さん
24/02/29 16:56:14.02 .net
畿内はヤマトに決まっておる。グレートオブ倭はヤマトだけ。

432:日本@名無史さん
24/02/29 16:59:46.62 .net
今も田舎の筑後平野に、古代に30万人巨大都市があったとさ
めでたし めでたし

433:日本@名無史さん
24/02/29 17:02:51.61 .net
.



投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)



.

434:日本@名無史さん
24/02/29 17:05:15.63 .net
延喜式だと九州で71万人
URLリンク(i.imgur.com)

435:日本@名無史さん
24/02/29 17:11:31.79 .net
>>388
三国史記で193年に大飢饉のため倭人が食料を求めて新羅に押し寄せたという記事
同じく三国史記で高句麗側の記録でも194年に食糧不足に苦しんだとの記録
さらに正史三国志の武帝紀では194年に穀物が1万5千余万銭に高騰し人間同士が食い合ったという記事
これらの記事から、193年から194年にかけては東アジアの広い範囲で飢饉が発生した模様が窺える
しかし、これらは一時的な食糧危機 戦乱の混乱の後に平和を取り戻したことは画期的な出来事 その画期的な出来事が人々の暮らしに変化を与えた

436:日本@名無史さん
24/02/29 17:14:34.38 .net
>高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か(産経新聞)
URLリンク(www.sankei.com)
>「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落
この現象は、弥生の大洪水によって灌漑稲作が壊滅状態となり、弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、
終には平地の暮らしを放棄し、縄文的な生業と地域社会へ回帰するように高地性集落が形成されたのだろう。   @阿波

437:日本@名無史さん
24/02/29 17:16:22.47 .net
>>405
それを示す痕跡が纒向には無い

438:日本@名無史さん
24/02/29 17:20:28.22 .net
>>406
そうそう
頭の悪い畿内説は倭国大乱の時期に防衛性重視のため高地性集落へと移行したとか言ってたよな
どんだけ低能なんだ?と感じたのを覚えてるよ

439:日本@名無史さん
24/02/29 17:24:34.01 .net
洪水は一定の間隔で定期的に発生した
それが原因で反復して高地性集落ができたということはない

440:日本@名無史さん
24/02/29 17:25:36.96 .net
>>407
纏向にも環濠はない

441:日本@名無史さん
24/02/29 17:27:05.22 .net
>>408
高地性集落の機能は軍事的な目的を満たすため

442:日本@名無史さん
24/02/29 17:28:09.38 .net
そもそも倭人伝に環濠は出てこない
たぶん魏使は環濠集落を見ていないな


 

443:日本@名無史さん
24/02/29 17:33:39.48 .net
>>412
そうだな
おまえの脳内では、弥生時代は交易拠点だった原の辻遺跡の大規模な環濠集落も見てないってことだよね

444:日本@名無史さん
24/02/29 17:39:02.71 .net
>>411
妄想乙

445:日本@名無史さん
24/02/29 17:41:13.07 .net
卑弥呼の居住区は城柵に囲まれ守衛が居たんだよな
纏向のあったかどうかも不明な垣根はイノシシが貫通出来そうな貧弱な柵

446:日本@名無史さん
24/02/29 18:00:08.98 .net
九州説はウソが好き



w

447:日本@名無史さん
24/02/29 18:03:06.11 .net
>>413
原の辻を見て博多湾岸に来たら
倭国には環濠集落が無いと実感するだろうね

448:日本@名無史さん
24/02/29 18:03:11.56 .net
いつもの畿内説の自己紹介は飽きたな

>416:日本@名無史さん:2024/02/29(木) 18:00:08.98
>九州説はウソが好き
>
>
>
>w

449:日本@名無史さん
24/02/29 18:12:59.83 .net
>>408
畿内説のバカどもが、どうして瀬戸内海の高地性集落を倭国大乱の痕跡!なんて頓珍漢なことを言うのか、やっとわかったぞ❣w

あいつら、(後漢鏡を持ってなかったw)吉備の楯築弥生墳丘墓を帥升の墓ってことにしたいだけなんだよw

漢委奴国(博多)王→帥升(吉備楯築)→卑弥呼(箸墓) のストーリーの伏線を張ろうとしてるw

450:日本@名無史さん
24/02/29 18:17:56.78 .net
倭国大乱と言うが、魏志倭人伝は九州の一部を倭国と書いてるが。
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

451:日本@名無史さん
24/02/29 18:24:09.83 .net
倭人は楽浪海中に分かれて100余国
これが倭地をマクロに見た状況

魏志では半島から渡海してきたところに30余国からなる女王国連合があり
東に海を渡るとまた倭種の国々がある様子が書かれている

452:日本@名無史さん
24/02/29 18:26:04.28 .net
少なくとも、五斗長垣内遺跡が稼働してる間は争いは起きてただろう。
何処で起きてたか知らんけど。

453:日本@名無史さん
24/02/29 18:27:18.16 .net
韓国が方4000里(300㎞)で、
倭国が5000里(375㎞)...九州島の南北の長さはおよそ330㎞ほどでピッタリw

454:日本@名無史さん
24/02/29 18:30:09.14 .net
>>415
>纏向のあったかどうかも不明な垣根はイノシシが貫通出来そうな貧弱な柵
九州説は何も知らずにデタラメ書くという証拠ありがとう

455:日本@名無史さん
24/02/29 18:30:25.43 .net
つまり畿内説はオレオレ詐欺

456:日本@名無史さん
24/02/29 18:30:44.67 .net
五斗長垣内遺跡は倭国大乱が起こると終了したそうだから
大乱で鉄器需要が激増した九州に集落丸ごと郷帰りしたんだとおもう

457:日本@名無史さん
24/02/29 18:31:56.45 .net
>>311
>>313
なるほど

458:日本@名無史さん
24/02/29 18:32:12.90 .net
>>423
九州説が証拠出さずにウソをつく
という証拠
ありがとう

459:日本@名無史さん
24/02/29 18:32:52.36 .net
>>420
倭国と倭地は明確に区別して書かれている
倭地は狗奴国から南西諸島、これが「周旋可五千餘里」

460:日本@名無史さん
24/02/29 18:34:50.62 .net
>>429
畿内説の敗北宣言出ちゃったねw

461:日本@名無史さん
24/02/29 18:51:35.45 .net
>>430
狗奴国は熊本あたり、後の熊襲
畿内説はテンプレが全てではない

私は畿内説を支持するが独自の見解も持っている
・狗奴国の位置
・狗奴国は古代から何度も直接中国大陸に渡海していた
・「計其道里 當在会稽東治之東」とあるのは狗奴国と南西諸島のこと緯度から言えば種子島のあたりを指している
・一大率は魏の役人の役職名
などだが、これらはいずれも些細な論点

重要なのは卑弥呼の共立によって倭国大乱が治まったこと、箸墓古墳が卑弥呼の墓と大きさが一致すること この2点で既に畿内説で決着がついている
本来であれば、このスレの存在意義もすでに失われている
畿内説を支持してきた人々はそう感じてスレを離れた

462:日本@名無史さん
24/02/29 18:56:13.95 .net
>>431
寺澤薫は石塚古墳が卑弥呼の墓だとゆうとります。

463:日本@名無史さん
24/02/29 18:57:03.24 .net
箸墓は台与の後、複立男王 並受中国爵命の墓
魏志倭人伝が一貫して採用してる短里だと径百歩は30m、なぜか卑弥呼の墓だけ突然長里で140mと書くわけないっしょw
箸墓なら張政が設計図を見せてもらってるはずで「長二百歩、半円半方」と書くはず。
でも突然卑弥呼の墓だけ長里w

464:日本@名無史さん
24/02/29 18:58:26.35 .net
掘ってもない箸墓を卑弥呼の墓とか考古学への挑戦やね

465:日本@名無史さん
24/02/29 18:59:18.93 .net
ウソの匂いしかしない纏向w

466:日本@名無史さん
24/02/29 19:05:29.14 .net
モモソヒメは欠史の皇女、実在性は疑われている

467:日本@名無史さん
24/02/29 19:06:58.15 .net
つまり畿内説の主張はは全て妄想

468:日本@名無史さん
24/02/29 19:07:04.57 .net
吉備特殊器台の箸墓に「殉葬百人」あるとは思えないからなw
卑弥呼の冢は未発見だろう、吉野ヶ里の北の脊振山地にあるかもなw

469:日本@名無史さん
24/02/29 19:09:36.27 .net
>>432
石塚古墳の築造期については論争が続いている
独自の見解を持っているのかもしれない

470:日本@名無史さん
24/02/29 19:12:14.03 .net
畿内説はボロボロw

広瀬和雄:3世紀後期。
白石太一郎:3世紀中葉過ぎ「台与の墓」
寺沢薫:260~280年
石野博信:3世紀第4四半紀(280年~290年)

箸墓(有棺石槨)の被葬者の正解は、曹操鉄鏡の出土から卑弥呼や台代ではなく、台与から倭王権を譲られ、266年西晋に朝貢した吉備ヤマト王権=複立男王の墓。

471:日本@名無史さん
24/02/29 19:18:20.51 .net
箸墓古墳は卑弥呼の死亡時期や魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記録と矛盾がない、動かし難い唯一の証拠
他にそのようなものはない

472:日本@名無史さん
24/02/29 19:19:41.79 .net
>>441
残念だがその主張は、畿内説の先生方の間でも過去のものになっているようだねw

473:日本@名無史さん
24/02/29 19:21:27.32 .net
>>442
具体的に指摘してください

474:日本@名無史さん
24/02/29 19:22:53.38 .net
>>440
>寺沢薫:260~280年
>石野博信:3世紀第4四半紀(280年~290年)

アララw

475:日本@名無史さん
24/02/29 19:27:56.57 .net
>>442
箸墓古墳の築造時期がその範囲でもまったく矛盾は生じない

476:日本@名無史さん
24/02/29 19:28:35.58 .net
つまり畿内説はウソ

477:日本@名無史さん
24/02/29 19:29:33.08 .net
>>445>>444へのレスでした

478:日本@名無史さん
24/02/29 19:29:53.44 .net
箸墓は大物主の妻の墓だよ

八咫鏡は倭大物主櫛御玉命
倭の大物主の櫛御玉
櫛と鏡は巫女の象徴で櫛をさし鏡を掲げた従軍する巫女の一群の埴輪もある
大物主の巫女が八咫鏡の名の意味かもな

霊は巫女を意味する漢字
卑弥呼に夫はいないし孝霊は台与を意識した漢風諡号かもな
孝の巫女、大物主の櫛御玉、同じなんじゃないの?

和風諡号大日本根子彦太瓊天皇 瓊は美しい玉の意味

479:日本@名無史さん
24/02/29 19:31:38.13 .net
>>444

畿内説はボロボロw

>広瀬和雄:3世紀後期。
>白石太一郎:3世紀中葉過ぎ「台与の墓」
>寺沢薫:260~280年
>石野博信:3世紀第4四半紀(280年~290年)

やっぱりな!w 漏れの感覚とほぼ合ってるわw

480:日本@名無史さん
24/02/29 19:38:28.20 .net
国作り神話も邪馬台国も狗奴国もヤマト政権に収斂していくのだ
切り口が違うだけだな

481:日本@名無史さん
24/02/29 19:39:26.07 .net
>>449
>白石太一郎:3世紀中葉過ぎ「台与の墓」
は特殊な説だが、その他の3つの説は箸墓古墳の築造時期の範囲として矛盾は生じない
重要なのは箸墓古墳の後円部の大きさが魏志倭人伝の卑弥呼の墓の大きさとほとんど同じこと 他にこのようなものはない
中国の役人によって確認され記録されていることの意味は大きい

482:日本@名無史さん
24/02/29 19:55:56.10 .net
低脳箸バカファンタジー全開w

483:日本@名無史さん
24/02/29 20:05:09.36 .net
箸墓の全長のサイズならまだしも後円部だけどか
さくらんぼ詰むにもほどがある

484:日本@名無史さん
24/02/29 20:10:00.71 .net
前方後円墳の大きさを表す場合、全長がほとんどだよね

後円部の直径を報告したなんて不自然すぎるだろ

箸墓は百余分じゃなくて百九十余分だよ

485:日本@名無史さん
24/02/29 20:10:27.77 .net
>>453
>卑彌呼以死 大作冢
冢は魏の役人にとって丸く土を盛った墓
前方部は供養の品物や祈りをささげる場所と解釈したものだろう

486:日本@名無史さん
24/02/29 20:12:49.22 .net
>>455
それ�


487:ワで前方後円墳という概念が無かった 卑弥呼の墓が最初の前方後円墳



488:日本@名無史さん
24/02/29 20:14:34.40 .net
>>456
>>455ではなく、>>454へのレスでした

489:日本@名無史さん
24/02/29 20:15:50.13 .net
香は穀物の象形と酒を表す流れる水の象形と穀物を口に挟む象形が合わさった漢字で酒の材料に適した黍などの甘いかおりの意味だな
酒と関係が深い漢字
酒は古来より薬である
スクナヒコナ、狭井の神は薬と酒の神さまだな
孝昭天皇、観松彦香殖稲天皇、スクナビコナ、狗奴国の卑弥弓呼、狭井の神は同じじゃないのか?
スクナビコナが去って大物主が姿を現すんだな

490:日本@名無史さん
24/02/29 20:17:35.31 .net
近年、墳丘周辺部の調査が進むにつれて本来の形状が明らかになり、かつて一五〇メートル前後とされていた後円部の径は、現在では約一六五メートルを計測する。こうなると、径の大きさが近似するという根拠じたいは説得力をやや欠くといわざるをえない。
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

491:日本@名無史さん
24/02/29 20:24:24.62 .net
>>459
おう、それそれ
箸墓の後円部の直径を報告したとするなら径百余分じゃなくて径百十余分なんだよな

492:日本@名無史さん
24/02/29 20:28:27.83 .net
>>459
魏志倭人伝の記述は「徑百餘歩」
魏の1歩は1.4472m 径100歩なら144.72m
しかし、ここに「余」がある これは100歩よりも少し大きい意味 165メートルとしても矛盾は生じない

493:日本@名無史さん
24/02/29 20:31:53.58 .net
>>461
シロートが言っても無駄

494:日本@名無史さん
24/02/29 20:31:59.25 .net
大事なことは卑弥呼の墓よりも大きな墓は当時の倭国にはどこにもなかったということ

495:日本@名無史さん
24/02/29 20:33:44.83 .net
1里432メートルだと2000里は864キロだけどURLリンク(i.imgur.com)

496:日本@名無史さん
24/02/29 20:35:28.31 .net
三輪山の神を祀る役割を与えられたのがオオタタネコの子孫の三輪氏である
オオタタネコがいた陶邑からは加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている
陶邑の上には狭山池がある
狭山池は崇神或いは垂仁天皇の時代に作られたと言われている池だ
池の真ん中の底には龍神淵と呼ばれるすり鉢状の巨大な窪みがあり龍神が祀られていて、狭山池には龍が棲む伝承が残っている
このすり鉢状の窪みは埼玉の狭山の七曲井の井戸に瓜二つ
池の前に存在した井戸の跡だろう
河内には奈良から降りてきた龍が柏原の地に留まり大和川の治水を行いその後堺の方に去った伝承が残っている
弥生時代後期の橿原からは龍の絵画土器が見つかっており柏原からは弥生時代後期の大規模な集落跡が見つかっている
孝昭天皇の宮は掖上池心宮
掖は宮殿の小門を表す漢字、心は真ん中を意味する漢字だな
宮殿の小門の上にある池の真ん中にある宮という意味か
宮殿は龍宮のことだろう

497:日本@名無史さん
24/02/29 20:36:37.14 .net
>>463
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権の墓だよ

498:日本@名無史さん
24/02/29 20:41:51.59 .net
>>466
君の説にはそれを支持する文献がない

499:日本@名無史さん
24/02/29 20:42:46.27 .net
「徑百餘歩」は徇葬者の奴婢100余人が埋葬された範囲だよ。

500:日本@名無史さん
24/02/29 20:43:36.72 .net
竜宮城に行った浦島太郎、丹後国風土記には浦島子は常世に行ったとある
記紀には三毛入野命は常世に行ったとある
和泉国風土記逸文には和泉国は三毛入野命の所領だったとある
和泉の地は常世で竜宮城の認識だったのかもな
池上曽根遺跡からも龍の絵画土器が見つかっているね

501:日本@名無史さん
24/02/29 20:44:45.19 .net
>>467
畿内が倭国だったとする資料が無い

502:日本@名無史さん
24/02/29 20:45:23.72 .net
>>463
倭人伝にそのような


503:記載はない



504:日本@名無史さん
24/02/29 20:48:54.83 .net
>>467
倭国は倭人の居住地のうち、倭地(狗奴国と南西諸島)と倭種(四国)を除いた領域
当時倭人はどこにいたのかが問われる
それは考古学的な証拠から北部九州から東北南部の範囲

505:日本@名無史さん
24/02/29 20:49:02.78 .net
必死に否定する九州説
だが根拠は何もない

 

506:日本@名無史さん
24/02/29 20:49:58.07 .net
>>471
それは考古学的な客観的な事実

507:日本@名無史さん
24/02/29 20:57:28.70 .net
>>474
箸墓が卑弥呼の墓だとすれば成立するが、そもそも確証がない

508:日本@名無史さん
24/02/29 21:22:56.46 .net
>>475
魏志倭人伝の記述と後円部の大きさが確証となる

509:日本@名無史さん
24/02/29 21:28:26.01 .net
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権の墓。桜井茶臼山古墳が
箸墓、邪馬台国卑弥呼の墓と比べて圧倒的に立派だと言っているの
だろうか。発掘したら内容が豪華だったのだろうな。

510:日本@名無史さん
24/02/29 21:30:31.17 .net
>>476
魏志倭人伝は正しいのか?

511:日本@名無史さん
24/02/29 21:31:01.01 .net
竜宮城は帯方郡のことだよ。

512:日本@名無史さん
24/02/29 21:34:36.47 .net
>>477
箸墓に続く古墳は巨大化してゆくが
前方後円墳のスタイルが継承されてゆくことは興味深いこと
卑弥呼の存在の特異性が発揮されているのかもしれない

513:日本@名無史さん
24/02/29 21:35:42.36 .net
>>476
倭人伝の記述では東には行っていない

514:日本@名無史さん
24/02/29 21:40:32.84 .net
>>478
魏志倭人伝の記述が間違っていることも当然あるだろう
しかし、過去多くの研究者によって研究・検討されてきた
そのことと、中国が史記以来、史書に対する尊敬がある文化であることは重みがあると思う

515:日本@名無史さん
24/02/29 21:46:04.05 .net
>>476
それはおそらく写本作成時の錯誤によるもの
北部九州から船で南に行くこともできない
(川を使うという主張もあるが無理がある)
北・西は戻ることになるので除外、行く可能性があるのは東となる

516:日本@名無史さん
24/02/29 21:47:13.65 .net
>>483>>481についてのレスでした

517:日本@名無史さん
24/02/29 21:50:14.25 .net
>>483
遠賀川から田川までは水行で行ける、無理では無い

518:日本@名無史さん
24/02/29 21:53:51.31 .net
不弥国から遠賀川を水行陸行で邪馬台国の入り口の日田に至ります。伊都国から1500里の行程で倭人伝にピッタリ整合しますURLリンク(i.imgur.com)

519:日本@名無史さん
24/02/29 21:54:49.01 .net
九州を南に行くと紀伊半島に着くんだよ
不思議だが事実なんだから仕方がない
紀伊半島に上陸して1か月歩いたところが邪馬台国なんだな
奈良ということだ
纏向遺跡より南に広がる南河内と和泉の地が狗奴国
ヤマト政権が理由は不明だが分裂していたということだな
下克上みたいなことが起きたのかもな
或いは神さまが人民に政治を委ねることで争いを終結させたという可能性も僅かだがある
鳥形、龍の絵画土器、勾玉、銅鐸が消え鏡の時代に
櫛と鏡は従軍する巫女の象徴
兵の時代になったんだろう

520:日本@名無史さん
24/02/29 21:55:43.76 .net
魏志倭人伝の記述からして山の中というのはないな
有明海を望む山門だよ
「倭人皆海に潜る」

521:日本@名無史さん
24/02/29 21:55:53.33 .net
>>485
20日の行程は不自然であるし
到達点からさらに10日の水行の区間がある


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