邪馬台国畿内説 Part979at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part979 - 暇つぶし2ch328:となり、南至の投馬国(宮崎)と南至の邪馬台国(熊本)の2国並列記述となる。 これで、倭人伝の方角・距離は、完璧に記述通りそのままで宜しい。 夷人倭種は、これを知らずして読むから千年の迷路に入る。漢人は知って読むから、すぐ読み解く。



329:日本@名無史さん
24/01/10 11:24:46.14 .net
伊都国の南から熊本までが邪馬台国だよ

330:日本@名無史さん
24/01/10 11:25:04.99 .net
漢委奴国王=奴国説
帥升=奴国説
を採用した場合、代々奴国にいた王は魏志の時点で排除されたことになる

331:日本@名無史さん
24/01/10 11:26:19.62 .net
伊都とは聖なる都つまり聖地という意味

332:日本@名無史さん
24/01/10 11:26:28.99 .net
イト説男=バカチン四国w

333:日本@名無史さん
24/01/10 11:27:30.73 .net
伊都には巫女の養成所があったそうだ

334:日本@名無史さん
24/01/10 11:31:58.21 .net
一切理由を言わないのが
九州説の特徴

335:日本@名無史さん
24/01/10 11:36:52.54 .net
>>316
その通り排除された。
それが倭国大乱で勝者は伊都国と投馬国と邪馬台国。
だから奴国や不彌国には、卑奴母離=卑奴守り=奴(下僕)の監視役、がいる。

336:日本@名無史さん
24/01/10 11:42:36.73 .net
バカチン四国=伊都国説など誰も読んでないし気にもしないw

337:日本@名無史さん
24/01/10 11:45:50.61 .net
伊都に巫女の養成所があったと言うのは伊都国歴史博物館職員の話。YouTubeにあるよ

338:日本@名無史さん
24/01/10 11:51:38.32 .net
桜井茶臼山が出てくるまで、国内最多の銅鏡40面(うち超大型内行花文鏡5面)メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900、耳璫 3破片、素環頭大刀 1
を誇る圧倒的大王イトジョオウがいた平原王墓
弥生最強の王イトジョオウ
奴国なんかとは比較になりません

339:日本@名無史さん
24/01/10 11:53:06.76 .net
バカチン四国の妄想は聞き飽きたw

340:日本@名無史さん
24/01/10 11:56:01.78 .net
>>321
倭国乱れるとしか書いてない

341:日本@名無史さん
24/01/10 12:01:15.51 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)


久 努 国 ( く の の く に )


久 努 国 ( く の の く に )


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

342:日本@名無史さん
24/01/10 12:02:32.97 .net
①倭国大乱…帥升死後、倭王権が奴国2万戸(漢委奴国王→帥升)から南の筑紫平野・邪馬台国7万戸に移る
②狗奴国戦争…筑紫邪馬台国に倭王権が移ったことで南の狗奴国(菊地・熊本)との緊張感が高まり、卑弥呼が老齢になるとついに相攻する交戦状態へ
③卑弥呼の朝貢…(呉の孫権を後ろ盾にした)狗奴国との戦争の後ろ盾を得るため、曹魏に朝貢し「親魏倭王」に封じてもらい、帯方郡が管理する狗邪韓国(伽耶)の鉄を輸入する。
 さらに狗奴国を側面から牽制するため投馬国(宮崎)と同盟を結ぶ。

343:日本@名無史さん
24/01/10 12:08:17.10 .net
卑弥呼も台与も伊都の巫女養成所の出身者だよ

344:日本@名無史さん
24/01/10 12:08:51.96 .net
>>329
バカチン四国の妄想乙w

345:日本@名無史さん
24/01/10 12:15:46.27 .net
>>328
宮崎からはほとんど何も出土しない

346:日本@名無史さん
24/01/10 12:17:31.23 .net
>>316
いや、首狩り甕棺墓はその前にど没落している

347:日本@名無史さん
24/01/10 12:22:49.03 .net
邪馬台国の「水行十日陸行一月」「七万戸」「婢千人」などはいずれも倭人からの伝聞であろう
倭人からの伝聞でなければ、魏志倭人伝が距離を日数表記する理由がない(倭人が里数を知らず日数で距離を測ったことは後の隋書倭国伝に記載あり)
帯方郡使に倭人がこれらの情報を伝えた時に安全保障上の理由で何れも過大に盛ったことは想像に難くない
水行十日陸行一月や七万戸の数字を額面通りに議論するのは無意味だ

348:日本@名無史さん
24/01/10 12:25:27.09 .net
>>333
>水行十日陸行一月や七万戸の数字を額面通りに議論するのは無意味だ
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。  わははははは   @阿波

349:ウエストランド丼口
24/01/10 12:29:21.63 .net
距離を盛るのはいいんだよ。目的地はその途中(手前)にあって必ず着くんだからw
でも(南→東)と方角を「箸墓=卑弥呼の冢」ありきで勝手に解釈を変えたりしちゃダメ(この時点でアウト!)でしょ(絶対着かないんだから、100%間違った場所に着くんだから)w
しかも、247年、卑弥呼の要請で実際に「女王之所都」に来て、卑弥呼の冢を見ている張政や郡使も読んで、「女王国東渡海千里複国有皆倭種」も東、「其南有狗奴国不属女王」も東、でダブってるじゃないか!アレ?おかしいぞっ!?てすぐ解るような文章書くかよ、岡上じゃあるまいしw

350:日本@名無史さん
24/01/10 12:32:47.43 .net
年がら年中同じこと繰り返し言ってておまえら病気やんw
卑弥呼は九州女王国にいて邪馬台国へ纏向だともうそれでほぼ決着なのに、
ほんとヲタクは自分のマニアックな考えに拘泥していつまでもああだこうだうるさいから嫌われるんだよw

351:日本@名無史さん
24/01/10 12:35:37.99 .net
>>336
卑弥呼は九州女王国にいて邪馬台国は纏向だと、
年がら年中同じこと繰り返し言ってておまえら病気やんw

352:日本@名無史さん
24/01/10 12:36:16.25 .net
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
-女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
-其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。

353:日本@名無史さん
24/01/10 12:44:59.36 .net
おまえらのために調べてやったがこれや南北朝時代の南朝側の九州にいた懐良親王が中国に朝貢して日本国王にしてもらい九州支配してる。これと卑弥呼の邪馬台国同じやw
その日本国王懐良親王の日本の都は九州ではなく天皇家のいる京都だろw
卑弥呼が九州女王国にいて、都としてるのは畿内邪馬台国纏向。それで全て解決なのになんとまあ理解力ないやつらばかりで呆れ返るw

354:日本@名無史さん
24/01/10 12:45:54.45 .net
近畿説は邪魔だ!消えろw

355:日本@名無史さん
24/01/10 12:48:33.83 .net
宮崎って免田式土器だろ?
狗奴国だよ

356:日本@名無史さん
24/01/10 12:49:34.39 .net
>>338みたいにウソばっかりついてるから
九州説はゴミ扱いされる

357:日本@名無史さん
24/01/10 12:49:57.40 .net
熊本県球磨郡免田地方の地名にちなんだ弥生時代中期末~古墳時代前期の土器。1918年ころ免田町(現,あさぎり町)本目の源が屋敷(げんがやしき)(本目遺跡という)一帯の畑を水田にするため地下げしたところ,数十~100個余りの完形土器が発見されたという。なかでも多くの長頸壺の胴部に重弧文(じゆうこもん)の文様が描かれていたところから,重弧文土器と呼ばれていた。37年に源が屋敷から発見された鋸歯文の長頸壺と瓢形(ひさごがた)土器の2個は重要文化財になっている。免田式土器の古い形式は胴部が〈く〉の字状に折れ重弧文を,新しい形式は丸みをもった胴部に鋸歯文を描き,底部はともに丸底である。壺のほか甕,鉢,高坏などの土器や蛤刃状の石斧,石庖丁などを伴い,免田町馬立原(またてばる)の市房隠(いちふさかくれ)遺跡では,小型の支石墓に免田式土器が伴った。免田式土器は免田地方など球磨川流域を中心に,熊本県南部に広く分布し,北は佐賀平野から南は沖縄本島まで及ぶ。

358:日本@名無史さん
24/01/10 12:51:41.33 .net
>>341
寒村宮崎に超大国「狗奴国」がある筈なかろうがよ。   @阿波

359:日本@名無史さん
24/01/10 12:54:13.80 .net
あと箸墓に惑わされてあれが卑弥呼の墓だから卑弥呼は纏向にいて邪馬台国は畿内ってのもおまえらの勝手な思い込みで、箸墓とか明らかに四世紀前半あたりの古墳で卑弥呼とは無関係だろw
卑弥呼なんて記紀にも登場しない小物だしそんなたいそうな墓ではなく九州のどっかにある小さな円墳だろw

360:日本@名無史さん
24/01/10 12:55:10.08 .net
宮崎で庄内式、布留式は出る?

361:日本@名無史さん
24/01/10 12:56:34.50 .net
懐良親王は既に天皇・朝廷という日本列島の統一的な権威・体制が確立してからの地方長官だが、卑弥呼の時代はそもそも日本列島に統一政権がなく北部九州の地方勢力としての倭国(女王が卑弥呼、都が邪馬台国)と畿内大和の地方勢力としてのヤマト王権が「全く別の国として」(←ここが重要)並立していた

362:日本@名無史さん
24/01/10 12:59:54.17 .net
>>344
宮崎からは国宝が出ているが徳島には国宝が一つも無い

363:日本@名無史さん
24/01/10 13:03:14.47 .net
邪馬台国七万戸が北九州って当時の日本の人口とんでもなくいた計算になるから九州ではない。そんなことすらまだわからず延々と邪馬台国の位置論争やってるとかどんだけ暇なんだよw

364:日本@名無史さん
24/01/10 13:03:37.33 .net
ごく一部の事実だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間がいるが、それは誤りだ(例えば前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を判断しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は、魏志倭人伝と記紀と諸々の考古学的事実が全て整合するところにあるはずだ
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる
次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ
「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ

365:日本@名無史さん
24/01/10 13:16:13.43 .net
なんと頭の悪いw
陸行一月でも七万戸でもどちらでも明らかに邪馬台国は九州ではないことは明らかなのに記紀なんて信じちゃって勝手に邪馬台国と大和政権は別の国だとヲタクはほんと思い込みが激しいやつらばかりだなw
倭国大乱とかいう魏志倭人伝に書いてあるのが纏向初期段階に北九州ブロックに進出したが戦乱長引きらちが開かないから話し合いで、北九州の女巫女の卑弥呼を女王として認めて九州統治を任せて一応形上は纏向政権と連合して繋がってはいるわ。
女王の都は畿内纏向邪馬台国だと書いてあるしw
邪馬台国への里程も伊都国への里程とは別の資料で帯方郡から邪馬台国へ直接いく距離を書いてるだけで。
なので里程の記載方法が異なってるわけでそれですべて説明可能。
これだけ言ってもまだ理解できない馬鹿は才能ないから邪馬台国からはよ卒業して真面目に働けw

366:日本@名無史さん
24/01/10 13:16:16.01 .net
>>350
箱式石棺が有棺無槨だというのは初歩的な誤り

367:日本@名無史さん
24/01/10 13:24:16.03 .net
3世紀の紀年銘鏡が九州・奈良で出土しない。何故なら邪馬台国東遷する際、各地の有力豪族に粗品として配ったから。

368:日本@名無史さん
24/01/10 13:25:38.74 .net
九州も畿内も邪馬台国なんだが。どこに九州と畿内の大戦争跡があるのかね?

369:日本@名無史さん
24/01/10 13:28:56.28 .net
粘土は水分の濾過に適さない。
粘土は水田の周囲の畔土として水漏れを防ぐ
大豆は肥料分の少ない畔土で空気中の窒素を葉っぱから吸収し
根から放出して野菜や雑草の葉っぱや茎の成長に必要な肥料の成分となる。
北九州や阿蘇山の周辺には米や豆類、なすび、スイカ、キュウリなど果実の生育に必要なリン酸肥料の吸収を阻害するアルミニュウムが多く存在する。
だから人糞、牛糞、鶏糞などを肥(こや)しとして投入する必要がある。

370:日本@名無史さん
24/01/10 13:31:22.01 .net
>>353
桜井茶臼山で出てる
正始元年鏡

371:日本@名無史さん
24/01/10 13:33:47.40 .net
また東遷とかヲタク臭いファンタジー言い出すしw
邪馬台国が九州にあって東遷して大和に移ったってw
大和政権側ははいそうですかと自分らの国をあっさり九州の邪馬台国に譲ったとか思ってるのか頭わりー連中やw

372:日本@名無史さん
24/01/10 13:34:40.56 .net
免田式しか出ない
庄内、布留出ない
南九州に投馬国と邪馬台国を求めることは事実上不可能

373:日本@名無史さん
24/01/10 13:37:59.01 .net
>>357
畿内説の権威・寺澤先生もそう言ってる

374:日本@名無史さん
24/01/10 13:39:20.87 .net
>>357
鉄も銅鏡もなかった畿内に自生的にヤマト王権ができたという畿内自生説は岡上さんも否定している

375:日本@名無史さん
24/01/10 13:41:48.97 .net
345
九州バカは漢文をマトモに解釈できないから
「大作冢徑百歩」を直径百歩の大きな円墳又は前方後円墳と誤解して
纏向箸墓と決め付けてるが
      それは大間違いwwwwww

376:日本@名無史さん
24/01/10 13:47:00.48 .net
畿内ヤマトの神話には畿内が九州を平定した物語が書かれてる
倭王武も先祖が東西にたくさんの国を平定したと主張した
旧唐書にも日本が倭国を併合したと倭人が主張してた記録が残されてる
これを素直に受け入れるだけでいいのに

377:日本@名無史さん
24/01/10 13:47:20.02 .net
>>354
継体天皇も、戦争ではなく招聘されたではないか?

378:日本@名無史さん
24/01/10 13:51:14.76 .net
①倭国大乱…帥升死後、倭王権が奴国2万戸(漢委奴国王→帥升)から南の筑紫平野・邪馬台国7万戸に移る
②狗奴国戦争…筑紫邪馬台国に倭王権が移ったことで南の狗奴国(菊地・熊本)との緊張感が高まり、婿無で世継ぎのいない卑弥呼が老齢になると、ついに相攻する交戦状態とへ突入!
③卑弥呼の朝貢…(呉の孫権を後ろ盾にした)狗奴国との戦争の後ろ盾を得るため、曹魏に朝貢し「親魏倭王」に封じてもらい、帯方郡が管理する狗邪韓国(伽耶)の鉄を輸入する。
 さらに狗奴国を側面から牽制するため投馬国(宮崎)と同盟を結ぶ。

379:日本@名無史さん
24/01/10 13:59:53.69 .net
>>339
懐良親王は南朝の征西大将軍
明の洪武2年(1369年)、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、
明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。
国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。
これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。
倭人伝とは状況が全く違う

380:日本@名無史さん
24/01/10 14:00:03.71 .net
東遷とかファンタジー的なこと言って本出したほうがおまえらヲタクが食いつきやすいから商売で言ってるだけだろw
纏向から北九州系の土器など殆ど出てこないし吉備と東海系が多いのになぜ東遷説なんかまにうけてるのかw

381:日本@名無史さん
24/01/10 14:04:13.52 .net
そりゃ邪馬台国は大和で、
卑弥呼は九州のただの無名の女巫女で、
記紀にもなぜ登場しないかはとるに足らないもんだったから単純に知らなかっただけで、
大和政権が力を持ち始め九州統治可能になり始めた頃女王国体制など自然消滅したとか
ほんとの歴史語ってもヲタクからしたらなんら面白味もない結論だからなw

382:日本@名無史さん
24/01/10 14:09:01.32 .net
つまり畿内説は作り話
後漢書の通り、代々王を継ぐ邪馬台連合30国は2世紀に既に存在しており、畿内にはそんな痕跡はない
しかし争いが絶えず衰退してきたので卑弥呼を女王として共立した
吉野ヶ里の巫女の墓はそうした高貴な巫女が居た事を示している
史書には卑弥呼時代に邪馬台国が建国され最盛期を迎えたなんて話は記されていない
むしろ狗奴国に戦争を仕掛けられるほどに衰退していたと考えられる
その流れでいけば畿内はむしろ狗奴国に該当するのではないか?

383:日本@名無史さん
24/01/10 14:14:27.78 .net
七万戸と陸行一月の時点で九州説はない。てかそれすらわからんヲタクが次々と現れるし挙句阿波とか言い出す輩も増えてるし邪馬台国とかなんでこんなキチガイばかり集まるのかw

384:ネトウヨボクメツタイ!
24/01/10 14:27:27.00 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう

385:ネトウヨ撲滅隊!
24/01/10 14:31:03.21 .net
ネトウヨは古史古伝を信奉するような日本会議の連中や壺が多い
彼らが九州説なら畿内説が正しいということだ
ネトウヨの逆が真である


386:



387:日本@名無史さん
24/01/10 14:57:11.21 .net
関東から西日本の諸国の王が集まって、会議、談合して
卑弥呼を共立したのはおかしくないか
2世紀の末、邪馬台国の首都が纏向で、議事堂とか物流の拠点
だったのも疑問だ
ずっと以前から証拠があるから後は証明すると言っているが
できない

388:日本@名無史さん
24/01/10 15:00:13.18 .net
郡から目的地まで万二千里。
糸島市まで10500里。
あと1500里。
唐津から糸島市まで500里。
これをコンパスで3倍に取る。
コンパスの針を糸島に置いて線を引く。
線内側で港を持たない内陸の平野が卑弥呼なる女酋長のいた地点。

389:日本@名無史さん
24/01/10 15:01:28.26 .net
九州邪馬台国は火山地帯で土地が痩せていて
しかも北西季節風が吹き荒れる日本海型気候で
弥生時代に7万戸≒20万~30万人の胃袋を満たすほどの農業は出来なかったwww

390:日本@名無史さん
24/01/10 15:03:40.09 .net
>>371
朝鮮学校卒業生の逆が真である

391:日本@名無史さん
24/01/10 15:07:09.13 .net
ここが邪馬台国ですURLリンク(i.imgur.com)

392:日本@名無史さん
24/01/10 15:10:07.87 .net
倭国大乱は北九州限定の局地戦だろ。
全国規模で大乱の考古学的物証など出ないし。
纏向初期政権を構成する西日本の吉備や出雲あたりの豪族が北九州の要所抑えようと兵を差し向けたがなかなかうまくいかないので、
渋々話し合いで卑弥呼とかいう九州の女巫女を女王として認めて九州はそれでうまく治めてくれ。一応我々纏向側とも同盟関係で仲良く行こうね。
と妥協したのだろう。それで魏志倭人伝の記述ともほぼ一致する。
なぜこんなこともわからず未だに邪馬台国の位置論争延々とやってるのか理解に苦しむねw

393:日本@名無史さん
24/01/10 15:14:23.99 .net
>>373
日田市ですね。

394:日本@名無史さん
24/01/10 15:17:32.92 .net
最後に「陸行一月」とあるので
内陸の港を持たない地域
それが女王の都とする所であります。

395:日本@名無史さん
24/01/10 15:21:12.99 .net
>>366
古事記だと、神武は広島・岡山に15年間滞在。広大な草原地帯で砂鉄を採掘。葦原中国とも呼ばれてる。

396:日本@名無史さん
24/01/10 15:26:


397:40.58 .net



398:日本@名無史さん
24/01/10 15:28:19.91 .net
東遷ではなく、東征
しかも、袂をわかった分家
だから関連性も薄い
546 ウィズコロナの名無しさん 2023/12/02(土) 12:49:51.46 ID:LKUQkczU0
字義から考察すれば、ここまで見えてくる新解釈!
24 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/16(日) 19:49:35.97 ID:hvNoR2Q00
畿内の邪馬台国は、北部九州の分家
邪馬台国の官トップは
伊支馬 = 伊(伊都国)から枝分かれした馬
あてた字を見れば一目瞭然な分家

北部九州から移ったのではなく
本家から分かれた分家であり
本家の北部九州は、倭の五王ひいては、それが筑紫君へと繋がる

399:日本@名無史さん
24/01/10 15:30:13.84 .net
>>379
山国川か駅館川もしくは遠賀川を水行陸行して日田でしょうね

400:日本@名無史さん
24/01/10 15:33:09.01 .net
その女王が都とする所もおまえらが激しい思い込みからの勘違いで邪馬台国=女王国で卑弥呼がいた場所だと勝手に解釈してるから話がこじれてるだけやこんなん。
女王国と邪馬台国は別だとそれだけでも気づくオツムがあればこんなんなんも悩むような問題でもないのにw

401:日本@名無史さん
24/01/10 15:34:42.48 .net
 
 
 
九州説 今日もひたすら嘘をつく

 

402:日本@名無史さん
24/01/10 15:34:43.62 .net
 
 
 
九州説 今日もひたすら嘘をつく

 

403:日本@名無史さん
24/01/10 15:35:57.07 .net
>>384
邪馬台国は無いんだよ

404:日本@名無史さん
24/01/10 15:36:49.11 .net
全ては陳寿が悪いと思います!

405:日本@名無史さん
24/01/10 15:38:05.91 .net
つまり存在理由を示せない畿内説は韓国式霊感商法詐欺でしたと

406:日本@名無史さん
24/01/10 16:18:45.16 .net
邪馬台国論争は畿内説の方がハンデは大きい、九州頼みでしか畿内説は成立出来ないが、九州説は九州だけで成立するからな。畿内説と言うのはこのように誠にずうずうしい説なんだわ

407:日本@名無史さん
24/01/10 16:43:10.89 .net
唐古・鍵をそのまま使えば良かったのに使わなかった
鉄を大量に持ってる九州人におののいたことだろう
とはいえ、共立王なんで、唐古・鍵の族長に配慮して何にもなかった纒向を王都とした
共立王卑弥呼が立つと、全く銅鏡が出なかった2世紀末、急に畿内の銅鏡が九州に匹敵するようになる

408:日本@名無史さん
24/01/10 16:52:25.51 .net
邪馬台国じゃなく邪馬壱国ね。

409:日本@名無史さん
24/01/10 16:52:37.66 .net
>>391
纏向を作ったのが九州にいる卑弥呼の一族だと考えれば納得できる、鏡は卑弥呼のネットワークを通じて送られたのでは無いのか?

410:日本@名無史さん
24/01/10 16:59:47.06 .net
邪馬台国の台のタが無声音になってイだけが残り、
・イと発音する人や種族が出てきた。それで邪馬壱国とも書かれるようになった。ただの訛りだね。

411:日本@名無史さん
24/01/10 17:07:21.29 .net
纏向から北九州の土器が殆ど出ないのにやはりおまえらヲタクは好きだねえその東遷説とかいうファンタジーw
魏志倭人伝の世界観は明らかにこれは九州だろ。狗奴国も熊襲あたりで。
ただ女王が都としてる邪馬台国は水行十日陸行一月で畿内纏向にあるとただそれだけの話であとの話は全て九州内での出来事だろw
おそらく卑弥呼は東遷などしておらず九州にいてそこが女王国。だから九州説も完全に間違いではない。
畿内纏向が邪馬台国だから畿内説も間違いではない。
両方とも間違いではないからここまで揉めるハメになってることなんで気づかないだか不思議でしょうがないわw

412:日本@名無史さん
24/01/10 17:07:26.59 .net
日本の支配階級が血統重視に代わったのは8世紀。それまでは不安定な王権だった。

413:日本@名無史さん
24/01/10 17:07:53.23 .net
.



投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)



.

414:日本@名無史さん
24/01/10 17:22:52.85 .net
地球儀で魏の京都(みやこと読む)洛陽にデバイダの針を置いて
他方の針先を遼東半島の奥地の遼陽市(公孫淵の牙城襄平)迄伸ばす。
これが四千里である。

次にデバイダの針先を帯方郡に置いて福岡や吉野ヶ里の方向へ伸ばすと
あーら不思議
もう一方の針先は九州鹿児島を飛び越し
台湾も飛び越し、3倍した万2千里ならインドネシアまで到達する

415:日本@名無史さん
24/01/10 17:38:23.68 .net
唐の征伐を恐怖に感じた不比等らは、倭人伝の東南陸行は佐賀伊都国→吉野ヶ里不彌国→南至熊本邪馬台国の行程と知り、
故に卑弥呼の朝貢使は、此の道を逆にたどって末盧国の港に抜け、郡に上ったと見抜いた。
そこで三世紀の糸島・博多湾岸に仲哀・神功を華々しく登場させ、
「湾岸は前660年来の皇統の御領地だから卑弥呼使が通過するわけがない」との論陣を築いた。
そして更に念を入れて、伊覩縣、儺縣、宇瀰郷の地名も登場させ、
伊都国、奴国、不彌国を通過したという卑弥呼使は、三世紀の偽潜者なりと主張したのである。

416:日本@名無史さん
24/01/10 17:51:09.05 .net
>>396
倭の五王の時代にはもう血統重視してそう

417:日本@名無史さん
24/01/10 18:02:33.97 .net
3世紀、4世紀から世襲制化。それまでは非漢人の高句麗や鮮卑のようにクリルタイしてた。

418:日本@名無史さん
24/01/10 18:07:45.45 .net
寿命が長過ぎる天皇を無視すると、文献史学的に2世紀は大津に王宮所在地を移転している。
考古学的には近江系土器が韓国南部にまで広まった時期に該当。近畿・東海勢力が日本海側から大陸産の文物を入手していた。
つまり出雲・吉備・讃岐連合は北九州と口裏合わせして、関門海峡や明石海峡・鳴門海峡をブロックしていた。
したがって、邪馬台国畿内説は完全に破綻します。

419:日本@名無史さん
24/01/10 18:53:25.54 .net
爾支は平原女王(天照大神)から三種の神器を貰った邇邇芸でいいかもね

420:日本@名無史さん
24/01/10 19:07:27.05 .net
歴博が酷い
寺澤が107年倭国王帥升をイト国の王とみなしているのに対し、歴博は帥升をヤマト国王の王と想定しなければならないなどと書いている

421:日本@名無史さん
24/01/10 19:09:16.21 .net
卑弥呼は爾支の兄弟で爾支の子供が台与ではあるまいか。さらに爾支の孫が神武かもしれない。

422:日本@名無史さん
24/01/10 19:10:13.01 .net
卑弥呼は帥升の孫かなんかでオッケーか?おまえらのなかではw

423:日本@名無史さん
24/01/10 19:14:29.46 .net
その卑弥呼の次の壱与の子供あたりが神武天皇でおまえらが大好きな東遷とやらをして大和朝廷作ったわけか?w

424:日本@名無史さん
24/01/10 19:21:02.85 .net
邇邇芸のひ孫が神武

425:日本@名無史さん
24/01/10 19:22:06.37 .net
じゃあワイは対抗して西遷説でも言っておくかw
尾張氏あたりが西遷したのが邪馬台国だろw

426:日本@名無史さん
24/01/10 19:29:35.11 .net
尾張氏のルーツは九州

427:日本@名無史さん
24/01/10 19:37:49.85 .net
卑弥呼はたしか尾張氏系図にもそれらしき人物がいただろw

428:日本@名無史さん
24/01/10 19:42:33.04 .net
寺沢薫ってたしか同志社大学出身だから畿内説推してるだけだろw
つかその程度の私学の知能で何がわかるねん?w

429:日本@名無史さん
24/01/10 19:48:38.69 .net
>>323
歴博信用するとか畿内説かよ

430:日本@名無史さん
24/01/10 19:52:07.73 .net
畿内から海渡ること千里になんか国があるらしいが、奈良の東に海など古代にあったんか?w

431:日本@名無史さん
24/01/10 19:52:58.67 .net
唐の報復征伐を恐怖に感じた不比等は、倭人伝の東南陸行は
佐賀の伊都国→吉野ヶ里の不彌国→南至の熊本邪馬台国女王之所都の行程と知り、
故に卑弥呼の朝貢使は、此の道を逆にたどって末盧国の港に抜け、渡海して郡に上ったと見抜いた。
そこで日本書紀・三世紀の糸島・博多湾岸に仲哀・神功を華々しく登場させ、
「博多湾岸は、前660年以来の皇統の領地であるから、南の女酋の使い如きが通過する道理なし」との論陣を築いた。
そして念には念を入れ、伊覩縣、儺縣、宇瀰郷の地名も登場させて、
伊都国、奴国、不彌国を通過したという倭人伝の倭女王使は、三世紀の大偽僭なりと主張したのである。

432:日本@名無史さん
24/01/10 19:55:01.44 .net
まとめるとこうなる
①倭国に来た使者たちが一里=435mで旅程記事を作成
②それを見た帯方郡の高官が大月氏(洛陽から16370里)を上回る17000里に女王國を設定し司馬氏に忖度。洛陽から郡まで5000里なので、郡から女王國を12000里とし里数を水増し。その結果、一里=70~80mとなる
③それを受けた中央の役人、一里=435mで海路は1日350里、陸路は1日50里進むものとして計算して日程記事を作成。郡から狗邪韓国(=投馬国の一部)まで7000里とあるので350里で割って20日間。狗邪韓国から末盧国まで3000里、伊都国まで500里(末盧から伊都国までは陸行とあるが記述を見るとアクシデント的な感じがあるので本来は船で伊都国の津に入ったとする)。よって狗邪韓国、伊都国間は3500里となり、1日350里進むとして10日間。伊都国から目的地まであと1500里。当時の使者は1日50里進むことになっているので1500里割る50里で30日。
要するに日程記事は旅程記事を日数に換算した注釈的なものなので連続して読んではいけない。両者とも起点は帯方郡で終点は九州中部の内陸部。

433:日本@名無史さん
24/01/10 20:07:17.58 .net
歴博の岸本さん
・畿内の鉄器化は紀元前1世紀
・確かに、鉄器出土量は少ないが、奈良盆地では発掘調査の端緒となる開発事業が少ないので明らかになってないだけだ
・畿内での鍛治炉の発見は、枚方市の星ヶ丘遺跡1例だが、見つかっていないだけでもっと鍛治炉はあったはずだ
・比較的小さな鍛治炉を持つ吉野ヶ里で鉄器加工が行われていた事実はむしろ大切だ。吉野ヶ里でこれだから、畿内ではより大規模な鉄器加工があったはずだ

434:日本@名無史さん
24/01/10 20:11:22.53 .net
全部推論

435:日本@名無史さん
24/01/10 20:16:23.70 .net
>>414
その倭種って侏儒国とか黒歯国とか裸国だろ
そんなもん架空の国に決まってるだろうが。

436:日本@名無史さん
24/01/10 20:17:18.60 .net
>>417
>奈良盆地では発掘調査の端緒となる開発事業が少ないので明らかになってないだけだ
徳島はもっと少ないが、鉄器がザクザク。 「鍛冶炉遺構」もわんさか。   @阿波

437:日本@名無史さん
24/01/10 20:18:06.29 .net
>>413
歴博とは国立歴史民俗博物館の略です。
よく知りもせずに適当に人の批判をするのはやめましょうね。恥かくだけですよ。

438:日本@名無史さん
24/01/10 20:19:39.24 .net
>>412
>寺沢薫ってたしか同志社大学出身だから畿内説推してるだけだろw
寺澤は同志社で森浩一の教え子

439:日本@名無史さん
24/01/10 20:32:24.25 .net
女王国の北に一大率がいる伊都国があるとちゃんと書いてあるんだし、
帯方郡から女王国まで12000余里とも念押しで書いてあるんだし、
女王国はどう考えても北九州w
畿内とか言う奴は頭おかしいんちゃう?
そこまで曲解するならそもそも邪馬台国など存在しない全て嘘っぱちとでもなんでもありになるわw

440:日本@名無史さん
24/01/10 20:41:27.61 .net
箸墓が卑弥呼の墓とかそれ箸墓幻想だよw
なんかの小説のタイトルであったがw

441:日本@名無史さん
24/01/10 21:03:46.17 .net
>>423
>帯方郡から女王国まで12000余里とも念押しで書いてあるんだし、
念押しは、つまり行程記事とは別ということ。
帯方郡から女王国まで直線で12000余里。   @阿波 

442:日本@名無史さん
24/01/10 21:06:30.17 .net
「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地・平地になんぞ葬らない。 そんなの常識。   @阿波

443:日本@名無史さん
24/01/10 21:16:43.07 .net
>>419
畿内説だと狗奴国やぞ

444:日本@名無史さん
24/01/10 21:20:28.48 .net
女王國東渡海千餘里復有國
の話をしてるんだけど?

445:日本@名無史さん
24/01/10 21:40:26.36 .net
箸墓は真の神武陵
西殿塚は真の綏靖陵

446:日本@名無史さん
24/01/10 21:46:14.98 .net
天竜川以東から関東一帯にあった東日本の国が狗奴国
都は沼津の足高尾遺跡群
卑弥弓呼も狗古智卑狗もここにいたの
すぐ側にある当時の東日本最大の古墳の高尾山古墳が卑弥弓呼の陵墓

447:日本@名無史さん
24/01/10 21:48:23.86 .net
>>417
その人は典型的な「畿内説脳」だな
すべてを畿内説ありきのご都合主義で解釈する
キナイコシやトナカイと同じ思考回路だ

448:日本@名無史さん
24/01/10 21:49:30.69 .net
①まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州:銅鐸王大国主)、又有侏儒国(四国:少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
②次に「其南有狗奴国、不属女王。男王卑弥弓呼、副官狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、鬼道を、鬼籍に入った歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに(天と鬼=歴代倭王のお告げの声を聴く)巫女の卑弥呼にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
魏志倭人伝の蛇足(嘘)=投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州・銅鐸王大国主✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国・少彦名)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(帯方郡から12,000里)※架空の女王国

449:日本@名無史さん
24/01/10 21:50:20.48 .net
>>429
「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地・平地になんぞ葬らない。 そんなの常識。   @阿波

450:日本@名無史さん
24/01/10 21:59:33.62 .net
>>433
平家の落人式の墓を卑弥呼の墓というバカ

451:日本@名無史さん
24/01/10 22:04:35.18 .net
ようやくわかったわ。卑弥呼は九州女王国に最初はいたがのちに纏向邪馬台国に遷都したわけだ。女王の都とする所の都は遷都の意味だこれ。

452:日本@名無史さん
24/01/10 22:06:43.02 .net
>>428
畿内説だと狗奴国やぞ

453:日本@名無史さん
24/01/10 22:08:45.04 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

454:日本@名無史さん
24/01/10 22:09:44.99 .net
邪馬台国には4人の王がいた

卑弥呼→男王?(国中不服)→台与(13)→男王?(受中国爵命)

男王?がその後大和に東征した投馬国(日向)王・神武で、男王?が崇神だ!

神武東征ルート
日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和

そして箸墓こそヤマト王権初代大王・真の神武陵なのだ!

455:ネトウヨ撲滅隊!
24/01/10 22:10:12.39 .net
畿内から銅鐸祭祀が消えて纏向遺跡の構築が始まるのが西暦180年頃
この時に九州や吉備の勢力が畿内に流れ込んで原住民を征服するという事件があった

だからヤマト王権の始まりはどう見ても西暦180年以降の話になる
神武のモデルは畿内を征服した初代王であろうから、もし初代王から実在可能性の濃厚な崇神まで王朝が連続していたとしても、日本の建国は西暦180年を大きく遡るものではない

ネトウヨはヤマト王権=邪馬台国を認めると神武建国紀元前660年や日本は中国の属国になった事がないという主張を否定する事になるから必死なんだよなぁ

ネトウヨが認めない都合の悪い歴史
・邪馬台国はヤマト王権であり日本は建国の時に中華の属国になった
・日本の建国は紀元前660年ではなくヤマト王権の樹立は贔屓目に見ても西暦180年頃である

邪馬台国=早期ヤマト王権だろう
ネトウヨ学説は否定せねばならぬ

456:日本@名無史さん
24/01/10 22:14:57.56 .net
『纏向型前方後円墳の築造時期は4世紀代』
東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井好

ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。その証拠は

1ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留 0 式新相から 1 式期(310~340 年 頃)の土器がみられる事でわかります。

2 画文帯同行式神獣鏡 B 型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があ てられると樋口隆康氏も証言しています。

3のかつき銅鏃を見ても4世紀後半(370 年頃)と分ります。

4小型丸底土器をみても4世紀代の物と分ります。

5考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。

6決定的なのは負の伝世になる事です。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。
6件の350年説の証拠があります。
樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します。

457:日本@名無史さん
24/01/10 22:21:19.66 .net
>>436
狗奴国はもう出てきてんのに何でまた狗奴国の話になるんだ?

458:日本@名無史さん
24/01/10 22:21:55.88 .net
(6a+1)(6b+1)=36ab+6a+6b+1=6(6ab+a+b)+1=6c+1

459:日本@名無史さん
24/01/10 22:24:00.32 .net
成る程。
やはり、6n+1型の自然数を幾つ掛け合わせても、結局は、6n+1型になるのだな。

460:日本@名無史さん
24/01/10 22:25:07.00 .net
>>441
畿内説の考えることは普通の人には理解できないのだ

461:日本@名無史さん
24/01/10 22:25:07.98 .net
卑弥呼以死(中略)更立男王 国中不服 更相誅殺 當時殺千余人 復立卑弥呼宗女台与年十三為王 国中遂定

このお騒がせ男王が、筑紫邪馬台国7万戸の同盟国=投馬国(宮崎)7万戸の王・神武だとすると、千人もの死者が出た辻褄が合うな

462:日本@名無史さん
24/01/10 22:25:34.71 .net
>>417
淡路島には吉野ヶ里に匹敵する大きさの鉄器工房集落が有った

463:日本@名無史さん
24/01/10 22:25:45.87 .net
>>443
つまり、ヤマタイコクキナイセツは、💩なのだね。

464:日本@名無史さん
24/01/10 22:27:50.13 .net
>>417
気色悪いほどの畿内愛

465:日本@名無史さん
24/01/10 22:29:28.19 .net
>>438
その?は孝霊天皇だよ

伝承ではフトニ大王(おおきみ)で知られている

フトニ大王は出雲の鉄に目が眩み、当時はまだタマノクニと呼ばれていた吉備を侵攻攻略、
二人の幼い息子を吉備に設置していよいよ出雲に侵攻するが、出雲の反撃は凄まじく、
双方で多大な犠牲が出てしまい長期戦に突入するがキャンプ地の伯耆で
ついにフトニ大王は崩御しヤマトに残した娘の台与(諡号:百襲姫)が即位した

466:日本@名無史さん
24/01/10 22:32:31.69 .net
>>445
おそらく狗奴国戦争を有利に進めるために投馬国(日向)5万戸官の神武(ミミ)が選ばれたんだろうが、それを不服とした女王国傘下の30ヵ国同士が争い出したんだろう。
それ(邪馬台国外の王)以外に千人もの死者を出す原因は考えられない。

467:日本@名無史さん
24/01/10 22:35:27.45 .net
北九州バカは箸墓の圧倒的大きさがトラウマになってる

反抗期の中高生の様に

468:日本@名無史さん
24/01/10 22:37:35.13 .net
神武は王じゃないだろ。王が攻め込むわけもない。
部隊の長ですらないだろ。お兄さんがいたんだから。
派遣された下っぱ武人に従った弟の一人にすぎない。

469:日本@名無史さん
24/01/10 22:37:46.47 .net
平原王墓の方墳は出雲式じゃ無いのかなあ?

470:日本@名無史さん
24/01/10 22:38:35.91 .net
百襲が天皇に格上げされた瞬間である

471:日本@名無史さん
24/01/10 22:39:24.54 .net
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」~卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ~ のカラクリ

?265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
?(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
?おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長


472:里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w ◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら… →魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩 半円半方」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解) ◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら… →魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百【尺】」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解) 祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。 「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。 面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)



473:日本@名無史さん
24/01/10 22:57:05.25 .net
>>451
箸墓は能古島を箱庭化したもの

474:日本@名無史さん
24/01/10 23:00:16.63 .net
箸墓のモデルURLリンク(i.imgur.com)

475:琪瑛教大祭酒
24/01/10 23:04:53.95 .net
なにを言っとるんだ
方格規矩四神の四神は三韓の大国四国、秦王臣智の別名に刻まれる四国を意味しとるのだよ。

476:琪瑛教大祭酒
24/01/10 23:07:03.28 .net
無駄だわ。

477:日本@名無史さん
24/01/10 23:10:19.19 .net
>>450
ミミと言えば英彦山に祀られているアメノオシホミミの事だよ

478:日本@名無史さん
24/01/10 23:12:13.78 .net
>>451
年代がおかしいので疑惑しかない
卑弥呼様のご遺体はないだろう

479:日本@名無史さん
24/01/10 23:19:21.89 .net
>>441
そんなこと言ってる畿内説はない。
九州説の捏造

480:琪瑛教大祭酒
24/01/10 23:19:36.43 .net
北九州から出てくる物は半島信仰しか出てこんのよ。その半島信仰の平原卑弥呼様がいくら東遷しようが畿内から北枕前方後円墳にはならないんだよ。
担いできた柱と朴のタマゴ甕棺と朴さまの輝きを照らす鏡と井戸があれば平原の卑弥呼だよ。

481:日本@名無史さん
24/01/10 23:20:05.77 .net
やはり箸墓は四世紀の可能性のほうが高いわ。卑弥呼の墓ではなかろう。
やはり卑弥呼などただの九州の女巫女で女王に担がれ北九州の女王国にいたのだろう。
ただその女王の都とする倭国の首都が纏向だと中国側から認識されてただけでw

482:日本@名無史さん
24/01/10 23:29:57.72 .net
きっと伊都国でずっと足止めしてその先に行かせなかったんだろうな。
梯儁たちが、卑弥呼に会わせろと言ってもいやいやここから都まで南に何十日も掛りますとか嘘ついて誤魔化して。
ちょうど都怒我阿羅斯等が長門に上陸したときの伊都都比古の対応とそっくりだ。

483:日本@名無史さん
24/01/10 23:32:36.01 .net
畿内説はもう東遷に頼らないと無理だな

484:琪瑛教大祭酒
24/01/10 23:40:42.64 .net
無駄だよ。崇神とやらも垂仁とやらも仁徳も所詮三段墳墓。箸墓は唯一五段跡継ぎ西殿塚は四段。13才2代目巫女女王より格下。

485:日本@名無史さん
24/01/10 23:45:09.71 .net
>>467
お前、まさか魏使が纒向に行ったと思っているアホなのか

486:日本@名無史さん
24/01/10 23:57:32.03 .net
罵るだけの人がアホ




 

487:日本@名無史さん
24/01/10 23:58:52.93 .net
>>464
>やはり箸墓は四世紀の可能性のほうが高いわ。卑弥呼の墓ではなかろう。

理由の言えない人がアホ



 

488:日本@名無史さん
24/01/11 00:00:57.82 .net
漢委奴国王
漢のイト国王

489:日本@名無史さん
24/01/11 00:02:46.91 .net
ホケノ山が4世紀だから箸墓も4世紀

490:日本@名無史さん
24/01/11 00:07:34.77 .net
ホケノ山古墳の築造年代を3世紀前半の卑弥呼の時代にもっていく考古学者が少なくないが、実際の築造年代は、卑弥呼の時代よりも100年ほど新しい4世紀のものであろう。実際に奈良県立橿原考古学研究所編の『ホケノ山古墳の研究』によれば、新しい(現在の)放射性炭素による年代測定では、4世紀を主とする年代がでている。

 ホケノ山古墳が4世紀のものとすれば、それよりも時代が新しいとみられる箸墓(はしはか)古墳なども、一部で喧伝されるような「卑弥呼の墓」などではなく、卑弥呼時代よりも100年ほど新しい4世紀の築造とみるべきなのである。

491:日本@名無史さん
24/01/11 00:20:59.51 .net
小枝の炭素年代だろ

492:日本@名無史さん
24/01/11 00:23:37.26 .net
ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。その証拠は

1ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留 0 式新相から 1 式期(310~340 年 頃)の土器がみられる事でわかります。

2 画文帯同行式神獣鏡 B 型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があ てられると樋口隆康氏も証言しています。

3のかつき銅鏃を見ても4世紀後半(370 年頃)と分ります。

4小型丸底土器をみても4世紀代の物と分ります。

5考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。

6決定的なのは負の伝世になる事です。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。
6件の350年説の証拠があります。
樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します。

493:日本@名無史さん
24/01/11 00:44:29.63 .net
ホケノ山の小型丸底壺は布留0式古相
周溝下層出土土器も布留0式古相

494:日本@名無史さん
24/01/11 00:48:40.49 .net
辰韓にあった伊西国(いそこく)(三国史記)が斯盧国に追われて南遷してできたのが伊都国のおこり。それが邇邇芸(爾支)の天孫降臨神話となった。

495:日本@名無史さん
24/01/11 01:02:05.89 .net
邇邇芸はd1a2だと言われているから倭人であろう

496:日本@名無史さん
24/01/11 02:10:17.52 .net
>>323
案内してるのボランティアじゃん
情報に根拠有るの?
ソースがツベとかやめてくれ

497:日本@名無史さん
24/01/11 02:37:23.59 .net
>>479
ソースは柳田康雄だそうだ

498:日本@名無史さん
24/01/11 02:56:25.58 .net
誰?

499:日本@名無史さん
24/01/11 03:03:21.60 .net
邇邇芸(ニニウン)=爾支(ニキ)だってか

似てるのは爾(ニ)だけジャンwwwwww

芸=?? 古同“耘”,除草。【老子·道?コ經】夫物芸芸,各復歸其根。

夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜、是謂復命。
URLリンク(www.roushiweb.com)
夫れ物の芸芸たるも、 各々其の根に復帰す。 
根に帰るを「静」と曰ひ、是を「命に復る」と謂ふ。
URLリンク(baike.baidu.com)
目宿,読音是mù sù。意思是即苜蓿。多年生草本植物,是一種重要的牧草和緑肥作物。

500:日本@名無史さん
24/01/11 03:13:17.23 .net
>>481
URLリンク(i.imgur.com)

501:日本@名無史さん
24/01/11 03:16:21.93 .net
邇邇芸は瓊瓊杵とも書くからニニギでいいだろう

502:日本@名無史さん
24/01/11 03:38:31.57 .net
芸は文部省が中国語の意味や音を無視して決めた当用漢字時代のウソ字

九州説狂信者に御似合いのウソ字wwwwwwwwwwwwww

東京芸(ウン)大も10数年前から東京「藝」大に改めたのを知らないバカ

朝鮮パヨクが日本海を今でも東海(トンヘ豚屁)と呼んでるのと同じレベルwwwwww

503:日本@名無史さん
24/01/11 03:44:15.18 .net
記紀でヤマタノオロチにされちゃって紛らわしいが、出雲国風土記では国譲り後の出雲王国が事実上、九州の属国扱いだった正史をちゃんと伝えてる。

504:日本@名無史さん
24/01/11 03:44:49.69 .net
>>483
根拠ある話じゃないんだろ
地元民のロマン
_

505:日本@名無史さん
24/01/11 03:58:30.84 .net
冢徑百歩を直径百歩の円墳と誤解していては
千年、万年、億年探しても発見できないwwwwwww

漢文てのは四書五経や「尚書」、史記、戦国策、荀子、荘子など古典の中に出てくる語彙を駆使して書くもの
徑に半径や直径など使用例が無いのに現代の常識で勝手に解釈しても
「百年待河清」=待ち呆けwwwwww

506:日本@名無史さん
24/01/11 04:10:53.09 .net
>>417
鉄器化が早かったのは丹後。

507:日本@名無史さん
24/01/11 04:20:49.11 .net
>>485
ニニギの時代に漢字は使っていなかっただろうから、そんなにムキになる事でもあるまい

508:日本@名無史さん
24/01/11 04:38:40.20 .net
倭人伝の原本は客家語で書かれていた。「邪馬台国」を客家語で発音すればヤマタイとなるそうで----ヤマトではありません。ポリネシア語の「ア・マタイ」(大合議制の意味)を聴き間違えた。 

509:宙吊りのままの箸墓 
24/01/11 04:49:44.53 .net
箸墓は卑弥呼の墓でない根拠
1,南→東路しないとダメ
2,前方後円墳ではダメ(倭人伝に記述なし)
3,女性の墓かどうかわからない
4,築造年が確定していない、(土器に付着した炭化物で炭素年代をだしても、当時そこに人がいた程度の立証に過ぎない。日本全国いたるところに人はいたからね)
4-2,倭人伝陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器であり箸墓の土器と断定できない
5,倭人伝記述の遺物がほとんど出土していない
6,『魏志倭人伝』の「石棺はあるが槨が無い」との記載とは矛盾
石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓
寺沢薫は「壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓
広瀬和雄は「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」
白石太一郎は「卑弥呼の墓である事の証明はしがたいが、蓋然性は高い」

510:日本@名無史さん
24/01/11 05:05:56.86 .net
箸墓が男王なのであれば卑弥呼を無理くりに九州から来たことにしなくても済む話ですね

511:日本@名無史さん
24/01/11 05:10:35.14 .net
日本書紀の崇神期に相当するBC1世紀に、丹後の鍛冶炉が急増。
丹後から鉄器を調達して新田開発を進めていたのがこの頃の実態であって、それが中央集権化に歪められた。

512:日本@名無史さん
24/01/11 05:32:24.12 .net
>>493
箸墓は九州と関係ないでしょうね。
年代が3世紀としたら、近辺にいた豪族の墓でしょう。
なんでもかんでも大きな古墳を、皇族と結びつける風潮には困ったもんです。

513:日本@名無史さん
24/01/11 05:45:04.33 .net
そういう個人的な印象が他人に通用すると思う?

514:日本@名無史さん
24/01/11 05:51:52.49 .net
卑弥呼をヤマト王権の王とするならば平原女王の夫が皇祖でなければならないのではなかろうか?

515:日本@名無史さん
24/01/11 06:00:37.83 .net
箸墓周濠から出土した木鎧が箸墓築造後の土層の中層だとしてもこの層は四世紀後半で、卑弥呼の墓なら築造時は三世紀半ばで100年以上も間があるのは非常に苦しいだろう。やはり箸墓は四世紀前半の築造と考える従来説が自然の流れで、
放射性炭素年代で三世紀半ばとか誰が言い出しただか知らんがそんなん信じちゃってるおまえらの知能指数もしれてるだろw

516:日本@名無史さん
24/01/11 06:22:55.05 .net
国生み神話には「天沼矛」が出て来る、銅矛文化圏での話。「この時、滴り落ちたものが積もって島が出来た」という部分は、阿蘇山の大噴火で火山灰や土砂が筑後川上流から下流へと押し流され、有明海沿岸が陸地化していく様子を描いたもの。
天照大御神の天岩戸隠れ事件も、阿蘇山大噴火で数日間、空が暗闇に包まれた出来事。

517:日本@名無史さん
24/01/11 06:36:40.58 .net
記紀神話のオノコロ島は、
忌部(物部)の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できないし、葦も生えない。   @阿波

518:日本@名無史さん
24/01/11 07:05:51.51 .net
弥生時代の畿内では、打製石器を武器として使用していた。
畿内説論者「鉄製武器も石製武器器も殺傷力はそんなに変わらない」
九州説論者「大和川上流沿いに東方へと抜ける道が縄文時代からあって、いつでも王族が逃げる準備をしていた」
、とそれぞれ主張。

519:琪瑛教大祭酒
24/01/11 07:11:27.58 .net
地理なぞ正確性が無い時代に天御中主を中心に回る二神の話であろう。
天御中主は朴赫居世だよ。
最初の島なら半島だよ。

520:琪瑛教大祭酒
24/01/11 07:41:35.25 .net
どのような理由づけの作り話をしようが北九州は朴タマゴ甕棺
畿内卑弥呼時代に北枕前方後円墳
記紀八角アサガオ墳墓
昭和天武墓継承
なんだな。
もう無駄なんだな。

521:日本@名無史さん
24/01/11 07:46:36.43 .net
>>503
「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地・平地になんぞ葬らない。 そんなの常識。   @阿波

522:日本@名無史さん
24/01/11 07:51:08.95 .net
>>503
天武朝は宇佐系

523:日本@名無史さん
24/01/11 08:08:25.14 .net
箸墓は真の神武陵(ヤマト王権初代大王)
西殿塚は真の綏靖陵(ヤマト王権2代大王)
URLリンク(i.imgur.com)

524:日本@名無史さん
24/01/11 08:10:18.53 .net
>>506
何度でも言う。
「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地・平地になんぞ葬らない。 そんなの常識。   @阿波

525:日本@名無史さん
24/01/11 08:13:04.82 .net
>>507
阿波には平野が無かった。

526:日本@名無史さん
24/01/11 08:23:14.07 .net
放射性炭素14年代測定だと、近畿産土器は同型の九州産より150~300年も新しく判定されてしまう。そこで奈文研を運営する独立行政法人は、C14年代測定法作成にも使われる基礎データをブラックボックス化して、飛鳥以前の遺跡の年代が実際より古く計測されるようデータ改ざんした疑いが持たれてる。古代の先進文化は常に東から西へと伝播したのが基本。

527:日本@名無史さん
24/01/11 08:23:40.53 .net
箸墓は崇神天皇陵。
それが時代的にも規模的にも妥当。
卑弥呼とは無関係だろう。

528:日本@名無史さん
24/01/11 08:24:21.55 .net
>>509
訂正
西から東ね

529:日本@名無史さん
24/01/11 08:40:53.19 .net
日向都万(投馬国5万戸)王神武は、筑紫(邪馬台国7万戸)女王台与の本州銅鐸(スサノオ・大国主)王権の末裔ニギハヤヒを平定する東征将軍だったのだが、日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備(楯築弥生墳丘墓)→大和と征服していくうちに後進地とばかり思っていた本州各地の王墓が立派なのを見て、ヤマト王権樹立するとすぐにそれらをすべて合わせた自らの箸墓を立派に造ってしまい、台与(巫女なので結婚出産できない→跡継ぎがいない)死後、崇神の代で筑紫邪馬台国を吸収合併してしまったのだ!

530:日本@名無史さん
24/01/11 08:43:53.31 .net
>>509
因みに、独立行政法人のトップの殆どは天下り官僚。

531:日本@名無史さん
24/01/11 08:49:03.85 .net
>>510
何度でも言う。
「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地・平地になんぞ葬らない。 そんなの常識。 畿内説信者は非常識  @阿波

532:日本@名無史さん
24/01/11 08:51:11.95 .net
阿波の常識は世間の非常識

533:日本@名無史さん
24/01/11 08:52:09.12 .net
根拠の無い妄想を書きたい放題の九州説wwwwwwww

534:日本@名無史さん
24/01/11 08:52:53.14 .net
エジプトの王のピラミッドは平地にある

535:日本@名無史さん
24/01/11 08:57:53.37 .net
>>517
日本の神をエジプトといっしょにするな!   @阿波

536:日本@名無史さん
24/01/11 09:00:07.50 .net
>>518
日本人の先祖も出アフリカをする時にエジプトあたりは通っている

537:日本@名無史さん
24/01/11 09:01:38.01 .net
国宝ザクザクの平原王墓も平地にある

538:日本@名無史さん
24/01/11 09:05:21.30 .net
倭国大乱で倭王権を博多奴国(漢委【奴国】王・帥升)から奪取した筑紫邪馬台国�


539:ノは4人の王がいた 卑弥呼→男王①(国中不服)→台与(13)→男王②(受中国爵命) 卑弥呼以死(中略)更立男王、国中不服。更相誅殺、當時殺千余人。復立卑弥呼宗女台与年十三為王、国中遂定! このお騒がせ男王が、筑紫邪馬台国7万戸の同盟国=投馬国(宮崎)7万戸の王・神武だとすると、千人もの使者を出した理由が判る。 おそらく狗奴国戦争を有利に進めるために投馬国(日向)5万戸官(実質的な王)の神武(ミミ)が選ばれたんだろうが、それを不服とした女王国傘下の30ヵ国同士が争い出したんだろう。 それ(邪馬台国外の王)以外に千人もの死者を出す原因は考えられない。 千人もの死者を出した責任を来倭していた張政に取らされ、「死んだ気で本州(女王国東渡海千里複有国皆倭種)ニギハヤヒ王権を征服して来い!」と言われて、瀬戸内海を大和に向かったのだ! 神武東征ルート 日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和 そして箸墓こそ(筑紫邪馬台国の威厳を未開の本州に示すはずだった)ヤマト王権の初代大王となり、筑紫邪馬台国を乗っ取ってしまった真の神武陵なのだ!



540:日本@名無史さん
24/01/11 09:07:20.19 .net
出アフリカ根拠は
細胞核ゲノムより数が少なくて分析が簡単な女系遺伝する
ミトコンドリア・ゲノム

541:日本@名無史さん
24/01/11 09:09:14.77 .net
記紀が筑紫邪馬台国を消した理由
-神武東征が曹魏帯方郡(張政)の命令であったこと
-神武が筑紫邪馬台国の奥津城「王家の谷」@本州・大和を乗っ取ってしまったこと

542:日本@名無史さん
24/01/11 09:19:31.94 .net
>>499
弥生時代には、まだ人間を神として崇める風習はなかったハズで、天照大神は卑弥呼をモデルにした神話だと、素人でも分かる

543:日本@名無史さん
24/01/11 09:23:03.21 .net
>>519
6万年も前のことを持ち出すな!   @阿波

544:日本@名無史さん
24/01/11 09:24:33.61 .net
>>520
>国宝ザクザクの平原王墓も平地にある
筑紫忌部の豪族墓にすぎん。   @阿波

545:日本@名無史さん
24/01/11 09:27:58.54 .net
白村江敗戦の後、唐の報復征伐を恐怖に感じた不比等は、
倭人伝の東南陸行は、佐賀伊都国→吉野ヶ里不彌国→南至熊本邪馬台国の佐賀ルートと知り、
故に卑弥呼の朝貢使は、此の道を逆にたどって末盧国の港に抜け、郡に上ったと見抜いた。
そこで日本書紀・三世紀の糸島・博多湾岸に仲哀・神功を華々しく登場させ、
「博多湾岸は、前660年来の皇統の御領地であるから、卑弥呼使が通過するわけがない」との論陣を築いた。
そして念には念を入れ、伊覩縣、儺縣、宇瀰郷の地名も登場させて、
伊都国、奴国、不彌国を通過したという卑弥呼使は、三世紀の大偽僭なりと主張したのである。

546:日本@名無史さん
24/01/11 09:29:47.52 .net
>>527
白村江敗戦の後、唐の報復征伐を恐怖に感じた不比等は、
持統天皇に、奈良遷都を進言したのだろう。   @阿波

547:日本@名無史さん
24/01/11 09:31:18.77 .net
>>527 続き
更に、これを以て不比等が企図したのは、
その後、三韓征伐と称してたびたび半島に攻め上り、
又、七世紀に白村江まで進攻し大敗したのも、この魏に通じていた熊襲の女酋の末裔の仕業であり、
我が皇統はいささかも関与せず・・、というまことに尤もな筋書きだったのである。

548:日本@名無史さん
24/01/11 09:32:02.54 .net
卑弥呼は九州の女巫女で九州で共立された女王。
台与が女王の時に纏向に遷都。
台与の次の男王が崇神で箸墓に葬られた。
神武東征とか台与と崇神の時に筑紫日向から奈良へ遷都したSTORY。
それですべて解決。めでたしめでたしw

549:日本@名無史さん
24/01/11 09:33:10.73 .net
>>527
白村江敗戦の後、唐の報復征伐を恐怖に感じた不比等は、
持統天皇に、奈良遷都を進言したのだろう。   @阿波

550:日本@名無史さん
24/01/11 09:48:28.18 .net
中1地理歴史の期末試験問題:
以下の情報から、倭女王「卑弥呼」(?~西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A~Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・副官狗古智卑狗(熊本県菊池郡)
A.奈良県桜井市 B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

551:日本@名無史さん
24/01/11 10:09:06.19 .net
>>529 続き
しかるに明治の畿内説の祖の内藤氏は、
卑弥呼を垂仁天皇第4皇女の倭媛とし、媛に代わりて朝貢せしは但馬国と出雲国であり、
これがのちに大陸との通商を開くきっかけとなった偉業なり・・、と妄も甚だし、

552:日本@名無史さん
24/01/11 10:14:04.89 .net
>>531
>中1地理歴史の期末試験問題:

九州説は捏造が好き



 

553:日本@名無史さん
24/01/11 10:16:00.88 .net
>>532が捏造

554:日本@名無史さん
24/01/11 10:19:38.06 .net
つまり、畿内説は小卒相当

555:日本@名無史さん
24/01/11 10:35:14.83 .net
女王国は?伊都国(福岡県糸島市)の南側、?狗奴国(熊本県菊池郡)の北側に隣接し、?「東渡海千里複有国皆倭種(本州)」の(海を隔てた)西にあるって倭人伝に書いてあるんだから、筑紫平野しかないだろ!w
URLリンク(i.imgur.com)

畿内説は本当に日本人なのきゃ?w

556:日本@名無史さん
24/01/11 10:47:34.48 .net
神功皇后の神社伝承が九州と瀬戸内地方に集中。他の地域は倭国の管轄外。

557:日本@名無史さん
24/01/11 10:58:45.84 .net
>>536
なんの前後関係もなく「つまり」と書き始めるやつ
九州説アタオカの証明

558:日本@名無史さん
24/01/11 11:00:23.83 .net
つまり、畿内説は三国人

559:日本@名無史さん
24/01/11 11:04:46.52 .net
>>537
>女王国は①伊都国(福岡県糸島市)の南側、②狗奴国(熊本県菊池郡)の北側に隣接し、③「東渡海千里複有国皆倭種(本州)」の(海を隔てた)西にあるって倭人伝に書いてあるんだから、

倭人伝無視の九州説
本当に人類なのきゃ?w

560:日本@名無史さん
24/01/11 11:05:56.54 .net
つまり畿内説はエセ日本人による霊感商法詐欺でしたと

561:日本@名無史さん
24/01/11 11:08:51.42 .net
女王国は
?(女王国以北の国邑を監視する一大率がある)伊都国の南、
?狗奴国(熊本県菊池郡)の北、に隣接し、
?「東渡海千里複有国皆倭種(本州)」の(海を隔てた)西にある

さぁ、どこだ?w

562:日本@名無史さん
24/01/11 11:12:33.68 .net
阿波は嘘をつくしか無い哀れな僻地の子

563:日本@名無史さん
24/01/11 11:15:28.07 .net
>>543
倭人伝無視の九州説
それは異常者

564:日本@名無史さん
24/01/11 11:17:01.17 .net
つまり、畿内説は文盲の池沼

565:日本@名無史さん
24/01/11 11:18:31.79 .net
>>543
「阿波」一択。   @阿波

566:日本@名無史さん
24/01/11 11:59:11.78 .net
九州説は素人、畿内説は玄人、研究者、ほとんど決まり
つまり証拠があると言っていたのがウソ

567:日本@名無史さん
24/01/11 12:01:22.08 .net
無理に東遷を絡めようとするから創作ストーリー臭がキツくなる
東遷エピソードは仮にあったとしても紀元前か四世紀くらいの話だろ
卑弥呼、台与の邪馬台国とは別のはなし

568:日本@名無史さん
24/01/11 12:03:18.30 .net
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了
解散!

569:日本@名無史さん
24/01/11 12:14:05.92 .net
>>545
倭人伝無視は畿内説だよ
畿内説の論文は、倭人伝にほとんど触れない
◯◯が出てきたから畿内が邪馬台国だという主張
寺澤先生も「倭人伝をいくら読んでも場所の特定はできない」と言っている

570:日本@名無史さん
24/01/11 12:21:45.43 .net
おそらく神武東征の経路が女王国が東遷したルート。卑弥呼の時代は筑紫の日向や宇佐、台与になった時に吉備から纏向に移ってる。
女王の都邪馬台国は台与が最後に行き着いた纒向のこと。
崇神が神武のモデルで箸墓に葬られた大王。
このいかにもおまえらマニアが好きそうなSTORY作ったワイ天才やろ?w

571:日本@名無史さん
24/01/11 12:23:41.98 .net
魏志倭人伝の蛇足(嘘)=投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州・銅鐸王大国主✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国・少彦名)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶


572:〜〜〜幻の邪馬台国(帯方郡から12,000里)※架空の女王国



573:日本@名無史さん
24/01/11 12:26:19.13 .net
>>551
>寺澤先生も「倭人伝をいくら読んでも場所の特定はできない」と言っている
そりゃ、トンデモだから。
ほぼほぼ、「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で決定している。   @阿波

574:日本@名無史さん
24/01/11 12:29:36.07 .net
畿内説の主張
・2世紀まで銅鏡が出てこないのは、畿内では銅鏡はすぐ墓に入れないのだ。100年とか経ってから墓に入れるのだから、2世紀にはすでに九州と同じ量の銅鏡を持っていたのだ
・それが画文帯神獣鏡だ
・九州人は銅鏡をすぐに墓に入れるのだ

畿内説を採用するならば、紀年銘鏡は100年後に古墳に入れてますね
したがって、三角縁神獣鏡が出てきた九州の古墳が一番古いですね
福岡の石塚山古墳ですね

575:日本@名無史さん
24/01/11 12:30:31.58 .net
>>554
阿波説は捏造だと決定している
邪馬台国が四国に存在した可能性は100%ないと言い切って差し支えありません✋😁
URLリンク(note.com)

576:日本@名無史さん
24/01/11 12:38:20.16 .net
>>551
>寺澤先生も「倭人伝をいくら読んでも場所の特定はできない」と言っている
小卒レベルの畿内説脳にはムリポw

577:日本@名無史さん
24/01/11 12:39:54.72 .net
>>551
>寺澤先生も「倭人伝をいくら読んでも場所の特定はできない」と言っている
そりゃ、トンデモだから。
ほぼほぼ、「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で決定している。   @阿波

578:日本@名無史さん
24/01/11 12:40:56.13 .net
>>526
阿波の忌部とやらは出来の悪いバカ

579:日本@名無史さん
24/01/11 12:43:40.36 .net
>>555
>畿内説の主張
>・2世紀まで銅鏡が出てこないのは、畿内では銅鏡はすぐ墓に入れないのだ。100年とか経ってから墓に入れるのだから、2世紀にはすでに九州と同じ量の銅鏡を持っていたのだ
これも嘘

九州説はウソで出来ている

580:日本@名無史さん
24/01/11 12:44:10.97 .net
>>558
後漢書では「其山有丹土」に訂正されているのでその山とはリモナイトの出る阿蘇だという事がわかるの。

581:日本@名無史さん
24/01/11 12:57:08.01 .net
ちなみに後漢書東夷伝は5世紀南宋の范曄(398~446)によって編纂された後漢に関する歴史書。

582:日本@名無史さん
24/01/11 13:04:09.87 .net
>>551
>寺澤先生も「倭人伝をいくら読んでも場所の特定はできない」と言っている
漢文の直訳を読めるだけではダメ。
中華古書を読むには、中華の記述ルールである「道行き法」を知らなくてはならぬ
また三世紀の倭国の地理も知らなくてはならぬ。
唐津からは、脊振山系の西麓を迂回して佐賀平野へ抜ける「古唐津街道」があったのですよ。

583:日本@名無史さん
24/01/11 13:07:09.46 .net
邪馬台国は知らんが女王国は北九州としか誰がどう読んでもそうとしか読めないよw

584:日本@名無史さん
24/01/11 13:07:49.12 .net
>>561
阿蘇リモナイトは阿蘇黄土
URLリンク(www.limonic.co.jp)
倭の宇陀の真赤土(万葉集巻7)
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)

585:日本@名無史さん
24/01/11 13:26:57.84 .net
>>564
>邪馬台国は知らんが女王国は北九州としか、、、読めないよw
女王国は「卑弥呼共立前」に4回、「共立後」に1回出てくる。
共立前は、女王国=邪馬台国、と読んで差し支えない。
しかし共立後には、卑弥呼は倭30国の女王になったのであるから、女王国=倭国、と読むべきである。
しかも、その女王国=倭国の東渡海千余里に、復た倭種の国々が有ったのであるから、
倭国は九州であり、女王国もまた九州にあったことは間違いない。

586:日本@名無史さん
24/01/11 13:33:21.39 .net
萬二千餘里で至る2万戸の奴国から先が女王国
奴国は後漢書の倭奴国=女王が共立された倭国の一番南の国

587:日本@名無史さん
24/01/11 13:41:47.65 .net
半島巡り、島めぐりの古田説も、すっかり風化しちまったねえ

588:日本@名無史さん
24/01/11 13:42:28.90 .net
三十國は使訳通ずる所
女王国は奴国から旁國女王境界までの25国
女王国の統制に隷属している伊都国、官が置かれている離島二つを合わせて倭国(28国)

589:日本@名無史さん
24/01/11 13:42:37.60 .net
①倭国大乱…帥升死後、倭王権が奴国2万戸(漢委【奴国王】→帥升)から南の筑紫平野・邪馬台国7万戸に移る
②狗奴国戦争…筑紫邪馬台国に倭王権が移ったことで南で国境を接する狗奴国(菊地・熊本)との緊張感が高まり、卑弥呼が老齢になると、ついに相攻する交戦状態へ
③卑弥呼の朝貢…(呉の孫権を後ろ盾にした)狗奴国に対抗するため、曹魏に朝貢し「親魏倭王」に封じてもらい、帯方郡が管理する狗邪韓国(伽耶)の鉄を輸入する。
 さらに狗奴国を側面から牽制するため投馬国(宮崎)と同盟を結ぶ。

590:日本@名無史さん
24/01/11 13:44:54.27 .net
不弥国から残り1300里を二か月だと、
末盧上陸から女王の都まで2000里を92.3日(三か月)
帯方郡から女王の都まで12000里を553.84日(約一年半)かかることになる

591:日本@名無史さん
24/01/11 13:55:42.84 .net
距離が五倍ほど盛ってあるのだから日数もそれくらい盛ってあっても不思議はない

592:日本@名無史さん
24/01/11 13:57:11.68 .net
女王国の入り口の博多に3世紀前半の前方後円墳(当時九州最大)→女王国の都に纏向古墳群
→卑弥呼の死後、最初の定型化巨大前方後円墳・箸墓古墳
→3世紀後半西日本各地に前方後円墳=古墳時代となる

593:日本@名無史さん
24/01/11 13:59:15.58 .net
>>572

中国の方万里の地理的世界観の距離が盛ってある
なので、行程記事では比定できない

594:日本@名無史さん
24/01/11 14:01:23.59 .net
つまり畿内説はイメージを証拠と呼ぶサークルでしたと

595:日本@名無史さん
24/01/11 14:04:15.70 .net
つまり九州説はこんな嘘と中傷しか言えない敗残者でした



 

596:日本@名無史さん
24/01/11 14:06:57.98 .net
九州文学小説に始まる雑多九州説は、
行程を改竄すれば考古学的根拠は何もなくても比定できるという一人一説雑多九州説

597:日本@名無史さん
24/01/11 14:12:28.98 .net
何度も言うが後漢時代すでに代々王を継いでいた邪馬台国30国の時代に畿内は含まれない

【史実】
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
URLリンク(i.imgur.com)

598:日本@名無史さん
24/01/11 14:15:50.57 .net
鉄器・鍛冶工房が最も多い筑前博多が葬制を共有する畿内との政治連合

599:日本@名無史さん
24/01/11 14:20:22.15 .net
博多=九州最大の中継貿易経済都市
畿内=稲作農耕社会の形成が早く、産物が豊富な祭祀の中心地

600:日本@名無史さん
24/01/11 14:36:37.80 .net
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)
 ↑
女王国(筑紫)→複有国皆倭種(本州)
 ↓         ↓
狗奴国(熊本) 侏儒国(四国)

筑紫説は日本の地理にピッタリ!

601:日本@名無史さん
24/01/11 14:52:16.22 .net
>>579

そんな痕跡は皆無だが�


602:H 特に纒向は



603:日本@名無史さん
24/01/11 14:53:16.49 .net
>>580
>稲作農耕社会の形成が早く、産物が豊富な祭祀の中心地

そんな痕跡は皆無だが?
しかも学者もそんな事は言ってない

604:日本@名無史さん
24/01/11 15:10:36.03 .net
>>574
>なので、行程記事では比定できない
トンデモでは出来ない。 比定できるのは、「阿波」だけ。   @阿波

605:日本@名無史さん
24/01/11 15:12:19.03 .net
阿波説は筋の悪い出来損ない

606:日本@名無史さん
24/01/11 15:12:33.12 .net
>>578
>何度も言うが後漢時代すでに代々王を継いでいた邪馬台国30国の時代に畿内は含まれない
それは、鉄器王国「阿波」だけ。   @阿波

607:日本@名無史さん
24/01/11 15:13:48.09 .net
>>579
鉄器・鍛冶工房が圧倒的に多いのは、「阿波」だけ。   @阿波

608:日本@名無史さん
24/01/11 15:14:54.85 .net
>>580
博多は、交易ルートから外れた寒村。   @阿波

609:日本@名無史さん
24/01/11 15:15:23.21 .net
阿波にあるのは嘘だけ。

610:日本@名無史さん
24/01/11 15:18:05.42 .net
阿波が日本の中心だった事など一度も無い。言っちゃ悪いが万年辺境地。

611:日本@名無史さん
24/01/11 15:21:32.49 .net
>>590
悔しいだろうが、7世紀末まで「阿波」が日本の中心だ。 わははははは   @阿波

612:日本@名無史さん
24/01/11 15:22:03.34 .net
日本国内で唯一国宝が無いのが阿波。
つまり取るに足らない遺跡しかないという事。そんな場所が王都とかこっちが恥ずかしくなる。

613:日本@名無史さん
24/01/11 15:23:02.77 .net
>>591
嘘とウンコの阿波の歴史

614:日本@名無史さん
24/01/11 15:30:16.75 .net
>>592
悔しいだろうが、王都遺跡が在るのは「阿波」だけ。 わははははは   @阿波

615:日本@名無史さん
24/01/11 15:33:28.46 .net
>>594
嘘とウンコの歴史しか無い阿波

616:日本@名無史さん
24/01/11 15:37:05.97 .net
つまり畿内説は論外でしたと言いたい@阿波

617:日本@名無史さん
24/01/11 15:37:29.18 .net
>>581
投馬国の比定地が難しい

618:日本@名無史さん
24/01/11 15:39:38.00 .net
>>597
里数と同じように1/5くらいの日数にして検討してみてはどうだろうか
水行二十日 → 4日
水行十日 → 2日
陸行1月 → 6日

619:日本@名無史さん
24/01/11 15:40:13.52 .net
アホだなおまえらやはりw
イト国までの行程記事と邪馬台国の行程記事は繋がりなどないどころか時代もたぶん違うよ。書き方が全然違うし。
陳寿が手元にある資料適当にぶち込んだのをおまえらはなんか勘違いして全て繋がりがあると勘違いしちゃってるから
めちゃくちゃなトンデモ説ばかりになってw

620:日本@名無史さん
24/01/11 15:41:30.02 .net
阿波ほど証拠の無い事を言う説も珍しい

621:日本@名無史さん
24/01/11 15:49:24.20 .net
>>600
どの証拠を出そうか? わははははは   @阿波

622:日本@名無史さん
24/01/11 15:56:37.81 .net
>>601
阿波が沖ノ島国家祭祀に関わっていたとする証拠を出してみな

623:日本@名無史さん
24/01/11 16:17:44.42 .net
>>602
とりあえず、「末盧国」を福津市(万津浦)辺りに比定しているのは、「阿波」だけ。
「末盧国」を唐津や松浦に比定しているトンデモに、沖ノ島や宗像を語る資格なし!   @阿波

624:日本@名無史さん
24/01/11 16:19:54.64 .net
>>603
福永晋三さんの説をパクったのが阿波だろ。さあ沖ノ島国家祭祀の証拠を出せるものなら出してみな。

625:日本@名無史さん
24/01/11 16:24:30.40 .net
沖ノ島には8万点の国宝が出ましたが
阿波にはたった一つの国宝もありません。変でしょ

626:日本@名無史さん
24/01/11 16:29:28.42 .net
>>604
福永晋三さん? だれ?   @阿波

627:日本@名無史さん
24/01/11 16:30:44.32 .net
>>604
「末盧国」を唐津や松浦に比定しているトンデモに、沖ノ島や宗像を語る資格なし!   @阿波

628:日本@名無史さん
24/01/11 16:32:55.93 .net
>>606
福永晋三さんを知らなくてもいいが、沖ノ島国家祭祀の証拠をはよ

629:日本@名無史さん
24/01/11 16:34:36.11 .net
>>608
直接証拠なんかどの説にも有るわけなかろうが。 お前はアホか!   @阿波

630:日本@名無史さん
24/01/11 16:35:36.54 .net
阿波が沖ノ島国家祭祀の証拠を出せないという事は、阿波に王都があったと言うは幻だったと言う事で、阿波説は終了しました。 
糸冬。

631:日本@名無史さん
24/01/11 16:36:47.58 .net
阿波説は終了しました。

632:日本@名無史さん
24/01/11 16:39:35.23 .net
>>610
直接証拠なんかどの説にも有るわけなかろうが。 お前はアホか!   @阿波

633:日本@名無史さん
24/01/11 16:52:49.97 .net
>>583
「農耕社会の形成」(甲元眞之 熊本大学名誉教授)
佐賀県唐津市の菜畑遺跡は日本最古の水田が検出されたことで知られているが、
この遺跡で発見された食料はイネだけでなく、
オオムギ、ソバ、アワ、アズキ、ゴボウ、メロン、クルミなど多様な栽培・採集植物がある。
また魚にはエイ、サバ、アジ、ブリ、スズキ、クロダイなど各種に渡り、
狩猟動物もノウサギ、ムササビ、タヌキ、テン、アナグマ、ニホンジカ、イノシシ、イルカ、アシカ、ジュゴンなど多種に及んで、
各個の数の少なさを補っている状況が窺われる。
ところが弥生時代前期の山口県綾羅木遺跡では動植物の捕獲する範囲が限られるようになり、
穀物も米が圧倒的多数を占めるようになる。
特定のものに対する選別的な獲得が進んで、食料の範囲が狭まったことがわかる。
これは逆に少数の対象で食料が賄われていた一安定した食料があったことを物語っている。
さらに大阪府の池上遺跡ではそれが極端に表れ、穀物はイネ、魚はマダイ、肉はイノシシ、
果実はヤマモモというように狭い範囲の食料が圧倒的に多いという結果が示されている。
これは農業などの生産、食料確保が安定すると、
一定の効率のいい食べ物ばかりに偏ってしまうという傾向を物語るものである。
弥生時代に入ると稲作などの生産活動がうまくいった地域では食料体系が大きく変化するのに対して、
そうでない地域では必然的に縄文時代とはあまり変化のない食生活が持続するのであり、
地域的格差が増大して村落相互だけでなく、
村落内部においても社会的関係が変わらざるを得ない社会が出現することとなる。
つづく

634:日本@名無史さん
24/01/11 16:53:05.24 .net
それでは安定した稲作社会はいつ頃形成されたのであろうか。
そのかぎを握っているのは製塩業の展開である。
米は良質のたんぱく質を内臓しているが、
ナトリウムイオンがなければ体内に吸収することができない。
つまり米を主食とするには塩が必要になってくる。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。
3世紀になると玄海灘や紀淡海峡、若狭湾でも
こうした専業の製塩業の出現が認められるようになる。
専業の製塩集団が形成されることは、それを可能にする稲作栽培の本格化を物語るものである。
熊本県では製塩土器が出るのは6世紀の天草型製塩土器が最初であり、
稲作栽培を中心とした農耕生産が本格化するのはこの頃であったことが窺えるのである。

635:日本@名無史さん
24/01/11 16:56:11.47 .net
沖ノ島の祭祀はヤマト王権の関与が指摘されている。出土品は大和を中心に行われた水辺の祭祀や古墳の副葬品と共通するものも多いという。橿原考古学研究所の北井利幸さんは「王権が時期をあけることなく関与したことが、沖ノ島の出土品に認められる」と今回の見どころを語る。
URLリンク(www.asahi.com)

636:日本@名無史さん
24/01/11 17:01:52.23 .net
>>615
>沖ノ島の祭祀はヤマト王権の関与が指摘されている。
そのヤマト王権は、倭国(阿波)王権を指す。   @阿波

637:日本@名無史さん
24/01/11 17:01:53.54 .net
畿内説が書いた中国史書には邪馬台国は安定した稲作社会だったと書いてあるそうだw

638:日本@名無史さん
24/01/11 17:03:57.27 .net
>>617
弥生の異常気象で、灌漑稲作などとても出来る状況ではなかった。   @阿波

639:日本@名無史さん
24/01/11 17:05:08.38 .net
>>616
阿波からは国宝が出ていないのでヤマト王権などでは絶対に無い。

640:日本@名無史さん
24/01/11 17:07:29.35 .net
>>612
証拠を出せないなら阿波説などやめろ

641:日本@名無史さん
24/01/11 17:08:05.59 .net
>>619
国宝は無くても、倭国(阿波)王権の王都遺跡があるからな。 わははははは   @阿波

642:日本@名無史さん
24/01/11 17:09:00.50 .net
>>617
>畿内説が書いた中国史書には
書かない

643:日本@名無史さん
24/01/11 17:09:09.86 .net
>>618
だよな

644:日本@名無史さん
24/01/11 17:10:04.83 .net
>>620
直接証拠なんか、どの説にも有るわけなかろうが。 お前はアホか!   @阿波

645:日本@名無史さん
24/01/11 17:11:00.20 .net
畿内説が書いた中国史書には卑弥呼の墓は前方後円墳であり殉葬は無かったと書いてあるそうだw

646:日本@名無史さん
24/01/11 17:12:42.34 .net
つまり畿内説が参照している倭人伝は偽書倭人伝でしたと

647:日本@名無史さん
24/01/11 17:14:07.16 .net
>>624
つまり阿波説の言う王都は証拠が無くただ言い張っているだけと言うことだな

648:日本@名無史さん
24/01/11 17:18:58.81 .net
阿波説を認めている学者はいるのか?
支持しているのは、中卒レベルのアホだけ

649:日本@名無史さん
24/01/11 17:23:04.56 .net
>>628
>阿波説を認めている学者はいるのか?
御用学者が認める訳なかろうがよ。 飯の食い上げになる。   @阿波

650:日本@名無史さん
24/01/11 17:23:48.26 .net
>>628
学者に頼るのは危うい
歴博のホームページを見ると、「大多数の考古学者は畿内説です」と書いてる
すなわち、学者というのは異論を唱えられないのだ

651:日本@名無史さん
24/01/11 17:27:37.25 .net
纒向遺跡に水田跡なし。

652:日本@名無史さん
24/01/11 17:27:51.48 .net
じゃ、少し前まで九州説の学者がいたのは、なぜ?

653:日本@名無史さん
24/01/11 17:32:02.92 .net
安本美典氏ともやり取りをする寺澤薫先生は、明らかに安本美典氏の影響が見てとれる。
イト倭国東遷説を唱えている。
ところが、安本美典氏が招いても討論会に来てくれない大多数の考古学者は、全く九州の方に寄ろうとしない。
畿内優越史観に凝り固まっている。
なので、素人があれこれ口出しすることは良いことです。

654:日本@名無史さん
24/01/11 17:38:31.35 .net
>>631
無いと、なんだ?

655:日本@名無史さん
24/01/11 17:40:10.31 .net
>>633
>安本美典氏ともやり取りをする寺澤薫先生は、明らかに安本美典氏の影響が見てとれる。
>イト倭国東遷説を唱えている。
またウソをつく九州説

656:日本@名無史さん
24/01/11 18:00:52.00 .net
>>633
行ったみたいだよ
URLリンク(www.yamataikokunokai.com)

657:日本@名無史さん
24/01/11 18:01:42.37 .net
「実は九州が大好きなんです」と寺沢さん。「九州の遺跡で何か見つかれば、現場に行って担当者たちとよく議論した」と話す。
各地の遺跡を比較した結果、弥生時代末(2世紀末)まではやはり北部九州が先進地だったと強調。中国の歴史書に登場する「倭国」も、もっぱら北部九州だ。
後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)は「建武中元2(西暦57)年、中国の皇帝が奴国(なこく)王に印綬を授けた」と記す。
奴国は福岡平野に位置し、王の墓は鏡が30枚以上見つかった須玖(すぐ)岡本遺跡(福岡県春日市)が有力だ。
この50年後の永初元(107)年には「倭国王帥升(すいしょう)が奴隷160人を献上した」とも記す。
寺沢さんは、この倭国は福岡県糸島市を中心とする「イト(伊都)国」主導の国家で、その王が帥升とみる。

畿内説は「帥升もヤマト(奈良)」と言い張る学者が多い中、寺澤先生は頑張っている。自分で異端者と言ってるが


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