23/07/17 09:57:16.78 .net
そりゃそうかもしれんが
3:日本@名無史さん
23/07/17 10:12:12.24 .net
一日一善だろ
4:日本@名無史さん
23/07/17 10:29:34.96 .net
平原女王墓が卑弥呼じゃないだろ。
平原女王墓が卑弥呼の墓、ならわかるが。
5:日本@名無史さん
23/07/17 10:57:13.24 .net
まあ耳トウかな。卑弥呼は長寿だったから、愛用品を副葬したなら247年くらいっしょ。
6:伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
23/07/17 12:11:40.67 .net
平原は九州内でも北に偏りすぎでは無いのか?
伊都国の王族の墓なんだろうけど、卑弥呼の墓では無いでしょう。
7:日本@名無史さん
23/07/17 12:26:37.79 .net
漢尺=23センチだから、五尺=115センチ
平原遺跡の素環頭鉄刀は75センチ
はい、解散!
8:日本@名無史さん
23/07/17 12:42:40.55 .net
>>6
南の狗奴国と戦争してるのだから、伊都が一番安全。
有明海や筑後川に面していると急襲される。
九州だけに。
9:日本@名無史さん
23/07/17 13:13:53.26 .net
>>7
それは刀身だけ。
巫女女王の卑弥呼への贈り物なのだから、装飾品、呪具としての五尺刀。
よって、煌びやかに装飾されていたであろう「鞘」の部分も含んだ、
美術品としての五尺刀であり、鞘も含めれば115センチあったのだろう。
10:日本@名無史さん
23/07/17 13:58:02.33 .net
もはや他説は涙を流しながら不弥国から先で迷い続けるしかないのだなあ
11:日本@名無史さん
23/07/17 14:19:08.75 .net
旅行するのに、車で100km走って、そこから2時間で到着、なんて珍妙な説明はしないわな。
同じ行程を、車で100km走る、時間にすると2時間だよ。だな。
伊都で決まり。
12:日本@名無史さん
23/07/17 15:00:32.49 .net
平原が卑弥呼の墓だろう
ただし伊都国奴国を含む福岡の広域を邪馬台国と呼ぶようなクソみたいな説には与しない
13:日本@名無史さん
23/07/17 15:07:33.16 .net
自説に合わないとクソ呼ばわり(チーン
14:日本@名無史さん
23/07/17 15:12:24.87 .net
旧百余国の王が消えて、卑弥呼が共立されたんだから、
広域邪馬台国に、旧数十国が内包される、で筋が通っている。
残りの数十国が狗奴国側なのだろう。
15:日本@名無史さん
23/07/17 16:13:06.43 .net
金印を貰った二人とも記紀に登場しないというね
16:日本@名無史さん
23/07/17 17:19:06.50 .net
>>14
それだよ、それ。
女王国まで一万二千余里なんだから、伊都国は女王国に含まれない。
だから卑弥呼ってのは元々女王国の地方女王で、共立されて広域邪馬台国の女王になって、伊都に移動して来た。
伊都じゃなくて最大国の奴国王出身とかだろうな。
17:日本@名無史さん
23/07/17 17:24:40.57 .net
だから卑弥呼は親魏の倭王で金印重視、
男王や台与は嫌魏の倭王だったんだろうな。
18:日本@名無史さん
23/07/17 17:37:52.75 .net
まあ伊都には王がいたと書いてあるから、
伊都や奴国や旧百余国に王がいて、
奴国王の卑弥呼が共立されて広域邪馬台国の女王になって、親魏の倭王で、
昔の奴国王と同様に金印を求めて、
次の男王や台与が伊都国王系の倭国王で、師升と同じく金印はいりません、だったんだろうな。
19:日本@名無史さん
23/07/17 18:38:54.69 .net
まあ、魏使が伊都国までしか来ていない時点で、
卑弥呼の都も卑弥呼の墓も伊都だった、ということだな。
20:日本@名無史さん
23/07/17 20:08:27.67 .net
九州説で考えても、卑弥呼は産まれは奴国かどっか<万二千余里 で、
魏使との交渉時~死去が伊都国だよん。
伊都にヘコヘコすり寄る畿内説の学者さんはどうすんのかねw
21:日本@名無史さん
23/07/17 23:14:55.80 .net
卑弥呼の女王国とは奴国のことだ、墓は平原で正解
22:日本@名無史さん
23/07/18 10:19:54.95 .net
>>15
要するに2人とも大和朝廷とは無関係ということやね
23:日本@名無史さん
23/07/18 14:37:42.90 .net
平原が卑弥呼の墓の可能性は否定しないけど
魏志倭人伝を素直に読むと伊都国と邪馬台国は別モノだよ
伊都国の一大率は魏でいうとこの刺史(地方官)だから
伊都国の南に邪馬台国が、そしてさらに南に狗奴国があったのだろう
24:日本@名無史さん
23/07/18 15:07:16.95 .net
筑前怡土にあった伊都国
魏志倭人伝によるとその南に邪馬台国があり、さらにその南に狗古智卑狗(菊池彦)のいる狗奴国(日後の隈・球磨)があった
この位置関係からすると邪馬台国は筑後山門やそれに隣接する肥後菊池の山門あたりにあっただろう
邪馬台国と狗奴国が争ったであろう国境近くの菊池川流域あたりからは鉄鏃が大量に出土する
25:日本@名無史さん
23/07/18 17:45:32.11 .net
>>12
じゃあ親魏倭王卑弥呼の「倭国」の範囲は?
26:日本@名無史さん
23/07/18 17:51:13.52 .net
伊都が邪馬台国なら萬二千余里と矛盾する
27:日本@名無史さん
23/07/18 17:55:42.35 .net
>>26
>>21
28:日本@名無史さん
23/07/18 19:22:13.09 .net
女王国が奴国以東なら、神夏磯姫が八咫鏡を所有していたのも納得いくね。
29:日本@名無史さん
23/07/18 20:02:23.80 .net
倭国、の中に伊都国や奴国や邪馬台国がある、と考えている時点で、
広域国家と地方自治体(共立国)を想定しているのだから、
広域邪馬台国七万戸論を批判する資格は無いな。
広域邪馬台国を批判するなら倭国もまた別になければならない。
卑弥呼は金印倭国王なのに肝心の倭国が何万戸なのか書かれていない。
ならば記紀に倭=やまとと読むと補足してくれているのだから、
倭国=やまと国=邪馬台国=広域七万戸と考えるのが矛盾ない。
倭国王師升の時点で倭面土(やまと)という訓読みの存在が中国側の史学者には伝わっていて、
それを張政が邪馬台と伝えた最新情報を陳寿が採用した。
30:日本@名無史さん
23/07/18 22:37:28.17 .net
いつも思うんだが、
何故みんな外国の史書に記されただけの国名群にナニカを当て嵌めなければ気が済まないんだろうか。
「或る時代の列島には〇〇地域と××地域と△△地域に卓越的な権力体が存在したと推定される」では何故いけないのか。
その権力体がどんな名前を名乗っていようが歴史の大流には何の影響も無いだろうに。
31:日本@名無史さん
23/07/18 22:55:33.57 .net
実は九州が問題ではなく、他地域の発展が思ったより遅いことが問題なのでは?
キビの上東遺跡とか突きつけられたらもう思考停止するしかないよね。
32:日本@名無史さん
23/07/19 01:42:52.80 .net
晋書には魏の時に至り、三十国有りて通好す戸は七万ありとあるから三十国全部で七万戸だな
33:日本@名無史さん
23/07/19 15:58:13.37 .net
卑弥呼の出身地が三雲井原とかだったかな?
平原の破鏡は、大型2枚以外、倭製鏡だそうだ。
2世紀を想定するようだが卑弥呼以前に鏡をそんなに作ったかな?
238年に皇帝に銅鏡が欲しいって言わなくないか?
卑弥呼が、皇帝から貰った100枚のうちから
方格規矩鏡などを複製して女給などにも配ったのだろう。
帳政の殉葬100人は、意味不明な
破鏡の説明で勘違いしたのではないかな?
日本に殉葬100人って、そんな墓は無いと思うぞ?
兵馬俑ってか? はにわだろw
34:日本@名無史さん
23/07/19 16:25:56.60 .net
>>31
>キビの上東遺跡とか
吉備忌部の痕跡がどうかしたか? @阿波
35:日本@名無史さん
23/07/19 17:24:43.90 .net
>>26
帯方郡から
伊都までは、247年張政の積算で10500里
240年梯儁の行軍、水行20日、水行10日、陸行1月で
陳寿の補足は、女王の処都まで12000里
陳寿と梯儁が共有した、陸行1月は、2000里である。
小中学生でもわかる、簡単な文章問題。
邪馬台国21国7万戸への上陸は九州北岸なら概ねどこでも良い。
呼子でも宗像でも、博多へは循海岸水行である。 歩かない。
卑弥呼の墓は、女王の処都までは行っていない、
伊都に駐留した、247年の帳政が見た、のであって、
郡から、10500里以内の伊都まで、に有ったというのが順当。
伊都は糸島北岸上陸から500里で、今宿~早良を想定した方が良い。
帳政が、港も近い伊都まで、500里も歩いたのは、
途中に卑弥呼の墓があった。 という可能性が高い。
36:日本@名無史さん
23/07/19 17:50:50.69 .net
>>35
>伊都までは、247年張政の積算で10500里
陳寿は足し算しろとは言っていない。
トンデモの勝手読み。 @阿波
37:日本@名無史さん
23/07/19 18:29:52.89 .net
卑弥呼の墓で良いんだけど?
なんで、卑弥呼の墓じゃない?
って、未確定な時系列論考で言い張れるの?
学術的証明方法が逆じゃね?
謎の破鏡は、卑弥呼への弔い以外に有るか?
38:日本@名無史さん
23/07/19 18:42:59.48 .net
>>33
三雲井原は甕棺だから平原とは何かが違うんだろうね。
昔は平原周濠には土壙墓が並んでたことを前提に話してたのにいつの間にかなかったことになってるねw
畿内説者が「平原のは土壙墓だから殉葬じゃない」とか非論理的な反論を書きこみまくってたのが懐かしいなあ。「奴婢を殉葬するなら土壙墓だろ」って突っ込まれてたけどw
39:日本@名無史さん
23/07/19 18:54:07.21 .net
日本の墓制に夫婦程度以上の、殉葬なんて無いだけだろ?
数十の破鏡が、殉葬同等か?
倭人伝論争は読めない奴が、わざと見てない。
40:日本@名無史さん
23/07/19 18:54:53.72 .net
あの頃は平原遺跡なんて何とも思われてなかったから、畿内説者も余裕で土壙墓やら話してたんだろうなw
それが里程と日程が別とかいろいろ新説が出て、これは卑弥呼の女王墓じゃろうかとなってから、土壙墓やらあれこれケチつけ始めた。
41:日本@名無史さん
23/07/19 18:58:02.19 .net
>>36
やっぱり邪馬台国は安房!
42:日本@名無史さん
23/07/19 19:01:22.05 .net
卑弥呼が王なら、葬儀が国事で、石棺か木棺だろうね。
平原 では逝けない理由が判らない。
43:日本@名無史さん
23/07/19 19:28:47.61 .net
標準パターン完全公開の酸素同位体比年輪年代法で終わった平原卑弥呼墓説がどうしたって?
庄内後期でも227年だから平原は2世紀末よ
URLリンク(i.imgur.com)
44:日本@名無史さん
23/07/19 19:37:14.39 .net
これも懐かしいなw
周濠から出た庄内式が何年だろうとそれより新しいとしか言えないだろ。ってさんざん突っ込まれてたよね
お前の家の庭から庄内式が出たらお前の家は弥生時代なのか?とか
で、畿内説者の濠からは馬具が出たんだからそれより新しいことになるけど、世界最古の馬具にしますか?とか逆襲される固定パターン
45:日本@名無史さん
23/07/19 19:40:57.79 .net
などと訳の分からないことを供述しており
46:日本@名無史さん
23/07/19 19:44:05.22 .net
ホケノ山の小枝とか明らかに埋葬当時に副葬されたものなら
ある程度その墓の年代の基準にできるけど
周濠に落ちてたものなんてそれこそ平原遺跡を作ったのが4世紀で
その時に土中に混じっていた土器が掘削時に混入したなんて可能性があるわけで。
墓の年代についてはそれより新しいよとしか言えない。
47:日本@名無史さん
23/07/19 19:51:00.01 .net
青龍三年鏡が出土した事で、
従来漢鏡として区分されていた方格規矩四神鏡は、
その時代編年を魏まで降って再編する必要があるが、
ソレを20年近くおざなりにして、
平原遺跡は方格規矩四神鏡が出たから
漢の時代の遺跡と言い張っている畿内説。
しかしながら、平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
同一工房において徐州の銅が枯渇し、
魏の領内の銅が混ぜられ作られた銅鏡である事が、
鉛同位体比の分析で判明しており、
平原遺跡の方格規矩四神鏡は魏で短期間に大量に作られた銅鏡は確実で、
ソレは即ち魏が卑弥呼に贈った100枚の銅鏡で間違いないだろう。
48:日本@名無史さん
23/07/19 19:59:29.00 .net
うわ銅鏡百枚も懐かしいなあ
董卓が洛陽を焼き払って長らく廃墟になっててそれを魏が再建したばかりの頃だから魏鏡はつたなくて正解なんだよね。鏡写しとか字が崩れてるとかは倭人が作ったからじゃなくて魏が再建したばかりの洛陽の初心者職人が作ったから
倭人が作ったなら習作があるはずだけど無いってのが一番刺さった反論かな。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とか特に。
49:日本@名無史さん
23/07/19 21:05:29.40 .net
>>47
卑弥呼が倭製鏡を作った理由は威信材の大量配布が目的だろ?
本物の漢鏡は made in Japanのように、量産されていない。
平原鏡は卑弥呼が作った、日本製だろ。
つまり、卑弥呼の墓、カモ知らんよ?
50:日本@名無史さん
23/07/19 21:11:50.36 .net
ナニ言ってんだ?本物の漢(魏)鏡を百枚貰ったから議論してんだろ
51:日本@名無史さん
23/07/19 21:53:59.47 .net
九州では、卑弥呼以前に漢鏡をつくっていたか?
だけど、平原見れば、作ってたよねw
なんで、卑弥呼は漢鏡100枚貰って来たんだ?
古墳時代以前は、日本じゃ鏡なんて知らないだろ。
卑弥呼が、古墳葬儀の営業部長か?
52:日本@名無史さん
23/07/19 22:42:51.25 .net
九州北岸は正常ではないと思われ
53:日本@名無史さん
23/07/19 22:46:27.08 .net
そりゃあ南の狗奴国と戦争中だからね
54:日本@名無史さん
23/07/20 03:01:29.75 .net
畿内説の大御所の寺澤薫も卑弥呼の出自を伊都国王家だとほのめかしているのな
55:日本@名無史さん
23/07/20 06:29:00.34 .net
>・超大型内行花文鏡5枚
>・銅鏡39枚
元研磨工で鏡鋳造経験もある原田大六の捏造。
陶氏銘の鏡など、陶氏が名を成すのは5世紀。
2世紀の日本の墓からそんなものが出るわけない。
56:日本@名無史さん
23/07/20 07:15:37.58 .net
国宝金印の次は国宝銅鏡かいな。
銅鏡だけじゃなくて一括出土だぞ。
ホント捏造とかコンタミとかが好きな説だねぇw
57:日本@名無史さん
23/07/20 07:20:38.35 .net
>>55
建物Dの柱穴が増えてるのは許せるの?
58:日本@名無史さん
23/07/20 07:24:20.80 .net
>>54
あいつ寝返るの?
どんなツラして擦り寄ってくるんだかw
59:日本@名無史さん
23/07/20 07:26:09.84 .net
>銅鏡だけじゃなくて一括出土だぞ。
鏡は棺外の不自然な位置=層からの出土。
>建物Dの柱穴が増えてるのは許せるの?
だから何なのか。
60:日本@名無史さん
23/07/20 09:28:01.44 .net
戸数から見て伊都国は奴国の属国か分国で卑弥呼は奴国王だよ。卑弥呼の弟が伊都国王になってるんだろう
61:日本@名無史さん
23/07/20 09:32:14.17 .net
魏志倭人伝に先んじて書かれた魏略では伊都国は一万余戸
こっちの数字の方が伊都国の存在感から見てふさわしい感じだな
62:日本@名無史さん
23/07/20 09:35:59.06 .net
>>60
卑弥呼が引きこもってる間の摂政が伊都国王で「代々卑弥呼に仕えた」可能性はあると思う
63:日本@名無史さん
23/07/20 10:45:06.36 .net
魏略は残ってないから、どう書かれていたか定かではないが、魏略の伊都と魏志倭人伝の伊都は別の国かもしれん
64:日本@名無史さん
23/07/20 11:01:06.46 .net
247年張政の行程報告書は、 東南 陸行 五百里 到 伊都國
の『到』によって、一応 区切りがついているわけだが、
『到』狗邪韓國 至 對海國 至 一大國 至 末盧國 は
国と書いては有るが、倭人船が寄港した港で点。
点から点の里程が記されている。
東南 陸行 五百里 到 伊都國 は常駐した一大卒の場所。
奴國、不彌國 はいずれも100里だが、伊都国の国境の話だろう。
2万戸の奴国は2千戸以内で10国以上の国邑がある面の国のはず。
平野内としても100里じゃ奴国の中のどこに届いたのか判らない。
一大卒は博多西麓の海も近い山城を想定するが、張政の行程外だが、
100里先の 奴國、不彌國 が見えていた可能性も高い。
65:日本@名無史さん
23/07/20 13:12:04.98 .net
大型内行花文鏡5枚は国産として除いて
残りの35枚は紀元前1世紀後半~1世紀までの漢鏡で
多くは1世紀の漢鏡
平原1号墳は2世紀以降の漢鏡が含まれない
方墳
スギの木棺
これらのことから年代を推測するしかない
66:日本@名無史さん
23/07/20 14:51:09.01 .net
卑弥呼は190年から247年の邪馬台国女王だけど
この邪馬台国で、漢の皇帝から鏡を貰う女王が卑弥呼以前に居た。
と 言うのは、中国史の倭人伝的に少々都合が悪いんですけど?
どうにかして頂けないでしょうか? by 陳寿www
個人的には、方格規矩鏡 32面とかも
卑弥呼が須玖の工房とかで作った日本製で
普段使いに女給などに配ったもの。
弔いの為、破鏡、ってのを、採用したいんだけど・・・
この様子の説明を聞いた張政は、殉葬と勘違いした。
67:日本@名無史さん
23/07/20 18:39:13.70 .net
平原の年代が、漢鏡によって想定されているのなら
半島製または、ありがちな日本製だった場合は、
複製コピーであって年式は当て嵌まらないよね。
鏡の専門学者ってのもいるわけだから判りそうだけどな?
大六さんじゃダメだったんだ? 鉛とかだろ?
まあ、ホントの皇帝から貰った卑弥呼の鏡も無いと寂しいけど?
破鏡にはならないんじゃないかな?
日田の曹家鉄鏡って、卑弥呼以外に貰える奴居なくないかな?
246年、韓王朝滅亡の後で、臺与が日田に引き籠ってないか?
卑弥呼の墓は、平原か? その辺の王墓で女性。
糸島王墓に、卑弥呼のコピー元って、ホントに居るのか?
誤差100年だろ? 神功皇后墓かよ?
それって、中国史、馬鹿にしてないか? by陳寿www
68:日本@名無史さん
23/07/20 19:31:03.88 .net
ああそうか? 解決策知ってるよ?
平原一号に、親魏倭王の金印埋めて来いよwww
なんで、性別や時系列が判る、
耳飾りとか王の勾玉が有るのに本体が無いんだ?
金石文書は出ないにしても
記紀の古墳焚書の時、やらかしてるだろ?
金印、墓に返してください。 おながいします。
賞金、日本円で、10両あげますwww
69:日本@名無史さん
23/07/20 20:57:46.22 .net
卑弥呼の墓は九州でも
奈良のヤマトは畿内なんで、どーでも良いんだけどw
陳寿の倭人伝での邪馬台国ってのは?
奈良と何の関係も成立しないよ?
何が、論争なの?
70:日本@名無史さん
23/07/20 21:55:16.60 .net
倭(ヤマト)は東征したんだよ、神武の名前を見ればわかる
71:日本@名無史さん
23/07/20 23:55:16.63 .net
卑弥呼が皇室の始祖なんだから関係大あり
72:日本@名無史さん
23/07/21 02:37:52.95 .net
倭人伝でも記紀でも大倭(おおやまと)
聖徳太子が倭を和にした?
73:日本@名無史さん
23/07/21 02:51:09.10 .net
※俺様のメモ※
黒塚古墳のU字型鉄製品
黄幢の絵は実は公孫氏の赤幢の絵
公孫氏領に前方後円墳?
笠松文
公孫氏と呉が同盟
北部九州邪馬台国と魏が同盟
公孫氏が滅亡→北部九州にはいられない→公孫氏と呉鏡師陳さんは畿内へ亡命
74:日本@名無史さん
23/07/21 02:54:49.47 .net
公孫氏と呉が同盟
北部九州邪馬台国と魏が同盟
※北部九州邪馬台国と南狗奴国が敵対
公孫氏が滅亡→北部九州にはいられない→公孫氏と呉鏡師陳さんは畿内へ亡命
公孫氏~呉~狗奴国~畿内
VS
魏~北部九州邪馬台国
75:日本@名無史さん
23/07/21 03:23:25.41 .net
黄幢の話が出るたびに思うし誰かが指摘するが、はよ中国の考古学会に問い合わせろよ。即答してくれるだろwどこぞの説が瞬殺されるから聞かんのかと思われとるぞw
76:日本@名無史さん
23/07/21 03:40:29.38 .net
※俺様のメモ※
>U字型鉄製品が公孫氏の赤幢に似ているのはわかった。
>じゃあ、魏の黄幢がどのようなものであったのかの根拠、を示してくれと言っている。
>画でもなんでも示せば一発なのに、畿内説が逃げ回っている。
77:日本@名無史さん
23/07/21 04:01:54.60 .net
九州説視点だと、
・難升米が貰った黄幢が伝世し、北部九州勢の出征時に移動した。
・難升米が貰った黄幢が鹵獲され、移動した。
・公孫氏滅亡時に赤幢が移動した。
といった線を考えることになる。
黒塚古墳の頭部には画文帯神獣鏡が置かれているので、
九州説基準だと内行花文鏡系の邪馬台国ではなく、
狗奴国側の可能性が高い。
難升米の黄幢だとしても、正始八年を最後に姿を消す難升米が、対狗奴国戦で討ち取られて鹵獲されたものである可能性が高くなる。
あるいは素直に上記説者の如く亡命公孫氏の赤幢かもしれない。
78:日本@名無史さん
23/07/21 04:09:51.83 .net
うーーーむこれは。
亡命公孫氏の赤幢が鏡職人と一緒に移動したというのも考古学物証と同期するが、
難升米を討ち取った狗奴国武将が、自らの輝かしい戦績を誇って
難升米の黄幢を副葬した、という可能性も非常に高いぞ。
だとすると、
・邪馬台国と狗奴国の戦争の顛末が記されていない
・台与は、張政らをさっさと帰国させた
ということからして、
卑弥呼死去
邪馬台国対狗奴国戦で、難升米討ち死に
次の男王時、邪馬台国内で内乱=卑弥呼後の勢力争い
男王+狗奴国が同盟 VS 旧卑弥呼勢力 で前者が勝利
魏の影響力は消失
の順番と考えると矛盾が無くなるな。
79:日本@名無史さん
23/07/21 06:35:49.45 .net
画文帯神獣鏡は南部九州すなわち狗奴国領域からの出土が多い、狗奴国系の鏡であり、
北部九州邪馬台国は平原八咫鏡を頂点とする内行花文鏡。
狗奴国領域は伊都を中心とする邪馬台国と長期敵対していたから金属器枯渇。
男王の時に邪馬台国内乱に乗じて同盟成功。
狗奴国武将と考えれば、全てが繋がる。
「男王&台与に武力で協力した超大物本人」ということになる。
黄幢の主が難升米であれば、
黒塚古墳の水銀朱は丹生鉱山産。
魏志倭人伝に記録された武器供与は五尺刀のみ。
無槨有棺
といった点と大きく齟齬が生じてくる。
難升米の子孫であるとする場合、
学術的に考えて、
三角縁神獣鏡の「古式のもの」が多めに副葬されていなければおかしい。
80:日本@名無史さん
23/07/21 16:09:23.82 .net
卑弥呼は良いとして
八咫鏡が2世紀の九州で作られてたってのがびっくりだよ。
81:日本@名無史さん
23/07/21 17:03:22.19 .net
中国皇帝から漢鏡貰うより
アマテラスから八咫鏡貰う方が凄いかも?
初代天皇は卑弥呼? 九州だけどw
自分で作った風だけど?
82:日本@名無史さん
23/07/21 18:08:38.79 .net
ああそっか?
八咫鏡作ったのが卑弥呼なら
卑弥呼はアマテラス。 そゆことネ。
60年も女給1000人の王宮に引き籠って、
狗奴国と戦争?
それ、どっかが、絶対、嘘だぞ。
弟が居るのに、両親は前王じゃないのか?
83:日本@名無史さん
23/07/21 18:54:05.93 .net
女王と聞けばこれを想像するだろう
URLリンク(i.imgur.com)
が
本当はこれ
URLリンク(i.imgur.com)
外国の女王と、卜骨占いをする卑弥呼
84:日本@名無史さん
23/07/21 19:59:30.98 .net
卑弥呼は鬼道
倭人は卜占
卑弥呼が倭種である可能性もワンチャンあると思っている
85:日本@名無史さん
23/07/21 22:50:10.43 .net
意外とあっさり決着がついたな
86:日本@名無史さん
23/07/21 23:07:53.39 .net
平原遺跡という根拠
魏志倭人伝の里程と日程という根拠
双璧>どちらも非常に優れていて甲乙つけがたく卓越しているもの
87:日本@名無史さん
23/07/21 23:33:37.54 .net
北部九州の場合吉野ヶ里遺跡を筆頭にどの遺跡も鉄器利器がいっぱい出るけど
平塚川添遺跡と雀居遺跡は鉄器が無いのが不思議。
贅沢な悩みだけど。
88:日本@名無史さん
23/07/22 08:23:54.19 .net
>>87
そこは武器を持ち込めない聖域じゃね?
代わりに周りの集落で防御した
89:日本@名無史さん
23/07/22 08:29:02.15 .net
なるほどね。たしかにどちらも環濠集落だったね。
お偉いさんの住む聖域なら武器も農具もいらないか。
周囲も面で集落だらけだし都会の中だったもんね。
けど生活するのに刀子や鏡くらいはあってもいいと思うけど、
身の回りに少ししか鉄器が無いのなら洪水の時とかは持ち去ったのかもね。
90:日本@名無史さん
23/07/22 08:31:53.09 .net
初代天皇のような人は漢から金印もらって倭人の総王と
認定された奴国王で卑弥呼はその子孫だろう
91:日本@名無史さん
23/07/22 08:37:30.33 .net
三雲南小路遺跡の王と妃も、平原と同格かそれ以上だね。
金銅四葉座金具やガラス璧があるから金印の無い平原より格としては上かも。
92:日本@名無史さん
23/07/22 08:42:34.57 .net
あと下関市の稗田地蔵堂遺跡もあまり知られてないけど
蓋弓帽という漢皇族レベルのとんでもない威信材が出てる。
銅鏡は内行花文鏡清白鏡だから三雲南小路の近しい親族だろう。
記紀でもこの辺りは天皇が拠点としていることが多いので、なんらかの意味があるのだろうね。
93:日本@名無史さん
23/07/22 08:50:48.05 .net
>>89
身の回りのものは主人が亡くなったときに副葬したんじゃないかな
94:日本@名無史さん
23/07/22 08:56:57.48 .net
>>87
どちらも外交拠点のひとつだろうね
ただ、平塚川添遺跡は祭事の場でも違和感ないな
何重環濠だよw
95:日本@名無史さん
23/07/22 08:56:59.43 .net
>>93
平塚川添のほうはそれでいいけど、雀居は洪水で流されてるから無いということは使ってなかったってことになるんだよね。
平塚川添のが100年以上後だから時代の差かもしれないけど
96:日本@名無史さん
23/07/22 09:02:13.15 .net
雀居遺跡は文机(案)が出てる。当時は木簡に書きこんで、間違った時は刀子で表面を削って書き直していた。<滲むと日→月になりうる
雀居の案表面は刀子が当たったキズがいっぱいついている
から、刀子はあったはず。
刀子なら小さいしいつも身に着けていたから洪水避難時に持ち去ったとして、他の鉄器はさほどなかったということだね。
吉野ヶ里が凄すぎるからさ。蝶番とか。
97:日本@名無史さん
23/07/22 09:03:39.37 .net
>>92
黒塚古墳のU字鉄器が霞んで見えるわ
畿内説の人、あれひとつで「畿内にはすごいモノが出土した、九州からはゼロwww」ってやってんのが何だかな
98:日本@名無史さん
23/07/22 09:17:20.01 .net
平原の年代200頃の根拠って青龍三年鏡との対比しか知らんけど、他にある?
詳しい人教えて
99:日本@名無史さん
23/07/22 10:24:42.26 .net
>平原綾香が卑弥呼って聞いたけど?
ウソです
100:日本@名無史さん
23/07/22 11:48:52.90 .net
>>98
卑弥呼の墓だと都合悪いからだろw
なんで女王国の中の一小国に過ぎないのに伊都国王の墓なんだよ?
卑弥呼の女王国の首都機能のある土地だぞ?
同じ時代に卑弥呼が二人いたら、正式国交の為に金印持って来た魏使が困るだろ?
明らかに中国王が有力な朝貢国の王に送ったと考えられる鏡が混ざっている。
被葬者は女王である。 卑弥呼じゃなきゃ、倭人伝もう一つ書くだろw
247年の張政は、伊都国に常駐しただけで帰ったが、卑弥呼の墓を見て報告している。
糸島北岸から、南東に500里歩いたが、その範疇に有る王墓でなければ記録できない。
平原なら、見つかってるけど、他に在り得るか?
多分、張政は、破鏡の話を聞いて、殉葬と勘違いした。
101:日本@名無史さん
23/07/22 13:36:38.31 .net
>>98
青龍三年鏡との対比が平原の年代200頃の根拠として使われたなんて話は聞いたことがない
誰の説だ?
102:日本@名無史さん
23/07/22 13:45:35.12 .net
>>101
青龍三年鏡より平原の鏡の方が精巧だから工人の世代が古い、という柳田の理屈
103:日本@名無史さん
23/07/22 13:49:18.50 .net
平原1号の40枚の鏡は2世紀半ばまでの型
2世紀後半以降の型の銅鏡はでてない
104:日本@名無史さん
23/07/22 13:57:33.88 .net
2世紀半ばの型の銅鏡が含まれるが
2世紀後半以降の型はないと言った方がいいか
105:日本@名無史さん
23/07/22 14:32:45.06 .net
>平原の鏡の方が精巧?
青龍三年銘方格規矩四神鏡 だと魏鏡の235年になって
もう卑弥呼の墓に決まってんだけどねw
平原の鏡は方格規矩鏡32面で四神鏡も結構出てるんで、
誰かが、近年で、鉛同位体比べたんじゃないか?
でも、平原のでかいのは日本にしかないんで日本製確定だけど
方格規矩鏡も、銘や字が変なのが多くて日本製を疑われてるんで、
編年はどっちみちOK アクセサリーも漢以降の流行説とか?
数枚以外が、卑弥呼の鏡じゃなくて残念だけど、
殉葬代わりに腹心の女給たちが貰った、
自分の映った普段使いの鏡割ったんだろね。
むしろ、鉛の産地迄調べられない発掘当時は仕方ないけど、
誰が漢鏡って決めつけた? ここで、八咫鏡が日本製だぞw
106:日本@名無史さん
23/07/22 18:03:03.25 .net
>>102
青龍三年鏡は後世のコピー品だから青龍三年に制作されたわけじゃない
それを基準とするのがそもそもの間違い
URLリンク(arai-hist.jp)
しかし、そうすると別の問題が生ずる。二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれもこれらの
正始元年森尾鏡あるいは景初四年辰馬鏡と極めて近い類似係数を持っているのである。
すなわち、青龍三年(二三五年)の紀年鏡は正始元年および景初四年(いずれも二四〇年)の紀年鏡と
一緒に作られたことになってしまう。
このような結果も複製が行われていたことを強く示唆する。しかも、複製を行った場所は、中国ではない可能性が高い。
中国内での複製であるならば、年次の異なる紀年鏡を同時に製作するはずがないからである。
ただし西川寿勝氏(西川2000)が言うように、複製が楽浪地域で行われていた可能性は排除できない。
以上の議論は、鉛同位体比の関係からの推論であるが、これとは別に、中井一夫氏が青龍三年の安満宮山鏡と
太田南鏡のTLV字部分について詳細に比較し、太田南鏡のT字部には、元鏡のキサゲ加工のあとが転写されており、
踏み返し鏡であるとしている(中井 2005)。中井市の論文よりT字部分の比較写真を借用して図9に示す。
元鏡(図9の左)が安満宮山鏡というわけではないが、切削仕上げ特有のキサゲ加工部が、太田南鏡(図9の右)では
鋳肌面になっている。その現象そのものが踏み返し鏡の決定的な証拠なのである。
また、樋口隆康氏は景初四年鏡の観察を行い、年月日の部分が、辰馬鏡では一本線であるのに、広峯鏡では二本の線に
ぶれていることから、踏み返し鏡であるとしている(樋口 1992)。このように紀年鏡を複製鏡と認める見解は決して少なくないのである。
107:日本@名無史さん
23/07/22 18:06:54.00 .net
>>91
三雲南小路とか須玖岡本は、1~2世紀とか
明らかに190年大乱後の卑弥呼と競合しない、以前の王墓なんだけど、
日本製の銅鏡は出てないとか?
57年、107年の朝貢や、公孫氏経由とか?
考古学の漢鏡編年とかだと? 平原と同じで、全部漢鏡?
調べ方の問題は判らないんだけど・・・
青銅の工房は須玖が中心だったみたいだけど
made in japan の 銅鏡を量産しだしたのが
大乱後の卑弥呼からなんじゃないのかな?
本州の方が技術は上でも、経験やデザインで三角縁は?
250年に有ったかね? 公孫氏に呉の鏡師いたかな?
でもまだ、銅鏡文化じゃない、日本海ルートにはいかない。
公孫氏以降新型が来なくなって、卑弥呼は最新モードが見たかったw
でも、魏は銅が枯渇して、鉄鏡が最新だった。
こりゃ無理だべさ。 とか・・・
108:日本@名無史さん
23/07/22 18:58:18.32 .net
>>106
勉強になります。 感謝。
銅鏡だって、専門家、学者は絶対居ると思ってた。
アタシは、陳寿倭人伝を読んで妄想を語るだけで、
結論は、お任せです。
レスは、みんな、妄想、根拠証拠は? ばっか、ですがwww
こっちが、みんなに教えてもらってんですけどね?
「安満宮山古墳」初見ですが、面白いですね。
王墓と言うより、収集家みたいな?
246年以降で、東遷した、九州人かナ? 臺与?
邪馬台国21国に居た王の候補。
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
109:日本@名無史さん
23/07/22 19:38:28.13 .net
倭人伝の行程を
デタラメに読まなきゃ女王に会えない畿内説が、
卑弥呼の墓が糸島に在った、
って、言えるか?
歴史の科学で、土器はこうこうこうだからで
考古学の編年に根拠がある?
そんなもん適当って、学問としての存在価値無くネ?
鉛の同位体で、銅鏡原料の
出身地が判る時代なんだよ?
平原は卑弥呼の墓だろ?
唯一無二、卑弥呼は二人はいない。
ば~か。 とは言わない。
考古学の先生は、尊敬して、ま~すwww
110:日本@名無史さん
23/07/22 19:52:45.90 .net
平原のが八咫鏡なら同所出土の素環頭太刀は天叢雲剣ということになる熱田神宮のは形代だな
111:日本@名無史さん
23/07/22 20:31:05.44 .net
>>110
だから、八た鏡が卑弥呼によって
量産された鏡だと、不都合だろ?
卑弥呼と皇室を競合させてるのは
畿内説の間抜け。
卑弥呼は、190から247の筑紫王。
112:日本@名無史さん
23/07/22 21:09:35.51 .net
>>106
>二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれもこれらの
>正始元年森尾鏡あるいは景初四年辰馬鏡と極めて近い類似係数を持っているのある。
>すなわち、青龍三年(二三五年)の紀年鏡は正始元年および景初四年(いずれ二四〇年)の紀年鏡と一緒に作られたことになってしまう。
結果ありきの誘導だね。
二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれも魏からもたらされた銅鏡百枚の一部だった。
卑弥呼死去後に男王&狗奴国が実権を握ったので、
銅鏡百枚は溶かされて、狗奴国系の正始元年および景初四年の紀年鏡に造り直された。
とも考えられる。
113:日本@名無史さん
23/07/22 21:16:36.97 .net
>>107
>でも、魏は銅が枯渇して、鉄鏡が最新だった。
核心だね。
日田ダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だ。
114:日本@名無史さん
23/07/22 22:40:26.71 .net
『今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封 付帯方太守 假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順』
今>魏皇帝の元にて、「金印紫綬」を授け、装封して"帯方太守に付託"する。
『汝来使難升米、牛利、涉遠道路勤勞
今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見労賜遣還』
今>魏皇帝の元にて、「銀印青綬」を難升米らに授ける。
『今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直』
今>魏皇帝の元にて、〇〇をもって、汝の朝貢に応える。
『又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口
銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆裝封 付難升米牛利還』
又>楽浪郡にて、特別に、□□、銅鏡百枚、□□、を装封して"難升米らに付託"する。
?魏皇帝が洛陽で授与する卑弥呼金印は、魏直属の部下である帯方太守の責任で送らせる。
?難升米らに銀印授与して、魏皇帝のVIPに認定する。
?-1魏皇帝が洛陽で授与する〇〇と、
?-2楽浪郡の資産から分与する□□(銅鏡百枚を含む)は、
魏皇帝のVIPになった、難升米らに送らせる。
115:日本@名無史さん
23/07/22 22:41:56.22 .net
鉛同位体比からは、
平原の方格規矩鏡は楽浪郡製作。>陶氏製作など
あるいは、楽浪郡からもたらされた鏡を溶かして作成した。
どちらにせよ本場のコピー品で、大陸製に比べると拙い。
さらに鉛同位体比から考えると、
超大型内行花文鏡は、魏使以前に作られていた。
旧百余国のうち伊都国系の有力王がそれぞれ持っていたものを、
卑弥呼共立時に卑弥呼の元へ集めた可能性が高くなった。
ということは、平原遺跡に副葬されなかった超大型内行花文鏡は、逆に卑弥呼共立に参加しなかった勢力である可能性が高くなり、
神夏磯姫の再評価が必要になるし、
かの沖ノ島辺津の宮のご神体であったという伝承からは、
九州説が頑なに豊国を邪馬台国領域から除外する根拠が一つ増える。
116:日本@名無史さん
23/07/22 22:46:47.54 .net
>>106
の紀年鏡群は、
平原鏡と鉛同位体比が異なることから、九州説視点からは、卑弥呼後に在倭の古い大陸系鉛使用青銅器を溶かして製作された可能性が高くなる。
青龍三年銘のモデルがあったはずであり、まだ分析されていない安満宮山古墳の方格規矩鏡が候補の一つとなる。
なぜ分析されていないのか?
青龍三年には楽浪郡はまだ公孫氏の支配下にあったので、楽浪郡に作り置きされていたものではない。
オリジナルについては、
平原鏡と成分が似ている楽浪鉛使用の青龍三年銘鏡が見つかれば、
難升米らが洛陽往復している間に楽浪鏡師が作らされたと考え、
大陸鉛使用の青龍三年銘鏡が見つかれば、
難升米らが洛陽滞在中に洛陽青龍三年鏡を私的に入手したものと考えることもできる。
尚、何も見つからなくてもオリジナルについてはどちらの想定もできる。
117:日本@名無史さん
23/07/22 23:14:23.66 .net
>>115
>旧百余国のうち伊都国系の有力王がそれぞれ持っていたものを、
>卑弥呼共立時に卑弥呼の元へ集めた可能性が高くなった。
銅鏡百枚が楽浪郡保管のものだったというのはありだが、
平原の超大型鏡は漢鉛寄りだが楽浪鉛も入っている。
また旧百余国の王が持っていたなら三雲井原王墓に副葬されていたのではないか?
やはり超大型鏡は卑弥呼政権の作で、
旧百余国から集めた漢鏡と、魏からの楽浪鏡を、それぞれ溶かして製作されたのではないか?
個人的には神夏磯姫は卑弥呼の末裔だと思う。
118:日本@名無史さん
23/07/22 23:16:04.09 .net
楽浪郡でも平原には及ばないが大型の内行花文鏡は作られていたから、
銅鏡百枚と共に難升米らが楽浪鏡師を連れてきたのだろう。
彼らが超大型を作ったのか、単に技術を伝えただけかはわからんが。
119:日本@名無史さん
23/07/22 23:52:16.56 .net
『其行来渡海詣中國 恒使一人不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢污 不食肉 不近婦人如喪人
名之爲持衰』
倭人が海を渡って中国に詣でる時、に持衰を置く。
倭人が中国に詣でたのは107年師升と、難升米ら卑弥呼遣使。
後漢書にも持衰は記載されているので、107年師升の時にも置かれていた。
難升米らも持衰を置いていたからこそ、魏志倭人伝にも記載されたわけであり、
そうなると難升米らは倭舟で中国に詣でた。
難升米は「大率」である可能性が高くなり、
だからこそ「率善」中郎将・校尉を授与されたわけだ。
>>114
>?魏皇帝が洛陽で授与する卑弥呼金印は、魏直属の部下である帯方太守の責任で送らせる。
>?難升米らに銀印授与して、魏皇帝のVIPに認定する。
>?-1魏皇帝が洛陽で授与する〇〇と、
>?-2楽浪郡の資産から分与する□□(銅鏡百枚を含む)は、
魏皇帝のVIPになった、難升米らに送らせる。
帯方太守の部下は付き添いで、倭舟に同乗したので、
運ぶのは小さく軽い金印と詔書のみ。
大率のおそらく倭船団を率いた難升米らが、大量の贈物を輸送した。
そうなると、島国の日本列島で陸行一月などありえない話であり、
水行二十日→水行十日→陸行一日で、平原女王墓。
120:日本@名無史さん
23/07/23 00:23:53.92 .net
>>114
>?-1魏皇帝が洛陽で授与する〇〇と、
『今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直』
洛陽→倭は、
軽いものばかりだね。遠いから。
?-2楽浪郡の資産から分与する□□(銅鏡百枚を含む)は、
『又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口
銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆裝封 付難升米牛利還』
楽浪→倭は、
重いものが多い。近いから。
魏は銅が枯渇していたから魏本国から青銅器を贈る余裕はなく
陥落させた楽浪郡の倉庫から銅鏡百枚を本当は魏が欲しいところだが
特別に贈呈したということだね。
121:日本@名無史さん
23/07/23 01:44:15.29 .net
平原が卑弥呼の墓ならショボすぎて倭国王詐称してたまでないか?
知らんけど
122:日本@名無史さん
23/07/23 04:33:57.61 .net
関羽の墓も同規模だよ
123:日本@名無史さん
23/07/23 06:12:29.58 .net
曹操墓は地下だけど墓域としては同規模だね
124:日本@名無史さん
23/07/23 06:59:04.91 .net
>>121
卑弥呼は古墳時代より前の人よ?
墓が小さい(一般人に比べれば滅茶苦茶デカイが)のは当たり前
ピラミッドだって最初は小さく作って時代が進む毎に巨大化していった。
最大が仁徳天皇の墓ならそれより古くなればなるほど小さくなっていく筈
125:日本@名無史さん
23/07/23 08:42:17.05 .net
>>116
>大陸鉛使用の青龍三年銘鏡が見つかれば、
>難升米らが洛陽滞在中に洛陽青龍三年鏡を私的に入手したものと考えることもできる。
司馬懿の私物かもね。
青龍三年に大尉に昇進して、魏軍の総大将になってるから、昇進祝いに貰ったものかも。
公孫氏遠征では長雨にたたられて兵糧不足で時間切れ敗走の危険が高かったのが、
途中から期限を気にしなくなって、襄平城を包囲して時間のかかる籠城戦を容認している。
外交というのは諸外国とのバランスの問題があるので、
倭に金印を与えたということは、魏にとって倭が諸外国に比べて突出した貢献をしてくれたから与えたわけで、
倭の難升米らが司馬懿の大軍に兵糧を供給したと考えれば辻褄が合う。
難升米らは司馬懿に手厚く饗応され、
司馬懿から難升米へは私物の青龍三年銘方格規矩鏡が贈られ、
難升米から司馬懿には難升米の故郷・伊邪國(伊耶國)などの、広志記載の倭地別系統情報が伝えられた。
卑弥呼死去、難升米討ち死に、邪馬台国内乱にて旧卑弥呼勢が敗北、と重なって、
失脚して北部九州に居られなくなったから、東に移動したのだろう。
司馬懿私用→難升米の銅鏡だとすれば、世界史的に見ても貴重だね。
126:日本@名無史さん
23/07/23 08:45:02.76 .net
ウソ話を続けてもつまらんと思うが。
127:日本@名無史さん
23/07/23 08:51:25.38 .net
対馬「無良田食海物自活乗船南北巿糴」
壱岐「差有田地 耕田猶不足食 亦南北巿糴」
九州本土「收租賦 有邸閣(兵糧倉庫)」
武官である張政にとっては、倭の兵糧管理体制の視察も重要任務だったのだね。
今後高句麗その他との戦いも予想され、
司馬懿同様いつまた兵糧補給をお願いするかもしれないから。
128:日本@名無史さん
23/07/23 12:03:38.31 .net
まあ、問題は築後山門とかの城に居たはずなのに
なんで糸島に引っ越してきたか? だな。 用意してあった?
祭祀の場所としてはこの平原で良いんだけど?
こっちが、卑弥呼の本家で、筑後は出城? 影武者か?
女給千人で出城ってのもな?
129:日本@名無史さん
23/07/23 17:36:10.83 .net
>>121
其八年 太守王頎到官
倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
この、郡までの往復の間に作った墓だし、古墳じゃないよ。
130:日本@名無史さん
23/07/23 18:00:19.82 .net
わっかい娘が、コッフン♪
131:日本@名無史さん
23/07/23 18:31:31.82 .net
>>130
まさかのスリー・キャッツ世代?
132:日本@名無史さん
23/07/23 18:33:32.23 .net
半島往復って、多分寒くない、5月から10月かな?
6789月とか? 対馬~釜山はベースが有るとして?
まあ、西風に乗る頃の方が日本海は帰りが早い。
所要時間は、中国の帯方郡がソウル辺りだと
寄港地が決まっていて、兵站の無い倭人船なら?
240年梯儁の、水行20日、水行10より短いはず。
60日で、往復できるかナ?
60日以内で卑弥呼の墓作ったかもな?
133:日本@名無史さん
23/07/23 18:42:24.33 .net
古墳かどうかじゃなくて、30カ国統べる女王の墓にしてはしょっぱいんしゃないの?って言いたかったんだけどまぁ良いか
北九州の同時期の他の豪族の墓に比べても大きいもんなの?
魏志倭人伝の書き方だと、大きいってのを強調したかったのかなって思っただけだよ
134:日本@名無史さん
23/07/23 18:56:49.01 .net
>>133
墓のデかさ競争が始まるのは卑弥呼が死んだ数十年後
135:日本@名無史さん
23/07/23 18:57:08.64 .net
塚だからね?
古墳って言うのは建造物。
平原の一本御柱は後付けなのか、
卑弥呼の宗教上の遺言なのか?
他にないものは?
てか、八咫鏡が4~5面も出てんだろ?
平原のアマテラスが5人も神武を任命できるだろ?
絶対アマテラスのせいだよ、大六さん、凄いねwww
136:日本@名無史さん
23/07/23 19:14:38.28 .net
30ヵ国を統べると言っても福岡周辺の沿岸部だけでも4ヵ国あるスケール感だし
後漢の時代からずっと倭国の大倭王が朝貢してたのと同じでしょう
137:日本@名無史さん
23/07/23 19:33:29.53 .net
たしかになんで複数枚作ったんだろうね倭国王の鏡なら1枚が望ましいのに
138:日本@名無史さん
23/07/23 19:44:14.66 .net
>>136
240年の梯儁は、確かに卑弥呼に金印を届けた。
247年の張政は、数か月で盛られた卑弥呼の墓を伊都までの行程で見た。
平原が卑弥呼の墓じゃなきゃ? 孝霊間で卑弥呼のコピーが居るだろ?
存在し得ない、と思うぞ。
139:日本@名無史さん
23/07/23 19:52:56.18 .net
まあ、三種の神器で皇統って発想が、今様じゃないけどね?
一夫一婦じゃ日本の宮様? 王朝が滅びるだろ?
どうせ、豪族利権無いから良いんだけど?
140:日本@名無史さん
23/07/23 20:44:04.35 .net
>>133
狗奴国との争いや後継者をめぐる争いの中で造ったんだからしょぼいと思うわ
141:日本@名無史さん
23/07/23 20:47:18.75 .net
本当に邪馬台国関連はキチガイの連投が名物だな
142:日本@名無史さん
23/07/23 20:55:54.69 .net
>>139三種の神器は
天照大神
↓
ニニギ
↓
神武 と皇室に伝世したのだろう
143:日本@名無史さん
23/07/23 20:58:38.37 .net
径百歩はどうなった
史書に残す記録だから短径とかありえないからな?
144:日本@名無史さん
23/07/23 21:03:39.54 .net
>>143
張政は箸墓の完成前に帰っているから箸墓では無い
145:日本@名無史さん
23/07/23 21:05:17.23 .net
径三十七歩みたいな半端な数を記録する習慣はなかったんじゃないかな
146:日本@名無史さん
23/07/23 21:24:26.84 .net
>>143
誇張でしょ
「大きな墳墓」くらいの意味しかない
147:日本@名無史さん
23/07/23 21:48:45.76 .net
勇気百倍 百人力 五十歩百歩 百貨店 百科事典
148:ネトウヨボクメツタイ!
23/07/23 22:29:35.18 .net
酸素同位体比年代測定法により邪馬台国の会なるネトウヨ団体の提示していた疑義は否定された。
つまり故に箸墓が3世紀の古墳である事は確定し、纏向遺跡は卑弥呼の時代より前からあったと言い切れる。
早期ヤマト王権=邪馬台国だったのだ。ネトウヨは早く白旗を上げてジャップは中華に朝貢していたという歴史を認めよ。
149:日本@名無史さん
23/07/23 22:30:47.07 .net
倭国大乱より前からあったことにしないと
150:日本@名無史さん
23/07/23 22:31:08.17 .net
始度一海千餘里至對海国
↓
又南渡一海千餘里至一大國
↓
又渡一海千餘里至末盧國
一大國と末盧國の距離は、對海国と一大國の距離より明らかに短いが、一海千餘里と書かれてる。
一海千餘里は、距離を表していないと考えられる。
なので、徑百餘歩も長さを表していないのではと考えられる。
151:日本@名無史さん
23/07/23 22:38:35.44 .net
>>148
あらあら真っ赤なトナカイさん
152:日本@名無史さん
23/07/23 23:15:03.65 .net
>>144
箸墓にこだわっては居ないが
>>146
それ言い始めたら卑弥呼すら嘘かも知んないな
153:日本@名無史さん
23/07/24 04:57:52.61 .net
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
154:日本@名無史さん
23/07/24 08:39:45.07 .net
>>152
チャイナの歴史書なんて話半分でいい
日本に何かクニっぽいのがあって女王がいた、男王のクニとケンカしてた、くらいは合ってるかもしれんけど
あとは適当に脚色してるんだよ
特に距離や戸数、枚数、大きさは適当だって
書いてる内容が正しいなら、邪馬台国は沖縄あたりにある連合国家ってことになるでしょ
155:日本@名無史さん
23/07/24 08:50:27.02 .net
>>154
会稽東治は陳寿の想像で、実際に魏使が会稽東治から向かったわけではないから距離は1万2千里が正解。末盧国から150キロの場所に邪馬台国があると思う
156:日本@名無史さん
23/07/24 11:05:46.31 .net
平原の墳丘の大きさはミカン畑じゃ判らなくないかな?
周濠が当時からあれば、だいたいだけど?
九州の墳丘墓の例では周濠有るのか?
157:日本@名無史さん
23/07/24 18:07:15.53 .net
>>155
>末盧国から150キロの場所
根拠ナシ
158:日本@名無史さん
23/07/24 18:22:48.49 .net
しっかしダメな説って全体の整合性が取れないから部分を切り取るよなwぶつ切りの蛇がのたうってるみたいw
159:日本@名無史さん
23/07/24 18:31:43.03 .net
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ?ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國
民 俗 略 與 珠?w 相類 其 州 廣大 戶口多 多異物 自 武帝 以來 皆 獻見
有 譯長 属黄門 與 應募者 俱 入海 巿 明珠 璧 流離 奇石 異物 齎 黄金 雜??
而 往所 至 國 皆 稟食 為 耦 蠻夷 賈船 伝送致之 亦 利 交易
剽 殺人 又 苦逢風波 溺死 不者 数年来還 大珠 至 圍二寸以下
平帝 元始中 王莽 輔政 欲 燿威?コ 厚 遺 黄支王 令 遣使 獻 生 犀牛
自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣
160:日本@名無史さん
23/07/24 18:43:59.00 .net
>>156
有名どころだと城野遺跡かな。
今回の吉野ヶ里遺跡のもそうだけど石棺墓って倭国王にはなれなかったみたいだね。
161:日本@名無史さん
23/07/24 18:55:39.31 .net
URLリンク(www.city.itoshima.lg.jp)
1号墳の棺があったと思われる周りに柱跡が並んでる
槨があったんじゃないか? 石じゃなくて木の
162:日本@名無史さん
23/07/24 18:56:49.33 .net
殯用の柱だろ
163:日本@名無史さん
23/07/24 19:01:57.36 .net
末盧国から150キロの話に横レスのはずが?
漢書地理志のコピペのみだった? すまん。
中国史の謎、1月行の話を、したんだが・・・
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
これが、22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 である。
これは240年、卑弥呼に金印を届けた梯儁の報告書の引用である。
簡単な文章問題で、陳寿と梯儁は、1月行=2千里を共有している。
247年の張政は、到と至を使い分け、寄港地等、点から点の
里程を記録して、戸数は有、梯儁の行程は日数、戸数は可である。
筆致が違う、二人の記録の引用を陳寿は正しく再現している。
一番馬鹿なのは、投馬国は、240年での弁辰韓24国5万戸の仮称、
邪馬台国は、筑紫地域次有21国7万戸の仮称である。
行程と言うのは、駅の点、
東京名古屋大阪から、日本国や韓国には繋がらない。
ご都合主義で、読まない事。
伊都国に到達した、張政が、
不彌國~投馬国=弁辰韓に行ったら、既に帰り道である。
倭人伝には、帰りの行程記録は無い。
164:日本@名無史さん
23/07/24 19:09:23.04 .net
>>161
ホケノ山古墳の立派な木槨を見て一から勉強し直したまへ
165:日本@名無史さん
23/07/24 19:19:36.43 .net
>>161
墓と言うよりは、御柱は日時計だな?
卑弥呼は農事の号令係だったのか?
地域王丸出しだが?
倭人伝が、本州、畿内王の話をしている
と言う根拠は、文献的には全くない?
畿内は無理なんで、ムー大陸に逝けw
166:日本@名無史さん
23/07/24 19:36:50.39 .net
>>163
筆致が違うというのはその通りだね。
里程と日程は別々の記録だろう。
倭女王卑弥呼は伊都國にいた。
>投馬国は、240年での弁辰韓24国5万戸の仮称
面白い説だな。
ただその場合、南至の起点はどこなのだ?
また韓そのもの、また弁辰の瀆盧国が、倭と接するとある倭は?
167:日本@名無史さん
23/07/24 20:04:58.47 .net
>>154
日本書紀は藤原氏や天皇に都合の悪いことは記述されないか改竄されてる
しかし中国の歴史書は天皇も藤原氏も改竄できないし都合の悪い葉梨を削除することも出来ない
もちろん中国には中国の都合があって全て真実とは限らないが
少なくとも日本に忖度して筆を曲げるようなことは無かったろう。
日本には中国に圧力を掛けるような力が無かったから。
だから日本に関して書かれている古代の中国の文献はあてに出来る。
168:日本@名無史さん
23/07/24 20:12:21.94 .net
伊都国歴史博物館の現地説明板より
1号墳 割竹形木棺 銅鏡40面、ガラス勾玉3点・管玉30点・連玉886点・丸玉約500点・
小玉482点・メノウ管玉12点、ガラス耳璫じとう2点、水銀朱、鉄製素環頭大刀1本
弥生時代終末期
2号墳 舟形木棺 石室 副葬品なし 出土した土師器から古墳時代前期前半
3号墳 中央付近に刀子 周溝に滑石製臼玉、ガラス小玉、鉄鏃、土師器 土師器から古墳時代前期前半
4号墳 土壙墓と思われる 布で包んで埋めて埋葬 副葬品なし
5号墳 壺棺 小児 前漢鏡2面 弥生後期初頭
169:日本@名無史さん
23/07/24 20:21:02.68 .net
平原2号墳 2011
URLリンク(sitereports.nabunken.go.jp)
170:日本@名無史さん
23/07/24 23:50:17.72 .net
>>167
日本には忖度しないよ
でも、陳寿は皇室の祖である司馬懿には忖度したはず
司馬懿が公孫氏を滅ぼしたことがきっかけで邪馬台国の朝貢が実現してんだし、当時は魏のライバルだった呉の沖合に位置すると勘違いされていた
司馬懿の功績を讃えるために邪馬台国をよく見せようとしていてもおかしくない
171:日本@名無史さん
23/07/25 04:50:14.17 .net
行程論だとどうあがいても自分のとこに至らないから全部嘘さと騒ぐ
172:日本@名無史さん
23/07/25 05:01:03.43 .net
>>162
墓「有棺無槨 封土作冢」
殯「始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒」>柱穴建物での殯に張政さんも参加した
葬「挙家詣水中澡浴 以如練沐」>木棺墓は海神族の証
完璧だな。
173:日本@名無史さん
23/07/25 09:06:04.73 .net
>>170
魏志倭人伝が書かれたのは魏が滅んだあと
174:日本@名無史さん
23/07/25 16:08:20.28 .net
>>173
280年までは、三国志は続く。
それなのに、倭人伝は247年張政の報告以降記録が無い。
送政等還 因詣臺 で、朝貢で王宮に上がっているのに返礼も無いのである。
特にこの時は、卑弥呼の崩御と女王壹與が即位した報告があったはずなのにである。
使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
司馬懿のクーデターはこの年か直後。
魏が邪馬台国との交流を断つ決断は司馬懿によるもの。
266年は晋、司馬炎即位の祝賀で東夷の王も多数参列したという話だが、
247年以降、一大卒の関与は、皇帝や女王の傳送文書 賜遺之物にも及ぶ。
これが、女王壹與による使であった可能性はほぼ無い。
一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
245年母丘倹は幽州刺史で、玄兎郡太守王頎を伴い高句麗を東臨大海に追った将軍だが
中央派遣の刺史の権限は、太守や県令など地域王の上位に位置する。
175:日本@名無史さん
23/07/25 16:29:12.53 .net
>>154
会稽東治の場所だが、裴松之の注に出てくる東治と三国志本文を比較すると
現在の江蘇省蘇州市に当たり、沖縄よりはだいぶ北
鹿児島の南端くらい
URLリンク(andokunio.blogspot.com)
> 5.東治の「東」
> 「治」とは、地方官の駐在するところ(治所)の意味である。(康煕字典:「治、州郡所駐曰治、如蜀刺史曰治成都、揚刺史曰治会稽」)
> 呉志孫輔伝の裴松之注に、【典略曰、輔恐権不能保守江東、因権出行『東治』、乃遣人齎書呼曹公、行人以告権、乃還偽若不知、
> 與張昭共見輔、権謂曰「兄、厭樂邪何為呼他人」、輔云「無是」、権因投書與昭、昭示輔、輔慙無辭、乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置『東』】とある。
> ここに「東治」と「東」が見える。
> 紹煕本に「東治」とあれば無条件で校勘なしで「東冶」に改訂する百衲本も、この「東治」だけは改訂していない。
>
> 典略がいう事件の背景は呉志孫権伝にいう「建安五(200)年、曹公表権為討虜将軍領会稽太守、屯呉」にある。
> 典略の要は、孫権の兄の孫策の死後、その業(討虜将軍領(=兼)会稽太守)を継いだ孫権が十九才という若さのためか、
> 孫権の江東を保守することに危惧を抱いた従兄弟の孫輔が、孫権が「東治」へ行った留守の間に曹操を呼ぼうとしたことがばれて、孫輔は「東」に徒(うつ)された、ということです。
> 建安五(200)年、孫権が会稽太守として屯した呉は、春秋時代の呉の都、秦漢では会稽郡(今の浙江省から江蘇省)の郡治の江蘇の呉県(太湖の東の蘇州)。
> 後漢の順帝永建四(129)年に会稽郡から呉郡が分離して、以降呉郡の治になる。
> 会稽・呉分離以降、会稽郡は浙江以南となり、郡治は山陰(紹興)に移る。
> 典略のいう、孫権が会稽郡治の山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、孫権が江東を保守するために駐屯した呉の地のことである。(「東冶」は江東からはかなり遠い。)
> 「会稽東治」とは、「会稽の『東』の治所」という意味である。
176:日本@名無史さん
23/07/25 16:43:47.75 .net
古代の磁北は日本から見た場合、地軸から約15°ほど西にずれていたようだ
このため磁石で方位を測ると真北は東北東15°となり、方位は東寄りにずれが生じる
魏の使者は磁石で方位を測ったため、方位の表記は全体的に東寄りにずれている
これを補正すれば上陸地の呼子から東南で方位は合致する
古代の方位測定法
URLリンク(www.nabunken.go.jp)
> いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
> 奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。
> したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
> ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
> 午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
> この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
この周礼の方法は午前と午後の2回、同地点での測定が必要なので、魏の使者のように旅をする人間には使用できない
都市計画などには良いが、移動する人間は磁石を使うしかなかった
中国では魏志倭人伝よりも古くから「司南之杓」という天然磁石をスプーン型に削ったものを平らな銅板の上に置くことで方位を測る方法が知られていた
ちなみにこの15°補正により別の方位問題も解決する
会稽東治(江蘇省蘇州市)からの方位に15°の補正を加えると筑後山門はほぼ真東となる
URLリンク(i.imgur.com)
177:日本@名無史さん
23/07/25 17:46:17.77 .net
>>173
魏のあとが晋
陳寿は晋の役人で、晋の皇帝の祖が司馬懿
178:日本@名無史さん
23/07/25 17:52:24.61 .net
書いたのは西晋の人だから魏に忖度することはない
179:日本@名無史さん
23/07/25 17:53:50.44 .net
魏に忖度してんじゃなくて、晋の皇帝に忖度してんの
180:日本@名無史さん
23/07/25 17:54:27.87 .net
計 其 道里 當在 會稽東治 之東
は、前後に 其 道里を計れる主語が存在しない。
當在? 其を主語とした道里を示さないなら、
會稽東治 之東は海である。
文章が、改竄で壊れている。
復元が想像できるのは魏略の、倭使の奏上での太伯の後の削除で
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
太伯の居た会稽から日本は遠すぎる。
その会稽から倭の道里は、当地洛陽から会稽の12000里を東するに等しい。
呉人太伯の後は、倭人にはなれないはず。
と言う一節。
改竄は、呉と戦争中の魏は倭人と同盟しないよね?
と言う、儒教的配慮かな? これ、イラネw みたいな?
正しく読むスレより、こっちの方が読めてる人多いね。
181:日本@名無史さん
23/07/25 17:56:57.43 .net
魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)
会稽東治之東 九州全域が相当
会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
会稽東治之南東 沖縄が相当
会稽東治之南 台湾が相当
以上。
182:日本@名無史さん
23/07/25 18:18:13.28 .net
>>181
文章しかない場合、そうかも知れない?
北北東って表現は何時から? と言う検証の問題。
でも、>>159 で誤爆の、漢書地理志には、方角が無い。
これは、地図が無ければ想定不能な文章なわけで
漢書、地理志には辺境への一月行の座標が有る地図が付帯した。
地図上では、平面のコンパス? 360度を表現できる。
遠征関連軍人や陳寿は、見ることが出来て、共有可能だった。
陳寿倭人伝によって、軍事機密の陸行一月は2千里と暴露されている。
当法廷によって、陳寿は、機密漏洩で死刑であるwww
って、晋も筆写奨励で、後に版本だけどな。
183:日本@名無史さん
23/07/25 18:32:44.72 .net
>>182
1世紀2世紀に絵地図なんて描きようがない。
しかも渡海不可能だった東シナ海を中心とした正確な絵地図を描くなど不可能。
絵地図がなければ成立しない夢物語では、
〇説を否定することも
〇説を擁護することもできない。
>>181
のごとく、北部九州邪馬台国は、だいたい会稽東治之東であるよ、
と記載されただけのこと。
184:日本@名無史さん
23/07/25 18:59:35.81 .net
だから、実際に伝承された
漢書地理志の文章を地図無しで理解できるか?
と言う話をしている。
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ?ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國
民 俗 略 與 珠?w 相類 其 州 廣大 戶口多 多異物 自 武帝 以來 皆 獻見
有 譯長 属黄門 與 應募者 俱 入海 巿 明珠 璧 流離 奇石 異物 齎 黄金 雜??
而 往所 至 國 皆 稟食 為 耦 蠻夷 賈船 伝送致之 亦 利 交易
剽 殺人 又 苦逢風波 溺死 不者 数年来還 大珠 至 圍二寸以下
平帝 元始中 王莽 輔政 欲 燿威?コ 厚 遺 黄支王 令 遣使 獻 生 犀牛
自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣
マレーシアだのベトナムだのフィリピンだのインドネシアだの?
グアムかオーストラリアかで、帰ったか知らんけど
中華の太平洋知識って、倭人伝でも
又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
小笠原かよ? みたいに、凄いんだよwww
185:日本@名無史さん
23/07/25 19:02:21.28 .net
関係ないね。
魏志倭人伝の里程(市町村単位の距離)と、
日程(国家単位の移動日数)とは、理解できる。
その解答が、伊都。
186:日本@名無史さん
23/07/25 19:19:26.79 .net
帯方郡と、馬韓と弁辰韓と九州に里程は存在しない。
何を言ってるかわかるかな?
247年の張政は倭人船で伊都まで行ったから、
その行程を倭人に聞いた地名で点から点の里程で記録した。
240年の梯儁は、行軍で幕営と兵站である。
行軍にかかった日数は、里程と無関係である。
筆致の違う二人の行程の引用が
倭人伝の行程部分である。
187:日本@名無史さん
23/07/25 19:23:30.89 .net
張政や梯儁は日数の報告。
里程は既に何百年か楽浪郡~伊都~に来ていた楽浪人による測定。
あるいは独自の里を持っていたであろう燕人の亡命勢力による測定。
なぜなら里程一万二千里は後漢書に採用されているからである。
188:日本@名無史さん
23/07/25 19:26:52.09 .net
仮定が多いなぁ
189:日本@名無史さん
23/07/25 19:28:56.06 .net
仮定というより願望だな。それも詐欺に近いレベルの。
190:日本@名無史さん
23/07/25 19:52:08.10 .net
>>187
韓方可4千里で、歴韓国は4千里、
乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
東に3千里である。
『到 』以降の後の『始』度 一海 で
帳政が、到と至を使い分けていたのは明白。
陳寿は、検隊隊の報告文そのままで引用した。
筆致が違うのは、陳寿は記録の引用に
和音~漢字転用のような探検者の
和音~漢字の記録を尊重したからである。
奴国王は難升米
都支国王は都市牛利
巳百支国王は伊聲耆掖邪拘
あたりまえだろw
陸行一月も同様に、陳寿に採用されているが?
陳寿と梯儁の共通認識は、一月行=2千里である。
191:日本@名無史さん
23/07/25 19:55:33.31 .net
>>190
韓方可4千里で、歴韓国は4千里、
乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
まず南に、次いで東に、合計3千里である。
はい、いきなり間違いあるいは誤魔化し入れてるあんたは失格。
192:日本@名無史さん
23/07/25 19:57:11.36 .net
気持ちよく詐欺ってる途中で止められて逮捕w
193:日本@名無史さん
23/07/25 19:59:51.73 .net
>魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)
>会稽東治之東 九州全域が相当
>会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
>会稽東治之南東 沖縄が相当
>会稽東治之南 台湾が相当
なんだ。
北部九州邪馬台国でいいんじゃん。
194:日本@名無史さん
23/07/25 20:13:43.38 .net
>東に3千里である。
半島南西端~南岸西部は韓で、東に3千里進むと倭領に至る。
>まず南に、次いで東に、合計3千里である。
半島西岸で韓は尽きて、倭領に至る。
そこから南西端~南岸の倭領を3千里進むとくや韓に到着する。
バイアスってるかどうかの踏み絵だな。
195:日本@名無史さん
23/07/25 21:32:15.28 .net
会稽東治、または会稽東冶の東でも中国からは見えない。
見えもしないのに何故に○○の東と言うのか?
昔、会稽東治の港に西からやって来た人がいるからであって
196:日本@名無史さん
23/07/25 21:33:38.53 .net
訂正
東から
197:日本@名無史さん
23/07/25 23:25:23.91.net
上海近くの会稽だと九州と緯度は近いね
URLリンク(i.imgur.com)
198:日本@名無史さん
23/07/25 23:27:43.66.net
郡から、歴韓国の南に4000里
+投馬国の海岸水行で東に3000里が
始度一海、渡海が始まるまでの、
合計、到7000里だろ?
わかる? 話にならない?
199:日本@名無史さん
23/07/26 01:24:07.39.net
>>197
会稽の東は大海であって
地球儀でも無ければ
倭国の位地として意味をなさない。
文がおかしい。
倭国は、楽浪郡の東南大海
の向こうに在る。
あるいは、東夷伝序文の
東臨大海の日の出る処である。
200:日本@名無史さん
23/07/26 01:36:15.44.net
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国」
帯方郡から倭に至るには、海岸沿いに航海して、韓を通り過ぎる。
(韓の南は倭に接しているのだから、韓を通り過ぎたら倭)
<韓が方可四千里だから、帯方郡から南に四千里進んだら倭>
「乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
(倭に入ってから)
南に進み、そして東に進むと、狗邪韓國に到着する。
<南に進んで、半島南西端を過ぎて東に進んで、狗邪韓國に到着するまでが三千余里>
>>194
201:日本@名無史さん
23/07/26 01:43:18.30.net
中国側の陸続きの地理感にて、
>>193
>会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
がわかっている。
>>1
里程にて楽浪郡帯方郡から、南に進んで、「そして東に進み」、狗邪韓國に到着。
そこから対馬海峡を南に渡海して、北部九州邪馬台国。
>倭人在帯方東南大海之中
とわかっているのだから、
朝鮮半島のだいたい南に倭があって、
>会稽東治之東 九州全域が相当
だな。
北部九州邪馬台国でなんの問題もない。
202:日本@名無史さん
23/07/26 03:16:47.28.net
伊都国が首都って、首都とはどういう意味で使っているのか分からない
203:日本@名無史さん
23/07/26 06:49:13.67 .net
>>183
横だが
邪馬壹国の首都だから伊都なのかなと思った
イの都、伊都
ここから各地を監察するんじゃなかったっけ?
204:日本@名無史さん
23/07/26 09:28:06.51 .net
首都には外交機関が不可欠
205:日本@名無史さん
23/07/26 09:37:49.44.net
外交を担っていた伊都国は首都から二か月の距離
もしもし卑弥呼さん →二か月→ はいはい卑弥呼ですよ →二か月→
206:日本@名無史さん
23/07/26 09:42:31.51.net
行程2か月は安全保障上の目眩しの計と考える
207:日本@名無史さん
23/07/26 14:44:40.13.net
>>206
そんなことは許されんよ冊封されて
208:日本@名無史さん
23/07/26 17:49:37.75.net
今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
魏時に2回あった、郡使の報告によって30の国を知った。
それに拠ると、郡から倭に至るには、で、倭人伝は始まる。
この後、陳寿は、筆致の異なる二人の報告書を引用する。
和音を漢字にするなどで、記録者の使用文字、筆致に陳寿は、忠実である。
247年の張政は、到と至を使い分けているが、到伊都国迄しか行っていない。
倭人船に便乗であり、寄港地の地名を聞いてその里程を記録した。
行程の積算は、伊都国まで10500里である。 戸数には、有を使用した。
伊都には、女王に所属する王が皆往来していて、郡使張政は伊都に常駐した。
伊都に首都機能が有るというのは、ここから判断されたかナ?
ただし、女王擁立の王の有る参問21国には名を連ねない。伊都国には王は無い。
日本で言うと、東京都ではなく、霞が関のような都市名なのだろう。王宮は江戸城?
240年の梯儁は金印と皇帝の詔書を卑弥呼に届けたので、女王の処都まで行っている。
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
到 は使用せず、戸数には、可を使っている。
投馬國 は弁辰韓。邪馬壹國は九州上陸で入国していて、女王之所都までは、陸行一月 である。
中国史の謎、陸行一月は陳寿の解説、暴露だと、2千里である。
どちらが、首都かと言うと、判らない。
240年には、郡から12000里に女王卑弥呼は居た。
247年には、伊都迄の10500里の、上陸後500里以内で墓を見た。
この間で、移動した可能性も有るし、出身地に埋葬したのかもしれない。
209:日本@名無史さん
23/07/26 18:18:23.05 .net
> 伊都には、女王に所属する王が皆往来していて、
さらっと嘘紛れ込ますな
210:日本@名無史さん
23/07/26 18:45:49.02 .net
隋書の東西五か月行はどっからどこまでなのか
211:日本@名無史さん
23/07/26 19:01:03.61 .net
東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
丗 有王 皆 統属女王國 郡使 往来 常所駐
陳寿が、嘘、書いてたら、
240年梯儁が参問した、次有列記21国の
邪馬台国=次有邪馬国の臺、と言う仮称女王国名は 無意味。
最初から、大和だと名乗れば良い。
漢字が無く、隣国程度しかない国に、自称国名なんて必要か?
卑弥呼:卑弥弓呼
の場合、筑前筑後? 肥前肥後あたりの分裂想定で
自称国名は 弥国で、呼は王。
弓は、狗奴国の狗 だと思うよ。
212:日本@名無史さん
23/07/26 19:12:16.46 .net
>>210
裴世清は、奈良の東山の向こうは毛人の土地。
と、聞いたらしい。 既に、尾張や武蔵も開拓してるのにね?
差別かな?
三月行は、概ね九州の南北、6千里。
五月行は瀬戸内海で奈良まで、海で至。東山が国境。
と言うのを、
600年の裴世清が、大和王朝の国域と判断した。
213:日本@名無史さん
23/07/26 19:16:49.99 .net
魏志にはなく隋書にはある筑紫国ができたのはもっと新しい時代のことだろう
つまり筑紫国がなかった古い時代にはそこはすべて肥国だったわけだ
魏志に書かれた北部沿岸の国々が全て消えてその代わりに
肥国のど真ん中を引き裂くようにデンと筑紫国が爆誕したのはなぜなのか
214:日本@名無史さん
23/07/26 19:20:44.33 .net
肥国が登場するのは記紀からだからまず筑紫国があってその周囲が肥国として一まとめにまとめられただけの可能性もある
215:日本@名無史さん
23/07/26 19:26:01.00.net
ひとつにまとまっていないのがなんとも
216:日本@名無史さん
23/07/26 19:29:44.52.net
>>212
失礼な。
毛人が開拓してたら駄目なのか?
紀伊半島がでかすぎたんだろうね。
銅鐸分布からして東の最前線は名古屋だと思うけど。
平地が少なくて外海を大回りしないといけないから、壁となって東の毛人が勢力を残せたんだろう。
217:日本@名無史さん
23/07/26 19:31:47.73.net
卑弥呼時代は、軍事覇権は無く、点の集合国家。
大和朝廷なら、有力者の婚姻関係で、近隣に拡大する。
軍事警察は、自国内のツワモノ。
紛争での戦争は、吾こそは、で始まる?
タイマンじゃないと思うけどw
卑弥呼は単に謎の宗教で
筑紫地域を纏めてただけじゃないかな?
壺w てか、平原の鏡には、
大六さん以下、みんな騙された。
なんで、アマテラスが青銅器だよwww
大和朝廷は、卑弥呼と神功以降しか成立しない。
218:日本@名無史さん
23/07/26 19:34:50.66.net
>卑弥呼時代は、軍事覇権は無く、点の集合国家。
祭祀型銅剣銅矛銅戈というものがあってだな。
219:日本@名無史さん
23/07/26 20:57:04.82 .net
九州には四つの顔があると言う
熊襲国 →建日別
豊国 → 豊日別
筑紫国 → 白日別
肥国 → 建日向日豊久士比泥別
肥国に一体何があったというんだ……
220:日本@名無史さん
23/07/27 02:59:40.89.net
勢力争いに負けて周囲に押し出されたのでは?
奴国も伊都国に負けたから南の狗奴国と東の拘奴國にそれぞれ押し出されたんだろうし。
221:日本@名無史さん
23/07/27 06:34:16.47.net
>>219
熊襲国 熊本
豊国 福岡県東部
筑紫国 福岡県西部
肥国 佐賀
だとすると、肥国が熊襲国を征服して、それぞれ肥前と肥後になった、のでは?
222:ネトウヨボクメツ タ イ!
23/07/27 09:53:05.50 .net
シーボルトに伊能図が渡っただけで、江戸幕府が大騒ぎになるほど地図というのは重要な軍事機密だったからな。
古代から庶民の使う地図は行基図だった。
あれがお上が認めた下々が使っても政治的に安全なものだったという事だ。
正確な日本地理など外国施設に教えるわけなかろう。
それを知らぬというのは、どれだけ日本史いや世界史に疎いか自白しているようなものよ。
ネトウヨに九州説が多い理由は教養の差という事であろう。
223:日本@名無史さん
23/07/27 10:00:21.04 .net
>>222
邪馬台国は魏の冊封下
日本側が地図出さなくても魏の使者は自前で作る
方眼紙みたいなものを使って方位と距離は測っていた
224:日本@名無史さん
23/07/27 10:35:47.38 ajuKskxyo
熊襲は鹿児島じゃねーの?
225:日本@名無史さん
23/07/27 12:31:46.30 .net
>>222
首狩家族の父親は共産党で九条の会だそうだな、パヨクは怖いな
226:日本@名無史さん
23/07/27 13:33:01.46.net
>>115
神夏磯姫が八咫鏡を持っていたというなら
一大卒は、景行ってことかな?
246年だけど? どーせ記紀に時系列は求められない。
卑弥呼が九州防衛で神夏磯姫状態だったことは想定できる。
真面目に評価すると、外患誘致って気もするけど?
卑弥呼は世襲王じゃないから、多分これで終るけど、
筑紫の君ってのは何時頃から頭角を現したのかな?
田油津姫とかのあとだよね。
平原以外で、八咫鏡なんて出ないから、
卑弥呼がアマテラスとかいう話になるんでしょ?
いっぱい作ってるけど。 宗教の壺だなwww
227:日本@名無史さん
23/07/27 17:12:12.52.net
歴史の話。
平原の、卑弥呼の墓、平原から八咫鏡が出てた。らしい。
アマテラスがニニギに青銅器を与えるのは、時空が違うが
記紀では九州の神夏磯姫が景行に渡している。
それって180年位までで、
九州の工房で卑弥呼が作った鏡の一つなのか?
同笵鏡があって、当たり前の日本鏡は
もちろん、前漢鏡の踏み返しが有っても良いが、
100年以降の生産じゃないだろうか?
鏡の流行の編年は、墓の編年には使えない。
と言うよりも、平原自体が古墳時代でもないのに
鏡が威信材になるというのは、信仰的に意味が違う。破鏡も。
卑弥呼独自の、宗教性が大型鏡を作ったとしか考えられない。
銅鏡の世界とは違うカルト指導者が卑弥呼だった。
平原墳墓の御柱は太陽信仰を想起させるが、
そんなもんで、大乱の九州21国がまとまるのだろうか?
228:日本@名無史さん
23/07/27 17:31:02.09.net
日本書紀は紀年延長されてるから邪馬台国時代の歴史を語る際の根拠として使うのは適当ではない
229:日本@名無史さん
23/07/27 17:48:24.51 .net
記紀の話には普通参加しないんだけど
九州の景行期、神夏磯姫は、八咫鏡を朝廷にもたらした人物。
それが、平原の八咫鏡と同笵鏡かは、調べられるよね?
学校で歴史を学ぶ、よゐこのみんなは、陛下にお願いしましょう。
おまえら学者とか、論文がどうたらとかは、
5ちゃんの評価と、関係ないから。
自分たちの方法論で、勝手にやってろよwww
土木作業に日当は出しても、学者への予算が税金ってのは
邪馬台国論争関連では嫌だな。
寺島君ももう、判ってんじゃネ。
230:日本@名無史さん
23/07/27 18:36:12.52 .net
誰も書かないようだが
志賀島に埋まってた金印は、伊都国の隣の奴国が貰いに行っていない。
231:日本@名無史さん
23/07/28 18:13:55.75 .net
金印は、外交文書を書ける=刀子・硯・案(文机)の出土、海外との交流=漢鏡・楽浪土器・鉄器青銅器の出土量、などと連動している。また金印は、漢倭の二国間関係だけでなく、匈奴や高句麗など他のアジア各国との国際関係の中で漢にとって倭が傑出した存在であるから与えられるものであり、よって金印を貰ったのは一世紀当時に日本列島だけでなくアジア全体視点でも傑出した地域である必要がある。
232:日本@名無史さん
23/07/28 18:48:30.36 .net
100余国あるうちの30国をまとめる大倭王なので
233:日本@名無史さん
23/07/28 19:23:06.07 .net
卑弥呼の結論として魏の征服に屈するか?
本州と組んで対馬防衛で行くかは、日本史の別れめ。
一大卒は、九州防衛に成功している、と見えるだろ?
記紀を無視した
出雲の海神族の歴史とかのフォローが無いと
日本の古代の歴史は、成立しないと思うぞ?
234:日本@名無史さん
23/07/28 19:54:10.45.net
>>233
魏の征服ってなに?頭ダイジョーブ?w
235:日本@名無史さん
23/07/28 21:40:34.03 .net
卑弥呼が平原に葬られた理由はわかる
生前君臨した場所と違うことも想像できる
なんなら死後すぐに一時的に葬られたのがあの吉野ヶ里遺跡の石棺かもしれん
236:日本@名無史さん
23/07/28 23:13:48.43 .net
>なんなら死後すぐに一時的に葬られたのがあの吉野ヶ里遺跡の石棺かもしれん
え?w
237:日本@名無史さん
23/07/28 23:39:17.71.net
弥生の風習として再葬というものがある
238:日本@名無史さん
23/07/28 23:56:19.87.net
>>237
それ東の倭種でしょ。
魏志「倭人」伝には書いてない。
239:日本@名無史さん
23/07/29 08:10:41.76.net
半島の他の諸国は帯方郡に攻められ滅ぼされた
時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓
240:日本@名無史さん
23/07/29 08:13:25.12.net
ん?滅んてどうなったの?
241:日本@名無史さん
23/07/29 08:36:21.61.net
韓の総王辰王が殺されたのと卑弥呼が死んだのと関連があるんだよ
242:日本@名無史さん
23/07/29 09:04:44.64 .net
え?辰王ころされたの?
243:日本@名無史さん
23/07/29 17:23:08.24.net
張政の旅誌は行きは卑弥呼難升米派のお迎え接待でウキウキで詳しく書かれてたのが、
帰りは男王台与派で監視されながらで行きの記録を隠し持ち帰るので精一杯だったんだな。
244:日本@名無史さん
23/07/29 17:29:36.77.net
二郡との戦争で韓ついに滅ぶだから当然辰王は死んだだろう
245:日本@名無史さん
23/07/29 17:54:30.52 .net
滅んでも捕らえられる王は歴史上山ほどいた
246:日本@名無史さん
23/07/29 17:56:46.68 .net
死んだ方が多いだろう
247:日本@名無史さん
23/07/29 18:03:55.19 .net
滅んだ、というのか?
248:糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y
23/07/29 18:21:36.45 .net
【これが下剋上だ!!】
尾張・美濃に涼しさをもたらした徳川家康に民は喝采を浴びせ、
「信長を切り捨てた」のである。
チャイナマネーの恐ろしさについて。
涼しくなりますよ。 。
URLリンク(gbg01307ko.livedoor.blog)
249:日本@名無史さん
23/07/29 18:45:48.79.net
なんで、辰韓王だよ? 韓伝嫁。
何にも知らないで、あーだ、こーだか?
遼東の箕氏朝鮮王が衛満に押し出されて海を渡り馬韓で王を名のった。
箕氏じゃなくて、多分、既に馬氏だったんだと思うけど?
中国戦乱遺民を 馬韓が入れた辰韓に王は無く、
何故か馬韓人が馬韓内で辰韓を治めた。
馬韓王は魏の2郡によって、245~6年の制圧戦で滅びた。
以降、魏は臣智以下の官を置いて、馬韓辰韓を直轄した。
この時、難升米に、詔賜、黄幢、つまり檄があり
倭人が、唯一三国志に関与した。
九州は、魏帝の檄には答えず、九州と本州は対魏防衛、韓復興に向かい、
百済新羅の建国の礎となる、富国強兵政策、古墳時代に突入した。
ミスリード目的の現代語訳読んで、畿内九州の邪馬台国論争じゃ、
永遠に東夷の古代史は見えないんじゃないか?
もっと困ったことに、伊都国王ってのも、居ないんだがw
250:日本@名無史さん
23/07/29 18:47:59.05.net
滅んだその地を支配したのは誰だ?
辰韓は楽浪郡が九州したようだが?
251:日本@名無史さん
23/07/29 19:02:13.60.net
もともとの領主を、大は臣智、以下なんとかで任官しただけで
処刑されて滅んだのは、二軍に対抗し得る軍事、警察力が有った
領主の馬韓王だった一族、と 其の腹心だけ。
未開地故に、税や兵役の管理者は送っても、
二郡に、韓直接統治の覇権能力は無い。
だから不明な背後が大きすぎる
倭人域には着手できていない。
東夷伝序文
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉
252:日本@名無史さん
23/07/29 20:05:02.84.net
やっぱ九州説だな。どんな質問にもしっかり答えられる。
253:日本@名無史さん
23/07/29 20:51:56.22.net
何とか説、と言うのが登場するのが、意味不明で
三国志の作者、陳寿は、倭人伝をこう書いた。
金印の倭王は、九州島の上で北部2千里
参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
大倭の一部でしかない。
小倭邪馬台国と魏の国交は247年で終わる。
こんなつまらない、倭人伝論争の終結は、笑えるwww
纏向や、平原に、草生えるだろ?
254:日本@名無史さん
23/07/30 07:16:53.73.net
畿内説の大先生も卑弥呼は伊都平原遺跡一族の出身と言ってるらしいね。
誰がどう見ても倭人伝重要地点である伊都國そして考古学的重要遺跡である平原女王墓を無視できないから。
無視あるいは過小評価してたら日本はもちろん世界での考古学的比較研究で整合性が取れなくなるから当たり前といえば当たり前だが。
卑弥呼は共立されたとあるのでじゃあ共立勢力の中でどこがトップだったかということになると
三雲井原大王墓が主導して平原女王卑弥呼が共立されたと考えるのが最も自然。
魏志倭人伝の先の七八十年男王の記述とも整合性が取れる。
東の倭種が四隅突出や巨大土盛り墓などでこれも整合性が取れる。
北部九州邪馬台国の首都伊都國で完結している。
畿内説の大先生の場合は三雲井原大王ならびに平原女王に匹敵する王墓を呈示しない限り
平原女王墓勢力が主導してその後に卑弥呼が共立されたと主張していることになる。
その場合は前方後円墳の形すらも実は平原女王墓が原型だった可能性
つまり共通の周濠で囲まれた二つの冢という形
であったことを畿内説の大先生が認めているのと同義になってくる。
それが悔しいので圧倒的副葬品群に勝てないから土盛り勝負で
気が狂ったように土盛りの大きさを連呼するがそうなると
魏使が日本独特の巨大土盛りの完成品が群れなす光景を描写していないことや
後円部だけの大きさをチェリーピックすることも完成品が大量にあるし
土盛りの大きさで勝負するなら全長で勝負しろよと
矛盾だらけになって爆散霧消する。
255:日本@名無史さん
23/07/30 08:48:58.27.net
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死んだのを受けて、冢を2つも作った。
周濠の長径が百余歩の墓域に奴婢百余人を土壙墓殉葬した。
256:日本@名無史さん
23/07/30 09:23:15.02.net
共立について中国史書で調べれると
正統な王位継承者ではない者をその国の有力者や国民が立てた場合に使われる語。
出自が怪しい場合も含まれるし王族王子であっても弟王子のが優秀だから兄王子を飛び抜かして大臣達が弟王子を共立したとかもある。
全く新しい国に全く無関係の王を立てることを共立と表現した例はそうとも取れる例が1例あるだけだから
共立の使用例から考えると卑弥呼の場合は基本的には七八十年男王の倭国という既存の枠組みの中で既存の倭国王というものに王位継承者では無いはずの卑弥呼が推されて就任したということになる。
旧百余国の百余の王が卑弥呼を共立して倭国王にまとまったのではなく
旧百余国の百余の王を束ねたのは七八十年男王の最初の倭国王誕生時だよ。
当然107年倭国王師升を含んで1世紀末から2世紀初頭には成立した国だね倭国は。
だから北部九州だけ。
既に成立している倭国の中で倭国乱がおきて倭国乱を収めるために
本来は倭国王の第一継承者であった伊都国王を差し置いて
第一継承者では無い卑弥呼が共立されたという意味になる。
伊都国王が幼若とか病気とか勢力関係図での都合などの理由で。
だから魏志倭人伝の景初年間前後の時期については
伊都國には伊都国王がいたで良くて
倭国王は本来は伊都国王がなるべきだったのが第一継承者でなかった卑弥呼が共立されて
卑弥呼時代の間に次の伊都国王が就任成人していて卑弥呼時代には統属されていて
卑弥呼死去と共に本来の第一継承者である伊都国王が共立ではなく正統継承者として次の倭国王男王となった。
けども卑弥呼は長期政権だったからその勢力がごねて
伊都国王の血統であり卑弥呼の親族でもある台与がこれも共立だろう。
257:日本@名無史さん
23/07/30 09:51:09.14.net
>>256
2世紀中旬の倭国乱の前に70-80年の男王だから、
倭国の成立は1世紀後半だよ。
三雲井原遺跡に圧倒的な王墓があるから、
内行花文鏡と方格規矩鏡の後漢鏡が倭国王の威信材であることは確定。
北部九州倭国だね。
九州以外の説が倭国に含まれる方法は祭祀型銅戈や巴形銅器だね。
これを威信材として名古屋までは王がいたと主張するか。
だが逆に東の倭種=属領だったと言われる根拠を作ってしまう諸刃の剣。
>>255
平原遺跡の調査図の土壙墓からすると、
まだ発掘されてない周濠部分、特に2号墓周囲にもっと土壙墓がある可能性が一つと、
奴婢を殉葬するのに、土壙墓一つに奴婢一人ではなく、
土壙墓一つに奴婢数人ずつを殉葬させたでもいいわけだから、
平原遺跡で説明がついていいね。
258:日本@名無史さん
23/07/30 09:55:06.48.net
漢のときから倭の総王は奴国王、帯方郡から1200里の女王国とは奴国だから卑弥呼も奴国王だよ、だから金印を貰えるんだ
259:日本@名無史さん
23/07/30 10:27:03.79.net
女性が治めるのは先住民の文化、慣わし、だろうな。
260:日本@名無史さん
23/07/30 10:31:36.05.net
奴国は人口は多いけど王墓が無いんだよね。
須玖岡本D地点が単発でそれも三雲南小路遺跡の親族だし。
魏志倭人伝の行政でも、
伊都に爾支と副の泄謨觚と柄渠觚
奴国は兕馬觚
だから伊都国の支配下に置かれていたことがわかる。
伊都国がワシントンで、奴国がニューヨークのような関係だったのだろう。
卑弥呼の女王国は奴国だろうけど卑弥呼は奴国王家じゃなくて
伊都国王家筋の奴国府知事だったのだろう。
兕馬觚出身、ウマシマジ。
261:日本@名無史さん
23/07/30 10:39:21.25.net
九州北岸が倭国なら九州は狗奴国島
262:日本@名無史さん
23/07/30 10:57:24.95.net
>>256
北部九州倭国つまり北部九州邪馬台国の王に卑弥呼は共立されてるから
共立の使用例からすると可能性としては倭国王統伊都国王統である可能性が最も高いが倭国王統と全然関係ない一般庶民である可能性もゼロではない。
だが血筋まで違う場合は他の使用例からしてもそれを示唆する説明が魏志倭人伝に入るはずなので
魏志倭人伝に何も書かれていないならやはり卑弥呼は倭国王統伊都国王統ということになる。
もう一つの可能性としては倭国王が伊都国王と金印奴国王との交互持ち回り統一王である可能性がある。
だがこれも否定される。
後漢書にて記載されている57年遣使が魏志倭人伝では明記されていない。
漢時有朝見者とぼかされていることから卑弥呼そして倭国は57年金印奴国王とは別系統であることが示唆されているし
また倭国王伊都国王系ではないのだから当然漢時有朝見者の候補は魏志倭人伝における登場人物では狗奴国王がこれに該当することになる。
魏志倭人伝では南に狗奴国これは免田式土器の分布域が相当すると
後漢書倭伝では東に拘奴國これは四隅突出型墳丘墓の分布域が相当するが
存在している。
つまり卑弥呼の邪馬台国の周囲に同時代に奴国を冠する国家が存在しているのだから
卑弥呼の国が奴国を冠しないということからも卑弥呼は伊都国王統であることがわかる。
263:日本@名無史さん
23/07/30 12:26:09.47.net
後漢書
「凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王世世傳統」
旧百余国あったけど、
前漢の武帝が楽浪郡を設置した前108年からは30国だよ。
旧百余国の70国は前1世紀に淘汰吸収され、
その後は30国がそれぞれ王を自称して伝世していた。
その中の1国が奴国で、57年金印。
倭国乱が桓霊間だから146-189で、その前に男王70-80年だから、
倭国の成立が最古でも146-80=66年以降となる。
倭国成立時は30国で、奴国王家その他王家は廃されて、
66年以降に伊都国王家に一本化して全体を統治するのが倭国大王だね。
対海國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、
彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、対蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、
鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
で26国。
対馬は対海國とおそらく対馬國の2国あったのだろうし、
最後の次有奴國は、次有「有奴國」の誤転載である可能性もある。
そうなると、倭国を構成する30国のうち、邪馬台国と狗奴国で占領したり占領しかえしたりして、
魏代においては26-28国が卑弥呼邪馬台国側。
南の狗奴国はわずか2-4国分しかなく、
うち一つが狗古智の卑狗が知事の、おそらく菊地市かな。
264:日本@名無史さん
23/07/30 15:14:50.40.net
wikipediaによると、
国王
元来、漢字の「王」は、殷・周王朝の君主の称号として使われた。周王は天下(世界)を治め、諸侯は周の封建制の下で国(領地)を治め「公」を称した。春秋時代に周が衰微し、有力諸侯の群雄割拠の時代になっても周王のみが王を名乗った。
戦国時代になると、各国の君主が「王」を名乗った。以降は、「王」はもはや天下ではなく、領地(国)を治める領主と認識されるようになった。そのため、中華世界を統一した秦王の政は「王」号を廃し「皇帝」号を作り自ら称することになった(始皇帝)。
265:日本@名無史さん
23/07/30 17:19:21.04.net
まとめると、
旧百余国は前108年まで。前108年からは30国。
30国の王家の一つが57年金印奴国王。
伊都国王家が他の30国を従えて成立したのが倭国でその成立は66年以降。
考古学的にも文献学的にも伊都国王家が倭国の主。
共立とは恣意的に選ぶ30国の王達が卑弥呼を共立したというのは間違いで、
「1世紀後半に成立した倭国の王統」において、
王位継承順では王になる順番ではなかった、伊都国王家の卑弥呼が、
「順番を飛ばして倭国王に選ばれた」ことが共立の本来の意味である。
伊都国王家筋の卑弥呼が、奴国の地方自治体の長=女王国の知事であったのが、
倭国乱を収めて、南の狗奴国と倭国一丸となって相対するために、
共立されて倭国王になった。
266:日本@名無史さん
23/07/30 23:43:36.90.net
一大率が刺史のようなもんなら伊都は監察される側だよね
寧ろ倭国大乱のきっかけ作ったせいで、暴れたり勝手に漢や公孫とやり取りしないように監視されてたんじゃないの?
267:日本@名無史さん
23/07/31 00:32:47.93 .net
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー
汚職/集団ストーカー/盗聴/盗撮/揉み消し
揉み消し加担
268:日本@名無史さん
23/07/31 08:27:21.21 .net
九州北岸の奴国が倭国の極南界で、女王国以北に置いた大率が伊都国に居る。
方位が変。
269:日本@名無史さん
23/07/31 08:29:35.43 .net
>>266
そうだね。
倭国乱があったことからも、倭国(邪馬台国)の内部に、少なくとも2つ以上の派閥があって派閥争いがあったのだね。
卑弥呼は共立された=本来の王位継承順を抜かして倭国王になった、のだから、
奴国女王国の卑弥呼派閥、と、
伊都国王=本来の王位継承一の派閥、と、があったはず。
他にもあったかもしれん。
よって、卑弥呼が共立されたばかりの2世紀後半当時の姿は、
奴国女王国に分家卑弥呼女王。
伊都国に本家伊都国王。
2世紀後半の倭国王卑弥呼の所都=奴国女王国で、
女王国以北、つまり伊都国王のいる「伊都国ならびに対馬海峡を監察」するために、
伊都国に置かれたのが大率。
あくまでも北部九州倭国内での派閥争い。
大率が先に伊都国入りして対立派閥である伊都国王を監察し、
まさに刺史の如く、
対馬海峡の行政権をも奪って安全性を確保してから、
倭国女王卑弥呼が後から伊都国へ移動してきた。
南の狗奴国と戦争中だから、軍事防御上より安全かつ、
対馬海峡外交もしやすい伊都国へ移動して、
倭国王卑弥呼の所都=伊都国西部(帯方郡から水行30日+陸行1日)となったのだな。
270:日本@名無史さん
23/07/31 08:55:42.60 .net
倭国大乱で最後まで折り合えなかったのは狗奴国の卑弥弓呼
卑弥呼在任中はずっと和すことができなかった
後年、魏の介入があって台与が立てられた時にようやく和したので
ついに国中が定まった
271:日本@名無史さん
23/07/31 09:12:25.77 .net
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
272:日本@名無史さん
23/07/31 09:14:20.68 .net
根拠なき想像
273:日本@名無史さん
23/07/31 11:15:56.16.net
>>269
265だけど、邪馬台国は九州って思ってるけど、その首都が伊都とは思ってないわ
伊都 奴 末盧 不彌 投馬は全部邪馬台の北側にあって、奴は南にも領土持ってたと思ってる
南の奴は師升時代には大きかったのが倭国大乱で分割・分離したとかそんなもんじゃないかなって
狗奴は南の奴の更に分裂した国で案外 奴の正当な王権だったとかどうだろう
その正統 奴への対抗手段が邪馬台連合だった、と
最終的に狗奴が南の奴を食った(卑弥呼が死んで混乱を付かれて乱れた)後に台与立てて邪馬台が調停して奴の内乱が終わった
その後国力がある程度回復したところで邪馬台連合として目先を九州変えて東に攻め上る歴史が始まる、みたいな
274:日本@名無史さん
23/07/31 17:11:17.70.net
バルバルバル
275:日本@名無史さん
23/07/31 18:05:38.17 .net
>>127
壱岐対馬は食料を外部から運び込んでたんだよね。
じゃあ北部九州から供給していたかというと、
奴国の遺跡だって余剰スペースなしで住居や倉庫やでびっしり埋め尽くされてる。
そこから筑紫野市そして久留米朝倉に抜けても住居や各種工房がみっちり満載。
一体全体彼らの食糧はどうしていたの?
吉野ケ里遺跡とか熊本とかで稲作?
276:日本@名無史さん
23/07/31 18:56:26.69 .net
点在する荘園状態で開拓して徴税、警察軍事権を確保すればそれは王であって、
邪馬台国は、21国が卑弥呼と言う宗教王を共立した、って書いてあるのではないかな?
考古学は、桃の種は何年だけで、日本古代史の発展過程を、知らんのか?
卑弥呼の墓は、古墳ではない。
狗奴国との不和が、経済なのか宗教なのかも判らないが、
多分、軍事大国の奴国ではなく、卑弥呼の城が先頭に立つなら宗教だろ?
中国三国志や、戦国時代のような、面で軍事覇権のような状況には、
日本はまだ、薩摩藩のような範囲では、地域的にですら、なって無いぞ?
500年以降で、筑紫の君が卑弥呼の後見政権だったとしても、
それまで、中央政府の支配下だった、とは言えない。
277:日本@名無史さん
23/07/31 19:09:30.95 .net
化学的に考えてみなよ。
弥生時代の福岡県なんて住居でびっちり埋まってて、
七万戸の勢いで考古学的裏付けがついてんのに、
それを食わせるだけの水田はどこにあった?
278:日本@名無史さん
23/07/31 19:10:43.67 .net
>>274
方保田東原遺跡もバル。
巴形銅器があるから倭国兵がいた。
279:日本@名無史さん
23/07/31 19:27:24.76 .net
239年公孫氏滅亡。 246年の韓王朝滅亡で
日本は、卑弥呼の対魏外交を改め、富国強兵政策に転換した。
日本海ルート諸国は、BC200から青銅輸入で、
シンパだった、公孫氏と韓王朝が消えた。
当然の方針転換である。
卑弥呼は、245年の韓制圧戦での檄によって
日本につくか、魏につくかの回答を迫られた。
帯方郡に、援軍を派遣しなかったが、247年に国内戦理由の言い訳をした。
倭では、対馬で魏晋海軍に対抗できないのは当然だが、
まず、牛馬による交通や戦術が必要である。
これは、313年の高句麗による韓四郡追討を待ち、
移民も含む、高句麗人の牛馬輸送技術により成立した。
400年までに、甲斐、信州、武蔵、上州には、
前方後円墳以下、高句麗葺石墓の御牧が広がる。
↑これ、馬の話だけど? 日本古代史の最重要概念だよ。
まあ、古代半島国、百済新羅が日本の後援で成立した事実は
朝鮮併合の歴史との忖度で、話にならない。
と言うのは、想像できる。
根拠を話しちゃったけど、妄想だよなwww
280:日本@名無史さん
23/07/31 19:35:43.06 .net
250年から、350年までの日本王が
日本古代史で、最も重要な仕事をしている。
記紀は、これを、隠蔽である。 古墳の焚書は700年だが、
廃仏稀釈までやってのけた明治政府は、記紀も改竄したか?
妄想なんだが・・・
281:日本@名無史さん
23/08/01 08:09:23.65 .net
>>273
驚いたな。いまだに不彌国から先へさまよってるのか。
個人的に思うのは自由だけど、特に他の有力候補を挙げられないのなら、
このスレで議論する以上は、日程「魏代の女王之所都」は伊都だね。
里程がわざわざ不彌国まであるのは
「後漢代の女王之所都」が不彌国だったからだろう。
考古学的に考えると、奴国領主の治所は、
・須玖遺跡 那珂川上流の高級住宅地、須玖岡本D地点
・安徳台遺跡 貝輪43甕棺墓
・雀居遺跡 奴国王時代の居館跡
などの候補があり、
その時々の情勢によってこれらの地点が選ばれたのだろうね。
いずれも高台で一般人居住区とは区別されている。
前108年に30国の王国。
金印奴国王とリンクするものとしては、中広形銅矛だね。
伊都国に入れず、南へ南へと進んで鹿児島まで到達している。
「倭國之極南界也」
282:日本@名無史さん
23/08/01 08:45:21.89 .net
卑弥呼は女王で卑弥呼は女王国を治めていたのだから、
宗像や宮地嶽など女王の多い豊国の系統だろうし、
平原遺跡は方形周溝墓で豊国の城野遺跡とも関りがあるだろうしで、
奴国と豊国に挟まれた不彌国が「後漢代の女王之所都」だったと考えられる。
「有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王
侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語
居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻」
後漢書にても卑弥呼宮殿の記載があり、これは不彌国時代の宮殿を示していることになる。
香椎宮もしくは福岡空港の下だろう。
57年金印についても考古学的に付随するデータは出揃っているわけで、
硯、刀子は北部九州に広く分布。
そして雀居遺跡からは使用されていた案(文机)が出土している。
奴国王が木簡を並べて外交文書を作成した案だろう。
この案はポータブルの組み立て式。
つまり奴国王は移動時に筆記用具を携帯していた。
日誌をつけていた可能性が高くなり、
その発言が妙に細かく記録に残っている古代人物がその候補となるわけだな。