邪馬台国畿内説 Part828at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part828 - 暇つぶし2ch50:1
22/11/22 16:46:58.88 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

51:1
22/11/22 16:47:31.09 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52:1
22/11/22 16:48:02.69 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53:1
22/11/22 16:48:33.68 .net
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54:1
22/11/22 16:49:04.38 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。

 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55:1
22/11/22 16:49:38.13 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56:1
22/11/22 16:50:09.82 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57:1
22/11/22 16:50:45.85 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58:1
22/11/22 16:51:16.63 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59:1
22/11/22 16:51:48.46 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60:1
22/11/22 16:52:21.99 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

61:1
22/11/22 16:53:01.41 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安~齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62:1
22/11/22 16:53:31.96 .net
◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63:1
22/11/22 16:54:03.37 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64:1
22/11/22 16:54:40.46 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
URLリンク(i.imgur.com)
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65:1
22/11/22 16:55:11.19 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

66:1
22/11/22 16:55:42.58 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67:1
22/11/22 16:56:13.58 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68:1
22/11/22 16:56:45.79 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 URLリンク(i.imgur.com)
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

69:1
22/11/22 16:57:16.72 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70:1
22/11/22 16:57:47.94 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71:1
22/11/22 16:58:21.81 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72:1
22/11/22 16:58:52.47 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73:1
22/11/22 16:59:24.54 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74:1
22/11/22 16:59:57.14 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。
 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 URLリンク(i.imgur.com)
同空撮 URLリンク(i.imgur.com)
建物B空撮 URLリンク(i.imgur.com)
Dより西を望む URLリンク(i.imgur.com)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

75:1
22/11/22 17:00:31.45 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76:日本@名無史さん
22/11/22 18:14:34.22 .net
とりあえず九州説諸君
どうして毎日そんなに異常な嘘ばかりつくのか是非とも理由を聞きたいんだが
答えを聞かせてくれよ

77:日本@名無史さん
22/11/22 18:14:54.11 .net
畿内説がやたら大袈裟に騒ぐ纒向ですが実際は・・・
■長い年月と税金を費やしてきた発掘調査の成果
[佐賀県]
吉野ヶ里の大型建物と人
URLリンク(i.imgur.com)
吉野ヶ里周辺建物と人
URLリンク(i.imgur.com)
[奈良県]
纒向の大型建物
URLリンク(i.imgur.com)
纏向の大型建物の柱と人
URLリンク(i.imgur.com)

78:日本@名無史さん
22/11/22 18:18:17.64 .net
>>76
まず、お前から。

79:日本@名無史さん
22/11/22 18:18:53.51 .net
>>77
吉野ケ里の方が立派に見えるけど柱の本数が違いすぎる

80:日本@名無史さん
22/11/22 18:18:55.99 .net
>>77
なんか文句でもある?

81:日本@名無史さん
22/11/22 18:22:00.22 .net
>>79
頑強さが重要
纒向は柱は細く柱穴も浅く貧弱
高貴な人が住める代物では無い

82:日本@名無史さん
22/11/22 18:22:58.64 .net
>>78
これな
URLリンク(i.imgur.com)
こんな見え見えの捏造するのって、頭のおかしい九州説信者だろ
記事を見れば「歴博 独自データで判断!」 と報道されたのは
jcalのことで、これがintcal20に取り入れられたと書かれているのはひと目で解るんだから
「独自データーとは"想像"ですw」と書き込んだ九州説男は
異常な嘘つきだ
なぜ九州説はこんなに嘘ばかりつくのか?

83:日本@名無史さん
22/11/22 18:23:30.67 .net
>>80
桜井市民が税金返せって
そんな金の使い方するなら台風被害の補償しろって

84:日本@名無史さん
22/11/22 18:23:39.78 .net
>>81
どっちも倉庫だよ。  わははははは   @阿波

85:日本@名無史さん
22/11/22 18:24:33.58 .net
>>82
独自データwww

86:日本@名無史さん
22/11/22 18:25:15.45 .net
>>83
それ吉野ケ里に言ってやれ

87:日本@名無史さん
22/11/22 18:26:22.12 .net
>>83
それ、証拠ある?
九州説って嘘づけ人間?

88:日本@名無史さん
22/11/22 18:26:53.83 .net
>>87
リアルだが?

89:日本@名無史さん
22/11/22 18:28:49.28 .net
実物がどんなのか分からんのに何考えてあんなの建ててんだ?

90:日本@名無史さん
22/11/22 18:30:10.34 .net
>>88
証拠は?

91:日本@名無史さん
22/11/22 18:30:36.40 .net
>>89
過去スレに書いてある

92:日本@名無史さん
22/11/22 18:32:15.02 .net
>>90
しらばっくれるな

93:日本@名無史さん
22/11/22 18:33:50.17 .net
>>89
纏向遺跡出土の土器に描かれていた絵を参考に建てている。

94:日本@名無史さん
22/11/22 18:35:05.16 .net
>>93
ますます酷い
関係ねえじゃん

95:日本@名無史さん
22/11/22 18:35:46.08 .net
>>93
あれ、倉庫だよ。  わははははは   @阿波

96:日本@名無史さん
22/11/22 18:37:57.10 .net
>>93
唐古鍵遺跡だろ
柱穴の直径や深さ、敷石からだいたいどのぐらいの高さの建物だったかはわかるんだから大きさ自体はあんなもんだろう
形状は土器の絵を元にしたとHPにも書いてある

97:日本@名無史さん
22/11/22 18:39:14.16 .net
>>92
このように、九州説信者は嘘をつくのがデフォ

98:日本@名無史さん
22/11/22 18:39:50.08 .net
しかも案を出したのは畿内説の寺澤だろ

99:日本@名無史さん
22/11/22 18:40:34.20 .net
倉も重要な食物やお宝を保存する最重要な建物だよ、バカにしてるの?

100:日本@名無史さん
22/11/22 18:40:36.00 .net
>>95
銅鐸にも、倉庫が描かれているだろ? 当時は食料に関するものが主役だ。  
これ、常識。
トンデモどもは、非常識。   @阿波

101:日本@名無史さん
22/11/22 18:41:50.45 .net
>>97
纒向ガイダンス計画中止の話を聞いてないのか?
小さく報道されてたのに

102:日本@名無史さん
22/11/22 18:42:06.95 .net
>>82みたいな九州説の捏造ぶりはどんよ
異常だろ

103:日本@名無史さん
22/11/22 18:42:10.12 .net
>>99
だから、王宮などと言うな!  たわけ!   @阿波

104:日本@名無史さん
22/11/22 18:43:35.93 .net
>>99
倉だと二階部分ないだろ

105:日本@名無史さん
22/11/22 18:43:53.24 .net
>>98
なんの案を?
九州説、また捏造?
異常者そのものじゃないか

106:日本@名無史さん
22/11/22 18:45:29.34 .net
>>96
素早い訂正ありがとう、唐古鍵遺跡でしたね。

107:日本@名無史さん
22/11/22 18:46:18.86 .net
>>101
>纒向ガイダンス計画中止の話を聞いてないのか?

つまり、お前のカキコ>>83は捏造

108:日本@名無史さん
22/11/22 18:46:58.76 .net
矢倉(櫓)は武器庫でもあるから、まあええんでないの?

109:日本@名無史さん
22/11/22 18:50:49.88 .net
九州説なんでそんな毎日のように捏造すんの?
捏造してないと死んじゃう病?

110:日本@名無史さん
22/11/22 18:51:31.75 .net
>>104
>倉だと二階部分ないだろ

二階部分? 倉庫なんだから、床はあるわな。 地べたに食料は置いとけんからな。   @阿波

111:日本@名無史さん
22/11/22 18:54:33.31 .net
>>104
銅鐸にも、倉庫が描かれているだろ? 当時は食料に関するものが主役だ。  
これ、常識。
トンデモどもは、非常識。   @阿波

112:日本@名無史さん
22/11/22 18:59:03.96 .net
九州説の人はヘビースモーカーと一緒で、間断なく嘘ついてないと禁断症状出ちゃうんじゃないの0か?

113:日本@名無史さん
22/11/22 19:01:58.12 .net
相変わらず現実逃避しまくってるな畿内説壺売りが

114:日本@名無史さん
22/11/22 19:31:38.62 .net
>>111
トンデモどもと言うより、元凶は畿内と九州の御用学者どもなんだなww
ミーハーどもが、追随している構図かww   @阿波

115:日本@名無史さん
22/11/22 19:36:02.54 .net
>>107
このスレにして情弱すぎねえか?
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

116:日本@名無史さん
22/11/22 19:39:55.92 .net
>>115
つまり>>83
>桜井市民が税金返せって
>そんな金の使い方するなら台風被害の補償しろって

は、嘘つき九州説男の捏造

117:日本@名無史さん
22/11/22 19:44:50.21 .net
>>116
いや事実だよ
おれの知り合いだから

118:日本@名無史さん
22/11/22 19:45:03.65 .net
>>81
それも邪馬台国の一部だよ
なんせ、近畿一帯だからね。
可7万戸と見積もる

119:日本@名無史さん
22/11/22 19:46:04.00 .net
畿内説はたしかに正直かも知れん
魏志倭人伝を持ち出すと全く整合しないことがバレるから、「強大な権力」(笑)とかどこにも書いてないファンタジーを持ち出した
ベニバナ(笑)とか桃の種(笑)とかも文献で検証できない無敵のファンタジー 笑

120:日本@名無史さん
22/11/22 19:47:46.64 .net
魏志倭人伝から完全に自由な畿内説
無限に広がる空想 笑

121:日本@名無史さん
22/11/22 19:48:37.64 .net
九州説はまじめに魏志倭人伝と照らし合わせるから大変だわ 
ことごとく整合するけど 笑

122:日本@名無史さん
22/11/22 19:48:45.50 .net
邪馬台国近畿一帯説
卑弥呼は共立で九州
なら魏志倭人伝にピッタリだよ

123:日本@名無史さん
22/11/22 19:49:32.79 .net
纒向遺跡は強大な権力だから邪馬台国です 笑

124:日本@名無史さん
22/11/22 19:50:11.15 .net
あれ?
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡を調査中の同市纒向学研究センターは1日、
方位や中心軸をそろえて立ち並んでいたと考えられていた3世紀前半の建物群4棟のうち、1棟について
「存在しない」と従来の見解を修正した。

125:日本@名無史さん
22/11/22 19:51:53.92 .net
あれ?3世紀後半?
【参考】
大和国家の成立
3世紀後半に、現在の奈良県の大和、大阪府の河内、和泉地域の豪族が連合して大きな政権である大和国家をつくった。
この大和国家の政府を大和朝廷と言う。
大和朝廷では大王を中心にして政治が行われ、4世紀までに大和地方を統一し、5世紀ごろまでには九州から東北地方南部までをその支配下に治めた。
大和朝廷では、豪族たちが大王から朝廷での役職を表す臣・連などの称号を与えられ、役人としての仕事をした。
また、地方の有力な豪族に国造などの称号を与え、地方の政治を行わせた。
なお、大和は古事記や日本書紀には漢字で明記されておらず、漢字で大和と表記するのは適切ではないという説もある。

126:日本@名無史さん
22/11/22 19:52:38.96 .net
里数後に郡に戻り今後は日数とか 笑

127:日本@名無史さん
22/11/22 19:54:30.21 .net
纒向遺跡の強大な権力者は交易もしていない見ず知らずの筑紫に一大率を派遣している 笑

128:日本@名無史さん
22/11/22 19:55:30.62 .net
>>127
それは畿内説だよ。

129:日本@名無史さん
22/11/22 19:55:51.07 .net
見ず知らずの土地に役人を派遣するんだから確かに強大な権力者だわ 笑

130:日本@名無史さん
22/11/22 19:56:48.28 .net
>>128
はい、畿内説をバカにしています 笑

131:日本@名無史さん
22/11/22 19:57:27.73 .net
2世紀後半~3世紀前半:卑弥呼時代
    ~266年:臺与時代
3世紀後半~4世紀前半:纏向時代
            河内に引っ越し?
4世紀末↓  :弓月君たち?
奈良県高取町
URLリンク(www.asahi.com)
大壁建物が4世紀末~5世紀初めに築かれ、渡来人の同町への移住時期が100年近くさかのぼる可能性が出てきた

132:日本@名無史さん
22/11/22 19:59:49.26 .net
邪馬台国近畿一帯説
邪馬台国には力はない。
卑弥呼にあるのである。
派遣は大倭、一大卒は置くのである

133:日本@名無史さん
22/11/22 20:00:57.49 .net
唐古鍵遺跡も伊勢遺跡も纒向遺跡も九州とは殆ど交易していない
大和と筑紫は赤の他人 笑

134:日本@名無史さん
22/11/22 20:05:34.90 .net
女王国より以北は伊都国の一大率が検察している
筑紫の伊都国から山城や近江を検察しているということか
毎日新幹線で出張やな 笑

135:日本@名無史さん
22/11/22 20:06:18.32 .net
九州にも近畿、東海系の土器が出土
鉄、銅、翡翠、絹の伝播
妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡
日本海ルート、交流はある。

136:日本@名無史さん
22/11/22 20:06:28.78 .net
畿内説の人、本当に魏志倭人伝読んだことある? 笑

137:日本@名無史さん
22/11/22 20:07:14.78 .net
>>129
>見ず知らずの土地に役人を派遣するんだから確かに強大な権力者だわ 笑
九州説患者は絶えず捏造してないと死んじゃう病

138:日本@名無史さん
22/11/22 20:12:01.30 .net
この辺も面白いな
■旧唐書
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
・倭国条(~631年の記録):倭国は古の倭奴国なり。
 倭奴国とは、金印が発見された福岡を中心とした国家だった
・日本条(701年~の記録):日本は倭の別種なり。
 遣唐使の説明に「かつて日本は小国だったが倭国を併合した」とある
 別国だったと知っていたからこそ出た言葉である
【参考】倭国の使者と日本の使者がはちあわせ?
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■新唐書(日本と擦り合わせを行い改定)
其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。
彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。
■まとめ
倭の王は32世まで筑紫城に居たが、大和へ移動し天皇を名乗った

139:日本@名無史さん
22/11/22 20:20:08.36 .net
>>138
>遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
>中国で争いを起こしたと書かれている
捏造
別倭種(日本国)の使節団とか書かれていない
九州説は捏造やりすぎ

140:日本@名無史さん
22/11/22 20:27:18.94 .net
邪馬台国かどうかは魏志倭人伝とどれだけ整合するか、が重要
炭素年代法でどれだけ古いかとかどれだけ強大な権力かとかではない 笑

141:日本@名無史さん
22/11/22 20:27:55.85 .net
あらら?
「歴博 独自データで測定」のその後
URLリンク(i.imgur.com)
箸墓古墳の塀や堤から出土した土器に付着したススや炭化した煮こぼれに含まれる炭素14で年代を測定したという
アホやろこいつw

142:日本@名無史さん
22/11/22 20:33:43.86 .net
箸墓古墳に塀があるとか、九州説って馬鹿だろ

143:琪瑛教祭酒
22/11/22 20:34:21.34 .net
何を言ってるんだか、馬鹿馬鹿し過ぎて相手にならない。
纏向が女王の都とする所。
箸墓が卑弥呼のお墓。
倭奴国、伊都は卑弥呼の派遣している刺使に治められてる状態の国。大乱で九州は力を失ったんだよ。金印がホンモノなら滅んでる。
一大率は、五斗米道の姦令の役どころ。
大倭は弟だろ。卑弥弓呼、河内だな。
卑弥呼の宮は、臺、道観でいわば伊勢神宮だよ。

144:日本@名無史さん
22/11/22 20:34:42.66 .net
>>141
捏造連発九州説w

145:日本@名無史さん
22/11/22 20:36:27.64 .net
奈良から北を検察させるために一大率を福岡に派遣したと考える畿内説も相当な馬鹿 笑

146:琪瑛教祭酒
22/11/22 20:39:01.64 .net
中華でも行われてる。

147:日本@名無史さん
22/11/22 20:40:06.14 .net
邪馬台国を畿内と考えると魏志倭人伝とことごとく矛盾する
北部九州と考えるとことごとく整合する
畿内説が魏志倭人伝を無視して強大な権力とかを持ち出すのもわかる 笑

148:琪瑛教祭酒
22/11/22 20:43:07.31 .net
まったく矛盾しない。
甕棺、内向花文鏡と卑弥呼は関係無い。

149:日本@名無史さん
22/11/22 20:46:18.63 .net
三角縁神獣鏡、ベニバナ、桃の種、強大な権力
畿内説は魏志倭人伝ガン無視 笑

150:日本@名無史さん
22/11/22 20:46:55.46 .net
>>141
今から20年前の公式調査でも260〜280頃築造と発表されてきた箸墓が
240〜260年築造と報告されたら
「これまでより百年以上早いと発表」
などとウソついちゃう九州病ピープルって
マジ脳に蛆湧いてるよな

151:日本@名無史さん
22/11/22 20:48:31.36 .net
>>149
無視していない
整合している

152:日本@名無史さん
22/11/22 20:48:59.93 .net
魏志倭人伝をないものと考える畿内説はどこまでも自由だ
畿内説最強 笑

153:日本@名無史さん
22/11/22 20:49:32.62 .net
俺も畿内説になろうかな
無敵になれそうだ 笑

154:日本@名無史さん
22/11/22 20:50:19.70 .net
>>147
>邪馬台国を畿内と考えると魏志倭人伝とことごとく矛盾する
>北部九州と考えるとことごとく整合する
具体的な内容がまったく言えない九州脳の貧困

155:日本@名無史さん
22/11/22 20:52:43.54 .net
>>153
纏向説明会なんてまさにテレビでやってた統一教会のアレと同じ空気だぞw

156:日本@名無史さん
22/11/22 20:53:12.05 .net
普通に百年の幅が出る炭素年代法で箸墓はAD240~260の築造とのたまう畿内説
どこまでも自由 笑

157:日本@名無史さん
22/11/22 20:53:20.65 .net
>>152
>魏志倭人伝をないものと考える畿内説は
九州説の人って
何分間ごとに嘘つかないと死ぬの?
短かすぎw

158:日本@名無史さん
22/11/22 20:55:42.03 .net
>>156
>普通に百年の幅が出る炭素年代法で
捏造藁

159:日本@名無史さん
22/11/22 20:55:48.40 .net
何も無い纒向に固執してる考古学者ども
こう言うところもしっかり掘れよw
黒神埋没鳥居(鹿児島県 桜島)
URLリンク(i.imgur.com)

160:琪瑛教祭酒
22/11/22 20:56:44.30 .net
卑弥呼の鬼道の推察から出てきた物だろ、神獣鏡は神仙思想及び魏の年号が入っているからだろ。
倭人伝になんら関係無い話所か、証拠固めとも言える訳だ。専門家達は立証が必要だからな。俺のような者は専門家の話を参考に文献だけで充分、箸墓が卑弥呼の墓と推察できるのだよ。
ホトを刺したりしている以上、間違いなく、道教の指導者の墓なんだよ。
もう、誤魔化しは効かないと思うね。

161:日本@名無史さん
22/11/22 20:58:06.15 .net
ヤマトは [ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族
黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、
大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば
[ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族によって
[ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を
野蛮な風習とみなしたためとされました。

162:日本@名無史さん
22/11/22 20:59:06.77 .net
>>160
笑いどころ多すぎて息つきしんどいw

163:日本@名無史さん
22/11/22 21:00:48.48 .net
呉の技術で作り魏の年号を入れた100%国産の三角縁神獣鏡 笑

164:日本@名無史さん
22/11/22 21:01:09.65 .net
>>150
「一方で箸墓古墳の『前方後円墳形式』は、これまで四世紀以降の古墳時代の築造と考えられてきた」だって
w
おかひー腹いてえ
「これまで」って、キミたち1960年台からタイムスリップしてきたの?
すげえオールドタイマーいたよw

165:琪瑛教祭酒
22/11/22 21:02:12.95 .net
>>162、あなたは学者肌でもなく、向いてない世界だとおもうよ。

166:日本@名無史さん
22/11/22 21:02:50.10 .net
効いてる効いてるw

167:日本@名無史さん
22/11/22 21:03:14.34 .net
>>163
>呉の技術で作り魏の年号を入れた100%国産の三角縁神獣鏡 笑
ニセ情報ワラタ

168:日本@名無史さん
22/11/22 21:04:49.92 .net
>>165
どれが奈良?
●魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年~) 上狛古墳 京都府山城町?
●呉の年号が記された鏡
平縁神獣鏡 赤烏元年(238年) 狐塚古墳 山梨県三珠町
平縁神獣鏡 赤烏七年(244年) 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市

169:日本@名無史さん
22/11/22 21:06:37.59 .net
>>167
ということにしないよな
三角縁神獣鏡の僅かな可能性に賭ける畿内説 笑

170:日本@名無史さん
22/11/22 21:08:18.53 .net
記紀は、4世紀ころ天皇が自ら遠征して、ヤマト軍と九州軍がさかんに戦ったことを描いています。
邪馬台国畿内説によれば、3世紀にはすでに、伊都国や奴国など北九州の主要国家も
邪馬台国の傘下に置かれていたはずなのに、
なぜ敵として戦っていたのでしょう?
矛盾してますよね?

171:日本@名無史さん
22/11/22 21:09:36.64 .net
あったあった
骨卜・亀卜の起源
古くは新石器時代の竜山文化期から、もしくは甲骨文字でも知られる古代中国の殷代にその起源が遡るとされています。
『古事記』の国生み神話に「布斗麻邇爾卜相(ふとまに卜相ひて)」とあり、また『日本書紀』には
「天神以太占而卜合(天神太占を以ちて卜合ひたまひ) 」とあります。
これら『記・紀』の記述を鵜呑みにするのであれば、太占は神代から既に日本に存在していたことになります。

172:日本@名無史さん
22/11/22 21:11:28.00 .net
>>168
>どれが奈良?
正始元年鏡 桜井茶臼山古墳

173:琪瑛教祭酒
22/11/22 21:14:17.40 .net
卑弥呼は自前だよ。馬鹿か。

174:日本@名無史さん
22/11/22 21:15:04.88 .net
>>170
>記紀は、4世紀ころ天皇が自ら遠征して、ヤマト軍と九州軍がさかんに戦ったことを描いています。
まあ4世紀に天皇なんていないけどな

175:日本@名無史さん
22/11/22 21:17:43.59 .net
纒向だけ異常な発表を繰り返してきたわけだ
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
木製馬具に関する見解
「木製鐙が開発されたと考えられている高句麗周辺の壁画古墳からは5世紀以降にならないと木製鐙が確認されない。
鐙が朝鮮半島に伝わった時期を考慮してもこれを4世紀前半とするには疑わしく、百済が中央集権国家になったのは4世紀半ば以降であることからも、
この木製鐙は4世紀半ば以降とする方が妥当である。
さらにこれが日本に伝わった時期を考慮すると箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし5世紀以降とする方が望ましく、
その特徴が後世的であることもこれを裏付けるものとなっている。」

176:琪瑛教祭酒
22/11/22 21:20:23.23 .net
倭人伝に4世紀の倭国の事なぞ無い。まったく倭人伝とは矛盾していない。
紀元前に筑紫は無い、何の本だ?

177:日本@名無史さん
22/11/22 21:21:16.58 .net
忘れちゃいけない侏儒国の位置
URLリンク(i.imgur.com)

178:琪瑛教祭酒
22/11/22 21:23:50.40 .net
地理は15世紀の海東諸国記図でも出鱈目な認識だよ。自ら行っていてもね。

179:日本@名無史さん
22/11/22 21:24:07.72 .net
『朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。
しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、
それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。』

180:日本@名無史さん
22/11/22 21:26:15.36 .net
>>175
>纒向だけ異常な発表を繰り返してきたわけだ
別に何も異常ではないが?

181:日本@名無史さん
22/11/22 21:27:02.70 .net
>>178
15正規の地図がデタラメ?
会稽東冶の東と記載されている地域は、ちょうど九州あたりです。
「混一疆理歴代国都之図」
URLリンク(i.imgur.com)

182:日本@名無史さん
22/11/22 21:28:55.63 .net
>>179
>『朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
納得のいく説明だな

183:日本@名無史さん
22/11/22 21:30:26.13 .net
>>1
おい、5ちゃんねるを活発化させるために努力しているプロ固定の無職、奥山氏よ。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。

184:日本@名無史さん
22/11/22 21:30:31.41 .net
纒向民はもっと史書をしっかり読むべし
~ 中国史書に記された卑弥呼時代 ~
魏志韓伝によると、ちょうど鉄器時代ということもあり、
半島では中国に供給できるほどの鉄が取れ、倭人たちも
鉄を求めてやって来ていた様子が描かれている。
(弥生時代の鉄器出土量)
URLリンク(i.imgur.com)
卑弥呼とは、倭国大乱で対立していた国々によって共立された女王である。
その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。
しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、戦争が勃発していた。
海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。
少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。
なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。
AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。
そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。
しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。

185:日本@名無史さん
22/11/22 21:31:48.34 .net
>>182
日本産の銅が出現するのは8世紀以降
それ以前の青銅品は古い中国産青銅品のリサイクル

186:日本@名無史さん
22/11/22 21:39:03.22 .net
>>184
図のように
山陰、丹後等にも鉄
倭国の範囲は広いのである。

187:日本@名無史さん
22/11/22 21:39:53.42 .net
まるで纒向に卑弥呼の宮殿があり、祭祀の時に桃が献上されていたなどと印象操作しまくりの纒向見学でしたが
桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
URLリンク(i.imgur.com)
建物とお供え物の桃が同時期に存在したわけではない

188:日本@名無史さん
22/11/22 21:40:28.78 .net
>>186
やっぱ、邪馬台国は近畿一帯だな。

189:日本@名無史さん
22/11/22 21:41:55.02 .net
邪馬台国は、正しくは、邪馬壹國だったな。
そして、壹与は、正しくは、壹與なのだったな。
そして、三国志という書物では、東治と東冶は、完全に書き分けられているよ。

190:日本@名無史さん
22/11/22 21:42:45.04 .net
>>185
>それ以前の青銅品は古い中国産
だという確証はない。
忌部の郷 高越山産なんだろう。   @阿波

191:日本@名無史さん
22/11/22 21:43:01.53 .net
>>186
おそらく渡海ルートが2系統あったんだよ
渡って来た人のDNAにも違いがある
呉越から直接日本に渡ってきた倭人は北部九州に邪馬台国をつくった
同じ倭人でも一旦半島を経由した人は弥生人となり、近畿へ入植したもよう(4世紀頃)
参考:ハプログループ
URLリンク(i.imgur.com)
O1b2(L682) 半島系固有のDNA
URLリンク(i.imgur.com)

192:日本@名無史さん
22/11/22 21:45:25.64 .net
アホ考古学者は>>191のような側面は全く考慮していない
自分の妄想を膨らませてばかりいる

193:日本@名無史さん
22/11/22 21:49:44.61 .net
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
データ古いけど

194:日本@名無史さん
22/11/22 21:50:02.75 .net
いちおう嫁
「自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫」
中国に来た倭人はみな呉・越の出身と言っていた

195:日本@名無史さん
22/11/22 21:52:42.39 .net
>>193
他人の古墳に入ってた副葬品をカウントしただけだろ
鉄器文化が存在した地域というのはは鉄製の農具や工具が出土する地域
刀子がよく出土する地域だ
生活必需品だからな

196:日本@名無史さん
22/11/22 21:54:13.20 .net
>>183
↓これの最新版は無いのかい?
邪馬台国が畿内である証拠(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。

197:琪瑛教祭酒
22/11/22 21:56:53.77 .net
>>184.これが九州説かい?

198:日本@名無史さん
22/11/22 21:58:05.85 .net
>>187
>桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
言ってることが調査結果と違うね
公的機関の発表を信じるよ

199:日本@名無史さん
22/11/22 21:59:36.19 .net
>>189
>そして、三国志という書物では、東治と東冶は、完全に書き分けられているよ。
証拠なし

200:日本@名無史さん
22/11/22 22:01:14.29 .net
>>196
九州説信者の頭の悪さがよく出ていますね

201:日本@名無史さん
22/11/22 22:02:26.42 .net
>>198
新聞より(毎日だったかな)
桃の種が埋まっていたのは柵の下
URLリンク(i.imgur.com)

202:日本@名無史さん
22/11/22 22:02:29.52 .net
纏向遺跡
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、魏志倭人伝に記載されている鉄器も僅かしか出土していないことから、この遺跡では大陸との交易は乏しかったと類推されている。
交易しないのに九州に置いた一大卒 笑
大陸と交易しない親魏倭王 笑

203:日本@名無史さん
22/11/22 22:03:52.01 .net
纒向遺跡は九州とも大陸とも交易しないけど強大な権力だから邪馬台国 笑

204:日本@名無史さん
22/11/22 22:04:13.98 .net
>>197
最新はこちら
■【最新】近畿説は無理です
2世紀頃、倭国大乱後に卑弥呼が女王となった事は中国でも話題となり、倭国に関する情報が多々存在していた。
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国での伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。(隋書 琉球伝と同様)
陳寿はそれらの情報を精査し魏志倭人伝の下書きを作成していた。
そこへ女王国から倭人が朝貢に来たので更なる情報を要求したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)を要します
行程図:URLリンク(i.imgur.com)
倭の国々:URLリンク(i.imgur.com)
倭人が半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいる事を知らなかった陳寿は
位置関係がよく分からず既存の行程の後にそのまま追記してしまった。
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島を指すと解釈すれば西日本全域何処とも考えられる。
しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は西日本の中でも最も西に位置するはずである。
東には海が有りそれを渡るとまた倭種の国があった。そして南に狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
■半島南部が投馬国
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
URLリンク(nazology.net)
■文献記録
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)

205:日本@名無史さん
22/11/22 22:05:32.67 .net
魏志倭人伝によると邪馬台国では鉄鏃を使う
鉄鏃がいつのまにか溶けて無くなった纒向遺跡 笑

206:日本@名無史さん
22/11/22 22:06:44.29 .net
形が違うそうです
福岡市の那珂八幡古墳 北部九州独自の形状(纏向とは無関係)
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)

207:日本@名無史さん
22/11/22 22:11:50.26 .net
>>205
>魏志倭人伝によると邪馬台国では鉄鏃を使う
いやー、倭人伝にそんなこと書いてないな

208:日本@名無史さん
22/11/22 22:12:42.42 .net
【最新】纒向説1
魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた大倭という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります
纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます

209:日本@名無史さん
22/11/22 22:16:06.43 .net
【最新】纏向説2
奈良盆地はもともと墓場として利用されており、大型古墳を建造する際には大型宿泊所(平屋)を設置し、大勢の労働者がシフト制で古墳建造に従事していたものと思われます。
【参考】唐古・鍵遺跡の変遷
■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。
■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。

210:日本@名無史さん
22/11/22 22:16:35.82 .net
>>207
>木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくせん)は或は鉄鏃(てつぞく)、或は骨鏃なり。
魏志倭人伝(読み下し)
URLリンク(kotobank.jp)

211:日本@名無史さん
22/11/22 22:18:29.16 .net
>>206
「纏向とは無関係」ってウソなw
完成に向かう中間形態
URLリンク(i.imgur.com)

212:日本@名無史さん
22/11/22 22:21:59.14 .net
>>201
あんたの作り話より、現場を調査した公的機関の発表を信じるね

213:日本@名無史さん
22/11/22 22:24:05.25 .net
>>210
ほらね
「魏志倭人伝によると邪馬台国では鉄鏃を使う 」
は作り話

214:日本@名無史さん
22/11/22 22:24:47.51 .net
>>212
まあ毎日新聞や朝日新聞は信用しない方がいいかもしれんなw

215:日本@名無史さん
22/11/22 22:30:19.13 .net
>>213
はあ?
他の畿内説の皆さん、こいつ大丈夫?笑

216:日本@名無史さん
22/11/22 22:30:30.73 .net
「其餘旁國遠絶 不可得詳」な国も鉄器文化がしっかり浸透していますね
1700年前の鍛冶工房跡、大村・帯取遺跡から 鉄器を再加工?/長崎県
URLリンク(mainichi.jp)
・富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭~後期前半)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された

217:日本@名無史さん
22/11/22 22:31:22.72 .net
>>214
まあ新聞が嘘をついてるんじゃなくて>>201 が作り話をしてるだけだけどな
九州説人間は嘘以外言わないんじゃないのかな

218:日本@名無史さん
22/11/22 22:35:04.91 .net
魏志倭人伝に記載されている鉄鏃が出ない、一大率を派遣したはずの九州と交易がない、朝貢したはずの大陸と交流がない纒向遺跡
考古学界がいつまで邪馬台国だと言い張るか見もの 笑

219:日本@名無史さん
22/11/22 22:36:18.72 .net
>>217
俺の作り話じゃないんだけど?
産経なら信じるか?w
URLリンク(www.sankei.com)

220:日本@名無史さん
22/11/22 22:37:35.84 .net
>>215
>他の畿内説の皆さん、こいつ大丈夫?笑
反論できない九州説また敗退

221:日本@名無史さん
22/11/22 22:37:43.94 .net
冗談でも何でもなく、日本の考古学界はガチで馬鹿だと思う
ベニバナ笑
桃の種 笑
強大な権力 笑

222:日本@名無史さん
22/11/22 22:38:29.99 .net
魏志倭人伝に記載されている鉄鏃が出ない纒向遺跡 笑

223:日本@名無史さん
22/11/22 22:39:44.59 .net
>>222
出ないって証拠は?

224:日本@名無史さん
22/11/22 22:41:00.66 .net
>>221
>冗談でも何でもなく、日本の考古学界はガチで馬鹿だと思う
冗談でしょう
理由が言えないならw

225:日本@名無史さん
22/11/22 22:42:20.12 .net
>>224
たまには正直に言えよ
「ベニバナ花粉」は笑うとこやろ?w

226:日本@名無史さん
22/11/22 22:43:30.55 .net
>>219
>産経なら信じるか?w
お前の嘘を信じないだけ

227:日本@名無史さん
22/11/22 22:44:00.02 .net
>>215
伊勢遺跡の引き籠りだから無視した方がいいよ

228:日本@名無史さん
22/11/22 22:45:34.70 .net
>>223
ああ、副葬品や埋葬の形式から4世紀と考えられるボケノ山古墳からは出てるね

229:日本@名無史さん
22/11/22 22:45:45.11 .net
>>225
笑う理由がない

230:日本@名無史さん
22/11/22 22:51:54.34 .net
>>228
ホケノ山は3世紀前半の古墳ですが

231:日本@名無史さん
22/11/22 22:51:57.14 .net
>>226
どこ?
その嘘って
引っ込みつかなくて引きこもってるのか?w

232:日本@名無史さん
22/11/22 22:53:33.45 .net
ここまで畿内説の合理的、具体的反論無し

233:日本@名無史さん
22/11/22 22:54:59.58 .net
畿内説の宣伝係やるには百年早いな
交代してやろうか?w

234:日本@名無史さん
22/11/22 22:56:26.89 .net
基準を示してないから比較できないのよね

235:日本@名無史さん
22/11/22 22:57:11.17 .net
>>232
>ここまで畿内説の合理的、具体的反論無し
これも嘘


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch