22/12/26 00:25:56.41 .net
頭がリセットされるようで何度も言いますが、
白村江で敗れた扶余勇が倭国に亘りました、
多くの百済貴族とともに。663年のことです。
天智紀に朝鮮山城や水城がその頃百済将軍によって造られていることが書かれています。
51kmの羅城も造られて一部発掘されています。百済の首都の羅城のようなものです。
これらを作った最高責任者は扶余勇で、
彼をアメミコトワケノヒラカススメラミコトと後に諡号したと見るのが
もっとも合理的ですがいかがですか?
このことはくわしく説明しましたし
議論もしてあなたはぐのねもでませんでしたが、
まだわからずにいるのですか。どうしようもない統失ですね。