邪馬台国畿内説 Part807at HISTORY邪馬台国畿内説 Part807 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト700:日本@名無史さん 23/02/21 08:21:33.94 .net 寺沢薫 「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」 701:日本@名無史さん 23/02/21 08:22:44.23 .net 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。 最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、 高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。 これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。 倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。 邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。 西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。 卑弥呼の前の男王の時代70~80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか? 魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。 金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。 それには卑弥呼も含まれる。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch