23/02/20 18:55:06.00 .net
>>688
古代日本、古墳、平安期迄の支配体制の構造は、
軍事統一と言える信長まで
面での支配ではなく、支配者の点の連携である。
魏の東夷政策は、呉と結んだ公孫氏を滅ぼし、
直後に朝貢した卑弥呼と同盟の後、韓王朝を滅ぼした。
魏の東進は、200BCからの青銅輸入、
植民、鉄輸入等親交が有った日本には受け入れられない。
卑弥呼=筑紫21国が、魏帝の檄、黄幢を蹴って
三国志に参戦しなかったのは、半島の次は九州という
対魏覇権主義防衛の必然性で、日本海ルート、本州勢力と
軍事共合する必然性が有ったからである。
これが、防人=一大率の役割である。
この間、九州と本州が戦争とか、東遷とか
そんな余裕は存在してはいない。
筑紫周辺21国は、壹與の後見、難升米他の将軍?
の合意で、本州と対魏防衛で結束したのである。
世界史レベルで、
大和朝廷成立に到る最大のイベントなんだが?
なんで、どーでもいい、
探検時の仮称国名(筑紫21国)邪馬台国での
畿内対九州論争なの?