邪馬台国畿内説 Part807at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part807 - 暇つぶし2ch600:日本@名無史さん
23/01/09 16:43:57.02 .net
>>595
非時香果は垂仁天皇だろ?

601:日本@名無史さん
23/01/09 16:46:11.30 .net
>>600
>非時香果は垂仁天皇だろ?
という説もあるが、間違いだろう。   @阿波

602:日本@名無史さん
23/01/09 16:46:22.32 .net
>>599
イザナギ 立証できない
記紀の世界だな。証拠すらならない

603:伊太乃に居たの
23/01/09 16:47:02.36 .net
>>597
山口県の自生地について一切言及が無いな。
学術的な論文でも無いし、ソースとしては不十分では?

604:日本@名無史さん
23/01/09 16:47:20.27 .net
>>599
>持って来たとしたらイザナギが禊をした橘あたりからだろうね
阿南市橘あたりだな。   @阿波

605:日本@名無史さん
23/01/09 16:49:19.20 .net
>>603
探してみたら?

606:日本@名無史さん
23/01/09 16:50:46.04 .net
>>604
今度はお前が北部九州が「倭地温暖」だというソースを出す番だ。   @阿波

607:日本@名無史さん
23/01/09 16:54:28.96 .net
国司がいる阿波が「常世の国」とか辺境丸出しwww
アホバカにも程がある。

608:日本@名無史さん
23/01/09 16:55:02.57 .net
和歌山、三重
東へ千里渡海 静岡
やっぱ、近畿だな。
丹もある。絹も、ト骨も、鉄もある

609:日本@名無史さん
23/01/09 16:55:38.90 .net
何がイザナギだよ?
みかんぐらい誰でも何処でも運べるわ

610:日本@名無史さん
23/01/09 16:56:18.55 .net
>>595
佐賀の伊万里にあった香橘神社の社伝では垂仁天皇の代に天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬と称された非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘のこと)を持ち帰った田道間守命が帰途この地に非時香菓を一株植えたという言い伝えがあるので阿波には行っていない。阿波からの帰途で佐賀に来る事はない。
URLリンク(i.imgur.com)

611:日本@名無史さん
23/01/09 16:57:29.03 .net
イザナギが云々言うのは間違い説の九州王朝説か阿波説だろう。

612:日本@名無史さん
23/01/09 16:58:14.60 .net
>>609
橘と言う土地の話だよ

613:日本@名無史さん
23/01/09 17:00:35.35 .net
>>612
タチバナと言う土地の話しだったのか

614:日本@名無史さん
23/01/09 17:01:19.24 .net
>>610
田道間守命は、奈良時代の「但馬の守」だ。   @阿波

615:日本@名無史さん
23/01/09 17:01:59.12 .net
佐賀県基山の橘
URLリンク(i.imgur.com)

616:日本@名無史さん
23/01/09 17:06:19.07 .net
>>610
阿波の味方はしませんがそれ嘘です。だいたい神社の創建年は?
本当の由緒は「四十八代称徳帝之御宇、常世ノ国より橘を献す。其船当津に着岸し、岩栗の景勝清浄の地なるを賞して、橘の実を植へ、普陀落観世音の尊像を安置し奉る、 其後、橘ノ嶋田麿歌枕に来て土人に此説を聞て曰、往昔吾祖父諸兄公に橘を賜て始て姓とすれは因縁あり」

617:日本@名無史さん
23/01/09 17:06:50.52 .net
.



投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)



.

618:日本@名無史さん
23/01/09 17:11:17.50 .net
ここまで阿波に橘が生えている証拠無し、写真でもウプしろや

619:日本@名無史さん
23/01/09 17:11:59.71 .net
記紀、神社由来とか立証できるのか?

620:日本@名無史さん
23/01/09 17:15:24.38 .net
>>618
まぁ、「阿波」のタチバナと言えばスダチだな。  わははははは   @阿波

621:日本@名無史さん
23/01/09 17:21:54.52 .net
>>618
三重県
://www.mie30.pref.mie.lg.jp/eat/4944

622:日本@名無史さん
23/01/09 17:22:13.53 .net
みかん一個で邪馬台国とかアホバカ過ぎる。

623:日本@名無史さん
23/01/09 17:23:21.59 .net
>>622
鉄だけで邪馬台国とか阿保過ぎ

624:日本@名無史さん
23/01/09 17:25:37.65 .net
>>620
スダチは黄金色に輝く実ではない、はい論破

625:日本@名無史さん
23/01/09 17:26:08.01 .net
>>623
みかんも鉄も「阿波」なんだけど。  わははははは   @阿波

626:日本@名無史さん
23/01/09 17:27:02.55 .net
>>623
だな。鉄や絹が豊富とかの記述もない。

627:日本@名無史さん
23/01/09 17:27:47.27 .net
>>625
ト骨、絹は?

628:日本@名無史さん
23/01/09 17:28:25.65 .net
前方後円墳と言う記述もない

629:日本@名無史さん
23/01/09 17:28:32.74 .net
竹取物語やね
石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬萊の玉の枝」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持って来させる話があるよね
偽物を持って来たり、両目が李のように腫れたり
蓬莱の玉の枝は常世の木の枝かもね
仏の御石の件は筑紫の君磐井に関係がある?
眼にバチが当たるのは五色の石神の眼に関係してそうだ

630:日本@名無史さん
23/01/09 17:29:34.02 .net
>>624
>スダチは黄金色に輝く実ではない、はい論破
わははははは  まじで食いついてきてるよ。
食いつかれついでに言うと、スダチも熟れると黄金色に輝く実だぞ。   @阿波

631:日本@名無史さん
23/01/09 17:31:53.78 .net
>>620
おいおい、平安宮左近の橘はスダチなのか?

632:日本@名無史さん
23/01/09 17:33:21.61 .net
>>631
そんな後世の平安宮のことなんか知らんがな。  わははははは   @阿波

633:日本@名無史さん
23/01/09 17:33:30.12 .net
日向の髪長姫の件で歌がやりとりされる
いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香細し 花橘 下枝らは 人皆取り 上つ枝は 鳥居枯らし 三栗の 中つ枝の 含隱り 赤れる孃子 いざさかば 良な
橘は真ん中は含隠りして、上と下はもうないようだ
その後道の後、道の後と歌われる 
橘は耳と関係がありそう
髪長姫は赤と関係があるようだね

634:日本@名無史さん
23/01/09 17:35:02.25 .net
阿波とはまともな話は出来ない、時間の無駄だな

635:日本@名無史さん
23/01/09 17:35:33.16 .net
貴族らは王権の象徴を誤魔化して色々罪を重ねて来たようだな

636:日本@名無史さん
23/01/09 17:37:42.01 .net
>>633
橘は道
訂正

637:日本@名無史さん
23/01/09 17:39:41.90 .net
阿波の相手はもう辞めた、達者でな。

638:日本@名無史さん
23/01/09 17:41:21.88 .net
>>634
まぁ、話を元に戻せば
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!ってことだ。   @阿波

639:日本@名無史さん
23/01/09 17:46:10.97 .net
やっぱ、近畿だな

640:日本@名無史さん
23/01/09 17:47:03.48 .net
帯方郡とか楽浪郡に比べれば大概暖かいだろ

641:日本@名無史さん
23/01/09 17:48:05.10 .net
>>637
>阿波の相手はもう辞めた、達者でな。
まともに「阿波」に反論できないからな。 またおいで。  わははははは   @阿波

642:日本@名無史さん
23/01/09 17:48:33.92 .net
>>637
賢明な判断。論破されてもそれを忘れて同じコピペを繰り返すから永久に終わらない。

643:日本@名無史さん
23/01/09 17:48:44.33 .net
>>640
だろうな。   @阿波

644:日本@名無史さん
23/01/09 17:52:51.20 .net
そんな事よりスレ立て係は何やっとるんだ?

645:日本@名無史さん
23/01/09 17:52:55.54 .net
>>642
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!ってことだ。   @阿波

646:日本@名無史さん
23/01/09 17:58:06.08 .net
>>644
爺だぞ。たぶん くたばたかも?

647:日本@名無史さん
23/01/09 18:11:08.58 .net
北部九州説は痰壺
畿内説は壺

648:日本@名無史さん
23/01/09 18:14:25.45 .net
阿波のNG設定が完了しました、スッキリ

649:日本@名無史さん
23/01/09 18:17:50.85 .net
こんな感じでスッキリ、オススメですよ

URLリンク(i.imgur.com)

650:日本@名無史さん
23/01/09 18:18:35.68 .net
日向の髪長姫のお供が角のついた鹿皮の服を着た人たち
兵庫の加古川の由来にもなっている

東北の伝承に出てくる龍の黒神と戦った、鹿使いの赤神と関係があるかもね

651:日本@名無史さん
23/01/09 18:27:36.82 .net
>>646
ナムナム

URLリンク(youtu.be)

652:日本@名無史さん
23/01/10 04:19:05.48 .net
つまり九州説はウソ

653:日本@名無史さん
23/01/11 09:11:40.37 .net
嘘つき畿内説が言う嘘は現実

654:日本@名無史さん
23/01/19 21:54:01.49 .net
畿内説は自説の証明をせず中傷を繰り返すばかり
多説への批判も、訳の分からないことを根拠に妄想を繰り広げる

655:日本@名無史さん
23/01/27 00:01:02.93 .net
やっぱりか??

656:日本@名無史さん
23/02/15 19:15:44.74 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
URLリンク(www.yoshinogari.jp)
伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

657:日本@名無史さん
23/02/19 09:39:30.58 .net
九州説の息の根は止まったか

658:日本@名無史さん
23/02/19 09:46:57.82 .net
継続スレが建たないみたいなので、このスレ有効利用で。
前スレ
邪馬台国畿内説 Part863
スレリンク(history板)

659:日本@名無史さん
23/02/19 18:51:49.07 .net
奥山、畿内説が不利だから寝込んでらのだろう。

660:日本@名無史さん
23/02/19 23:35:53.99 .net
>>656
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)
帯方郡【女王国(九州)島】~【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」~~~~~【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」~
東治┌▲奄美大島┐~
↓~│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580㎞(≒19㎞×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓~│「狗奴国」│~~~
↓~│其余傍之国│~~~
↓~│遠絶・不可│~~~
↓~└─┐得詳┌┘~~~
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)

661:日本@名無史さん
23/02/19 23:36:45.40 .net
東南→北東
南→東
???

662:日本@名無史さん
23/02/19 23:38:04.79 .net
>>660
福岡平野(末盧国←伊都国【一大率】→奴国・不弥国)→女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種
 ↑~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里
筑紫平野(卑弥呼・男弟→祇園山・ダンワラ古墳)
 ↓
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(卑弥弓呼)
JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ!

663:日本@名無史さん
23/02/19 23:43:36.28 .net
帯方郡南に行っても
斉州島 南下しても
海である。

664:日本@名無史さん
23/02/19 23:44:11.17 .net
>>660
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長~い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ~ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆

665:日本@名無史さん
23/02/19 23:45:06.46 .net
>>664の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━┓帯方郡  ┏┛~~~~~~~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~~日本海~~
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~~~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行10日」~~~~┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘~~~~~~~┗━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行10日」┐関門海峡~~~~~▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃~~┏末盧国━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃ 
   ┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃~┗━━┛
 ↑ ┃~~┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━┛「在其南 人長3~4尺(少彦名)
【呉】┃~~┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙~~~~~~~~~←去女王(之所都)4,000里」
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃~~┗━女王国島━┛↓~~~~~~~~~
会稽┃~東シナ海~┌南「水行10日」~~~~~~~~
東治┃~~┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃~~│~↓「陸行1月」_~│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃~~│~↓▲沖縄~~~│~~↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃~~│♀【奴国2】(幻).~│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃~~│▲台湾~~~~~│~~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~~南シナ海~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」

666:日本@名無史さん
23/02/19 23:47:16.85 .net
>>665
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
-女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
-其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上(刺し違え2体)確認されている祇園山古墳を比定。

667:日本@名無史さん
23/02/19 23:56:09.55 .net
九州説 共々、ダメだな。

668:日本@名無史さん
23/02/20 00:00:52.69 .net
馬牛いない?
カラカミ遺跡、遠賀川等に馬の骨出土
其餘旁國遠絶 不可得詳
確認できなかっただけだな。

669:日本@名無史さん
23/02/20 00:05:51.19 .net
松浦想定地
明らかに他の千里と違う。
東千里の倭種
どうやって測る?
倭種の地まで行ったのか?

670:日本@名無史さん
23/02/20 05:00:58.51 .net
つまり九州説はウソ

671:日本@名無史さん
23/02/20 08:35:28.40 .net
つまり畿内説は霊感商法詐欺

672:日本@名無史さん
23/02/20 08:59:45.39 .net
>>660
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、甕棺墓の殉葬者66人(差し違え2体を含む)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)

673:日本@名無史さん
23/02/20 09:05:01.38 .net
つまり九州説はウソ

674:日本@名無史さん
23/02/20 09:16:40.72 .net
>>666
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝~応神朝~継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

675:日本@名無史さん
23/02/20 09:40:19.88 .net
>>674
成る程
邪馬台国は近畿にあるて事

676:日本@名無史さん
23/02/20 09:40:53.45 .net
>>674
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

677:日本@名無史さん
23/02/20 09:42:16.31 .net
>>676
成る程
邪馬台国は近畿にあるて事

678:日本@名無史さん
23/02/20 09:43:40.01 .net
>>676
ワ(もしくはイ)としか読めない倭、ダイワとしか読めない大倭(大和)をヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。

679:日本@名無史さん
23/02/20 09:44:55.29 .net
6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。   @阿波

680:日本@名無史さん
23/02/20 09:47:06.19 .net
>>678
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子(倭→和へ書き換え=和を以て貴しとなす)」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧(熊本県玉名市和水町前原の石原家文書)
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長

681:日本@名無史さん
23/02/20 09:48:40.70 .net
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

もしかして、中身も一緒に???

682:日本@名無史さん
23/02/20 09:50:20.28 .net
今城塚は邪馬台国には関係ない

683:日本@名無史さん
23/02/20 09:53:21.88 .net
>>681
今城塚??あっ、継体陵の阿蘇ピンク石棺!!そういうことかっ!!

684:日本@名無史さん
23/02/20 09:58:17.39 .net
>>680
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に帯方郡の鉄の独占輸入権要請→親魏倭王金印】
卑弥呼(~247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年~?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(~318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(~355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(~362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※~389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(~394年)…「禰(でい)」
16仁徳(~427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(~432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(~437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(~454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(~489年)…「武」?(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」?(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(~527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)

685:日本@名無史さん
23/02/20 10:36:26.53 .net
>>665
>裸国フィリピン
一連の富裕層強殺の指示役「ルフィ」送還のニュースで見たけど、フィリピンの刑務所ってみんな上半身裸なんだよね。
>黒歯国パプアニューギニア
ウィキによると、
「研究者によっては、インドネシアと関連する国ではないかと考察されており、論拠として、インドネシアではベテルチューイング(日本ではキンマと呼ばれる)という檳榔樹と石灰で作ったガムのようなものを噛む習慣があり、時々赤黒い汁を出しながら話をするとされ、『三国志』の記述にある水路の行程・地理からも指摘される」ピッタリ!

686:日本@名無史さん
23/02/20 12:42:50.56 .net
>>682
近畿にある邪馬台国に
運んだんだな。

687:日本@名無史さん
23/02/20 13:04:15.00 .net
>>686
いいえ

688:日本@名無史さん
23/02/20 18:29:01.39 .net
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。
江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。

689:日本@名無史さん
23/02/20 18:30:07.75 .net
【平原遺跡の年代】
副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
特に耳璫は女性専用の飾りであると考えられている。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢との交流が途絶えた倭国乱より後の様式である。
技術的には古墳時代に多くみられる国産の大型内行花文鏡に属する。
玉と鏡に五尺刀を一振りだけ加えてあえて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王の地位にあったことがわかる。
寺沢薫氏ら畿内説の学者を含め、平原遺跡が王墓であることに反対している学者はいない。
平原の管玉と同類のものは日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は共伴している土器や鉄器から3世紀前半から4世紀と考えられている
耳璫は漢末六朝初期(2世紀末~3世紀)に流行した形状である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。
周溝から出土した土器片が庄内並行期と見られることから、200~250年頃である。
鏡の編年で言えば、舶載鏡であることがほぼ確実な内行花文鏡・虺龍紋鏡の「長宜子孫」銘は漢鏡最後の第六期(~190年)に多く見られるものであり、平原遺跡はそれ以降といえよう。
また、国産の超大型内行花文鏡はその後の畿内の前方後円墳から出土する大型内行花文鏡の先駆けである。
結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
卑弥呼の前の倭王は男王とされているので、その年代の倭国女王は卑弥呼と壹與しかいない。

690:日本@名無史さん
23/02/20 18:55:06.00 .net
>>688
古代日本、古墳、平安期迄の支配体制の構造は、
軍事統一と言える信長まで
面での支配ではなく、支配者の点の連携である。
魏の東夷政策は、呉と結んだ公孫氏を滅ぼし、
直後に朝貢した卑弥呼と同盟の後、韓王朝を滅ぼした。
魏の東進は、200BCからの青銅輸入、
植民、鉄輸入等親交が有った日本には受け入れられない。
卑弥呼=筑紫21国が、魏帝の檄、黄幢を蹴って
三国志に参戦しなかったのは、半島の次は九州という
対魏覇権主義防衛の必然性で、日本海ルート、本州勢力と
軍事共合する必然性が有ったからである。
これが、防人=一大率の役割である。
この間、九州と本州が戦争とか、東遷とか
そんな余裕は存在してはいない。
筑紫周辺21国は、壹與の後見、難升米他の将軍? 
の合意で、本州と対魏防衛で結束したのである。
世界史レベルで、
大和朝廷成立に到る最大のイベントなんだが?
なんで、どーでもいい、
探検時の仮称国名(筑紫21国)邪馬台国での
畿内対九州論争なの?

691:日本@名無史さん
23/02/20 21:44:06.39 .net
何を言ってるのか、判ってるのかな?
三国志倭人伝には、
倭国卑弥呼が、魏の東夷政策での
中国三国志覇王である、魏帝の同盟国として
筑紫卑弥呼に対する245年時の韓制圧戦での
参戦要請、この、檄と黄幢を蹴った事が記されている。
前線である九州が一大率=防人を受け入れ、
日本海ルート諸国、瀬戸内海諸国と競合して、
対魏で日本の防衛に向かうのは当り前の歴史である。
なんで? 倭人伝が九州対畿内論争になる?
南も東も無い、倭人伝の場合の筑紫は畿内なのか?

692:日本@名無史さん
23/02/20 21:53:43.99 .net
陳寿の話
魏時に二回あった遣使による、
貴重な話で、その報告書によると帯方郡から倭に至るには・・・
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
ここまでが、247年
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、伊都迄来た、張政の報告からの引用。
・倭人船の寄港地名を聞き漢字にして、その里程を記録した。
・帳政は、到と至をかき分けている。 
・到 伊都國(常駐)で黄幢 拝假 難升米、檄告諭と 政等 以 檄告喩 壹與の要件は済んだ。
 12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐 が、これの言い訳、証明。
・各集落の人口に関しては、有○○戸を使用した。
・梯儁の報告の引用である、次段によって、女王迄は萬二千里だが
 張政の行程は、積算、萬五百里~萬七百里である。 
 残りの最大千五百里が、水行二十日と水行十日 陸行一月の計、という直列は在り得ない。
・謎の一月行については、陳寿の補足文での計算によって、二千里であることが判る。

693:日本@名無史さん
23/02/20 21:57:25.27 .net
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
これが240年
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
の梯儁による、女王国の詳細、国勢(所属国)と地理に関する報告の引用である。
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
は、陳寿による補足説明である。
・梯儁は魏軍船による行軍で金印他皇帝からの并齎詔賜を届けたのであって
 寄港地は特になく、盗賊や戦闘を避けるため幕営による進軍だったと思われる。
・投馬國、邪馬壹國、狗奴國八名ではなく、馬韓54国10万戸と同様の概念の国である。
・人口に関しては可○○戸を使用し、寄港地は名称不明なので里程は無く
 馬韓4千里、弁辰韓3千里、渡海3千里は、各国の通過に要した日数の概略である。
・水行1万里で九洲島上陸だが、残りの陸行1月は、2千里であることは明瞭。
・女王国の所属国は次有21国で7万戸であり、 20  此 女王 境界 所盡
 次有21回連呼で示した、此れが、女王国の境界 所盡である。 
・盡と言う文字は、境界線ではなく全てを書き尽くしたという意味が有る。
後述、
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
によって、女王国は九州島の南北2千里にある21国で周旋可 五千餘里しかない小国だった。
これが、240年、初めて韓西岸から対馬海峡を渡った魏使梯儁の報告である。

694:日本@名無史さん
23/02/20 22:04:14.90 .net
長文コピペに読む価値はまったくないのは昔と同じだね。

695:日本@名無史さん
23/02/20 22:28:22.94 .net
帳政の行程の積算
帯方郡から積算1万5百里の伊都から、
残りの行程が直列した場合、
自郡 至 女王國 萬二千餘里
では、残りの行程、1500里は、
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
ですが? 
陳寿は帳政の行程で九州上陸迄水行1万里を知っている。
残りの陸行一月が2千里でない可能性は有るか?
陳寿は、建中校尉梯儁の記述の
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
と言う記述で、
陸行一月が2千里である事を共有していたから
自郡 至 女王國 萬二千餘里
という、計算が出来た。
考古学には無理でも、小学生の
算数では、一月行は、2千里である。

696:日本@名無史さん
23/02/20 22:34:47.01 .net
>>694
漢文の漢字は飛ばさないほうが良い。

697:日本@名無史さん
23/02/21 00:18:52.76 .net
いつも見かけるコピペなのか、新たな長文なのか
そのへん、はっきりして欲しい

698:日本@名無史さん
23/02/21 04:24:54.61 .net
つまり九州説はウソ

699:日本@名無史さん
23/02/21 08:20:57.73 .net
いちいち同じことを何度も説明させるからだ。
畿内説はとっくに破綻しているのに。

700:日本@名無史さん
23/02/21 08:21:33.94 .net
寺沢薫
「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」

701:日本@名無史さん
23/02/21 08:22:44.23 .net
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
卑弥呼の前の男王の時代70~80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。

702:日本@名無史さん
23/02/21 08:24:53.11 .net
倭人は里数を知らず、日数で距離を測る(未開人である)。
(隋書)
(もちろん、中華文明の人間はそのような無知なことはしないから、)
(郡使が実際に通過した経路である)女王国から北は道里を略載できる。
(魏志)
そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。
(魏志)
伊都に駐在した郡使が卑弥呼に謁見して金印を渡しているのだから、女王の都である邪馬台国は九州北部しかあり得ない。

703:日本@名無史さん
23/02/21 08:25:17.20 .net
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
URLリンク(i.imgur.com)

704:日本@名無史さん
23/02/21 08:28:25.81 .net
つまり九州説はウソ

705:日本@名無史さん
23/02/21 08:44:39.14 .net
>>701
お墓しかないのかよww  がっかり九州。   @阿波

706:日本@名無史さん
23/02/21 08:51:40.14 .net
何もないのが予想通りで誰もがっかりしないのが阿波

707:日本@名無史さん
23/02/21 08:58:41.55 .net
>>706
安心しろ。 畿内説もお墓しかないから。  よかったな、トンデモ同士。  わははははは   @阿波

708:日本@名無史さん
23/02/21 08:59:38.98 .net
コミックも出せないのが阿波

709:日本@名無史さん
23/02/21 09:03:48.73 .net
こうやって考えてみると、縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って稀有なんだな。
「阿波」以外に無いんじゃなかろうか?   @阿波

710:日本@名無史さん
23/02/21 09:20:12.83 .net
使えない阿波

711:伊太乃に居たの
23/02/21 14:39:33.64 .net
布留遺跡
布留遺跡(ふるいせき)は、奈良県天理市布留町・三島町付近にある旧石器時代から現代まで続く複合遺跡。「布留式土器」(土師器)の出土により古墳時代前期の標式遺跡となっている。
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)

712:日本@名無史さん
23/02/21 15:07:16.69 .net
高天原に神ずまります
神漏岐、神漏美の命持ちて
皇御親神伊弉諾大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊祓給いしときになりませる
祓戸大神たち
諸々の罪穢れを
祓い給え 清め給えと申すことの由を
天津神国津神八百万の神達ともに
聞こし召せと
畏み畏みも申す
阿波剣山に神住まわれる
ソロモン・シバの神を持って
天皇の祖神、ナザレのヨセフ
福岡の日向の四国の鳴門に
祓い給いたいときにあります
鳴門の渦潮やお祓いの宇宙力の神達

という意味になるのかな

713:日本@名無史さん
23/02/21 15:57:49.23 .net
白山菊理姫はイザナギ・イザナミの叔母神であり、玉依姫にもなります
転生すると磐長姫(九頭龍)です
玉依姫は豊玉姫(木花咲耶姫の転生)と姉妹です
そしてそれが【潮満潮干の玉】で日本の紅白の起源なんです
か・・・
イザナギ・イザナミの叔母・・・
しかしなあ、伊弉諾大神は神社が淡路島だから、
剣山のソロモンとは違うんだよなあ・・・
やはり、伊弉諾大神はナザレのヨセフのハズだなあ・・・
すると、伊弉諾がヨセフで伊邪那美が聖母マリアとすると、
この、叔母とは?
アンナは聖母マリアの母、では、聖母マリアの叔母は?
ちょっと調べてるんだけどもヒットしないんだよな

714:日本@名無史さん
23/02/21 16:21:20.75 .net
「伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせた菊理媛神を祀る阿波」
阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
「阿波誌」に、「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。
菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とある。
なんと、伊奘諾尊と伊弉冉尊が泉平坂で相争ったとき、二人を仲裁した菊理媛神(くくりひめのかみ)が、
阿波市阿波町で祀られているのである。   @阿波
URLリンク(goutara.blogspot.com)  

715:日本@名無史さん
23/02/21 16:22:00.13 .net
菊理媛命と同一神とされる「白山比咩神」を祀る「白山(しらやま)比売神社」
徳島県吉野川市山川町忌部山字白山
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とある。
「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」である。
ここはイザナミ命の「遥拝所」。
この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われている。
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、
イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承がある。   @阿波
「白山比売神社と立石列石」
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

716:日本@名無史さん
23/02/21 16:22:27.72 .net
「白山比咩神」のすぐ近く 「稚宮(わかみや)神社」 
徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石
祭神は、思兼尊・長白羽命。 長白羽命は、荒妙(あらたえ)を織った神。  
神麻績部の祖神とある。   @阿波
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

717:日本@名無史さん
23/02/21 16:39:36.39 .net
黄泉の話は、現代では何を指すのでしょうね

718:日本@名無史さん
23/02/21 16:55:10.64 .net
志良夜末比賣・・・
末法を納める止めの女神様なんだろうなあ
やっぱり、ヒロインに華を持たそうと神も神計するだろうしな

719:日本@名無史さん
23/02/21 17:04:12.58 .net
伊邪那美=白山姫とするなら、
聖母マリアは(黙示録の?)ヨハネと再婚したという説があるから、
ナザレのヨセフは聖母マリアの叔母と再婚したのでは?という、
あり得ない仮説を立ててみました。

720:日本@名無史さん
23/02/22 07:31:36.54 .net
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。

721:日本@名無史さん
23/02/22 07:33:55.24 .net
古代倭国において大和はなかなか話題にも上らない辺境の地。
後に筑紫勢力に征服されて倭国に組みまれた。
そんなところに倭国女王がいるわけがない。
卑弥呼は中国が交渉した相手は列島のどこにいたのかという視点で考えなくてはいけない。
それは九州北部しかない。

722:日本@名無史さん
23/02/22 07:37:05.87 .net
伊奘諾は伊奘冉がいた黄泉の国から筑紫の日向に逃げて来て小戸つまり伊都の海岸で禊をした。
逃げる時に黄泉比良坂を越えてきたが、船は使っていない。
つまり伊奘冉の黄泉の国もまた九州北部のどこかであった。

723:日本@名無史さん
23/02/22 07:39:13.46 .net
博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれていた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。
この文章を声に出して音読するといい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。

724:日本@名無史さん
23/02/22 07:39:45.11 .net
神道で最も重要な祝詞は、倭国の王都が何処であるかを明確に示している。
■ 大祓の祝詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす

725:日本@名無史さん
23/02/22 07:41:13.80 .net
参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)
禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな

726:日本@名無史さん
23/02/22 07:42:14.89 .net
満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)は、山口県下関市長府沖、瀬戸内海(周防灘)中の2つの無人島であり、原生林が満珠樹林・干珠樹林として国指定の天然記念物となっている。
忌宮神社の飛び地境内であり、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。
また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もある。
この宝珠を神功皇后に授けたのが、海神族の安曇磯良である。
安曇磯良は志賀海大明神ともいい、常陸国鹿嶋大明神や大和国春日大明神も同一とされる。
民間伝承では、阿曇磯良は豊玉姫と彦火々出見(山幸、伊都の高祖宮)の子とされており、「日子波限建」と冠されることのある彦渚鵜葺草葺不合命(彦火々出見の息子、神武の父)と同神であるとする説がある。
潮満瓊と潮涸瓊は、海幸山幸伝説にも登場する。
山幸彦(彦火々出見)は兄の海幸彦から借りた釣り針を失くして困ってしまうが、志賀島の綿津見神宮へ行き豊玉姫から潮盈珠と潮乾珠を受け取り、海幸彦を懲らしめる。
筑紫の日向を逃れた海幸彦は九州南部の隼人の祖となった。
山幸彦の子が彦渚鵜葺草葺不合命、孫が神武天皇である。
これらは全て玄界灘を支配した博多湾沿岸の倭国の海神族の伝承である。

727:日本@名無史さん
23/02/22 07:43:40.78 .net
大足彦忍代別(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は榊に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは倭国の皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲の辺縁部である。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく、筑紫に都した自らの倭国王権を指していたことになる。

728:日本@名無史さん
23/02/22 07:44:18.75 .net
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)
福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。

729:日本@名無史さん
23/02/22 10:13:54.82 .net
つまり九州説はウソ

730:日本@名無史さん
23/02/22 16:03:59.49 .net
聖母マリアの叔母とは、サロメという人だろうか?
阿波さんなら物知りだからよくご存知では?
教えていただけます?

731:日本@名無史さん
23/02/22 17:56:34.74 .net
鹿服調進というのがあるんだなあ

732:日本@名無史さん
23/02/22 18:03:05.94 .net
違う!  麁服(あらたえ)の調進。   @阿波

733:日本@名無史さん
23/02/22 18:06:04.99 .net
あらたえのあらってどうやって変換しました?

734:日本@名無史さん
23/02/22 18:08:17.23 .net
どういう意味の字なんだろう?

735:日本@名無史さん
23/02/22 18:10:17.83 .net
しかし、日本人の顔立ちは、ほぼ和風で、
ソロモン・シバや古代ユダヤ人っぽくないんだけどな・・・
いや、居るか

736:日本@名無史さん
23/02/22 18:11:24.71 .net
ソロモンだけ不明なのは何故なんだろう?

737:日本@名無史さん
23/02/24 16:51:41.99 .net
>>28
洗礼者ヨハネの首を盆に載せて来た
ヘロデヤの娘サロメと、
イエス・キリストの十字架の死に立ち会った
サロメとは別人でしょう。

これで、恐らく、白山菊理姫は善人サロメだろうか?

738:日本@名無史さん
23/02/24 16:58:31.59 .net
イエス・キリストの死に立ち会ったマリアの姉妹では、
もっともっと有名になっていいはずだ。
それが、あまり有名ではないとすると、
恐らく、善人サロメは聖母マリアの叔母なんだろう

739:日本@名無史さん
23/02/24 17:02:15.39 .net
ナザレのヨセフの墓所が淡路伊射奈岐神社にあることを考えると、
伊弉諾大神はナザレのヨセフ
伊邪那美大神は聖母マリア
白山菊理姫は善人サロメ
だろうか?

740:日本@名無史さん
23/04/02 03:17:20.56 .net
具体的に近畿のどこにあったの?


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