邪馬台国畿内説 Part806at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part806 - 暇つぶし2ch63:1
22/08/23 19:38:33.30 .net
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

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(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここ


65:で、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。 この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。  この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。 秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。  秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は   古者周尺 17.3cm   今周尺  21.0cm   秦漢尺  23.1cm となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。



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◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

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22/08/23 19:41:02.19 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

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22/08/23 19:41:55.58 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

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◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

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◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

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◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

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◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安~齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

73:1
22/08/23 19:44:34.61 .net
◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

74:1
22/08/23 19:45:02.41 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

75:1
22/08/23 19:45:36.36 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
URLリンク(i.imgur.com)
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの


76:軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。  このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。



77:1
22/08/23 19:46:08.04 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

78:1
22/08/23 19:46:43.59 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

79:1
22/08/23 19:47:30.48 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

80:1
22/08/23 19:48:02.90 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 URLリンク(i.imgur.com)
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

81:1
22/08/23 19:48:38.21 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

82:1
22/08/23 19:49:12.07 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

83:1
22/08/23 19:49:45.13 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

84:1
22/08/23 19:50:16.49 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始�


85:ノ先行する。 よって此の因果関係も求め難い。  纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。 導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。 以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。



86:1
22/08/23 19:50:49.50 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

87:日本@名無史さん
22/08/23 19:51:07.70 .net
支援

88:1
22/08/23 19:51:22.68 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。
 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 URLリンク(i.imgur.com)
同空撮 URLリンク(i.imgur.com)
建物B空撮 URLリンク(i.imgur.com)
Dより西を望む URLリンク(i.imgur.com)

89:1
22/08/23 19:51:53.45 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

90:板野に居たの
22/08/23 19:55:02.34 .net
>>1
スレ立てお疲れ様です、

91:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
またスレ立て妨害始めた馬鹿がいるな
以前AA荒らしやってた奴だろ?

92:日本@名無史さん
22/08/23 20:34:47.59 .net
逆張り糸屋とか、あれ本気で言ってんのかね

93:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で日本上陸(伊都国=出雲)→伊勢遺跡
投馬国=対馬国 伊都国=出雲国
もうそっくりだろ

94:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>82
倭人伝に出てくる国の数、幾つ?
もうムチャクチャだろ

95:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>83
誰かが個別に行ったバラバラの資料があったんだろう

96:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>1 乙です。
伊都国 現糸島は、疑問だな。
楽浪・帯方の居住区に
墓があるような。

97:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
最初の前方後円墳は宇宙人が作った。

98:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
投馬から水行十日で伊都なんてどこにも書いてない�


99:オ、伊都が出雲ならそこから陸行できる末盧や奴国はどこだよってなるし、何もかも滅茶苦茶だな。



100:日本@名無史さん
22/08/23 21:25:12.05 .net
>>87
別に伊都国でなくても上陸地点で良いんだけど
一応伊都国が入管になってるみたいだし此処には立ち寄るんじゃないかと

101:日本@名無史さん
22/08/23 21:27:00.08 .net
畿内説って、本当にこのテンプレを信じているの?

102:日本@名無史さん
22/08/23 21:28:57.79 .net
>>89
普通あんな長いもん読まないだろ

103:板野に居たの
22/08/23 21:32:22.03 .net
長過ぎるテンプレは、逆効果かも知れませんが、
>>1さんの意向は尊重してあげても良いのでは。

104:日本@名無史さん
22/08/23 21:34:24.01 .net
>>89
反論できずに悪口言ってて、敗残者丸出しでは?

105:日本@名無史さん
22/08/23 21:36:58.08 .net
>>84
陳寿が間違ってるってこと?
それ際限なく言い出したら終わりでしょ

106:日本@名無史さん
22/08/23 21:42:50.37 .net
>>93
知りたいのは真実だからな
里数から日数に変わってるのはそう考えるのが自然

107:日本@名無史さん
22/08/23 21:49:04.31 .net
>>94
理由もなく「俺様の言うことが自然なのだ」と言う奴の脳は天然自然すぎるがな

108:日本@名無史さん
22/08/23 21:53:03.03 .net
陳寿は意図して読者にわからない事を絶対書かないのよ
それを無視して辻褄を合わせてもそんなのは自己満足で真実ではない

109:日本@名無史さん
22/08/23 21:56:57.40 .net
使者が帯方→対馬→出雲→近江なんてコース取ったんなら、その前に書かれてる対馬→壱岐→末盧→伊都は何なんだよってなるしな。
当時の航海技術考えてもそんな危険で現実味のないコース取ったとは考えられんし。

110:日本@名無史さん
22/08/23 21:59:35.23 .net
>倭国王帥升=扶余王始將、これ同じ人物だろ。
《後漢書 倭傳》
安帝の. 永初元年(一〇七)倭国王帥升等が生口百六十人を献じる。
《後漢書 夫餘傳》
安帝永初五年(111年)扶余王始將は?騎七八千人で楽浪郡を略取した。
永康元年(167年),扶余王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。

111:日本@名無史さん
22/08/23 22:00:43.07 .net
>>97
帯方→対馬→出雲→近江
この書き方はわかりにくい
日数での行程の帯方郡→投馬国→邪馬台国

112:日本@名無史さん
22/08/23 22:05:42.24 .net
陳寿は間違う事はあっても意図して読者にわからない事を書くなんてあり得ないのよ

113:日本@名無史さん
22/08/23 22:08:37.34 .net
>>91
意向も何も、スレを私物化しているじゃん。

114:日本@名無史さん
22/08/23 22:10:18.63 .net
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
「自然である」
などのキナイコシが頻用する主観的な表現は、彼が根拠のないことを言い張る時に使うものだ。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説や個人的な主義主張を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。

115:日本@名無史さん
22/08/23 22:12:16.90 .net
歴史学なんてほとんど仮説だろ

116:日本@名無史さん
22/08/23 22:13:09.04 .net
狗邪韓国から対馬とか壱岐から松浦とか海流に逆らう方がしんどい
何の為にそんな事したんだ?

117:日本@名無史さん
22/08/23 22:13:50.85 .net
>>96
同�


118:モ 陳寿はかなり論理的整合性に気をつかう人物だ。 帯方郡から邪馬台国までの水行10日は、九州北部上陸までの一万里と整合性がある。 対馬海峡は明らかに3日かけて渡海したはず。 そこが三千里となっている。 おそらくは1日に進む行程を千里としたのではないか。



119:日本@名無史さん
22/08/23 22:14:30.09 .net
逆らわずに流されたらただの漂流だろう

120:日本@名無史さん
22/08/23 22:15:19.80 .net
>>105
そう書いとけよ
読者にわからんだろ

121:日本@名無史さん
22/08/23 22:16:15.54 .net
>>98
違いますよ。
満州あたりの民族。

122:日本@名無史さん
22/08/23 22:16:19.00 .net
>>104
行きも帰りもあるんだぞ。
彼らは流されずに都会できたということ。
魏志倭人伝にも南北に行き交っていたと書いてある。
少しは魏志倭人伝を読んでくれ。

123:日本@名無史さん
22/08/23 22:17:50.75 .net
>>109
なんでわざわざしなくていいしんどい事をするんだよ?

124:日本@名無史さん
22/08/23 22:17:56.27 .net
>>107
ほとんどの読者は理解できるが、畿内説に汚染されると理解できなくなる。

125:日本@名無史さん
22/08/23 22:18:32.06 .net
>>105
水行以前に、里数で書かないのが
不思議じゃないか?

126:日本@名無史さん
22/08/23 22:18:59.05 .net
最短距離だからだよ。
流されると移動距離は長くなる。

127:日本@名無史さん
22/08/23 22:20:25.34 .net
対馬海峡は対馬、壱岐、九州と3回に分けて渡航したやろけど、1回あたり70km程度として、当時の手漕ぎ船で時速5km出せたとして14時間の長時間航海になる。
休み入れず連続3日も航海した可能性はほぼないやろ。

128:日本@名無史さん
22/08/23 22:20:27.62 .net
>>111
できないね
1日を千里なんて説明がないとわかんねえよ

129:日本@名無史さん
22/08/23 22:22:37.15 .net
>>102
そんな悪口だけ言ってて虚しくないの?
なんで「自然」だか説明あるのとないのと区別もつかないの?
そんなだから九州説が滅んだんだよ

130:日本@名無史さん
22/08/23 22:24:45.07 .net
>>112
里数「も」ちゃんと書いてある。
ただ、一部に書き足りないために誤解を与えやすいのも確かだ。
魏志倭人伝を補うために、後漢書の記事がある。
帯方郡から女王国まで一万二千里、または水行10日陸行1日なんだよ。
そのうち、帯方郡から狗邪韓国までは七千里つまり七日間、対馬海峡は三千里つまり三日間。
日本列島のどこにも陸行一月を必要とするところはない。

131:日本@名無史さん
22/08/23 22:25:46.79 .net
対馬海峡を3日で渡り切るの無理です

132:日本@名無史さん
22/08/23 22:26:35.35 .net
>>114
漕ぎ手は交代できる。
夏なら14時間は日が出ている。
まあ、普段からその辺の人たちは行き来していまみたいだから、それほど心配しなくてもいいのだろう。

133:日本@名無史さん
22/08/23 22:27:10.60 .net
>>117
どこに書いてあるの?
なぜ、伊都国、不彌国、奴国まではある。

134:日本@名無史さん
22/08/23 22:29:46.52 .net
というか一千里が短里で75km程度として、それ当時の船で1日で進むって相当だからな?時速7.5kmの小型船でも10時間航行になるが、小型の手漕ぎ船で10時間も寒い水上で揺られるって相当キツい。しかも休みなしで10日で一万里も走破したら郡使は死ぬ。

135:日本@名無史さん
22/08/23 22:30:40.37 .net
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で日本上陸(伊都国=出雲)→伊勢遺跡
こちら非常に無理のないプランになっております。

136:日本@名無史さん
22/08/23 22:32:04.35 .net
>>122
対馬から出雲までは直行か?何時間かかんねん

137:日本@名無史さん
22/08/23 22:33:15.44 .net
>>123
十日だと書いてあるだろ

138:日本@名無史さん
22/08/23 22:34:42.43 .net
>>124
十日間ずっと水上って意味じゃないよな…?

139:日本@名無史さん
22/08/23 22:35:20.01 .net
>>124
10日 水、食糧 どないすんねん

140:日本@名無史さん
22/08/23 22:36:37.35 .net
>>125
殆ど漕がなくても着くだろ

141:日本@名無史さん
22/08/23 22:38:32.86 .net
大事な物を積んでいる。
安全経路を使うよ。

142:日本@名無史さん
22/08/23 22:38:49.21 .net
>>121
郡使は自分では漕がないぞ。
国賓だよ。
漕ぎ手を毎日交代すればいい。

143:日本@名無史さん
22/08/23 22:38:58.46 .net
>>127
だから何時間かかるんだよw 10日間漂流すんのか

144:日本@名無史さん
22/08/23 22:39:50.30 .net
>>124
日本海をどこにも寄港せず10日間漕ぎ続ける方がおかしいだろ。
交代もできない。

145:日本@名無史さん
22/08/23 22:40:30.90 .net
>>129
漕ぎ手は何人必要だ?

146:日本@名無史さん
22/08/23 22:40:38.11 .net
>>130
十日分の食料くらい積んどけよ

147:日本@名無史さん
22/08/23 22:41:14.96 .net
>>129
漕がないのは当たり前だ。乗ってるだけでも小型の手漕ぎ船で波の高い外洋を長時間はキツい
カヌーとか釣り船でもいいけど、乗ったことないのか?

148:日本@名無史さん
22/08/23 22:41:28.96 .net
>>131
漕ぎ続けない
漕がなくても着くから

149:日本@名無史さん
22/08/23 22:43:30.72 .net
そもそも10日間も日本海を漕ぎつだけたのなら、それが帯方郡からであれ狗邪韓国からであれ伊都からであれ、そのように書くわけで。
あと、伊都から水行10日するなら、帯方郡から何万里になるんだ?
後漢書には楽浪郡から王都邪馬台国まで一万二千里とあるんだぞ。
ちなみに楽浪郡から国境の狗邪韓国までは七千里な。

150:日本@名無史さん
22/08/23 22:43:33.88 .net
>>135
んわけない

151:日本@名無史さん
22/08/23 22:44:04.44 .net
>>133
積んどきゃいいってもんじゃないだろ。小さな手漕ぎ船で10日もの連続航海は危険。疲労するし、遭難のリスクもある。夜間に波でも受けて水に落ちたらまず助からない。
海流に逆らおうがどうしようが最短の陸地を目指す方がいい。

152:日本@名無史さん
22/08/23 22:44:41.47 .net
対馬海流があるから勝手に着くから

153:日本@名無史さん
22/08/23 22:46:14.23 .net
>>136
邪馬臺まで一万二千里とは書いてない。女王国まで一万二千里と書いてある。伊都が女王国の玄関口なので、ここまででだいたい一万二千里。

154:日本@名無史さん
22/08/23 22:46:38.18 .net
>>134
カヌーじゃないぞ。
三国志の時代の船ってもっと大きい。
弥生時代はすでに準構造船の時代。
呪いがわりに船の片隅に何もしない余分な人員を乗せるくらいに余裕がある大きさの船だ。

155:日本@名無史さん
22/08/23 22:46:54.27 .net
>>1
畿内に女性が治める集団がいたと言うなら、九州とは別人の「チュウミフ」さんが治めていたかもしれない。
九州から誘拐しなくても良いのではと思う。

156:日本@名無史さん
22/08/23 22:47:04.44 .net
>>139
んなわけない
上下に海流わかれる。

157:日本@名無史さん
22/08/23 22:48:03.00 .net
>>140
国境の町は楽浪帯方から七千里の狗邪韓国だよ。
後漢書を読み直せ。

158:日本@名無史さん
22/08/23 22:49:19.80 .net
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

159:日本@名無史さん
22/08/23 22:49:24.95 .net
そんな小さくないぞ
中国の船はかなりでかい

160:日本@名無史さん
22/08/23 22:49:53.11 .net
>>141
それ外洋船?
まあカヌーは例として挙げただけだから実際には10~20人乗り程度の船だったかもとは思ってるけど、大きければ大きいほど速度的にはより厳しくなるよ。
1975年の「野生号」プロジェクト、1990年の「なみはや号」プロジェクトっていう再現実験では船がろくに進まずに対馬海峡は他の船に曳航させたらしい

161:日本@名無史さん
22/08/23 22:50:31.86 .net
>>144
後漢書 范曄の解釈だよ。
正しいとか判断できない。

162:日本@名無史さん
22/08/23 22:51:13.44 .net
>>147
そいつらが下


163:手くそだったたけだろ。 実際に倭人も郡使も対馬海峡を行き来していたんだから。



164:日本@名無史さん
22/08/23 22:51:54.65 .net
>>140
>伊都が女王国の玄関口なので、ここまででだいたい一万二千里。
あなた算数できます?
学力が小学生以下ですか

165:日本@名無史さん
22/08/23 22:53:56.05 .net
>>148
解釈ではなく、当時の記録をもとに書いているんだよ。
中華全土の歴史を書いているのに、わざわざそんな解釈まで考えないよ。
郡使の記録した書類は当時はあったんだよ。
その中のどの部分を引用するかで、魏志倭人伝と後漢書で表現が異なるが、元となった史料は同じだよ。

166:日本@名無史さん
22/08/23 22:56:02.80 .net
>>151
違うよ。
狗奴国みろ。字も違う 東になっている。

167:日本@名無史さん
22/08/23 22:56:04.32 .net
>>150
後漢書の話らしいからまた別かも知れないが、魏志に関して言えば伊都まで七千余里、千余里、千余里、千余里、五百里なので余里が各数百里程度あれば一万二千里ぐらいになる

168:日本@名無史さん
22/08/23 22:56:05.94 .net
日本海を進むのなら、沿岸にいくらでも寄港地はあっただろう。
しかしどこにも立ち寄った記録がない。
なぜだ?

169:日本@名無史さん
22/08/23 22:57:52.10 .net
>>121
>というか一千里が短里で75km程度として、
そんな学問的に否定されてるもの使えば
学説として即死だけどな

170:日本@名無史さん
22/08/23 22:58:43.15 .net
>>154
寄港地は書かないから

171:日本@名無史さん
22/08/23 22:59:24.63 .net
>>154
だな。韓国沿岸でも航法も書いてあり
やっと、着いたとある。
それさえない水行行程

172:日本@名無史さん
22/08/23 22:59:47.27 .net
後漢の時は中国人は倭を訪れていない。
後漢書は魏志倭人伝より後に書かれ、資料としては魏志倭人伝と同じものを用いて書かれた。
魏志倭人伝を書いた陳寿は卑弥呼がまだ生きていた233年の生まれ。

173:日本@名無史さん
22/08/23 23:00:51.51 .net
>>158
狗奴国みろよ。

174:日本@名無史さん
22/08/23 23:02:37.40 .net
畿内説だと、寄港地も上陸地もわからない。
日本海を進んだのか瀬戸内海を進んだのかすらわからない。
上陸してからの経由地も方向もわからない。
それで後続の特使が邪馬台国にたどり着けるか?

175:日本@名無史さん
22/08/23 23:03:58.65 .net
>>155
対馬海峡を三千里で計算するとそうなるんだから仕方なかろう
一万里が10日に相当って、そういう前提の議論ちゃうんか

176:日本@名無史さん
22/08/23 23:04:48.39 .net
郡使は伊都に駐留するから問題ないですね

177:日本@名無史さん
22/08/23 23:04:59.97 .net
>>159
狗奴国への里程は書いてない。
それは敵国である狗奴国へは行っていないから。
陳寿の記事は論理的に書かれている。
と言うより、そもそも郡使が行ったところしか里程の資料がなかったのだろう。
行ったところはもちろん里程の資料があった。

178:日本@名無史さん
22/08/23 23:05:55.63 .net
>>161
対馬海峡が三千里というのは魏志倭人伝に明記されているのだから、それを前提にしなかったら邪馬台国は語れない。

179:日本@名無史さん
22/08/23 23:06:29.35 .net
邪馬台国はヤマト政権の都の奈良
卑弥呼はアマテラスのモデル
ヤマト政権の始まりは卑弥呼、アマテラスから
岩戸開きは、伊賀に石の城を作っていた葦原中国の守り神、伊勢津彦を追いやったことかもね
伊勢津彦はイワ大神の子
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
サカキであるイワの御魂を撞いて、塞がるものを取り除き天を通した、向かいの津の姫
東海勢力が奈良に侵入してヤマト政権が始まる
考古学的成果にも合致するね

180:日本@名無史さん
22/08/23 23:08:34.82 .net
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里。
そのうち帯方郡から狗邪韓国まで七千里、対馬海峡が三千里。
残りの二千里は対馬海峡の幅より短い。
出雲にも近江にも大和にも届かない。

181:日本@名無史さん
22/08/23 23:08:35.32 .net
>>160
行っていないし
行く必要もない。
弱い連合体の都

182:日本@名無史さん
22/08/23 23:09:43.52 .net
>>166
邪馬台国までとは書いてない定期
ちゃんと資料を


183:確認しよう



184:日本@名無史さん
22/08/23 23:09:48.87 .net
>>163
方向が違うだろー
致命的

185:日本@名無史さん
22/08/23 23:10:07.45 .net
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

186:日本@名無史さん
22/08/23 23:11:10.38 .net
古代中国にはジャンク船てのがあって相当でかい
十人二十人じゃないぞ

187:日本@名無史さん
22/08/23 23:12:33.92 .net
大倭王居邪馬臺國
楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里

188:日本@名無史さん
22/08/23 23:13:12.49 .net
>>170
その国(邪馬台国)
魏志倭人伝とは違う
范曄の解釈が入っているのでは?

189:日本@名無史さん
22/08/23 23:14:10.67 .net
少なくとも郡使は船が狭いとか小さいとか文句はつけていない。
船の片隅にへんなこじきみたいなのを乗せていると。

190:日本@名無史さん
22/08/23 23:15:32.22 .net
>>160
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で日本上陸(伊都国=出雲)→伊勢遺跡
しっかり書いてるだろ

191:日本@名無史さん
22/08/23 23:16:16.71 .net
>>173
解釈を入れる理由がない。
あまり興味がない他国のことだから、黙々と資料を書くだけ。
皇帝の活躍とかを書くついでの記事だもの。

192:日本@名無史さん
22/08/23 23:16:41.01 .net
>>175
二重国名?
注釈がないとわからん。

193:日本@名無史さん
22/08/23 23:18:49.34 .net
>>176
字も違う、狗奴国も違う。
皇帝の活躍だから誇張も
入る。范曄 斬首されている

194:日本@名無史さん
22/08/23 23:18:52.76 .net
魏志倭人伝だって、本筋は曹操や孔明の活躍の方。
その端っこの卑弥呼の記事にわざわざ細かい判断をしたりする理由はない。
まあ、倭人が呉の太伯の末裔という話はあえて載せなかったという説もあるようだが。

195:日本@名無史さん
22/08/23 23:19:47.57 .net
>>177
つーま国=つしま国 いつ国=いずも国だろ、常識的に考えて

196:日本@名無史さん
22/08/23 23:20:46.12 .net
>>171
ジャンク船って帆船やろ?さすがにこの時代にはなくね?

197:日本@名無史さん
22/08/23 23:20:49.06 .net
>>180
対馬のこと

198:日本@名無史さん
22/08/23 23:21:26.60 .net
>>180
ごろ合わせ

199:日本@名無史さん
22/08/23 23:21:37.05 .net
>>173
その国(邪馬台国) って范曄は書いてないから
常識的にそう読めるだけ
魏志倭人伝もそう読める

200:日本@名無史さん
22/08/23 23:21:51.21 .net
聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(翰苑 卷三十)

201:日本@名無史さん
22/08/23 23:22:48.48 .net
>>181
九州説爺さんの脳がジャンク

202:日本@名無史さん
22/08/23 23:22:58.20 .net
>>184
なら常識的にそう読めよ。

203:日本@名無史さん
22/08/23 23:22:58.40 .net
>>184
それを解釈というだよ。

204:日本@名無史さん
22/08/23 23:22:58.89 .net
>>176
というか後漢書の記述は魏志の記述を范曄なりに解釈したものでしょ。黙々と資料を書くだけなら魏志と完全一致するはず。

205:日本@名無史さん
22/08/23 23:23:28.32 .net
>>181
URLリンク(ameblo.jp)
他人のブログだから気が引ける

206:日本@名無史さん
22/08/23 23:24:34.62 .net
>>189
魏志倭人伝と表現が違うから、魏志倭人伝を写したわけではない。
魏志倭人伝と同じ資料の別の部分を引用したんだ。
おそらく郡使がまとめた報告書。

207:日本@名無史さん
22/08/23 23:26:56.11 .net
>>191
同じ資料なら同じなるだろー
なっていない。
邪馬壹国の壹も違う

208:日本@名無史さん
22/08/23 23:26:58.77 .net
>>190
当時からジャンク船が存在してたらだいぶ話が変わってくるが、ソースがアマチュア歴史研究家のブログだけではなあ

209:日本@名無史さん
22/08/23 23:29:16.44 .net
>>191
范曄って、丸写しに見えないように文章表現をちょっと変える・・みたいな人だったと言うのが通説だけどね

210:日本@名無史さん
22/08/23 23:29:28.13 .net
>>191
南宋の范曄が北魏の帯方郡の古い報告書なんてどうやって手に入れるんだ

211:日本@名無史さん
22/08/23 23:33:39.41 .net
>>193
中国にジャンク船があったことは確かだよ。
それを中国から倭に渡るときにも使ったのかどうかだけ。
あと、倭人は普段から対馬海峡を南北に行き来していたともあるので、それがジャンク船だったのかどうか。

212:日本@名無史さん
22/08/23 23:36:25.51 .net
>>195
そもそも後漢代の記録をどうやってまとめたんだよ。

213:日本@名無史さん
22/08/23 23:40:53.03 .net
>>196
其行来渡海詣中國 恒使一人
その船がジャンクと推測。
邪馬壹国近畿説

214:日本@名無史さん
22/08/23 23:41:31.89 .net
>>197
いくつかは分かっている
三国志以外にも、宋の頃にはまだ残っていた古書が部分的に分かっているので

215:日本@名無史さん
22/08/23 23:44:53.67 .net
>>196
対馬海峡の南北交易は食料の物々交換だし
お宝たくさん積んでおそらく百人単位で来てるだろうし事情が違うでしょ

216:日本@名無史さん
22/08/23 23:45:44.64 .net
>>192
>邪馬壹国の壹も違う
それは魏志側かなり後世の写し間違い

217:日本@名無史さん
22/08/23 23:47:56.85 .net
>>200
あまり大きいと寄港できず
遠方停泊で小舟でピストン。

218:日本@名無史さん
22/08/23 23:49:54.26 .net
>>201
という説もあるのも知っている
さてどうなんだろうな?
学者と言っても鵜呑みにはしていない。

219:日本@名無史さん
22/08/23 23:53:16.82 .net
当時中国にはジャンク船があったけど日本にあったとはいってないぞ

220:日本@名無史さん
22/08/23 23:59:23.24 .net
>>201
会稽東治
もあるな。意見、解釈が違うから面白い。

221:日本@名無史さん
22/08/24 00:27:47.52 .net
>大倭王・女王の都・都市名は「邪摩堆ヤマト」
>領土・統治範囲・国名を表す場合は「邪馬臺国、邪馬台国」
>ただ魏志だけ混用してて、どれもヤマトだけど漢字表記が違う。
>だから南、邪馬台国てのは統治範囲を表す、九州北部のなかに
>八女市、山門郡辺りにヤマト軍の防人(さきもり)、駐屯所、行宮などがあったんだろう。
みやま町の七支刀持った人形がある「こうやの宮(磯上神宮)」辺りが怪しいな。
「後漢書倭伝」
世世、統を伝ふ。その大倭王は邪馬臺国に居す(今名を案ずるに邪摩堆音の訛なり)。
楽浪郡境はその国(邪馬臺国)を去ること万二千里
「魏志倭人伝」
「南、邪馬臺国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。

222:日本@名無史さん
22/08/24 00:41:25.52 .net
>>205
通説が勝つんだよ

223:日本@名無史さん
22/08/24 00:45:02.18 .net
九州説は少数説ばかり集めて作った子供サイズのフランケン

224:琪瑛教祭酒
22/08/24 01:13:41.35 .net
鬼道とは道に対する反義語。儒教=道、鬼道=老孫思想。
ルートばかり追いかけても意味はない。

225:日本@名無史さん
22/08/24 01:32:41.66 .net
>>209
っつか、陳寿が書いた通り読めば会稽東冶でしょ
そこに日本列島がない事実は動かしようはないんだから
ルート追いかけたら無駄って答え、出てるし

226:日本@名無史さん
22/08/24 01:34:30.49 .net
「後漢書倭伝」
楽浪郡境はその国(邪馬臺国)を去ること万二千里、
その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里なり。
>これ、その(邪馬臺国)の西北界、狗邪韓国を去ることと書いてるけど
>この認識だと、狗邪韓国は(邪馬臺国)の一部だと言ってる事になるが??
>まあ後の任那地域だけど

227:日本@名無史さん
22/08/24 01:47:01.61 .net
>>211
ならんけど
楽浪郡境(帯方の言い換え)まで万二千里、
(帯方から)西北界(狗邪韓)まで七千余里
どっちも地名は倭国から見て境界の外側


228:日本@名無史さん
22/08/24 02:02:56.25 .net
>>207
正しいかどうかわからんけどね
個人的にはひっくり返る方が面白い。

229:日本@名無史さん
22/08/24 05:46:52.63 .net
>>213
逆張りは原理的に難しいんだよ
多数派を説得するには強い説得力がなくちゃいけないからね
個人的な思い込みで言い張るだけだと確実に負ける

230:日本@名無史さん
22/08/24 06:36:39.55 .net



231:会稽東冶が会稽から東冶までの地域(郡全体)って説と会稽東冶地方(郡南部)って議論はあったけど、後者で決着してるでしょ?



232:日本@名無史さん
22/08/24 07:06:37.48 .net
>>214
当然、根本的に論より証拠と思う。

233:日本@名無史さん
22/08/24 07:14:28.71 .net
>>216
だな。鉄なんて曽根・稲部遺跡で発見とか
近畿に鉄無しとかだったからな

234:日本@名無史さん
22/08/24 07:21:52.73 .net
>>205
短里で書かれた報告書を長里と勘違いしたため、実際より南方に想定してしまったもの。

235:日本@名無史さん
22/08/24 07:26:45.62 .net
>>211
後漢書は倭国イコール邪馬台国としているようにも読めるね。
後漢の頃にはまだ邪馬台国より南の狗奴国とかは知られていなかったけれど、後漢書が書かれた時点ではすでに魏志倭人伝があったから、実は女王に属していない国があることも知っていた。
だから、女王が支配している領域という意味で邪馬台国と使っていた可能性はある。

236:日本@名無史さん
22/08/24 07:28:18.02 .net
>>212
後漢書でも魏志倭人伝でも、狗邪韓国は倭人の世界。
後の伽耶。

237:日本@名無史さん
22/08/24 07:40:59.02 .net
>>220
そんなこと史書に書いてないし
定説もそうじゃないから

238:日本@名無史さん
22/08/24 07:42:44.23 .net
>>221
だったら半島の倭人は何処に居るんだ?

239:琪瑛教祭酒
22/08/24 07:44:07.18 .net
>>210.それをいつまでもやってるのが九州だわ。
で九州から300年は信用されてる巫道が九州にない。無理やり話をつくりその後につなげてるだけで説得力0。
九州のような半島と交流が進んでいたような地域から布教しようとはしないのよ。

240:日本@名無史さん
22/08/24 07:45:52.04 .net
>>222
国なら王、官とか挙げられるよな?
居住地域と思うけど

241:日本@名無史さん
22/08/24 07:51:45.18 .net
對馬国、投馬国と官が違うよ

242:日本@名無史さん
22/08/24 07:53:44.10 .net
>>212
中国と日本では表現のしかたが違うのかも

243:日本@名無史さん
22/08/24 07:53:47.39 .net
>>225
別の資料だし時期も違うでしょう

244:日本@名無史さん
22/08/24 07:55:16.90 .net
對馬国、投馬国と官名が違うよ
なんで可能性はないな

245:日本@名無史さん
22/08/24 07:55:17.98 .net
>>226
>>222 の間違い

246:日本@名無史さん
22/08/24 07:57:34.71 .net
>>229 も間違い
226は220へのレスです。

247:日本@名無史さん
22/08/24 07:57:43.75 .net
>>227
三国志と後漢書も時期がちがう

248:日本@名無史さん
22/08/24 08:05:25.44 .net
>>231
まあそういう事
魏志倭人伝は山海経からも引用してるからその時代のも混ざってるでしょう

249:日本@名無史さん
22/08/24 08:07:21.28 .net
>>226
どっちにしろ狗邪韓国が倭だという学説は存在しない

250:日本@名無史さん
22/08/24 08:09:32.09 .net
>>233
倭の北岸狗邪韓国をどう解釈するの?

251:日本@名無史さん
22/08/24 08:09:44.12 .net
>>227
>別の資料だし時期も違うでしょう
別の国だしな

252:日本@名無史さん
22/08/24 08:11:28.69 .net
>>232
ですね
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
これ以降は山海経と思います。

253:日本@名無史さん
22/08/24 08:12:05.41 .net
>>234
だから皆と同じに普通に読む
倭の北の向こう岸にある韓の狗邪国と

254:日本@名無史さん
22/08/24 08:14:38.56 .net
>>237
韓は東西が海で南は倭と接するをどう解釈するの?

255:日本@名無史さん
22/08/24 08:22:33.79 .net
>>238
間に別の国はないので南北普通に接してる

256:日本@名無史さん
22/08/24 08:25:36.39 .net
>>239
じゃあ何故東西は海なんだ?

257:日本@名無史さん
22/08/24 08:29:13.89 .net
>>234
 ア国
┗━━┛
  海
┏━━┓
 イ国
上記の場合
海をなくして、領域だけで話すのでないかと思う。
それに、「の」は文献には無い。

258:日本@名無史さん
22/08/24 08:30:02.46 .net
倭の北岸狗邪韓国も南は倭と接するも結局同じ事が書いてあるわけで

259:日本@名無史さん
22/08/24 08:33:59.92 .net
狗邪韓国が倭ではないなんて馬鹿なことを言う人を初めて見ました。
通説と違うことを堂々と主張されても困ります。

260:日本@名無史さん
22/08/24 08:34:20.25 .net
>>241
其北岸狗邪韓國の其は何処を指してるんだよ?

261:日本@名無史さん
22/08/24 08:35:56.30 .net
>>243
皆と同じに普通に読んでるらしいぞ

262:日本@名無史さん
22/08/24 08:36:46.61 .net
韓は南が倭に接するのだから、半島南岸は倭だよ。
狗邪韓国は韓伝になく倭人伝に記載されているし。

263:日本@名無史さん
22/08/24 08:40:39.29 .net
>>244
「倭」だと思う

264:日本@名無史さん
22/08/24 08:40:53.29 .net
>>244
大海

265:日本@名無史さん
22/08/24 08:41:54.77 .net
>>246
そんなふうに読む人はいないんだよ

266:日本@名無史さん
22/08/24 08:45:28.32 .net
>>249
>>242

267:日本@名無史さん
22/08/24 08:50:31.74 .net
>>250
あなたが頭から湯気たてて怒ったって
皆は狗邪韓国が韓国で倭じゃないと読んでるんだよ
それが普通だから

268:日本@名無史さん
22/08/24 08:51:16.37 .net
>>251
説明になってない

269:日本@名無史さん
22/08/24 08:54:58.89 .net
>>252
だから、北岸とは向こう岸のことで
接するとは間に別の国がない交通路があるってことだと説明済みだよ

270:日本@名無史さん
22/08/24 08:56:05.49 .net
>>253
だったら何故東西は海なんだよ?

271:日本@名無史さん
22/08/24 09:08:18.15 .net
>>249
あなたが通説とは違うことを言い張っている。

272:日本@名無史さん
22/08/24 09:09:39.85 .net
>>253
接するというのは接していることだぞ。
小泉よりアホだな。

273:日本@名無史さん
22/08/24 09:12:04.57 .net
冗談だが
現在の台湾は中国大陸にくっついてるかもしれない。

274:日本@名無史さん
22/08/24 09:19:04.85 .net
>>255
いや、定説だよ
狗耶韓国を倭だという学者はいない

275:日本@名無史さん
22/08/24 09:20:17.71 .net
>>256
領地があって領海があって領地がある
接してます

276:日本@名無史さん
22/08/24 09:22:36.09 .net
>>258
学者が定説?
地動説が異端扱いだった。

277:日本@名無史さん
22/08/24 09:24:37.62 .net
権威は学問の敵

278:日本@名無史さん
22/08/24 09:33:24.53 .net
>>259
だから東の事は知らなくても西は魏と接してる事になるのに何故海なんだ?

279:日本@名無史さん
22/08/24 09:43:39.67 .net
>>262
イミフ

280:日本@名無史さん
22/08/24 09:50:41.29 .net
>>73
ミツウラの年輪年代は今は過去のものでは?
歴博の学者さんの新しいやつが国際的に採用されたでしょ

281:日本@名無史さん
22/08/24 09:58:00.36 .net
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で日本上陸(伊都国=出雲)→伊勢遺跡
こんなつまんねえ話しより俺の説への反論をビシバシ受け付けてます
反論に定説とか要らないからね

282:日本@名無史さん
22/08/24 10:04:34.38 .net
>>265
- 倭人伝編纂時に対馬と投馬の表記揺れを正さなかったのは不自然
- 対馬から水行十日で本土上陸は不自然。当時の航海技術でそんな危険な長距離航行をしたとは考えられず、直近の陸を目指したはず
- そもそも郡使いがそのコースを使ったなら、その前に書かれている壱岐→末盧→伊都の北九州コースは何なのか

283:日本@名無史さん
22/08/24 10:05:27.39 .net
そもそもなんで糸島なんだと思うけどな
こんな所に王が居て一大率が居て重要な港があったとは思えない

284:日本@名無史さん
22/08/24 10:08:28.02 .net
>>266
だから別の資料だって
陳寿は不弥国の後につなげてるんだし想定してる場所が違う

285:日本@名無史さん
22/08/24 10:13:14.62 .net
どんな批判食らっても別資料のツギハギだからで済ませてしまう無敵の人とは議論する余地がない。反証可能性もないし、説の妥当性の評価のしようもない。だから誰からも相手にされない。

286:日本@名無史さん
22/08/24 10:13:47.10 .net
だから不弥国までしか書いてなくて邪馬台国までの行程を探したら
投馬国邪馬台国てのが出てきたから日数になってたけど
これでいいやって貼り付けた

287:日本@名無史さん
22/08/24 10:16:58.34 .net
>>269
俺から言わせれば里数から日数に変わってるのに
なんの疑問も持たないなんておかしいんじゃないの?と思うけどな

288:日本@名無史さん
22/08/24 10:20:02.88 .net
>>270
ぜんぜん、重要性がない邪馬壹国。
行っていないな。

289:日本@名無史さん
22/08/24 10:30:08.10 .net
>>267
同意。楽浪・帯方郡からの居住地域
なので土器が出るだけ

290:日本@名無史さん
22/08/24 10:30:12.24 .net
>>264
>ミツウラの年輪年代は今は過去のものでは?
>歴博の学者さんの新しいやつが国際的に採用されたでしょ
知能不自由な人ですか?

291:日本@名無史さん
22/08/24 10:35:54.35 .net
>>272
一応言っとくと邪馬台はヤマトで日本だから


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