邪馬台国畿内説 Part806at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part806 - 暇つぶし2ch380:日本@名無史さん
22/08/24 17:03:16.99 .net
>>353
墓制の変更が考古学的証拠。

381:日本@名無史さん
22/08/24 17:03:48.02 .net
>>351
あなたの中だけの常識ね。
その常識を証明できる?

382:日本@名無史さん
22/08/24 17:12:31.58 .net
>>359
こうも考える。
元来はト骨は鬼道の風習でなく
鬼道に取り入れたという考え。
卑弥呼以前にも布教みたいもんあったとか?
あったかもしれん。

383:日本@名無史さん
22/08/24 17:16:20.41 .net
そもそも鬼道と定義されたものが倭国にあったわけではなく、卑弥呼や他のものが何かやっているのをそう呼んだ。
時代はすでに実在性が高いと言われる崇神天皇の時代であり、記紀にもない未知の宗教が出る幕はない。
神道の何らかの儀式を見て鬼道と呼んだのだよ。

384:日本@名無史さん
22/08/24 17:19:02.40 .net
>>366
やってたのは権力者でしょう
聞く人が居ないと食えない

385:日本@名無史さん
22/08/24 17:20:12.50 .net
>>366
記紀はだいぶ後に書かれたもん。
文字がないのにどうやって伝わるのか?
伝承だけでどこまで伝わるものか疑問
後づけみたいなもん

386:日本@名無史さん
22/08/24 17:22:34.75 .net
平原遺跡には三種の神器があり、それらを懸けていたと思われる榊の柱跡もある。
記紀にも三種の神器を榊にかけておく話が出てくる。
卑弥呼の時代は


387:史料がない遠い昔ではなく、記紀の人皇の世であることを忘れてはいけない。



388:日本@名無史さん
22/08/24 17:23:49.98 .net
>>368
日本書紀の場合、ある書にはこうある、などの記載があり、口伝ではなく、元となった別の史料が存在していたことは明白。

389:日本@名無史さん
22/08/24 17:25:43.17 .net
崇神天皇からは実在性が高いと言われている。
卑弥呼の時代はすでに歴史の時代だよ。
なぜ卑弥呼が記紀に書かれないのかは自分で考えてね。

390:日本@名無史さん
22/08/24 17:25:56.95 .net
>>369
三種の神器
博多、佐賀にもあるね。
倭人伝 ト骨が出る地域もある

391:日本@名無史さん
22/08/24 17:26:37.90 .net
>>371
九州に行ったからだよ。

392:日本@名無史さん
22/08/24 17:27:11.95 .net
>>369
その時代三種の神器を持とうと思えば持てるくらいの数は出回ってるし
今の価値観を当てはめるのは違う

393:日本@名無史さん
22/08/24 17:29:40.38 .net
纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。

394:日本@名無史さん
22/08/24 17:31:25.61 .net
その時代の価値観で言えば、三種の神器の八咫の鏡と言えば、崇神天皇ですら畏れるほどであった。

395:日本@名無史さん
22/08/24 17:33:04.72 .net
>>371
壹与もないよ

396:日本@名無史さん
22/08/24 17:35:49.86 .net
不在だからない。
九州の神話が多いのは後からの伝承
それを元に記紀を編纂。

397:日本@名無史さん
22/08/24 17:37:48.69 .net
>>376
>その時代の価値観で言えば、
その時代の価値観じゃないだろ

398:日本@名無史さん
22/08/24 17:37:51.13 .net
壹與は肥前川上の與止日女だろうね。
肥前国風土記に出てくる。
言うなれば肥国女王だ。

399:日本@名無史さん
22/08/24 17:40:11.66 .net
なぜ記紀は九州の話が多いのですか?
神武も九州から来たことになっています。

400:日本@名無史さん
22/08/24 17:40:22.20 .net
>>371
記紀に書いてあるとおりが現実の歴史だったとか言ってる人、珍しいですねー

401:日本@名無史さん
22/08/24 17:41:46.20 .net
崇神天皇は王宮跡が出土しちゃったからな。

402:日本@名無史さん
22/08/24 17:42:31.41 .net
>>381
あとから征服した土地だからでしょ
「実は俺ら、お前らの伝説のヒーローなんだぞ。従え!」ってやつ

403:日本@名無史さん
22/08/24 17:43:44.00 .net
>>383
それ、�


404:R世紀前半の遺跡だよ



405:日本@名無史さん
22/08/24 17:44:05.78 .net
>>381
東征、東遷もない。
神武の兄弟の移動。
実際には移民とか?

406:日本@名無史さん
22/08/24 17:45:32.72 .net
>>382
記紀原理主義とは話が合わないだよな

407:日本@名無史さん
22/08/24 17:48:49.06 .net
>>380
いや外部から来た王と見る。

408:日本@名無史さん
22/08/24 17:51:55.13 .net
天皇家にあったのは国産の三角縁神獣鏡かもしれねえだろ

409:日本@名無史さん
22/08/24 18:11:33.92 .net
記紀原理主義の九州説皇国主義は宗教だからな

410:日本@名無史さん
22/08/24 18:20:32.29 .net
>>386
東征、東遷にしてはたしかに
登場人物少ないな。
創作部分かも?

411:日本@名無史さん
22/08/24 18:26:28.48 .net
記紀原理主義より悪いのは
この部分が創作でほんとはきっとこう
とか言ってどんどん創作してくラノベ九州説

412:日本@名無史さん
22/08/24 18:37:01.27 .net
>>364
中学生かな 学者の研究を無視出来るのお前ごときが

413:日本@名無史さん
22/08/24 18:39:09.93 .net
與止日女(世田姫 肥前国風土記)=ヨンドンハルマン(ヨンドン婆さん 済州島)

414:日本@名無史さん
22/08/24 18:40:18.28 .net
URLリンク(ja.wikipedia.org)
九州説論者が基地外なのは此奴が原因だろ

415:日本@名無史さん
22/08/24 18:42:25.21 .net
>>385
年代比定の根拠が菲薄。
崇神天皇は古事記によると西暦258年?または318年?に没。
前者なら、3世紀前半との差は8年しかない。
現在、そのような精度で年代を測定できる技術はまだない。

416:日本@名無史さん
22/08/24 18:43:13.32 .net
>>386
王都を捨てていくのだから、都落ちだろ
理由は知らん

417:日本@名無史さん
22/08/24 18:43:58.38 .net
>>393
サラッと議論から逃げて「それはあなたの中の常識」とか常套句で誤魔化す人は
中学生の典型だ

418:日本@名無史さん
22/08/24 18:44:46.99 .net
>>388
肥前からなら、筑紫から見るとそこそこ外部だよ。
それと卑弥呼共立の基盤となった勢力が吉野ヶ里という推測とも一致する。

419:日本@名無史さん
22/08/24 18:44:59.10 .net
>>397
王都ってのが妄想だからしょうがない

420:日本@名無史さん
22/08/24 18:45:05.85 .net
>>397
そういう考え方もあるので
否定はしない。

421:日本@名無史さん
22/08/24 18:46:08.51 .net
>>400
これも否定できない。

422:日本@名無史さん
22/08/24 18:46:28.61 .net
>>399
その推測が妄想だから
だって根拠ないでしょ

423:日本@名無史さん
22/08/24 18:46:42.28 .net
>>389
八咫というのは大きさを示していて、三角縁神獣鏡はそれほど大きくない。
直径1尺の円の円周が4咫というのが定義。
八咫の鏡なら、直径2尺ということ。

424:日本@名無史さん
22/08/24 18:49:13.64 .net
>>399
説の違いはあるけど一致する
邪馬壹国近畿説

425:日本@名無史さん
22/08/24 18:50:58.63 .net
>>403
まあ、卑弥呼がもとは火の国女王というのは根拠のない想像に過ぎないのは認める。
しかし、記紀に登場しない理由も、卑弥呼共立とほぼ同時に吉野ヶ里が解体されるのも、その後に與止日女こと壹與が肥前に祭られるのも、合理的に説明できてしまう。

426:日本@名無史さん
22/08/24 18:53:20.78 .net
>>398
基礎知識が欠如してるこんなのが議論したってお子様レベル 何十年も前に学者の間で終わった話を蒸し返してるだけ
文句があるならお前が現場に行って調べてこいよ、ここで脳内妄想ぼ披露は要らないので

427:日本@名無史さん
22/08/24 18:53:54.55 .net
ちなみに與止日女神社を肥前から畿内に勧請したときに淀姫の表記になった。
淀川は淀姫神社にちなんで名付けられた。
豊臣家の淀姫もそこから来ている。
実は畿内文化に深く影響を与えている。
おそらく上古においてはかなりの権力を持った女王であったのだろう。

428:日本@名無史さん
22/08/24 18:54:56.89 .net
>>404
そんな定義をあなたが作ったって意味ないのでは?

429:日本@名無史さん
22/08/24 18:55:26.28 .net
>>406
その時期環濠集落が廃れるのは全国的な傾向で吉野ヶ里に限った事じゃない

430:日本@名無史さん
22/08/24 18:56:11.27 .net
畿内最大の河川の名前は、肥国女王壹與の名前にちなんだ名前でした。

431:日本@名無史さん
22/08/24 18:58:53.94 .net
>>410
そうは言っても、吉野ヶ里は周囲に複数の衛星環濠集落を従えた広域支配型の国邑だった。
この規模の国邑は全国でも数少ない。

432:日本@名無史さん
22/08/24 18:59:43.31 .net
>>407
どの学者のなんて論文?
それは通説になったの?
どんな露軸?

433:日本@名無史さん
22/08/24 19:00:59.90 .net
>>412
長く続いた天候不良の飢饉で集落が養えなくなったんだろうと言われてる

434:日本@名無史さん
22/08/24 19:01:34.17 .net
Wiki 咫より引用
『説文解字』にいう「周」を円周と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率は約 3.14 であるが、
これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫としたという説がある[1]。
この説によれば、日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。
後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、福岡県糸島市の平原遺跡から現在5面の大型内行花文鏡が出土している。
なお、この平原遺跡の鏡が世界最大の銅鏡である。

435:日本@名無史さん
22/08/24 19:01:49.25 .net
>>412
王墓もなく鏡もないんだがら、序列は上の方じゃないですね

436:日本@名無史さん
22/08/24 19:02:42.62 .net
>>414
天候データなどの根拠はあるの?

437:日本@名無史さん
22/08/24 19:03:46.88 .net
>>415
WIKIなんて誰でも自由にマイオピニオン書いちゃってるから引用しても無駄

438:日本@名無史さん
22/08/24 19:03:59.62 .net
>>412
吉野ヶ里の周囲の衛星環濠集落とは具体的に何遺跡?

439:日本@名無史さん
22/08/24 19:04:19.09 .net
>>414
九州での出来事だな。

440:日本@名無史さん
22/08/24 19:05:11.18 .net
>>416
吉野ヶ里の墓域の中心は今年から発掘開始ですよ。
これまで神社があり聖域だったのです。
それが移転に合意したそうです。
公園として公開されている領域より北側にあたります。

441:日本@名無史さん
22/08/24 19:05:37.21 .net
>>417
あるはずでそれを裏付けるのが全国的な集落の衰退

442:日本@名無史さん
22/08/24 19:06:48.94 .net
>>420
近畿でも起きてるし全国的な傾向

443:日本@名無史さん
22/08/24 19:09:05.81 .net
卑弥呼が王になった辺りから天候不良が改善した

444:日本@名無史さん
22/08/24 19:10:28.18 .net
>>415
>Wiki 咫より引用
そのWiki の表題見てワラタ
「八咫鏡に関する特殊な説」ですと

445:日本@名無史さん
22/08/24 19:10:49.59 .net
>>423
だな。

446:日本@名無史さん
22/08/24 19:12:04.71 .net
>>423
だな。否定はしないよ。

447:日本@名無史さん
22/08/24 19:13:18.77 .net
>>421
>吉野ヶ里の墓域の中心は今年から発掘開始ですよ。
じゃ、見つかるまであなたの説は封印ですね

448:日本@名無史さん
22/08/24 19:15:27.77 .net
衰退傾向の中突然現れたのが伊勢遺跡
どうです?凄いでしょ?

449:日本@名無史さん
22/08/24 19:15:29.40 .net
>>424
鉄もある安定化による
流通が活発になる。
より大きい町作りが始まる。環濠が減る。

450:日本@名無史さん
22/08/24 19:27:30.27 .net
>>429
稲部遺跡もあるよ

451:日本@名無史さん
22/08/24 19:27:54.36 .net
>>396
>年代比定の根拠が菲薄。
ちゃんと公的機関から発表されてますよー
>現在、そのような精度で年代を測定できる技術はまだない。
ちゃんと学会で発表されてますよー

452:日本@名無史さん
22/08/24 19:29:33.75 .net
>>431
稲部遺跡は鉄工房ってだけでただの集落跡だろ
規模も


453:大きくない



454:日本@名無史さん
22/08/24 19:31:26.58 .net
>>433
単体で考えないよ。
支えていたかもしれないよ。
鉄が無くてどうすんの?

455:日本@名無史さん
22/08/24 19:32:32.12 .net
>>404
>直径1尺の円の円周が4咫というのが定義。
定義じゃありませんでした
「八咫鏡に関する特殊な説」でした

456:日本@名無史さん
22/08/24 19:48:51.56 .net
卑弥呼の本当の名は「米実冨」と言い、米の豊作の神様だった。

457:日本@名無史さん
22/08/24 20:00:27.59 .net
八咫鏡は当て字じゃないのか。
漢字を使わない時代からあるものに、漢字を使うようになってから漢字で書くようになった。
「ベイミフ」と聞いた魏の人が「卑弥呼」と書いたように。

458:日本@名無史さん
22/08/24 20:08:05.02 .net
>>436
五穀豊穣に繋がる

459:日本@名無史さん
22/08/24 20:11:15.86 .net
>>437
>「ベイミフ」と聞いた魏の人が「卑弥呼」と書いたように。
聞かないし書かないよ

460:日本@名無史さん
22/08/24 20:13:29.48 .net
>>437
漢字を使わなくても、大きさの概念はあったでしょ。
基本となる尺は身体尺度だし。
まあでも倭人は呉の太伯の末裔を名乗っていたくらいだから、実は漢文の素養がある人物はいたはずなんだよね。
太伯を知っていたということは、史記を読んでいたはず。
本当に太伯の末裔ならその必要もないだろうけど。

461:日本@名無史さん
22/08/24 20:14:18.39 .net
>>436
漢字一文字に二音節を割り当てたとは思えないな。
他の発音だと思う。

462:日本@名無史さん
22/08/24 20:16:04.96 .net
>>438
番能邇邇芸は実際にそういう意味だと聞いた。
稲穂が鮮やかに実るという豊穣の名前なのだとか。

463:日本@名無史さん
22/08/24 20:17:06.67 .net
>>441
つか「実」を誰がミと読む?」

464:日本@名無史さん
22/08/24 20:38:31.53 .net
>>440
「やたのかがみ」と言うようだが、
ひらがなの場合、意味不明になる。
正しく意味が伝わっていない可能性もある。
それは、ここのスレを読めばわかると思う。

465:日本@名無史さん
22/08/24 20:45:55.78 .net
【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は


466:、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。 この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。



467:日本@名無史さん
22/08/24 20:47:38.07 .net
そもそも古代日本人の名前が「米実富」(べいみふ)みたいな音読みなわけないだろ

468:日本@名無史さん
22/08/24 20:48:54.00 .net
何度聞いてもベイミフだ。

469:琪瑛教祭酒
22/08/24 20:57:46.06 .net
べいみふ?卑弥弓呼わ?

470:日本@名無史さん
22/08/24 21:00:46.00 .net
>>446
いや・・「実」だけ訓読みだぞ

471:日本@名無史さん
22/08/24 21:01:07.27 .net
出雲国造神賀詞には以下のように書いてある
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ
八咫の鏡=大物主
あと興味深いのは櫛と鏡の関係性だね
古墳時代の埴輪には、従軍する、櫛をさし鏡を掲げた巫女の一群の埴輪が見つかっている
鏡も櫛も軍と関係がありそうだね

472:日本@名無史さん
22/08/24 21:01:11.92 .net
それは草

473:日本@名無史さん
22/08/24 21:05:31.37 .net
国産の鏡でしょ

474:日本@名無史さん
22/08/24 21:18:15.87 .net
実は小3の教育漢字
葛城の最終学歴は?

475:日本@名無史さん
22/08/24 21:25:06.00 .net
葛城の枕詞は青柳の
青柳のは糸イトにかかる枕詞でもある
葛城と伊都は関係あったりして

476:日本@名無史さん
22/08/24 21:52:13.87 .net
>>436
「米が実り富ました」じゃないの?

477:日本@名無史さん
22/08/24 22:03:37.58 .net
>>450
その大神(おおみわ)の神奈備の麓に建てられた、鏡を納める倉を持つ建物が纒向遺跡なんだろ。
崇神天皇の磯城瑞籬宮。

478:日本@名無史さん
22/08/25 00:14:53.34 .net
>>450
>八咫の鏡=大物主
鏡に子孫がおるんかwww

479:日本@名無史さん
22/08/25 05:42:43.01 .net
伊都国が現糸島市でなく
当時の伊都国が平原遺跡あたりから
南、吉野ヶ里近辺が伊都国だとすると
陸路行きも納得する。

480:日本@名無史さん
22/08/25 05:47:05.96 .net
k

481:日本@名無史さん
22/08/25 05:51:11.90 .net
>>433
そうでもなかったよ
URLリンク(inoues.net)

482:日本@名無史さん
22/08/25 05:54:28.02 .net
>>458
意味がわからない文章だ

483:日本@名無史さん
22/08/25 05:57:32.60 .net
>>461
相変わらずのかまってちゃん
学習能力なし
スルーすれば?

484:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>462
あんた、あの文章の意味わかるのか?
伊都国は平原遺跡あたりから 南なのか
それとも吉野ヶ里近辺なのか?
全くわからん

485:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>463
平原遺跡から南の吉野ヶ里まで
と文字抜けもあるだろう。

486:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>462
日本語喋れないことが指摘されると、そんなに辛いのか?

487:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>464
ますます意味わからん

488:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>465
意味不明

489:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>467
おまえ>>462 の異常さがわかる?

490:日本@名無史さん
22/08/25 08:12:26.62 .net
>>458
そのくらいの範囲でもおかしくないと思うけどそれだと他の国の場所も変わってくる

491:日本@名無史さん
22/08/25 08:14:48.22 .net
>>469
おかしくないって?
人口いくらの国?

492:日本@名無史さん
22/08/25 08:18:50.77 .net
>>470
仮に千戸でも糸島市だけじゃ食えないんじゃないか?

493:日本@名無史さん
22/08/25 08:24:11.85 .net
千戸って人口で言えば吉野ケ里に匹敵するくらいでしょう
だから吉野ケ里の勢力圏が糸島も含んでたって感じ

494:日本@名無史さん
22/08/25 08:24:46.04 .net
伊都国は周囲の国々から畏怖され、対馬海峡貿易を管理する側だった。
倭国内には租税のシステムもあった。
つまり伊都国は自給自足する必要がない。
貢物と租税で食べていける上流階級。

495:日本@名無史さん
22/08/25 08:27:38.10 .net
>>472
勢力圏の話ではなく、明確に国邑単位での話しですよ。
山を越えて一つの国邑とみなすことはできない。
吉野ヶ里は傍国の一つ、華奴蘇奴(神埼)国でいいでしょう。

496:日本@名無史さん
22/08/25 08:29:41.90 .net
>>474
すまん。定義が違うので
山を越えて一つもある。

497:日本@名無史さん
22/08/25 08:31:05.73 .net
大物主って、物部氏のことなんじゃないの?
纏向遺跡は奈良県桜井市。
物部氏の本拠地でしょう。

498:日本@名無史さん
22/08/25 08:31:33.63 .net
>>475
三国志の世界なのだから。
無茶

499:日本@名無史さん
22/08/25 08:32:33.02 .net
>>477
意味不明
魏のなかにも山はないのか?

500:日本@名無史さん
22/08/25 08:38:41.21 .net
>>476
そうなの?

501:日本@名無史さん
22/08/25 08:45:17.30 .net
>>471
>仮に千戸でも糸島市だけじゃ食えないんじゃないか?
何を言ってるのか意味がわからないんだが

502:日本@名無史さん
22/08/25 08:48:05.50 .net
>>471
墓地指定地だったとか?

503:日本@名無史さん
22/08/25 08:52:37.50 .net
>>481
ありうるな。

504:日本@名無史さん
22/08/25 09:16:34.73 .net
>>481
食えないってどういう意味?
誰が?

505:日本@名無史さん
22/08/25 09:17:38.81 .net
>>483
食えないだよ

506:日本@名無史さん
22/08/25 09:49:16.70 .net
ん?
最近 阿波、ザラコクら爺様の
書き込みがない。
くたばったのか?
邪馬壹国近畿説

507:板野に居たの
22/08/25 10:18:48.98 .net
現代と違って物流網は貧弱な時代、基本的には地産地消、
近隣で人口を維持するだけの食糧が確保できないと、どうしても脆弱になる。
米や野菜なんかは、地元の人口を養う量が獲れるのは絶対条件でしょ。
鉱山集落とか、特殊な場合は除きますが。

508:日本@名無史さん
22/08/25 10:26:10.57 .net
>>486
そういうこと。
北部九州以外にはありえんよ。

509:日本@名無史さん
22/08/25 10:33:58.40 .net
>>486
そういうこと。
北部九州以外ではありえんよ。

510:日本@名無史さん
22/08/25 10:46:02.97 .net
何が?

511:日本@名無史さん
22/08/25 10:46:24.59 .net
>>485
書き込めなくなって地団駄からの男泣きってとこだろう

512:日本@名無史さん
22/08/25 11:02:06.37 .net
>>486
馬鹿を言うな。
日常的に対馬海峡を超えて交易していたことが魏志倭人伝ちあるし、考古学的にも博多は広域交易の拠点。
伊都に至っては大陸との交易も盛んだった。
吉野ヶ里でさえ、その人口は周辺の衛星都市における産物で維持されていたことは明白。
他の地域は知らないが、弥生時代の九州北部はそのような段階まで発展していた。

513:日本@名無史さん
22/08/25 11:05:25.86 .net
伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など九州北岸の国々を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに�


514:u不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。 おそらく洛陽(後漢~曹魏~西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。 だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。



515:板野に居たの
22/08/25 11:11:27.80 .net
>>491
食糧は別、食糧が確保できなきゃ街も維持できない。

516:板野に居たの
22/08/25 11:13:23.06 .net
米は流石に他所から運んでこれるが、生鮮食品は近隣から調達して来る以外どうするのか教えて欲しいわ。

517:日本@名無史さん
22/08/25 11:13:54.64 .net
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長~い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ~ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸

518:日本@名無史さん
22/08/25 11:16:36.54 .net
>>495の模式図だyo!スマホやタブレットじゃなくて、PCで見てね【倭人伝の「会稽東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━┓帯方郡  ┏┛~~~~~~~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~~日本海~~
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~~~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行10日」~~~~┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘~~~~~~~┗━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行10日」┐関門海峡~~~~~▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃~~┏末盧国━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃ 
   ┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃~┗━━┛
 ↑ ┃~~┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━┛「在其南 人長3~4尺(少彦名)
【呉】┃~~┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙~~~~~~~~~去女王(之所都)4,000里」
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃~~┗━女王国島━┛↓~~~~~~~~~
会稽┃~東シナ海~┌南「水行10日」~~~~~~~~
東治┃~~┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃~~│~↓「陸行1月」_~│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃~~│~↓▲沖縄~~~│~~↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃~~│♀【奴国2】(幻).~│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃~~│▲台湾~~~~~│~~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~~南シナ海~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」

519:日本@名無史さん
22/08/25 11:21:31.03 .net
>>492
>>496
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後�


520:緖x援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。 長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。 そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。 -女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種 〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道 -其南有狗奴国 不属女王 〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂 畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。 また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。 消去法により、九州説が正しい。 では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、 その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。 面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、 北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、 卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。



521:日本@名無史さん
22/08/25 11:31:22.28 .net
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」~卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ~ のカラクリ
①265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
②(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱に有効打が打てなかった後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
③おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

522:日本@名無史さん
22/08/25 11:34:51.00 .net
ようするに苦しい弁解ばかりなのが九州説

523:日本@名無史さん
22/08/25 11:37:20.98 .net
>>496
方角も家(宮室楼観城柵厳設)も冢も全く符合しない畿内説w

524:日本@名無史さん
22/08/25 11:43:39.59 .net
>>497
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝~応神朝~継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

525:日本@名無史さん
22/08/25 11:46:58.62 .net
畿内は知れば知るほど邪馬台国が遠のいていく感じがするのだが

526:日本@名無史さん
22/08/25 11:47:27.20 .net
佐賀県唐津市の菜畑遺跡は日本最古の水田が検出されたことで知られているが、
この遺跡で発見された食料はイネだけでなく、
オオムギ、ソバ、アワ、アズキ、ゴボウ、メロン、クルミなど多様な栽培・採集植物がある。
また魚にはエイ、サバ、アジ、ブリ、スズキ、クロダイなど各種に渡り、
狩猟動物もノウサギ、ムササビ、タヌキ、テン、アナグマ、ニホンジカ、イノシシ、イルカ、アシカ、ジュゴンなど多種に及んで、
各個の数の少なさを補っている状況が窺われる。
ところが弥生時代前期の山口県綾羅木遺跡では動植物の捕獲する範囲が限られるようになり、
穀物も米が圧倒的多数を占めるようになる。
特定のものに対する選別的な獲得が進んで、食料の範囲が狭まったことがわかる。
これは逆に少数の対象で食料が賄われていた一安定した食料があったことを物語っている。
さらに大阪府の池上遺跡ではそれが極端に表れ、穀物はイネ、魚はマダイ、肉はイノシシ、
果実はヤマモモというように狭い範囲の食料が圧倒的に多いという結果が示されている。
これは農業などの生産、食料確保が安定すると、
一定の効率のいい食べ物ばかりに偏ってしまうという傾向を物語るものである。
弥生時代に入ると稲作などの生産活動がうまくいった地域では食料体系が大きく変化するのに対して、
そうでない地域では必然的に縄文時代とはあまり変化のない食生活が持続するのであり、
地域的格差が増大して村落相互だけでなく、
村落内部においても社会的関係が変わらざるを得ない社会が出現することとなる。
つづく

527:日本@名無史さん
22/08/25 11:47:35.90 .net
>>501
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

528:日本@名無史さん
22/08/25 11:47:45.52 .net
それでは安定した稲作社会はいつ頃形成されたのであろうか。
そのかぎを握っているのは製塩業の展開である。
米は良質のたんぱく質を内臓しているが、
ナトリウムイオンがなければ体内に吸収することができない。
つまり米を主食とするには塩が必要になってくる。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。
3世紀になると玄海灘や紀淡海峡、若狭湾でも
こうした専業の製塩業の出現が認められるようになる。
専業の製塩集団が形成されることは、それを可能にする稲作栽培の本格化を物語るものである。
熊本県では製塩土器が出るのは6世紀の天草型製塩土器が最初であり、
稲作栽培を中心とした農耕生産が本格化するのはこの頃であったことが窺えるのである。
「農耕社会の形成」(甲元眞之 熊本大学名誉教授)

529:日本@名無史さん
22/08/25 11:48:34.99 .net
>>502
伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など九州北岸の国々を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)

530:日本@名無史さん
22/08/25 11:50:57.57 .net
>>502
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年はガチでキモい皇紀2682年w)

531:日本@名無史さん
22/08/25 11:56:40.78 .net
>>507
まとめると、今から1359年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書

532:日本@名無史さん
22/08/25 11:59:53.04 .net
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

533:日本@名無史さん
22/08/25 12:03:42.77 .net
戸数が過大なんだよな
壱岐は三千程の家って書き方をしてるけど
これがもし戸を意味するんであれば現代より人口が多いんじゃないかってくらい

534:日本@名無史さん
22/08/25 12:10:37.24 .net
>>510
それは嘘

535:日本@名無史さん
22/08/25 12:11:46.06 .net
福岡空港滑走路か、ブリジストン甘木工場か、日田か
ともかく、筑紫平野の周辺であることは間違いないね!
畿内説は「早撃ちマック」ってことだね!w

536:日本@名無史さん
22/08/25 12:12:43.49 .net
奴国二万戸なんて最低でも九州全域が勢力圏じゃなきゃ成り立たない

537:日本@名無史さん
22/08/25 12:14:33.24 .net
箸墓?卑弥呼の冢だろ!
纏向?卑弥呼の家だろ!
短絡的すぎる結論w

538:日本@名無史さん
22/08/25 12:25:41.15 .net
吉野ケ里でも環濠内に千人程で外も含めると五千人くらい暮らしてたらしいけど
絶対二万戸ないよね

539:日本@名無史さん
22/08/25 12:26:08.65 .net
単純じゃなきゃ九州説なんて妄想言う訳ない

540:日本@名無史さん
22/08/25 12:27:25.64 .net
>>514
ワロタww

541:日本@名無史さん
22/08/25 12:33:11.81 .net
マジャームーン「安倍さんが支持してるんだから、畿内説がじぇったいに正しい!箸墓が卑弥呼の冢よ!解りました?!」

542:日本@名無史さん
22/08/25 12:34:44.50 .net
畿内説は(文科省の補助金目当て)「神様の計画」だったのか。。。orz

543:日本@名無史さん
22/08/25 12:45:16.34 .net
とうとうカルト頼みの九州説

544:日本@名無史さん
22/08/25 12:48:16.21 .net
畿内説=「神様の計画」(日本人信者の財産を巻き上げ→自民党に大量献金→文科省からの補助金目当て御用学者による50年繰り上げ)
九州説=史実
ってことだね!
さぁ、〇✕教会に騙されていた畿内説のみんな、脱洗脳のチャンスだよ!w

545:日本@名無史さん
22/08/25 12:49:54.12 .net
「神様の計画」、畿内説!w

546:日本@名無史さん
22/08/25 12:55:09.59 .net
神様の計画ってこれのこと?
URLリンク(news.yahoo.co.jp)

547:日本@名無史さん
22/08/25 12:56:13.65 .net
「神様の計画」日本人を洗脳しる、畿内説!w

548:日本@名無史さん
22/08/25 13:08:50.34 .net
「日本全国民を、とことん洗脳しる!!」畿内説w

549:板野に居たの
22/08/25 13:10:34.42 .net
そう言うの逆効果だよ。

550:日本@名無史さん
22/08/25 13:13:06.64 .net
>>519
実際、安倍内閣になってから特に畿内説が強化されるようになったからね

551:日本@名無史さん
22/08/25 13:17:41.43 .net
ってことは、当然マスコミもグルってことか?

552:日本@名無史さん
22/08/25 13:21:06.82 .net
>>508
長すぎてあまり読む気がしないのだが、目についたのは太宰府を殲滅という部分だな。
戦闘を行なっていないから、殲滅ではなく、顧問団の派遣による占領だろう。
GHQみたいなものだ。

553:日本@名無史さん
22/08/25 13:22:52.99 .net
吉野ヶ里で千戸くらいなので、環濠を持たずにどこまでも集落が続く福岡なら、一万戸以上はいけるだろ。

554:日本@名無史さん
22/08/25 13:25:13.65 .net
>>486
ド素人の思い込み妄想にすぎんわ

555:日本@名無史さん
22/08/25 13:27:59.89 .net
>>507
>>508
まぁ要するに史実はF田氏の〇〇王朝説に近いってことだw
百済を復興させるっていう天智の判断は、半島における倭国の重要な利権確保だったのだが、相手が強すぎたというよくある悲劇に過ぎない。
それを記紀は何とか隠そうとしてあの手この手を使ったってことよ。
あまり言うと、件の団体工作員が噛み付いてくるから多くは言わんがw

556:日本@名無史さん
22/08/25 13:36:12.85 .net
【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
太宰府には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が崩御、翌年にはその王子である大友皇子を倒した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、7世紀以前の古代の記録の多くが失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
URLリンク(i.imgur.com)
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

557:日本@名無史さん
22/08/25 13:37:35.97 .net
>>509
九州王朝説が史実ってことは、関西の巨大古墳は、生前は九州にいた大王の墓ってこつ??

558:日本@名無史さん
22/08/25 13:41:53.40 .net
サッパリだわ。
五穀豊穣 畿内安全

559:日本@名無史さん
22/08/25 13:45:37.82 .net
でも九州王朝説(関西は奥津城「王家の谷」)が史実と判ってよかった!

560:日本@名無史さん
22/08/25 13:45:58.40 .net
畿内の前方後円墳は、物部氏の墓制。
畿内を開拓したのは物部氏の祖である饒速日。
日本国の国号を命名したのも饒速日。
大和王権の最大の実力者は物部氏。

561:日本@名無史さん
22/08/25 13:49:06.45 .net
つまり九州説はザラゴキと同じ民族集団

562:日本@名無史さん
22/08/25 13:50:37.10 .net
環濠集落って、いくつも今も残ってて人住んでるんだな
掘れ

563:日本@名無史さん
22/08/25 13:52:50.45 .net
>>535
けなしているのか?
褒めているのか?
邪馬壹国近畿説

564:日本@名無史さん
22/08/25 13:55:37.87 .net
>>530
>吉野ヶ里で千戸くらいなので
デマでしょ

565:日本@名無史さん
22/08/25 14:15:01.80 .net
>>490
まあ、くたばっても、
いずれ、書き込み ありそうだな

566:日本@名無史さん
22/08/25 15:15:33.16 .net
魏志倭人伝に書いてある事はおかいい
陳寿は間違ってると言っちゃだめなのか?
捏ね繰り回すよりましだと思うけどな

567:日本@名無史さん
22/08/25 15:19:49.54 .net
人が居るとその分食料を確保しなきゃいけないのに狭い範囲じゃ無理よ

568:日本@名無史さん
22/08/25 15:21:20.31 .net
>>541
五千人だとそんなもんでしょ

569:日本@名無史さん
22/08/25 15:40:26.06 .net
>>543他の史料や考古学的発掘の成果を出せない限り妄想以下

570:日本@名無史さん
22/08/25 15:54:36.39 .net
>>543
捏ね繰り回していないよ
水行は別資料ではない。
邪馬壹国近畿説

571:日本@名無史さん
22/08/25 16:07:15.39 .net
陳寿だって間違えることはあるが、たいてい都合が悪くなると陳寿のせいみたいな論調だからな。陳寿をデウスエクスマキナにするな。

572:日本@名無史さん
22/08/25 16:09:06.99 .net
>>546
>>547
だって戸数おかしいでしょ
URLリンク(inoues.net)
最大級の水田跡の服部遺跡
古墳時代前期の約100棟以上の竪穴式住居群が発見されている。だって
まあこの辺は他にもたくさん遺跡があるけど広大な平野だからな

573:日本@名無史さん
22/08/25 16:09:12.29 .net
デウスエクスマキナ?

574:日本@名無史さん
22/08/25 16:11:45.88 .net
>>549
単体で考えていないですよ。

575:日本@名無史さん
22/08/25 16:12:36.61 .net
>>550
演劇で解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、物語を収束させるという手法のこと
少し意味合いは違うが、辻褄が合わなくなった時に著者の陳寿の筆のせいにしてしまうのは、ほとんどこれと変わらん

576:日本@名無史さん
22/08/25 16:13:00.08 .net
>>551
だからその範囲がどのくらいなのかって話し

577:日本@名無史さん
22/08/25 16:17:29.66 .net
>>553
物流経路あるから
弥生後期〜古墳時代にかけての遺跡しかいいようがない。

578:日本@名無史さん
22/08/25 16:19:57.48 .net
伊都国千戸で吉野ヶ里並みのがあったで良いんだけど
その代わり奴国なんて存在しないよって話し

579:日本@名無史さん
22/08/25 16:22:27.42 .net
>>549
服部遺跡は衰退
伊勢遺跡等に移動じゃないか?

580:日本@名無史さん
22/08/25 16:24:52.29 .net
少なめに見積もって一戸を平均5人として、対馬5千人、壱岐1万5千人、末盧2万人、伊都5千人、奴国10万人、投馬25万人、邪馬臺35万人か。

581:日本@名無史さん
22/08/25 16:26:56.87 .net
>>542
呼んだか?  わははははは   @阿波

582:日本@名無史さん
22/08/25 16:28:51.67 .net
>>555
伊勢遺跡には人は住んでない
この地域全部合わせてもおそらく二万人も住んでない
奴国の二万戸は無いわ

583:日本@名無史さん
22/08/25 16:34:55.64 .net
>>558
出たか、
死んだはずだよ お富さんて感じ。
邪馬壹国近畿説

584:日本@名無史さん
22/08/25 16:35:25.55 .net
最大級の服部遺跡が約100棟以上の竪穴式住居群だぞ
二万人なんて絶対無理

585:日本@名無史さん
22/08/25 16:37:17.18 .net
>>559
>伊勢遺跡には人は住んでない
そりゃ倭国(阿波)みたいな集落遺跡群が無いんだから、碌に人が住んでいないのは当たり前。   @阿波

586:日本@名無史さん
22/08/25 16:38:23.99 .net
戸数の戸の解釈が間違い?

587:日本@名無史さん
22/08/25 16:45:06.11 .net
>>560
>邪馬壹国近畿説
お前、byだな。 近畿などど、いつまでホラ吹いてんだ?  わははははは   @阿波

588:日本@名無史さん
22/08/25 16:48:28.35 .net
>>562
死んだんじゃねえのかよ

589:日本@名無史さん
22/08/25 16:48:43.28 .net
>>564
そっちがわかりやすい。
byじゃ、邪馬壹国がどこだかわからない。

590:日本@名無史さん
22/08/25 16:50:51.37 .net
>>564
伊勢遺跡もくさいんだよ。

591:日本@名無史さん
22/08/25 16:51:41.21 .net
>>545
デマだったわけか

592:日本@名無史さん
22/08/25 17:00:44.09 .net
>>567
>伊勢遺跡もくさいんだよ。
なんの変哲もない、伊勢遺跡ぐらいしかないからな。   @阿波

593:日本@名無史さん
22/08/25 17:01:57.32 .net
>>568
甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、
吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。
最大級でもこの程度

594:日本@名無史さん
22/08/25 17:05:55.35 .net
>>569
特殊な遺跡だよ
建物といい
生活痕がない。
生活痕は、稲部等の周辺にありゃいい

595:日本@名無史さん
22/08/25 17:10:39.31 .net
>>571
>生活痕がない。
へぼ遺跡。

>生活痕は、稲部等の周辺にありゃいい
だから、伊勢遺跡なんぞ、取るに足りないヘボ遺跡。  それを推すbyもヘボ。  わははははは   @阿波

596:日本@名無史さん
22/08/25 17:10:44.23 .net
>>543
間違っている前提で畿内説がこねくり回すから批判されている。
九州説は最大限に尊重してほとんと矛盾なく説明できる。

597:日本@名無史さん
22/08/25 17:11:45.81 .net
>>572
阿波はさらにない。
URLリンク(ise-iseki.yayoiken.jp)
大型建物あるのか?

598:日本@名無史さん
22/08/25 17:13:23.91 .net
>>555
実際、博多のあたりはどこを掘っても遺跡に当たるらしいじゃん。
福岡平野全部遺跡の塊なら何戸あるんだよ。

599:日本@名無史さん
22/08/25 17:13:37.09 .net
>>573
>九州説は最大限に尊重してほとんと矛盾なく説明できる。
うそこけ! 「阿波」の前でうそは通らんぞ!   @阿波

600:日本@名無史さん
22/08/25 17:15:09.59 .net
>>559
近江は北部九州や畿内ほど弥生遺跡がない

601:日本@名無史さん
22/08/25 17:15:50.64 .net
>>575
らしいじゃわからん。
まずは代表する遺跡だな。

602:日本@名無史さん
22/08/25 17:16:07.67 .net
>>575
滋賀南部も同じだよ
あの辺山じゃなく平野で川もある

603:日本@名無史さん
22/08/25 17:16:48.09 .net
>>577
URLリンク(inoues.net)

604:日本@名無史さん
22/08/25 17:17:04.73 .net
>>573
九州説は考古学研究成果を拒絶している

605:日本@名無史さん
22/08/25 17:17:38.12 .net


606:="_blank" class="reply_link">>>577 あたり前。範囲が違う。



607:日本@名無史さん
22/08/25 17:18:36.48 .net
畿内説こそ、九州における考古学的成果を拒絶しているね。

608:日本@名無史さん
22/08/25 17:18:37.98 .net
>>574
「井の中の蛙大海を知らず」  「盲蛇に怖じず」   @阿波

609:日本@名無史さん
22/08/25 17:19:27.90 .net
可7万戸でせ。

610:日本@名無史さん
22/08/25 17:20:13.23 .net
3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw

611:日本@名無史さん
22/08/25 17:20:28.72 .net
まあ淡水魚だから鮒とか鯉とか鯰でおいしくないけどな

612:日本@名無史さん
22/08/25 17:21:11.24 .net
>>583
畿内説は日本の考古学者の研究成果に基づいた通説
雑多九州諸説は、ど素人の一人一説

613:日本@名無史さん
22/08/25 17:21:15.03 .net
>>584
証拠は?

614:日本@名無史さん
22/08/25 17:22:34.73 .net
>>582
近江は範囲が拡がらない

615:日本@名無史さん
22/08/25 17:23:20.03 .net
>>587
川もあるんだが?

616:日本@名無史さん
22/08/25 17:23:38.31 .net
>>585
>生活痕がない。
へぼ遺跡。

>生活痕は、稲部等の周辺にありゃいい
だから、伊勢遺跡なんぞ、取るに足りないヘボ遺跡。  それを推すbyもヘボ。  わははははは   @阿波

617:日本@名無史さん
22/08/25 17:24:18.95 .net
>>590
可7万戸
だから近畿と言っている

618:日本@名無史さん
22/08/25 17:25:11.80 .net
>>592
大型建物ないんだな。

619:日本@名無史さん
22/08/25 17:29:06.99 .net
>>593
近畿という範囲の根拠がない

620:日本@名無史さん
22/08/25 17:30:08.74 .net
>>595
何説かいな?

621:日本@名無史さん
22/08/25 17:31:00.46 .net
>>594
あるわ
竪穴式住居みたいな地べたの洞穴みたいのじゃないぞ

622:日本@名無史さん
22/08/25 17:31:27.07 .net
>>594
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 徳島県阿波市阿波町
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)。
西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、
纏向遺跡より遥かに企画性を持つ。
西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
URLリンク(www.pref.tokushima.lg.jp)
ちなみに、ここ阿波町の長峰は、「饒速日命」の本拠地だ。   @阿波

623:日本@名無史さん
22/08/25 17:31:27.19 .net
>>595
先ず宗教地だよ

624:日本@名無史さん
22/08/25 17:32:34.97 .net
唐古・鍵遺跡こそが神仙思想の影響が濃厚で卑弥呼の生まれ故郷である。ここから台地の纒向に水害を避けて移動したのであろう。
この説が正解。

625:日本@名無史さん
22/08/25 17:33:25.69 .net
>>458
今の糸島市、佐賀市~久留米市あたりが「伊都国」またはその支配下
今の福岡市~太宰府市が「奴国」またはその支配下だと仮定すると
糸島市から久留米市あたりに行くには、危険な山を越えるか、船で長崎沖を南下して移動してたんだろね

626:日本@名無史さん
22/08/25 17:34:06.28 .net
>>598
弥生中期とあるよ。

627:日本@名無史さん
22/08/25 17:34:57.83 .net
>>575
うむ
実際巨大な前方後円墳に見えるところも地権者たちの反対で発掘できてない、って例も福岡にあるしね

628:日本@名無史さん
22/08/25 17:35:50.58 .net
>>599
>先ず宗教地だよ
そんな大層なもんじゃない。  単なる祭祀跡。  わははははは   @阿波

629:日本@名無史さん
22/08/25 17:36:41.41 .net
>>598
本遺跡は、遺跡の立地や規模、出土遺物などから弥生時代中期の拠点集落と考えられている。
とあるよ

630:日本@名無史さん
22/08/25 17:37:45.53 .net
>>601
弥生時代の交通は船による河川または沿岸航行つまり水行が基本。
山を越えて一つの国?
ないない

631:日本@名無史さん
22/08/25 17:37:51.79 .net
>>600
復興地

632:日本@名無史さん
22/08/25 17:37:58.92 .net
42ヘクタールもある唐古・鍵遺跡が出てきてから北九州説など木っ端微塵よ

633:日本@名無史さん
22/08/25 17:40:49.00 .net
>>608
ただの住居跡が偉そうに言うんじゃない

634:日本@名無史さん
22/08/25 17:41:11.26 .net
隠岡遺跡(三重県・伊勢市
後に伊勢神宮。
邪馬壹国近畿説

635:日本@名無史さん
22/08/25 17:41:58.35 .net
>>608
福岡平野は何haあると思っている?

636:日本@名無史さん
22/08/25 17:42:25.51 .net
纏向遺跡 開拓地
邪馬壹国近畿説

637:日本@名無史さん
22/08/25 17:43:52.80 .net
吉野ヶ里遺跡?? 九州で有名なだけ、唐古・鍵遺跡のほうがどうやら明らかに格上ですから。

638:日本@名無史さん
22/08/25 17:45:22.25 .net
>>575
博多はもちろん、福岡市は西(伊都国)から東まで遺跡の宝庫
そういや、蒙古襲来で防塁堤を築いたのもこの範囲
朝鮮半島から船でたどり着きやすいのはここなんだろう

639:日本@名無史さん
22/08/25 17:49:17.37 .net
>>609
残念でした。
>
洪水や外敵から集落を守るため、また物資を運ぶ運河として、何重にも溝を掘り巡らしていました。

640:日本@名無史さん
22/08/25 17:49:35.70 .net
>>605
だからどうした?   @阿波

641:日本@名無史さん
22/08/25 17:53:35.87 .net
完全勝利
>
唐古・鍵の集落で様々な生活道具が生産され、周辺の集落に供給されるシステムができていた。そう考えると、これら周辺集落を含めて「唐古・鍵遺跡群」と認識でき、その規模は西日本でも最大級といえます。

642:日本@名無史さん
22/08/25 17:55:27.09 .net
東夷伝で最大の国邑である奴国二万戸には、相応の食糧供給が必要になる。
そのための那津であり、西日本各地はもちろん、朝鮮半島からも物資が運び込まれた国際貿易港であった。
もっとも、狗邪韓国を倭国と見れば国内�


643:フ貿易なのだが。 畿内にはそのような交易の基盤はない。



644:日本@名無史さん
22/08/25 17:56:11.81 .net
>>617
その西日本って、近畿のことだろ。

645:日本@名無史さん
22/08/25 17:57:12.31 .net
九州説の皆様、お疲れ様でしたこれが結論です
>
北九州や瀬戸内から東に向かった場合、大阪の河内湖、さらに大和川をさかのぼって最後に辿りつくのがここ唐古・鍵なのです。
運河を通ってね。

646:日本@名無史さん
22/08/25 17:57:34.57 .net
>>617
>その規模は西日本でも最大級といえます。
大げさに言うな!  「倭人(阿波勢力)」の進出遺跡だ。  
がしかし、弥生の大洪水で埋没してしまった遺跡。   @阿波

647:日本@名無史さん
22/08/25 17:57:39.99 .net
近畿で唐古鍵遺跡は池上曽根遺跡以下の存在

648:日本@名無史さん
22/08/25 18:01:41.83 .net
>>619
可哀想になるよ、身のほど知らずが。しょせん九州。西日本全体でみれば昔からスケールが小さかったわけね。首都の器ではないと古代人も判断したわけだ。

649:日本@名無史さん
22/08/25 18:02:06.40 .net
>>622
その池上曽根遺跡も、「倭人(阿波勢力)」の進出遺跡だ。  
がしかし、弥生の大洪水で埋没してしまった遺跡。   @阿波

650:日本@名無史さん
22/08/25 18:02:27.50 .net
>>618
>東夷伝で最大の国邑である奴国二万戸には、
九州説はまた露骨に倭人伝無視か

651:日本@名無史さん
22/08/25 18:14:20.38 .net
>>624
なので湾岸工事で開拓
鉄入手経路のひとつ。
邪馬壹国近畿説

652:日本@名無史さん
22/08/25 18:20:08.67 .net
>>626
>邪馬壹国近畿説
近畿説?
byよ、「阿波」の前にして、ふざけたたわごと言うな!   @阿波

653:日本@名無史さん
22/08/25 18:20:37.26 .net
>>618
近畿には若狭があります。

654:日本@名無史さん
22/08/25 18:22:11.22 .net
>>627
大型プロジェクト。ちまちま阿波とは
スケールが違う。

655:日本@名無史さん
22/08/25 18:24:10.25 .net
>>629
これだけのプロジェクト、
鉄が必要。
九州が安定しないと
入ってこない。

656:日本@名無史さん
22/08/25 18:26:30.34 .net
九州には痕跡がないのよね
そんな中初めて出た近畿に匹敵する遺跡が吉野ケ里で此処には王が居たんでしょう
福岡平野に埋まってるってのもわかるんだけどそれにしても出なさすぎだろ

657:日本@名無史さん
22/08/25 18:28:01.32 .net
>>629
>ちまちま阿波とはスケールが違う。
近畿説??
たかだか「阿波」一国に、まったく及ばない近畿説??  恥を知れ、by。

658:日本@名無史さん
22/08/25 18:28:59.33 .net
>>632
頑張れ ちまちま阿波爺

659:日本@名無史さん
22/08/25 18:29:15.53 .net
はあ?
糸島と福岡に弥生王墓が出てるだろうが。

660:日本@名無史さん
22/08/25 18:31:01.96 .net
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。

661:日本@名無史さん
22/08/25 18:31:55.47 .net
阿波の古代妄想聞いてても価値ない
うそばっか言ってるし

662:日本@名無史さん
22/08/25 18:32:39.39 .net
>>635
でも邪馬壹国ではない。
邪馬壹国近畿である。

663:日本@名無史さん
22/08/25 18:37:57.95 .net
>>637
近畿では壹与も準備していたんだよ。
13才になるまで待っていた。
まとまらないと読んでいる。
絶好のタイミング
若いから長期に支配できる。

664:日本@名無史さん
22/08/25 18:48:18.60 .net
>>635
>魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
つまり東遷説は妄想
そして九州もずっと栄え続けちゃいなかった
これも確定
つまり九州がど没落した後しばらくして
畿内が勃興した
これが通説

665:板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
[ここ壊れてます] .net
阿波(粟)に後に皇室の祭祀を担う力を持った一族が居たのと言うのは、まあ、間違い無いだろう。

しかし、いつまで阿波(粟)を根拠地にしていたのかは、
現在のところ不明。

先進的な部族がいても、当時の土木技術では、暴れ川吉野川を制御することは叶わず、

やむを得ず、適地を求めて移住したものと考える。

666:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>635
URLリンク(www.asahi.com)
稲作は全国に普及してるから
それより卑弥呼の時代の建物跡がないと
墓じゃなあ

667:琪瑛教祭酒
[ここ壊れてます] .net
邪馬薹の者は、卑弥呼の後を追い徇宗したんだよ。残された者の中から優れた世継として台与が選ばれ女王となった、或いは卑弥呼が指定していたのかもしれん、卑弥弓呼はそれが不満かもしれん。
何れにしろ、列島に道教が持ち込まれたのはこの卑弥呼以外にはあるまい。儒教=道、鬼道=老荘思想、勾玉の形もこの時代で変化する、万物を生み出す形。その後の斎宮、物氏もまた荘子の物からだろう、卑奴母離は雛守だな。

668:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、
畿内説は何も説明することができない。
え~っと、説明して良いの?

669:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
「唐古・鍵遺跡」 こそ奈良県磯城郡田原本町にある遺跡で邪馬台国のもと宮都か?

①神武天皇 磯城を支配する兄磯城を討伐し、弟磯城が恭順。
②綏靖天皇 五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。
③安寧天皇 渟名底仲媛命を皇后として息石耳命、大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、
       磯城津彦命を得た。磯城県主クロハヤの館で生まれる。
④懿徳天皇 同母弟に磯城津彦命がいる。
⑥孝安天皇 皇后磯城県主葉江の娘の長媛
⑦孝霊天皇 皇后(細媛命、細比売命)磯城県主(または十市県主)大目の娘。
       黒田廬戸宮『和名類聚抄』の大和国城下郡黒田郷と見られ、
       現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺と伝承。皇女倭迹迹日百襲姫命。
⑧孝元天皇 母は皇后で磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)。
       異母兄弟に「倭迹迹日百襲姫命」・吉備津彦命・稚武彦命らがいる。
⑩崇神天皇 歴代で始めて「マキ」の音が付く天皇、御間城、御眞木、美萬貴天皇。
       皇居 磯城・瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。


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