22/08/24 01:34:30.49 .net
「後漢書倭伝」
楽浪郡境はその国(邪馬臺国)を去ること万二千里、
その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里なり。
>これ、その(邪馬臺国)の西北界、狗邪韓国を去ることと書いてるけど
>この認識だと、狗邪韓国は(邪馬臺国)の一部だと言ってる事になるが??
>まあ後の任那地域だけど
227:日本@名無史さん
22/08/24 01:47:01.61 .net
>>211
ならんけど
楽浪郡境(帯方の言い換え)まで万二千里、
(帯方から)西北界(狗邪韓)まで七千余里
どっちも地名は倭国から見て境界の外側
。
228:日本@名無史さん
22/08/24 02:02:56.25 .net
>>207
正しいかどうかわからんけどね
個人的にはひっくり返る方が面白い。
229:日本@名無史さん
22/08/24 05:46:52.63 .net
>>213
逆張りは原理的に難しいんだよ
多数派を説得するには強い説得力がなくちゃいけないからね
個人的な思い込みで言い張るだけだと確実に負ける
230:日本@名無史さん
22/08/24 06:36:39.55 .net
231:会稽東冶が会稽から東冶までの地域(郡全体)って説と会稽東冶地方(郡南部)って議論はあったけど、後者で決着してるでしょ?
232:日本@名無史さん
22/08/24 07:06:37.48 .net
>>214
当然、根本的に論より証拠と思う。
233:日本@名無史さん
22/08/24 07:14:28.71 .net
>>216
だな。鉄なんて曽根・稲部遺跡で発見とか
近畿に鉄無しとかだったからな
234:日本@名無史さん
22/08/24 07:21:52.73 .net
>>205
短里で書かれた報告書を長里と勘違いしたため、実際より南方に想定してしまったもの。
235:日本@名無史さん
22/08/24 07:26:45.62 .net
>>211
後漢書は倭国イコール邪馬台国としているようにも読めるね。
後漢の頃にはまだ邪馬台国より南の狗奴国とかは知られていなかったけれど、後漢書が書かれた時点ではすでに魏志倭人伝があったから、実は女王に属していない国があることも知っていた。
だから、女王が支配している領域という意味で邪馬台国と使っていた可能性はある。
236:日本@名無史さん
22/08/24 07:28:18.02 .net
>>212
後漢書でも魏志倭人伝でも、狗邪韓国は倭人の世界。
後の伽耶。
237:日本@名無史さん
22/08/24 07:40:59.02 .net
>>220
そんなこと史書に書いてないし
定説もそうじゃないから
238:日本@名無史さん
22/08/24 07:42:44.23 .net
>>221
だったら半島の倭人は何処に居るんだ?
239:琪瑛教祭酒
22/08/24 07:44:07.18 .net
>>210.それをいつまでもやってるのが九州だわ。
で九州から300年は信用されてる巫道が九州にない。無理やり話をつくりその後につなげてるだけで説得力0。
九州のような半島と交流が進んでいたような地域から布教しようとはしないのよ。
240:日本@名無史さん
22/08/24 07:45:52.04 .net
>>222
国なら王、官とか挙げられるよな?
居住地域と思うけど
241:日本@名無史さん
22/08/24 07:51:45.18 .net
對馬国、投馬国と官が違うよ
242:日本@名無史さん
22/08/24 07:53:44.10 .net
>>212
中国と日本では表現のしかたが違うのかも
243:日本@名無史さん
22/08/24 07:53:47.39 .net
>>225
別の資料だし時期も違うでしょう
244:日本@名無史さん
22/08/24 07:55:16.90 .net
對馬国、投馬国と官名が違うよ
なんで可能性はないな
245:日本@名無史さん
22/08/24 07:55:17.98 .net
>>226
>>222 の間違い
246:日本@名無史さん
22/08/24 07:57:34.71 .net
>>229 も間違い
226は220へのレスです。
247:日本@名無史さん
22/08/24 07:57:43.75 .net
>>227
三国志と後漢書も時期がちがう
248:日本@名無史さん
22/08/24 08:05:25.44 .net
>>231
まあそういう事
魏志倭人伝は山海経からも引用してるからその時代のも混ざってるでしょう
249:日本@名無史さん
22/08/24 08:07:21.28 .net
>>226
どっちにしろ狗邪韓国が倭だという学説は存在しない
250:日本@名無史さん
22/08/24 08:09:32.09 .net
>>233
倭の北岸狗邪韓国をどう解釈するの?
251:日本@名無史さん
22/08/24 08:09:44.12 .net
>>227
>別の資料だし時期も違うでしょう
別の国だしな
252:日本@名無史さん
22/08/24 08:11:28.69 .net
>>232
ですね
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
これ以降は山海経と思います。
253:日本@名無史さん
22/08/24 08:12:05.41 .net
>>234
だから皆と同じに普通に読む
倭の北の向こう岸にある韓の狗邪国と
254:日本@名無史さん
22/08/24 08:14:38.56 .net
>>237
韓は東西が海で南は倭と接するをどう解釈するの?
255:日本@名無史さん
22/08/24 08:22:33.79 .net
>>238
間に別の国はないので南北普通に接してる
256:日本@名無史さん
22/08/24 08:25:36.39 .net
>>239
じゃあ何故東西は海なんだ?
257:日本@名無史さん
22/08/24 08:29:13.89 .net
>>234
ア国
┗━━┛
海
┏━━┓
イ国
上記の場合
海をなくして、領域だけで話すのでないかと思う。
それに、「の」は文献には無い。
258:日本@名無史さん
22/08/24 08:30:02.46 .net
倭の北岸狗邪韓国も南は倭と接するも結局同じ事が書いてあるわけで
259:日本@名無史さん
22/08/24 08:33:59.92 .net
狗邪韓国が倭ではないなんて馬鹿なことを言う人を初めて見ました。
通説と違うことを堂々と主張されても困ります。
260:日本@名無史さん
22/08/24 08:34:20.25 .net
>>241
其北岸狗邪韓國の其は何処を指してるんだよ?
261:日本@名無史さん
22/08/24 08:35:56.30 .net
>>243
皆と同じに普通に読んでるらしいぞ
262:日本@名無史さん
22/08/24 08:36:46.61 .net
韓は南が倭に接するのだから、半島南岸は倭だよ。
狗邪韓国は韓伝になく倭人伝に記載されているし。
263:日本@名無史さん
22/08/24 08:40:39.29 .net
>>244
「倭」だと思う
264:日本@名無史さん
22/08/24 08:40:53.29 .net
>>244
大海
265:日本@名無史さん
22/08/24 08:41:54.77 .net
>>246
そんなふうに読む人はいないんだよ
266:日本@名無史さん
22/08/24 08:45:28.32 .net
>>249
>>242
267:日本@名無史さん
22/08/24 08:50:31.74 .net
>>250
あなたが頭から湯気たてて怒ったって
皆は狗邪韓国が韓国で倭じゃないと読んでるんだよ
それが普通だから
268:日本@名無史さん
22/08/24 08:51:16.37 .net
>>251
説明になってない
269:日本@名無史さん
22/08/24 08:54:58.89 .net
>>252
だから、北岸とは向こう岸のことで
接するとは間に別の国がない交通路があるってことだと説明済みだよ
270:日本@名無史さん
22/08/24 08:56:05.49 .net
>>253
だったら何故東西は海なんだよ?
271:日本@名無史さん
22/08/24 09:08:18.15 .net
>>249
あなたが通説とは違うことを言い張っている。
272:日本@名無史さん
22/08/24 09:09:39.85 .net
>>253
接するというのは接していることだぞ。
小泉よりアホだな。
273:日本@名無史さん
22/08/24 09:12:04.57 .net
冗談だが
現在の台湾は中国大陸にくっついてるかもしれない。
274:日本@名無史さん
22/08/24 09:19:04.85 .net
>>255
いや、定説だよ
狗耶韓国を倭だという学者はいない
275:日本@名無史さん
22/08/24 09:20:17.71 .net
>>256
領地があって領海があって領地がある
接してます
276:日本@名無史さん
22/08/24 09:22:36.09 .net
>>258
学者が定説?
地動説が異端扱いだった。
277:日本@名無史さん
22/08/24 09:24:37.62 .net
権威は学問の敵
278:日本@名無史さん
22/08/24 09:33:24.53 .net
>>259
だから東の事は知らなくても西は魏と接してる事になるのに何故海なんだ?
279:日本@名無史さん
22/08/24 09:43:39.67 .net
>>262
イミフ
280:日本@名無史さん
22/08/24 09:50:41.29 .net
>>73
ミツウラの年輪年代は今は過去のものでは?
歴博の学者さんの新しいやつが国際的に採用されたでしょ
281:日本@名無史さん
22/08/24 09:58:00.36 .net
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で日本上陸(伊都国=出雲)→伊勢遺跡
こんなつまんねえ話しより俺の説への反論をビシバシ受け付けてます
反論に定説とか要らないからね
282:日本@名無史さん
22/08/24 10:04:34.38 .net
>>265
- 倭人伝編纂時に対馬と投馬の表記揺れを正さなかったのは不自然
- 対馬から水行十日で本土上陸は不自然。当時の航海技術でそんな危険な長距離航行をしたとは考えられず、直近の陸を目指したはず
- そもそも郡使いがそのコースを使ったなら、その前に書かれている壱岐→末盧→伊都の北九州コースは何なのか
283:日本@名無史さん
22/08/24 10:05:27.39 .net
そもそもなんで糸島なんだと思うけどな
こんな所に王が居て一大率が居て重要な港があったとは思えない
284:日本@名無史さん
22/08/24 10:08:28.02 .net
>>266
だから別の資料だって
陳寿は不弥国の後につなげてるんだし想定してる場所が違う
285:日本@名無史さん
22/08/24 10:13:14.62 .net
どんな批判食らっても別資料のツギハギだからで済ませてしまう無敵の人とは議論する余地がない。反証可能性もないし、説の妥当性の評価のしようもない。だから誰からも相手にされない。
286:日本@名無史さん
22/08/24 10:13:47.10 .net
だから不弥国までしか書いてなくて邪馬台国までの行程を探したら
投馬国邪馬台国てのが出てきたから日数になってたけど
これでいいやって貼り付けた
287:日本@名無史さん
22/08/24 10:16:58.34 .net
>>269
俺から言わせれば里数から日数に変わってるのに
なんの疑問も持たないなんておかしいんじゃないの?と思うけどな
288:日本@名無史さん
22/08/24 10:20:02.88 .net
>>270
ぜんぜん、重要性がない邪馬壹国。
行っていないな。
289:日本@名無史さん
22/08/24 10:30:08.10 .net
>>267
同意。楽浪・帯方郡からの居住地域
なので土器が出るだけ
290:日本@名無史さん
22/08/24 10:30:12.24 .net
>>264
>ミツウラの年輪年代は今は過去のものでは?
>歴博の学者さんの新しいやつが国際的に採用されたでしょ
知能不自由な人ですか?
291:日本@名無史さん
22/08/24 10:35:54.35 .net
>>272
一応言っとくと邪馬台はヤマトで日本だから
292:日本@名無史さん
22/08/24 10:36:34.04 .net
>>275
それぞれですね。共通がないな
293:日本@名無史さん
22/08/24 10:38:12.56 .net
>>271
みんなそこはちゃんと見てるでしょ。投馬から先は倭人からの伝聞だとかいろいろ説はあるし、お前のも説の一つに過ぎない。
別資料だから、という理由は>>266への答えになっていない。他の説だってそこは別資料だと思っているし、別資料であることは他の説に対する優位性になんら寄与しない。>>266のような疑問に合理的な説明が与えられないのであれば、他の説に対して優位とは言えない。
294:日本@名無史さん
22/08/24 10:41:46.73 .net
>>277
行く必要のない所に行ってわざわざ海流に逆らうなんておかしいと思うけどな
海流に乗って流される方が楽じゃん
295:日本@名無史さん
22/08/24 10:47:20.80 .net
>>278
まったくおかしくないね
何度も書くけど10日も海上を漂流するより最寄りの陸を目指す方が安全だし現実的。それに海流頼りって、帰りはどうすんの。
296:日本@名無史さん
22/08/24 10:50:57.97 .net
>>279
帰りはちょっと頑張らなきゃね
ただ平戸辺りからの出港だろうけど
297:日本@名無史さん
22/08/24 10:56:58.55 .net
>>280
帰路の記載はないから定かではないと
思う邪馬壹国近畿説。
298:日本@名無史さん
22/08/24 10:56:59.53 .net
>>280
帰路の記載はないから定かではないと
思う邪馬壹国近畿説。
299:日本@名無史さん
22/08/24 10:57:32.16 .net
>>282
二重投稿 スマホ
300:日本@名無史さん
22/08/24 12:07:21.21 .net
>>274
これ、なにかと思ったらイロイロ取り違えてんだな
ばかもいるもんだな
301:日本@名無史さん
22/08/24 12:40:20.62 .net
>>278
>海流に乗って流される方が楽じゃん
日本海は水域として閉鎖性が高いので潮流の影響が大きく、表層の海流が安定しない
302:日本@名無史さん
22/08/24 12:52:39.97 .net
>>267
実際に糸島には王墓がたくさんある。
303:日本@名無史さん
22/08/24 12:55:01.41 .net
>>280
対馬あたりで倭人は南北に日々行き来して交易しているのあるだろ。
魏志倭人伝を無視した妄想してもムダ
304:日本@名無史さん
22/08/24 13:25:16.63 .net
>>287
漁師が魚売りに行くんじゃないし中国の船は小さくないから
305:日本@名無史さん
22/08/24 13:26:35.20 .net
>>286
墓に住んでるわけじゃないでしょ
墓場だってことは認めてる
306:日本@名無史さん
22/08/24 13:46:27.03 .net
>>289
糸島は墓場じゃない
大きな遺跡の周縁に有名な墓域があるだけ
墓域でなく中心街によそ者の前方後円墳が建つことで
伊都国の終わりがわかる
これはよそ者による一種のマウンティングだから
307:日本@名無史さん
22/08/24 14:02:26.18 .net
中国の船
URLリンク(www.oceandictionary.jp)
308:日本@名無史さん
22/08/24 14:30:15.99 .net
>>283
使者を迎入れるような
居住跡等が見つからない。
楽浪式土器を理由にするが
楽浪等からの居住区では?
309:日本@名無史さん
22/08/24 14:34:25.09 .net
糸島へ
直接上陸しない理由?
310:日本@名無史さん
22/08/24 14:48:08.82 .net
>>293
続き、乱で縮小したのかな?
奴国も抑え込むまでの力がない。
311:日本@名無史さん
22/08/24 15:00:34.29 .net
俺は邪馬台ってのはヤマトで日本の事だと思ってるけど
王が居る国と居ない国ってのも全部集落レベルの国として並べてると思ってるんだけどな
実際はもっと大きい範囲を統治してて卑弥呼を共立した王だろう
312:日本@名無史さん
22/08/24 15:07:17.19 .net
>>295
誰が?
313:日本@名無史さん
22/08/24 15:09:28.81 .net
狗奴国だって女王国連合の国があんなにたくさんあるなら一国で太刀打ちできるわけねえじゃん
314:日本@名無史さん
22/08/24 15:11:41.68 .net
>>295
そんな強い権力がありゃ、
乱を抑え込むんでは?
卑弥呼亡き跡王がたつがおさまらずとある。
315:日本@名無史さん
22/08/24 15:14:10.99 .net
でも伊都国王の子孫が、遠征してきた天皇を出迎えてる話も残ってるし卑弥呼が誰かヤマト政権は聞いて知ってただろうね ぼやかして記録に残してるかも
316:日本@名無史さん
22/08/24 15:14:31.27 .net
>>298
共立してるんだからお互いに牽制しあってるよ
317:日本@名無史さん
22/08/24 15:17:04.07 .net
>>300
だよな邪馬壹国にも
抑え込む力はない。
宗教的な都では?
318:日本@名無史さん
22/08/24 15:25:44.94 .net
>>301
邪馬壹国が政治に関わったという
記載はない。弟のみの記載しかない。
319:日本@名無史さん
22/08/24 15:28:44.34 .net
争いってどうせ領土の奪い合いでしょ
それに疲れたから卑弥呼に仲裁を頼んだのに
自分の領土を卑弥呼に献上するわけないだろ
320:日本@名無史さん
22/08/24 15:32:57.79 .net
宗教的と言っても政治だろう
例えば魏に朝貢するのも卑弥呼一人では決められなくても最終判断は卑弥呼でしょう
321:日本@名無史さん
22/08/24 15:33:03.16 .net
>>292
わざわざ輸入土器を使うくらいなんだから、そこに郡使が滞在していたんだよ。
魏志倭人伝に伊都に滞在したとあるのを無視するなよ。
322:日本@名無史さん
22/08/24 15:33:52.43 .net
>>294
そもそも奴国は押さえ込む相手でもなんでもなく、一体で発展していただろう。
323:日本@名無史さん
22/08/24 15:34:08.38 .net
>>303
遠方からでは、どうやって
抑え込む事はできるのかな?と思い
九州へとなる。
324:日本@名無史さん
22/08/24 15:35:47.78 .net
>>307
何言ってるんだ?
卑弥呼に抑え込む力なんてない
325:日本@名無史さん
22/08/24 15:35:53.67 .net
>>299
4世紀までに伊都の主人は入れ替わったんだろ。
ころころと言うことを翻すなよ。
日本書紀でも、天日鉾が降臨して住み着いたことになっている。
そして前方後円墳。
326:日本@名無史さん
22/08/24 15:36:32.52 .net
>>308
何故、おさまる?
327:日本@名無史さん
22/08/24 15:36:55.96 .net
>>310
仲裁だよ
328:日本@名無史さん
22/08/24 15:37:10.67 .net
なんですぐ抑え込む話になるんだ?
魏志倭人伝をどうやったらそう読めるんだ?
共立だぞ?
329:日本@名無史さん
22/08/24 15:38:35.52 .net
>>311
なんで仲裁できる力があるのか?
宗教的なもんや占い、呪いとかの
部類では?
330:日本@名無史さん
22/08/24 15:39:43.24 .net
卑弥呼は絶対的な権力者ではない
我慢できなきゃ何処で争いが起きるかわからん状態
331:日本@名無史さん
22/08/24 15:39:49.70 .net
2世紀以降、だいたい100年ごとくらいに伊都の主人は入れ替わる。
博多湾沿岸を取った者が倭王を名乗れた。
郡使がやってきたのも、卑弥呼が本当に博多湾沿岸すなわち狭義の倭の王であるかどうかを確認するためだ。
だから伊都までの里程が大事だった。
他の地域の人間が倭王を詐称していると困るから。
332:日本@名無史さん
22/08/24 15:40:37.87 .net
>>314
だから定住したのでは?
333:日本@名無史さん
22/08/24 15:41:54.76 .net
>>313
各地の王がそれで良いからって仲裁を頼んだんだよ
でも何でも我慢するわけじゃないからな
334:日本@名無史さん
22/08/24 15:43:51.67 .net
想像・妄想だけで会話してるな
オマエラ、それ楽しいんか?
楽しいんだろな
335:日本@名無史さん
22/08/24 15:45:15.91 .net
>>318
共立の意味を理解してるか?
336:日本@名無史さん
22/08/24 15:45:54.01 .net
>>317
鬼道で抑え込む。ベールにつつまれ
滅多に見せない神秘性を持たすとか?
その共立時での反対が狗奴国とか?
337:日本@名無史さん
22/08/24 15:47:07.46 .net
>>318
まず、自分の説を言えよ。
338:日本@名無史さん
22/08/24 15:49:09.14 .net
>>320
鬼道は世界の何処でもやってる
権力者がそれを鵜呑みにしてたと思うか?
339:日本@名無史さん
22/08/24 15:51:35.31 .net
狗奴国での犠牲者数はなく
卑弥呼亡きあとの犠牲者数はある。
狗奴国とは緊張状態のみで終わったでないか?
340:日本@名無史さん
22/08/24 15:52:45.23 .net
>>322
思うよ。宗教は国家も変える力がある
341:日本@名無史さん
22/08/24 15:53:35.52 .net
狗奴国なんてのがあったかわからんが内部の権力争いでしょう
342:日本@名無史さん
22/08/24 15:55:39.34 .net
>>320
だから、なんで抑え込む話になるんだよ。
どういう頭をしているんだよ?
343:日本@名無史さん
22/08/24 15:56:09.92 .net
>>324
不満を抑える為にある
統治する為に必要って事くらい権力者はわかってるよ
344:日本@名無史さん
22/08/24 15:56:41.18 .net
>>309
伊都国の名前が同じなら同じ氏族だろ 支配者が入れ替わるときは国名も変わるから 当たり前だが
345:日本@名無史さん
22/08/24 15:57:09.81 .net
>>327
武力、経済以外なら宗教と思うが?
346:日本@名無史さん
22/08/24 15:57:21.97 .net
>>323
王の名が似ているから、狗奴国の王とは親戚で、王位継承をめぐるイザコザだろう。
たからこそ、もとより不和という表現になる。
347:日本@名無史さん
22/08/24 15:58:02.31 .net
>>325
そうそう。
だから本来は狗奴国も倭国の領土の一部なのだろう。
348:日本@名無史さん
22/08/24 15:58:48.36 .net
女王は君臨すれども統治せず
象徴天皇制
349:日本@名無史さん
22/08/24 15:58:49.97 .net
>>330
それもありうるね。おれもそう思う。
350:日本@名無史さん
22/08/24 16:03:45.31 .net
狗奴国が肥後熊本なら、卑弥呼は肥前佐賀または筑後の出身で、火の国女王、日御子であったのだろう。
そして天孫族が不在となつた伊都に共立女王として招聘された。
351:日本@名無史さん
22/08/24 16:09:14.96 .net
>>332
そんな感じで権力は各地の王で権威は卑弥呼かな
だから実際民衆に対して宣言するのは各地の王
不満を抑え込む力を持ってるのは各地の王だから
352:日本@名無史さん
22/08/24 16:13:35.85 .net
>>328
>伊都国の名前が同じなら同じ氏族だろ 支配者が入れ替わるときは国名も変わるから 当たり前だが
そういう実例、日本で無くない?
353:日本@名無史さん
22/08/24 16:18:38.66 .net
>>315
なんでそんな妄想ができるかねえ
倭人伝にも、どんな史料にも、ひとことも書いてないようなお話が
354:日本@名無史さん
22/08/24 16:25:44.95 .net
>>336
三国志の世界なのだから、支配者が代わっても国邑の名前は変わらない。
355:日本@名無史さん
22/08/24 16:28:39.79 .net
>>337
墓制が甕棺墓から木棺墓、前方後円墳と変わるんだろ?
4世紀に怡土にいたのは、垂仁天皇の時代に渡来した天日鉾の末裔を名乗っている。
つまり3世紀の卑弥呼の時代とは入れ替わっているということ。
ちゃんと史料があり、考古学的証拠もある。
356:日本@名無史さん
22/08/24 16:29:37.89 .net
例えば領土の境界はこの川にしなさいと卑弥呼に言われても
事前の話し合いである程度決まってるよ
細部は神のお告げだからしようがないかって感じ
357:日本@名無史さん
22/08/24 16:32:42.62 .net
>>340
或いは呪い。次はあんたが死ぬ
実績がありゃ、信じこむ。
とか?
358:日本@名無史さん
22/08/24 16:34:45.42 .net
伊都の高祖宮は彦火火出見を祭る宮だが、卑弥呼の前の男王たちが彦火火出見ら天孫族なら、倭国大乱は天孫族が東征して不在になったことと関係があるかもしれない。
伊都の高祖山の日向峠の上の峯はクシフル山という。
伊都の高祖宮が記紀の高千穂宮だとすると、卑弥呼の前の政権交代も記紀に史料があることになる。
魏志倭人伝の伊都と日本書紀の怡土は近い年代の同じ土地の話であることを忘れてはいけない。
359:日本@名無史さん
22/08/24 16:35:28.55 .net
恐怖心埋め込む手法
360:日本@名無史さん
22/08/24 16:36:17.64 .net
伊都の甕棺墓が没落したというのは、畿内説が言い始めたことなのに。
361:日本@名無史さん
22/08/24 16:36:56.21 .net
>>343
それでは長期政権は難しい。
362:日本@名無史さん
22/08/24 16:37:20.93 .net
>>341
飢え死にしても神を信じるなんてないから
江戸時代お家断絶とかだと家臣が路頭に迷うけど
従うのは徳川が圧倒的な権力を持ってるから
卑弥呼にそんな権力はない
363:日本@名無史さん
22/08/24 16:37:41.43 .net
364:class="reply_link">>>345 ひとつの手だよ。 それだけではないよ。
365:日本@名無史さん
22/08/24 16:39:46.23 .net
>>346
でも江戸時代も終わっている。
何故、おさまったのかは考えないの?
366:日本@名無史さん
22/08/24 16:45:38.68 .net
>>344
>伊都の甕棺墓が没落したというのは、畿内説が言い始めたことなのに。
いや、単なる歴史的事実
367:日本@名無史さん
22/08/24 16:48:21.59 .net
>>349
別な宗教が入ってきたんだろうな。
ト骨とかそうじゃないか?
368:日本@名無史さん
22/08/24 16:48:40.40 .net
>>339
完全に自分の妄想に取り憑かれてるよな 独立した王からどこかの権力者ぼ支配下に入ったから同じ弔いの様式び従っただけだよ 常識だろう なんだ入れ替わったって 同じ名前なのに
369:日本@名無史さん
22/08/24 16:51:39.53 .net
>>348
正直何言ってんのかわからない
卑弥呼の時代合議制なんだから民主主義的だよ
370:日本@名無史さん
22/08/24 16:51:41.32 .net
>>339
「博多湾沿岸を取った者が倭王を名乗れた。
郡使がやってきたのも、卑弥呼が本当に博多湾沿岸すなわち狭義の倭の王であるかどうかを確認するためだ。」
史料もなく、考古学的証拠もないですね
371:日本@名無史さん
22/08/24 16:51:42.25 .net
>>350
ト骨以外に鬼道とかね?
372:日本@名無史さん
22/08/24 16:53:08.44 .net
>>354
それもあるな。
373:日本@名無史さん
22/08/24 16:55:26.54 .net
>>352
こっちも何故、徳川が出てくるのも
わからん。
374:日本@名無史さん
22/08/24 16:58:07.98 .net
>>356
>>341の書き込みで何が言いたいのかわかってなかった
すまんね
375:日本@名無史さん
22/08/24 16:59:28.80 .net
>>357
いいえ、どういたしまして。
376:日本@名無史さん
22/08/24 16:59:46.39 .net
>>350
卑弥呼が持ち込んだのですね。
377:日本@名無史さん
22/08/24 17:00:40.92 .net
>>351
4世紀に怡土にいたのは、3世紀末に渡来した天の日鉾の末裔だと日本書紀にある。
378:日本@名無史さん
22/08/24 17:02:18.03 .net
>>353
彦火火出見こと神武らは、筑紫の日向を去ったと記紀にある。
史料提示終わり。
379:日本@名無史さん
22/08/24 17:02:42.76 .net
>>359
それはわからん。鬼道にト骨使うことがあるのかはわからない。
別なもんかもしれん。
外部から入ったもんがある程度
380:日本@名無史さん
22/08/24 17:03:16.99 .net
>>353
墓制の変更が考古学的証拠。
381:日本@名無史さん
22/08/24 17:03:48.02 .net
>>351
あなたの中だけの常識ね。
その常識を証明できる?
382:日本@名無史さん
22/08/24 17:12:31.58 .net
>>359
こうも考える。
元来はト骨は鬼道の風習でなく
鬼道に取り入れたという考え。
卑弥呼以前にも布教みたいもんあったとか?
あったかもしれん。
383:日本@名無史さん
22/08/24 17:16:20.41 .net
そもそも鬼道と定義されたものが倭国にあったわけではなく、卑弥呼や他のものが何かやっているのをそう呼んだ。
時代はすでに実在性が高いと言われる崇神天皇の時代であり、記紀にもない未知の宗教が出る幕はない。
神道の何らかの儀式を見て鬼道と呼んだのだよ。
384:日本@名無史さん
22/08/24 17:19:02.40 .net
>>366
やってたのは権力者でしょう
聞く人が居ないと食えない
385:日本@名無史さん
22/08/24 17:20:12.50 .net
>>366
記紀はだいぶ後に書かれたもん。
文字がないのにどうやって伝わるのか?
伝承だけでどこまで伝わるものか疑問
後づけみたいなもん
386:日本@名無史さん
22/08/24 17:22:34.75 .net
平原遺跡には三種の神器があり、それらを懸けていたと思われる榊の柱跡もある。
記紀にも三種の神器を榊にかけておく話が出てくる。
卑弥呼の時代は
387:史料がない遠い昔ではなく、記紀の人皇の世であることを忘れてはいけない。
388:日本@名無史さん
22/08/24 17:23:49.98 .net
>>368
日本書紀の場合、ある書にはこうある、などの記載があり、口伝ではなく、元となった別の史料が存在していたことは明白。
389:日本@名無史さん
22/08/24 17:25:43.17 .net
崇神天皇からは実在性が高いと言われている。
卑弥呼の時代はすでに歴史の時代だよ。
なぜ卑弥呼が記紀に書かれないのかは自分で考えてね。
390:日本@名無史さん
22/08/24 17:25:56.95 .net
>>369
三種の神器
博多、佐賀にもあるね。
倭人伝 ト骨が出る地域もある
391:日本@名無史さん
22/08/24 17:26:37.90 .net
>>371
九州に行ったからだよ。
392:日本@名無史さん
22/08/24 17:27:11.95 .net
>>369
その時代三種の神器を持とうと思えば持てるくらいの数は出回ってるし
今の価値観を当てはめるのは違う
393:日本@名無史さん
22/08/24 17:29:40.38 .net
纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
394:日本@名無史さん
22/08/24 17:31:25.61 .net
その時代の価値観で言えば、三種の神器の八咫の鏡と言えば、崇神天皇ですら畏れるほどであった。
395:日本@名無史さん
22/08/24 17:33:04.72 .net
>>371
壹与もないよ
396:日本@名無史さん
22/08/24 17:35:49.86 .net
不在だからない。
九州の神話が多いのは後からの伝承
それを元に記紀を編纂。
397:日本@名無史さん
22/08/24 17:37:48.69 .net
>>376
>その時代の価値観で言えば、
その時代の価値観じゃないだろ
398:日本@名無史さん
22/08/24 17:37:51.13 .net
壹與は肥前川上の與止日女だろうね。
肥前国風土記に出てくる。
言うなれば肥国女王だ。
399:日本@名無史さん
22/08/24 17:40:11.66 .net
なぜ記紀は九州の話が多いのですか?
神武も九州から来たことになっています。
400:日本@名無史さん
22/08/24 17:40:22.20 .net
>>371
記紀に書いてあるとおりが現実の歴史だったとか言ってる人、珍しいですねー
401:日本@名無史さん
22/08/24 17:41:46.20 .net
崇神天皇は王宮跡が出土しちゃったからな。
402:日本@名無史さん
22/08/24 17:42:31.41 .net
>>381
あとから征服した土地だからでしょ
「実は俺ら、お前らの伝説のヒーローなんだぞ。従え!」ってやつ
403:日本@名無史さん
22/08/24 17:43:44.00 .net
>>383
それ、�
404:R世紀前半の遺跡だよ
405:日本@名無史さん
22/08/24 17:44:05.78 .net
>>381
東征、東遷もない。
神武の兄弟の移動。
実際には移民とか?
406:日本@名無史さん
22/08/24 17:45:32.72 .net
>>382
記紀原理主義とは話が合わないだよな
407:日本@名無史さん
22/08/24 17:48:49.06 .net
>>380
いや外部から来た王と見る。
408:日本@名無史さん
22/08/24 17:51:55.13 .net
天皇家にあったのは国産の三角縁神獣鏡かもしれねえだろ
409:日本@名無史さん
22/08/24 18:11:33.92 .net
記紀原理主義の九州説皇国主義は宗教だからな
410:日本@名無史さん
22/08/24 18:20:32.29 .net
>>386
東征、東遷にしてはたしかに
登場人物少ないな。
創作部分かも?
411:日本@名無史さん
22/08/24 18:26:28.48 .net
記紀原理主義より悪いのは
この部分が創作でほんとはきっとこう
とか言ってどんどん創作してくラノベ九州説
412:日本@名無史さん
22/08/24 18:37:01.27 .net
>>364
中学生かな 学者の研究を無視出来るのお前ごときが
413:日本@名無史さん
22/08/24 18:39:09.93 .net
與止日女(世田姫 肥前国風土記)=ヨンドンハルマン(ヨンドン婆さん 済州島)
414:日本@名無史さん
22/08/24 18:40:18.28 .net
URLリンク(ja.wikipedia.org)
九州説論者が基地外なのは此奴が原因だろ
415:日本@名無史さん
22/08/24 18:42:25.21 .net
>>385
年代比定の根拠が菲薄。
崇神天皇は古事記によると西暦258年?または318年?に没。
前者なら、3世紀前半との差は8年しかない。
現在、そのような精度で年代を測定できる技術はまだない。
416:日本@名無史さん
22/08/24 18:43:13.32 .net
>>386
王都を捨てていくのだから、都落ちだろ
理由は知らん
417:日本@名無史さん
22/08/24 18:43:58.38 .net
>>393
サラッと議論から逃げて「それはあなたの中の常識」とか常套句で誤魔化す人は
中学生の典型だ
418:日本@名無史さん
22/08/24 18:44:46.99 .net
>>388
肥前からなら、筑紫から見るとそこそこ外部だよ。
それと卑弥呼共立の基盤となった勢力が吉野ヶ里という推測とも一致する。
419:日本@名無史さん
22/08/24 18:44:59.10 .net
>>397
王都ってのが妄想だからしょうがない
420:日本@名無史さん
22/08/24 18:45:05.85 .net
>>397
そういう考え方もあるので
否定はしない。
421:日本@名無史さん
22/08/24 18:46:08.51 .net
>>400
これも否定できない。
422:日本@名無史さん
22/08/24 18:46:28.61 .net
>>399
その推測が妄想だから
だって根拠ないでしょ
423:日本@名無史さん
22/08/24 18:46:42.28 .net
>>389
八咫というのは大きさを示していて、三角縁神獣鏡はそれほど大きくない。
直径1尺の円の円周が4咫というのが定義。
八咫の鏡なら、直径2尺ということ。
424:日本@名無史さん
22/08/24 18:49:13.64 .net
>>399
説の違いはあるけど一致する
邪馬壹国近畿説
425:日本@名無史さん
22/08/24 18:50:58.63 .net
>>403
まあ、卑弥呼がもとは火の国女王というのは根拠のない想像に過ぎないのは認める。
しかし、記紀に登場しない理由も、卑弥呼共立とほぼ同時に吉野ヶ里が解体されるのも、その後に與止日女こと壹與が肥前に祭られるのも、合理的に説明できてしまう。
426:日本@名無史さん
22/08/24 18:53:20.78 .net
>>398
基礎知識が欠如してるこんなのが議論したってお子様レベル 何十年も前に学者の間で終わった話を蒸し返してるだけ
文句があるならお前が現場に行って調べてこいよ、ここで脳内妄想ぼ披露は要らないので
427:日本@名無史さん
22/08/24 18:53:54.55 .net
ちなみに與止日女神社を肥前から畿内に勧請したときに淀姫の表記になった。
淀川は淀姫神社にちなんで名付けられた。
豊臣家の淀姫もそこから来ている。
実は畿内文化に深く影響を与えている。
おそらく上古においてはかなりの権力を持った女王であったのだろう。
428:日本@名無史さん
22/08/24 18:54:56.89 .net
>>404
そんな定義をあなたが作ったって意味ないのでは?
429:日本@名無史さん
22/08/24 18:55:26.28 .net
>>406
その時期環濠集落が廃れるのは全国的な傾向で吉野ヶ里に限った事じゃない
430:日本@名無史さん
22/08/24 18:56:11.27 .net
畿内最大の河川の名前は、肥国女王壹與の名前にちなんだ名前でした。
431:日本@名無史さん
22/08/24 18:58:53.94 .net
>>410
そうは言っても、吉野ヶ里は周囲に複数の衛星環濠集落を従えた広域支配型の国邑だった。
この規模の国邑は全国でも数少ない。
432:日本@名無史さん
22/08/24 18:59:43.31 .net
>>407
どの学者のなんて論文?
それは通説になったの?
どんな露軸?
433:日本@名無史さん
22/08/24 19:00:59.90 .net
>>412
長く続いた天候不良の飢饉で集落が養えなくなったんだろうと言われてる
434:日本@名無史さん
22/08/24 19:01:34.17 .net
Wiki 咫より引用
『説文解字』にいう「周」を円周と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率は約 3.14 であるが、
これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫としたという説がある[1]。
この説によれば、日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。
後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、福岡県糸島市の平原遺跡から現在5面の大型内行花文鏡が出土している。
なお、この平原遺跡の鏡が世界最大の銅鏡である。
435:日本@名無史さん
22/08/24 19:01:49.25 .net
>>412
王墓もなく鏡もないんだがら、序列は上の方じゃないですね
436:日本@名無史さん
22/08/24 19:02:42.62 .net
>>414
天候データなどの根拠はあるの?
437:日本@名無史さん
22/08/24 19:03:46.88 .net
>>415
WIKIなんて誰でも自由にマイオピニオン書いちゃってるから引用しても無駄
438:日本@名無史さん
22/08/24 19:03:59.62 .net
>>412
吉野ヶ里の周囲の衛星環濠集落とは具体的に何遺跡?
439:日本@名無史さん
22/08/24 19:04:19.09 .net
>>414
九州での出来事だな。
440:日本@名無史さん
22/08/24 19:05:11.18 .net
>>416
吉野ヶ里の墓域の中心は今年から発掘開始ですよ。
これまで神社があり聖域だったのです。
それが移転に合意したそうです。
公園として公開されている領域より北側にあたります。
441:日本@名無史さん
22/08/24 19:05:37.21 .net
>>417
あるはずでそれを裏付けるのが全国的な集落の衰退
442:日本@名無史さん
22/08/24 19:06:48.94 .net
>>420
近畿でも起きてるし全国的な傾向
443:日本@名無史さん
22/08/24 19:09:05.81 .net
卑弥呼が王になった辺りから天候不良が改善した
444:日本@名無史さん
22/08/24 19:10:28.18 .net
>>415
>Wiki 咫より引用
そのWiki の表題見てワラタ
「八咫鏡に関する特殊な説」ですと
445:日本@名無史さん
22/08/24 19:10:49.59 .net
>>423
だな。
446:日本@名無史さん
22/08/24 19:12:04.71 .net
>>423
だな。否定はしないよ。
447:日本@名無史さん
22/08/24 19:13:18.77 .net
>>421
>吉野ヶ里の墓域の中心は今年から発掘開始ですよ。
じゃ、見つかるまであなたの説は封印ですね
448:日本@名無史さん
22/08/24 19:15:27.77 .net
衰退傾向の中突然現れたのが伊勢遺跡
どうです?凄いでしょ?
449:日本@名無史さん
22/08/24 19:15:29.40 .net
>>424
鉄もある安定化による
流通が活発になる。
より大きい町作りが始まる。環濠が減る。
450:日本@名無史さん
22/08/24 19:27:30.27 .net
>>429
稲部遺跡もあるよ
451:日本@名無史さん
22/08/24 19:27:54.36 .net
>>396
>年代比定の根拠が菲薄。
ちゃんと公的機関から発表されてますよー
>現在、そのような精度で年代を測定できる技術はまだない。
ちゃんと学会で発表されてますよー
452:日本@名無史さん
22/08/24 19:29:33.75 .net
>>431
稲部遺跡は鉄工房ってだけでただの集落跡だろ
規模も
453:大きくない
454:日本@名無史さん
22/08/24 19:31:26.58 .net
>>433
単体で考えないよ。
支えていたかもしれないよ。
鉄が無くてどうすんの?
455:日本@名無史さん
22/08/24 19:32:32.12 .net
>>404
>直径1尺の円の円周が4咫というのが定義。
定義じゃありませんでした
「八咫鏡に関する特殊な説」でした
456:日本@名無史さん
22/08/24 19:48:51.56 .net
卑弥呼の本当の名は「米実冨」と言い、米の豊作の神様だった。
457:日本@名無史さん
22/08/24 20:00:27.59 .net
八咫鏡は当て字じゃないのか。
漢字を使わない時代からあるものに、漢字を使うようになってから漢字で書くようになった。
「ベイミフ」と聞いた魏の人が「卑弥呼」と書いたように。
458:日本@名無史さん
22/08/24 20:08:05.02 .net
>>436
五穀豊穣に繋がる
459:日本@名無史さん
22/08/24 20:11:15.86 .net
>>437
>「ベイミフ」と聞いた魏の人が「卑弥呼」と書いたように。
聞かないし書かないよ
460:日本@名無史さん
22/08/24 20:13:29.48 .net
>>437
漢字を使わなくても、大きさの概念はあったでしょ。
基本となる尺は身体尺度だし。
まあでも倭人は呉の太伯の末裔を名乗っていたくらいだから、実は漢文の素養がある人物はいたはずなんだよね。
太伯を知っていたということは、史記を読んでいたはず。
本当に太伯の末裔ならその必要もないだろうけど。
461:日本@名無史さん
22/08/24 20:14:18.39 .net
>>436
漢字一文字に二音節を割り当てたとは思えないな。
他の発音だと思う。
462:日本@名無史さん
22/08/24 20:16:04.96 .net
>>438
番能邇邇芸は実際にそういう意味だと聞いた。
稲穂が鮮やかに実るという豊穣の名前なのだとか。
463:日本@名無史さん
22/08/24 20:17:06.67 .net
>>441
つか「実」を誰がミと読む?」
464:日本@名無史さん
22/08/24 20:38:31.53 .net
>>440
「やたのかがみ」と言うようだが、
ひらがなの場合、意味不明になる。
正しく意味が伝わっていない可能性もある。
それは、ここのスレを読めばわかると思う。
465:日本@名無史さん
22/08/24 20:45:55.78 .net
【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は
466:、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。 この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
467:日本@名無史さん
22/08/24 20:47:38.07 .net
そもそも古代日本人の名前が「米実富」(べいみふ)みたいな音読みなわけないだろ
468:日本@名無史さん
22/08/24 20:48:54.00 .net
何度聞いてもベイミフだ。
469:琪瑛教祭酒
22/08/24 20:57:46.06 .net
べいみふ?卑弥弓呼わ?
470:日本@名無史さん
22/08/24 21:00:46.00 .net
>>446
いや・・「実」だけ訓読みだぞ
471:日本@名無史さん
22/08/24 21:01:07.27 .net
出雲国造神賀詞には以下のように書いてある
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ
八咫の鏡=大物主
あと興味深いのは櫛と鏡の関係性だね
古墳時代の埴輪には、従軍する、櫛をさし鏡を掲げた巫女の一群の埴輪が見つかっている
鏡も櫛も軍と関係がありそうだね
472:日本@名無史さん
22/08/24 21:01:11.92 .net
それは草
473:日本@名無史さん
22/08/24 21:05:31.37 .net
国産の鏡でしょ
474:日本@名無史さん
22/08/24 21:18:15.87 .net
実は小3の教育漢字
葛城の最終学歴は?
475:日本@名無史さん
22/08/24 21:25:06.00 .net
葛城の枕詞は青柳の
青柳のは糸イトにかかる枕詞でもある
葛城と伊都は関係あったりして
476:日本@名無史さん
22/08/24 21:52:13.87 .net
>>436
「米が実り富ました」じゃないの?
477:日本@名無史さん
22/08/24 22:03:37.58 .net
>>450
その大神(おおみわ)の神奈備の麓に建てられた、鏡を納める倉を持つ建物が纒向遺跡なんだろ。
崇神天皇の磯城瑞籬宮。
478:日本@名無史さん
22/08/25 00:14:53.34 .net
>>450
>八咫の鏡=大物主
鏡に子孫がおるんかwww
479:日本@名無史さん
22/08/25 05:42:43.01 .net
伊都国が現糸島市でなく
当時の伊都国が平原遺跡あたりから
南、吉野ヶ里近辺が伊都国だとすると
陸路行きも納得する。
480:日本@名無史さん
22/08/25 05:47:05.96 .net
k
481:日本@名無史さん
22/08/25 05:51:11.90 .net
>>433
そうでもなかったよ
URLリンク(inoues.net)
482:日本@名無史さん
22/08/25 05:54:28.02 .net
>>458
意味がわからない文章だ
483:日本@名無史さん
22/08/25 05:57:32.60 .net
>>461
相変わらずのかまってちゃん
学習能力なし
スルーすれば?
484:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>462
あんた、あの文章の意味わかるのか?
伊都国は平原遺跡あたりから 南なのか
それとも吉野ヶ里近辺なのか?
全くわからん
485:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>463
平原遺跡から南の吉野ヶ里まで
と文字抜けもあるだろう。
486:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>462
日本語喋れないことが指摘されると、そんなに辛いのか?
487:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>464
ますます意味わからん
488:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>465
意味不明
489:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>467
おまえ>>462 の異常さがわかる?
490:日本@名無史さん
22/08/25 08:12:26.62 .net
>>458
そのくらいの範囲でもおかしくないと思うけどそれだと他の国の場所も変わってくる
491:日本@名無史さん
22/08/25 08:14:48.22 .net
>>469
おかしくないって?
人口いくらの国?
492:日本@名無史さん
22/08/25 08:18:50.77 .net
>>470
仮に千戸でも糸島市だけじゃ食えないんじゃないか?
493:日本@名無史さん
22/08/25 08:24:11.85 .net
千戸って人口で言えば吉野ケ里に匹敵するくらいでしょう
だから吉野ケ里の勢力圏が糸島も含んでたって感じ
494:日本@名無史さん
22/08/25 08:24:46.04 .net
伊都国は周囲の国々から畏怖され、対馬海峡貿易を管理する側だった。
倭国内には租税のシステムもあった。
つまり伊都国は自給自足する必要がない。
貢物と租税で食べていける上流階級。
495:日本@名無史さん
22/08/25 08:27:38.10 .net
>>472
勢力圏の話ではなく、明確に国邑単位での話しですよ。
山を越えて一つの国邑とみなすことはできない。
吉野ヶ里は傍国の一つ、華奴蘇奴(神埼)国でいいでしょう。
496:日本@名無史さん
22/08/25 08:29:41.90 .net
>>474
すまん。定義が違うので
山を越えて一つもある。
497:日本@名無史さん
22/08/25 08:31:05.73 .net
大物主って、物部氏のことなんじゃないの?
纏向遺跡は奈良県桜井市。
物部氏の本拠地でしょう。
498:日本@名無史さん
22/08/25 08:31:33.63 .net
>>475
三国志の世界なのだから。
無茶
499:日本@名無史さん
22/08/25 08:32:33.02 .net
>>477
意味不明
魏のなかにも山はないのか?
500:日本@名無史さん
22/08/25 08:38:41.21 .net
>>476
そうなの?
501:日本@名無史さん
22/08/25 08:45:17.30 .net
>>471
>仮に千戸でも糸島市だけじゃ食えないんじゃないか?
何を言ってるのか意味がわからないんだが
502:日本@名無史さん
22/08/25 08:48:05.50 .net
>>471
墓地指定地だったとか?
503:日本@名無史さん
22/08/25 08:52:37.50 .net
>>481
ありうるな。
504:日本@名無史さん
22/08/25 09:16:34.73 .net
>>481
食えないってどういう意味?
誰が?
505:日本@名無史さん
22/08/25 09:17:38.81 .net
>>483
食えないだよ
506:日本@名無史さん
22/08/25 09:49:16.70 .net
ん?
最近 阿波、ザラコクら爺様の
書き込みがない。
くたばったのか?
邪馬壹国近畿説
507:板野に居たの
22/08/25 10:18:48.98 .net
現代と違って物流網は貧弱な時代、基本的には地産地消、
近隣で人口を維持するだけの食糧が確保できないと、どうしても脆弱になる。
米や野菜なんかは、地元の人口を養う量が獲れるのは絶対条件でしょ。
鉱山集落とか、特殊な場合は除きますが。
508:日本@名無史さん
22/08/25 10:26:10.57 .net
>>486
そういうこと。
北部九州以外にはありえんよ。
509:日本@名無史さん
22/08/25 10:33:58.40 .net
>>486
そういうこと。
北部九州以外ではありえんよ。
510:日本@名無史さん
22/08/25 10:46:02.97 .net
何が?
511:日本@名無史さん
22/08/25 10:46:24.59 .net
>>485
書き込めなくなって地団駄からの男泣きってとこだろう
512:日本@名無史さん
22/08/25 11:02:06.37 .net
>>486
馬鹿を言うな。
日常的に対馬海峡を超えて交易していたことが魏志倭人伝ちあるし、考古学的にも博多は広域交易の拠点。
伊都に至っては大陸との交易も盛んだった。
吉野ヶ里でさえ、その人口は周辺の衛星都市における産物で維持されていたことは明白。
他の地域は知らないが、弥生時代の九州北部はそのような段階まで発展していた。
513:日本@名無史さん
22/08/25 11:05:25.86 .net
伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など九州北岸の国々を監視)
↑北
女王国(筑紫平野)
↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに�
514:u不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。 おそらく洛陽(後漢~曹魏~西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。 だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。
515:板野に居たの
22/08/25 11:11:27.80 .net
>>491
食糧は別、食糧が確保できなきゃ街も維持できない。
516:板野に居たの
22/08/25 11:13:23.06 .net
米は流石に他所から運んでこれるが、生鮮食品は近隣から調達して来る以外どうするのか教えて欲しいわ。
517:日本@名無史さん
22/08/25 11:13:54.64 .net
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長~い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ~ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸
518:日本@名無史さん
22/08/25 11:16:36.54 .net
>>495の模式図だyo!スマホやタブレットじゃなくて、PCで見てね【倭人伝の「会稽東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━┓帯方郡 ┏┛~~~~~~~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~~日本海~~
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~~~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行10日」~~~~┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘~~~~~~~┗━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行10日」┐関門海峡~~~~~▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃~~┏末盧国━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃
┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃~┗━━┛
↑ ┃~~┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━┛「在其南 人長3~4尺(少彦名)
【呉】┃~~┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙~~~~~~~~~去女王(之所都)4,000里」
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃~~┗━女王国島━┛↓~~~~~~~~~
会稽┃~東シナ海~┌南「水行10日」~~~~~~~~
東治┃~~┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃~~│~↓「陸行1月」_~│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃~~│~↓▲沖縄~~~│~~↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃~~│♀【奴国2】(幻).~│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃~~│▲台湾~~~~~│~~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~~南シナ海~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
519:日本@名無史さん
22/08/25 11:21:31.03 .net
>>492
>>496
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後�
520:緖x援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。 長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。 そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。 -女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種 〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道 -其南有狗奴国 不属女王 〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂 畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。 また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。 消去法により、九州説が正しい。 では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、 その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。 面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、 北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、 卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
521:日本@名無史さん
22/08/25 11:31:22.28 .net
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」~卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ~ のカラクリ
①265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
②(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱に有効打が打てなかった後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
③おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
522:日本@名無史さん
22/08/25 11:34:51.00 .net
ようするに苦しい弁解ばかりなのが九州説
523:日本@名無史さん
22/08/25 11:37:20.98 .net
>>496
方角も家(宮室楼観城柵厳設)も冢も全く符合しない畿内説w
524:日本@名無史さん
22/08/25 11:43:39.59 .net
>>497
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝~応神朝~継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
525:日本@名無史さん
22/08/25 11:46:58.62 .net
畿内は知れば知るほど邪馬台国が遠のいていく感じがするのだが
526:日本@名無史さん
22/08/25 11:47:27.20 .net
佐賀県唐津市の菜畑遺跡は日本最古の水田が検出されたことで知られているが、
この遺跡で発見された食料はイネだけでなく、
オオムギ、ソバ、アワ、アズキ、ゴボウ、メロン、クルミなど多様な栽培・採集植物がある。
また魚にはエイ、サバ、アジ、ブリ、スズキ、クロダイなど各種に渡り、
狩猟動物もノウサギ、ムササビ、タヌキ、テン、アナグマ、ニホンジカ、イノシシ、イルカ、アシカ、ジュゴンなど多種に及んで、
各個の数の少なさを補っている状況が窺われる。
ところが弥生時代前期の山口県綾羅木遺跡では動植物の捕獲する範囲が限られるようになり、
穀物も米が圧倒的多数を占めるようになる。
特定のものに対する選別的な獲得が進んで、食料の範囲が狭まったことがわかる。
これは逆に少数の対象で食料が賄われていた一安定した食料があったことを物語っている。
さらに大阪府の池上遺跡ではそれが極端に表れ、穀物はイネ、魚はマダイ、肉はイノシシ、
果実はヤマモモというように狭い範囲の食料が圧倒的に多いという結果が示されている。
これは農業などの生産、食料確保が安定すると、
一定の効率のいい食べ物ばかりに偏ってしまうという傾向を物語るものである。
弥生時代に入ると稲作などの生産活動がうまくいった地域では食料体系が大きく変化するのに対して、
そうでない地域では必然的に縄文時代とはあまり変化のない食生活が持続するのであり、
地域的格差が増大して村落相互だけでなく、
村落内部においても社会的関係が変わらざるを得ない社会が出現することとなる。
つづく
527:日本@名無史さん
22/08/25 11:47:35.90 .net
>>501
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
528:日本@名無史さん
22/08/25 11:47:45.52 .net
それでは安定した稲作社会はいつ頃形成されたのであろうか。
そのかぎを握っているのは製塩業の展開である。
米は良質のたんぱく質を内臓しているが、
ナトリウムイオンがなければ体内に吸収することができない。
つまり米を主食とするには塩が必要になってくる。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。
3世紀になると玄海灘や紀淡海峡、若狭湾でも
こうした専業の製塩業の出現が認められるようになる。
専業の製塩集団が形成されることは、それを可能にする稲作栽培の本格化を物語るものである。
熊本県では製塩土器が出るのは6世紀の天草型製塩土器が最初であり、
稲作栽培を中心とした農耕生産が本格化するのはこの頃であったことが窺えるのである。
「農耕社会の形成」(甲元眞之 熊本大学名誉教授)