22/08/20 11:53:40.54 .net
>>753
じゃ、おかしいんじゃんw
767:日本@名無史さん
22/08/20 11:58:09.77 .net
>>674
>サッパリ、わからん
>無視はしない。
>あらゆる史書
>一致しない所は、どう考えるの?
>てっか、説明がないとわからんし
>伝わらない。まして昭和に入ってから
>出てきた読み方。
>説明しているだろー
>注釈もないのにわからん
この書き方で他人に伝わると本気で思ってるのか?
768:日本@名無史さん
22/08/20 12:04:22.62 .net
>>767
頓珍漢だな。わからんから聞いている
まず、どこの箇所だ。
769:日本@名無史さん
22/08/20 12:10:29.48 .net
>>757
それはあなたの勝手な判断であり、魏志倭人伝にそのようなこたは書いてない。
魏志倭人伝からは、魏と邪馬台国は友好国であり、対馬海峡の交易は倭人が独占し、事実上の制海権を持っていたというこたがわかります。
ほもそも古代史において、倭は対馬海峡を越えて攻めていく側であり続けるのですから、友好国となったばかりの魏が怖いから、豊穣の地を捨てて避難するなんて、あり得ません。
じだ、奴国は東夷で最大の国有として発展しています。
770:日本@名無史さん
22/08/20 12:11:32.56 .net
>>758
わからん、というのは、あなたが勝手に認めたくないだけ。
771:日本@名無史さん
22/08/20 12:14:00.07 .net
>>765
起点が移動するのは、里程の部分だけです。
日程は全て帯方郡が起点です。
あなたが勝手な読み方を、これが九州説だとでっち上げて批判してあるのです。
詐欺師の論法です。
卑怯です。
畿内説はそのような馬鹿げた批判しかできないから、信用されなくなる。
772:日本@名無史さん
22/08/20 12:14:56.09 .net
>>770
意味不明?
そう決めつけたいだけじゃの?
773:日本@名無史さん
22/08/20 12:16:32.60 .net
>>772
意味不明とは?
レスを間違えています?
774:日本@名無史さん
22/08/20 12:17:57.95 .net
>>753
後漢書
其大倭王居邪馬臺國
魏志倭人伝
邪馬壹国
壹の違い?
775:日本@名無史さん
22/08/20 12:18:20.25 .net
>>771
「陸行一月」はどこからどこまで?
776:日本@名無史さん
22/08/20 12:21:13.10 .net
>>774
どちらが誤りかはわかりません。
他の書ではもっと表記が変わるので、大した問題ではありません。
仮にそれらがヤマトという発音だったとしても、九州北部の山門という地名に過ぎないでしょう。
海に出るところをミナト、山に入るところをヤマトという、一般名詞に由来するのでしょう。
777:日本@名無史さん
22/08/20 12:21:16.12 .net
>>773
何が言いたいのか?
あなたが勝手に認めたくないだけ。
わからん、なぜ?そうなる
778:日本@名無史さん
22/08/20 12:24:09.96 .net
>>775
そこがおかしなところで、日本列島のどこにもそんな陸行が必要な土地はありません。
ということは、そこだけが1日の間違いなのでしょう。
水行10日は、水行一万里に対応します。
対馬海峡を3区間に分けて毎日航行したでさょうから、そこが3日で三千里です。
水行一万里が水行10日です。
779:日本@名無史さん
22/08/20 12:25:10.99 .net
>>777
あなたが何を言いたいのか、私にはわかりません。
780:日本@名無史さん
22/08/20 12:25:39.71 .net
>>771
行程を説明するとき、連続的に説明することはごく自然です。
投馬から書き方が変わるのは情報源が異なるためだと思われますが、畿内説では距離の記法だけが変わるという最小の仮定をしています。一方、九州説はそのタイミングで起点もリセットされると考えており、より多くの仮定を設けています。
勿論、畿内説も方角が取り違えられているという追加の仮定を立てていますが、それについては古日本語という独立の根拠に基づく仮説による説明を提示しています。これに対して、九州説は距離がリセットされる理由を説明できるような独立の根拠を提示していません。
従って現状、九州説の方が妥当性が低い仮説だと言わざるを得ません。九州説は距離がリセットされる理由を説明できる独立の根拠を提示するべきです。その部分は別の資料に基づくからというのは根拠になりません。近畿説は同じ想定のもとでより少ない仮定しか設けていませんので。
781:日本@名無史さん
22/08/20 12:26:50.40 .net
>>778
陸行一月を陸行一日に書き換え詐欺をすればどこに着く?
782:日本@名無史さん
22/08/20 12:26:51.58 .net
>>779
俺もあなたが何を言いいたいのか
わかりません。
783:日本@名無史さん
22/08/20 12:27:17.22 .net
>>765
畿内説では水行の出発点は連続している不弥国ってことでいいんだな?
では奴国の東に百里行った所にある不弥国はどこで、そこから水行する理由は?
784:日本@名無史さん
22/08/20 12:27:34.17 .net
>>780
別の情報を直列に繋げる方がおかしいです。
里程に相当する区間を日程で表現し直しただけなので、合理的です。
785:日本@名無史さん
22/08/20 12:29:13.82 .net
>>780
伊都国奴国不弥国までだ終わっているのですから、リセットはしていません。
日程についての別資料が付記されているだけです。
786:神様
22/08/20 12:30:26.59 .net
これが真実だ!
*****
◆1 魏が認識していた倭の位置
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「大海の中に在る」「山島に依り国邑を為す」との記述から、魏は倭を「島」と認識していたことは明らかである。
この当時、本州と大陸がつながっているかどうかは未解明であり、本州を島と認識していた可能性は低く、倭の位置は九州か四国に絞られる。
したがって、畿内説はあり得ない。
また古くから通交のあった九州を経由せずに四国に行くことは想定できないことから、四国を単独で倭と認識していたこともあり得ない。
よって、魏が認識していた倭の位置は必然的に「九州」または「九州と四国」に決まる。
787:神様
22/08/20 12:30:40.36 .net
◆2 戸数についての議論
晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸
魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
邪馬台国の戸数は七万戸
上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。
「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。
「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。
邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、
戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里(一里=434mとして約17km)となり、移動可能な距離である。
同様に考えれば、水行では一日百二十里(約52km)となり、やはり移動可能な距離におさまる。
788:神様
22/08/20 12:30:50.99 .net
◆3 投馬国とは
魏志倭人伝
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
同様に考えると「水行二十日」とは帯方郡→投馬国への距離を日数で表記したものである。
つまり「船で行くなら二十日かかる距離」という意味と解釈できる。
投馬国の場所を倭人伝から読み解くことは不可能だが、戸数五万戸は邪馬台国の戸数に匹敵する数字であり、かなりの人口を擁する国である。
おそらくは別の国家連合であろうが、水行に要するとされる日数が邪馬台国より多いので、北部九州よりもさらに南下する必要がある。
狗奴国が現在の熊本周辺だとすれば九州西部は考えにくく、日向の都万周辺の諸国連合または四国西部の諸国連合と推定される。
なお、投馬国については里数が記載されていないが、
隋書倭国伝
夷人不知里數 但計以日
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
とあることから、魏の使者は投馬国には立ち寄っておらず、邪馬台国の役人からの伝聞の数字と見なしてよい。
狗奴国のように敵対する国であるとは書かれていないので、おそらくは邪馬台国の友好国であろう。
つまり当時の倭には邪馬台国、狗奴国、投馬国、以上三つの国家連合が存在していたことになる。
なお、南に進んでも対馬海流により東に流され出雲にたどり着く可能性は考えうるが、
◆1により魏が本州を倭と見なしていないことは明らかであり、この可能性は考慮しない。
789:神様
22/08/20 12:31:01.80 .net
◆4 邪馬台国への行程
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。
790:神様
22/08/20 12:31:12.17 .net
◆5 女王所都
魏志倭人伝では奴国は伊都国の東南とされているので、
後漢書
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也
奴国が倭の極南界であるとの後漢書の記述とも一致する。
奴国は通常は那の津周辺と比定されるが、一般民衆の居住地域とは切り離し、別の場所に宮室、桜観、城柵を築いた可能性がある。
768年に朝廷が伊都国の東南に怡土城を設けるが、おそらくはこの怡土城と同じ場所であろう。
怡土城と同じ場所(=高祖山)に桜観を設けることにより海上から来襲する敵を早期に発見することが可能となる。
敵が陥落した後同じ場所に城郭を築くことは新たな統治者の威厳を示すために古来から行われてきたことであり、
例えば豊臣秀吉は石山本願寺制圧後、同じ場所に大坂城を建てている。
791:神様
22/08/20 12:31:26.98 .net
◆6 邪馬台国連合の衰退
316年西晋が滅亡。翌317年に東晋が成立するが、江南の地に再建されたため、邪馬台国連合は朝鮮半島における鉄器調達の既得権益を失い、衰退へむかう。
これに対して、畿内王朝は越前を経由して朝鮮半島、大陸から鉄器を入手する交易ルートを確立し相対的に軍事力を向上させ、
越前出身の継体天皇の即位(507年頃)により確固たる地位を築いたものと考えられる。
なお、後漢書東夷伝には
女王国自り東のかた海を度ること千余里にして狗奴国に至る。皆倭種なりと雖も女王に属せず
との記載があるが、この記述は魏志倭人伝にある
其の南には狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智水卑狗有り、女王に属せず
の記述と方角が一致しない。
方角の不一致については三国志の成立が後漢書よりも百年以上早いと考えられていることから、三国志成立後の日本列島内での政治状況の変化を反映したものであり、
畿内王朝が邪馬台国連合を征服する前に狗奴国を征服していたことによるものであろう。
なお、邪馬台国連合の滅亡後も旧連合諸国の中には朝廷に従おうとしない者が一定数存在し、その者たちによって起こされた反乱の一つが日本書紀にある磐井の乱(527年)である。
792:日本@名無史さん
22/08/20 12:31:30.38 .net
>>784
太平御覧に魏略を引用した著者は明らかに直列の行程を想定しています。御覧と魏志のどちらが原文に近いかという議論には立ち入りませんが、少なくとも御覧の著者は直列で読むのが自然だと考えていたことが分かります。
あなたはどのような根拠で「別の情報を直列に繋げる方がおかしい」と考えるのでしょうか。
793:神様
22/08/20 12:31:46.01 .net
◆7 邪馬台国連合と畿内王朝の関係
宋史日本国によれば、初めの王は天御中主で彦瀲まで筑紫に都をおき、その第四子の神武天皇が大和州橿原に入居したとある。同様の記述は新唐書にも見られる。
宋史日本国
其の年代紀の記す所に云う、初めの王は天御中主と号す
とある通り、これは日本が提出した年代紀をもとにした記述であり、新唐書についても同様と考えられる。
また旧唐書には
旧唐書倭国
倭国は古の倭の奴国也
旧唐書日本
日本国は倭国の別種也
倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す
日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり
との記述がある。
(本項 続く)
794:神様
22/08/20 12:31:58.94 .net
(承前)
◆7-2
両者を総合して考えると、
(1)当初は筑紫が倭の中心で、その後大和が倭の中心になった。
(2)畿内王朝は筑紫王朝とは別政権(だが同じ倭種)であって、元は小国で新興国だった畿内王朝が筑紫王朝を征服し、その後日本国を名乗った。
ことがわかる。神武東遷が史実ではないとすれば、邪馬台国連合は筑紫にあって、大和橿原の畿内王朝は別政権であったと考えるのが自然であろう。
このことは
魏志倭人伝
女王国の東、海を渡りて千余里、復た国有り、皆倭の種なり
の記述ににも符合する。
畿内王朝は歴史の浅い政権であったが、倭奴国、邪馬台国から連続して存在した歴史の長い政権であるかのように偽装するために、神武東遷を捏造した上で虚偽の年代紀を作成し、唐、宋に提出したのであろう。
畿内王朝は663年の白村江の戦いに敗北したことにより唐との関係が悪化したが、関係改善のために古来より支那の友好国であったことを偽装する目的があった可能性も考えられる。
795:日本@名無史さん
22/08/20 12:32:38.40 .net
品川駅から新横浜駅まで何キロ、新横浜駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から京都駅まで何キロ、京都駅から新大阪駅まで何キロ
東京から大阪まではおよそ何時間です
普通の文章ですよ。
畿内説は、新大阪からさらに大阪まで何時間、みたいなおかしな読み方をしています。
796:日本@名無史さん
22/08/20 12:32:44.69 .net
>>741
九州北部を示しているのは否定しないけど万二千里がその距離かと言えばそれは違う
797:日本@名無史さん
22/08/20 12:33:28.18 .net
>>785
日程についての別資料なら、なぜ里程と同様の官や人口についての記述が繰り返されているのでしょうか。これらを一連の記述と見ないのは恣意的と言わざるを得ないのではないでしょうか。
798:日本@名無史さん
22/08/20 12:35:33.59 .net
>>791
磐井は邪馬台国ではないと思いますよ。
墓が立派な前方後円墳なので。
しかも日本書紀によると、先に兵を起こしたのは継体天皇の側らしいで、これを反乱と呼ぶこと自体が政治的に中立ではない。
799:日本@名無史さん
22/08/20 12:36:41.55 .net
>>784
それ以前に肝心の邪馬壹国までの里数がない。
800:日本@名無史さん
22/08/20 12:37:41.82 .net
読んでわからない事を陳寿は書かないから
801:日本@名無史さん
22/08/20 12:39:18.55 .net
>>797
複雑な政治構造を反映しているのでしょう。
伊都国ですら、官と大率の二重構造になっていますし。
802:日本@名無史さん
22/08/20 12:40:09.35 .net
帯方郡に戻るのかぁとはならないから
803:日本@名無史さん
22/08/20 12:41:41.16 .net
>>799
だから後漢書はわぞわざ邪馬台国まで一万二千里と明記したのでしょう。
そのうち一万里を九州北部上陸までで費やしています。
残り二千里は、対馬海峡三千里より短い。
804:日本@名無史さん
22/08/20 12:42:29.76 .net
>>795
>品川駅から新横浜駅まで何キロ、新横浜駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から京都駅まで何キロ、京都駅から新大阪駅まで何キロ
>東京から大阪まではおよそ何時間です
>普通の文章ですよ。
品川駅から新横浜駅まで何キロ、新横浜駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から京都駅まで何キロ
大阪まではおよそ何時間です
こう書いてあるのを、上みたいに勝手に直したら
異常な読み方ですよ九州説さん
805:日本@名無史さん
22/08/20 12:43:44.26 .net
>>802
だよな。伊都国?奴国?不彌国?
さてどこの方向と里数で邪馬壹国につくの?
806:日本@名無史さん
22/08/20 12:45:07.92 .net
>>805
続き 邪馬壹国は、目的地ではないのか?
807:日本@名無史さん
22/08/20 12:45:58.58 .net
不弥国までしか書いてないのにこの場所を邪馬台国にしようとか都合よく解釈し過ぎだって
808:日本@名無史さん
22/08/20 12:49:56.10 .net
畿内説は不弥国がどこで何故水行の出発点にしたのか説明できないの?
809:日本@名無史さん
22/08/20 12:53:28.61 .net
>>808
別の資料だし倭国の調査の為に来たんだよ
そうじゃないなら直接伊都国に行けば良いじゃん
810:日本@名無史さん
22/08/20 12:55:38.51 .net
邪馬台国に行くにはあの行程じゃなきゃダメだと思ってるのか?
811:日本@名無史さん
22/08/20 12:56:54.81 .net
>>803
宋)范曄の解釈ではないのか?
范曄が出るまで女王国で、
宗の時代でハッキリしたのか?
812:日本@名無史さん
22/08/20 13:03:33.48 .net
相も変わらず水掛け論の応酬だねw
813:日本@名無史さん
22/08/20 13:03:49.69 .net
>>804
大阪まで行くのなら、京都駅から新大阪駅までのキロ数もなければおかしいですよ。
814:日本@名無史さん
22/08/20 13:05:28.59 .net
>>809
邪馬台国が奴国を含まないのなら、なぜわざわざ上陸するのか、意味不明です。
直接邪馬台国に行けばいいのに。
815:日本@名無史さん
22/08/20 13:06:32.39 .net
>>810
少なくとも里程は郡使が実際に通過したルートです。
それ以外のルートもあり得ても、郡使はそこを通過していません。
816:日本@名無史さん
22/08/20 13:07:45.96 .net
>>814
伊都国は入管でしょ
ここは寄らなきゃマズい
817:日本@名無史さん
22/08/20 13:08:32.30 .net
>>815
だから不弥国で切れてんじゃん
818:日本@名無史さん
22/08/20 13:09:54.84 .net
伊都国の最寄り駅から奴国の博多駅までの営業距離を計測したら短里などと言う愚かな説は消滅する。
819:日本@名無史さん
22/08/20 13:10:07.21 .net
>>816
だな。
伊都国から邪馬壹国に行くには
どの方向で何里なんだろう?
820:日本@名無史さん
22/08/20 13:11:27.84 .net
>>811
魏志倭人伝の時は、行程の資料をただ書き写したので、全体の里数かが抜け落ちたのでしょう。
後漢書は、魏の時代の郡使による細かい里程情報を省きながら、王都までのおよその距離は後漢の時代もおよそ変わらないということで情報をまとめて簡略化したのでしょう。
後漢書はあくまでも後漢の時代の歴史を書くのが目的ですからね。
821:日本@名無史さん
22/08/20 13:12:40.89 .net
畿内説の読み方だと、全体の里数も、全体の日数もわからなくなります。
九州説なら、全体の里数も日数もそれぞれ明記してあることになります。
822:日本@名無史さん
22/08/20 13:13:36.46 .net
>>817
意味不明
823:日本@名無史さん
22/08/20 13:18:10.43 .net
>>821
おまえが勝手に言ってるだけじゃん
不弥国までしか書いてねえじゃん
てか俺も近畿説だけど九州を指してると思ってるんだよ
理由はお前みたいな無理やりな解釈じゃなくあの書き方で大きく飛ぶわけねえじゃんて話し
824:日本@名無史さん
22/08/20 13:18:45.14 .net
>>821
伊都国からどこの方向で何里行けばいいのか?
825:日本@名無史さん
22/08/20 13:18:58.40 .net
>>803
>残り二千里は、対馬海峡三千里より短い。
その海峡三千里が間違いなら、そんなことは言えない
そして海峡は三千里なんて無いから、間違い
826:日本@名無史さん
22/08/20 13:19:51.46 .net
>>822
いろんな解釈がある
俺は里数と日数で資料が変わってると思ってるから
827:日本@名無史さん
22/08/20 13:20:32.55 .net
>>821
邪馬台国に行くには
伊都国からどの方向で何里でつくの?
828:日本@名無史さん
22/08/20 13:21:09.08 .net
>>821
>畿内説の読み方だと、全体の里数も、全体の日数もわからなくなります。
何でそんな嘘つくの?
誰がそんな読み方したと?
証拠だしなよ
上記がアンタの捏造でないんなら
829:日本@名無史さん
22/08/20 13:24:27.41 .net
五百里百里百里で次が水行二十日なんて書き方普通しないから
830:日本@名無史さん
22/08/20 13:24:57.36 .net
>>808
>畿内説は不弥国がどこで何故水行の出発点にしたのか説明できないの?
説明されてるじゃないかテンプレで
比定する理由は出港地ってことだろう
831:日本@名無史さん
22/08/20 13:28:35.13 .net
>>813
>大阪まで行くのなら、京都駅から新大阪駅までのキロ数もなければおかしいですよ。
おかしくないだろ
そういう書き方は実例がある
バラバラの元資料を組みあわせた場合によくあることだ
832:日本@名無史さん
22/08/20 13:30:55.29 .net
>>812
>相も変わらず水掛け論の応酬だねw
いや、理由ある畿内説の言い分に
理由もなく噛み付く九州説
これ、水掛け論と言わない
九州説の無駄な抵抗というべき
833:日本@名無史さん
22/08/20 13:31:19.91 .net
里程と日程では資料も違うし、時期が全然違うんだよ
里程は卑弥呼女王、日程はトヨ女王
834:日本@名無史さん
22/08/20 13:31:42.44 .net
サッパリわからん。
伊都国から邪馬壹国
方位と里数
835:日本@名無史さん
22/08/20 13:36:38.42 .net
>>834
元々が方角も里程も間違いだらけと分かっているのに、なんでこだわる必要がある
836:日本@名無史さん
22/08/20 13:40:14.49 .net
>>835
九州説に聞いてくれ。
837:日本@名無史さん
22/08/20 13:41:25.10 .net
>>836
聞かなくてもわかるよ
「俺様の新しい読み方」しか頼るものがないからだ
838:日本@名無史さん
22/08/20 13:42:04.72 .net
>>835
畿内説に都合が悪いから目を背けているだけだよね。
839:日本@名無史さん
22/08/20 13:42:17.50 .net
>>834
俺でよければ
伊都国の出雲から東に陸行一月で王宮の伊勢遺跡へ
邪馬台はヤマトで方向の違いはわかんないな
840:日本@名無史さん
22/08/20 13:43:08.09 .net
>>830
フミ国から出港したの?
どこに書いてある?
841:日本@名無史さん
22/08/20 13:43:56.71 .net
そもそもヤマトだから方向要らないんだけどね
842:日本@名無史さん
22/08/20 13:51:22.80 .net
なに?
ビシッと本質をついたから反論のしようも無い?
843:日本@名無史さん
22/08/20 13:53:17.67 .net
>>839
卑弥呼は王宮ね。
九州寄らないルートの解釈でいいか?
伊都国が二つかな?
844:日本@名無史さん
22/08/20 13:55:41.13 .net
>>843
勿論出雲だけ
対馬から海流に流されて出雲に漂着
845:日本@名無史さん
22/08/20 13:56:00.92 .net
不弥国が港町だとすると該当する地域が東に百里には無いため方向と里数を間違いとしなくてはならない。
また郡使の駐在した伊都でもなく大きな港町である奴国でもなく、わざわざ小国に移動し出発した理由も想像に頼るしかない。
畿内説では不弥国について仮定の少ない整合性のある説明はできないんだね
はい畿内説敗北。
846:日本@名無史さん
22/08/20 14:01:03.85 .net
>>844
九州には伊都国ないの?
847:日本@名無史さん
22/08/20 14:02:25.39 .net
>>846
無い
因みに奴国も不弥国も無い
848:日本@名無史さん
22/08/20 14:03:34.88 .net
>>847
すまん、ついていけず。
849:日本@名無史さん
22/08/20 14:04:51.65 .net
>>845
妄想の多い人だなあ
畿内説はもともと方角や里程なんて当てにならんという説だと公言している
そう言う理由も明らかにしている
だから「該当する地域が東に百里には無いため方向と里数を間違いとしなくてはならない」と言うのは妄想
「伊都でもなく大きな港町である奴国でもなく、わざわざ小国に移動し出発した理由も想像に頼るしかない
」と言うのも妄想
通過した(とちゃんと認識できた)国を漏らさず列挙しているという主張だから
妄想はダメよ
相手の言ってる事を批判しないと、反論にはならない
850:日本@名無史さん
22/08/20 14:05:15.13 .net
>>848
だってマジで伊都国が糸島とか思ってんの?
墓に住んでたの?
851:日本@名無史さん
22/08/20 14:10:31.72 .net
>>850
思っていないよ。
すなおに東南。佐賀だな。
852:日本@名無史さん
22/08/20 14:12:06.59 .net
>>851
なるほど
細かい事は聞いてないがそれは有りだ
853:日本@名無史さん
22/08/20 14:14:42.23 .net
佐賀に行くなら末盧国に行く理由になるのよ
854:日本@名無史さん
22/08/20 14:15:47.95 .net
>>852
ないな
佐賀からは鏡が少ししか出ない
対中外交の窓口じゃあり得んわ
855:日本@名無史さん
22/08/20 14:16:46.81 .net
>>849
845を自分に言われたものと思ってるならそれがあんたの妄想。
856:日本@名無史さん
22/08/20 14:20:09.93 .net
>>854
どこと比較して?
857:日本@名無史さん
22/08/20 14:26:37.67 .net
糸島にある墓地にある鏡かな?
858:日本@名無史さん
22/08/20 14:29:56.50 .net
>>855
畿内説に言ってるんだろ?
なら妄想じゃない
>>855が妄想だ
859:日本@名無史さん
22/08/20 14:30:57.61 .net
>>856
博多湾岸
唐津も含む
860:日本@名無史さん
22/08/20 14:39:30.47 .net
>>857
墓地だな。しょうもない
使者は九州から出ていないから
ト骨の出土がある地域。
有明海から西の海に、
朝鮮半島寄らないルート
五島列島に橘の自生。
長崎に橘湾がある。
吉野ヶ里もある。
861:日本@名無史さん
22/08/20 14:40:43.85 .net
>>769
鉄製の武器を持ち、城壁都市を建設し、その500年以上前から孫子の兵法を使って戦ってる圧倒的な先進国を相手にして吉野ヶ里遺跡みたいな木造のほったて小屋を建てるのがせいぜいの邪馬台国など小国が怖くないわけないだろw
強弁もいい加減にしろよ勉強不足の中学生かな
862:日本@名無史さん
22/08/20 14:42:06.08 .net
>>860
吉野ヶ里もろくに鏡がない
失格だね
863:日本@名無史さん
22/08/20 14:45:53.05 .net
>>862
根拠にならない。
ト骨の風習。
864:日本@名無史さん
22/08/20 14:49:36.16 .net
>>863
学者たちが絶対の根拠としてる
鏡がちょぼちょぼの地域は交易のメインルートから外れている
これが通説
865:日本@名無史さん
22/08/20 14:50:18.10 .net
ト骨の風習がない糸島は却下。
866:日本@名無史さん
22/08/20 14:52:48.03 .net
>>864
関係なし
867:日本@名無史さん
22/08/20 14:53:50.90 .net
鏡なんかそんなに有り難がるもんかね
国産でたくさん作ってるだろ
868:日本@名無史さん
22/08/20 14:56:38.31 .net
>>866
理由なして通説を無j視すれば自分がジリ貧になるだけだ
卜骨は民族というかルーツの違いや文化圏の関係。
交易ルートとは別だ。
鏡は、入手元と配布先の格差がはっきり出るので交易ルートがわかる
869:日本@名無史さん
22/08/20 14:59:35.12 .net
>>867
国産でたくさん作ってるのは代用品
しかも博多製と分かってるので、これもらってる側が下っ端とわかる
870:日本@名無史さん
22/08/20 15:05:11.42 .net
>>869
博多産でいいんだよ。
糸島は墓地公園。
871:日本@名無史さん
22/08/20 15:07:28.47 .net
しかし、中国から出ないあの鏡。
872:日本@名無史さん
22/08/20 15:21:46.28 .net
>>871
弥生九州で出るのは中国鏡と小型の国産。
中国鏡が手に入らなくなって割れ物に手を出す頃は糸島の権威失墜期間
873:日本@名無史さん
22/08/20 15:23:06.43 .net
>>870
そういう説得力ゼロのトンデモ説を証拠なしで言い張り始めるのは
九州説絶滅のサイン
874:日本@名無史さん
22/08/20 15:23:48.20 .net
一大率は、倭国王が洛陽・帯方郡・諸韓国に使いをするとき、および帯方郡が倭国に使いを出すときに港で調査確認すると記されています
対象は帯方郡の役人です 卑弥呼が送る文書や贈り物をチェックするのはそれが確実に届けられることを担保するためです
役人の不正を防ぐことが仕事です
民間人を取り締ったりチェックしたりするための存在ではない
對海(對馬)国や一大國の住民が日常の生活物資を物々交換するために南北にでかけている旨が記されています
朝鮮半島や九州と日常的に何の規制もなく自由に交易をおこなっていたことがルポされています
875:日本@名無史さん
22/08/20 15:38:39.33 .net
他の畿内説の連中とは違う説だろうが俺の説を出しておこう。
伊都、奴、不弥はそれぞれ怡土、博多、宇美にあたる。
郡使は伊都に滞在するが、これら3つの都市は博多湾周辺の近接する地域なので、ここまでは里程が示されている。伊都に滞在する郡使も、奴や不弥までは足を運ぶことがあったのかもしれない。
水行二十日の出発地は博多湾であることは間違いない。郡使が基本的に伊都に滞在することを考えれば、伊都に近い地点だろう。つまりわざわざ不弥まで歩いて行って船に乗るわけではない(そもそも不弥はやや内陸)。
九州説の奴が「直列じゃねーじゃねーか」って鬼の首をとったように歓喜するのが目に浮かぶようだが、伊都までの行程全キャンセルして行程書き直すような意図不明な解釈よりは現実的だと思ってる。
876:日本@名無史さん
22/08/20 15:38:59.56 .net
>>873
古墳ないの?
877:日本@名無史さん
22/08/20 15:42:07.11 .net
女王が使者を遣わし、魏の都、帯方郡、諸韓国に行くときに伊都国の津を使うのだから
北部九州沿岸しかありえない
878:日本@名無史さん
22/08/20 15:43:59.33 .net
糸島には古墳ないのか?
879:日本@名無史さん
22/08/20 15:51:22.29 .net
>>878
古墳だらけぞ
880:日本@名無史さん
22/08/20 15:52:13.94 .net
>>879
墓地公園でしょ?
881:日本@名無史さん
22/08/20 15:55:11.11 .net
>>879
873さんは糸島に古墳がないて事?
或いは少ないて事かな?
間違いだったらすなおにスマンするのだが?
882:日本@名無史さん
22/08/20 15:59:52.04 .net
>>876
原則、弥生時代に古墳はない
883:日本@名無史さん
22/08/20 16:01:02.78 .net
>>882
墳丘墓は?
884:日本@名無史さん
22/08/20 16:01:38.02 .net
>>881
古墳は古墳時代のものだから、発生期古墳以外は邪馬台国に関係ないってだけ
885:日本@名無史さん
22/08/20 16:01:41.90 .net
墳丘墓もないて事かな?
886:日本@名無史さん
22/08/20 16:02:16.10 .net
>>884
墳丘墓もかな?
887:日本@名無史さん
22/08/20 16:02:24.58 .net
>>883
あるよ
ただし高墳化してない
888:日本@名無史さん
22/08/20 16:03:23.31 .net
>>887
いくつあるの?
889:日本@名無史さん
22/08/20 16:03:44.41 .net
奴国の西の糸島側の初期古墳(前方後円墳)は
今宿の山ノ鼻2号(83m)→志摩の権現塚(36m)→泊の御道具山(65m)→三雲の瑞山(78m)
糸島水道沿岸が糸島平野よりも先に造られる
890:日本@名無史さん
22/08/20 16:09:04.11 .net
>>854
鏡が対中外交の証なら、やはり糸島しかない。
891:日本@名無史さん
22/08/20 16:10:38.67 .net
都するが祖先の礼拝をすることなら、やはり先代までの王墓があり、魏志倭人伝にも代々王がいたと書かれている糸島しかない。
892:日本@名無史さん
22/08/20 16:11:16.60 .net
木簡墓というのあったなあ。
893:日本@名無史さん
22/08/20 16:11:39.01 .net
>>861
あなた、吉野ヶ里を見ていないでしょ。
894:日本@名無史さん
22/08/20 16:13:02.21 .net
>>864
交易のメインルートは、魏志倭人伝によると伊都国だよね。
そして鏡も圧倒的に糸島から出る。
魏志倭人伝にも、魏が卑弥呼に鏡をたくさん贈ったとある。
895:日本@名無史さん
22/08/20 16:14:02.41 .net
>>867
国産で作るようになるのは、後漢滅亡後の平原遺跡から。
つまり卑弥呼の時代から。
そしてその平原遺跡の被葬者は倭国女王。
896:日本@名無史さん
22/08/20 16:15:56.38 .net
>>895
殉教者 100人ぐらい?
897:日本@名無史さん
22/08/20 16:21:05.11 .net
諸説あるが経100歩?
898:日本@名無史さん
22/08/20 16:25:22.73 .net
>>891
>都するが祖先の礼拝をすることなら
それはない
初代王が都を作れなくなる
899:日本@名無史さん
22/08/20 16:26:16.69 .net
>>895
それはガセネタ
900:日本@名無史さん
22/08/20 16:26:34.39 .net
>>896
平原遺跡なら、それくらいの穴が周りにあるらしい。
901:日本@名無史さん
22/08/20 16:27:22.55 .net
>>900
被葬者は残っている?
902:日本@名無史さん
22/08/20 16:27:32.48 .net
>>894
>魏志倭人伝にも、魏が卑弥呼に鏡をたくさん贈ったとある。
そして、その鏡は糸島からは出ない
903:日本@名無史さん
22/08/20 16:28:14.92 .net
>>900
それもガセネタ
904:日本@名無史さん
22/08/20 16:29:22.92 .net
>>901
地質の関係で残らないらしい。
甕棺だと残ることもあるが、平原遺跡は木棺墓だったので、棺の痕跡は残っていても骨はなかった。
まして周囲の陪葬墓は棺もなかったので、骨も残らなかった。
905:日本@名無史さん
22/08/20 16:29:23.06 .net
>>903
あらま、残念
906:日本@名無史さん
22/08/20 16:30:31.33 .net
その魏鏡はどこかから出てきてるのか?
もし運搬中に沈んで海の底にでもあるならロマンがあるな
907:日本@名無史さん
22/08/20 16:31:07.93 .net
>>902
平原遺跡の鏡の中で舶載鏡はその可能性がある。
908:日本@名無史さん
22/08/20 16:32:21.29 .net
>>906
郡使が届けているのだから、海に沈まずに届いた。
伊都の大率がそれを確認していた。
909:日本@名無史さん
22/08/20 16:47:21.13 .net
平原1号墓は200年頃の築造
910:日本@名無史さん
22/08/20 16:50:35.14 .net
>>907
>平原遺跡の鏡の中で舶載鏡はその可能性がある。
いや、可能性まったく無いから
911:日本@名無史さん
22/08/20 17:01:18.96 .net
>>909
生前につくっていたのか?
被葬者がいればな。トホホだな。
912:日本@名無史さん
22/08/20 17:04:58.19 .net
>>909
それは畿内説の願望であり、根拠のない妄想。
卑弥呼の前の倭王は男王と魏志倭人伝に書かれているが、平原遺跡は女王であるため、卑弥呼より前ではない。
913:日本@名無史さん
22/08/20 17:05:25.45 .net
平原1号の鏡は中国にはないサビ色塗装鏡(製造過程に塗装)
914:日本@名無史さん
22/08/20 17:06:03.42 .net
【平原遺跡の副葬品】
平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から3世紀前半から4世紀と考えられている
耳璫は漢末六朝初期(2世紀末~3世紀)に流行した形状である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。
副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢滅亡後の卑弥呼の治世に製作された。
これらに五尺刀を加えて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王であった。
結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
その年代の倭国女王は卑弥呼と壹與しかいない。
915:日本@名無史さん
22/08/20 17:07:38.77 .net
>>909
200年頃というのは、卑弥呼が亡くなった247年も含むよね?
含まないというなら、根拠を教えてね。
916:日本@名無史さん
22/08/20 17:08:25.13 .net
>>912
考古学者による推定年代
異民族の伊都国は女王国に従属した千戸の小国
917:日本@名無史さん
22/08/20 17:10:27.71 .net
>>915
日本では247年を200年頃とは言わない
918:日本@名無史さん
22/08/20 17:11:12.53 .net
>>893
木造のせいぜい3階建ての環濠集落 煉瓦も鉄器も製鉄所も見つかっていない
大陸では馬車が走り回り、鉄の武器や単なる弓を超える弩弓など飛び道具で戦い、万を超える兵士を軍船で朝鮮まで送り込むことができた時代
万里の長城も煉瓦を重ねて朝鮮半島に届くまでとっくの昔に作っているな 制海権を倭人が押さえていたとかなんの冗談だよ
919:日本@名無史さん
22/08/20 17:12:50.92 .net
>>914
考古学的には全くの間違い
920:日本@名無史さん
22/08/20 17:14:44.90 .net
>>912
>それは畿内説の願望であり、根拠のない妄想。
それは九州説の願望であり、根拠のない妄想。
報告は公的なもので、反論している学者もいない
921:日本@名無史さん
22/08/20 17:15:09.69 .net
万里の長城は槌石レンガ、いろんな材料マジで作っている。対して吉野ヶ里遺跡の住人にそんな技術があった形跡は全くない。せいぜい青銅器まで。敵の侵入を防ぐ柵も木造オンリー、
922:日本@名無史さん
22/08/20 17:15:40.22 .net
>>911
>生前につくっていたのか?
いや、確実に死後
923:日本@名無史さん
22/08/20 17:16:50.48 .net
>>921
そういうのがあると魏志倭人伝にあるの?
924:日本@名無史さん
22/08/20 17:17:58.87 .net
>>922
残念だな 被葬者がいない。
925:日本@名無史さん
22/08/20 17:19:20.21 .net
永遠の可能性だな
926:日本@名無史さん
22/08/20 17:34:01.61 .net
>>917
そう主張している学者がいるってことだ。
927:日本@名無史さん
22/08/20 17:36:49.86 .net
>>921
それを言ったら、邪馬台国どころか奈良時代になるまでそんな感じ。
だからなんだ?
畿内説はおためぼかしが多くて、何が言いたいのやら。
928:日本@名無史さん
22/08/20 17:37:49.74 .net
鉄器すらない纒向を推している畿内説が何を吐かすか。
929:日本@名無史さん
22/08/20 17:38:24.08 .net
>>926
いないだろ
いるなら名前が言えるはず
930:日本@名無史さん
22/08/20 17:39:06.02 .net
>>926
いない
931:日本@名無史さん
22/08/20 17:39:32.37 .net
>>928
無いというのが、もうウソ
932:日本@名無史さん
22/08/20 17:41:46.11 .net
>>924
生前に葬送の儀式はしないよ
933:日本@名無史さん
22/08/20 17:43:43.11 .net
>>909
に聞けばいいんじゃないかな
934:日本@名無史さん
22/08/20 17:46:39.28 .net
>>933
何を?
誰に話し掛けている?
対人コニュニケーションに問題ある人かな
935:日本@名無史さん
22/08/20 17:49:17.91 .net
まあ平原1号が卑弥呼のだとか言えば確実にトンデモ判定が下って笑いものとなり
以降相手にされなくなるのが確実なくらいの
大間違いなんだがな
936:日本@名無史さん
22/08/20 19:09:43.00 .net
平原遺跡が200年頃というのは、後漢よりは新しいという意味だよ。
50年以下の精度で年代を比定することは困難だから、3世紀前半と言い換えてもいいし、247年の可能性は排除されていない。
控えめに200年としたのは、畿内説へ忖度したからじゃないかな?
937:日本@名無史さん
22/08/20 19:16:09.27 .net
其行来渡海詣中國
有明海からだろうな。
938:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>937
「持衰」がいるのは、短距離の渡海じゃないと思えるが、どんな船だったんだろう。
939:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>938
興味あるよね。
直行便だよな。
この辺の出土ないかな。
940:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
ト骨の風習
ここで見ていたかもしれない。
今のところ
九州ではここのみ出土。
941:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>936
知りもしないことを自分に都合よく妄想する九州説の病気
942:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>939
中国の船を頂いたのかな?
943:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>936
>50年以下の精度で年代を比定することは困難だから、3世紀前半と言い換えてもいいし、247年の可能性は排除されていない。
調査した人はもっと細かく年代決定しているので、3世紀前半と言い換えたら嘘だし、247年の可能性は排除されている
944:日本@名無史さん
22/08/20 19:38:37.59 .net
>>942
だろうな。
しかし、無茶苦茶だな。
失敗すると殺される。
945:日本@名無史さん
22/08/20 19:58:55.52 .net
弥生時代後期の国内最大級の鉄器制作の炉跡である五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
URLリンク(gossa-awaji.jp)
倭国大乱の時代まで盛んに鉄器制作が行われていたのに卑弥呼が登場する時代になると、忽然と姿を消したとあります
946:日本@名無史さん
22/08/20 20:02:16.12 .net
>>943
排除されているというなら、どのように?
947:日本@名無史さん
22/08/20 20:03:42.03 .net
>>927
伊勢遺跡からレンガが出てる
948:日本@名無史さん
22/08/20 20:07:00.60 .net
もし平原遺跡の被葬者が卑弥呼でないとしたら、後漢末後、つまり倭国大乱後の伊都国に、先代の王でもなく、卑弥呼でもないのに、遠く大陸と交易をし、三種の神器を持ち神事を行い、莫大な富と権力を振るった人物がいたことになる。
949:日本@名無史さん
22/08/20 20:23:14.92 .net
>>948
低墳丘墓だから、そんな権力はない金持ち婆さんだろう
950:日本@名無史さん
22/08/20 20:26:58.80 .net
>>946
FAQ34みたいに
951:日本@名無史さん
22/08/20 20:28:36.56 .net
>>946
平原遺跡1号方形周溝墓はⅠA期の築造(久住)
ⅠB期が3世紀前半
ⅡA期、ⅡB期が3世紀後半
952:日本@名無史さん
22/08/20 20:31:24.87 .net
その年代比定が正しいという根拠は?
953:日本@名無史さん
22/08/20 20:33:43.69 .net
学者は誰も反論していない
954:日本@名無史さん
22/08/20 20:38:32.96 .net
>>953
というか意見ほぼが一致してる
955:日本@名無史さん
22/08/20 20:38:38.44 .net
糸島は王が居て一大率が居たとされてるけどどう見ても墓地だよね
ここの整合性がないと納得できないかな
魏志倭人伝を否定するんだったら良いんだよ
956:日本@名無史さん
22/08/20 20:47:18.13 .net
三雲、井原遺跡群は古墳時代初頭前後も50ha以上の規模があり、
伊都国の王都として存続している(久住)
957:日本@名無史さん
22/08/20 21:07:53.35 .net
>>955
郡使が滞在する外交の場です。
大率が睨みを効かせる、内政の中心でもあります。
958:日本@名無史さん
22/08/20 21:08:08.42 .net
>>956
奴国には王がいないのは、戦いに
負けて簀巻きにされ海に投げ込まれたのかもしれない。
伊都に王がいるのはそうならなかった。良かったですね。
959:日本@名無史さん
22/08/20 21:09:54.34 .net
伊都が都市として最も発達したのは、4世紀。
200年頃も、列島でおそらく最も富が集中し、魏志倭人伝によると権力も集中していた。
960:日本@名無史さん
22/08/20 21:17:45.55 .net
>>958
奴国は誰に負けたの?
負けたとすれば、九州北部におあて最後まで王家が存続していた伊都国に負けたのですね。
逆にいうと、魏志倭人伝からは伊都国王こそ九州北部の最終勝者だったことになります。
他は王家がなくなっていますから。
諸国が畏れ敬うわけですよ。
961:日本@名無史さん
22/08/20 21:21:34.91 .net
大率は、大袈裟に言えば日本の戦後にいたGHQかもしれない。
962:日本@名無史さん
22/08/20 21:23:12.13 .net
>>960
参考 >>316
963:日本@名無史さん
22/08/20 21:24:34.27 .net
>>960
だからそういうのが誤魔化しだと言ってる
使者が見て伊都国に王が居て刺史のようなのが居るように見えたんでしょ
964:1
22/08/20 21:26:35.43 .net
新スレ立てました。
スレリンク(history板)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
965:日本@名無史さん
22/08/20 21:29:08.86 .net
伊都にいた王家の正体は、日本書紀に垣間見ることができます。
仲哀が穴門豊浦宮(下関市)から香椎宮(福岡市東区)入りしたときは、伊都高千穂宮(怡土の県主、糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、北九州市)がそろって出迎え、仲哀は香椎宮に迎えられた。
この際に怡土の県主らは三種の神器に相当するものを榊にかけて登場しています。
考古学的にも、糸島の王墓の多くは三種の神器に相当する内容の副葬品を持ちます。
仲哀の実年代は4世紀後半と考えられますが、その時点でも一定の権力を持つ王家であり、仲哀を共立した勢力の一つであったようです。
仲哀自身も関門海峡に本拠地を置く天皇であり、三種の神器に関わる怡土の県主もまた天皇家の一族であったでしょう。
966:日本@名無史さん
22/08/20 21:30:14.45 .net
【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後~筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。
足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。
967:日本@名無史さん
22/08/20 21:31:57.41 .net
>>960
那珂八幡(85m)ⅠB期(3世紀第2四半期)→今宿の山ノ鼻2号(83m)ⅡB期
→志摩の権現塚(36m)ⅡB期→泊の御道具山(65m)ⅡB期→三雲の瑞山(78m)ⅡC期
968:日本@名無史さん
22/08/20 21:34:53.23 .net
>>959
ただし王家はヨソ者で国は乗っ取られずみ
969:日本@名無史さん
22/08/20 21:35:50.26 .net
>>962
記紀には、九州北岸つまり博多湾沿岸とその南にある筑後の争いについて、具体的な人物名や戦いの経緯が書かれていることになります。
卑弥呼亡き後の4世紀の伊都を含む権力争いです。
最終勝者は、住吉の神と呼ばれた武内宿禰と、八幡の神と呼ばれた応神天皇の母である神功皇后です。
970:日本@名無史さん
22/08/20 21:35:50.41 .net
>>947
吉野ヶ里と類似するのも多いよ。
建物とか前方後方墳とか
971:日本@名無史さん
22/08/20 21:37:37.02 .net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2~1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
972:日本@名無史さん
22/08/20 21:47:38.64 .net
九州説は神話アテハメ遊び
973:日本@名無史さん
22/08/20 21:50:36.89 .net
墓が立派でも墓に住んでるわけじゃないから
974:日本@名無史さん
22/08/20 21:53:28.58 .net
遺跡がほとんど墓なんだな。
墓地公園だな。
975:日本@名無史さん
22/08/20 22:19:39.41 .net
>>そういう説得力ゼロのトンデモ説を証拠なしで>>言い張り始めるのは
>>九州説絶滅のサイン
と書いたはやっぱりノータリンだったな。
976:日本@名無史さん
22/08/20 22:26:16.69 .net
>>975
ゴメンちゃい、言わずに済んだよ。
977:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
純粋に学問的な興味関心を持ち、このようなスレに参加することは尊敬すべきことだと思います
私が最初このスレに参加した時の九州説の人たちは、卑弥呼を何か薄暗い林の中の集落に住み、祈祷師のようなことをしている人というイメージでとらえていたようでした
九州説は、卑弥呼・倭国・邪馬台国を矮小化する傾向があります これが私には当初から残念なことでした
今でもその傾向はあります 九州の範囲に収めて説明しようとすると、どうしてもそうなる
ですが、今では薄暗い林の中でぶつぶつ何かを唱えている祈祷師のイメージを持っている人はいないと思います
毎日議論に参加してあれこれ議論してきて、結局どちらの説の人も少しずつ進歩してきたと思います
議論には意味があったと・・・
いずれ、だんだんと霧が晴れるように、帥升からはじまる倭国の姿がはっきりと見えてくると思います
978:日本@名無史さん
22/08/21 00:27:20.82 .net
>>975
反論せず罵っただけで済むと思うのは、自分がノータリンだと証明したということ
979:日本@名無史さん
22/08/21 01:04:13.11 .net
今では薄暗い心の林の中でぶつぶつ何かを唱えているのは九州説信者
980:日本@名無史さん
22/08/21 01:16:49.77 .net
寄生虫内説じゃ無理なお話だわ
寄生虫は寄生虫レベルでしか力が発揮出来ないし
981:日本@名無史さん
22/08/21 01:21:47.99 .net
>>980
そうやって全く畿内説に反論せず、理由もない悪口を呟いていれば論破されることもなく
鬱憤が晴れていいんだろうが、それで本当に鬱憤晴れてる?
無抵抗じゃ、自分の説はジリ貧だよ
982:日本@名無史さん
22/08/21 01:32:05.60 .net
九州説にまともな反論も出来ず罵っているだけなのは畿内説の方なのだけどね。
983:日本@名無史さん
22/08/21 01:37:38.53 .net
>>977
後漢書や魏志倭人伝を読む限り、倭も邪馬台国も九州に限定されます。
それを西日本全土に拡大しようというのは、根拠のない古代妄想です。
それに、林の中でぶつぶつと何かを唱えているとあうのは意味不明で、そのような説明は見たこともない。
九州説なら記紀と擦り合わせることが可能であり、日本の歴史においてもきちんと倭王として位置づけることができます。
ただしそれが大和の神武の王統ではないだけです。
そのことが、畿内説すなわち皇国史観、万世一系説が心の奥深くに染み付いている人たちには不満なのでしょう。
畿内説こそカルトであり、日本の歴史に真摯に向き合うことを避けている妄信者です。
984:日本@名無史さん
22/08/21 02:04:08.77 .net
>>982
証拠は?
985:日本@名無史さん
22/08/21 02:07:03.34 .net
>>983
>後漢書や魏志倭人伝を読む限り、倭も邪馬台国も九州に限定されます。
そういうことを理由も言わずに言い張るから、九州説は駄目なんだよ
986:日本@名無史さん
22/08/21 02:22:54.52 .net
>>983
>そのことが、畿内説すなわち皇国史観、万世一系説が心の奥深くに染み付いている人たちには不満なのでしょう。
要するにあなたは、他人の話ひとことも聞かないで決めつける人ってことか
987:日本@名無史さん
22/08/21 04:31:15.60 .net
@p@p
988:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
しかし、不思議だよね。
卑弥呼亡き跡、男王でおさまらず
千人程 内ゲバで死んだ。
狗奴国との対立での犠牲者の数はない。
緊張状態で戦闘がなかったのか?
989:日本@名無史さん
22/08/21 05:51:42.91 .net
ヒデー説では狗奴国に破れ死んだという
設定で会場設け、デスカッション
破れていたら、内ゲバも壹与もたてられん。
990:日本@名無史さん
22/08/21 06:00:57.58 .net
URLリンク(m.youtube.com)
これな。根拠すら上げない人物ばかりだ。
991:日本@名無史さん
22/08/21 06:07:24.51 .net
>>990
俺なら真っ先に質問する。
会場にいる人は鵜呑みさん ばかりか?
992:日本@名無史さん
22/08/21 06:52:17.03 .net
後漢書や魏志倭人伝
書いた人の解釈もある。
三国志では女王国
後漢書
なぜか邪馬台国になっている。
だから邪馬台国という変な論法
993:日本@名無史さん
22/08/21 06:58:24.30 .net
漢書地理志燕地に
「夫樂浪海中有倭人為百餘國㠯歳時來獻見云」
九州に百餘國はないだろうから、本州から朝鮮半島へ行っていたと思う。
この倭人と魏志倭人伝の倭人が、合体してできたのが畿内説では?
994:日本@名無史さん
22/08/21 07:03:44.83 .net
>>992
後は自分の推論、
まあ、一つの考え方ぐらいだな
995:日本@名無史さん
22/08/21 07:19:12.60 .net
>>994
あくまで後漢時代の事だけど
ソウの時代で無意識のうちに
壹の字を変更。
或いは現存する古い三国志が間違い。
とか、いろいろあるね。
996:日本@名無史さん
22/08/21 07:24:02.61 .net
史書、志書の
批評は重要かつ難しい。
997:日本@名無史さん
22/08/21 07:34:29.86 .net
あなたがそう考えてもそのあなたの結論を繰り返すだけでは不毛です
それにもともと九州説の発端こそあなたの毛嫌いする皇国史観から発したのではないでしょうか
江戸時代の国学者が日本に古来から存在する独自の文化・精神世界を明らかにする熱意のために儒学や仏教や伝来した学問を否定しようとした
彼らにとって倭国の王が中国に朝貢した歴史など否定せざるを得なかった
それは天皇の系列とは無関係な原始的な地方政権のなしたこと、としたかった
明治以降も一段とギアがアップしています
現在の私たちも、その影響下にある
学問的にある種の束縛の中に置かれていると思います
いずれそれから自由になり、みなが純粋な学問的な興味のみで語るようになる 私はそう思ってます
998:日本@名無史さん
22/08/21 07:43:00.86 .net
>>997は
>>983へのレスでした
失礼しました
999:日本@名無史さん
22/08/21 08:50:26.89 .net
>九州説の発端こそあなたの毛嫌いする皇国史観から発したのではないでしょうか
違いますねw
3世紀のヤマトなら奈良以外にあり得ない。なのに倭人伝を読むと九州の事であるのが明らか。で、あるならばヤマト王権を仮冒する勢力に違いないと言う流れです。畿内説こそ考古学がない時代の皇紀が正しいとされた時代の思い込みの遺物です。
1000:日本@名無史さん
22/08/21 08:53:12.21 .net
1000なら卑弥呼の金印も発見
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