22/08/17 21:43:38.61 .net
>>560
通訳のミスで帥升は倭王扱いされたが、本当はナンバーツーの太宰の帥だったのだろうと思っている。
倭王は博多湾沿岸にいた。
金印をもらった倭奴国王も博多湾沿岸にいた。
倭とは、博多湾沿岸のことに他ならない。
卑弥呼もまた倭の女王であった。
倭王帥升の朝貢は107年。
倭王卑弥呼の即位はおよそ190年頃である。
魏の郡使がわざわざ邪馬台国を訪れたのは、朝貢して来た卑弥呼が本当に帥升や倭奴国王の後継であるのかを確認する意味があったはず。
そこで、倭までの詳しい里程と、後漢末から卑弥呼共立までの国内事情を報告したのである。
邪馬台国か博多湾沿岸でなかった場合、卑弥呼が倭王帥升の後裔であり真の倭王であることを証明するものはなくなってしまう。
だからこそ、倭の王都までの里程が詳しく記録されている。
そしてその記録は伊都国奴国不弥国という福岡県内の地名で終わっている。