邪馬台国畿内説 Part802at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part802 - 暇つぶし2ch61:1
22/08/14 17:09:42.84 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

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22/08/14 17:10:14.87 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

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22/08/14 17:10:46.79 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

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22/08/14 17:11:18.49 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

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22/08/14 17:11:49.95 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では


66:低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。 これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。 ◆FAQ 75 Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!   畿内説は皇国史観の徒である! A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。  遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995) 家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。  複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。



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22/08/14 17:12:21.32 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

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◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安~齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

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22/08/14 17:13:23.36 .net
◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

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◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

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◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡�


72:ナある。 https://i.imgur.com/XIb0RqF.png ◆FAQ 82 Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!   このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない! A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。  「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。  三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018) 初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。  黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。  このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。



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◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

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◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

75:1
22/08/14 17:16:04.20 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

76:1
22/08/14 17:16:36.74 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 URLリンク(i.imgur.com)
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

77:1
22/08/14 17:17:08.24 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

78:1
22/08/14 17:17:39.98 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

79:1
22/08/14 17:18:12.93 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

80:1
22/08/14 17:18:43.98 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

81:1
22/08/14 17:19:14.96 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

82:1
22/08/14 17:19:45.65 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。
 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 URLリンク(i.imgur.com)
同空撮 URLリンク(i.imgur.com)
建物B空撮 URLリンク(i.imgur.com)
Dより西を望む URLリンク(i.imgur.com)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

83:1
22/08/14 17:20:17.83 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

84:日本@名無史さん
22/08/14 17:38:56.47 .net
新しい阿波説スレはここですか?

85:日本@名無史さん
22/08/14 17:39:14.63 .net
前スレ980
>勝手に読み替えないといけない畿内説なんて、こじつけでしょ。
読み替えしてない

86:日本@名無史さん
22/08/14 17:40:09.85 .net
>>76
違いますのでお帰り下さい

87:日本@名無史さん
22/08/14 17:43:43.57 .net
>>76
>新しい阿波説スレはここですか?
そうです。 存分に「阿波」を語りましょう。   @阿波

88:日本@名無史さん
22/08/14 17:47:29.34 .net
前スレ968の笑っちゃう間違い
>「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
九州説の馬鹿ものは基礎知識なさすぎ

89:日本@名無史さん
22/08/14 18:00:37.54 .net
>>948
>そのうち九州上陸までで一万里余。
陳寿はそんなこと、言うとらん!   @阿波

90:日本@名無史さん
22/08/14 18:01:50.55 .net
前スレ>>990
女王国に従属してるのだから女王とは別の王
糸島からは倭人の風習である卜骨が一片も出ていないので非倭人の国

91:日本@名無史さん
22/08/14 18:17:42.81 .net
>>82
大陸人ですか?

92:日本@名無史さん
22/08/14 18:33:15.62 .net
阿波説の人は、当該スレが過疎ってますので、そちらを盛り上げられては?
「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!?
スレリンク(history板)

93:日本@名無史さん
22/08/14 18:57:01.68 .net
>>94
それは、「阿波」のスレでない。
それは、自虐史観売郷奴のスレ。 まったく「阿波」とは異なる雑魚スレ。   @阿波

94:日本@名無史さん
22/08/14 19:00:04.06 .net
>>94
ここは、スレ主がちょろいので、「阿波」が乗っ取ったスレ。  わははははは   @阿波

95:日本@名無史さん
22/08/14 19:06:04.01 .net
阿波から出るのは猿の骨

96:日本@名無史さん
22/08/14 19:08:39.66 .net
>>83
伊都国はおそらく弁韓人、後の伽耶人
馬韓辰韓には王がいないが弁韓には王がいる「十二國亦有王」
伊都国はわずか千戸ながら王族が存続して女王国に従属している
糸島には可也山、芥屋の地名がある

97:日本@名無史さん
22/08/14 19:09:41.18 .net
URLリンク(www.city.itoshima.lg.jp)

98:日本@名無史さん
22/08/14 19:35:36.33 .net
>>88
奴国は違うんですかね?

99:板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
[ここ壊れてます] .net
誰か94で気の利いたレスしてあげてな。

100:板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
[ここ壊れてます] .net
日本@名無史さん(中略)@阿波氏は、
私の建てたスレを荒らしには来ないと思います、
彼の方は、私の隠れたファンなのでw

「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!?
スレリンク(history板)

101:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
94ってなんや? 板野の糞よ。   @阿波

102:板野に居たの
22/08/14 21:00:09.74 .net
>>84
92のレスは84さんあてね。

103:日本@名無史さん
22/08/14 21:00:47.87 .net
>>90
糸島の平原1号(200年頃)は韓の立大木縣鈴鼓があるが、
3世紀前半の奴国の中心地の博多の首長は
畿内の影響下にあり纏向と同じ前方後円墳を築造している

104:日本@名無史さん
22/08/14 21:28:34.75 .net
>>95
奴国は大陸との交流の入り口のような所、倭人以外も多いかな?、と思った。

105:日本@名無史さん
22/08/14 21:30:42.68 .net
>>95
>畿内の影響下にあり纏向と同じ前方後円墳を築造している
「前方後円墳」などの積石墓は、「倭人(阿波勢力)」ってこと、十分知っている上で
言っている確信犯。   @阿波

106:日本@名無史さん
22/08/14 21:37:39.82 .net
>>92
板野もよそに荒らしに来るなよ

107:日本@名無史さん
22/08/14 21:39:42.55 .net
3世紀は博多湾貿易と呼ばれ、
楽浪土器と入れ替わるように馬韓系土器が出土するようになるので倭人以外も多い

108:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
支石墓の研究から、咸安あたりの人が渡ってきて糸島が栄えたことが分かってるね

109:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
当時の博多は一大卒の駐屯地だったと思うけどね
女王国の出先機関
魏志倭人伝にある奴国は遠賀川流域じゃないか

110:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
前方後円墳は封土・周濠、箸墓以降は葺石・段築
ツングースの積石塚は小円墳に上がり框付・周濠無

111:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
朝鮮半島南西部に数万基密集し、西北九州に多い支石墓は糸島が東限
福岡平野、壱岐対馬には無い

112:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>101
>魏志倭人伝にある奴国は遠賀川流域じゃないか

奴国(二万戸)(田川辺り)。   @阿波

113:日本@名無史さん
22/08/14 22:24:20.39 .net
>>101
思うのは勝手だが
なんでまったく理由を言わないの?

114:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
一大率は常治伊都國とあるから、奴国(博多)ではなくやはり伊都国にあったのだろう。
奴国の方が栄えていたと思うが、おそらく当時の奴国はまだ有力豪族の本拠地の性格が強く、伊都国の方が中央政権への組み込みが進んでいたのではないか。その後、奴国も中央集権制に組み込まれて太宰府が博多近くに設置されるようになったのだろう。

115:日本@名無史さん
22/08/15 00:01:40.86 .net
畿内と密接なのは博多だが
今津湾北側の今山に福岡平野産の筑前型庄内甕、北部九州型布留甕が多数搬入されているので
何らかの拠点があった

116:日本@名無史さん
22/08/15 00:09:22.72 .net
訂正
今津湾北側の今山 → 今津湾岸の今宿遺跡北側

117:日本@名無史さん
22/08/15 01:00:46.52 .net
今宿あたりだともう博多より伊都の方が近いな

118:日本@名無史さん
22/08/15 01:08:48.14 .net
博多側の力で湾を封鎖できる場所だよ

119:日本@名無史さん
22/08/15 01:44:50.13 .net
できるだろうが、封鎖してどうするんだ?

120:日本@名無史さん
22/08/15 03:28:58.19 .net
>>106
その有力豪族が畿内勢力だろ。
中央は伊都で、伊都の大率が周辺国を検察して実効支配していたわけだから。

121:日本@名無史さん
22/08/15 05:44:46.01 .net
>>111
伊都が勝手に貿易しないように

122:日本@名無史さん
22/08/15 05:47:09.15 .net
>>112
大率は女王ぁら派遣された地方官だから、中央じゃあり得ないよ

123:日本@名無史さん
22/08/15 06:50:30.86 .net
>>95
魏志倭人伝には博多には外部の有力者の話が出てこないよ?
その前方後円墳は本当に3世紀前半なのかな?

124:日本@名無史さん
22/08/15 06:52:08.27 .net
>>107
少なくとも博多の畿内勢力は、九州北部の政治の中心地であった伊都国に入り込めてなく、政治的立場は高くなかったということになる。

125:日本@名無史さん
22/08/15 06:53:29.74 .net
>>113
笑止
伊都が大率で制海権を掌握していたことが魏志倭人伝から明らかだ。

126:日本@名無史さん
22/08/15 06:54:12.75 .net
>>114
前提として、魏志倭人伝を誤読しているだろう。

127:日本@名無史さん
22/08/15 06:54:48.17 .net
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じ�


128:驕B つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。 女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県北西部の国だけである。 すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。 倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。 邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。 都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。 「刺史」・・・地方を検察する中央官僚 「大率」・・・百済などにあった上級の中央官僚



129:日本@名無史さん
22/08/15 06:59:12.47 .net
>>116
ならんでしょ
伊都国は人口少ないし女王国の傘下にある国だもの
これって考古学にも一致している
一大率というのは、博多の王か王族が目付として伊都国に乗り込んでいるのかも知れない

130:日本@名無史さん
22/08/15 07:00:51.72 .net
>>118
>前提として、魏志倭人伝を誤読しているだろう
伊都厨さんの壊滅的な誤読を指摘してるんだよ

131:日本@名無史さん
22/08/15 07:02:12.26 .net
>>119
>「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
なんでこんな低レベルな思い違いをするの?
信じられない

132:日本@名無史さん
22/08/15 07:27:52.29 .net
>>119
>邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので
「官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮」って無視ですか
ほんとに倭人伝読んでるの?

133:日本@名無史さん
22/08/15 07:36:36.62 .net
>>120
魏志倭人伝では、伊都国に王はいたが、奴国にはその記載はない。
それに、考古学的にはというが、具体的に何のこと?
少なくともそれは魏志倭人伝と不一致とあうことになる。

134:日本@名無史さん
22/08/15 07:39:51.39 .net
>>123
それは伊都国の官であって、広域を管轄する官吏ではない。
大率は、伊都に置かれて、女王国より北の広域を管轄する官。
東京都知事、副知事と総理大臣の違いですよ。
どちらも東京にいますけどね。

135:日本@名無史さん
22/08/15 07:40:20.35 .net
>>122
どう思い違いなのか説明してみてください。

136:日本@名無史さん
22/08/15 07:42:59.14 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。
・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い
女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。
刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。
中国大陸は広いので、報告するのに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。

137:日本@名無史さん
22/08/15 07:44:05.66 .net
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。

138:日本@名無史さん
22/08/15 07:51:42.13 .net
邪馬台国が畿内なら、なぜ畿内の行政システムについての説明はないのか?
伊都では女王への献上品を開封して中身を確認しているのに、なぜ畿内の港ではそうしないのか?

139:日本@名無史さん
22/08/15 08:17:52.98 .net
大率は伊都国の王に与えられた任務だと解釈してるけど

140:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>124
>少なくともそれは魏志倭人伝と不一致とあうことになる。

なりません
卑弥呼顔うなら奴国に王がいなくて当然だし、3世紀前半には若宮に前方後円墳が築かれている。
伊都国は2世紀末には周辺国への影響力を失ってる
考古と文献が一致してます

141:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>130
>大率は伊都国の王に与えられた任務だと解釈してるけど

そーんなまったく根拠のない解釈をしてるほと、他にいる?

142:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>127
>首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。

つまり中央官僚だというのはトンデモないカンチガイ

143:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>130
>大率は伊都国の王に与えられた任務だと解釈してるけど

大率は倭国(阿波)王権から伊都国の王(筑紫忌部)に与えられた任務だと解釈してるけど。   @阿波

144:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>128
>大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が

何と言う都ですか?

145:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>135
>何と言う都ですか?

倭国(阿波)の都(みやこ)。   @阿波

146:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>135

伊都

147:日本@名無史さん
22/08/15 08:54:08.58 .net
>>132
だって王が居るのに直轄地なんてあり得んでしょ

148:日本@名無史さん
22/08/15 08:54:15.41 .net
>>130
伊都国王がわざわざ北方の対馬海峡の国々を検察するのか?
それもおかしな話だ。
やはり大率は王の代理としての代官のような役割を考えるべきで、その検察対象は女王国より北の国々とされている。
伊都に置かれて女王国より北を検察するなら、どこを女王国と認識しているのか。

149:日本@名無史さん
22/08/15 08:54:59.58 .net
>>138
そんなことはない。
王が引きこもりなら、代官を置くのは普通のこと。

150:日本@名無史さん
22/08/15 08:55:08.99 .net
伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など九州北岸の国々を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)

151:日本@名無史さん
22/08/15 08:56:07.83 .net
>>139
対価で貿易の権益を握ってるんだよ

152:日本@名無史さん
22/08/15 08:59:13.36 .net
>>140
王が引きこもりって卑弥呼の事か?
そんなの伊都国に関係ねえじゃん

153:日本@名無史さん
22/08/15 08:59:14.01 .net
>>141
帯方郡に狗奴国と戦争中だと報告しているから、背後から女王国を裏切らないように監視してたんだね。
筑紫説は実に説得力がある。

154:日本@名無史さん
22/08/15 08:59:56.22 .net
>>139
>伊都に置かれて女王国より北を検察するなら、どこを女王国と認識しているのか。
「阿波」。   @阿波

155:日本@名無史さん
22/08/15 09:02:19.35 .net
>>144
>筑紫説は実に説得力がある。
筑紫説は実に妄想だけで根拠遺跡がない。   @阿波

156:日本@名無史さん
22/08/15 09:03:59.44 .net
>>128
>官有十六品。
>長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
>(隋書 東夷 百濟)
それ、隋書の誤字
 × 大率
 ○ 達率

157:日本@名無史さん
22/08/15 09:07:51.30 .net
>>144
其(正始)八(247)年、太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
「正始八(247)年、太守王頎、官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素と和せず、倭載斯烏越等を遣はし、(帯方)郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史・張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す」
「正始八(247)年、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(帯方郡主・王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを解り易く説明して説得した」

158:日本@名無史さん
22/08/15 09:08:13.60 .net
>>137
伊都から出て地方を検察
ですか

159:日本@名無史さん
22/08/15 09:10:52.04 .net
>>148
>倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。
湖東~鈴鹿峠に戦争の痕跡なしw

160:日本@名無史さん
22/08/15 09:12:23.09 .net
>>149
>>137は、アホだから。   @阿波

161:日本@名無史さん
22/08/15 09:13:18.19 .net
>>150
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
-女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
-其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。

162:日本@名無史さん
22/08/15 09:18:41.76 .net
>>141
>>152
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
おそらく洛陽(後漢~曹魏~西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。

163:日本@名無史さん
22/08/15 09:19:10.06 .net
>>151
冗談だろ。

164:日本@名無史さん
22/08/15 09:25:06.62 .net
>>153
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長~い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ~ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸

165:日本@名無史さん
22/08/15 09:28:02.97 .net
>>152
>>153
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」~卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ~ のカラクリ
①265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
②(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
③おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

166:日本@名無史さん
22/08/15 09:30:47.67 .net
>>129
>邪馬台国が畿内なら、なぜ畿内の行政システムについての説明はないのか?
>伊都では女王への献上品を開封して中身を確認しているのに、なぜ畿内の港ではそうしないのか?
伊都は属国で女王国内じゃないからだろ

167:日本@名無史さん
22/08/15 09:33:50.94 .net
>>148
何が言いたいの?
主張も結論もありませんが

168:日本@名無史さん
22/08/15 09:34:16.84 .net
>>155の模式図だyo!スマホやタブレットじゃなくて、PCで見てね【倭人伝の「会稽東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━┓帯方郡  ┏┛~~~~~~~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~~日本海~~
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~~~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行10日」~~~~┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘~~~~~~~┗━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行10日」┐関門海峡~~~~~▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃~~┏末盧国━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃ 
   ┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃~┗━━┛
 ↑ ┃~~┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━┛「在其南 人長3~4尺(少彦名)
【呉】┃~~┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙~~~~~~~~~去女王(之所都)4,000里」
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃~~┗━女王国島━┛↓~~~~~~~~~
会稽┃~東シナ海~┌南「水行10日」~~~~~~~~
東治┃~~┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃~~│~↓「陸行1月」_~│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃~~│~↓▲沖縄~~~│~~↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃~~│♀【奴国2】(幻).~│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃~~│▲台湾~~~~~│~~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~~南シナ海~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」

169:日本@名無史さん
22/08/15 09:34:44.95 .net
>>138
>だって王が居るのに直轄地なんてあり得んでしょ
直轄地なんて誰が突然言い出した?
トンチンカン?
発狂?

170:日本@名無史さん
22/08/15 09:37:09.20 .net
>>141

171:日本@名無史さん
22/08/15 09:39:45.66 .net
>>144
>筑紫説は実に説得力がある。
筑紫説は実に妄想だけで根拠遺跡がない。   @阿波

172:日本@名無史さん
22/08/15 09:41:14.08 .net
>>162
まだ発掘されていないだけw 焦るな、早漏爺よw

173:日本@名無史さん
22/08/15 09:45:12.40 .net
>>163
もう掘り尽くして、無理。  期待が持てるのは四国「阿波」。   @阿波

174:日本@名無史さん
22/08/15 09:45:45.08 .net
>>160
だったら大率が居るのはどういう状態なんだ?

175:日本@名無史さん
22/08/15 09:46:34.00 .net
>>164
焦るなw 早漏ソープ泡爺よw

176:日本@名無史さん
22/08/15 09:48:14.59 .net
①伊都国王が一大率を兼務していた。
②伊都国王の他に卑弥呼から派遣された一大率がいた。
どっち?w

177:日本@名無史さん
22/08/15 09:50:05.59 .net
反乱を鎮圧したり使者を女王の元に送り届けたりなんてタダでやっとれんわ
相応のうまみがなきゃ

178:日本@名無史さん
22/08/15 09:51:48.03 .net
>>126
>どう思い違いなのか説明してみてください。
だから、刺史が中央官僚だなんて、あなた笑いものでしょ?

179:日本@名無史さん
22/08/15 09:51:57.40 .net
>>168
②ってこと?

180:日本@名無史さん
22/08/15 09:53:41.16 .net
>>170
当然①

181:日本@名無史さん
22/08/15 09:55:23.40 .net
うまみってのが貿易の権益を一手に握る

182:日本@名無史さん
22/08/15 09:55:59.49 .net
>>165
>だったら大率が居るのはどういう状態なんだ
地方長官でしょ
通説どおり大宰率みたいなもん

183:日本@名無史さん
22/08/15 09:57:58.99 .net
>>173
そういうことじゃなくてじゃあ伊都国王は何ができるの?

184:日本@名無史さん
22/08/15 09:58:12.47 .net
一大率と伊都国王の関係の実態なんて、直接見ていない現代人がそれぞれ違う解釈するしかないから無限ループ(水掛け論)になってしまうだろ。
>>141
それより南の狗奴国と戦争中の女王国が伊都国に、女王国「以北」の国々を監視させてたという記述にのみ着目すべき。
邪馬台国は、伊都国と狗奴国に南北挟まれた筑紫平野しかないということ。

185:日本@名無史さん
22/08/15 09:58:53.87 .net
伊都厨、間違いだらけで藁

186:日本@名無史さん
22/08/15 10:03:24.23 .net
>>175
>一大率と伊都国王の関係の実態なんて、直接見ていない現代人がそれぞれ違う解釈するしかないから無限ループ(水掛け論)になってしまうだろ。
ならねえよ
別々に書いてあるんだから別物だ
同じなら伊都国王が諸国を検察するって書くだろ気が狂ってなきゃ

187:日本@名無史さん
22/08/15 10:04:46.44 .net
魏から女王へのお土産を調べつくす程の権限を持ってるんだし
貿易品の検品などどうという事はない

188:日本@名無史さん
22/08/15 10:06:12.07 .net
>>175
>女王国が伊都国に、女王国「以北」の国々を監視させてたという記述にのみ着目すべき。
当然、「狗奴国」の「卑彌弓呼」も朝鮮半島へ鍛冶材料を求めて進出していた。
「卑彌呼」はそういった「狗奴国」の動きを監視させていたのだろう。   @阿波

189:日本@名無史さん
22/08/15 10:06:58.93 .net
声の大きい、間違った者が勝った畿内説w

190:日本@名無史さん
22/08/15 10:10:11.46 .net
>>179
ただし、女王国と「狗奴国」が不仲だったのは、「卑彌呼」「卑彌弓呼」の時代だけ。 
その前後は、友好国同士。   @阿波

191:日本@名無史さん
22/08/15 10:14:56.02 .net
根拠は妄想、阿波説w

192:日本@名無史さん
22/08/15 10:17:35.15 .net
卑弥呼と卑弥弓呼の不仲が原因で争ってたんだしそらそうでしょ

193:日本@名無史さん
22/08/15 10:19:22.42 .net
見て来たかのような嘘を言う畿内説w

194:日本@名無史さん
22/08/15 10:21:57.98 .net
北部九州から畿内に移ったことは間違いないが、その時期により学説が異なる
‐卑弥呼の時代(畿内説)
-神武崇神の時代(九州説)
-天智の時代(九州王朝説)

195:日本@名無史さん
22/08/15 10:26:15.42 .net
>>180
>声の大きい、間違った者が勝った畿内説w
あんた声だけ大きいよ。中身ないのに

196:日本@名無史さん
22/08/15 10:27:07.75 .net
>>185
学問的なのは畿内説だけ

197:日本@名無史さん
22/08/15 10:27:28.42 .net
>>152
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝~応神朝~継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

198:日本@名無史さん
22/08/15 10:29:53.95 .net
>>181
動画もやっていた越前説の八俣遠呂智さん。アバターが若くてイケメン過ぎるだろwww
山陽道・四国(8): 辰砂の産地 没個性・弥生遺跡
URLリンク(www.youtube.com)
邪馬台国徳島説というのをご存じですか?
徳島県の経済団体が音頭を取って、地元だけで盛り上がっているようです。
(略)
客観的に見て、残念ながらその可能性は無く、全国的な広がりはありません。
しかし羨ましいですね。徳島の人達はノリが良いです。
「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿保なら・・・」

199:日本@名無史さん
22/08/15 10:30:25.60 .net
>>188
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊お�


200:オくま皇子)の反乱もこれが原因である。 その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。 この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、 その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。 しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。 その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。 ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである! 欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。



201:日本@名無史さん
22/08/15 10:32:52.73 .net
>>185
吉備特殊器台の箸墓に殉葬なしw
纏向大型建物群に楼閣も濠もなし、猪除けの板塀だけw
「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」
どこが学問的なの?畿内説w

202:日本@名無史さん
22/08/15 10:35:44.28 .net
>>164
阿波爺さん、あんた天才かも!
>>191
>欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
つまり、九州説みたいにまだ発掘されていないんじゃなくて、記紀に書いてあるところを発掘して出ないということは、九州王朝説が正しいってこと!w

203:日本@名無史さん
22/08/15 10:39:51.52 .net
九州王朝説って阿波説と通じるな。

204:日本@名無史さん
22/08/15 10:41:39.29 .net
マジャームーン「畿内説がじぇんぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢!解りました?」

205:日本@名無史さん
22/08/15 10:45:47.26 .net
まぁ、畿内説なんて安倍内閣(文科省)への忖度だからw なんとか宗教団体の支援が資金源になってる大学や研究機関(〇〇学研究所とか)も多いのだろう

206:日本@名無史さん
22/08/15 10:48:33.53 .net
その点九州説は誰も金出したがらない黄昏状況だな

207:日本@名無史さん
22/08/15 10:49:39.24 .net
>>196
認めたようなもんだね畿内説w

208:日本@名無史さん
22/08/15 10:51:19.31 .net
畿内説は江戸時代の国学者の勘違いが発端の残りカスだろ。
「伝を読むと使者が来たのは子供が考えても九州だけど3世紀のヤマト国なら奈良からは動かせない。」って言うね。
畿内説がいまだに存在するのは仕方ないにしても九州王朝説と王都阿波説はガチでキモい。

209:日本@名無史さん
22/08/15 10:52:08.70 .net
記紀を絡めた妄想を書き連ねてたんじゃスレは続かないし
このスレに来るしかないもんな

210:日本@名無史さん
22/08/15 10:53:01.06 .net
>>190
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年はガチでキモい皇紀2682年w)。

211:日本@名無史さん
22/08/15 10:57:39.82 .net
九州説は昭和の暇人の妄想が発端

212:日本@名無史さん
22/08/15 10:58:06.14 .net
>>200
まとめると、今から1359年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書

213:日本@名無史さん
22/08/15 11:01:24.69 .net
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なせ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

214:日本@名無史さん
22/08/15 11:04:


215:23.30 .net



216:日本@名無史さん
22/08/15 11:06:19.83 .net
記紀は饒速日や長髄彦の先住を認めている。隠したりしていない。
九州王朝説が正しいなら九州王朝の九州での物語を正しく記して
先発隊である大和分家を救うため天智天皇が北部九州を出て、近江大津宮に遷都したと
正直に書けばいい。隠す理由が何もない。阿波説と同じくキチガイ妄想以外の何物でもない。

217:日本@名無史さん
22/08/15 11:08:13.86 .net
唐外交への忖度から生まれたわけだから「日出処天子」阿毎多利思比狐は消さないとな

218:日本@名無史さん
22/08/15 11:08:34.15 .net
古墳について分家の方が巨大で立派なのは国家としてどうなのか?
阿波説と同じキチガイ妄想。

219:日本@名無史さん
22/08/15 11:09:59.32 .net
>>206
そういうことw
漢委奴国王や帥升・卑弥呼や台与・倭の五王の存在も記紀に入れちゃダメw

220:日本@名無史さん
22/08/15 11:10:44.29 .net
>>207
立派な方が九州本家なんだよ!w

221:日本@名無史さん
22/08/15 11:11:58.65 .net
つまり大和・河内の巨大古墳は、九州本家(大王)の奥津城(霊園)ってこと?

222:日本@名無史さん
22/08/15 11:15:16.51 .net
>>210
そう、畿内の巨大古墳は、九州本家(大王)の「王家の谷」ってこと

223:日本@名無史さん
22/08/15 11:25:09.70 .net
畿内の巨大古墳の被葬者が、(当時の先進地)九州にいた大王だなんて、日本の歴史が根本から変わってしまうよ。。。
天皇号を初めて用いたのが飛鳥時代の天武であることや、旧唐書(飛鳥時代)の記録が気になる。
>旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

224:日本@名無史さん
22/08/15 11:29:12.95 .net
当然九州説は捏造だから歴史は変わらない

225:日本@名無史さん
22/08/15 11:30:15.09 .net
>>191
「箸墓ありき」畿内説が捏造だったのか!

226:日本@名無史さん
22/08/15 11:34:18.65 .net
>旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(奈良大和)は昔の倭国(阿波)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(阿波)と言う名前が優雅でないから日本(奈良大和)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(奈良大和)は昔小国だったが、倭地(阿波)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。   @阿波

227:日本@名無史さん
22/08/15 11:34:28.99 .net
邪馬台国九州説と九州王朝説を一緒にしないで欲しい。

228:日本@名無史さん
22/08/15 11:37:29.92 .net
マジャームーン「畿内説がじぇんぶ、じぇ~んぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢!解りました?」

229:日本@名無史さん
22/08/15 11:38:08.23 .net
>>216
どっちも、トンデモは同じ。   @阿波

230:日本@名無史さん
22/08/15 11:39:22.23 .net
>>216
どっちも、根拠遺跡が無いトンデモ。   @阿波

231:板野に居たの
22/08/15 11:40:49.22 .net
>>198
九州説が、魏に朝貢していたのは、ヤマト朝廷と無関係な地方政権だった事にしたい、と言う思惑から生まれた説だよ。
国学者的には、朝廷の先祖が朝貢していたのは認めたく無い事だったんでしょう。

232:日本@名無史さん
22/08/15 11:41:09.55 .net
>>212
朝貢の歴史を消すためにいろいろ考えてたのかもな
朝貢なんて認めるんじゃねえぞって使者は言われてたかも

233:日本@名無史さん
22/08/15 11:43:30.59 .net
マジャームーン「畿内説がじぇんぶ、じぇ~んぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢!邪馬台国だから大和よ!解りました?」

234:日本@名無史さん
22/08/15 11:43:48.06 .net
>>198
>畿内説は江戸時代の国学者の勘違いが発端の残りカスだろ。
それ、モロ九州説の話では?

235:日本@名無史さん
22/08/15 11:45:34.95 .net
>旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(奈良大和)は昔の倭国(阿波)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(阿波)と言う名前が優雅でないから日本(奈良大和)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(奈良大和)は昔小国だったが、倭地(阿波)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。   @阿波


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