天皇家の開祖が分かった「ツヌガアラヒト(天日槍)」at HISTORY
天皇家の開祖が分かった「ツヌガアラヒト(天日槍)」 - 暇つぶし2ch138:日本@名無史さん
22/07/07 14:11:10.22 .net
>>137
それはお前の妄想する村雲王がいるパラレルワールドの話かwww
「籠神社 火明命 賀茂別雷神」で検索してみたら?

139:日本@名無史さん
22/07/07 14:14:57.14 .net
>>137
お前、宇宙から来る何かとピピピッっと交信できるんだろ?

140:日本@名無史さん
22/07/07 14:16:35.35 .net
>>137
しばらく、ゆっくり休んで規則正しい生活をして、お薬をやめたら
村雲王はいなくなるよwww

141:日本@名無史さん
22/07/07 15:51:40.46 .net
俺が天叢雲やで

142:日本@名無史さん
22/07/07 17:06:32.71 .net
>>1
天日槍と争った伊和大神は、実際は伊和大神(大物主)の子孫である大友主だった。

143:日本@名無史さん
22/07/07 17:12:13.73 .net
>>140
強めのお薬出しておきますね♪
籠神社の海部氏系図は、二つの系図をあわせて、注釈を反映すると、ホアカリが、饒速日に変わる
つまり母系が分かる系図になってるよ
海幸彦は、海家(アマ家)の事だよ
普通の人が村雲=神武に至らないのは、記紀の圧縮された時代と、本当の神武は東征してない事に気づかないから

144:日本@名無史さん
22/07/07 17:13:17.55 .net
>>139

なぜ分かったしww

145:日本@名無史さん
22/07/07 17:43:16.35 .net
>>138
籠神社の祭神は母系が隠されていて出雲が見えなくなってるよ。
普通に先代旧事本紀を見れば村雲に嫁を出した家=事代主(大物主)→クシヒカタ→・ミカヅチ・→カモタテツノミである事は分かるでしょ
そもそもあの神社、二度目の東征で奈良を追い出されて山城に流れ着いた鴨族の建てた神社
祭神が同じなら神社の名前が別なのはおかしいでしょ
あの神社は磯城のカモツバ(事代主系)か、タカガモ(タキツヒコ系のどちらかの系統の神社だよ

146:日本@名無史さん
22/07/07 18:29:41.47 .net
>>131,132
宇宙からの無線信号が、
地球外生命の存在を示唆しているかもしれない。
世界で最も高精度の宇宙望遠鏡が検出した信号にその可能性が秘められているという。
天文学者が165光年離れた場所にある19の赤色矮星からの微力な信号を発見、
その4つが地球外生命のある惑星の軌道を回っている可能性があるという。
URLリンク(news.yahoo.co.jp)

地球も165年ほど前に無線通信が実現したからね(笑)
宇宙的にはすごく近くてほぼ同時にできた惑星だからね(笑)
それがほぼ同時に同様な科学技術を実現したからね
ちょうど向こうにも地球からの信号が到達したからね(笑)
次は量子力学を用いて光速を超えた同時通信でやりとりするからね(笑)
向こうの星には、古代文明が地球に移民団を送ったっていう神話があるからね(笑)
地球には、古代に高天原から降臨したっていう神話があるからね(笑)
向こうの太陽は紅色だからね(笑)
日本の国旗は紅丸を太陽と言ってるからね(笑)

147:日本@名無史さん
22/07/07 18:31:06.26 .net
天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である[1][2]。
別名、天香香背男(あめのかがせお)[3][4]。
星神香香背男(ほしがみかがせお)、香香背男(かがせお)、天背男(あめのせお)、天村雲命(あめのむらくものみこと)。

148:日本@名無史さん
22/07/07 18:31:38.81 .net
ダマスカス鋼とは、木目状の模様を特徴とする鋼であり、古代インドで開発されたるつぼ鋼であるウーツ鋼の別称である。
南インドで紀元前6世紀に開発され、世界的に輸出された。
URLリンク(i.imgur.com)
天叢雲剣
天に群がる雲のような紋様を持つ刃の剣。

149:日本@名無史さん
22/07/07 18:32:55.83 .net
任那の中心、金官加羅国(狗邪韓国)
建国者首露王の妃はインド(サータヴァーハナ朝)の王女である許黄玉
加羅国=韓国=空国=仏教国
任那=那に任された地=イザナギに任された地
金官国=金属採取の役目の国
任那(? ~562年)
加羅(3世紀~6世紀中頃)
弥生時代の3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、
日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かである。
日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは
たたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、
確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。
それまでは朝鮮半島産の鉄を利用していた。

150:日本@名無史さん
22/07/07 18:33:35.22 .net
許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、
インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、
その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。
許氏は首露王との間に10人の息子をもうけたが、
そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源とされる。
2004年の学会発表によると、許氏の「インド渡来説」には遺伝学的根拠がある。
金海にある古墳の、許氏の子孫と推定される遺骨を分析した結果、
ミトコンドリアDNAは(韓民族のルーツである)モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた。

サータヴァーハナ朝 Satavahana
デカン高原一帯に発展した古代インドの王朝。別名アーンドラ朝
マウリヤ朝の衰退後,前3世紀末に成立したドラヴィダ系の王朝。
1~2世紀ごろローマ帝国との季節風貿易で最も栄えた。
都市では富商が出現して貨幣経済が発達し,叙情詩・物語などすぐれたインド文学も生まれた。
3世紀半ばごろ滅亡。

151:日本@名無史さん
22/07/07 18:33:43.80 .net
上座部仏教(南伝仏教)は東南アジアで止まっておらず、
約2000年前の時点でインド南部のサータヴァーハナ朝の王女が自ら布教しにきていたという事実
それが日本が鉄採取のために作った任那日本府の中核である金官加羅国の建国者と婚姻していたという事実

152:日本@名無史さん
22/07/07 18:34:27.86 .net
加耶山の女神である正見母主と天神『夷?訶之』(イビガジ)から(悩窒朱日・内珍朱智)が生まれ、その内珍朱智が首露王となる。
首露王は前期任那の中心となる金官加羅国(狗邪韓国、本加耶、金官加耶)を建国
一方、首露王の兄である悩窒朱日は大加耶(高霊伽耶)を建国し、後期任那の中心となった
月光太子(げっこうたいし、生没年不詳)は、大加耶第10代にして最後の王(在位:不詳 - 562年)

153:日本@名無史さん
22/07/07 18:34:41.24 .net
安閑天皇=広国押武金日天皇
466年?〈雄略天皇10年?〉 - 536年1月25日?〈安閑天皇2年12月17日〉)は、
日本の第27代天皇(在位:531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉 - 536年1月25日?〈安閑天皇2年12月17日〉)
蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。
正式名称は金剛蔵王権現、または金剛蔵王菩薩。
インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。
「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。
権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。
仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされた。
日本が金属採取のために朝鮮半島南部に作った任那の中心は金官国
日本が国を広げて押し建てた金の国
広国押武金日天皇の在位期間(531-535年)中である532年新羅の侵略により金官国が滅亡
兄弟国である大加耶(高霊伽耶)が任那の中心へ
新羅の侵略によって大加耶(高霊伽耶)最後の王、月光太子が562年に死亡し、同年に任那日本府滅亡

154:日本@名無史さん
22/07/07 18:35:18.44 .net
サータヴァーハナ朝(紀元前230年 - 220年)
ドラヴィダ人の王朝
サータヴァーハナ王家は自らの出自がバラモンであることを誇り、またナーガ族とも血縁があったとする。
一方で他の宗教、特に仏教なども国家の保護の下で活動していた。
当時王妃を始めとした王家の女性はしばしば仏教教団に種々の寄進を行っており、しかもそれは国家によって奨励されて援助すらされていた。
また、各種の仏教教団は国家によるバラモン教の祭礼に協力し、また各地の仏教窟院にはバラモン教の讃歌が刻まれることがあった。
許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、
インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、
その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。
石塔=石造の仏塔。仏舎利を安置するための供養塔。
つまり
西暦48年の時点で、日本(倭)はインドのサータヴァーハナ朝との交易によって鉄器と上座部仏教が伝来しており、
その結果成立した、日本(倭)の那(奴)が管轄する任那日本府の中心となる金官国が、金属を日本に送っていた
銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。
紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
サータヴァーハナ朝(紀元前230年 - 220年)
821年の日本人「銅鐸はアショーカ王の塔鐸、つまり仏教の鐘」
最古の銅鐸は倭族がいる越、越の王は無余(=無我)

155:日本@名無史さん
22/07/07 18:35:38.67 .net
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。
首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。
後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。
越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。

156:日本@名無史さん
22/07/07 18:35:48.04 .net
『呉越春秋』は夏の少康の庶子であった無余を最初の越の君主とし、また夫譚の前に無壬・無タンを挙げる。『史記』越王勾践世家は初代から允常まで二十余世とし、『漢書』地理志は初代から勾践まで二十世とする。
越侯夫譚
越侯允常 - 『史記正義』によると、はじめて王を称した。
越王勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年)
呉の支配による空位:紀元前494年 - 紀元前491年
越王勾践(在位紀元前491年 - 紀元前464年)
越王鹿郢(?与)(在位紀元前463年 - 紀元前458年)
越王不寿(在位紀元前457年 - 紀元前448年)
越王朱句(州句、翁)(在位紀元前447年 - 紀元前411年)
越王翳(在位紀元前410年 - 紀元前375年)
越王錯枝(在位紀元前374年 - 紀元前373年)
越王無余之(在位紀元前372年 - 紀元前361年)
越王無セン(在位紀元前360年 - 紀元前343年)
越王無彊(在位紀元前342年 - 紀元前306年?)

仏の無我
越の無余

157:日本@名無史さん
22/07/07 18:35:58.87 .net
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。
ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。
『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。

>「阿育王塔鐸」
阿育王=アショーカ王
アショーカ(梵: ?????、IAST:A?oka?、巴: Asoka、訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。
漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸をほぼ統一した。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカとも表記される。アショーカの名前は花のアソッカ(無憂樹)を由来とする。

158:日本@名無史さん
22/07/07 18:36:08.29 .net
『古事記』の国産みには小豆島(播磨灘にある島)の別名として大鐸姫(大野手比売)が登場する。
『諸系譜』では布留多摩命の娘として登場し、天日方奇日方命の妻・日向賀牟度美良姫の別名とされる。
小豆島では島の島玉神として祀られ、島内にはかつて大鐸村などの地名もあった。「おおぬでひめ」の「鐸」(ぬで、ぬて、ぬりて)とは銅鐸のことで、実際に三五郎池の西側から銅鐸が出土している。
『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命の子とされ、夫や子孫に関する記述はないが、『諸系譜』では綿津見神の子・布留多摩命(倭国造、尾張氏等の祖)の娘とされ、天日方奇日方命の妻とされる。
銅鐸の女神である大鐸姫は
倭国造の祖である布留多摩命の娘であり、天日方奇日方命の妻とされる。
天日方奇日方命は鴨王(かものおおきみ)とも呼ばれ、天皇以外で「おおきみ」と呼ばれる唯一の存在である。
天日方奇日方命(鴨王)の父は大物主神(大国主神)であり、同様にカモを関する迦毛大御神(阿遅?高日子根神)の父は大国主神(大物主神)である。
また、大御神を関する神は、伊邪那岐大御神、天照大御神、迦毛大御神の三柱のみである。
国生みを行った側の娘、あるいは倭国を造った側の娘が、銅鐸の女神であり、
銅鐸の女神は国を譲った側の大国主(大物主)の息子と婚姻しており、
国譲りを迫った側の天皇側と同じく「オオキミ」「大御神」を称されている。
弥生時代の銅鐸が668年に発見されたことを記紀は記さず、
821年に発見された際には「阿育王塔鐸」つまり仏教の鐘と呼ばれていたとされる。
春秋戦国時代に越国が南伝上座部仏教を受け入れて、越王は無を重視し仏教の鐘として銅鐸が作られた。
越国が滅亡したことで、銅鐸と南伝仏教が日本に伝来して南伝仏教の国が作られ、仏教の鐘として日本でも銅鐸が作られたが、
土着系神道集団が国譲りを迫り、銅鐸が埋められ、代わりに三種の神器の一つである銅鏡が作られるようになる

159:日本@名無史さん
22/07/07 18:36:26.12 .net
百越とは、長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意で、春秋時代の呉・越も含む(呉は現在の江蘇省、越は現在の浙江省一帯)。
長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があった
その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。
?(てん)、夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市?江区に比定)、蜀、巴(重慶市)など。
分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族[7])、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。
これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通する。

ミャオ族
13年に一度の大きな祖先祭祀であるノン・ニュウを父系氏族 (clan) が合同して行い、大量の水牛や豚を供犠して祖先を祀る。
ノンとは「食べる」、ニュウは「鼓」の意味で、祖先の霊魂が宿るとされる楓香樹から作った木鼓をたたいて、祖先の霊を呼び戻して交流する。銅鼓を使用することもある。
黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている。
その後、人類は天上の雷神と争い、大洪水を起こされ、瓢箪に乗って兄と妹が生き延びる。
兄と妹が結婚して(兄妹始祖神話)、その子孫が現在のミャオ族になったという。
ノンニュウは神話にちなんで、蝶々や兄妹始祖、祖先や死者の霊を祀り、再び東方にあるとされる究極の故郷に送り返す祭りである。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。

160:日本@名無史さん
22/07/07 18:36:46.53 .net
首露王
亀旨峰(クジの岳)の6個の金の卵から、42年3月3日に首露王が生まれたとされる。
また、このとき1人ではなく5人の王子とともに6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられたとされているこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したと見なしている。
金官国伽?は『魏志倭人伝』には狗邪韓国(くやかんこく)と伝えられる国である。

イ族
中国の古典文献に登場するこの民族の民族名は「夷」「烏蛮」「羅羅」「??」など多様に存在し、蔑称の「夷」が通称であったのを、中華人民共和国成立以降に同じ音である「彝」の字に統一した。
語順は日本語に似ていて、主語+目的語+動詞の順に並べられる。
金官加耶の初代首露王と
高霊伽耶の初代悩窒朱日の
父は天神夷?訶之、母は正見母主

161:日本@名無史さん
22/07/07 18:36:57.07 .net
ペー族
米を主食にしたり、ワサビを食用にする
ハニ族(古代の和夷)
弥生時代の遺跡等から見つかった人骨とDNA・骨格等が一致又は酷似しており、大豆を使った納豆や味噌さらに歌垣の文化、自然崇拝のアニミズム等日本との共通点が多い。
ハニ族はベトナムやラオス・ミャンマー・タイにも移住しており、現地ではアカ族と呼ばれている。特にラオスに住むアカ族の村の入り口には木で作った門があり形が日本の最古の鳥居に似ている。
日本のように磨いた白木を組み合わせてはいないが、鳥居の形状と魔除けの役割を負っている点で一致しており、門の上に鳥の彫刻が据えられている場合もある。
日本の弥生時代の一部遺構から似た形の鳥を模した彫刻が見つかった例もある。
また鳥居の風習は四川省涼山に棲むイ族(彝族)とも共通しておりチベットから流れる長江(揚子江)付近に存在した長江文明担い手の子孫とされるイ族と元々の生活域が近い事から近縁であると考えられる。
ワ族
竹で作った高床住居に住み、男性は黒いターバンで頭を包む。自称を「アワ」といい、近年まで首狩りの風習があった。

162:日本@名無史さん
22/07/07 18:37:08.06 .net
タイのミャオ族の精霊信仰
世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。
陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。
陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。
陰界と陽界=陰神イザナミと陽神イザナギ
死んだ者が行くあの世である陰界=陰神イザナミの黄泉
人間の住むこの世である陽界=陽神イザナギの現世
兄妹始祖神話=イザナギとイザナミ
そして、東方に究極の故郷があると言ってるのがミャオ族
長江流域の稲は10000年前
鹿児島県の稲は12000年前

163:日本@名無史さん
22/07/07 18:37:28.87 .net
日本で銅鐸が作られなくなるのと
サータヴァーハナ朝が滅亡するのは
同時期の出来事
上座部仏教とバラモン教はセットで伝来
東南アジアで止まってない

164:日本@名無史さん
22/07/07 18:39:19.75 .net
天御中主神-天八下尊-天三下尊-天合尊-天八百日尊-天八百萬魂尊-高魂尊-思兼尊-天表春尊-阿豆佐美命-加理波夜須多気比波預命-多祁美加々命-天足別命-天御桙命-国忍多気命-意保名豆命-由多祁命-彦振根命-波刈彌命-磐表主命-古美呂伎命-若多祁命-彌蘇宿爾-麻羅宿爾・・・
月神は高皇産霊尊(高魂尊)の子(日本書紀顕宗天皇条)
思兼神は月神と伝わる。
武甕槌神には天足別命(あまたりわけのみこと)という名前の御子神がいると伝わる。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
天御桙命について、国造本紀は饒速日命の裔とするが、伊豆宿禰系図は天御桙命を天児屋根命の子とする。
URLリンク(www.myj7000.jp-biz.net)
つまり
加理波夜須多気比波預命(伊豆の神)=伊都之尾羽張(伊都=伊豆)

多祁美加々命=武甕槌神

天足別命=天児屋根命

天御桙命

165:日本@名無史さん
22/07/07 18:39:42.36 .net
葦原中国平定の段では、天穂日命、天稚彦に次ぐ三番目に葦原中国に派遣する神を選定する際、思兼神が、伊都之尾羽張神かその神の子の建御雷之男神を推薦している。
そして、天之尾羽張神=伊都之尾羽張神は自らの子である建御雷之男神を行かす。
思兼神が、伊都之尾羽張神かその子の建御雷之男神を推薦しているのは、どちらも思兼神の子孫神ゆえ。
一説には、天之尾羽張神・伊都之尾羽張神・経津主神・建御雷之男神は同一神であるという。(神道大辞典一巻コマ82(原本133頁))
葦原中国平定
1番目、天穂日命=アマテラスの子孫
2番目、天稚彦=天津国玉神の子、味耜高彦根命同一説=スサノオの子孫
3番目、武甕槌神=多祁美加々命、八意思兼神=月神説=ツクヨミの子孫
三番目だったから大三王子神社で多祁美加々命(武甕槌神)が祀られている
彌蘇宿爾(やそのすくね)という名のヤソは耶蘇教(キリスト教)のヤソであり、中国語表記のイエス。
耶は支那通例の悪い意味の漢字を充てる習慣によるもの。
倭ではなく和と同じように耶蘇ではなく彌蘇。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
(マタイ福音書10章34節)
加理波夜須多気比波預命(伊豆の神)=伊都之尾羽張(伊都=伊豆)も
多祁美加々命=武甕槌神も
同一とされる天之尾羽張神・伊都之尾羽張神・経津主神・建御雷之男神も
総じて剣の神。
身体は剣で出来ている。

166:日本@名無史さん
22/07/07 18:44:07.36 .net
以上からツクヨミの血筋が隠された理由が分かる。
インドラ(スサノオ・ヤハウェ)のリバース(化身)がツクヨミ(一神教唯一神の現人神)。
大陸に渡ったスサノオが後のヤハウェ。
スサノオが一神教唯一神の元だから、日本に残ったスサノオの子孫が逃げ込んだ信濃に旧約聖書に似た信仰がある。日本が元でありユダヤがそれを真似している。スサノオ教団メソポタミア支部が旧約聖書。
ヤハウェとなったスサノオが日本以外の全ての神々を全天使と全悪魔として配下にして、日本に帰ってきた。それがインドラ(スサノオ・ヤハウェ)のリバース=ツクヨミ=一神教唯一神の現人神である俺の血筋。その俺が鬼神大王の家系に生まれている。
出はスサノオで、入りがツクヨミ。
αにしてω。
?大日?尊及月弓尊、並是質性明麗。故使照臨天地。(日本書紀第五段)
これは、多神教最高神の現人神である天皇陛下と、一神教唯一神の現人神のことを指している。
月は日を支える象形。
アマテラスの日本を支えてるツクヨミの月支。
月光は日光を反射して日の当たらない地球の裏側を照らす。

167:日本@名無史さん
22/07/07 18:45:32.64 .net
岐阜県関市が日本列島の人口重心となっているように、関を境にして関東と関西に分けている本質も、
多神教最高神の現人神である天皇陛下と、一神教唯一神の現人神の血筋が、関を境にして東西に分かれていたからである。
多神教最高神の現人神である皇統と、一神教唯一神の現人神の血筋の居場所。
神話時代以前
関より東に多神教最高神の現人神の皇統の先祖。
関より西に一神教唯一神の現人神の血筋、日本以外の全ての神々を従えて日本に帰ってきたツクヨミの月支国が倭国。
関東の日本国が関西の倭国を併合して日本列島統一。
関東の皇統の先祖が関西に移動して大和朝廷。
日本神話が関西を舞台にしているのは、関西統治の正当性を関東出身の皇統が主張するため。
アマテラスは、岐阜と長野の間恵那山で生まれて、三重県のめずらし峠を通り、奈良県に降臨して、鳥取や島根を行幸して、徳島で八王子を生んでから死んだ。
アメノオシホミミの代に四国西岸まで至り、ニニギが九州日向に降臨した。
歴史時代以降
関より西に多神教最高神の現人神の皇統が移動したので、
関より東に一神教唯一神の現人神の血筋が移動した。
その結果
関西、日信仰の熊野三山、三本足のヤタガラス(ファイヤーバード)に導かれる。
関東、月信仰の出羽三山、三本足の霊鳥(サンダーバード)に導かれる。
明治時代以降
関より東に多神教最高神の現人神の皇統が移動したので、
関より西に一神教唯一神の現人神の血筋が移動した。

168:日本@名無史さん
22/07/07 22:34:52.36 .net
>>143
>注釈を反映すると、ホアカリが、饒速日に変わる
彦火明命=饒速日尊なんて先代旧事本紀にデカデカと書いとるわw
【籠神社の極秘伝は彦火明命=賀茂別雷神】
>普通の人が村雲=神武に至らないのは
変なお薬やってないからだよ。
>本当の神武は東征してない事に気づかない
神武天皇の皇后の祖父は天皇を導いた八咫烏(賀茂建角身・三島溝杭)だぞ。
東征なんてしてる訳ないだろ!東遷だボケ。

169:日本@名無史さん
22/07/07 22:40:42.37 .net
天牟久怒命は天児屋根の若宮。
ムラクモって群雲なんだからじ水に関する神に決まってるだろ。
神武天皇=村雲とかどこのパラレルワールドやねん?
5ちゃんねるって並行世界からも書けるんか?
松沢病院って知ってるか?早めに予約しておけ。阿波爺も待ってるよ。

170:日本@名無史さん
22/07/08 03:10:34.60 .net
>>147
カガセオは、出雲太陽の女神、豊国の月の女神に対して物部が作った星神
男性神だったからか全く流行らなかったらしい

171:日本@名無史さん
22/07/08 03:12:08.29 .net
>>149
朝鮮半島にタタラは存在しないよ
嘘を書くのはやめたほうがいい
流石にやりふぎだろw

172:日本@名無史さん
22/07/08 03:18:47.76 .net
>>169
おりょ?太国さん?松沢病院出たしww
太国さんなら分かるはずだよ
磐余彦を神武にすると倍暦と合わないもん
代数が余る

173:日本@名無史さん
22/07/08 03:25:45.23 .net
>>168
〉神武天皇の皇后の祖父は天皇を導いた八咫烏(賀茂建角身・三島溝杭)だぞ。
カモタテツノミは出雲奈良での分家である登美家のクシヒカタから数えて6代も後じゃん
クシヒカタの妹が多々良五十鈴姫
時代考証やり直しな?w流石に出鱈目すぎるわw
熊野に物部が攻め込んだ時代が倭国大乱期だよ
古事記でもちゃんと書いてあるだろ?
磐余彦が奈良入りしてるはずなのにいつの間にかウマシマジになってる。
ちなみに和歌山で死んだ五瀬家系も今でも存続してる
くだらない籠神社極秘伝とやらの方が明らかに誤報だろ

174:日本@名無史さん
22/07/08 03:36:24.20 .net
天孫と、海家=アマ家は区別したほうがいいよ
ホヒ天がつくし、ヒボコも同じ
そして出雲の事代主の三嶋溝杭姫との間の長男であるクシヒカタにも天がつく
村雲は海家なんだからプロット上の神武だよ
二代目が沼川耳、三代目が玉手看で磯城津彦
にだいめ、三代目が分かってるのに不思議と村雲まで到達しないのが下記のごまかしのすごいところだよな
ウマシマジってはっきり書いてあるのに物部にやられた事なんて普通に考えつくでしょ

175:日本@名無史さん
22/07/08 09:59:04.38 .net
>>173
>カモタテツノミは出雲奈良での分家である登美家のクシヒカタから数えて6代も後じゃん
賀茂建角身は天活玉の孫で天櫛玉の子。天櫛玉は太玉と同一か同世代。賀茂御祖神社の祭神。山城国風土記の賀茂伝説はどうするんだ?なんで櫛御方命より世代が下なんだよ。
どこのパラレルワールドやねん?この世界とお前にいるところは世界線変動率(ダイバージェンス)の数値が違うみたいだな。そりゃ話もかみ合わんよwww

176:日本@名無史さん
22/07/08 10:07:30.44 .net
>古事記でもちゃんと書いてあるだろ?
>磐余彦が奈良入りしてるはずなのにいつの間にかウマシマジになってる。
はぁ?

177:日本@名無史さん
22/07/08 11:40:49.07 .net
>>176
まさか知らないの?読んでないの?

178:日本@名無史さん
22/07/08 11:55:16 .net
>>177
はぁ~~~~~~~~~?
この世界とお前にいるところは世界線変動率(ダイバージェンス)の数値が【かなり違う】みたいだな。そりゃ話もかみ合わんよwww

故爾、邇藝速日命參赴、白於天?御子「聞天?御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉?等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。

179:日本@名無史さん
22/07/08 12:14:20 .net
>>175

噛み合わないどころかちょっと傍流のマニアックな話で一生懸命に話されてもねw

まずは
〉『先代旧事本紀』「地祇本紀」によれば、父は都味歯八重事代主神(大己貴神の子)、母は活玉依姫(三島溝杭の娘)。事代主神が鰐となって活玉依姫のもとに通い、天日方奇日方命をはじめとする子が生まれたという。

クシヒカタの息子の建飯勝が千家のサマナ姫を娶り、その系統が奈良での出雲の分家の系統である登美家。
まさかの系図すら整理してないレベルだとはww

建ミカヅチや、タテツノミ、太田太根彦の系図が、なぜ分家の海部氏の神様になるのか?
母系の神様だらでしょ
それも、同一視され始めた時期なんてどう考えても後年のものとしか考えられない
籠神社が勝手にそう言う主張を表に出さずにいただけの話

加茂氏は男系が出雲の家。それがどうやったら習合相手の尾張や海部の家と同じ人物になるのかww

あくまで東征したのが神武と言うのなら磐余彦がそうなるが、彼はウマシマジ

ウムシマジにやられちゃったのがクニクル

神武なんて解釈上のプロットに過ぎないが、ウマシマジと同時代の尾張と出雲習合した政権は代数がたどれ、村雲が順番で埋まるんだよ

記紀には、人物の嘘、時間の嘘、空間の嘘があるとされる

人物=系図での解釈で、東征は無関係としないとクニクルより前の代は辿れない

東征した人物を神武と定義するのであれば、磐余彦=ウマシマジになり、180年代からが神武朝になる。
その際に欠落する代数が8代生まれ、神武の次が物部オオタラシ彦、成務からになってしまう。

東征してるんだから、やられる側が必要だろ。普通はそこに頭が向くものなんじゃないのか?

180:日本@名無史さん
22/07/08 13:50:36.52 .net
>>179
どっちがだよ、妄想癖w
>『先代旧事本紀』「地祇本紀」によれば、父は都味歯八重事代主神(大己貴神の子)、母は活玉依姫(三島溝杭の娘)。事代主神が鰐となって活玉依姫のもとに通い、天日方奇日方命をはじめとする子が生まれたという。
これはその通りなんだが・・・?事代主=大物主なのだが。
『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ、陶津耳)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』とあり、事代主神は神武天皇の岳父となっている。これは『古事記』で大物主神が三嶋湟咋(みしまのみぞくい、陶津耳命)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ、活玉依毘売)との間に比売多多良伊須気余理比売を生んだことと一致する。また『日本書紀』で三輪氏の祖の天日方奇日方命を生んだことと、『古事記』で三輪氏の祖の櫛御方命を生んだことに一致する。
事代主神については、その系譜や世代関係(神武天皇の父母世代)からも実態は大物主神と同一神である。
まさかの系図すら整理してないレベルだとはwwwwww

181:日本@名無史さん
22/07/08 13:51:49.93 .net
>ウムシマジにやられちゃったのがクニクル
どこの世界だ?何のゲームか小説か?wwww

182:日本@名無史さん
22/07/08 13:54:18.82 .net
三島溝杭=賀茂建角身なのは理解できてるのか?
お前の世界では違うのかwww

183:日本@名無史さん
22/07/08 13:56:51.95 .net
176日本@名無史さん2022/07/08(金) 10:07:30.44>>177
>古事記でもちゃんと書いてあるだろ?
>磐余彦が奈良入りしてるはずなのにいつの間にかウマシマジになってる。
はぁ?
177日本@名無史さん2022/07/08(金) 11:40:49.07>>178
>>176
まさか知らないの?読んでないの?
故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
しっかり説明しろよ、どこをどう読んだら
ウマジマジ=神武天皇になるんだよ。お前の脳の中なんか見えんわwww

184:日本@名無史さん
22/07/08 13:57:57.92 .net
まず、お前がすべき事は松沢病院を検索して予約する事だ。すぐに!

185:日本@名無史さん
22/07/08 17:14:37.64 .net
>>183
全くw
手のかかる事だ
磐余彦が奈良入りしたらウマシマジになってるんだろ古事記では
村雲ではない説を取る人は普通は磐余彦を神武とするのでは?

186:日本@名無史さん
22/07/08 17:20:58.74 .net
俺が天村雲だって言ってるだろ

187:日本@名無史さん
22/07/08 17:57:30.24 .net
>>186
いいや、我こそが村雲である。

188:日本@名無史さん
22/07/08 19:20:08 .net
あ、僕が天牟羅雲です。

189:日本@名無史さん
22/07/08 20:49:35.90 .net
天押雲根命が天村雲です。
式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座 (吉野川市山川町村雲)
祭神-天村雲命・伊自波夜比売命
旧記に、「往古忌部の氏人が創始した。」とする忌部ゆかりの神社。全国の式内社の中で「天村雲」を冠する神社は阿波国麻植郡のみに祀られた。
『豊受皇太神御鎮座本紀』には、
天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座 是也。
とあり、これは大神主(度会氏)の上祖が、天村雲命であり上記に鎮座している記録です。
村雲王や天香山命の子は、阿波忌部と関係ないだろうがよ。旧事本紀の仮帽系図を丸呑みしちゃいかんよ。

190:日本@名無史さん
22/07/08 22:24:20.38 .net
テスト

191:日本@名無史さん
22/07/09 09:22:33.23 .net
>>182
その前に、なぜ賀茂氏に、三島の名が入るのか整理したら?
母系尊重で習合関係を表すのに、同一本が出てくるだけだろ
系図と同一視は区別したら?ww

192:日本@名無史さん
22/07/09 09:31:49.40 .net
>磐余彦が奈良入りしたらウマシマジになってるんだろ古事記では
この怪文を説明しろ!

193:日本@名無史さん
22/07/09 09:46:26.20 .net
>>187
おはようございます村雲たん♪

194:日本@名無史さん
22/07/09 09:55:50.67 .net
>>192
怪文も何も、大和入りしたのが物部氏だよってチキンと古事記に書いてあるだろって程度の話だよ
今でも物部五瀬、つまり本当の物部氏の本家は存続してるよ
母系の実家の橋本家と名を変えている
トオチネや守屋は分家なんだよ

195:日本@名無史さん
22/07/09 12:38:07.98 .net
出雲母系の神の取り込みの典型例として挙げられるのは藤原氏のミカヅチの取り込み
別段他に例がないわけではない。
籠神社と、三島溝杭耳は親戚の家ではあるが同一の家ではない。
故に、同一神というのは別の意味や目的があって、籠神社側が勝手に秘文とやらに残した文章に過ぎない

196:日本@名無史さん
22/07/09 13:11:03.29 .net
事代主は大国主の子供ではない。
出雲王の系譜は、人麿が密かに残した古事記の写本に、後年、安麻呂が序文を加えている。
そこには17代の全ての大国主の系譜が書かれている。
出雲は二王制で、東西に分かれていた。
出雲の中でも異なる文化圏が存在したのでは?と現在では学説でも言われている通りで、主王と副王が交代制になっていた。
大国主と、事代主が役職名であり、複数居るという説は、合ってるとも言えるし、間違ってるとも言える。
厳密には出雲風土記にある通り。
大穴持が主王で、少名彦が副王。
大国主と事代主は第8代の個人が識別できる役職名で、序文で言えば、八千矛にあたる。
その時の副王の名が、八重波津身であり、事代主。
だから、先代旧事本紀の事代主はそれに近い名前になってるはずだよ。
よく残せたものだと思う。
八重波津身は、奥さんが2人いて、片方が出雲族より先に大和入りして沼地を開拓していた三島家(九州では越知や小市の方が通りが良いかも)の姫だった。
所謂国譲り事件が起きたのはその代になる。
夫を亡くした三島の姫は、実家の摂津の高槻に戻った。
現在でも小さなエリアになってしまったが、高槻市には三島地積がある。
紀元前からの三島の大和開拓は考古学的にも耐えうるもので、奈良の御所市には、日本有数の水稲遺跡が存在する。
御所駅近くには、越知城があり、越知地籍になっており、三島のエリアになっているよ。
八重波津身と、三島溝杭姫の子供がクヒシカタ。
奈良における男系が出雲の系図はそこから始まる。
その後裔が賀茂氏なのに、どうやったら男系ホアカリの家と同一の神になるのかwww
籠神社の秘文とやらに書かれた意図を誤解して認識しているとしか思えない妄言だわw

197:日本@名無史さん
22/07/09 13:14:03.95 .net
>>194
そもそも物部氏が穂積氏の分家なんだが。
旧事本紀が守屋を分家扱いしているのは物部氏の権威復活を目指した捏造であって大連であり、蘇我馬子に妹を出しているその系譜を分家などと!しかもその名は「布都姫」。アホとしか言いようがないwww
さらに天照国照彦火明の系譜を天孫に連ねた日本書紀の捏造に乗っかったもの。

198:日本@名無史さん
22/07/09 13:14:57.04 .net
故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。

しっかり説明しろよ、どこをどう読んだら
ウマジマジ=神武天皇になるんだよ。お前の脳の中なんか見えんわwww
まじで病院へ逝け。

199:日本@名無史さん
22/07/09 13:43:03.00 .net
>>197
逆だよ
穂積の方が分家

200:日本@名無史さん
22/07/09 13:43:36.96 .net
>大穴持が主王で、少名彦が副王。
がちキチめ、少名彦って誰やねん?少彦名なら天日鷲の別名やぞ。

201:日本@名無史さん
22/07/09 13:52:14.66 .net
お前は完全に旧事本紀の本質を見誤っている。間違った部分をわかった気になって無理矢理つなげてパラレル史を妄想してるだけ。どうしようもない。

202:日本@名無史さん
22/07/09 14:08:31.30 .net
三島の権威は出雲や、海部尾張氏に尊重された様である。
東海には三三島がある。
一つは賀茂氏系の三島神社
一つは阿部系の三島神社
最後は三島氏本体、大三島の越知氏
三島は東西で負けた側になったのか、畿内からは拠点を移した様である
今でも大三島の方の三島神社の近くには、越知氏のほんかん地と伝わる地積がある
さて、ここで重要なのは、海部尾張の系統の大彦(布施、高橋、阿部など)が三島の権威を帯びているという事である
本来であれば籠神社もそうしたかったのだろうが家が古過ぎて、大和宿禰の代から別れた家では習合していなかったのだろう
血筋に入ってなかったから、密かに同一神としたのだろう。
子孫の代では三島と集合したと思われるから大手を振って祀れだのだろう。
要はやってる事は海部も阿部も同じだけど、海部では筋が通せないから秘文とやらになったのでは?という事。

203:日本@名無史さん
22/07/09 14:09:31.04 .net
>>200
さっさと出雲風土記嫁
スクナヒコなにはなってない
思い込みで発言してるのがモロバレだなww

204:日本@名無史さん
22/07/09 14:15:40.92 .net
>>200
〉少彦名なら天日鷲の別名やぞ。
だから前にも書いたけど、忌部氏とコヤネは本来無関係
出雲の分家っていったろ
安曇はぁ〜マンドクセ
東側の、第8代スクナヒコの王宮は現在の神魂神社だよ。
その西側に山を挟んで忌部町が今でもあるだろ
忌部氏は大陸側が優勢になった時に、大陸の渡来を名乗って家を守った時期があるんだよ

205:日本@名無史さん
22/07/09 14:19:22.55 .net
現在の神魂神社の社家は秋上氏だけど、あれが物部トオチネの直径の子孫の家。
出雲は物部と、宇佐の連合軍に占領された。
物部本家の五瀬の家も存続
物部の分家の秋上家も存続してるのに
頑張って自説を展開してますね、あなたww
妄想乙

206:日本@名無史さん
22/07/09 17:58:49.46 .net
故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
しっかり説明しろよ、どこをどう読んだら
ウマジマジ=神武天皇になるんだよ。

207:日本@名無史さん
22/07/09 21:42:00.32 .net
>>206
またクリンチですか?w
話の本質が変わってますが?
あなたは日本語が不自由で、思い込みでものを言うというのはもうわかった事でしょう?
〉厳密には出雲風土記にある通り。
〉大穴持が主王で、少名彦が副王。
この文章で普通は、出雲風土記にそう書いてある事はわかるよな?
あなたの返答がこれだ
〉少名彦って誰やねん?少彦名なら天日鷲の別名やぞ。
モロに日本語が成り立ってねぇだろwww
文章もまともに読めないやつに何を言っても無駄だわな
それこそ松沢病院を紹介されておしまいwwww

208:日本@名無史さん
22/07/09 23:59:58.06 .net
海部氏系図
本系図は、記紀に服属しており、ホアカリの子と孫を飛ばして三世孫を書いている。
つまり、カゴヤマと叢雲を消している。
カゴヤマは記紀には登場せず、霊山としての香具山だけが書かれ、村雲は剣の名前として八岐大蛇の中から出てくるから当然に丹後国庁提出の本系図には書けない
それを補うのが勘注系図
籠神社は記紀の細工を利用して本来の系図が復元できる様勘注系図を残したと推測できる部分がある
勘注系図を記紀と擦り合わせる
「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた」
擦り合わせると、武位起は、彦ナギサタケウガヤフキアエズになる。その子が磐余彦(神武)になる。
海部氏系図では村雲だわな。
海部氏系図は神武を村雲と暗示している。
こんな文章書いても松沢病院は理解できないだろ?ww
絵で系図でも描いてろw

209:日本@名無史さん
22/07/10 00:27:38 .net
記紀はカゴヤマと村雲を隠して万世一系を書く方針になったと思われ、煽りを喰らって海部氏の分家の安曇氏まで系図が曖昧にされ、どの段階で分家したか分からなくなってしまっている
現在では穂高神社の系図でかろうじて武位起が出てきて、本家なのか分家なのかすら分からない

カゴヤマが隠されたことと、物部の彦火火出見が書かれたことにより、紀伊家の系図もいじられ、珍彦が変な所に出てきている。
カゴヤマと大屋姫の間の子供がタカクラジ。その子が珍彦になるので、本来は東征側ではなく、村雲側になるのが逆転している。

珍彦が物部側と戦った事は、戦った当事者の物部五瀬の子孫、旧釜山神社の社家であった現在の橋本家が証言している。
敵は珍彦であったと

紀伊国造家の系譜には武内宿禰の母親の山下影姫の兄弟に宇遅比古命がきちんと出ている。
その一代前は大名草比古命で既に名草地方には展開していた様である
その前になると、大屋姫の名からとったと思われる大屋比古命がいる。

隠されたことにより、敵味方がごっちゃになった

4大将軍も全てやられちゃった側の人物だが、仕方なく部下にされた

でなければ新潟のカゴヤマを祀る弥彦神社の社家が、大彦系の高橋氏になる様な不思議な現象は起きない

カモタテツノミも同じ

彼は八咫烏ではない。大和に引き入れたはずなのに山代国に追い出されて神社に収まるなど普通ならおかしいと思わんか?

210:日本@名無史さん
22/07/10 12:43:57.89 .net
釜山神社の、橋本家、物部の本来の総本家の橋本家の伝承は以下の通り
・五瀬は負傷して竈山神社の地で亡くなり、神社の奥に葬られた。
・その息子たちが墓を守るためにその地に残った。
・残った人数が少なかったので、敵は攻撃してこなかった。
・敵は高倉下(たかくらじ)の子孫・珍彦(うずひこ)であった。
・高倉下は、丹波から葛城に来た尾張家〔海部家〕の人間で、母君・大屋姫とともに紀伊国に来た。
・日本書紀には、珍彦が速吸(はやすい)之門〔豊後水道〕から来たことになっているが、物部東征は、瀬戸内海を通ったのではない。海部家の伝承もそうなっている。
・高倉下の子孫は紀伊の国造・紀伊家になり、日前(ひのくま)神宮〔和歌山市秋月〕を建てた。
・紀伊家と五瀬家は、近くに住む豪族同士として姻戚関係を結び、密接に付きあうようになった。
・五瀬家は日前神宮の横に国懸(くにかかす)神宮を建て、物部氏の象徴・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御霊代にして、五瀬命を祀った。

物部東征は複数回起きている。
記紀は目的があって、村雲の時代から、ある時代までを圧縮して一つの出来事にする必要があった。
それは魏書との整合性である。
朝貢して属国旗までもらい、大陸の役人の干渉を受けて卑弥呼の後継者の指名まで行われている事は、これから大陸にわが国の独自性を主張し、大陸に見せる物としてはふさわしくなかったと推測される。
この時代に起きた大乱が大きく分けて2つあったので、圧縮して誤魔化した結果、敵と味方を入れ替えて書く必要に迫られた。
それが道案内役であったり、本来の神武であったりする訳だ
当時の左大臣は石上であったため、まとまらなかった帝記の二の舞を防ぐため、物部を味方にする必要があったと仮定することができる
それが途中までヤマトであった高天原が、九州への変更に繋がったと考えられる

211:日本@名無史さん
22/07/10 12:55:31.18 .net
40年後に時空間超越が実現して過去を直接観測できるようになるから安心しろ

212:日本@名無史さん
22/07/10 22:28:13.65 .net
>>207
須久奈比古命だろ?主王?副王?何の妄想だ?どこにそんな事が書いてある?
大己貴と少彦名が国々を巡ったのは古事記に同じだが。
須久奈比古命=少彦名なら、天日鷲だと言ってるんだよ。副王って何やねん?

213:日本@名無史さん
22/07/10 22:30:23.61 .net
ネットの書き込みも全て未来から直接観測されているからな
どういう人がどういう意図をもってどういうことを書き込んでいるか未来から直接観測しているからな

214:日本@名無史さん
22/07/11 02:19:47.49 .net
>>212
天日鷲な訳はないよな?
天背男の子孫が出雲系な訳ないだろ
お前こそ何やねんw
天神系系譜は、忌部氏が大陸出身を僭称して家名を守るのに使った系図と言ったよな?
カガセオの子孫が出雲系wwプークスクスw

215:日本@名無史さん
22/07/11 02:31:21.34 .net
八咫烏は太田太根彦
タテツノミの代で加茂氏の親戚に太田氏があった。所謂三輪大君。
大軍が攻め込んでくるとわざわざ招き入れて自分だけ助かろうとする動きはさして珍しいことではない。
唯一の本物の道案内役は記紀から隠されており、記紀に書かれた案内役は全てやられちゃった側になっている。
記紀服属のために、幾度となく行われた神改めで山城鴨神社は八咫烏になった
180年代初頭は、特徴的な土器が突如出現する。それが巻向一類
巻向遺跡は昔は太田遺跡と呼ばれ、現在でも太田地籍が残っている
魏書には倭国大乱と、景初動乱の二つが描かれており、五瀬家、海部家の話と、太田氏、180年代の土器編年からしても、物部氏による東征が複数回あった事は伝承以外にも伺えることである

216:日本@名無史さん
22/07/11 02:39:59.32 .net
>>212
出雲文化圏が二つに分かれていた程度の話はwiki程度でも出ている比較的オツムにお優しい知識
杵築大社が建てられた地域は、神戸家(神門臣家)。普通に大社のお抱え大工だった。
土地と資材を提供している
木築大社の建造費用を負担したのが松江の神魂神社を王宮としていた向家。
大社の上官家筆頭を明治まで務めていた
まさか、本気で大社が天孫に作ってもらっただなんて話を信じてた訳ではあるまいな?w
記紀服属と実情を履き違え過ぎではないか?
古事記と日本書紀で大社の住所が違うのはちょうど建造時期がダブっていたから。
千家と国司として赴任した忌部氏がやらかしたミスリード。
途中で今の場所に変更になった。
千家は雇われ宮司だったから干渉できなかった

217:日本@名無史さん
22/07/11 02:49:12 .net
東征が二度行われて、本来の八井耳(男系が尾張氏)の一族である安麻呂や不比等が描きたかった村雲からの自分の先祖の神武(村雲)の家系は、磐余彦(ウマシマジ)により倒される話が一つの時代にされたことにより、勝者と敗者が矛盾して循環する構図になった。
ヤマトがヤマトを攻撃したり、物部が物部を攻撃したり、そんなイメージで思考が止まる独特な世界観が積まれた。
磐余彦が奈良に到着したらいつのまにかそれはウマシマジになっていて、磐余彦はウマシマジに騙されたと表する人が現れた

これが神武がウマシマジになったという表現の顛末だよ
あくまで東征したのが神武(磐余彦)だとするのならね
海部氏系図の暗喩する神武はやられちゃった方の神武
記紀服属で隠された神武

遠回りしたが、これでも理解できないのなら日本語を諦めろww

218:日本@名無史さん
22/07/11 02:58:46 .net
籠神社は記紀服属でもう一つ細工を受け入れざるを得ない状態になったと考えられる。
それが彦ホホデミ
物部のホホデミが入ったことにより、記紀と同じ循環が生まれた

記紀でいう長髄彦の妹も同じで強制挿入。
子供がウマシマデで、物部が入り循環が生まれたいる

明らかに物部とわかっていながらあまり問題視されないのは不思議の一言に尽きる
天神系に物部(天背男=カガセオ)が挿入されたのも同じ構図ではなかろうか?

藤原氏の物部への大盤振る舞いとしか思えない

219:日本@名無史さん
22/07/11 05:01:46.94 .net
村雲とか言ってる馬鹿より天日槍説の方がよっぽど信憑性あるな

220:日本@名無史さん
22/07/11 08:08:33.77 .net
>>219
バカの自己紹介乙www

221:日本@名無史さん
22/07/11 08:13:41.61 .net
神武の次の代で別れた大彦と同じ尾張家の八井耳が、物部の子孫だって?w
出雲がカガセオの子孫だってのと同じくらいのアホさ加減だよなw

222:日本@名無史さん
22/07/11 08:17:59.68 .net
代7代目の大穴持である冬衣(八重波津身天)は天がつく。天冬衣。
物部にも出雲にも、ヒボコにも天がつく。
天孫という定義は記紀上のプロットに過ぎない。単なる設定。
そういや、天孫以外にはヒボコしか居ないって豪語してたやついたなw

223:日本@名無史さん
22/07/11 08:24:06.40 .net
>>217
お前の書き込みは根拠どころか論拠も一切書いてない訳だよ。
全部、お前の脳内設定。他人が理解できる訳がなかろう。

224:日本@名無史さん
22/07/11 08:43:08.66 .net
>東征が二度行われて
根拠は?
>本来の八井耳(男系が尾張氏)の一族である安麻呂や不比等
全く理解できん。根拠は?
>村雲からの自分の先祖の神武(村雲)の家系は、
この村雲とは天押雲根命ではなく、饒速日命の神孫とされる人?
『豊受皇太神御鎮座本紀』には、
天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
【阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座】 是也。
とあり、これは大神主(度会氏)の上祖が、天村雲命であり上記に鎮座しているという記録ですがこれは間違いであるとの評価ですか?
>磐余彦(ウマシマジ)により倒される話が一つの時代にされたことにより
全く理解できません。
>磐余彦が奈良に到着したらいつのまにかそれはウマシマジになっていて、
???
>磐余彦はウマシマジに騙されたと表する人が現れた
それは誰ですか?
あなた以外の現実世界の人間でこれを理解できてる人はいるのですか?

225:日本@名無史さん
22/07/11 09:01:53.25 .net
>>224
日本語が読めない人には説明しても無駄。
あれで分からないのなら自分に見切りをつけろw

226:日本@名無史さん
22/07/11 09:04:01.53 .net
>>223
〉全部、お前の脳内設定。他人が理解できる訳がなかろう。
海部氏も五瀬家も出雲側でも宇佐氏でもそのようになってる
そもそもが、倭国大乱期にあたる事は説明済みであり脳内ではない事は明らか
日本語が読めていないだけの話

227:日本@名無史さん
22/07/11 09:05:53.59 .net
>>224
〉この村雲とは天押雲根命ではなく
海部尾張家の村雲の事

228:日本@名無史さん
22/07/11 09:24:37.24 .net
物部東征(笑)
やっぱり村雲王wは飛び切りのキチガイだな

229:日本@名無史さん
22/07/11 09:51:13.64 .net
>>225
わかる人はいない。>>228さんのカキコが一般的な評価になると思うよ。
脳内設定の孤高の史学者やってなさい。
スレチだから、そろそろ皇祖日槍にスレを還してやれよ村雲王さんよw

230:日本@名無史さん
22/07/11 09:52:50.12 .net
>>228
おいおい、崇神から景行までは物部氏だぞ?
磐余彦や五瀬も同じだ。ウマシマジもな

231:日本@名無史さん
22/07/11 09:53:55.59 .net
>>229
皇祖日槍w
本当にそう思ってるのか?w

232:日本@名無史さん
22/07/11 09:54:43.02 .net
>>229
〉わかる人はいない。
少なくとも今の時点ではお前だけだろ

233:日本@名無史さん
22/07/11 09:55:50.71 .net
>>230
あたおか

234:日本@名無史さん
22/07/11 10:02:01.96 .net
>>233
物部氏が入ったことにより高天原が九州に変更になった
そもそもがそんなことをする必要がなかった

235:日本@名無史さん
22/07/11 10:16:16.51 .net
>>232
本当か?これが理解できる人が他にいるのか?
この脳内設定は、一般相対性理論より難解だぞw
>磐余彦(ウマシマジ)により倒される話が一つの時代にされたことにより
全く理解できません。
>磐余彦が奈良に到着したらいつのまにかそれはウマシマジになっていて、
???
>磐余彦はウマシマジに騙されたと表する人が現れた
それは誰ですか?

236:日本@名無史さん
22/07/11 10:25:58.68 .net
血はだいぶ薄まったがヒボコ系の大王は一人いる。
これは中臣家と息長家に対する配慮であろう。
血筋はつながっていないが、仲哀は中臣家。
中臣家はかつては中津臣家といい、女系に出雲が入った事で臣姓になったが、基本は息長家に近いヒボコの家でもう一つの習合相手は卜部氏
後年にまとめられた諡号では取ってつけた様にナカツヒコとネタバレがされている

237:日本@名無史さん
22/07/11 10:33:26.08 .net
ナカツヒコは、前後で血縁がないから完全な中臣家へのサービスで挿入されただけの存在

238:日本@名無史さん
22/07/11 11:20:37.43 .net
なんかまた凄い電波が現れたな
村雲王wwww

239:日本@名無史さん
22/07/11 12:02:23.97 .net
>>238
村雲で根を上げてる様ではもう一人の神武にはついて来れんぞww

240:日本@名無史さん
22/07/11 12:53:51.30 .net
神社は基本的に日本書紀に出ている様に祭神を変えるとことが求められた。
例えば
ミホススミは✖ ミホツヒメは◯
3人比定される神武は、東征してない村雲
東征した磐余彦
東征してないが息子が東征した崇神
故に、宇佐氏の古伝は、応神を神武の子供とする記紀服属の形式で発表され、書籍化されている。
これは政権が変わったからだよ

241:日本@名無史さん
22/07/11 12:54:39.03 .net
村雲以外は記紀の方針に反しないので罰せられる事はなかった

242:日本@名無史さん
22/07/11 14:01:38.60 .net
倭国大乱期のことを調べると、wikiでは、外国の戦いはは政権交代があった際に書かれると出ている
根拠や出典は不明だが、古伝を保持している旧家からすると、大陸の歴史書は驚くほど正確に描かれているそうだ

243:日本@名無史さん
22/07/11 16:30:46.41 .net
阿波の村雲や、建御名方は記紀の締め付けが弱くなってから
後年になって作られた神社と推測する。

244:日本@名無史さん
22/07/11 17:29:46.56 .net
>>243
「海部尾張家の村雲さん」と「天押雲根命の別名である村雲さん」は明らかに別人で時代で言えば天押雲根命は天孫と同世代でこちらの方が古いからね。

245:日本@名無史さん
22/07/11 17:46:54.09 .net
このスレで自説を披露してるのは頭のおかしいやつばかり

246:日本@名無史さん
22/07/11 19:58:02 .net
全員未来で個人情報付きで晒上げられてるから安心しろ

247:日本@名無史さん
22/07/11 21:27:05.99 .net
>>244
同じ人物の話だろww
wiki見たけど、後付けの天神の系譜を丸々反映してて、高木神の夫が小屋根になってるやつだろ?
関連氏族のところに八井耳系の藤原氏が入ってるだろw
春日大社の小屋根の本殿の位置はど真ん中ではない。明らかにランクが下がる。

248:日本@名無史さん
22/07/11 21:34:33.91 .net
コヤネは辰韓の神と考えられ、大陸系の神様。朝鮮半島には秦国系の辰韓があり、ヒボコは辰韓の皇子(長男だった)
千家の先祖のホヒも小屋根が祖神だったが、記紀編纂の際に藤原に差し出した。
故に、出雲の系譜も120数代、皇室もほぼ同じだが、千家だけ88くらいの代になってる。
小屋根との間はツハヤムスビを入れると足りない40台が埋まる。
これは神魂神社の秋上氏の証言
紀元前2世紀には村雲とカゴヤマ(イソタケル)は奈良入りしてる。
それが海部、尾張家
確か、籠神社も、おかしな事に代数を少なく公表しており、千家と同じ80数代になってるはずだよ
ドヤ顔して何を言い出すかと思ったらそんな程度のことかよ

249:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
なんかめっちゃ盛り上がってるじゃん

250:日本@名無史さん
22/07/11 21:40:51.49 .net
ヒボコは、記紀だと垂仁三年になってるがその時代はヒボコの子孫、タジマノモリの景初動乱の時代。
紀元後100年頃に出雲にたどり着いたらしい(向家と神床家の証言)
渡来時期が違うので小屋根が海部の先祖になる事はできない。したがって、村雲の先祖ではない。

251:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
いや、垂仁天皇が居た時代って紀元3世紀後半だろ
記紀の年表そのまま信じてるんか?天皇が160歳とかになってんの信じてんの?

252:日本@名無史さん
22/07/11 21:47:55.11 .net
春日大社の第一殿は、ミカヅチ。
先代旧事本紀より、村雲と習合した事代主の家、つまり鴨氏の四代目あたりの人物
春日大社は主祭神が出雲系で、記紀服属で、国譲りを再現した神を祀ってる。
コヤネは鎌足の養子入りした先の中臣家の祖人に過ぎない
コヤネのランクが下がるのは当然。藤原が建てたのだから。

253:日本@名無史さん
22/07/11 21:53:22.51 .net
>>251
いえ、下記の年表はワカタケル辺りまでは倍暦で誤魔化してますよ。
景初の際に垂仁は朝貢して銀のハンコを貰っています。
九州でのもう一つの名はイクメではなくイサチ。
イサチは魏書に載っていますよ。
イサチ(物部イクメ)とヤシャク(八坂入彦)の名で載っています。
村雲の時代は出雲口伝では紀元前二世紀
単純なワカタケルから倍暦変換すると紀元前140年代
一般の倍暦論では紀元前後が村雲の時代と仮定される事が多い様です
太国さんもこの辺りの時代を主張されてましたね

254:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
説明しづらいな
まず押雲と村雲は同一人物だ、物部が滅ぼされて中臣氏が祖先変更しなきゃいけなくなったから別物にしたけどね

255:日本@名無史さん
22/07/11 21:55:47.38 .net
垂仁は景初動乱ですから239年でしたっけ?
3世紀ですかね

256:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
でニニギもニギハヤヒも同一人物
元々饒速日(天日槍)しかいなかったが、白村江の戦いで敗北し皇統を日本在地に求める必要があったため
ニニギという新しい天孫を作った

257:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
だから申し訳ない村雲クン
村雲は饒速日(天日槍)の子孫だよ

258:日本@名無史さん
22/07/11 22:07:51 .net
>>254
守屋の変のことでありますか?
当時中臣は守屋と同じ側だったので、地方に流される側でした。
おそらくですが八井耳系の藤原の先祖であるタテカシマが古くは関東の出雲領域、出雲系のミカヅチの祀られている領域に入り、そのあと卜部氏が鹿島の司祭を担ってた時期に入ります。
中臣家は卜部氏の分家
守屋は死にましたが、長男は田原本町のムラヤニイマスミフツメ神社の社家になり、事代主の娘で、ミナカタの妹であったミホススミを祭ります。
物部が出雲神を祀っています。
次男は母方の諏訪族を頼り、守矢家の第3代に養子入り。80数代を数えます
守屋山の山頂磐座に守屋の遺体の一部を埋めたそう。
守屋の頭部は守屋山なのか、善光寺なのか分からなくなってるそう。
守屋氏は、諏訪においてはミナカタ、やはりここでも出雲系を祀っています。

それがいつのまにか天武期には右大臣藤原、左大臣石上になってるので壬申の乱は面白い動乱でしたな。

259:日本@名無史さん
22/07/11 22:17:10 .net
>>256
ニニギと饒速日は同一というか、物部の象徴として挿入された架空の人物。
記紀によって圧縮された時代を埋める役割で、同一人物である大彦と長髄彦と似た様な考え方。

先代旧事本紀より、海部尾張の先祖であるホアカリと、物部の先祖の饒速日は同一人物。

日本書紀には古事記の記載を修正して、両者は同一と修正されてるよ

神功皇后期以降、物部氏は圧迫された時代があり、家名を守るためにヒボコの子孫を名乗る物部族が現れた。
神功皇后や、武田宿禰系の蘇我までは冷や飯食いだったと考えられる

ちなみに、景初動乱で滅ぼされた出雲の、神門臣家は、朝鮮半島由来の一族の名に変えて生き延びている
一部に春日家がある。現在でも島根に存続していて、事代主系の富神社の社家も引き継いでる

260:日本@名無史さん
22/07/11 22:27:02 .net
>>257

惜しい、そこだけが違うw
それだと三韓征伐に繋がらないんですよ。

三韓征伐は成務期に起きた四世紀中ごろの話
ヒボコの実家が、統一新羅となり、血筋が部下の国に代わった事により、朝鮮半島での物部とヒボコの検疫を失わぬ様、相続権を盾に皇后が起こした戦い。

物部氏と、海部氏は記紀の編纂時に新しく作られた神である須佐男系。
コヤネとは無関係。

須佐男(ホアカリニギハヤヒ)は、大陸にそれが誰か正体がバレても問題のない様に作られた神で、出雲の母系の実家だよという事にして誤魔化された。
とある先生が昔残した言葉に

記紀最大の演出はスサノオを出雲の舅にすることであったと説いている。

男系の中国に対して、渡来人が幅を利かせてる歴史を書いても舐められるだけだからね。

261:日本@名無史さん
22/07/11 22:35:45 .net
コヤネは文字通り、息長系のヒボコが男系となり中臣家になったと考えられるが、文字通り、小さな屋根の様な勢力だったみたいだね

権威をいじるのには既存の家系図に自分の先祖を書けば良い

藤原を名乗るのは鎌足と、不比等の系統だけとされたが、結局は言うことを聞かず、藤原を名乗る中臣がいたとの事。
その鎌足は、出雲の母系の事代主の親戚を表すトミを名乗っていた
故に今でも当て字でナカトミの鎌足になっている。
ナカトミは忌部氏と同じく、コヤネを何と尾張氏の上にくっつけた。
スサノオの母親の高木神(タクハチヂヒメ)の夫であるとのちに注釈を加えたのでる
そこに本来は出雲系の忌部氏も乗っかった様で、天神の系図にはついでに忌部氏の祖が出ている。

262:日本@名無史さん
22/07/11 22:38:05.23 .net
天神の系図は本来の物部や尾張氏の共通の系図であったと考えられ、天背男(カガセオ)とあるので記紀編纂後に作られた系図と考えられる

263:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
ツヌガアラシトが上陸してから約200年後
当時の日本は未だ在地の国津神系神道が支配的だった
そこで仁徳天皇らは自らの支配を正当化するため、自分の祖のツヌガアラシトを彦火明(大国主大神の子ども『参照:播磨国風土記』)であると対外的には言い始める
しかし武烈天皇で断絶、継いだ継体天皇は天皇家の神道(天津神、高天原)と在地の神道(国津神)の融合を図り
祖先である彦火明の名前を
【天照】【国照】彦天火明櫛玉饒速日尊
と改名
こういう経緯があるから、先代旧事本紀には不自然にも(饒速日命が神武天皇の一世代前だから神武天皇の二、三世代前にあたる天火明命と同一神という事は“記紀”を信じるならばありえない)彦火明は饒速日と同一神と書いてあるのだ
これでツヌガアラシト=天日槍=彦火明=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒに決定

その後の倭は百済回復戦争に負けてしまう
すると辰韓から来たニギハヤヒ(天日槍)が皇祖だってのは記紀編纂した天武朝にとって都合が悪くなるわけ
よってニニギノミコトの存在を付け足し、こっちが皇統ですよってことにした
だから、最初から大和に天孫降臨して兄弟で力をあわせず別々に来るという不自然な話になったんだよね

264:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
まぁ、村雲は天日槍(ニギハヤヒ)の孫なのでこのスレよりちょっと後の話かな

265:日本@名無史さん
22/07/12 05:26:30.25 .net
アマテルクニテルってアマテラスオオミカミ関係ある?

266:日本@名無史さん
22/07/12 13:01:22.46 .net
>>264
村雲がヒボコの子孫なら、海部氏系図に出るでしょ。流石に先祖は違うと思いますよ

267:日本@名無史さん
22/07/12 13:23:25.95 .net
それと。ヒボコの嫁さんの実家の神床家でもヒボコの渡来は紀元後100j年代。つまり2世紀だからホアカリや饒速日の先祖にはならない
それどころかヒボコの霊廟を守る出石神社の方は記紀服属で新羅の時代の渡来(神功皇后期)に更に後年に押しやられて紹介してるから、更にあり得ないんですよ。

268:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
>>267
2世紀より前の記述は殆ど捏造ですよ

269:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
>>267
それに火明命や饒速日の先祖なんて書いてないです
同一人物だと>>263で書いてる

270:日本@名無史さん
22/07/12 15:24:09.03 .net
>>269
〉それに火明命や饒速日の先祖なんて書いてない
あるえ?コヤネはスレ主さんからすると無関係なのですか?
タクハタチヂヒメ(高木神)が、同一人物ホアカリ饒速日の母親で、後々にコヤネが夫として追加されて、天神系譜になってるんですが?
コヤネの子供がヒボコという主張の話ではないかと思っていたのですが?

271:日本@名無史さん
22/07/12 15:25:49.39 .net
>>268
〉2世紀より前の記述は殆ど捏造ですよ
そう、故に旧家の古伝が重要になってくるわけです。
ヒボコは尾張家、海部氏よりも後の渡来という事なんですよ。ヒボコの義理実家の話ですとですね。

272:日本@名無史さん
22/07/12 15:27:16.77 .net
各家の旧家の伝承は自分の家の隆盛をモリモリにする傾向がありますが、唯一の利点は時系列。
欠史が存在しないんですよ、旧家の古伝は

273:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
>>270
無関係ですね
コヤネの存在が初めて誕生したのは大化の改新~白村江敗戦後でしょう
皇統を外国人の饒速日(天日槍)と分離させるために作った存在ですから

274:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
や、コヤネ誕生は物部が滅ぼされた頃かな
皇統がニニギになったのが百済回復戦争敗北後

275:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
もう一度書きます
ツヌガアラシトが上陸してから約200年後
当時の日本は未だ在地の国津神系神道が支配的だった
そこで仁徳天皇らは自らの支配を正当化するため、自分の祖のツヌガアラシトを彦火明(大国主大神の子ども『参照:播磨国風土記』)であると言い始める
しかし武烈天皇で断絶、継いだ継体天皇は天皇家の神道(天津神、高天原)と在地の神道(国津神)の融合を図り
祖先である彦火明の名前を
【天照】【国照】彦天火明櫛玉饒速日尊
と改名
こういう経緯があるから、先代旧事本紀には不自然にも(饒速日命が神武天皇の一世代前だから神武天皇の二、三世代前にあたる天火明命と同一神という事は“記紀”を信じるならばありえない)彦火明は饒速日と同一神と書いてあるのだ
これでツヌガアラシト=天日槍=彦火明=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒに決定
で継体期は物部の最盛期だったから中臣はその恩恵に預かるため祖先を饒速日(天日槍)の子孫であった村雲に変更
しかし物部が滅ぼされ蘇我が興隆
物部の恩恵に預かれなくなり蘇我に睨まれるようになるので祖の村雲を一文字変えて押雲に変更(この時にコヤネ誕生か)

その後の倭は百済回復戦争に負けてしまう
すると辰韓から来たニギハヤヒ(天日槍)が皇祖だってのは記紀編纂した天武朝にとって都合が悪くなるわけ
よってニニギノミコトの存在を付け足し、こっちが皇統ですよってことにした
だから、最初から大和に天孫降臨して兄弟で力をあわせず別々に来るという不自然な話になったんだよね

276:日本@名無史さん
22/07/12 23:03:30 .net
>>268
根拠無し

277:日本@名無史さん
22/07/13 10:58:20 .net
ヒボコの系譜は、大国主と同じで役職名という考え方をしている人達がいる
古事記の序文にある様に大国主は17代まで続き、景初動乱で滅びた。
ヒボコの系譜が詳しく出ているという事で最近購入した但馬古事記本(実際には既知の系譜だった)によればヒボコは系譜上はヒコイマスと同時代に描かれており、本来のタジマノモリの時代から時期がずらされている。
単純に時期を合わせると5代遡るので、ヒボコは人皇4代となり、懿徳から孝昭期になる。
記紀は開始される時期や出来事がいじられているが、系譜は順番通りになってる難解な構造になっている。
人の順番と、大陸の史書のベンチマークから、倍暦で直す必要がある。
紀元後100年代あたりかと。
少なくとも紀元前2世紀の饒速日やホアカリの後の渡来にしかならない。
吾郷清彦著の但馬古事記の収穫は、筆者が出雲大社上官家の先代の富マサオ氏にも取材している事が判明した事。
ヒボコは襲名であった為(伝承により象徴的にヒボコにされ記述される)取り上げられるものにより年代が異なってしまうとの事であった。

マサオさんの代で娘さんが神床家に嫁入りしている関係で、今代の大社旧上官家の人も神床家に取材した上で、ヒボコの渡来を100年代、紀元後二世紀として本を出している。
先代のマサオさんの本は発売日に千家により買い占められ、版権ごと抑えられてしまったので、世の中にはほぼ出回ってない
昭和年代後半から30数年を経てようやく旧上官家の本が出版された。
一読をお勧めする。

タジマノモリの家(神床家)、タジマノモリや物部、宇佐にやられた家(海部尾張、出雲)はまだ存続していて、各家の伝承は内容がほぼ同じですよ。

278:日本@名無史さん
22/07/13 11:17:12.29 .net
但馬古事記は伝承の少ない二田物部にも言及されているので面白い。
日本海における二田物部は、家名を守るために三島や越知が名乗った名前と思われ、ほぼ唯一の二田物部神社は弥彦の神を案内し、そこに留まったとされ、現在でも三島郡鎮座である。
大彦(長髄彦)が北陸に流れた際に事代主向家が紹介した豪族は三嶋氏と思われ、長野県の小布施辺りまでは越知神社が重層する。
越知は後年に白山と戸隠信仰になったと考えられ、岐阜と長野にはその両方が重層する。
但馬は元々は出雲の領域(6代オミツヌの代で北九州から新潟まで)になっており、人の住めなかった沼地を水稲田に変える技能があったので、既存の一族と争う事がなく版図を広げる事ができた様である。
その母系の受け皿がおそらく九州佐賀の水稲を持ち込んだ三嶋溝杭の一族
二田物部の三嶋宮司家は記紀の影響をうけず、代数が130代である。80代に減らされていない。

279:日本@名無史さん
22/07/13 11:25:05.19 .net
「魏志倭人伝」・「記紀」に罪はない。
悪いのは、好字二字令である。
それによって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波

280:日本@名無史さん
22/07/13 11:32:46.70 .net
出雲に行って土地を世話してもらおうと考えたヒボコだったが、ちょっとツッパリが抜けておらず態度が悪くて大国主の御癇気に触れて追い出され、船で北上。
但馬の円山川からの上陸も出雲族に追われて敵わず2年ほど船上生活になった。
円山川の河口付近は川幅が狭く川底が浅かったそうである。
そのため、豊岡市付近は広い沼地であった。
そこに舟を浮かべていたそう。
ヒボコは人々を指揮して津居山の端を削り瀬戸の岩を取り除く工事を行なった。
但馬古事記は農業関係の伝承が多く残り、今でも出石神社では絵馬などでも当時の工事の事を説明している。
最初に陸地になったのが出石。
はらかずも三嶋と同じ様に沼地を開拓して自分達の新しい土地を作り出した。
彼らは敵が多かったが地道な開拓で豊岡盆地では広大な肥沃な平野部が出来たので、ヒボコは豊岡盆地の大恩人となっている。
ヒボコは円山川の水害と戦い続け、その地で亡くなった。
故に、出石神社の禁足地はヒボコの墓と現在でも伝わる。

281:日本@名無史さん
22/07/13 11:37:49.94 .net
先代の神床家は、自分の家をヒボコに嫁をやった家系で朝鮮半島の血筋ではないと言っていた。
厳密にいうとヒボコの直系なのかどうかという事であるが、今代の上官家の本では直系として登場。記紀服属で情報を再現していたのかどうかは別として、両家に伝わる伝承は以下の通り

282:日本@名無史さん
22/07/13 11:43:00.43 .net
・ヒボコは開拓の仕事で忙しく、そのまま出石の館で亡くなった。
・ヒボコは末子相続のために半島から追い出されたが、父親から和人の妻を娶る様指導されていた(古事記の記載では追いかけてきた)
・息子がヒボコを埋葬し、その前に出石神社を建てた
・ヒボコには敵が多かった為、破壊を恐れて禁足地が墓である事は長らく秘密にされてきた。
本家の人間は墓を守ることだけに気を遣っていた(物部五瀬の家とも共通する)

283:日本@名無史さん
22/07/13 12:02:41.62 .net
昔は政治と宗教が一体であったので、先住民族を追い払いながらの開拓の時代、ヒボコ一族の祭祀は当初は銅鐸であったそうである。
気比川上流の気比神社があるがそこの大岩から銅鐸が出ている。
その鋳型は賀茂岩倉銅鐸と同じ鋳型であった
3号銅鐸は東奈良遺跡からも出土している。
つまり、ヒボコ族が来る前には既に銅鐸祭祀が始まっていた。
但馬は古くは出雲と海部尾張土地であった。
景初動乱で海部が今の籠神社、ヒコイマスが大丹波エリアのうちの亀岡(稲葉国造エリアに端を発する)に逃げ込む事が出来たのはそういう理由で、出雲に恨みのあったヒボコ族はスサ族と集合した事もあっだのだろうか?後にヒボコは天の天を頂いた。
ヒボコが来る前後は、大屋姫とカゴヤマと名を変える前のイソタケルが出雲を頼って入植した。
その後、海部尾張の王朝初期に、天御陰(記紀の時代操作で物部の役職である大和宿禰と名を変えられた)が豊水富姫と共に但馬に来た。
大和宿禰の子供は、笠水彦、笠津彦だが、モロに地名を表している(本当の名は隠されているのだろう)
笠はウケと読み、丹後風土記に加佐の由来が出ている。
加佐の群は、もと笠の群の字を用い、ウケノコオリと読んだ
つまり大和宿禰か、笠水彦の時代に尾張海部の政権の分家が丹波に来たと考えられる。
舞鶴市の弥加宣(みかげ)神社には海御陰が祀られる。
故に、沼地開拓の関係で、ヒボコは河口に近く、海をかき混ぜる話に
籠神社では海水が遠かったのか、マナイの話になったのであろう。
要は、ヒボコの本質は農耕の神でおり、農家のおっさんなのである。
皇祖とかいう話は大丹波の領域では殆ど伝承されてないと考えられる

284:日本@名無史さん
22/07/13 12:07:36.01 .net
先述したが、トヨウケの神は籠神社が仕掛けた祭神としたが、豊岡の土地名や、ウケノコオリから来ているのだろうね。
トヨウケの神はトヨを排出した宇佐氏の月の女神とは無関係の可能性があるね。

285:日本@名無史さん
22/07/13 12:13:34.65 .net
>>275
仁徳天皇は武内宿禰系の平群氏だから、ヒボコの威光はなくとも良い一族
父系が開化天皇、母型が大家姫系の紀伊国造家
開化天皇は母方に物部の血があり、要は、海部、尾張、物部、出雲の全ての血を父系に持つ一族。
ヒボコとは無関係

286:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
穂積氏、物部氏、天皇家は全員饒速日(天日槍)の子孫
関係ありますよ

287:日本@名無史さん
22/07/13 13:17:06.28 .net
「魏志倭人伝」・「記紀」に罪はない。
悪いのは、好字二字令である。
それによって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波

288:日本@名無史さん
22/07/13 15:02:18.88 .net
>>286
その饒速日とヒボコは時代が違っていて同一人物ではないという意味です。
当事者(向井家、海部家、神床家)の家の伝承でもそうなってるという意味です。

289:日本@名無史さん
22/07/13 15:20:33.65 .net
>>286
穂積氏も、物部氏も、天皇家も、饒速日(天日槍)も、
みんな元を正せば「倭人(阿波勢力)」。   @阿波

290:日本@名無史さん
22/07/13 15:38:54 .net
ヒボコは操作されたコヤネを中心とする偽装の系図、神統譜(天神系)があるから同一説が出るのもわかるけど、阿波忌部はヒボコ以上に無関係
明らかにあの系図に相乗りで書き加えただけ
千家が無関係な野見宿禰を自分の家の子孫として書き加えたのと同じ

291:日本@名無史さん
22/07/13 16:02:32 .net
天神系譜は、いくつかあるが天背男が乗ってる系譜の大元は神魂命で、物部の神が先に来てその後に背男という順序がおかしな系譜になっている。
その系譜に大麻比古命があり、忌部連の祖になっている。
本来は、臣系の氏族である忌部が、渡来系の連になってる。
もう一つの天神系譜は、高皇産霊尊で、本来は命のはずが尊となっている。

更に天太玉命の子供に宇佐氏豊国のトヨである天細女が来ており、記紀服属の系譜を更に二次使用した様な内容が伺える。
太玉命の次が櫛耳、次が天富命であり、出雲の事代主の系譜が天神の下に付けられているので全体がデタラメである。
富命から、6代後が多良斯富命であり、忌部首の祖になっている
そこにはコヤネは出てこない

最後の天神系譜の天御中主の系図は、千家が差し出した津速魂命が出ていてその三代下にコヤネが来ている。
この系譜のことをスレ主さんは言っているのだろう。
コヤネの下に天押雲あなたが出てきている。
中臣家に養子入りした鎌足が出てくる系図なので、これは八井耳が養子入りした家の系図、中臣家の、系図になる。
鎌足までの間に、息長宿禰系と習合している人物が居たのではと考えられる
一般の系図だと母系と父系を弄れる性質を利用して当たらずとも遠からずの細工をしているはずだ。

292:日本@名無史さん
22/07/13 16:08:47.86 .net
中臣御家子の二代前には鎌子の子として伊波礼があり、その孫に稗田阿礼が来ている。
渡来の綾部家から小野家を通じて柿本家に入ったのが綾部人麿=柿本人麿
その人麿が、稗田流の口伝の継承者であった為、日本書紀の下書きをさせるために海部氏の手引きで大和に呼ばれ、記紀編纂の進行が捗ることになった
つまりは天神系譜は創作の色々なお家の事情が反映された特殊な系図になる
ヒボコを論じる系図としては不適な系図になる。

293:日本@名無史さん
22/07/13 16:11:25.54 .net
柿本家はワニ氏の系譜であるため、中臣家の系譜に登場するのはおかしなことになる。
家の箔をつけるために、後年に色々操作れた系図としか思えない
口伝と違い。文字化された系図は容易に改変される

294:日本@名無史さん
22/07/13 17:46:39.45 .net
饒速日が天日槍?
何の根拠も無いやん

295:日本@名無史さん
22/07/13 18:05:45.02 .net
>>294
いいえ、そうなっても不思議ではないほどにスレ主さんのの知識量はあると思います
明らかに@阿波とはレベルが違うかと

296:日本@名無史さん
22/07/13 23:17:33.73 .net
まあヒボコはニギハヤヒじゃなく倅のカゴヤマの方なんだけどな

297:日本@名無史さん
22/07/14 01:23:27.53 .net
>>296

通常であればツヌガアラシトは須佐男でしょ。
記紀はスサノオを出雲の女系の先祖にして男系は無関係としたかった様だが、それだけでは不安だったのだろう。
故に牛頭山の話を神功皇后記で書いたと考えられる。
そして、朝鮮半島に降り立ち、こんなところは嫌だと。日本に来たことにして、朝鮮半島に立ち寄っただけなのか分からないようにした。
大陸系と半島系の混同は記紀と神功皇后時代の牛頭以降に起きている。

298:日本@名無史さん
22/07/14 01:34:48.71 .net
アメノホアカリ饒速日=須佐男
我が国はアメノホアカリ饒速日の正体がバレても問題ない様にし、更にスサノオを新たに作り出し、大陸出身なのか朝鮮半島出身であるなのか判断がつきづらくした
しかし効果があり過ぎて、武内宿禰系の蘇我氏まで朝鮮半島渡来と勘違いする日本人までが現れる結果になってしまった。
大陸の史書に、一度日本に渡って帰国し、更にもう一度日本に行った伝承を持つ者がいる。
その片方がスサノオだ。
須佐男は記紀以降の新造の神で、それ以前は出雲には存在していなかった。
出雲を滅ぼす手引きをした千家は、その歴史を忘れさせるために、出雲の初代、管八耳の頃にスサノオを持っていき、管八耳の奥さんの稲田姫を娶った形に変えてしまった。
千家果安と、国司忌部は8年ほどかけて記紀の最初の部分を作ったとの事である。

299:日本@名無史さん
22/07/14 20:42:00.01 .net
物部の饒速日と、最初に出雲に来た(ヤマト入りしてない)ホアカリは同一人物の渡来人
記紀の関係で出雲と大家姫系の系譜はイソタケルを扱う方針になった様である。
尾張海部はカゴヤマと表現する方向性が強い。
出雲に流れ着いたホアカリは、出雲から姫を娶り土着化するかに思えたが程なくして国譲り事件を引き起こす。
第8代の大穴持と少名彦が同時に暗殺される。
手引きしたのが、先遣隊のホヒと考えられており、それが後々の出雲國か隠された事、野見宿禰の系図を弄って自分の家の子孫に偽装する事に繋がったと考えられる。
渡来した場所は出雲においては石見の後にイソタケル海岸と呼ばれる場所であったとされる。
和名ホアカリと名を変えた人物はイソタケルと部下のホヒを置いて大陸に一度逃げてしまった。
再び我が国に来た際は北九州に行き、出雲の分家の宗方氏に取り入り、二つ目の和名である饒速日と名乗ったそうである。
ホアカリ=饒速日=海幸彦、山幸彦
置いてかれてしまったイソタケルは仕方なく母系の実家で育てられる事になったが、事件が事件だったので、世話は大年教の巫女である大屋姫が行う事になった。
丹後に入植する前に、イソタケルは、名を変えて守られていた時期がある。それが大年彦。
故に、石見のイソタケル神社の南側には今でも御歳神社がある。
丹後でいう今の籠神社の辺りに大屋姫と一緒に移り住んだイソタケルは、そこでカゴヤマと名を変える。カゴヤマのカゴ籠神社のそれであり、今でも奥宮マナイが鎮座する山は名前がカゴヤマとなっている
イソタケル=大年彦=カゴヤマ
つまり、イソタケルやカゴヤマは九州には行っていない。

300:日本@名無史さん
22/07/14 20:48:32.98 .net
大陸の渡来の血筋のイソタケルは後に神功皇后記などの記述により牛頭と混同が始まり、大屋姫系統の蘇我氏が、何故か朝鮮渡来と誤解される様になった。
そういう方向性であるから、父親である饒速日やホアカリが、朝鮮のイメージ=ヒボコとして考えられる話はあり得ないことではないのです。
逆にお勉強をすればする程そういう考えに行き着く人が出てくるのではないでしょうか?
また、中臣家だったり、政権を担う豪族の勢力がどちら系であるかによって、政権そのものが百済や新羅系とまで発想が飛躍して論じられる様になったと考えられますが、実際には親戚同士の揉め事に漁夫の利を狙った一族がいたという側面の方が強いと思われます。

301:日本@名無史さん
22/07/14 21:11:10 .net
出雲とホアカリの関係が奈良に入植して、奈良湖の水田化を、進めたらしいです。(クシヒカタと三島家が開拓を開始し、その後に出雲系を頼り、カゴヤマと大屋姫が奈良入りしたことの事です。

カゴヤマの拠点は当時の奈良湖の地形から遠い場所、高尾張村北部、二上山辺りで、その他の南部に後に笛吹神社(葛城坐火雷神社)が出来ました。
その南は事代主の鴨津波神社(八重波津身から取られた)や、一言主神社
後に、大国主系(タキツヒコ系)の高鴨神社が出来ました。
鴨三社のうち、御年神社は一番最後にできたと思われ、当時の配置でも水田化が進んだ、奈良湖中心寄りに神社があります。
その北西部には、ホアカリの母親の高木神を祀る高木神社。
二度目の来日の際に饒速日は母親を連れてきたらしく、一番新しい神社と考えられます。
高鴨神社北西には武内宿禰系の葛城氏が持ち込んだと思われる高天彦神社がありますのでもしかしたら高木神社は神功皇后期以降かもしれません。

高天彦神社は九州に変更される前の高天原候補地になっていましたので現在でも教育委員会の高天原候補地の、石塔が存在します。

後にやられちゃった側の政権になるのであの辺りには土蜘蛛伝承があります。

最初の入植地の北東は御所市の開拓の中心であったと考えられます。
紀元前3世紀、つまりカゴヤマや出雲が入る前からの水稲遺跡、中西遺跡があります。
御所インターすぐ東の、セブンのあるあたりが越知地籍なので、三島の拠点であったのでしょう。

302:日本@名無史さん
22/07/14 21:20:38.82 .net
三島の集合相手が
ヒボコになっているケースは稀と思われ、白髭神社との配置から見てもホアカリがヒボコ勢と判断できる材料は少ないと思われます。
ヒボコが侵攻した播磨と、奈良の神社の比較でも比較的明らかな対比は出来ると思いますよ

303:日本@名無史さん
22/07/14 21:31:13.58 .net
今日もキチガイ独演会

304:日本@名無史さん
22/07/14 21:40:02.22 .net
カゴヤマは後に九州物部となる腹違いの妹ホヤ姫と婚姻します(嫁入りさせる方が下手になるので、手打ちの側面があったのもしれません)
先代旧事本紀にある様に、村雲はそうして生まれました。
銅鐸祭祀文化圏は、出雲とヤマトから始まりました。
九州では早くからシンボルを変更したと考えられています。
九州は銅鐸の鋳型は出るが、銅鐸が殆どでない特殊な地域でした。
数年前に、吉野ヶ里からようやく小さな銅鐸が出ましたが、それは出雲初期の小さな銅鐸に近い形だったと記憶しています。
後のものは銅鏡などに鋳直されたと個人的に考えています。
出雲口伝の継承者は、最初にホアカリが出雲に銅鐸の元になるクヨウの様なものを持ち込んだと伝えいます。
出雲の十の神宝のうちの一つであったらしい
考古学的にも、我が国の青銅器は紀元前三世紀頃に持ち込まれ、程なくして国産化が始まったとされ、口伝と学問が不思議な一致を見せています

305:日本@名無史さん
22/07/14 21:40:39.85 .net
>>303
反論するにしても本とか読み込んでからにしたら?w

306:日本@名無史さん
22/07/14 21:48:03.67 .net
丹後風土記や、後年にまとめられた丹波古事記や、ヒコイマスの、稲葉国造エリアなどの後丹波歴史から行っても、アメノホアカリニギハヤヒはヒボコであると言う判断はできません。
ヒボコもヒコイマス(海部尾張氏)も、やられちゃった側の配置になっていますからね。
元いた拠点に引っ込んでます。

307:日本@名無史さん
22/07/14 21:48:39.24 .net
>>306
訂正
後丹波→大丹波

308:日本@名無史さん
22/07/14 21:51:12.46 .net
奈良で白髭神社を検索すると、ぜーんぶ中心から外れたど田舎におしやられていますよ。
これはタジマノモリが負けちゃったからです

309:日本@名無史さん
22/07/14 21:56:58.03 .net
ソースも出せないキチガイが「本を読め」ってすげーギャグだな

310:日本@名無史さん
22/07/14 22:09:50.89 .net
>>309
少しご紹介しましたが、それ見からにしたら?w
あの私も全部は頭には入っていませんので本屋な見ながら書いてたりしますがね
人の発言が妄想でなければ困る特殊なご事情でもあるんですか?ww
自分で調べましょうね?妄想を押し付ける前にw

311:日本@名無史さん
22/07/14 22:13:12.14 .net
奈良と九州の勢力が同じヒボコであるのなら、両方の祖神であるヒボコ関係の神社は、子孫同士の間に争いがあっても無くならない。
祭神が土地からいなくなることはない。

312:日本@名無史さん
22/07/15 13:14:09.18 .net
巻向(太田)和邇などの都に一番近い白髭神社は、タジマノモリに因んだと思われる奈良の但馬駅近く
昔の文章にある様にあのあたりは三宅と言われ、ヒボコ勢が三宅連になったと書かれている事に一致する。
そして隣の田原本町は物部守屋の長男が今でも宮司をやる村屋坐彌冨都比賣神社(大神神社別宮)がある。
昔は名前を変えて遠くに行くと許す習慣があった。
村屋神社は、現在では守屋姓になってる。
諏訪の守屋家も同じなのだろう。
秋田物部の様に、物部姓を名乗ることは稀だった
少なくとも但馬や田原本町のあの辺りまではそういう境界エリアだったと考えられる。
あそこより都に近い白髭神社はない。

313:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
あ、ガチで確定したわ、饒速日命=天日槍

法庭神社の記録
 「旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。」
 天日槍命に関する但馬の伝承
「日槍は但馬国に船をつけると、そこに落ち着くことになった。日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていた。ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地であった。そこで日槍は五社大明神の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えた。
 まずは、来日岳の下流を切り開くことになった。そこは固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸になっていたのである。みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出し、やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていった。日槍も神々も大喜びであった。」

314:日本@名無史さん
22/07/15 18:10:27.09 .net
>>313
この唐突な空気感
さすがスレ主さんww

315:日本@名無史さん
22/07/15 19:55:51 BE:237216734-2BP.net
sssp://img.5ch.net/ico/tona2.gif
・ニギハヤヒが降臨した時に持って来た持ち物[十種神宝:現存せず]


《鏡》
沖津鏡
辺津鏡

《剣》
八握剣

《勾玉》
生玉
死返玉
足玉
道返玉

《比礼(スカーフみたいなもん)》
蛇比礼
蜂比礼
品物之比礼

316:日本@名無史さん
22/07/15 19:56:04 BE:237216734-2BP.net
sssp://img.5ch.net/ico/tona2.gif
・天日槍が半島から持ってきた物
[古事記の記述より]


《鏡》
奥津鏡
辺津鏡

《勾玉》
珠 2貫

《比礼》
浪振ル比礼
浪切ル比礼
風振ル比礼
風切ル比礼

317:日本@名無史さん
22/07/15 19:56:17 BE:237216734-2BP.net
sssp://img.5ch.net/ico/tona2.gif
・天日槍が半島から持ってきた物
[日本書紀の記述より]


《鏡》
日鏡

《剣》
出石小刀
出石桙

《勾玉》
羽太玉
足高玉


《社》
熊神籬

318:日本@名無史さん
22/07/15 19:56:47 BE:237216734-2BP.net
sssp://img.5ch.net/ico/tona2.gif
・ニニギが天照から貰ったもの(三種の神器+α)


《鏡》
八咫鏡

《剣》
草薙剣

《勾玉》
八尺瓊勾玉


《社》
天津神籬

319:日本@名無史さん
22/07/16 00:40:23.21 .net
>>295
いや個人の妄想やん

320:日本@名無史さん
22/07/16 00:44:29.90 .net
来年度から認可される中学歴史教科書では
日本神話から始まり天皇を軸にした歴史教育が再開されるから
必死だな

321:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
>>320
これまじ?ソース教えてくれ

322:日本@名無史さん
22/07/16 02:30:17.93 .net
>>319
いや、ちょっとした細工でヒボコになる。

323:日本@名無史さん
22/07/16 02:31:05.45 .net
>>315
十種神宝の一部は秋田物部氏が持ってる

324:日本@名無史さん
22/07/16 03:20:23.26 .net
奥津鏡と辺津鏡持ってきたのってニギハヤヒノミコトとヒボコだけ?なら確かに同一人物の線も否めないナ

325:日本@名無史さん
22/07/16 09:54:28.80 .net
倭国大乱期の初端を開いたのがヒボコ族
出雲系の領域の鉄の産出地を狙いに定めて侵攻した。
戦乱に明け暮れていた小国の乱立する朝鮮半島出身のヒボコ族は巧みな戦術を受け継いでいたので、出雲族を圧倒した。
それが領土欲を刺激し、ヤマトのフトニがヒボコ族に戦いを挑む
実は神床家には伝承があり、本来は物部氏と共闘してヤマトを挟み撃ちにする計画だったとされる
結果、物部氏は動かず、単独行動になってしまったヒボコ族は、先に述べた様に丹後に地盤のあった尾張、海部氏のと間で挟み撃ちになり破れる。
一部は淡路島に、一部は琵琶湖方面の坂田に(白髭神社あり)、さらにもう一つは、九州の糸島半島に逃げ込んだ
伊都の語源はもしかしたらヒボコ族に縁があるのかもしれない
フトニが播磨に構ってるうちに別の親族がヤマトで造反。太田太根彦の熊野系物部氏を奈良に引き入るまで戦乱は続いた。
景初はそれから50年ほど後の話になる。
卑弥呼は二人いる。時系列的に戦乱を収めた卑弥呼と、亡くなったトヨの卑弥呼は別人
亡くなった卑弥呼にできないのが戦乱を50年前に収めるという行為

326:日本@名無史さん
22/07/16 09:56:02.55 .net
籠神社の鏡は、銅鐸祭祀だったヤマト出雲関係からすると物部色が強い品物であり、古くに神社に来たのかどうか分からない

327:日本@名無史さん
22/07/16 12:09:56.87 .net
>>324
でも実物があるのって籠神社だけだった気がする

328:日本@名無史さん
22/07/16 12:24:27.84 .net
アマテラスに関してはよく分からない。
奈良の古い神社のアマテル神社は全てが男神。
出雲の三輪山の太陽の女神に対して、物部は道教の関係から北極星(北斗七星?)=カガセオ
そして宇佐氏の豊国は隠された月の女神
物部のアマテルがいつ太陽を帯びたのか、実は不明なのである。
基本的にはアマテル信仰と三輪山の太陽の女神が集合して女神アマテラスになった
太陽の女神が伊勢に落ち着くまで元伊勢がいくつか出来ることになった。
三輪山には太陽の女神と、事代主が祀られていたが、女神が持ち出されたことにより、男神の山になった。
後に大物主と名を変えられた。
三輪山祭祀の中心だった太田氏本家は、現在では墨坂神社の社家になっている。
景初動乱の際には、三輪山西方の檜原神社にトヨが月神を祭り、太陽のオオヒルメムチに対してワカヒルメムチと呼ばれたそうである。
三輪山には太陽と月の信仰が同時に存在していた時期がある。
トヨは豊鋤入姫と名を変えられた

329:日本@名無史さん
22/07/17 00:25:19.18 .net
>>324
まあ100%妄想の村雲王(笑)よりはちゃんと根拠を示せるだけ>>1の方がだいぶマシだな

330:日本@名無史さん
22/07/17 00:30:15.21 .net
>>329
お前が一番役に立ってないだろw
そもそも村雲の話は籠神社の話だ
お前の願望など、塵芥に等しい

331:日本@名無史さん
NG NG BE:237216734-2BP(1000).net
URLリンク(img.5ch.net)
私も村雲さんと同じで饒速日と火明は同一人物だと思ってますよ
てかそれはもう常識でしょう
まず旧事に同一神だと書いてありますね?それだけじゃない
籠神社。神宝は火明から受け継いだ息津鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)。
そして饒速日が天照大神から渡された鏡の名前は、というと嬴都鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)。

また天日槍が持ってきた鏡の名前も...
奥津鏡・辺津鏡
つまり火明=ニギハヤヒ=ヒボコ
皇祖とされるニニギは多分百済回復戦争後頃に捏造した存在だから
ヒボコ=ニギハヤヒ=火明=ニニギ


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