藤原秀衡の死後も奥州藤原氏が生き残れた方法は?at HISTORY
藤原秀衡の死後も奥州藤原氏が生き残れた方法は? - 暇つぶし2ch1:日本@名無史さん
22/05/28 17:36:36.30 .net
とりあえず国衡ではなく泰衡に後を継がせたのは間違いだよな?
国衡の方が断然、武力も人望もあったようだし、
頼朝と戦をする覚悟もあったようだし、
国衡が持ってるものをことごとく持ってない上に弟にすぎない泰衡が「戦は嫌だ」とゴネた所で「嫌なら出てけ!」で済みそうでもあるし

2:日本@名無史さん
22/05/29 00:18:49.79 .net
どうも泰衡は源氏の東北へのこだわりを理解してないんだよなあ。
もしかして秀衡の代ですでに八幡太郎義家とのいざこざは伝わってなかったのかなあ。
まあ備えたとしても義経任せという不安定なこなえしかなさそうだが…

3:日本@名無史さん
22/05/29 05:40:07.43 .net
>>2
伝わってるんじゃないの? → 前九年の役・後三年の役
当時伝わってなければ、現代の我々に伝わらないだろw
というより、泰衡がやはり暗君だったのだろう。
そうとしか言いようがない。
あと、頼朝がそれだけ軽く見られてたんだろう。
泰衡は母親が京の出で、京に強いあこがれを持つとよく描かれる。
京を中心と見ると、頼朝はやはり東国の田舎侍に過ぎないという偏見を持っていたのだろう。

4:日本@名無史さん
22/05/29 06:51:19.73 .net
平家勢力が潰れた時点でほぼノーチャン
そういう意味では泰衡より秀衡の方が悪い
有能無能は別としてね

5:日本@名無史さん
22/05/29 13:15:22.42 .net
大河じゃもう先週義経の首が鎌倉届いてたな

6:日本@名無史さん
22/05/29 19:40:18 .net
国衡は弱すぎる

重忠ら坂東軍は、木曽勢や平家を撃破してきたばかりの歴戦の武者であった。実戦を知らない東北軍を攻めるなど、赤子の手を捻るようなものであったかもしれない。
それにしても、鎌倉勢の目に勇者の戦いとしてうつったのは金剛別当の子で僅か13歳の下須房太郎秀方の防戦だけであって、高楯黒と呼ばれる駿馬に乗った国衡でさえ、馳射の伝統はどこへやら、義盛に応射もせず逃げるのみであった。
最後はその名馬が柴田郡で深田に踏み込み動きが取れないということになるのである。豪勇という印象のある国衡さえこの有様であった。
(新野直吉秋田大学長、文学博士)

7:日本@名無史さん
22/05/30 13:46:23.89 .net
>>6
むしろ鎌倉の軍が強すぎ定期
戦力の足りなかった石橋山で敗れた後は大勢の変化する様な大きな負け無しで戦いきっとる

8:日本@名無史さん
22/05/30 19:47:58.04 .net
範頼軍の渋谷重国や下河辺行平たちに蹴散らされた九州勢は弱い
平和ボケした奥州勢はさらに弱い

9:日本@名無史さん
22/05/31 07:20:28 .net
別に誰が悪いわけでもない。
登場人物、みんなどこか足りなかった。
歴史の結果として見れば。

義経は人間としてアッパラパー、
泰衡はバカボン
頼朝は根暗のサイコパス

しかたないんよ

10:日本@名無史さん
22/05/31 08:38:40 .net
>>4
それだな。
平泉が生き残るには現状維持の平家政権。一番いいのは平家と源氏が揉め続けてること。源氏に力を貸した時点でおしまい。

11:日本@名無史さん
22/05/31 15:21:52 .net
>>6
でも、その後、
藤原の残党だった大河兼任と言う人は鎌倉方を結構手こずらせた感じだし、
この人はかなり頑張ったんだな

12:日本@名無史さん
22/05/31 17:14:23.75 .net
馬に乗ったままで弓の射合いとかあったのかなあ
どんな戦いをしてたのかちゃんと再現した映画とか無いもんかね

13:日本@名無史さん
22/05/31 17:21:02.89 .net
奥州藤原氏亡き後の東北はなんで下総勢ばかり所領もらえたのか


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