邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3at HISTORY
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3 - 暇つぶし2ch581:日本@名無史さん
23/01/27 23:42:50.40 sU+Zf6pOS
有珠モシリ遺跡では11人の合葬遺骨が出土しており、
上顎切歯の片側のみ抜歯がなされていますね。

つまり徐福系、軍神の母集団です。
彼らの全部あるいは一部は、幼少期に、英雄に抜歯された可能性も高いですね。

軍神の指示で北海道に逃げ込んで、拠点構築していた。

頭部外傷などありますので、戦闘の結果として亡くなっているわけですが、
追跡して来た銅戈軍に敗北した遺骨を、生き残った仲間や現地の人々が集めて埋葬した可能性と、
現地の人々と争いになって亡くなり、生き残った仲間が集めて埋葬した可能性と、
がありますね。

遺骨に刺さった黒曜石の石鏃の産地分析をすればわかりますね。
まあ前者の可能性が高いですが。

582:日本@名無史さん
23/01/27 23:44:59.18 sU+Zf6pOS
一方で、NSM男が逃げ込んだ西の伊邪國です。

縄文時代数千年に渡る伊邪國大首領である爾支が、北部九州の盟主に出世しているのが誇りですね。

養蚕を開始したのは伊邪國。
豊國と一緒に北部九州を統一したところ、
背振山系の真砂土花崗岩土壌が一大養蚕地域=甕棺墓高度経済成長地域になって、
伊邪國の養蚕は廃れてしまった。

爾支の外戚は豊國ワニががっちりキープして、面白くなかったわけですね。

爾支配下の東征将軍職に就いた奴国王が権勢を振るっていたのも微妙だったのですが、
奴国王が失脚したと思ったら、
伊邪國にとっては、豊國西部ワニよりさらに疎遠な、豊國東部カモ系のしかも奴族Aタカヒコが仕切り始めたわけですね。


微妙な話になりますが、

伊邪國古来の大首領である爾支が官扱いにされて、(ひのもと)
Aタカヒコが擁立した共立王である倭国王が誕生します。(ひむか)

583:日本@名無史さん
23/01/27 23:46:29.70 sU+Zf6pOS
巳百支國から祭祀型銅戈が出土しています。
新伊都倭国軍は一応西にも軍を派遣していたわけですね。

伊邪國捜索を担当させられた銅戈隊長は苛ついていたのですね。

今は東の大倭地域からの生口が熱い。
金印はそのまた東の軍神が持ってる。そのうち大規模戦役があるなら戦ってみたい。
北の投馬國も鉄やらなんやらホット。

なんで俺が西担当なんだよ。
島ばかりだし、何も無いし、未だに縄文集落とかマジかこいつら。

怖えぇ。

NSM男の伊邪分國は斉の徐福末裔でなんか弩とかいう最新兵器も持ってんだろ。
漕ぎ手が凄くて通常の3倍の速度で動き回って、遥か南の極南界すら超えて活動してるらしい。

遭遇したらどうしよう。
俺の舟の周りをしっかり船団で円陣組んで移動しなくちゃな。

とりあえずあの島を捜索して報告書を提出しよう。

584:日本@名無史さん
23/01/27 23:47:15.44 sU+Zf6pOS
銅戈隊長「おい、このムラの頭を出せ」

老巫女「なんか用かの?」

銅戈隊長「なんだこのババァは?」

老巫女「伊邪の地に何の用じゃ?」

銅戈隊長「お前らNSM男って知ってんだろ?案内してくれ。報酬ははずむぞ。」

老巫女「知らん。」

銅戈隊長「あ?知ってんだろ。案内しろよ。」

老巫女「知らん。出ていけ。」

村人たち「出ていけ!出ていけ!」

銅戈隊長「お前ら!!素直に協力しないとためにならんぞ!?」

老巫女「儂らの首領は爾支様だけじゃ。お主のような豊國奴國の輩ではない。出ていけ。」

銅戈隊長「こ、こんの、クソババア!!!」

585:日本@名無史さん
23/01/27 23:49:59.52 sU+Zf6pOS
伊邪國平戸島、根獅子遺跡の縄文集落。

上顎両犬歯抜歯の縄文女シャーマンに邪険に扱われた銅戈隊長は、
ついカッとなってやってしまったのですね。

これもまた金印のとばっちりではありますが、
NSM男としては、
銅戈軍が来たら逃げろというアナウンスはしていたでしょうが、
金印のことは言えませんから、

伊邪國の縄文集落としては、まさか銅戈軍がそこまで本気だとは思ってもいなかったのですね。

伊邪國にとっては、縄文時代数千年を経て、
史上初めての軍事侵攻を受けたことになり、
銅戈軍の蛮行が瞬く間に伊邪國全土に広まって、反・新伊都、爾支復活待望、になってしまったのでしょうね。

586:日本@名無史さん
23/01/28 19:33:21.03 1V32gJg9k
南方浦山古墳 (北九州市小倉南区) 未盗掘
 円墳、箱式石棺
 40代男性
 庄内式土器、二重口縁壺
 蛇行剣(345mm)
 キ龍紋鏡(45mm)  ※平原遺跡1号女王墓165mm
 鉄剣、鉄斧、槍鉋、刀子

587:日本@名無史さん
23/01/28 19:34:43.93 1V32gJg9k
巨大な蛇行剣が見つかったようですが、
最大例はいいですが、
最古例は南方浦山古墳ではないでしょうかね?

妙ですね。
まだ公表されていないデータでもあるのでしょうかね?


南方浦山古墳を伊都説で解析すると、
キ龍紋鏡が出土しているので、女系市杵島姫命もしくは男系アジスキタカヒコネの一族。

前者は新伊都2代目の外戚がワニ(アズミ)系になった時に一旦失脚して、
琵琶湖沿岸へ移動し、
卑弥呼の母の代に北部九州倭国へ戻って来たので、
平原1号は方形周溝墓。

と、いうことは、
南方浦山古墳の円墳は、男系アジスキタカヒコネ系の可能性が高くなりますね。

588:日本@名無史さん
23/01/28 19:36:21.34 1V32gJg9k
記紀に記されているように、
崇神天皇の御代に疫病が流行しますね。

崇神天皇は、宮中で祭っていた天照大神と倭大国魂神を外に出すことにして、
天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑へ、
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬へ。
その結果、渟名城入媛命は病気になりますね。

さらに亀卜を行ったところ、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑いて、
伊香色雄に八十平瓮作祭神之物を準備させて、
大田田根子(大物主神子孫)に大物主神を、
市磯長尾市(椎根津彦子孫)に倭大国魂神を、
それぞれ祭らせると、漸く疫病が終息します。

崇神五年に疫病が流行り始めて、七年十一月に終息ですから、
約3年間の流行があったわけですね。


一方で、三国志において、
青龍二年(234年) 夏四月大疫
青龍三年(235年) 春正月京都大疫
の記録があり、
司馬懿の大軍が遼東まで移動してきて、難升米達が接触しています。
さらに難升米達は洛陽まで訪問して、貢物を貰って帰ってきます。
青龍三年銘の方格規矩四神鏡も日本で出土していますね。

589:日本@名無史さん
23/01/28 19:37:36.30 1V32gJg9k
大きな流れは前スレで検討した通りで、
現代の我々は、新型コロナが流行したら、原因ウイルスを突き止めようとしますが、
弥生時代だと、疫病が流行したら、原因となる祟りを突き止めようとしたわけですね。

<診断>
非常に科学的な対処をしており、
まず、原因となる祟りを突き止めにかかります。

親魏倭王の金印を貰った直後に疫病が流行している。
一方で、難升米が公開した漢委奴國王の金印も58年に疫病をもたらした既往がある。
この2つのうちどちらかが原因であることは(当時の人にとっては)明らかで、
2つのうちどちらが原因であるかを突き止めたかったのですね。

台与を責任者として、伊都國関係者を隔離。
渟名城を責任者として、奴國関係者を隔離。

で、後者が病気になったので、明らかに漢委奴國王の金印が原因。

<治療>
漢委奴國王の金印への対処として、
ワニ彦国葺に命じて不彌國の志賀島に封印させたのと、
奴国王の子孫二人に祭らせた。

590:日本@名無史さん
23/01/28 19:40:24.91 1V32gJg9k
要するに、蛇行剣とは、
疫病=蛇紐金印の祟り、に対しての、ワクチンや治療薬ですね。

第10代と同盟して以来、有力勢力となった狗奴国系の貞人(Aタカヒコ系)が、
日頃から疫病退散の祭祀を行いながら、

<ワクチン>
定期的に卜占して、疫病を予防するために最適な、氏族あるいは人物(主に奴族)をピックアップして、
蛇行剣や領地恩賞を与える。

<治療薬>
疫病が流行したら、同じく卜占して、
祟りの原因を鎮めるのに最適な者(主に奴族の)をピックアップして、
蛇行剣や領地恩賞を与える。

病原ウイルスなどの知識もない時代ですから、
蛇行剣祭祀は立派なワクチンや治療薬だったわけですね。

特に治療については、
疫病が流行し始める
→蛇行剣の製作に入る
→皆が一心不乱に蛇行剣の完成を祈る
→蛇行剣が完成して対象者に授与する
(→その頃には自然免疫が獲得されて疫病が終息する)
→蛇行剣の治療効果に皆が感謝する

と、いうことだったのでしょうね。

591:日本@名無史さん
23/01/28 19:43:02.09 1V32gJg9k
そう考えると、南方浦山古墳は、大田田根子か市磯長尾市が候補になりますね。

後者は亀さんの子孫ですから卜占が絡んでおり、
T姫からのAタカヒコ系統の可能性が高くなります。
キ龍紋鏡を重視するならこちらですね。
まだ確定はできませんが。


蛇行剣祭祀にすがったご先祖様たちの気持ちは、
新型コロナの脅威に晒されている現代の我々にはよくわかりますね。

長大な蛇行剣を作ったということは、
当時大規模な疫病の流行があって、それを鎮めるために必死で作ったのでしょうし、

新型コロナに怯えてワクチンを何度も打つ我々に、
ご先祖様たちが安心するようにと、蛇行剣を差し伸べて光明を見せてくれているのかもしれませんね。
5月から引き下げられるそうですし。
崇神天皇に感謝ですね。

592:日本@名無史さん
23/02/01 01:14:48.36 TAQl7w55Y
いや、現代感覚で見つけて浮かれてる場合じゃないのかもしれませんね。

当時の国家最高権威の数名が同じ啓示を受けて実行した封印が、
75%から100%開封されてしまった。
特に今回の物が最大ですから。

原子力とか大丈夫でしょうか。
安倍晴明がこの世に生きていれば適切な対処法を示してくれたのでしょうけれども。

593:日本@名無史さん
22/12/06 09:49:18.83 .net
>>341
わかるけど、それだと邪馬台国が少なくとも畿内から中国地方、北部九州まで支配している事になるような気がするけど可能なのか?
250年前後の事はよくわからないけど日本は統一されているとは思わないので中国地方、四国、九州のいずれかは敵対勢力だと思う。たくさんの宝物を乗せた使節の船は畿内に着く前に海賊やら盗賊、敵対勢力に奪われたり攻撃されたりして無事に畿内に辿り着くとは思えない。
魏志倭人伝を読む限り少なくとも対馬と壱岐と末盧国と伊都国民は邪馬台国とは友好な関係か従属国である。そうなると畿内から北部九州までは邪馬台国の勢力圏でないと安全な渡航が出来ない。
豊臣秀吉でも全国統一にかなり苦心したのに、それより文明が遥かに劣った250年前後に畿内から北部九州までが統一国家とは思えない。
しかし、九州説に矛盾があるのも事実。畿内説にも矛盾があるのも事実。

594:日本@名無史さん
22/12/06 18:42:13.75 .net
>>593
矛盾がないのは、「阿波」だけ。   @阿波

595:日本@名無史さん
23/01/04 06:36:10.82 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
URLリンク(www.yoshinogari.jp)
伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

596:日本@名無史さん
23/01/05 23:02:57.11 .net
>>595
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
URLリンク(www.kanripo.org)
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
URLリンク(wenku.baidu.com)
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

597:日本@名無史さん
23/01/05 23:03:05.56 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

598:日本@名無史さん
23/03/14 23:22:36.83 .net
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

・文部科学省検定済教科書
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

599:日本@名無史さん
23/03/17 00:00:03.15 .net
>>598
そういう非科学的な願望を並べることしかできないから畿内説は敗れ去ったんだよ

600:日本@名無史さん
23/03/18 14:02:04.01 .net
>>598
大和盆地南東部に七万戸もあったのか!
驚き桃の木山椒の木

601:日本@名無史さん
23/03/19 07:05:32.21 .net
>>599
論文書こうね


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