邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3at HISTORY
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3 - 暇つぶし2ch2:卑弥呼は伊都國で治す
22/04/30 08:13:54.58 .net
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣甯如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣甯(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵~公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

3:卑弥呼は伊都國で治す
22/04/30 08:14:17.56 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。
「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。
☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。
☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。
☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督~前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

4:卑弥呼は伊都國で治す
22/04/30 08:16:05.72 .net
以上テンプレです。
ゴールデンウイークにて特別復活しました。
類似スレは現在ありません。
文献あるいは考古学的根拠をもとに、正々堂々と議論してください。

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
スレリンク(history板)
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
スレリンク(history板)

5:日本@名無史さん
22/04/30 08:23:29.82 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。
「A統属B」は全て、
一)"元々別所属"のAとBが、
二)新たな所属変化に伴う"人事異動"によって、
三)AがBの「直接の部下」になる、の意味。
☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。
☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。
☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督~前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

6:贅六征伐
22/04/30 08:25:09.16 .net
>>1
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贅六シナチョンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
贅六死ねバーカ

7:日本@名無史さん
22/04/30 08:34:26.50 .net
後漢書において、
「河內郡十八城 戶十五萬九千七百七十 口八十萬一千五百五十八
 朝歌 紂所都」
河內郡は十五萬戸で~
(河內郡の)朝歌は(周の)紂王が都とする所である。
「京兆尹十城 戶五萬三千二百九十九,口二十八萬五千五百七十四
 長安 高帝所都」
京兆郡は五万戸で~
長安は(漢の高祖)劉邦が都とする所である。
「潁川郡十七城戶二十六萬三千四百四十 口百四十三萬六千五百一十三
 陽翟 禹所都」
潁川郡は二十六萬戸で~
(潁川郡の郡治である)陽翟は(夏の)禹帝が都とした所である。
自治体名+都市名+皇帝・王+所都は、
自治体の中で、都市は、皇帝や王が首都とした所である、という意味だな。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は、
前の邪馬壹國は、南至邪馬壹國の目的語として活用されているから、
文法としては一度切れる。
南至邪馬壹國 (伊都國)女王之所都 水行十日陸行一月(日)
として、投馬國から南に進むと邪馬壹國に至る。
里程部分において、邪馬壹國の首都は伊都國であると「到」で明記されているから、
邪馬壹國の中で、女王の都とする所(である伊都國)は、投馬國から水行十日陸行一月である、だな。
邪馬壹國は七萬戸で~
(邪馬壹國の首都である)伊都國は女王卑弥呼が都とした所である。

8:日本@名無史さん
22/04/30 08:36:13.38 .net
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰 
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接 
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。

<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」

9:日本@名無史さん
22/04/30 08:45:36.84 .net
金印ってのは外交文書の木簡巻物に封泥する時に使うもの。
北部九州からは硯も出土してるんだから、
倭人は文字を使っていた。
倭人が文字を使っていなかったなら、その旨を倭人伝に記録されていただろう。
里数を知らないとかは書いてあるからね。
魏皇帝の詔書にも卑彌呼と書いてあるから、卑彌呼は正式名称。
卑彌呼自身がそう名乗ったことは確実。
また祖神である伊邪那岐伊邪那美にも邪の字が使われているのだから、
これも蔑称や卑下して充てているのではなく、「ザ」という字に当てて使っていただけのこと。
あと、魏皇帝の詔書には倭王しか出てこないから、
卑彌呼の国の正式名称は倭國であり、
邪馬壹國というのは別の概念あるいは倭国の訓読みへの当て字ということもわかる。

10:日本@名無史さん
22/04/30 08:46:57.04 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
スレリンク(history板)

11:日本@名無史さん
22/04/30 09:30:44.94 .net
奈良時代までの女性天皇は6人8代だが、うち4人が結婚してるし子も産んでいる。
あるいは神功皇后。
豊国女王とも考えられる、宗像三女神の少なくとも二柱や、豊玉姫。
八咫鏡を保有していた神夏磯媛も、夏羽と田油津姫兄妹がその子孫と伝わる。
つまり、古代において女帝だからといって、結婚も出産もしていたわけであるから、
卑弥呼の無夫壻というのは特殊な状況であり、
卑弥呼は何らかの理由で、
「女王にはなれるけれども、結婚はできない状況」にあった、可能性が出てくる。
「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
王位継承で重要なのは前例、慣例であるから、
壹與を十三歳で王となしたということは、
卑弥呼もまたそれくらいの年齢で王となったという前例があった可能性が高くなる。
卑弥呼は13歳くらいで、まず奴國不彌國の地方女王となった。
女王國=奴國不彌國の運営がうまくいっていたので婚期がやや遅れた。
結婚しないまま女王業務に邁進していたら、20歳前後でHAMを発症した。
スレリンク(history板:709番)-710
女王業務は既に成果を上げていたので、そのまま周囲も認めてくれた。
古代女王としては結婚はしないこととなった。
ますます仕事に邁進して業績をあげて、倭国女王に共立されることとなった。
これならば「自爲王以來、少有見者」の説明もつく。

12:日本@名無史さん
22/04/30 11:17:13.11 .net
13歳で女王=初潮が来たら大人

13:日本@名無史さん
22/04/30 13:48:38.37 .net
日ユ同祖論は一見荒唐無稽に見えますが、完全にありえない話かというと、そうでもないですね。
一つは、オルドス式銅剣。触角式柄頭飾・双環柄頭の特殊な銅剣ですね。
現在のウクライナにいたスキタイが用いていたものですから、
まさに現在と同じように、戦乱などで追われた一群が東アジアへ落ちのびてきた可能性がありますね。
高島市上御殿遺跡からは鋳型も出土していますから、ただ交易で入手されたのではなく、実際に日本列島へ移住してきた人達もいたことになります。
ただしこの鋳型はやや稚拙なので、移住二世か三世のものでしょう。
弥生時代の文明度からは、末蘆國王=柏崎遺跡(伊都説だと笠沙の岬)の元で、
お抱え渡来系工人として召し抱えられていたものと思われます。
同じ高島市の熊野本遺跡で私立の鉄工房を与えられて運営していたのでしょう。
もう一つは、奴国王の居館があった可能性が高い雀居遺跡。
沿海州に特徴的な家畜飼育跡が見つかっており、これも渡来系だった可能性が高いですね。
四隅突出墳丘墓その他、石積み部族であり、夫餘高句麗なども同祖でしょう。
沿海州在地の集団だったのか、
それともオルドス式銅剣と同じように、はるか西方から沿海州にやってきた集団の一部が、日本にやってきたのか、
はわかりませんが、
後者であれば、ユ系である可能性を探るならこの集団が最も可能性が高いかと思われます。
大元の吉武高木大王も、国家形成の最初期から、
遠方の丹後半島に扇谷遺跡など鉄工房を建設して、遠方の木材を消費し、
北部九州倭国の森林を保全するという、
鉄工房を長期にわたって運営した経験のある国家建設を行っていますから、
鉄器を使用した集団が渡来して、大王となったか、
あるいはそのような渡来人が重用されていたか。
ということになりますね。

14:日本@名無史さん
22/04/30 13:55:49.17 .net
>>11
卑弥呼の女系はHTLV-1保有の九州縄文系でしょうね。
対馬海峡渡海で漂流すると、沖ノ島で漁をしていた古代豊国人に救助される確率が高いですから、
命の恩人として手厚くお礼をすることになる。
HTLV-1保有者は九州の中では僻地へと押しやられる傾向がありますが、
豊国縄文人だけは命の恩人として厚遇され、
政治的にも生き残ることができたのでしょうね。
ただし宗像の田熊石畑遺跡は、将軍が代々派遣されていた多重環濠遺跡ですから、
吉武高木大王配下の将軍が常駐して、
日本海沿岸を支配する拠点として機能しつつ、
豊国を監視もしていたわけですね。
在日米軍基地のようなものですね。

15:九州王
22/04/30 15:14:55.80 .net
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(日)」この意味は「南へ邪馬壹國に至る。女王の都する所(まで)は水行十日陸行一月(日)である。」
「女王所都」ではなく「女王之所都」と之が入っているので文章ではなく名詞句となっている「女王の都する所は」だな。
邪馬壹國の中の女王の首都までが行十日陸行一月(日)

16:日本@名無史さん
22/04/30 16:16:52.51 .net
>>7
>>15
なるほど。後漢書のは之が入ってないから、直前の長安や朝歌にかかり、
倭人伝のは之が入ってるから、邪馬壹國にはかからず、邪馬壹國の中の女王が都とする所、となるわけですな。

17:日本@名無史さん
22/04/30 18:18:15.25 .net
対馬海峡~末蘆國~伊都國(糸島平野+早良平野)は、
紀元前から倭人勢力が開発していたので、住みよい場所は既に倭人が暮らしていた。
ですから、渡来人は、まだ未開発の低湿地だった奴国(伊都説だと葦原那珂津国)や、
あるいは伊都國でも河川下流の海沿いの地域に集落を作ったわけですね。
渡来系のうち、
奴族は、前一世紀頃に渡来してきて、
青銅器作成技術によって商売繁盛して勢力拡大したわけですね。
大型の祭祀型銅剣や、銅鐸などは、彼らが受注製作したのでしょう。
財を蓄えた奴族が輩出したのが奴国王。0年頃生まれですね。
倭人ではありませんが、日本人ではある、ということになります。
中広型銅矛を製作して領地拡大し、金印を受領するに至ります。
ただ銅鏡に関しては、小形仿製鏡が彼らの作成したものと思われますので、
技術的には今一つですね。
鏡面加工や、裏面装飾などはさらに高度な技術が必要だったのでしょうか。
平原遺跡の方格規矩鏡は、
董卓によって壊滅した後に数十年ぶりに復興した洛陽にて、
一度技術継承が断たれた後に復興した、未熟な魏洛陽鏡師が作った舶載鏡であり、銅鏡百枚の一部ですね。
よって、小形仿製鏡の次世代の仿製鏡が、超大型内行花文鏡となって、
これを作成したのが、オルドス式銅剣の渡来工人だった、ということになりますね。

18:日本@名無史さん
22/04/30 18:54:34.00 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数
<弥生時代早期>
福岡1
高知5
<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5
<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1
<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

19:日本@名無史さん
22/04/30 18:54:47.85 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合
<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
 福岡904出土中36 3.98% 
 佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
 大阪 87出土中12 13.79%
 奈良 4出土中2 50.00%
 兵庫 4出土中1 25.00%
<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
 福岡 166出土中5 3.01%
 佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0
弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。
北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。

20:日本@名無史さん
22/04/30 19:07:08.99 .net
中広型銅矛の奴国王が失脚した後の倭国を席巻したのが、
カモ系銅戈勢力ですね。
銅戈は奴国領域を占領、ならびに伊都国でも製作され、領土拡大へと出兵していきます。
長野県に逃げ込んだ、奴国王水軍大将「軍神」の攻略と、大阪湾上陸など畿内毛人の攻略、とについてです。
長野県の柳沢遺跡から銅戈と銅鐸の一括埋納遺構が出土しています。
・柳沢遺跡の銅戈は樋分離式(近畿式)で、初期のもの
・柳沢遺跡より奥の関東には祭祀型銅戈型の石戈が出土
・東日本にS字甕や多孔銅鏃が一定期間分布
・近畿式銅鐸と東海式銅鐸が一定期間愛知で睨み合い
つまり、
軍神が金印を持っていると考え、銅戈軍は征伐軍を派遣したものの、
軍神はより奥地へと銅戈軍を引きずり込んで、
関東奥地で壊滅させたわけですね。
銅戈が柳沢遺跡止まりで、関東まで分布していないので、
銅戈軍が継続的に派遣されて、柳沢遺跡からさらに周囲へと占領拡大したのではなく、
柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍が、さらに奥地へと深入りさせられて、全滅したことになります。
軍神はおそらく、主要根拠地の諏訪ではなく、柳沢遺跡の方に陣を張っておびき寄せ、
わざと敗走して占領させた。
合戦で射るのもわざと、鉄鏃銅鏃2:石鏃8、くらいの割合にして、
物資不足を強調してみせる。
銅戈軍は金印奪取が主目的なので、弱小軍神軍を関東へと追撃します。
スレリンク(history板:413番)
所々で分岐して、銅戈軍を分裂させてからの、
関東奥深くで反転攻勢して補給路や逃走路を絶ってからの、各個撃破、したのでしょうね。
全滅でしょう。

21:日本@名無史さん
22/04/30 19:21:20.24 .net
諏訪派遣軍が全滅したことで、
銅戈軍は諏訪攻略をあきらめて、
畿内攻略、大阪湾上陸作戦にシフトしたわけですね。
次々に大阪湾上陸し、大阪湾に高地性集落を建設していきます。
銅戈軍が畿内制圧した結果が、107年の生口160人。
そのまま進軍して、名古屋の朝日遺跡まで進軍したところで、
軍神領域の西境界線に接触して、
お互いに銅鐸=Jアラートを配備して、にらみ合いが始まったわけですね。
軍神と、倭国銅戈勢力の実力者にのし上がった田村遺跡系大物主とは、腹違いの兄弟ですから、ほぼ同世代。
軍神が亡くなり、軍神領域が劣勢になった。
その少し後に、田村遺跡系大物主も倭国王と対立する羽目になり、失脚した。
平型銅矛の時代になったわけですが、平型銅矛は北方重視ですから、
まあ軍神領域はそれなりに生き永らえて、倭国乱時代へと突入していったわけですね。

22:日本@名無史さん
22/04/30 19:22:05.57 .net
倭奴国が伊都国であるって説は、日本語の漢字読みからの連想に過ぎず、古代中国語発音を全く無視していて成り立たない奇説。
古代中国語発音(Middle Chinese他)
倭:ワまたはヲ
URLリンク(en.wiktionary.org)
奴:ナまたはヌ
URLリンク(en.wiktionary.org)
伊:イ
URLリンク(en.wiktionary.org)
都:トゥォまたはトゥ、ト
URLリンク(en.wiktionary.org)
つまり倭奴はワナ、ヲヌと発音され、
伊都はイトゥォ、イト。全く違う発音になる。
奴をトまたはドと発音するのは漢字文化圏の国で日本だけ。奴婢のヌと言う発音だけが他国でも一般的な漢字音。

23:日本@名無史さん
22/04/30 19:44:57.39 .net
>>22
その通りですね。
奴 ナ
倭 ワ(漢読み) やまと(倭読み)
伊都 いつ(倭読み)
後漢書
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
金印を授与した以上、後漢にとっては特別な外交関係を結んだ国家、ということですから、
倭國王が金印授与者の後継者であれば、「願請見」というのは不要で、
金印封泥の文書を持って来訪してきたなら無条件に謁見可能のはずです。
倭の奴國が朝貢してきた
漢委奴國王 漢は奴国王に(倭地を)委ねる
親魏倭王 魏と親しい倭国の王
考古学的に、伊都(いつ)は吉武高木大王→三雲井原大王→平原女王卑弥呼、
と倭国王権は連続している。
それに対抗したのが、渡来系の奴国王であり、倭国王=伊都国王系になれないからこそ、
漢の権威を頼って、金印を取得したわけですね。
伊都説だと、奴国=葦原那珂津国、奴国王=大国主に比定されうるのですから、
国際的な歴史書である記紀において、金印奴国王の権利は、
正式に奴国王から倭国系の王へと「完全譲渡済み」、ということになります。

24:日本@名無史さん
22/05/01 04:29:27.82 .net
高知でも硯が見つかったね。(古津賀遺跡、伏原遺跡、祈年遺跡)
北部九州のと同系統らしい。

25:日本@名無史さん
22/05/01 07:07:23.94 .net
>>24
高地各地に面状に硯が普及していたのは驚きですね。
鐘崎式土器が出土した田村遺跡群にもありそうですね。
HTLV-1も移動していることから、北部九州から縄文系女性を伴って移住している。
つまり軍=男性のみが侵略したのではなく、カモ系の一群が女性と共に移住・開拓したわけですね。
同系統の場所で考えるなら、和歌山や滋賀なども硯が見つかる候補。
淡路島も候補。
銅鐸やアジスキタカヒコネ繋がりだと、岐阜も候補にあがってきますね。
スレリンク(history板:720番)-723
北部九州説からは、日本海沿岸に倭種。
瀬戸内沿岸に侏儒國。
高地は裸國で、ここに硯が沢山見つかった。
豊國領域からも硯が見つかり始めていますから、豊國でも文字を使っていた。
その開拓最前線が、各地の銅鐸+環濠集落。
硯が出土した筑前町の旧三輪町が、北部九州説における大倭本部であり、
中広型銅矛奴国王失脚後の、
銅戈時代に大倭~裸国田村遺跡を本拠とし、ニニギ~ウミサチに仕えたのが、
アジスキタカヒコネだったという考察になってきます。

26:日本@名無史さん
22/05/01 07:27:36.70 .net
土佐の硯達が、紀元前から分布していたのなら、豊國勢力の開拓に伴う自然拡散でいいのですが、
紀元後に広まっているとしたら、
中広型銅矛奴国王によるものの可能性が出てきますね。
雀居遺跡の墓地からは縄文系女性の遺骨が複数出土しており、
奴国王は各地の指導的女性を集めて後宮を作っていた可能性があります。
案があって、長文の木簡外交文書を作成していたわけですので、
雀居遺跡で産まれた子は文字教育を受けてから、母の里へと巣立ち、
母系の故郷で指導的立場について文字を普及させた。
卑奴母離の語源は、雀居遺跡に居る母と離れて、母系故郷へ派遣された支配官、
とも読めます。
また、卑狗、卑奴母離、卑彌呼、卑彌弓呼、などの頭についていることから、
卑は我々の感じる卑語ではなく、
倭人自身が支配者の意味を含めて使っていた文字のようですね。

27:日本@名無史さん
22/05/01 09:10:22 .net
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、
一方、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、大河「四国三郎吉野川」を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。   @阿波

28:日本@名無史さん
22/05/01 10:00:50 .net
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが?

URLリンク(yamadajiro15.wp.xdomain.jp)

29:日本@名無史さん
22/05/01 11:14:50 .net
魏の発音が現在の北京語って言ってる時点で素人丸出し。

現代で言えば、客家語や広東語の方がよほど中古音の特徴を色濃く残してる。北京地域の発音は、次から次へと遊牧民に蹂躙されて、宋の時代には漢人国家は南宋だけ、北は遊牧民国家、元の時代もモンゴル人と言う有様で、過去と全く異なる発音に変わってる。
URLリンク(youtu.be)

30:日本@名無史さん
22/05/01 11:22:42 .net
29のリンクを見ればわかるが、中古音の中国語は、現代中国語よりも日本語の漢字音に近い。

1、2、3、4は、現代では

イー、アル、サン、スー だが

中古音では

イットゥ、ニー、サン、スー、ンゴォ、ルック、ツィ、パッ、クゥ、ジュッ。


URLリンク(i.imgur.com)

31:日本@名無史さん
22/05/01 15:02:06 .net
東夷伝里(短里)みたく、古いものは辺縁に残るって意味かな?

日本語の語源にまで言及してるの?

32:日本@名無史さん
22/05/01 15:33:03.50 .net
誰に対する返信かわからないけど、日本語の漢字音なら中国南北朝時代の中古音から唐の時代にかけて音を輸入したもの。
いち、にー、さん、は音読みでしょ。
日本古来の数え方は、ひとつ、ふたつ、みっつ。
最初は南朝、呉越地域から輸入されたとして、その後遣唐使に行った人たちは、おめえらの発音は訛ってる呉音だと長安人に言われて、唐の時代にまたその時の音を輸入した。
その時の漢字音と、中国南部の漢人支配が比較的途切れることなく続いた地域の発音は極めて近い。

URLリンク(i.imgur.com)

33:日本@名無史さん
22/05/01 15:36:38.05 .net
百済に漢字をもたらした中国人の博士高興。
百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。元から半島に偉大な文明があったりした訳ではない。
URLリンク(ja.wikipedia.org)(%e7%99%be%e6%b8%88)

34:日本@名無史さん
22/05/01 15:36:52.73 .net
新羅も百済同様に当初は文字を持たない国であった。新羅が仏教をはじめとして中国文化を受け入れるのは4世紀末に漢字を輸入した百済よりもかなり後になる。
「斯羅國、本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅、宋時曰斯羅、其實一也。或屬韓或屬倭、國王不能自通使聘。普通二年、其王名募秦、始使隨百濟奉表献方物。其國有城、號曰健年。其俗與高麗相類。無文字、刻木為範、言語待百濟而後通焉」(『諸番職貢圖巻』)
"新羅 "という国は、もともと朝鮮半島の東にある小さな国で辰韓と呼ばれていた。魏の時代には新羅と呼ばれ、宋の時代には斯羅と呼ばれたが、実は同じ国である。ある時は韓に属し、ある時は倭に属したので国王は使節を送ることができなかった。普通2年、新羅王募秦が百済と共に来訪し、朝廷に贈り物を献上した。その王国には健年という都市があった。その風習は高麗と似ている。
『文字を持たず、木を彫って手本とし、言葉は百済を通して意思疎通ができた。』(『諸番職貢圖巻』)

35:日本@名無史さん
22/05/01 17:09:38 .net
>>33
>百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。

ここは記録にある。


>伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。

これはどこに記録されてる?

36:日本@名無史さん
22/05/01 17:28:16.69 .net
古事記だとか日本書紀に書かれてるけど、百済のどの王の時代の話かは議論が分かれる模様。
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)

37:日本@名無史さん
22/05/01 17:28:59.44 .net
百済や新羅の遺跡から硯は見つかってるのかな?
倭のほうは硯が見つかってるし金印も見つかってるし
先に文字を使っていたのは確定的だろうけど。

38:日本@名無史さん
22/05/01 17:31:19.41 .net
男子爲王住七八十年=日向三代とするのなら、
自動的に、
倭国乱の開始=神武東征になる。
倭人伝だと「倭國亂 相攻伐歷年」、後漢書だと「桓靈閒倭國大亂 更相攻伐 歷年無主」で倭国王が不在となってる。
あと不思議なのは、第二代の綏靖はなんで欠史扱いなのだろう。
普通に事績が記録されているのだが。

39:日本@名無史さん
22/05/01 17:32:51.55 .net
>>37
>倭のほうは硯が見つかってるし
せいぜい、砥石。  碌な弥生集落遺跡の無いところに、硯など出る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

40:日本@名無史さん
22/05/01 17:36:53.24 .net
>>36
漢字を伝えたとかどこにも書いてないじゃないか。
まーた捏造かいな。
とっくに文字を使っていた倭に、
中国の書物並びに、初めて文字を使って書いた書物を添えて献上した、だけだろう。

41:日本@名無史さん
22/05/01 17:46:25.40 .net
>>40
勘違いしてるみたいだけど、それを例示したのは、半島が”百済の王仁が文字のない倭国に文化を与えた” とか言うねつ造を教科書にまで書いて全国民に広めてるのを知ったから、その反証として百済はそもそも文字がなかったと書いただけ。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
ただ、金印があったり硯が見つかるのは事実とは言え、稲荷山古墳の銅剣みたいに、漢字が書かれた遺物が見つかるのは5世紀に入ってからで、国家として大々的に文字が使われたと言うのはちょっと疑わしいだろう。もちろんそれは半島も同じ。
半島は、文字が書かれた遺物さえ百済や新羅の地域では6世紀頃まで出土せず、残ってるのは5世紀の高句麗好太王碑の例の倭国が百済と新羅を臣従させたってやつくらい。

42:日本@名無史さん
22/05/01 17:48:06.97 .net
ま、言えることは漢字についても半島のねつ造が酷いってことだよ。

43:日本@名無史さん
22/05/01 17:55:07.16 .net
>>41
ならいい。
しかし土佐でも硯が見つかったとなると、
北部九州倭国から山陰は紀元前から文字があった可能性があって、
土佐にも弥生時代からその可能性が出てくるわけだろう。
北部九州倭国には、硯、金印、あと楽浪人も暮らしていたから漢字の先生がいつもいたわけだからね。
硯の分布を見れば、どう見ても国家として文字を使っていたのだろう。
そうなると逆に、
楽浪郡と倭國に挟まれた、百済新羅の地域に文字が普及するのが遅かった、というのが逆に謎になる。
大王がいるかいないかが大きいのかな。

44:日本@名無史さん
22/05/01 18:09:55 .net
木簡が出ればいいんだけどね。
中国からは紀元前の木簡が出るんだから、日本でも木簡を使っていたなら出そうなものだ。
稲荷山などの鉄剣の銘文には、オオヒコ(意富比垝)が記されているから、まあその頃から漢字で名前を記録していた可能性はあるが、可能性に過ぎないね。

45:日本@名無史さん
22/05/01 18:33:50.47 .net
そういや昔畿内説と伊都説が言い合ってるときに、
平原遺跡の大量の銅鏡には意味のある銘文が書かれている
・平原遺跡の銅鏡が仿製鏡
 →平原女王は文字を使っていたのだから、魏と外交して金印を貰った卑弥呼だ
・平原遺跡の銅鏡が舶載鏡
 →平原遺跡の銅鏡が銅鏡百枚の一部だ
どっちか選べ!
というのがあって、うまい事言うと思ったなw

46:日本@名無史さん
22/05/01 18:46:14.01 .net
>>35
日本書記に応神天皇16年に百済の王仁が来て、太子は王仁を師として諸の典籍を習ったとあるが
応神天皇16年が何時か分からんし、応神天皇の実在も怪しい
8世紀に適当な事を誰かが書いたみたいだね。

47:日本@名無史さん
22/05/01 19:06:01 .net
>>45
何が書いてあるの?調べであんまり見つからなかったんで気になる。

48:日本@名無史さん
22/05/01 19:34:52.92 .net
>>47
内行花文鏡が、「大冝子孫」「長冝子孫」。舶載鏡だね。
方格規矩四神鏡が、
「尚方作竟」「尚方佳竟」「陶氏作竟」
+「眞大巧上有仙人不知老渴飲王泉飢食棗浮遊天下敖四海壽敞金石為國保」
尚方作竟とかは舶載鏡だと思うけど。
超大型内行花文鏡5枚は仿製鏡。

49:日本@名無史さん
22/05/01 20:21:53.58 .net
>>45
自分は伊都説だが、この選択肢は逆に、大量の方格規矩鏡が銅鏡百枚の一部だとすると、
仿製鏡はほぼ超大型内行花文鏡のみとなり、超大型に銘文は無い。
(銅鏡百枚を溶かして超大型を作り、方格規矩鏡はその残りとも言われている)
ということは、倭王にとって吉祥文はあまり意味が無かった、漢字情報をあまり重視してなかった、ということになるね。

50:日本@名無史さん
22/05/01 20:25:43.64 .net
定型文みたいなやつだと、中国の鏡のそのままコピーの可能性もあるって言われるだろうし、鉄剣の象嵌みたいに絶対日本で書かれた文章ってわかる木簡でも見つかって欲しいよね。
それにまだ発掘してない古墳なんてごまんとある訳で、調査したら色々見つかりそう。筑紫の磐井の古墳とか。あんな巨大なのに過去調査してないんでしょ。

51:日本@名無史さん
22/05/01 21:24:11.97 .net
倭人伝に「収租賦」とあるから、硯が出土している以上、租賦を文字で記録していた可能性は非常に高いんだよね。
400年前後と言われる崇神も戸数調査をして課役したと紀に書かれてるし。
日本での木簡出土は今のところ7世紀末くらいからだけど、戸籍や租税に関する調査票みたいなのが主で、
文書・手紙の類が少ない。
一つの可能性としては、「種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜」
絹が特産品だったんだから、
贅沢なことに、絹を紙の代わりに使っていた、
いわゆる「帛書(はくしょ)」の可能性があるね。
金印を使う国家間の外交文書は、案の上で木簡文書を作成して、封泥していたけど、
国内での手紙のやり取りは美しい帛書で行っていたのではないか。
正始四年の伊聲耆掖邪狗らが献上したのが、
「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木𤝔短弓、矢」とあり、
綿の衣服の次に、絹布や絹衣や帛衣でなく、帛布だから、
これは絹の帛書だった可能性があるね。
帛書は中国でも使われていたから喜ばれただろう。
文書が帛書に書かれていたのなら、まずまず残っている可能性は無いだろうね。
ただそれでも、戸籍や租税の記録は木簡だったろうから、そちらすら見つからない理由にはならないけど。

52:日本@名無史さん
22/05/02 06:17:36 .net
中国で出土した3世紀以降の帛書を成分解析して日本産の絹が見つかると面白いけどね。
竹帛の記載だと竹簡や帛書で名が残るほどの名声を挙げる、という意味で帛書だけど、
単に帛だけだと絹布の意味だろうから、どうだろうね。
日本で見つかってる弥生時代の絹は絹線維とかまで分解されたものが多いから帛書の形での発見は難しそう。
楠木材と一緒に甕棺や土器に入ってたら樟脳成分で保存されてたりするかな。

53:日本@名無史さん
22/05/02 10:02:40.66 .net
>>29
>>30
下記サイトで特に末盧国をあたってみて下さい。ほとんど、異民族が来てもほとんど
変わっていません。(中国のサイトです)
URLリンク(xiaoxue.iis.sinica.edu.tw)
理由は中国側で異民族の侵入があっても、異民族が漢字を使用するためには、
元の中国人に教えを乞う必要があります。このため、言葉自体は変化しても
漢字の発音は変わらない可能性が高いです。
さらに、末盧国は日本の邪馬台国論者が、松浦=末盧としてるので、松は中国の発音が
ないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにしたのでは
ないかと言う言語学者の説があります。

54:日本@名無史さん
22/05/02 10:23:06.62 .net
>>53
「末盧国」=福津市(万津浦)辺り。   @阿波

55:日本@名無史さん
22/05/02 10:36:12.14 .net
>>53
>>松は中国の発音がないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにした
意味がよくわからない
もう少しわかりやすく教えて

56:日本@名無史さん
22/05/02 22:51:19.27 .net
>>53

>>30
は、中国の支配者が代わるたびに、漢字が同じでも発音は変わると言ってる。
>>53
は、中国の支配者が変わっても、中国地元民に発音を教わるから変わらないと言ってる。
どっちもありうるってことだな。
じゃあ、そんなの無視してよくね?
倭人は倭人で漢字を勝手に使ってたんだから、
末は上古はすえ、2世紀くらいからはまつ、としていた。
なんで2世紀に変わったかというと、三国志動乱で大量の避難民が押し寄せてきたから。

57:日本@名無史さん
22/05/02 22:57:00.93 .net
硯が出土した以上、
記紀などの日本書物の発音の重要度がとんでもなくはね上がってる。
硯が無ければ、倭人伝などの倭の地名や人名は、漢魏人による当て字となるが、
硯があるのなら、それらの漢字は倭人が当てていたものを漢魏人が引用した可能性の方が高くなる。
だから中国どうこう調べるよりも、
記紀風土記などでの文字表記から類推するのが正攻法なのだなこれが。

58:日本@名無史さん
22/05/02 23:06:52.21 .net
なるほどなるほど。
渡来系の奴国王とは、ユダヤの一部族なのですね。
縄文世界に、中国人が渡来してきて、外見が変わったのではなく、
縄文にいろいろ入って来て、はるか西方からの血が入って、理想郷が形成されているところに、
中国人が入って来て、外見がアジアに引き戻された、ということなのですね。

59:日本@名無史さん
22/05/02 23:11:14.40 .net
なれば、日本列島こそが、実はグローバリズムの極致。既に2000年先取りしていたのですね。
その日本をとどめるために、日本を純血で残すもよし。
その日本に注ぎ込んで、新たな化学反応を起こすもよし。
我々は主導権(☓軍事力〇金融力)を持っていませんから、(持てるチャンスを30年前に逃した)
相談するしかないですね。

60:日本@名無史さん
22/05/02 23:25:57.38 .net
高句麗の奴族は奴国王の同族でユダヤの純血。
倭人は、奴族=ユダヤのグローバリズムに抵抗して、
攻め込んだわけですね。
好太王の碑。押し返された。

61:日本@名無史さん
22/05/02 23:47:49.29 .net
と、いうことは、
奴族系の政治家が主導権を握ると、当たり前ですが、グローバリズムを推進する。
あったりまえですね。
倭人系の政治家が主導権を握ると、それに抵抗しようとする。
そりゃそうですね。
2000年前からそれをやってたわけです。
日本はやはり、人類の最先端を突き進んでいるわけですね。

62:日本@名無史さん
22/05/03 00:12:18.64 .net
と、なると、
ユダヤの総本山は一見するとイスラエル、なのですが、
日本も2000年来の重要拠点の一つ、となり、
それと戦う勢力が大量破壊兵器を用いる目標の一つに、
なってしまう、可能性があり、
それを封じるための手段が必要、であり、
奴族お得意の、デコイ、を用いて、破壊目標を、ずらして、
見当違いの目標を、非人道的な手段で破壊、させて、
逆に、未来永劫、非人道的な手段を用いた、敵対勢力を、

63:日本@名無史さん
22/05/03 00:15:02.47 .net
軍神が、金印を持って、諏訪に逃げたと思って、
攻め込んだら、持ってなくて、
西の伊邪國に、あった。
川上猛が、金銀錯鉄鏡を持って、東日本に逃げたと思って、
攻め込んだら、見つからなくて、
西の日田に、あった。

64:日本@名無史さん
22/05/03 00:30:46.76 .net
>>43
>そうなると逆に、
>楽浪郡と倭國に挟まれた、百済新羅の地域に文字が普及するのが遅かった、というのが逆に謎になる。
>大王がいるかいないかが大きいのかな。
民族がただ生きるなら、文字など必要ない、からでしょう。
ユダヤ系であれば、売買履歴を文字で記録する必要がある。
そして情報こそ命。
情報を残すには、文字で記録する必要がある。
だからこそ、奴国王のいた倭には、(倭人貴族ももともと文字を使っていましたが)
文字が一気に普及したわけですね。

65:日本@名無史さん
22/05/03 07:33:19.64 .net
>三国志動乱で大量の避難民が押し寄せてきたから。
遼東半島や朝鮮半島は人の移動が激しくて、時によってはあまりに大量の人が移動したせいで郡など政治区分が変更されたりしてるね。
馬韓の西の州胡というのも、中国とも交易してるとあるから、南西の済州島ではなく、
仁川国際空港のあたりの島々のことだろう。

66:日本@名無史さん
22/05/03 08:23:37.95 .net
>記紀風土記などでの文字表記から類推するのが正攻法なのだなこれが。
記紀だと、末の読みは、ま、まつ、すえ、など。
どちらかというと、中国語寄りに考えるなら、ま、まつ。
後の平仮名の「ま」も末から産まれているし。
倭人伝を意識した神功皇后の箇所でも、末羅縣(まつら・がた)だね。

67:日本@名無史さん
22/05/03 10:49:33.26 .net
北部九州全体が倭国(邪馬台国)。音読み「ワ」訓読み「やまと」だったのなら、
地方自治体に「倭国」「邪馬台国」は無いのが当たり前だな。
日本国に日本県が無いのと同じだ。

68:日本@名無史さん
22/05/03 12:11:38.41 .net
>>8
高句麗 方可二千里 戸三萬
濊 戸二萬
馬韓 大國萬餘家小國数千家 揔十餘萬戸 辰王治月支國
弁辰韓 合二十四國 大國四五千家小國六七百家 惣四五萬戸
三国志東夷伝の全体を俯瞰すると、
どう見ても、倭の中に七万戸や五万戸の巨大国家が複数あったとは考えられず、
倭=邪馬台国全体で総七万戸。
倭=邪馬台国七万戸の中に、大国二万戸小国数千戸ですな。
まあ伊都説で完結でしょう。

69:日本@名無史さん
22/05/03 12:17:23.47 .net
スレリンク(history板:366番)
銅鐸も、前スレで考察したように、
石剣地域に入植していく倭種環濠集落が、
収穫期の襲撃に備えて配備したJアラートであることがわかりました。
普段は乾土に埋めて劣化を防ぎ、収穫期に取り出して設置する。
高台に偽装して設置して、敵襲があれば銅鐸を鳴らして集落民を環濠の中へ避難させる。
銅鐸を鳴らし終えたらそのまま獣道を走って、近隣の集落などへ救援を呼びに行く、
というシステム。

70:日本@名無史さん
22/05/04 17:10:11 .net
菱環鈕式 

外縁付鈕式1式2式

扁平鈕式1式2式

突線鈕1式 ここまでが聞く銅鐸

突線鈕2式3式 近畿式・三遠式

突線鈕4式5式 ほぼ近畿式

松帆銅鐸 菱環鈕1外縁付鈕6
荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
加茂岩倉遺跡 外縁付鈕30扁平鈕式9
柳沢遺跡 外縁付鈕5(1つは扁平鈕式か) 樋結合型銅戈1樋分離型銅戈7
桜ヶ丘遺跡 外縁付鈕4扁平鈕10 樋分離型銅戈7
大岩山遺跡 突線鈕24(4式5式は3)

71:日本@名無史さん
22/05/04 17:34:30 .net
銅鐸王国「阿波」の「名東銅鐸」
名東銅鐸は、弥生集落の一角から出土したもので、扁平鈕式という型式に分類されます。
高さ39.3㌢、重さは877.8㌘しかありません。
裾内部に突帯が一つあり、音を鳴らすための機能は備わっているのですが、使用した形跡はみられません。
「見る銅鐸」だったのでしょうか。
鮎喰川流域では「聞く銅鐸」も「見る銅鐸」も出土しています。
「阿波」における銅鐸のまつりが変化する様相を観察できる地域として注目されます。   @阿波

72:日本@名無史さん
22/05/04 19:34:52.56 .net
出雲が銅鐸王国というが、
北部九州銅矛荒神谷遺跡と、例外的な大量一括埋納加茂岩倉遺跡で目立ってるだけで、
それを除けばむしろ銅鐸の無い地域。
さらに銅鐸時代の出雲に目立った集落遺跡はない。
後の四隅突出型墳丘墓になってそれなりに栄えるが、
その時には日本海沿岸から銅鐸はとっくに姿を消している。
出雲が銅鐸を作って関連地域に配布していた、とするにしても、
瀬戸内東部や畿内などの、銅鐸分布地域までの地域連続性が無さすぎ。
いい加減に、出雲系=銅鐸国家、という誤った認識は捨てるべき。

73:日本@名無史さん
22/05/04 19:56:58.68 .net
「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個が出土している。
銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡(29遺跡)の多さに驚かされる。
古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど多数の銅鐸が出土するのだろうか?   
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。   @阿波

74:日本@名無史さん
22/05/04 20:20:52.65 .net
銅鐸が単なる音を鳴らすための利器であれば、用済みになった時点で廃れたはずであって、
突線鈕2式以降の、大型化装飾化した「見る銅鐸」が登場した以上は、
銅鐸をまつる意識、銅鐸祭祀を重要とみなす集団、が存在したことは明らか。
であるから、「見る銅鐸」が分布する地域はやはり銅鐸信奉部族ではあるのだが、
それはそれで畿内から東海にかけての地域が主な出土地域であるから、
「見る銅鐸」においては出雲など山陰やあるいは山陽瀬戸内地域は蚊帳の外。
さすれば銅鐸民族なるものは次第に東へ東へと追い立てられて「見る銅鐸」を最後にして、
滅亡したのである。
滅亡するのなら華美な「見る銅鐸」を作ってる暇なんぞなかろうに、
なぜにその方向へ銅鐸を発展させたのかという疑問も沸き起こる。
また東海から東日本へと追い立てられるだけでなく和歌山にも最終形の「見る銅鐸」が豊富に認められることはますますもって不可思議極まりないことなのだ。
ちなみに銅鐸が終了する時期はまさに2世紀の倭国乱の時期であることも十分に留意すべき点であり、対馬海峡を経て入手する青銅器の原料そのものが入手しにくくなったことで銅鐸が作れなくなったと考えるのであるが、
であれば、銅鐸をまつりで使っていたのであれば、小型化あるいは簡素化をもって、
今しばらくは銅鐸まつりを存続させる努力の跡が認められてもよかっただろうに、
そのような痕跡もなくあっさりと銅鐸時代が終焉を告げているのもまた銅鐸がどのように認識されていたのかあるいは銅鐸集団が突然の非業な状況に置かれたのかなど話題はまだまだ尽きぬもの。

75:日本@名無史さん
22/05/04 20:35:45.51 .net
銅鐸王国「阿波」では、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」が
矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。   @阿波

76:日本@名無史さん
22/05/05 13:13:21.80 .net
スレリンク(history板:744番)-756
北部九州からは紀元前の弥生遺跡から硯が出土している。
よって倭人は漢字を使用していた。
伊邪那岐/伊耶那岐、伊邪那美/伊耶那美なのだから、倭人は「邪=耶=ザ」として使っていた。
廣志を正しく読むと、
南の邪馬嘉國が現在の佐賀市周辺。邪馬嘉(ザマガ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
西南の伊邪國(伊耶國)が現在の諫早市周辺。伊邪(イザ)→伊佐→諫早

77:日本@名無史さん
22/05/05 13:15:03.53 .net
伊都説だと、三雲南小路王墓から柏崎遺跡が笠沙の岬となり、
唐津が吾田=阿多であるから、その勢力が山を越えて佐賀市側に入って、
阿邪訶(ア・ザカ)だったのだな。
吉野ヶ里の甕棺墓女性の時代だな。
70年に奴国王が失脚して、
伊邪國の奴国王系水軍(比良夫貝)と吉野ヶ里が対峙していたから、
阿邪訶(ア・ザカ)の海、つまり有明海で比良夫貝水軍に襲われたわけだ。
当時は佐賀平野が無く、甕棺墓の分布のように山地にへばりつくように、
干潟に面した坂だけの土地だった。
そこをある程度開発した勢力が王となり、
邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
収入源は、同じ肥国である肥後の木材。トンカラリンだな。
山を越えたら対馬海峡だし、弥生倭国なら交易の好立地ではある。
だが、邪馬嘉國は倭国乱で荒廃もしくは滅亡し、
狗奴国もまた筑後→邪馬嘉→末蘆→対馬海峡と占領して金銀鉄鏡を入手した。
後の川上タケルが川上を名乗っているということは、佐賀にゆかりのある奴族だった可能性があり、
これが阿邪訶時代からのゆかりであれば、例の甕棺墓女性と奴国王との間の子孫である可能性も出てくる。
卑彌呼と卑彌弓呼の名が似ているのも、その辺りの先祖が共通しているのかもしれんな。
阿邪訶(アザカ)→邪馬嘉(ザマカ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀

78:日本@名無史さん
22/05/05 13:16:18.68 .net
奴国王が失脚した時に、その水軍大将だった息子は金印を持って諏訪に逃げかけたと見せかけたので、
銅戈軍は東日本に気を取られ、奥深く関東まで追いかけていった。
しかし金印はそのまた息子に持たせて西に潜伏させた。
これが比良夫貝という水軍で、諫早市を中心とした伊邪國を根城にして、
倭国の主流となったカモ銅戈軍と敵対していたわけだな。
吉野ヶ里の環濠は比良夫貝をおびき寄せて内部に捕獲し、軍事情報を尋問するために設備だろう。
平戸市や佐世保の比良町などにその名残りがあるのだろう。
佐世保高島の宮の本遺跡などからプロ漕ぎ手の遺骨が出土しており、
本来は対馬海峡を渡海して海外交流した倭舟の漕ぎ手であり、
その当主である難升米が卑弥呼傘下に入って大率となってからは、再度対馬海峡を往来した。
というより刺史の如く末蘆国~壱岐対馬の地方行政をもしきり、だから今も長崎県所属なのだな。
スレリンク(history板)
平原遺跡に御柱が立っている理由も説明がつく。
元はと言えば、比良夫貝は古代越ヌナカワ土井ヶ浜遺跡の女王とも親密であり、
奴国王は比良夫貝水軍を味方につけるためにも口説いたのかもしれんな。
そう考えるとその頃から比良夫貝は奴国王サイドとして、カモの銅剣女王國との戦争に参加していたのだから、
奴国王が失脚して倭国実権を握ったカモ銅戈軍は逆襲したという見方もできる。
比良夫貝頭領の難升米が大率として活躍したのであれば、
日本海を股にかけて、水軍を率いて北は蝦夷を討ち、西は白村江の戦にて補給部隊として活躍した、
阿倍比羅夫もまた筑紫大宰帥となったのだな。
率=師で、大率=大宰帥という九州説の論はまたいつものように奥が深く、
阿倍比羅夫もまた長崎の水軍を率いたのかもしれないし、
逆に難升米もまた兵糧不足の魏軍司馬懿に補給をしてあげて、そのお礼が親魏倭王金印や銀印だった、という説も見えてくるのではないかな。

79:日本@名無史さん
22/05/05 13:52:35 .net
>金刀比羅というのも海上交通、海軍と関連が深いから、
>大物主が瀬戸内交通を支配する際の水軍だったのかもね。
>比羅、比良、というのが水軍のなんらかの単位だったのかもしれんね。

古代豊国=古代出雲+古代伯耆には、もともと八雷神がいた。
その共立女王が伊邪那美。

対馬海峡~末蘆~糸島(筑紫の日向)を保有していた伊邪那岐族と婚姻を結んで擁立したのが、
早良吉武高木遺跡、つまり筑紫の日本のアマテラス大王。
この時に豊国も行政変革がなされ、八雷神→八山津見となった。

古代伯耆のカモが豊国リーダーとして豊国軍を指揮する時が、建御雷神。
元は八雷神の水軍を率いる総大将。

一方で、古代出雲のワニが豊国リーダーとして指揮する時が、八尋ワニ。

比羅、比良、尋、というのは水軍における何らかの広さを示す単位であり、
一定数の水兵が整列した広さ、あるいは一定数の軍舟が整列した広さ、を表すのだろう。
それが転じて、水軍部隊の単位となった。

八雷神あるいは八山津見の一部族当たりの標準的な水軍部隊の単位が、一尋。
豊国共立女王がワニ系の場合は、全八部族に号令をかけることができるので、八尋。

一尋当たり二本の中広形銅矛あるいは広形銅矛が配布される。
一本は出陣式の時に自領に埋納。
もう一本を旗艦に飾って旗頭として出陣して、
勝利したら獲得領土で地鎮祭としてもう一本の銅矛を埋納。

80:日本@名無史さん
22/05/05 13:53:48 .net
中広形銅矛(男系奴国王+女系ワニ)が失脚して、
祭祀型銅戈(男系ニギ+女系カモ)時代。
ヤマサチヒコが一時失脚して豊国ワニに匿われた時は、
倭国王も豊国王もカモ系であり、

ワニ王は豊国の中の、ワニ領地のみの地方王。
よって、ヤマサチヒコを筑紫日向へ送り返す時は、一尋ワニ。

広形銅矛男系ヤマサチヒコ+女系ワニが天下を取ると、
倭国王はヤマサチヒコ、豊国王はトヨタマヒメとなり、
出産のため筑紫の日向へやって来たトヨタマヒメは、八尋ワニ。
重臣達の監視下で出産して、王家の文身を入れるため筑紫の日向で出産して、
豊国に女王として帰っていった。ヤマサチヒコの元には代わりに妹を寄こした。

コトシロヌシも、八尋ワニとなっているのだから、豊国王。もしくは、その直属の豊国水軍総大将。

81:日本@名無史さん
22/05/05 18:22:52.34 .net
>>70
>荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
・荒神谷2号と梅ヶ畑遺跡(京都市)4号、荒神谷6号と松帆5号、荒神谷3号と伝徳島県出土銅鐸、が同笵銅鐸
・銅矛は、中細形2本と中広形14本
・中細形銅剣c類の鉛同位体比分析にて、銅鐸を溶かして他青銅と混合し、銅剣の原料の一つとしている
・銅剣の青銅原料の一つに極めて特殊な鉛同位体比を示すものがあり、前285年に「燕」が斉に勝利しその首都臨淄を略奪した際の青銅器ではないか、との説
・銅鐸は同笵が多いのに対して、荒神谷銅剣は同笵が無い
・山海経「蓋国在鉅燕南倭北、倭属燕」
・燕は、秦王政(始皇帝)に対して刺客の荊軻を送ったが失敗し、前222年に滅亡
・土井ヶ浜遺跡の埋葬頭蓋骨は全て燕の方角を向いている

82:日本@名無史さん
22/05/05 18:24:33.06 .net
現代日本人の我々から見ると、本州全域に投射してしまいますが、
弥生倭人の世界では、北部九州を中心とする世界観だったわけですね。
西から、地名・勢力が、
唐津 吾田=阿多 笠沙の岬=柏崎遺跡
糸島 筑紫の日向 三雲井原遺跡
早良 筑紫の日本 吉武遺跡
博多 葦原那珂津国 那珂比恵遺跡~須玖遺跡~
宗像 古代出雲 田熊石畑遺跡
北九州市 古代伯耆 城野遺跡
越 山口県山陰地方~ 土井ヶ浜遺跡~
に比定されます。
越=山口県以東の日本海沿岸にいたのが、八岐大蛇族であり、
古代出雲や古代伯耆を圧迫していましたが、
対馬海峡の伊族がまとまり、
対馬海峡渡海時に漂流した際に救出してもらっていた、古代豊国の八雷神の共立女王と婚姻して、
北部九州沿岸を統一。
吉武遺跡に吉武高木大王が誕生。
吉武高木大王の王族東征将軍が、越の八岐大蛇族を金属製武器で打ち負かして、
田熊石畑遺跡に多重環濠の東方監視基地を作り、
八岐大蛇族領地の尻尾である、丹後半島に扇谷遺跡を建設して長期間運営し、
至高の鉄剣を作成して、吉武高木大王即位時に献上します。

83:日本@名無史さん
22/05/05 18:26:30.12 .net
時系列から考えると、
吉武高木遺跡の大王が誕生=倭国成立
倭国が燕と交流
燕が滅亡して、燕人が亡命
燕人知識層は吉武高木大王お抱えとなり、北部九州倭国から離れた丹後に鉄工房建設する国家運営を助言
(倭国本国の森林保全)
燕人の大部分は、旧八岐大蛇族の旧領である土井ヶ浜遺跡に土地を与えられて集落形成
宝飾品作成で生計を立てていた旧八岐大蛇族と混じって、青銅工具を用いた貝輪製作を開始
という流れですね。
日本海沿岸は、旧八岐大蛇族が倭国吉武高木大王の支配下となり、
倭人が丹後鉄工房を運営して鉄器生産。
豊国は吉武高木大王と縁戚の倭種になり、田熊石畑遺跡=在豊国倭国軍基地があるので、
国防は気にしなくてよくなり、
琵琶湖沿岸に下之郷遺跡を建設して入植
瀬戸内にも高地性集落を建設して木材・炭を大量供給する「木の俣」を建設
和歌山・土佐にも鐘崎式土器が入植
と、倭種勢力拡大していきます。

84:日本@名無史さん
22/05/05 18:28:17.76 .net
一方で前一世紀頃に、沿海州から奴族が渡来してきて、
こちらは渡来系の多い、当時は低湿地だった葦原那珂津国に集落形成したわけです。
北方の奴族親戚から青銅原料を入手して、
青銅器作成技術を売りにして、
豊国勢などから、銅鐸や銅剣の作成を受注して生計を立てます。
次第に富を蓄えて、0年に奴国王(中広形銅矛将軍)が誕生して、
お得意先である、豊国の平形銅剣女王に兄弟で求婚に押しかけます。
その先は、過去スレで検討した通りですね。
奴国王は最初は妻である平形銅剣女王に匿われて、太田黒田遺跡へ。
そこにも兄弟が押し寄せてきたので、
木の俣=瀬戸内高地性集落群を抜けて、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の元へ。
将軍の娘と懇ろになり、樟脳の染み込んだ衣などで窮地をくぐり抜けて、
将軍の婿に収まった。
豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍と共に軍を起こし、
兄弟を破って奴国を掌握し、さらに
元妻を破って瀬戸内を掌握するために銅矛銅剣戦争を開始した。

85:日本@名無史さん
22/05/05 18:30:04.75 .net
初期は、奴国王の義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍が総大将だった。
旗印は中細形銅矛。
中期に義父が亡くなり、奴国王は倭人では無いものの、軍事力を背景に将軍位に首尾よく収まった。
旗印は中広形銅矛。
そんな銅矛銅剣戦争の末期ですね。
対馬海峡経由の青銅原料ルートの上位に位置する中広形銅矛軍に対して、
平形銅剣女王軍は劣勢となり、青銅原料不足に陥り、
後の狗奴国と同じく、領内の青銅器をかき集めて青銅製武器を作ろうとした。
鋳型の出土分布からみて、
銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。
そこで、土井ヶ浜遺跡の燕人に交渉を持ちかけたわけですね。
燕人はそもそも倭人と縁があり、
新興の奴族である中広形銅矛将軍を好ましく思っていなかった。
平形銅剣女王国の銅鐸を集め、
燕人が持参してきた虎の子の青銅器を加えて、
それらを溶かして、大量の銅剣を製作し、反転攻勢しようとした。
それを察知した中広形銅矛将軍が、土井ヶ浜遺跡の女王を口説き落として、
大勢は決した戦いで劣勢側に参戦することを恐れた女王が折れて、
一気に終戦となったわけですね。

86:日本@名無史さん
22/05/05 18:31:22.32 .net
銅鐸について考えると、
本来は大阪兵庫の毛人領域との境界線に配備されていたわけですね。
ですから本来は、出土しているよりもっと密に配備されていた筈ですが、
燕工人がいる荒神谷遺跡に供出するためにかき集められた。
琵琶湖沿岸→日本海沿岸→荒神谷遺跡
瀬戸内沿岸→川で山陽山陰横断→荒神谷遺跡
京都や阿波は遠すぎるのと、毛人最前線なので、銅鐸が残ったわけですね。
集められた銅鐸を溶かして、燕人秘蔵の青銅と混ぜて、銅剣を作った。
そこで終戦になったので、降伏して、
占領軍の中広形銅矛と一緒に埋納された。
加茂岩倉遺跡の銅鐸は、銅剣銅矛戦争の終戦後に、
時間差で送り届けられてきた銅鐸をまとめて埋納したものでしょう。

87:日本@名無史さん
22/05/05 18:33:01.86 .net
銅矛については、
中細形2本は義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の部下だった古参倭人隊長のもので、
中広形14本は中広形銅矛将軍の奴族隊長のものということになりますね。
土井ヶ浜遺跡の女王は中広形銅矛将軍の手に落ち、
荒神谷にあった青銅器工房に
十六尋の大軍がやって来て、大量の銅剣を押収した、ということでしょう。
過去スレで検討したように、国内制圧した中広形銅矛将軍は奴国王となり、
今度は鉄原料を求めて半島出兵していきます。
にもかかわらず、これだけ大量の青銅器をリサイクルせず埋納したということは、
・武器の主流が鉄器となっていた
・青銅原料の入手量が充分確保されていた
ということですね。
北方の奴族との連携があった、ことを示唆しますね。

88:日本@名無史さん
22/05/05 18:34:28.55 .net
奴国王と土井ヶ浜遺跡女王の、
長男が、建沼河男命。次男が、建御名方命。
男系は奴国王、女系は旧八岐大蛇族、でしょうが、
母方の祖父や曽祖父は、燕人や、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍でしょうね。
建沼河男命は土井ヶ浜遺跡周辺を継いで、
建御名方命は荒神谷遺跡周辺を継いだわけですね。
後者の子孫が難升米で、神原神社古墳なども関わってきます。

89:日本@名無史さん
22/05/06 19:25:11 .net
こんばんは~

90:日本@名無史さん
22/05/07 12:28:04.05 .net
>>70
鉛同位体比などからは、
菱環鈕から外縁付鈕1式までの古式の銅鐸が、朝鮮半島系の青銅原料。
外縁付鈕2式以降が、華北産中国系の青銅原料ですね。
前108年に楽浪郡が設置されたことで、漢本国から楽浪郡までの流通が容易になって、
輸送コストの低下から、華北原料のコストも下がって、倭人の調達先としてメインになったのでしょう。
となると、
前100年頃に、同系統の外縁付鈕にて、1式から2式への材料変化があったことになりますね。
楽浪郡史が伊都國にいたのは、青銅原料の取引が目的(もちろん朱なども)でもあったのでしょう。
荒神谷遺跡の銅鐸は古いものだけですが、これは時代によるものではなく、
おそらく溶かして使用するのに、古い銅鐸の材質よりも、外縁付鈕2式以降を溶かした材質の方が、
武器としての銅剣を作るのに適していた、ということでしょうね。
外縁付鈕2式以降のものも荒神谷遺跡に運び込まれていたが、これらは優先的に溶かされて銅剣の材料にされていった。
古い銅鐸はとりあえず使われず置いてあったので、荒神谷遺跡占領時に一緒に埋納されることになった。
ということでしょうね。
突線鈕2式3式の、近畿式・三遠式については、
西からの銅戈軍と、東に逃げ込んだ軍神軍が、どちらも同じような鉛同位体比のものを使っていることから、
軍神が逃走する前、つまり奴国王時代の一世紀中頃から、大量に輸入していた華北産青銅原料のもの、
ということになりますね。
楽浪郡から倭に流通した青銅原料は、一世紀中頃から少なくとも二世紀初頭までは、ほぼ一つの鉱山からのものだったのですね。

91:日本@名無史さん
22/05/07 12:58:10 .net
>>20
柳沢遺跡を起点にして、四方から石戈が出土していますね。

柳沢遺跡から出土した銅戈は8本ですから、8尋の大軍ですね。
上越市から川沿いに攻め込んだ銅戈軍は初戦を勝利して、中野市で勝利式典を行った。
銅鐸は、軍神側が、物見として山腹に配備していたのを接収したものですね。

軍神本隊は、軽井沢方面へ撤退しますが、急いで逃げ去るのではなく、
背を見せつつ銅戈軍を挑発し続けます。

柳沢遺跡占領直後の銅戈軍の軍議では、
・柳沢遺跡周辺の鎮圧に専念して、北部九州からの援軍を待つか、
・柳沢遺跡から更に出陣して、自軍だけで軍神軍を討って金印を奪取するか
で、銅戈軍将軍は後者を選んだわけですね。

まだ陣中にあって、青銅原料や工房工人などありませんから、旗印は石戈で代用して、
軍を分けて、
四方に散る軍神ゲリラ部隊を掃討にかかるのと、
軽井沢方面の軍神本隊の追撃と、にかかったわけです。

四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。

関東へ深入りした先の、前中西遺跡にて、方形周溝墓から石戈が出土しています。
同じ遺跡の住居からは、樋分離型銅戈型の石戈も出土しています。
が、武具などは出土していませんね。

この集落の辺りで、銅戈軍の総大将が討たれた。ということでしょう。
同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。

92:日本@名無史さん
22/05/07 16:05:52.87 .net
>>85
砂丘墓地+貝輪繋がりで、
土井ヶ浜遺跡から少なくとも古浦砂丘遺跡まで勢力圏だったのでしょうね。
古浦砂丘遺跡の、額から左眼にかけて青緑色の青銅器装着痕がある男性4人は、
おそらく燕系の青銅器工人の頭領でしょう。
炉の炎をずっと見ていると目が焼けるので、遮光器ゴーグルを装着していた。
スリット型だと視力向上効果もあるので一石二鳥ですね。
さらに旧八岐大蛇族のファッションセンスで、スチームパンク風の21世紀レベルの
おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。
同じ渡来系奴族工人が西の奴国で成功しているのを見ていて、
平形銅剣女王国からの援軍依頼を受けた時に、
はるか逃れてきた東夷辺境の島国で、一旗揚げてみようかと、色気が出たのでしょうね。
土井ヶ浜女王とは意見が対立しながら、銅剣作成を引き受けたのでしょう。
燕系工人が強固な戦闘用銅剣を作るには、古式銅鐸の朝鮮系青銅ではなく、
外縁付鈕2式以降の華北系青銅が最適だった。
それに、燕族持参の青銅を混合したわけですね。

93:日本@名無史さん
22/05/07 16:34:53.05 .net
古浦砂丘遺跡のすぐそばの、志谷奥遺跡から、
銅鐸2つと銅剣6本が見つかっています。
銅鐸は、外縁付録1式と扁平紐式が一つずつ。
銅剣は、荒神谷遺跡と同じ中細形銅剣c類が6本。いずれも激しい戦闘で破損しています。
これはどういうことかというと、
銅鐸2つは、平形銅剣女王国からのなけなしの供出品ですね。
燕系青銅職人(=荒神谷遺跡工人=古浦砂丘遺跡工人)が作った最高級銅剣を装備した兵士6人が、
銅鐸を護衛しながら、日本海沿岸を東から西に向かって舟で移動してきたわけですね。
それが上陸してみると、既に中広形銅矛軍に占領されていた。
大量の中広形銅矛占領軍に追いかけられて、銅剣兵達は丘の上に逃げたけれども、
山道の向こう側からも中広形銅矛軍が押し寄せて、逃げ場を失い、
6人とも必死で戦ったが戦死した。
埋納抗がほぼ認められませんから、
6人の遺体と、ボロボロになった銅剣と銅鐸は、山道から放られて斜面に打ち捨てられ、
青銅器だけが残り、土が積もったのでしょう。

94:日本@名無史さん
22/05/12 14:52:39.22 .net
伊都国は一大率を置くくらいに重要な場所、普通なら必ず大きな港あるでしょう。それなのに末盧国から陸行したんだから伊都国は海岸線ではなく内陸部なんじゃない?だから正論になりつつある糸島じゃないような気がする。
東に海がありその奥に陸地があるように書かれているんのは間違いない事実。普通に考えたら島原半島東側か大分県の海沿い。島原半島なら雲仙があるし火山の事くらい記載しそう。火山の火の字もないから大分県の海沿い。福岡県の中津市あたりから宮崎県の延岡くらいまでが怪しい。
後、中国に応援や友好を求めるのだから中国に影響力をもつ九州北部だと思う。そうなると中津市宇佐市や大分市くらいまでか?畿内や四国が邪馬台国ならわざわざ中国に友好や応援を頼む意味がないし。
邪馬台国連合だから佐賀市、鳥栖市、久留米市あたりも邪馬台国で首都が中津市宇佐市あたりのような気がする。
もちろん持論だし根拠はないっす。
長文失礼しました。

95:日本@名無史さん
22/06/06 12:02:15.75 .net
>>1
またデタラメを
そのうち安曇とか言い出して馬脚を表すのだろう

96:日本@名無史さん
22/06/20 06:29:28 .net
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が帯方郡から会稽東冶に至る「中国大陸沿岸の行程」を倭国に転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

おそらく洛陽(後漢~曹魏~西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)呉を牽制しようとアピールしている可愛い国という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`)

97:日本@名無史さん
22/06/20 07:57:22.90 .net
>>94
>福岡県の中津市あたりから宮崎県の延岡くらいまでが怪しい。
なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか、理由を教えて進ぜよう。
大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なる。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。 
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。  
その伊都国は千戸程度だから、「感田上原遺跡」や「感田野添西遺跡」「平原池の上遺跡」だろう。   @阿波 

98:日本@名無史さん
22/06/25 03:10:19.33 .net
港も無い交通の不便な内陸部にに伊都国があったとは思えない。
それと
邪馬台国の四国説とか沖縄説を主張している人は本気なのだろうか。
本気だとはとても思えないのだが。

99:日本@名無史さん
22/06/25 07:05:54.91 .net
>>98
そう思うのは、単純に無知で頭が固いから。   @阿波

100:日本@名無史さん
22/06/30 17:41:13 .net
負け惜しみ?

101:日本@名無史さん
22/07/11 08:12:59.99 .net
四国や近畿なら中国に大金とリスクを追って親善大使を送る価値あるか?
中国に親善大使を送る目的は普通に考えて中国が脅威で敵にしたくないからでは?そう考えるとやはり北九州。親善大使をどうゆう目的で送ったのかがわかればもう少し謎が解けそうだけど。
四国や近畿なら壱岐国に寄る意味もないような気もするが⁈後、四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。

102:日本@名無史さん
22/07/11 20:19:36 .net
>>101
>四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。

そもそも、「邪馬臺国」「阿波」へ行くのに瀬戸内海は通らないから。   @阿波

103:日本@名無史さん
22/07/11 23:13:40.30 .net
>>102
当時の人間なのか⁈まるで当時の海路を知っているかのようだけど。
いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬→北九州→関門海峡→瀬戸内海→徳島が凡人の俺にはこの海路が普通だと感じる。
熊本から鹿児島、高知から周るのはあまり賢い航海には感じないんだよ。当時の船の能力や技術がどの程度かにもよるけと。
後、当時の地形や陸地がどんな感じかにもよるけど。
当時は5~6メートル水位が低かったような文献をみたようなきもするが⁈
まあ、いろんな意見があるからこのネタは尽きない。

104:日本@名無史さん
22/07/12 06:28:19.69 .net
>>103
>いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬
そもそも、初っ端の「釜山→対馬」から間違い。 対馬海州に流されて対馬の着けない。   @阿波

105:日本@名無史さん
22/07/12 06:28:54.93 .net
>>103
>いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬
そもそも、初っ端の「釜山→対馬」から間違い。 対馬海流に流されて対馬に着けない。   @阿波

106:日本@名無史さん
22/07/19 23:40:20.63 FywT7dB7f
>>92
>おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。
スリット型ゴーグルだと、目の防護効果もありますね。
現代での作業時は透明のゴーグルで目を防護しますが、
弥生時代にガラスやプラスチックは有りませんから、スリットで金属片が目に入って怪我をするのを防護したのですね。

>>85
>銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
>戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。
つまりは、古浦砂丘遺跡の燕系青銅職人は、
「鋳造」ではなく、「鍛造」を行っていた、ということですね。

107:日本@名無史さん
22/07/20 00:16:43.39 QtCZ+7mQF
>>93
当時の経済における青銅器の価値にもよりますが、
銅鐸2個に対して、青銅剣士6人も護衛につけるのは多すぎで、
舟にはもっと多くの銅鐸が積まれていた筈ですね。

志谷奥遺跡のすぐ前の佐陀川河口の船着き場に上陸したところ、
留守中に侵攻してきていた中広型銅矛軍に出くわして、
とりあえず手で持てる銅鐸2個だけ掴んで丘を上へと逃げて、
そこで討ち死にした。

中広型銅矛軍は、
志谷奥遺跡の銅剣や銅鐸、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器、
などを鹵獲せず打ち捨てていますから、
既に鉄製武器を主兵装にしていたし、
対馬海峡経由での青銅原料入手にも困っていなかったわけですね。

よって、青銅剣士6人が運んできて、とりあえず掴んで逃げた、志谷奥遺跡の2つの銅鐸以外の、
おそらく掴んで逃げるには大きすぎたであろうサイズの銅鐸群は、そのまま船着き場で川面に破棄されて、
今も佐陀川河口辺りの水底の砂の中に眠っている可能性が高いですね。

108:日本@名無史さん
22/07/20 00:30:12.63 QtCZ+7mQF
また、青銅原料としての銅鐸群を海上輸送してきた青銅剣士6人が、
中海→大橋川→宍道湖の南コースでなく、
日本海側から志谷奥遺跡に上陸したということは、

燕系青銅職人の工房は、中海~大橋川~宍道湖に面した場所でなく、
日本海側から佐陀川の河口に入った辺りの川沿いにあったことになります。
例の古浦砂丘遺跡も日本海側ですね。

まだ未発見の青銅工房にも貴重な青銅器が眠っている可能性が高いですね。

109:日本@名無史さん
22/07/20 00:35:04.93 QtCZ+7mQF
燕国は、秦によって前222年に滅ぼされます。
数万人の燕人が朝鮮半島へ亡命したことが記録されており、
彼らがその後どうなったか記録されていませんから、その一部は日本列島にも難民として押し寄せた可能性があります。

衛氏朝鮮が旧燕国支配層の受け皿となって、燕国再興を目指しますが、
前漢(前206~)の成立時に、旧燕人による旧燕領奪取は失敗して、
旧燕国とは全然関係ない前漢の南方出身領主が着任しますね。

で、前漢の武帝によって、前108年に衛氏朝鮮が滅ぼされて、楽浪郡設置ですね。

つまり、前222年頃から、燕人の難民がやって来はじめて、
前108年には、旧燕国の支配層上流層も亡命してきた可能性が高い。

秦末期などには、旧燕勢力は燕再興に動いていたわけですから、その再興資金があったはずです。
徳川埋蔵金ならぬ燕再興資金ですね。
金銀財宝もあったでしょうが、青銅原料(インゴットや完形の青銅器)や青銅武器職人も、
再興軍資金や人的資源だったのでしょう。

前108年には、それら燕再興資金も一緒に渡来してきた可能性が非常に高い。

その末裔が中広型銅矛軍と敵対してしまい、敗北した結果が、荒神谷遺跡の中細形銅剣c類。

金銀宝飾品は中広型銅矛軍が接収していったでしょうが、
青銅器についてはどれもこれも埋納など放棄している。
ということは、佐陀川の河口近くの弥生青銅工房に、
紀元前の周あるいは燕の青銅器が眠っている可能性がありますね。

中広型銅矛軍にとってはただの青銅の塊だったかもしれませんが、
現代の我々にとっては。

110:日本@名無史さん
22/07/21 23:15:30.33 JWUluq2RB
陶?(トウケン)=土笛

卵型のオカリナのような吹奏楽器
古代中国で殷代から使用されていた
漢代には宮廷音楽で使用されたが、その後廃れた

朝鮮半島からは出土していない

日本での出土は100個前後
 山陰地方でほぼ全て
 半数以上が島根県松江市の西川津遺跡とタテチョウ遺跡
  東に隣接した米子市目久美遺跡(加茂川流域)や青谷上寺地遺跡からも少数出土
 次に山口県下関市周辺の中ノ浜遺跡や綾羅木郷遺跡
 東の丹後半島の扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡から少数

 九州では宗像の光岡長尾遺跡と北九州市の高槻遺跡のみ

 遠く離れて弥生時代後期に静岡県浜松市の伊場遺跡から1個


中国で殷代から使われていた土笛が、
朝鮮半島並びに北部九州倭国をすっ飛ばして、
日本海沿岸から集中出土しているわけですね。

111:日本@名無史さん
22/07/21 23:16:15.29 JWUluq2RB
燕の青銅器や青銅職人がやって来ているのだから、
燕人が土笛をもってやって来た、と安直に考えたいところですが、
矛盾が生じますね。

燕は最盛期には朝鮮半島北部を領有していた時代もありますし、
燕が滅亡した後の衛氏朝鮮も、旧燕関係者の国でしたし、
戦乱で燕人が数万人も朝鮮半島に避難してきた記録も残っています。

ですから、日本列島に土笛を持ち込んだのが燕人であれば、
朝鮮半島にも土笛が出土するはずなんですね。

ですから、燕や衛氏朝鮮の影響が強かった朝鮮半島に土笛が出土しないということは、
土笛集団というのは、むしろ燕とは敵対していた勢力の人々であった、
ということになります。

だから、朝鮮半島には入れずに、
直接日本列島まで流浪してきたわけですね。

112:日本@名無史さん
22/07/21 23:18:23.62 JWUluq2RB
燕(前1100頃~前222)
 北京~遼東(~朝鮮半島北部)

斉(姜斉:前1046~前386、田斉:前386~前221)
 山東半島
 姜斉は周の太公望によって建国された周代の重要国
 姜斉に成り代わった田斉も周から任ぜられた戦国七雄
 斉は燕の南に接する山東半島の強国だった


前664-663 北方から攻められた燕を、姜斉の桓公が助ける

前314 燕の内乱に乗じて田斉が燕に攻め込み、一時的に燕滅亡
前285-284 燕の楽毅が5か国連合軍を率いて斉に攻め込み、首都臨?を陥落、斉領土の大半を占領
前279 楽毅が趙へ移籍して、斉が領土を取り返す

秦による統一
前226 燕の首都陥落
前222 燕王が逃れた先の遼東にも秦が侵攻、平壌で捕らえられ燕滅亡
前221 斉は西に軍を集中させていたが、秦は旧燕領の北から攻め込み、斉滅亡、秦建国

前206 前漢建国
前195 旧燕貴族によって衛氏朝鮮建国
前108 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡設置

113:日本@名無史さん
22/07/21 23:19:42.50 JWUluq2RB
こうして見ると、日本列島に土笛をもたらす集団は、
・燕と敵対している=朝鮮半島に入れない
・対馬海峡へ辿り着ける=山東半島よりは北の沿岸部(楚人なら南へ逃げる)
の条件を満たす、
「前284年に大敗した斉」の人々しかありませんね。

前221年に斉が滅亡した時であれば、燕は前年に滅亡しているため、
斉人は箕子朝鮮にある程度は受け入れられたはずですね。

前284年の、勢い盛んだった燕に大敗したので、斉の人々が大量に海へ逃げだしたものの、
燕影響下の朝鮮半島には居つけなくて、
朝鮮半島南部まで流れて、倭に泣きついて、なんとか受け入れてもらったわけですね。

114:日本@名無史さん
22/07/21 23:21:45.00 JWUluq2RB
日本列島側に目を向けてみます。

対馬海峡~唐津~糸島を統一した倭人・男系
古代出雲(宗像市など遠賀川以西)と古代伯耆(北九州市など遠賀川以東)の豊人・女系
が婚姻同盟して、佐賀県福岡県の北岸を統一します。

統一王が吉武高木大王ですね。旧伊都です。倭人伝の里程ですね。

吉武高木大王系の東征将軍が宗像の田熊石畑遺跡将軍。

関門海峡を越えた、古代越の勢力を征討して、日本海沿岸を支配します。

扇谷遺跡が運営されたということは、朝鮮半島からの鉄原料の安定供給が丹後半島まで成されていたわけで、
日本海沿岸は吉武高木大王が安定支配していたことになります。

115:日本@名無史さん
22/07/21 23:22:32.23 JWUluq2RB
土笛の分布は特徴的で、
九州において、わずかに豊国から3点出土するのみですね。

もし九州がバラバラの小国だったのなら、
土笛の人々はそれぞれの国に受け入れられたり受け入れられなかったり、
あるいは南部など未開の地域に勝手に入植したりと、
九州のあちこちから土笛が出土するはずです。

それが、まるで誘導されたかのように、松江周辺と下関周辺から集中出土する。

ということは、対馬海峡~北部九州~日本海沿岸の少なくとも丹後半島までは、
吉武高木遺跡の宮殿にいた殿上人達によって支配されていて、
斉からの難民を対馬海峡渡海させて受け入れることを決めたり、
松江や下関に居住させることを決めたり、
国家的判断を下した、ということを意味していますね。

116:日本@名無史さん
22/07/21 23:25:10.57 JWUluq2RB
・対馬海峡~北部九州~日本海沿岸は、吉武高木政治集団によって支配されていた

・斉の土笛難民は、吉武高木政治集団によって、対馬海峡渡海を許された
・斉の土笛難民は、吉武高木政治集団によって、松江と下関に居住を許された

・唐津や旧伊都(吉武高木)や奴国に土笛が出ないので、土笛難民は、王族を含まない一般人主体の難民だった

・琵琶湖沿岸や瀬戸内沿岸や紀伊土佐といった、カモ系の銅鐸+環濠集落の入植先と同期していないので、
 斉の土笛難民は、古代越の旧八岐大蛇系の土地に押しつけられた

・扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡は前285年には稼働していた。

117:日本@名無史さん
22/07/24 10:49:06.70 XH7xXl7n4
>>82
天浮橋については、
現代の地図を見ると、金印志賀島に連なる海の中道だと考える向きが多いですが、
福岡市の古地図を見ると、西鉄平尾~北へ~福崎~東へ~長浜~須崎、が半島となっており、
こちらの方が天浮橋だった可能性が高いですね。

海の中道だと、奴國あるいは不彌國の領域ですから、下界側ですね。
平尾~福崎長浜須崎の半島であれば、伊都側ですから、「天」浮橋と、天を冠して矛盾がありません。

118:日本@名無史さん
22/07/24 10:49:42.05 XH7xXl7n4
57年光武帝に謁見して金印拝領
58年金印来倭(倭人伝里程)
  大倭が設置され、本部は硯出土の旧三輪町、長官が大物主

疫病も同時に来倭して奴國不彌國を震源に大流行

59年頃から国譲りイベント開始
使者で+11年
70年に奴國大洪水が起きて奴國王失脚

奴国王は、洪水被害の雀居遺跡から、
妻の実家の古代出雲=宗像に避難した先で、捕縛

金印を管理する軍神は諏訪に逃げるも、
金印そのものは息子に持たせて長崎伊邪國に秘匿

子孫の難升米父によって、
倭国乱時の大物主を擁立して狗奴国勃興

119:日本@名無史さん
22/07/24 10:50:26.76 XH7xXl7n4
オシホミミが奴国制圧を命じられた時は、
天浮橋、つまり長浜半島の先端の須崎から、奴国を遠望して、
疫病の感染者がのたうち回り、死者が河口に浮かんでいるのを見て、
とても軍で入れる状態ではない(こちらも感染してしまう)ので、
引き返した。

その後に奴国へ送りこまれた使者の人選基準というのは、
疫病に罹患して、回復した人物、だったのでしょうね。

弥生時代の人々も、一度疫病に罹って回復した人は再感染しにくくなる(免疫)
ことに気づいていて、疫病の只中へ訪ねていく使者の人選を行ったということでしょうね。

120:日本@名無史さん
22/07/24 10:53:18.08 XH7xXl7n4
ニニギが旧伊都(吉武遺跡)から新伊都(三雲遺跡)へ移動しようとしている時に、
天之八衢に現れたサルタヒコというのは、
日向峠に工房を持っていた工人だということになります。

日向峠のサルタヒコが、夕日をバックにして、旧伊都=吉武遺跡側からの使者と相対したら、
夕日は東の早良平野と福岡平野、つまり伊都説での高天原と葦原那珂津国とを照らすことになります。

その光を顔面で受けて立つアメノウズメとは、銅鏡を額につけていた巫女なのでしょう。

サルタヒコの
目が赤いのは、鍛冶炉の光で焼けているから、
七咫の鼻は、鍛冶職人の仕事道具であるふいごですね。筑紫型の。

121:日本@名無史さん
22/07/24 10:56:52.91 XH7xXl7n4
ここで初めて出迎える、ということは、
早良吉武遺跡側ではなく、
行く先の柏崎遺跡側のお抱え工人だったことになりますね。
高い確率でオルドス式銅剣(遼寧式銅剣・双環柄頭短剣)の一族であり、
カモの入植先と同期しています。

高島市の熊野本遺跡のように、山中に工房を営み、木材・炭をある程度自給していたのでしょう。
日向峠にも熊野本遺跡程度の工房跡は眠っている筈ですね。

また遼寧式銅剣だと燕の勢力範囲と重なっており、
ということは、古浦砂丘遺跡の工人も含めて、108年に渡来した燕系工人だった可能性が高くなり、
古浦砂丘遺跡においても本来は、遼寧式銅剣があったのだけれども、
中細形銅剣c類の原料としてリサイクルされたのだろう、
と予想されますね。

カモ+燕(+吉武王家)
 VS
ワニ+奴族(+吉武王族ムナカタ将軍家)
の構図が浮かんできますね。

シーソーのように、一方が失脚すると、もう一方が栄える。

122:日本@名無史さん
22/07/24 10:58:26.79 XH7xXl7n4
故爾 詔天津日子番能邇邇藝命而
離天之石位 押分天之八重多那雲而
伊都能知和岐知和岐弖
於天浮橋 宇岐
士摩理 蘇理多多斯弖
天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣

ニニギ(既にニギ=伊都知事となっていた)
天の磐座(吉武高木宮殿)を離れて、天の八重棚雲を押し分けて、
伊都の道を威風堂々と進んで、
天浮橋(福崎)から出港して(海上に浮き)
斯馬國(当時は島だった糸島半島)に途中休憩でお立ち寄りになり、
筑紫の日向(糸島平野)の高祖宮管内のクシフル岳に天降りされました。

123:日本@名無史さん
22/07/24 15:47:28.22 XH7xXl7n4
ニニギが笠沙の岬でコノハナサクヤに出会うわけですが、
一夜の契りで妊娠したため、国津神の子ではないかと疑いますね。

この国津神が指すのは、
もちろん直前まで栄えていた奴族の可能性もありますが、
奴族の奴国は東向こうで伊都を挟んではるか反対方向ですね。

文脈からは、親のオオヤマツミを除けば、
直前に出てきた国津神はサルタヒコですから、
サルタヒコの子ではないかと疑った流れにも読めますね。

ちなみにヒコがつくことから、北部九州倭国になにがしかの所領を持っていたことになります。
前述のごとく日向峠の青銅工房とその周辺でしょうけども。

124:日本@名無史さん
22/07/24 15:48:17.72 XH7xXl7n4
ということは、
カモ女性が、前108年にやってきた旧燕王族貴族や工人頭と、婚姻をすることがままあったことになります。
その前提条件があったから、疑われたわけですね。

70から、土井ヶ浜遺跡の英雄の骨年齢、を引き算して、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の年代=銅矛銅剣戦争の終結が20年代と推測されるので、

前108年から後20年代までは、カモ遺跡に燕支配層の血がある程度入ることがあった。

後20年代から70年までは、銅剣集団に勝者の中広型銅矛将軍転じて奴国王の血が大量に入った。

125:日本@名無史さん
22/07/24 15:49:12.85 XH7xXl7n4
>>112
朝鮮半島北部で考えると、
前195に建国された燕系の衛氏朝鮮が、前108に前漢によって滅ぼされます。

その後、楽浪郡の周囲には、
?王之印、の?の系列の国である、?、高句麗、夫餘、東沃沮、が
楽浪郡を取り囲むように存在していますので、
おそらくこれら?の系列の国が、前漢と同盟して、衛氏朝鮮を滅ぼした、
と考えるのが妥当ですね。

奴族もまた?系であり、三雲遺跡の漢・楽浪人とは昵懇で、
青銅原料の大量入手が可能だった。
そこから勢力を伸ばし、銅剣銅矛戦争に勝利して、
奴国王が漢から金印を貰う流れになったと考えることもできますね。

126:日本@名無史さん
22/07/24 22:04:07.96 XH7xXl7n4
田〇山遺跡

宍道湖の東南湖畔にある丘陵上の環濠遺跡
頂上部に柱穴9本の掘立柱建物と5本の掘立柱建物の2つだけを三重環濠で囲っている

竪穴住居は環濠の外
北西斜面の竪穴住居に焼失跡あり
北500メートルにある環濠集落の神後田遺跡も同一生活圏

硯出土
銅剣型石剣(滋賀県高島市の石か)
多数の石(葺石もしくは石礫)

頂上の柱穴9本の掘立柱建物は北北東を向いており、
その先には宍道湖の嫁ヶ島(竹生島神社)がある
嫁ヶ島の竹生島神社は神後田遺跡の野代神社管轄(大己貴命、事代主命、建御名方命)

127:日本@名無史さん
22/07/24 22:07:01.66 XH7xXl7n4
九州説と関係なく、
記紀と出雲国風土記から、
カモのタギリヒメがアヂスキタカヒコネを出雲で産んだわけですから、
タギリヒメも関わる祭祀遺跡であった可能性を仮定できますね。

さらに出雲国風土記には、
宍道湖の対岸(北東岸)である楯縫郡の条にて、
「阿遅須枳高日子命之后 天御梶日女命 来坐多忠村 産給多伎都比古命
 爾時教詔 汝命之御祖之向位欲生 此處宜也
 所謂石神者 即是多伎都比古命之御託 当旱乞雨時必令零也」
アヂスキタカヒコネの后である、天御梶日女命が、多伎都比古命を産む際に、
楯縫郡の神名樋山にて、多伎都比古命の「祖先の向かい」位で産みたいから、ここがよろしい。
「石神」といって、多伎都比古命が雨ごいすれば必ず雨を降らせてくれる。

と言っており、
まさに田〇山遺跡は、地理的にも宍道湖を挟んで真向かいですし、
葺石で葺かれていたあるいは石礫で祭祀を行っていた、と考えられていますから、
タギリヒメが関わっていた可能性が高くなってきます。

128:日本@名無史さん
22/07/24 22:09:07.38 XH7xXl7n4
九州説で考えてみると、
オルドス式銅剣が、柏崎遺跡~高島市上御殿遺跡
硯が、北部九州~田〇山遺跡
高島市産の石で作られた中細型銅剣型石剣
宗像三女神の沖ノ島祭祀の投影が、竹生島に向けた遥拝所

ということで、古代豊国カモ系の、沖ノ島女神祭祀・銅剣祭祀であろうと考えられますね。

タギリヒメ~伊都岐島ヒメ・コノハナサクヤヒメ~~卑弥呼

129:日本@名無史さん
22/07/24 22:11:13.30 XH7xXl7n4
>>124
>前108年から後20年代までは、カモ遺跡に燕支配層の血がある程度入ることがあった。

荒神谷遺跡の鉛同位体比からの燕系素材の示唆を加味すると、
亡命燕王族とカモは親密になった。
亡命燕王族は吉武高木集団の配下に入り、その一部が地方領を得て松江市に赴任した。

代々カモ女王筋の姫が嫁入りし、沖ノ島(竹生島)遥拝祭祀をしていた。
5本の掘立柱建物は物見やぐら兼避雷針。

T姫の代になって、
北部九州~瀬戸内木俣を巡って、N命とY姫が夫婦喧嘩を始めた。
銅矛銅剣戦争末期に、同族のT姫と夫の燕亡命勢も参戦の準備を始めた。

それを察知したN命の大軍がやって来て、征服された。

130:日本@名無史さん
22/07/24 22:11:57.15 XH7xXl7n4
佐太神社というのは、
笠沙岬~日向にいた猿田彦とは同族、あるいはその元王であった、
ということですね。

伊都説だと三雲南小路1号がニニギとなりますから、
有柄中細形銅剣が棺外に添えられていたということは、サルタヒコは、
新伊都大王のお抱え工人として取り立てられていた、ということですね。

131:日本@名無史さん
22/07/24 22:12:58.48 XH7xXl7n4
>>82
出雲国風土記に、
西の神門郡の古志郷に古志國の人々が到来して堤を建設した、
とありますから、
古代越は、山口県から、最も東でも、出雲市よりは手前までだった、ということですね。

また、出雲国風土記にはスセリビメは1ヵ所しか登場せず、
同じく西の神門郡に鎮座したとあります。

よって、先の土笛なども合わせて考えると、
1世紀のこの地域は、
西の出雲市に八束水臣津野命の一族を筆頭に、
神魂命の綾門比女命、
古代越=土井ヶ浜遺跡を中心とする地域からの人々
田熊石畑遺跡将軍配下の部隊+ワニ
などが混在。

東の松江市の東部に、
斉からの土笛難民(西川津遺跡とタテチョウ遺跡)
そしてなんとその領主に燕王族+カモ(神後田遺跡+田〇山遺跡)

という状況で、
環濠で厳重に防備しておく必要があったわけですね。

132:日本@名無史さん
22/07/24 22:13:36.10 XH7xXl7n4
出雲国風土記が教えてくれることがもう一つあります。

大原郡の条。
来次郷の由来に、
「所造天下大神命詔 八十神者 不置青垣山裏
 詔而 追撥時 此處追次坐 故云来次」
とあります。
要するに、大己貴命が、兄の八十神達を奴国には住まわせないと宣言して、追い払う時に、
ここで追いついた、ということです。
雲南市木次町ですね。

また同じ大原郡の条。城名樋山。
「所造天下大神大穴持命 為伐八十神 造城 故云城名樋也」
大己貴命が兄の八十神たちを征伐しようとして、城を造った。

つまり、奴国から兄達を追い出して、追いかけてきて、
兄達は雲南市木次町で一度追いつかれたけれども、中国山地の奥へと逃げて行ったので、
大己貴命は城を造ってしばらく対峙したわけですね。

その奥にあるのが、三次市。
四隅突出型墳丘墓が発祥したと言われる地ですね。

133:日本@名無史さん
22/07/24 22:33:22.47 XH7xXl7n4
0年頃に須玖遺跡の奴国有力者の末弟として産まれた。

15年頃に兄達と共に、鐘崎の平型銅剣女王の元へ求婚・商談に行ったところ、
平形銅剣女王に気に入られて結婚できた。

当主の座を狙う兄達から付け狙われ、
瀬戸内高地性集落群の奥の、和歌山の太田黒田遺跡に匿われたが、
武装した兄達が押しかけてきたので、再度瀬戸内高地性集落群を抜けて、
平形銅剣女王からするとライバルの、田熊石畑遺跡将軍の元に預けられた。

田熊石畑将軍の若い娘とデキて、将軍になんとか結婚を認めてもらう。

田熊石畑将軍の軍を借りて、奴国の兄達を攻撃。
さらに兄達を追って、将軍の若い娘とハネムーンも兼ねて出雲市へ。

雲南市木次町で追いつくが、兄達はさらに山奥へと逃走して取り逃がした。

134:日本@名無史さん
22/07/24 22:36:19.09 XH7xXl7n4
かねて険悪だった豊国二大部族が開戦。銅矛銅剣戦争。

義父である田熊石畑将軍の配下として参戦も、途中で田熊石畑将軍が死去し、
自らが将軍に昇格。
田熊石畑将軍死去の機を逃さず、T姫とその夫が同族の銅剣女王側に参戦。
銅剣領内の銅鐸をかき集めて、古浦砂丘遺跡の青銅職人が中細形銅剣c類を大量生産。

それを察知して、16尋の大軍で出雲市上陸→松江市制圧(だから北東の竪穴住居が焼け落ちた)

20年頃、銅剣女王国降伏。荒神谷遺跡で降伏調印式。
T姫を手に入れる。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の戦後処理をしている間に、
T姫がAタカヒコを出産。
T姫を豊国祭祀女王に推薦して、息子のAタカヒコを旧銅剣女王領の王とする。
土井ヶ浜女王も口説き落とす。

淡路島に舟木遺跡建設。

30年代、半島出兵。
30年代後半~40年頃、若き軍神が活躍。

135:日本@名無史さん
22/07/24 22:37:11.30 XH7xXl7n4
56年、伊都の楽浪郡史を舟木遺跡まで案内。東夷伝里程。
57年、軍神が大夫として訪漢。

>>118
70年に失脚するので、兄達の子孫は70年からボチボチ三次市から出てきて、
倭国乱の時期に、後漢書の東の倭種・四隅突出国家「拘奴国」を成す。

136:日本@名無史さん
22/07/25 22:53:57.58 SmQPQh+lr
>>128
霊性の高い祭祀遺跡を解析することで、
原始神道の源流である沖ノ島祭祀・銅剣祭祀が前108年までは遡るわけですね。

銅矛祭祀は銅剣祭祀からの発展ですし、
海・湖→池、の島、という形もここから。

沖ノ島祭祀とはすなわち、遠賀式土器・鐘崎式土器を伴って、全国に稲作展開していった、
原日本人の原始神道であり、

その聖地には山鹿貝塚の祭祀女王がいて、
記紀には骨取り神事の記録も対応して残っています。

遥か縄文時代まで遡ろうかという壮大な流れですね。

137:日本@名無史さん
22/07/29 00:05:04.10 cgcvkobX2
遠賀川・鐘崎から出港して各地に入植していった、元が同じカモ系とはいえ、
1世紀前半の時点で既に、分派していたわけですね。

紀元前に吉武高木大王が誕生して、
その東征王族将軍である田熊石畑遺跡将軍が、山口県土井ヶ浜遺跡女王・八岐大蛇などの勢力を倒して、
日本海沿岸を制圧。

>>116
>扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡は前285年には稼働していた。

吉武高木大王は、対馬海峡を押さえていますから、
金属器を初めとする海外交易品を完全掌握していて裕福です。
武装も強力ですね。

一方の豊国では、
古代出雲(遠賀川以西)のワニ部族は、田熊石畑遺跡(在豊国倭軍基地)を受け入れて、
利益を享受しましたが、

古代伯耆(遠賀川以東)のカモ部族は、倭軍占領地の先に独力で入植して、
木材や炭、米、生口、などを生産して、
それでもって倭と交易したわけですね。

138:日本@名無史さん
22/07/29 00:05:49.62 cgcvkobX2
琵琶湖の下之郷遺跡なども豊国カモの入植先で、
木材・炭や米を作って、扇谷遺跡や途中ケ丘遺跡などに供給して、
取引していたのでしょう。
時代が重なります。

それはもちろん、下之郷遺跡と扇谷遺跡だけの局地的な関係ではなくて、
下之郷遺跡などを擁するカモグループ全体と
扇谷遺跡などを擁する吉武高木グループ全体との、
広域交易サプライチェーンの一環として、という意味ですね。

139:日本@名無史さん
22/07/29 00:08:06.17 cgcvkobX2
カモの入植先は、同じ遠賀川からの先行稲作開拓民との争いが起きますから、
環濠集落+銅鐸Jアラートの防衛セットですね。

豊国ワニ+奴国王の旗印が中広型銅矛であるように、
カモの旗印は銅剣型石剣木剣あるいは祭祀型銅剣ですね。

過去スレで検討したように、
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の出土銅鐸との同笵銅鐸の分布、
銅剣型石剣木剣あるいは祭祀型銅剣の分布、
そして文献のカモ系と思われる勢力の分布、
とが一致しています。

そして前1世紀頃から、カモによって瀬戸内四国が開発されるのですが、
この頃から、古くからの日本海側と、
新規開発された瀬戸内四国側とで、微妙な違いが生じ始めますね。

140:日本@名無史さん
22/07/29 00:10:25.64 cgcvkobX2
日本海側を大山津見、瀬戸内四国を八上ヒメ、と考えます。

八上ヒメの勢力は、鐘崎式土器で瀬戸内四国~紀伊に入植して、
高地性集落を建設して、
弥生時代の石油である、木材・炭を大量生産して大儲けして、
奴国に発注して豪華な平型銅剣を大量に埋納します。

一方の大山津見の勢力は、こちらの方が旧来の貴種勢力なのですが、
高地性集落や祭祀型銅剣はありません。
前108年に燕王族を受け入れ、燕工人も同時に配下にします。
オルドス式銅剣の出土は、柏崎遺跡から日本海沿岸を東に山口県~琵琶湖高島市へ。
また柏崎遺跡から南に山を越えて吉野ヶ里遺跡へ。

文献でのアヂスキタカヒコネ関連をなぞりながら、
同笵銅鐸で岐阜までは追えて、
古代沖ノ島信仰からの竹生島信仰、さらにはHTLV-1の分布によって、日本海沿岸から琵琶湖沿岸までもなんとか関連付けることができますね。

141:日本@名無史さん
22/07/29 00:12:22.15 cgcvkobX2
豊国=古代出雲+古代伯耆は、
伊邪那岐・伊邪那美の時代は八雷神
吉武高木大王誕生時の政治変革で八山津見

八山津見を束ねる豊国女王が大山津見
(後の瀬戸内海の大山祇もカモ族ですが大山津見とは別ですね)

そう考えると、
八上ヒメが豊国女王の大山津見であれば、平型銅剣は日本海沿岸や琵琶湖にも配布していたはずですから、
八上ヒメはあくまでも、カモ女王系の地方女王であって、
非常に有能な実業家で、瀬戸内高地性集落群「木俣」を開発して、大儲けした女王である、
ということになりますね。

大山津見の本流とは違って、燕王族男性や吉武高木王族男性とは結婚していなくて、
奴族兄弟が求婚できるくらいの身分だった。

燕工人が配下に居ないので、高度な青銅器は奴国などに外注しなければならなかった。

配下の神官(巫女)である白ウサギに儀式を取り仕切らせて、
岡垣町に大型平型銅剣を埋納したり、豪勢に暮らしていたが、
豊国女王ではないので、豊国の舟を自由には動かせず、
沖ノ島祭祀をする際にワニの舟をチャーターしようとしてトラブルが起きたりした。

142:日本@名無史さん
22/07/29 00:14:28.61 cgcvkobX2
つらつら考えてみると、
奴族のお坊ちゃんたちが八上ヒメに求婚に行った、という時点で、
いくつかのことが決まって来ますね。

大己貴命の父親ですから、大勢の息子がいます。
多くの女性に多くの子供を産ませるのが家風でしょうか。
高句麗伝「其俗淫」

しかしそもそもで考えると、父親が健在なら、父親自らが八上ヒメを口説きに行くはずですね。

それが息子たちがぞろぞろ押しかけているということは、
・父親が死去した
・父親が超高齢
・父親が病床にある
といったことになります。

さらに、大己貴命が八上ヒメに選ばれた途端に大己貴命の命が狙われ、
大己貴命が兵権を得た途端に兄弟に逆襲をしかけるのですが、
それなら求婚の前に戦っていてもいいはずですね。その勝者が求婚すればいい。

と、いうことは、
父親は病床に臥せっているが、意識と威厳は保っていた。
父親が、自らの寿命を悟り、後継者を決めるのに、木俣の八上ヒメとの結婚を条件とした
兄弟は奴国当主の座をかけて八上ヒメの元へ求婚に行った
大己貴命が八上ヒメに選ばれた
その直後に、父親が死去した、あるいは不服な兄の一部に〇された
父親の威厳が亡くなって、そこからは腕力勝負になって、大己貴命がつけ狙われることとなった
ということになりますね。


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