邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3at HISTORY
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3 - 暇つぶし2ch102:日本@名無史さん
22/07/11 20:19:36 .net
>>101
>四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。

そもそも、「邪馬臺国」「阿波」へ行くのに瀬戸内海は通らないから。   @阿波

103:日本@名無史さん
22/07/11 23:13:40.30 .net
>>102
当時の人間なのか⁈まるで当時の海路を知っているかのようだけど。
いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬→北九州→関門海峡→瀬戸内海→徳島が凡人の俺にはこの海路が普通だと感じる。
熊本から鹿児島、高知から周るのはあまり賢い航海には感じないんだよ。当時の船の能力や技術がどの程度かにもよるけと。
後、当時の地形や陸地がどんな感じかにもよるけど。
当時は5~6メートル水位が低かったような文献をみたようなきもするが⁈
まあ、いろんな意見があるからこのネタは尽きない。

104:日本@名無史さん
22/07/12 06:28:19.69 .net
>>103
>いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬
そもそも、初っ端の「釜山→対馬」から間違い。 対馬海州に流されて対馬の着けない。   @阿波

105:日本@名無史さん
22/07/12 06:28:54.93 .net
>>103
>いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬
そもそも、初っ端の「釜山→対馬」から間違い。 対馬海流に流されて対馬に着けない。   @阿波

106:日本@名無史さん
22/07/19 23:40:20.63 FywT7dB7f
>>92
>おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。
スリット型ゴーグルだと、目の防護効果もありますね。
現代での作業時は透明のゴーグルで目を防護しますが、
弥生時代にガラスやプラスチックは有りませんから、スリットで金属片が目に入って怪我をするのを防護したのですね。

>>85
>銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
>戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。
つまりは、古浦砂丘遺跡の燕系青銅職人は、
「鋳造」ではなく、「鍛造」を行っていた、ということですね。

107:日本@名無史さん
22/07/20 00:16:43.39 QtCZ+7mQF
>>93
当時の経済における青銅器の価値にもよりますが、
銅鐸2個に対して、青銅剣士6人も護衛につけるのは多すぎで、
舟にはもっと多くの銅鐸が積まれていた筈ですね。

志谷奥遺跡のすぐ前の佐陀川河口の船着き場に上陸したところ、
留守中に侵攻してきていた中広型銅矛軍に出くわして、
とりあえず手で持てる銅鐸2個だけ掴んで丘を上へと逃げて、
そこで討ち死にした。

中広型銅矛軍は、
志谷奥遺跡の銅剣や銅鐸、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器、
などを鹵獲せず打ち捨てていますから、
既に鉄製武器を主兵装にしていたし、
対馬海峡経由での青銅原料入手にも困っていなかったわけですね。

よって、青銅剣士6人が運んできて、とりあえず掴んで逃げた、志谷奥遺跡の2つの銅鐸以外の、
おそらく掴んで逃げるには大きすぎたであろうサイズの銅鐸群は、そのまま船着き場で川面に破棄されて、
今も佐陀川河口辺りの水底の砂の中に眠っている可能性が高いですね。

108:日本@名無史さん
22/07/20 00:30:12.63 QtCZ+7mQF
また、青銅原料としての銅鐸群を海上輸送してきた青銅剣士6人が、
中海→大橋川→宍道湖の南コースでなく、
日本海側から志谷奥遺跡に上陸したということは、

燕系青銅職人の工房は、中海~大橋川~宍道湖に面した場所でなく、
日本海側から佐陀川の河口に入った辺りの川沿いにあったことになります。
例の古浦砂丘遺跡も日本海側ですね。

まだ未発見の青銅工房にも貴重な青銅器が眠っている可能性が高いですね。

109:日本@名無史さん
22/07/20 00:35:04.93 QtCZ+7mQF
燕国は、秦によって前222年に滅ぼされます。
数万人の燕人が朝鮮半島へ亡命したことが記録されており、
彼らがその後どうなったか記録されていませんから、その一部は日本列島にも難民として押し寄せた可能性があります。

衛氏朝鮮が旧燕国支配層の受け皿となって、燕国再興を目指しますが、
前漢(前206~)の成立時に、旧燕人による旧燕領奪取は失敗して、
旧燕国とは全然関係ない前漢の南方出身領主が着任しますね。

で、前漢の武帝によって、前108年に衛氏朝鮮が滅ぼされて、楽浪郡設置ですね。

つまり、前222年頃から、燕人の難民がやって来はじめて、
前108年には、旧燕国の支配層上流層も亡命してきた可能性が高い。

秦末期などには、旧燕勢力は燕再興に動いていたわけですから、その再興資金があったはずです。
徳川埋蔵金ならぬ燕再興資金ですね。
金銀財宝もあったでしょうが、青銅原料(インゴットや完形の青銅器)や青銅武器職人も、
再興軍資金や人的資源だったのでしょう。

前108年には、それら燕再興資金も一緒に渡来してきた可能性が非常に高い。

その末裔が中広型銅矛軍と敵対してしまい、敗北した結果が、荒神谷遺跡の中細形銅剣c類。

金銀宝飾品は中広型銅矛軍が接収していったでしょうが、
青銅器についてはどれもこれも埋納など放棄している。
ということは、佐陀川の河口近くの弥生青銅工房に、
紀元前の周あるいは燕の青銅器が眠っている可能性がありますね。

中広型銅矛軍にとってはただの青銅の塊だったかもしれませんが、
現代の我々にとっては。

110:日本@名無史さん
22/07/21 23:15:30.33 JWUluq2RB
陶?(トウケン)=土笛

卵型のオカリナのような吹奏楽器
古代中国で殷代から使用されていた
漢代には宮廷音楽で使用されたが、その後廃れた

朝鮮半島からは出土していない

日本での出土は100個前後
 山陰地方でほぼ全て
 半数以上が島根県松江市の西川津遺跡とタテチョウ遺跡
  東に隣接した米子市目久美遺跡(加茂川流域)や青谷上寺地遺跡からも少数出土
 次に山口県下関市周辺の中ノ浜遺跡や綾羅木郷遺跡
 東の丹後半島の扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡から少数

 九州では宗像の光岡長尾遺跡と北九州市の高槻遺跡のみ

 遠く離れて弥生時代後期に静岡県浜松市の伊場遺跡から1個


中国で殷代から使われていた土笛が、
朝鮮半島並びに北部九州倭国をすっ飛ばして、
日本海沿岸から集中出土しているわけですね。

111:日本@名無史さん
22/07/21 23:16:15.29 JWUluq2RB
燕の青銅器や青銅職人がやって来ているのだから、
燕人が土笛をもってやって来た、と安直に考えたいところですが、
矛盾が生じますね。

燕は最盛期には朝鮮半島北部を領有していた時代もありますし、
燕が滅亡した後の衛氏朝鮮も、旧燕関係者の国でしたし、
戦乱で燕人が数万人も朝鮮半島に避難してきた記録も残っています。

ですから、日本列島に土笛を持ち込んだのが燕人であれば、
朝鮮半島にも土笛が出土するはずなんですね。

ですから、燕や衛氏朝鮮の影響が強かった朝鮮半島に土笛が出土しないということは、
土笛集団というのは、むしろ燕とは敵対していた勢力の人々であった、
ということになります。

だから、朝鮮半島には入れずに、
直接日本列島まで流浪してきたわけですね。

112:日本@名無史さん
22/07/21 23:18:23.62 JWUluq2RB
燕(前1100頃~前222)
 北京~遼東(~朝鮮半島北部)

斉(姜斉:前1046~前386、田斉:前386~前221)
 山東半島
 姜斉は周の太公望によって建国された周代の重要国
 姜斉に成り代わった田斉も周から任ぜられた戦国七雄
 斉は燕の南に接する山東半島の強国だった


前664-663 北方から攻められた燕を、姜斉の桓公が助ける

前314 燕の内乱に乗じて田斉が燕に攻め込み、一時的に燕滅亡
前285-284 燕の楽毅が5か国連合軍を率いて斉に攻め込み、首都臨?を陥落、斉領土の大半を占領
前279 楽毅が趙へ移籍して、斉が領土を取り返す

秦による統一
前226 燕の首都陥落
前222 燕王が逃れた先の遼東にも秦が侵攻、平壌で捕らえられ燕滅亡
前221 斉は西に軍を集中させていたが、秦は旧燕領の北から攻め込み、斉滅亡、秦建国

前206 前漢建国
前195 旧燕貴族によって衛氏朝鮮建国
前108 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡設置

113:日本@名無史さん
22/07/21 23:19:42.50 JWUluq2RB
こうして見ると、日本列島に土笛をもたらす集団は、
・燕と敵対している=朝鮮半島に入れない
・対馬海峡へ辿り着ける=山東半島よりは北の沿岸部(楚人なら南へ逃げる)
の条件を満たす、
「前284年に大敗した斉」の人々しかありませんね。

前221年に斉が滅亡した時であれば、燕は前年に滅亡しているため、
斉人は箕子朝鮮にある程度は受け入れられたはずですね。

前284年の、勢い盛んだった燕に大敗したので、斉の人々が大量に海へ逃げだしたものの、
燕影響下の朝鮮半島には居つけなくて、
朝鮮半島南部まで流れて、倭に泣きついて、なんとか受け入れてもらったわけですね。

114:日本@名無史さん
22/07/21 23:21:45.00 JWUluq2RB
日本列島側に目を向けてみます。

対馬海峡~唐津~糸島を統一した倭人・男系
古代出雲(宗像市など遠賀川以西)と古代伯耆(北九州市など遠賀川以東)の豊人・女系
が婚姻同盟して、佐賀県福岡県の北岸を統一します。

統一王が吉武高木大王ですね。旧伊都です。倭人伝の里程ですね。

吉武高木大王系の東征将軍が宗像の田熊石畑遺跡将軍。

関門海峡を越えた、古代越の勢力を征討して、日本海沿岸を支配します。

扇谷遺跡が運営されたということは、朝鮮半島からの鉄原料の安定供給が丹後半島まで成されていたわけで、
日本海沿岸は吉武高木大王が安定支配していたことになります。

115:日本@名無史さん
22/07/21 23:22:32.23 JWUluq2RB
土笛の分布は特徴的で、
九州において、わずかに豊国から3点出土するのみですね。

もし九州がバラバラの小国だったのなら、
土笛の人々はそれぞれの国に受け入れられたり受け入れられなかったり、
あるいは南部など未開の地域に勝手に入植したりと、
九州のあちこちから土笛が出土するはずです。

それが、まるで誘導されたかのように、松江周辺と下関周辺から集中出土する。

ということは、対馬海峡~北部九州~日本海沿岸の少なくとも丹後半島までは、
吉武高木遺跡の宮殿にいた殿上人達によって支配されていて、
斉からの難民を対馬海峡渡海させて受け入れることを決めたり、
松江や下関に居住させることを決めたり、
国家的判断を下した、ということを意味していますね。

116:日本@名無史さん
22/07/21 23:25:10.57 JWUluq2RB
・対馬海峡~北部九州~日本海沿岸は、吉武高木政治集団によって支配されていた

・斉の土笛難民は、吉武高木政治集団によって、対馬海峡渡海を許された
・斉の土笛難民は、吉武高木政治集団によって、松江と下関に居住を許された

・唐津や旧伊都(吉武高木)や奴国に土笛が出ないので、土笛難民は、王族を含まない一般人主体の難民だった

・琵琶湖沿岸や瀬戸内沿岸や紀伊土佐といった、カモ系の銅鐸+環濠集落の入植先と同期していないので、
 斉の土笛難民は、古代越の旧八岐大蛇系の土地に押しつけられた

・扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡は前285年には稼働していた。

117:日本@名無史さん
22/07/24 10:49:06.70 XH7xXl7n4
>>82
天浮橋については、
現代の地図を見ると、金印志賀島に連なる海の中道だと考える向きが多いですが、
福岡市の古地図を見ると、西鉄平尾~北へ~福崎~東へ~長浜~須崎、が半島となっており、
こちらの方が天浮橋だった可能性が高いですね。

海の中道だと、奴國あるいは不彌國の領域ですから、下界側ですね。
平尾~福崎長浜須崎の半島であれば、伊都側ですから、「天」浮橋と、天を冠して矛盾がありません。

118:日本@名無史さん
22/07/24 10:49:42.05 XH7xXl7n4
57年光武帝に謁見して金印拝領
58年金印来倭(倭人伝里程)
  大倭が設置され、本部は硯出土の旧三輪町、長官が大物主

疫病も同時に来倭して奴國不彌國を震源に大流行

59年頃から国譲りイベント開始
使者で+11年
70年に奴國大洪水が起きて奴國王失脚

奴国王は、洪水被害の雀居遺跡から、
妻の実家の古代出雲=宗像に避難した先で、捕縛

金印を管理する軍神は諏訪に逃げるも、
金印そのものは息子に持たせて長崎伊邪國に秘匿

子孫の難升米父によって、
倭国乱時の大物主を擁立して狗奴国勃興

119:日本@名無史さん
22/07/24 10:50:26.76 XH7xXl7n4
オシホミミが奴国制圧を命じられた時は、
天浮橋、つまり長浜半島の先端の須崎から、奴国を遠望して、
疫病の感染者がのたうち回り、死者が河口に浮かんでいるのを見て、
とても軍で入れる状態ではない(こちらも感染してしまう)ので、
引き返した。

その後に奴国へ送りこまれた使者の人選基準というのは、
疫病に罹患して、回復した人物、だったのでしょうね。

弥生時代の人々も、一度疫病に罹って回復した人は再感染しにくくなる(免疫)
ことに気づいていて、疫病の只中へ訪ねていく使者の人選を行ったということでしょうね。

120:日本@名無史さん
22/07/24 10:53:18.08 XH7xXl7n4
ニニギが旧伊都(吉武遺跡)から新伊都(三雲遺跡)へ移動しようとしている時に、
天之八衢に現れたサルタヒコというのは、
日向峠に工房を持っていた工人だということになります。

日向峠のサルタヒコが、夕日をバックにして、旧伊都=吉武遺跡側からの使者と相対したら、
夕日は東の早良平野と福岡平野、つまり伊都説での高天原と葦原那珂津国とを照らすことになります。

その光を顔面で受けて立つアメノウズメとは、銅鏡を額につけていた巫女なのでしょう。

サルタヒコの
目が赤いのは、鍛冶炉の光で焼けているから、
七咫の鼻は、鍛冶職人の仕事道具であるふいごですね。筑紫型の。

121:日本@名無史さん
22/07/24 10:56:52.91 XH7xXl7n4
ここで初めて出迎える、ということは、
早良吉武遺跡側ではなく、
行く先の柏崎遺跡側のお抱え工人だったことになりますね。
高い確率でオルドス式銅剣(遼寧式銅剣・双環柄頭短剣)の一族であり、
カモの入植先と同期しています。

高島市の熊野本遺跡のように、山中に工房を営み、木材・炭をある程度自給していたのでしょう。
日向峠にも熊野本遺跡程度の工房跡は眠っている筈ですね。

また遼寧式銅剣だと燕の勢力範囲と重なっており、
ということは、古浦砂丘遺跡の工人も含めて、108年に渡来した燕系工人だった可能性が高くなり、
古浦砂丘遺跡においても本来は、遼寧式銅剣があったのだけれども、
中細形銅剣c類の原料としてリサイクルされたのだろう、
と予想されますね。

カモ+燕(+吉武王家)
 VS
ワニ+奴族(+吉武王族ムナカタ将軍家)
の構図が浮かんできますね。

シーソーのように、一方が失脚すると、もう一方が栄える。

122:日本@名無史さん
22/07/24 10:58:26.79 XH7xXl7n4
故爾 詔天津日子番能邇邇藝命而
離天之石位 押分天之八重多那雲而
伊都能知和岐知和岐弖
於天浮橋 宇岐
士摩理 蘇理多多斯弖
天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣

ニニギ(既にニギ=伊都知事となっていた)
天の磐座(吉武高木宮殿)を離れて、天の八重棚雲を押し分けて、
伊都の道を威風堂々と進んで、
天浮橋(福崎)から出港して(海上に浮き)
斯馬國(当時は島だった糸島半島)に途中休憩でお立ち寄りになり、
筑紫の日向(糸島平野)の高祖宮管内のクシフル岳に天降りされました。

123:日本@名無史さん
22/07/24 15:47:28.22 XH7xXl7n4
ニニギが笠沙の岬でコノハナサクヤに出会うわけですが、
一夜の契りで妊娠したため、国津神の子ではないかと疑いますね。

この国津神が指すのは、
もちろん直前まで栄えていた奴族の可能性もありますが、
奴族の奴国は東向こうで伊都を挟んではるか反対方向ですね。

文脈からは、親のオオヤマツミを除けば、
直前に出てきた国津神はサルタヒコですから、
サルタヒコの子ではないかと疑った流れにも読めますね。

ちなみにヒコがつくことから、北部九州倭国になにがしかの所領を持っていたことになります。
前述のごとく日向峠の青銅工房とその周辺でしょうけども。

124:日本@名無史さん
22/07/24 15:48:17.72 XH7xXl7n4
ということは、
カモ女性が、前108年にやってきた旧燕王族貴族や工人頭と、婚姻をすることがままあったことになります。
その前提条件があったから、疑われたわけですね。

70から、土井ヶ浜遺跡の英雄の骨年齢、を引き算して、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の年代=銅矛銅剣戦争の終結が20年代と推測されるので、

前108年から後20年代までは、カモ遺跡に燕支配層の血がある程度入ることがあった。

後20年代から70年までは、銅剣集団に勝者の中広型銅矛将軍転じて奴国王の血が大量に入った。

125:日本@名無史さん
22/07/24 15:49:12.85 XH7xXl7n4
>>112
朝鮮半島北部で考えると、
前195に建国された燕系の衛氏朝鮮が、前108に前漢によって滅ぼされます。

その後、楽浪郡の周囲には、
?王之印、の?の系列の国である、?、高句麗、夫餘、東沃沮、が
楽浪郡を取り囲むように存在していますので、
おそらくこれら?の系列の国が、前漢と同盟して、衛氏朝鮮を滅ぼした、
と考えるのが妥当ですね。

奴族もまた?系であり、三雲遺跡の漢・楽浪人とは昵懇で、
青銅原料の大量入手が可能だった。
そこから勢力を伸ばし、銅剣銅矛戦争に勝利して、
奴国王が漢から金印を貰う流れになったと考えることもできますね。

126:日本@名無史さん
22/07/24 22:04:07.96 XH7xXl7n4
田〇山遺跡

宍道湖の東南湖畔にある丘陵上の環濠遺跡
頂上部に柱穴9本の掘立柱建物と5本の掘立柱建物の2つだけを三重環濠で囲っている

竪穴住居は環濠の外
北西斜面の竪穴住居に焼失跡あり
北500メートルにある環濠集落の神後田遺跡も同一生活圏

硯出土
銅剣型石剣(滋賀県高島市の石か)
多数の石(葺石もしくは石礫)

頂上の柱穴9本の掘立柱建物は北北東を向いており、
その先には宍道湖の嫁ヶ島(竹生島神社)がある
嫁ヶ島の竹生島神社は神後田遺跡の野代神社管轄(大己貴命、事代主命、建御名方命)

127:日本@名無史さん
22/07/24 22:07:01.66 XH7xXl7n4
九州説と関係なく、
記紀と出雲国風土記から、
カモのタギリヒメがアヂスキタカヒコネを出雲で産んだわけですから、
タギリヒメも関わる祭祀遺跡であった可能性を仮定できますね。

さらに出雲国風土記には、
宍道湖の対岸(北東岸)である楯縫郡の条にて、
「阿遅須枳高日子命之后 天御梶日女命 来坐多忠村 産給多伎都比古命
 爾時教詔 汝命之御祖之向位欲生 此處宜也
 所謂石神者 即是多伎都比古命之御託 当旱乞雨時必令零也」
アヂスキタカヒコネの后である、天御梶日女命が、多伎都比古命を産む際に、
楯縫郡の神名樋山にて、多伎都比古命の「祖先の向かい」位で産みたいから、ここがよろしい。
「石神」といって、多伎都比古命が雨ごいすれば必ず雨を降らせてくれる。

と言っており、
まさに田〇山遺跡は、地理的にも宍道湖を挟んで真向かいですし、
葺石で葺かれていたあるいは石礫で祭祀を行っていた、と考えられていますから、
タギリヒメが関わっていた可能性が高くなってきます。

128:日本@名無史さん
22/07/24 22:09:07.38 XH7xXl7n4
九州説で考えてみると、
オルドス式銅剣が、柏崎遺跡~高島市上御殿遺跡
硯が、北部九州~田〇山遺跡
高島市産の石で作られた中細型銅剣型石剣
宗像三女神の沖ノ島祭祀の投影が、竹生島に向けた遥拝所

ということで、古代豊国カモ系の、沖ノ島女神祭祀・銅剣祭祀であろうと考えられますね。

タギリヒメ~伊都岐島ヒメ・コノハナサクヤヒメ~~卑弥呼

129:日本@名無史さん
22/07/24 22:11:13.30 XH7xXl7n4
>>124
>前108年から後20年代までは、カモ遺跡に燕支配層の血がある程度入ることがあった。

荒神谷遺跡の鉛同位体比からの燕系素材の示唆を加味すると、
亡命燕王族とカモは親密になった。
亡命燕王族は吉武高木集団の配下に入り、その一部が地方領を得て松江市に赴任した。

代々カモ女王筋の姫が嫁入りし、沖ノ島(竹生島)遥拝祭祀をしていた。
5本の掘立柱建物は物見やぐら兼避雷針。

T姫の代になって、
北部九州~瀬戸内木俣を巡って、N命とY姫が夫婦喧嘩を始めた。
銅矛銅剣戦争末期に、同族のT姫と夫の燕亡命勢も参戦の準備を始めた。

それを察知したN命の大軍がやって来て、征服された。

130:日本@名無史さん
22/07/24 22:11:57.15 XH7xXl7n4
佐太神社というのは、
笠沙岬~日向にいた猿田彦とは同族、あるいはその元王であった、
ということですね。

伊都説だと三雲南小路1号がニニギとなりますから、
有柄中細形銅剣が棺外に添えられていたということは、サルタヒコは、
新伊都大王のお抱え工人として取り立てられていた、ということですね。

131:日本@名無史さん
22/07/24 22:12:58.48 XH7xXl7n4
>>82
出雲国風土記に、
西の神門郡の古志郷に古志國の人々が到来して堤を建設した、
とありますから、
古代越は、山口県から、最も東でも、出雲市よりは手前までだった、ということですね。

また、出雲国風土記にはスセリビメは1ヵ所しか登場せず、
同じく西の神門郡に鎮座したとあります。

よって、先の土笛なども合わせて考えると、
1世紀のこの地域は、
西の出雲市に八束水臣津野命の一族を筆頭に、
神魂命の綾門比女命、
古代越=土井ヶ浜遺跡を中心とする地域からの人々
田熊石畑遺跡将軍配下の部隊+ワニ
などが混在。

東の松江市の東部に、
斉からの土笛難民(西川津遺跡とタテチョウ遺跡)
そしてなんとその領主に燕王族+カモ(神後田遺跡+田〇山遺跡)

という状況で、
環濠で厳重に防備しておく必要があったわけですね。

132:日本@名無史さん
22/07/24 22:13:36.10 XH7xXl7n4
出雲国風土記が教えてくれることがもう一つあります。

大原郡の条。
来次郷の由来に、
「所造天下大神命詔 八十神者 不置青垣山裏
 詔而 追撥時 此處追次坐 故云来次」
とあります。
要するに、大己貴命が、兄の八十神達を奴国には住まわせないと宣言して、追い払う時に、
ここで追いついた、ということです。
雲南市木次町ですね。

また同じ大原郡の条。城名樋山。
「所造天下大神大穴持命 為伐八十神 造城 故云城名樋也」
大己貴命が兄の八十神たちを征伐しようとして、城を造った。

つまり、奴国から兄達を追い出して、追いかけてきて、
兄達は雲南市木次町で一度追いつかれたけれども、中国山地の奥へと逃げて行ったので、
大己貴命は城を造ってしばらく対峙したわけですね。

その奥にあるのが、三次市。
四隅突出型墳丘墓が発祥したと言われる地ですね。

133:日本@名無史さん
22/07/24 22:33:22.47 XH7xXl7n4
0年頃に須玖遺跡の奴国有力者の末弟として産まれた。

15年頃に兄達と共に、鐘崎の平型銅剣女王の元へ求婚・商談に行ったところ、
平形銅剣女王に気に入られて結婚できた。

当主の座を狙う兄達から付け狙われ、
瀬戸内高地性集落群の奥の、和歌山の太田黒田遺跡に匿われたが、
武装した兄達が押しかけてきたので、再度瀬戸内高地性集落群を抜けて、
平形銅剣女王からするとライバルの、田熊石畑遺跡将軍の元に預けられた。

田熊石畑将軍の若い娘とデキて、将軍になんとか結婚を認めてもらう。

田熊石畑将軍の軍を借りて、奴国の兄達を攻撃。
さらに兄達を追って、将軍の若い娘とハネムーンも兼ねて出雲市へ。

雲南市木次町で追いつくが、兄達はさらに山奥へと逃走して取り逃がした。

134:日本@名無史さん
22/07/24 22:36:19.09 XH7xXl7n4
かねて険悪だった豊国二大部族が開戦。銅矛銅剣戦争。

義父である田熊石畑将軍の配下として参戦も、途中で田熊石畑将軍が死去し、
自らが将軍に昇格。
田熊石畑将軍死去の機を逃さず、T姫とその夫が同族の銅剣女王側に参戦。
銅剣領内の銅鐸をかき集めて、古浦砂丘遺跡の青銅職人が中細形銅剣c類を大量生産。

それを察知して、16尋の大軍で出雲市上陸→松江市制圧(だから北東の竪穴住居が焼け落ちた)

20年頃、銅剣女王国降伏。荒神谷遺跡で降伏調印式。
T姫を手に入れる。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の戦後処理をしている間に、
T姫がAタカヒコを出産。
T姫を豊国祭祀女王に推薦して、息子のAタカヒコを旧銅剣女王領の王とする。
土井ヶ浜女王も口説き落とす。

淡路島に舟木遺跡建設。

30年代、半島出兵。
30年代後半~40年頃、若き軍神が活躍。

135:日本@名無史さん
22/07/24 22:37:11.30 XH7xXl7n4
56年、伊都の楽浪郡史を舟木遺跡まで案内。東夷伝里程。
57年、軍神が大夫として訪漢。

>>118
70年に失脚するので、兄達の子孫は70年からボチボチ三次市から出てきて、
倭国乱の時期に、後漢書の東の倭種・四隅突出国家「拘奴国」を成す。

136:日本@名無史さん
22/07/25 22:53:57.58 SmQPQh+lr
>>128
霊性の高い祭祀遺跡を解析することで、
原始神道の源流である沖ノ島祭祀・銅剣祭祀が前108年までは遡るわけですね。

銅矛祭祀は銅剣祭祀からの発展ですし、
海・湖→池、の島、という形もここから。

沖ノ島祭祀とはすなわち、遠賀式土器・鐘崎式土器を伴って、全国に稲作展開していった、
原日本人の原始神道であり、

その聖地には山鹿貝塚の祭祀女王がいて、
記紀には骨取り神事の記録も対応して残っています。

遥か縄文時代まで遡ろうかという壮大な流れですね。

137:日本@名無史さん
22/07/29 00:05:04.10 cgcvkobX2
遠賀川・鐘崎から出港して各地に入植していった、元が同じカモ系とはいえ、
1世紀前半の時点で既に、分派していたわけですね。

紀元前に吉武高木大王が誕生して、
その東征王族将軍である田熊石畑遺跡将軍が、山口県土井ヶ浜遺跡女王・八岐大蛇などの勢力を倒して、
日本海沿岸を制圧。

>>116
>扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡は前285年には稼働していた。

吉武高木大王は、対馬海峡を押さえていますから、
金属器を初めとする海外交易品を完全掌握していて裕福です。
武装も強力ですね。

一方の豊国では、
古代出雲(遠賀川以西)のワニ部族は、田熊石畑遺跡(在豊国倭軍基地)を受け入れて、
利益を享受しましたが、

古代伯耆(遠賀川以東)のカモ部族は、倭軍占領地の先に独力で入植して、
木材や炭、米、生口、などを生産して、
それでもって倭と交易したわけですね。

138:日本@名無史さん
22/07/29 00:05:49.62 cgcvkobX2
琵琶湖の下之郷遺跡なども豊国カモの入植先で、
木材・炭や米を作って、扇谷遺跡や途中ケ丘遺跡などに供給して、
取引していたのでしょう。
時代が重なります。

それはもちろん、下之郷遺跡と扇谷遺跡だけの局地的な関係ではなくて、
下之郷遺跡などを擁するカモグループ全体と
扇谷遺跡などを擁する吉武高木グループ全体との、
広域交易サプライチェーンの一環として、という意味ですね。

139:日本@名無史さん
22/07/29 00:08:06.17 cgcvkobX2
カモの入植先は、同じ遠賀川からの先行稲作開拓民との争いが起きますから、
環濠集落+銅鐸Jアラートの防衛セットですね。

豊国ワニ+奴国王の旗印が中広型銅矛であるように、
カモの旗印は銅剣型石剣木剣あるいは祭祀型銅剣ですね。

過去スレで検討したように、
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の出土銅鐸との同笵銅鐸の分布、
銅剣型石剣木剣あるいは祭祀型銅剣の分布、
そして文献のカモ系と思われる勢力の分布、
とが一致しています。

そして前1世紀頃から、カモによって瀬戸内四国が開発されるのですが、
この頃から、古くからの日本海側と、
新規開発された瀬戸内四国側とで、微妙な違いが生じ始めますね。

140:日本@名無史さん
22/07/29 00:10:25.64 cgcvkobX2
日本海側を大山津見、瀬戸内四国を八上ヒメ、と考えます。

八上ヒメの勢力は、鐘崎式土器で瀬戸内四国~紀伊に入植して、
高地性集落を建設して、
弥生時代の石油である、木材・炭を大量生産して大儲けして、
奴国に発注して豪華な平型銅剣を大量に埋納します。

一方の大山津見の勢力は、こちらの方が旧来の貴種勢力なのですが、
高地性集落や祭祀型銅剣はありません。
前108年に燕王族を受け入れ、燕工人も同時に配下にします。
オルドス式銅剣の出土は、柏崎遺跡から日本海沿岸を東に山口県~琵琶湖高島市へ。
また柏崎遺跡から南に山を越えて吉野ヶ里遺跡へ。

文献でのアヂスキタカヒコネ関連をなぞりながら、
同笵銅鐸で岐阜までは追えて、
古代沖ノ島信仰からの竹生島信仰、さらにはHTLV-1の分布によって、日本海沿岸から琵琶湖沿岸までもなんとか関連付けることができますね。

141:日本@名無史さん
22/07/29 00:12:22.15 cgcvkobX2
豊国=古代出雲+古代伯耆は、
伊邪那岐・伊邪那美の時代は八雷神
吉武高木大王誕生時の政治変革で八山津見

八山津見を束ねる豊国女王が大山津見
(後の瀬戸内海の大山祇もカモ族ですが大山津見とは別ですね)

そう考えると、
八上ヒメが豊国女王の大山津見であれば、平型銅剣は日本海沿岸や琵琶湖にも配布していたはずですから、
八上ヒメはあくまでも、カモ女王系の地方女王であって、
非常に有能な実業家で、瀬戸内高地性集落群「木俣」を開発して、大儲けした女王である、
ということになりますね。

大山津見の本流とは違って、燕王族男性や吉武高木王族男性とは結婚していなくて、
奴族兄弟が求婚できるくらいの身分だった。

燕工人が配下に居ないので、高度な青銅器は奴国などに外注しなければならなかった。

配下の神官(巫女)である白ウサギに儀式を取り仕切らせて、
岡垣町に大型平型銅剣を埋納したり、豪勢に暮らしていたが、
豊国女王ではないので、豊国の舟を自由には動かせず、
沖ノ島祭祀をする際にワニの舟をチャーターしようとしてトラブルが起きたりした。

142:日本@名無史さん
22/07/29 00:14:28.61 cgcvkobX2
つらつら考えてみると、
奴族のお坊ちゃんたちが八上ヒメに求婚に行った、という時点で、
いくつかのことが決まって来ますね。

大己貴命の父親ですから、大勢の息子がいます。
多くの女性に多くの子供を産ませるのが家風でしょうか。
高句麗伝「其俗淫」

しかしそもそもで考えると、父親が健在なら、父親自らが八上ヒメを口説きに行くはずですね。

それが息子たちがぞろぞろ押しかけているということは、
・父親が死去した
・父親が超高齢
・父親が病床にある
といったことになります。

さらに、大己貴命が八上ヒメに選ばれた途端に大己貴命の命が狙われ、
大己貴命が兵権を得た途端に兄弟に逆襲をしかけるのですが、
それなら求婚の前に戦っていてもいいはずですね。その勝者が求婚すればいい。

と、いうことは、
父親は病床に臥せっているが、意識と威厳は保っていた。
父親が、自らの寿命を悟り、後継者を決めるのに、木俣の八上ヒメとの結婚を条件とした
兄弟は奴国当主の座をかけて八上ヒメの元へ求婚に行った
大己貴命が八上ヒメに選ばれた
その直後に、父親が死去した、あるいは不服な兄の一部に〇された
父親の威厳が亡くなって、そこからは腕力勝負になって、大己貴命がつけ狙われることとなった
ということになりますね。

143:日本@名無史さん
22/07/29 00:16:17.49 cgcvkobX2
コノハナサクヤヒメは大山津見の娘ですね。

大山津見を男と考えるなら、
そもそも唐津にいたのが大山津見で、その分派が豊国の八雷神→八山津見
伊邪那岐は大山津見の系列で、分派女王の伊邪那美を娶ったに過ぎない。

大山津見を女と考えるなら、
古事記では、父=乳=母、と考える。
書記本文では、天神が大山津見(女)を娶ったとある
書記の他一書では、父とあるのは一つだけで、あとは親であるのみ
ということで、女とも考えられます。

倭と豊国の関係からは、大山津見は豊国女王と考えるのが妥当で、
この場合は、市杵島姫神だと若すぎますから、
多紀理毘売命(田心姫神)が豊国女王の大山津見となります。

144:日本@名無史さん
22/07/29 00:17:11.80 cgcvkobX2
可能性が低い話とはなりますが、
T姫は、
佐太大神 田〇山遺跡
→奴国王 宗像豊国女王
→天神 柏崎遺跡
という人生遍歴を辿り、

??
アヂスキタカヒコネ・高ヒメ命(下照ヒメ)
天若ヒコ・コノハナサクヤヒメ・イワナガヒメ
という子を成した、のかもしれませんね。

145:日本@名無史さん
22/07/29 00:18:00.91 cgcvkobX2
?龍紋鏡

洛陽焼溝漢墓 33面 前32~後146

モンゴル・ウランバートルなど匈奴 8面

楽浪郡 2面
弁辰領域 3面(祭祀型銅戈)

佐賀県 武雄市2面 吉野ヶ里近傍2面
福岡県 平原遺跡径165最大 北九州市2面中間市2面
大分宮崎 1面ずつ

島根県松江市八雲町 1面
石川県羽咋市 1面
岐阜市瑞龍寺山 1面

岡山県 2面
兵庫県 2面
和歌山 3面

奈良県宇陀市 1面

愛知県 朝日遺跡 1面(祭祀型銅戈)
愛知県 名古屋市熱田区 1面

146:日本@名無史さん
22/07/29 00:18:54.37 cgcvkobX2
?龍紋鏡の分布も不思議ですね。

・前32年頃には成立していた前漢鏡で、洛陽での下限は146年
・祭祀型銅戈

・伊都・奴国(北部九州の中広型銅矛領域)からは出土しない
・唯一の例外が平原遺跡で、それが最大

・瀬戸内和歌山 八上ヒメ領域
・松江岐阜 大山津見領域

・カモ領域の重要拠点のうち、高地田村遺跡と琵琶湖沿岸には出ていない

147:日本@名無史さん
22/07/29 00:21:13.08 cgcvkobX2
洛陽から?龍紋鏡を数十枚入手できるチャンスというのはごく限られていますね。
楽浪郡に2枚しかないので、基本的には洛陽からの大量直輸入で、楽浪郡経由というのもほぼ除外されるでしょう。
旧燕王族は、前108年が下限ですし、反漢ですから違いますね。

となると、57年奴国王か、107年倭国王か。

伊都説で考えるなら、
107年倭国王は、新伊都2代目のあの方ですから、
奥さんは豊国女王になった八尋ワニのあのお方ですね。
?龍紋鏡を得たなら、伊都ならびに豊国のワニ領域である宗像を中心とする地域に分布するはず。

T姫やアヂスキタカヒコネが得たのなら、アヂスキタカヒコネは銅戈時代の有力者ですから、
やはり伊都中央政界にも出るはずですし、
大倭の官庁である旧三輪町など筑後平野にも分布するはずですね。

奴国=北部九州の中広型銅矛分布域=那珂川流域~宝満川流域(~熊本)
に出ないのがポイントですね。

148:日本@名無史さん
22/07/29 00:22:17.81 cgcvkobX2
57年奴国王であれば、銅剣女王国に勝利して、各地のカモ女性首長やその娘を
雀居遺跡に呼び集めて、多くの子をなした。卑奴母離

要するに、奴国王が、銅矛銅剣戦争にてカモに勝利して、
T姫を頂点として、貴種女性を大量に集めて子作りした。
その子供達に文字教育をして、?龍紋鏡を渡したうえで、卑奴母離として故郷の領主として戻していった。

大山津見領域も、八上ヒメ領域も、?龍紋鏡の分布が見事に重なりますね。

もちろん他族の女性とも子をなしたでしょうけれども、
T姫を豊国女王にして、カモ領域、特に瀬戸内高地性集落群=木材・炭の大量生産機構
を支配下に置くことが重要だったわけですね。

そしてその先の淡路島に舟木遺跡を建造して、
金印入手に繋がっていったわけですね。

149:日本@名無史さん
22/07/29 00:50:52.90 cgcvkobX2
>・カモ領域の重要拠点のうち、高地田村遺跡と琵琶湖沿岸には出ていない

過去スレで検討した通り、
琵琶湖沿岸にあった?龍紋鏡は、卑弥呼が持ち帰って、平原遺跡に入った。

高地田村遺跡にあった?龍紋鏡は、アヂスキタカヒコネが保有していたのだが、
海戦で失われて、今もどこかの海底で眠っている。

ただ、平原遺跡卑弥呼の?龍紋鏡は最大なので、
豊国女王のものだった可能性がありますね。

そうだとすると、それは宗像三女神の象徴であり、
T姫→アヂスキタカヒコネ→アヂスキタカヒコネ失脚後の大山津見領域管轄=??
奴国?馬觚(ウマシマジ)?→旧女王国=不彌國奴國のカモ系地域女王卑弥呼
→倭王卑弥呼(平原遺跡)

150:日本@名無史さん
22/08/06 17:39:09.71 zfqn+QZUr
田村遺跡からは平形銅剣は出土していませんね。
鐘崎式土器は出ているので、カモ系の元は同じでしょうけれども、
派閥は違ったわけですね。

大山津見:末蘆~古代伯耆~田和山~琵琶湖沿岸~京都岐阜奈良
八上ヒメ:祭祀型銅剣分布域、高地性集落群<木俣>
田村遺跡:裸國

田村遺跡範囲からは中広形銅矛、祭祀型銅戈、広形銅矛、は出土しています。

中広形銅矛は土佐全域から夥しい量が出土しているのに対して、
祭祀型銅戈は四万十など土佐東部から4本のみ。
土佐一宮がアヂスキタカヒコネ
土佐にキ龍紋鏡が無い
田村遺跡から方格規矩四神鏡片が出土
平形銅矛の分布を最後に衰退
という経過からは、

カモ系で、王はおらず、0年前後はそれなりに人口の多い村落群だった。
八上ヒメとは木材・炭の商売敵(同族ライバル)だった。
銅矛銅剣戦争では、銅矛側について貴重な兵員を提供し、その見返りに各村落に中広形銅矛が贈られた。
カモ王族系アヂスキタカヒコネ(銅戈)の所領となってさらに栄えた。
古代土佐=裸国の役所は、最初は中広形銅戈の四万十にあったが、後に広形銅戈・土佐神社の高知へ移った。
銅戈・広形銅矛戦争(アヂスキタカヒコネvs山幸+ワニ)にて田村遺跡が攻め込まれ、大幅に衰退した。

151:日本@名無史さん
22/08/06 17:40:43.10 zfqn+QZUr
要するに、キ鏡とは、58年から70年の間に、
カ系の領主(女性地方領主)やその娘に、ナ国王(あるいはその息子)が産ませた子が、
その出身地の新領主として派遣された際に、
その身分を示すものとして渡された銅鏡だったことになりますね。
伊都や奴国から出ませんから。

ただし、58年に来倭したのが247年平原遺跡や後の古墳などに伝世副葬されているので、
1世紀前半くらいまでのキ鏡は、配布された本人のものでしょうから、支配地もイコールと考えて考察できますが、
1世紀後半以降のもの、あるいは破鏡などは、伝世したその子孫のものであることになり、
ということは、その子孫が仕官や軍事に伴って任地が移動している可能性はありますね。

152:日本@名無史さん
22/08/06 17:42:06.32 zfqn+QZUr
松江市八雲町の小屋谷3号墳からもキ鏡が出土していますが、95cmとやや小振りですから、
出雲国風土記からは、アヂスキタカヒコネの息子の多伎都比古命か塩冶毘古能命の可能性が高いですね。
ただ二人ともヒコがついているので、北部九州倭国で仕官した経歴があることになります。

時代を経て考えると、
58年~70年の松江周辺は、タケミナカタが領主だったと思われるので、
その時期に、多伎都比古命or塩冶毘古能命は北部九州倭国で仕官していた。
70年にタケミナカタが逃走し、
カモ系アヂスキタカヒコネが有力者となるので、その息子の多伎都比古命or塩冶毘古能命が、
故郷の領主として派遣された。

1世紀初頭の銅戈・広形銅矛戦争でアヂスキタカヒコネが失脚するので、
小屋谷3号墳はそれよりも前ということになり、
多伎都比古命or塩冶毘古能命はアヂスキタカヒコネより先に亡くなって、
小屋谷3号墳に葬られたことになりますね。

153:日本@名無史さん
22/08/06 17:45:03.38 zfqn+QZUr
大元の古代伯耆(豊国遠賀川以東)では、北九州市と中間市から2面ずつ出土しています。

と、いうことは、古代伯耆のカモ系支配者は、北九州市と中間市に1人ずつという政治区分だった、
ということですね。

北九州市の南方浦山墳丘墓からは、平原遺跡165cmに次ぐ145cmのものが出ていますから、
これがカモ王族の本貫であり、
広形銅矛時代以降はワニ支配下に入りながらも、
カモ王族系譜の領主もなんとか存続していたことになります。

154:日本@名無史さん
22/08/06 17:46:21.88 zfqn+QZUr
佐賀平野に目を向けると、中央の佐賀市などには出ず、
西の武雄市と東の吉野ヶ里近郊に出ています。

と、いうことは、
佐賀中央の領主としては、末蘆~伊都王族系の支配者が分布していた。
その両端辺境部に、カ系の支配者がいた。
銅矛銅剣戦争時に、武雄市にも吉野ヶ里近郊にも中広形銅矛が出土=進軍占領している。
カ系(女性)支配者もしくはその娘が、中広形銅矛将軍の元で産んだ子が、
キ鏡を持って赴任した。

155:日本@名無史さん
22/08/06 20:31:59.34 zfqn+QZUr
そうなると、165cmを保有する資格があるのはA大神しかありえないですね。
過去スレで検討した通り、卑弥呼はT姫などに連なる大山津見系のカ系女王筋であり、
琵琶湖~丹後半島からの出戻り出世組なわけですから、
A大神と母系が縁戚であることは既に明らかだったわけですが、
165cmを保有していたということは、A大神の子孫であった、ということになりますね。

156:日本@名無史さん
22/08/06 21:04:45.75 zfqn+QZUr
もう一柱いらっしゃいましたね。
父親はN国王と明記され、
おそらくカ系で、A大神がワ国重臣に出世したのと同期してブ国女王となった。
I姫。
卑弥呼は女性ですから、女系相続とすればこのお方ですね。
T姫が遥拝していたのも、琵琶湖も、竹〇島ですし。

157:日本@名無史さん
22/08/06 21:05:25.78 zfqn+QZUr
銅戈・広形銅矛戦争の顛末にて、ワ系がワ国皇后とブ国女王の実権を握った。

失脚したカ系A大神の長男は145を相続したが、大元のブ国東部の地方領地に押し込まれて、
ワ系ブ国女王の配下としてある意味監視下に置かれた。

カ系女王165の相続女子は、現代と感覚が逆ですが、はるか東方に転封された。

158:日本@名無史さん
22/08/06 21:11:51.21 zfqn+QZUr
明記はされていませんでしたね。
上2人はNが結婚しましたが、下1人はしていません。
中細形銅矛将軍から娘婿の中広形銅矛将軍に将軍職が譲られたと考えた場合には、
Nの娘になりうるという話でしたね。

そう考えると、T姫は中広形銅矛将軍の二人目のワ系奥さんと父親が同じということになりますね。
母親はワ系とカ系ですから違うことが明らかということになります。

159:日本@名無史さん
22/08/06 23:18:34.00 zfqn+QZUr
>>149
女系だとこうなりますね。

T姫→I姫(→?姫)
→A大神失脚に連動して大山津見領域の東端である琵琶湖へ
→?姫数人?
→カ系地域女王・卑彌呼の旧領=女王国(=府庁不彌國千家+奴國)
→倭共立女王・卑彌呼(邪馬台国首都=魏代伊都、平原遺跡)

160:日本@名無史さん
22/08/07 15:06:51.06 6EHNkogi6
出雲国風土記に登場する御穂須須美命(ミホススミ)についてです。

島根郡の条、美保郷
『所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命而
 令産神 御穂須々美命 是神坐矣 故云美保』
大国主命が、高志國にいらっしゃるヌナカワ姫(沖津クライの子の、辺津クライの子)を娶って産まれたのが、
ミホススミの神である。
ミホススミの神がいらっしゃるので美保と云う。

親が同じタケミナカタは出雲国風土記に登場しませんから、
ミホススミはタケミナカタと同神とも言われていますね。

祀られているのは、
肝心の島根では、美保神社の境外社(地主社)に1

日本海沿岸で東に進んで、
能登半島の東端で、石川県珠洲市1、富山県氷見市1
新潟県沿岸に13(出雲崎町2長岡市11)

そこから内陸に入って、
長野県5(中野上田千曲市各1佐久市2)
群馬県8(中之条東吾妻町各1、渋川市2、前橋市4)
先奥が、埼玉県さいたま市岩槻区1

161:日本@名無史さん
22/08/07 15:08:57.98 6EHNkogi6
ミホススミとタケミナカタは活動領域が明らかに被っているのにも関わらず、
二人が同時に登場したり二人が絡んだりする話が残っていないことから、
ミホススミとタケミナカタは、同一神と考えるのが妥当ですね。

別々であれば、出雲国風土記にヌナカワ姫の祖先まで書かれているのだから、
タケミナカタも登場するはずですし、
逆にタケミカヅチに敗戦して諏訪に逃げる途上でミホススミが登場したり、
諏訪での地元勢力とタケミナカタとの伝承にも必ず絡んだはずです。

タケヌナカワ命とタケミナカタ命のように名前がかぶっていれば、
それぞれ領地が別の兄弟と考えられますね。

ミホススミとタケミナカタは別系統の名前ですので、
ミホススミが若い頃の名で、出世してタケミナカタになったのだろう、
と推測されますね。

162:日本@名無史さん
22/08/07 15:10:43.82 6EHNkogi6
そう考えると、奴国王と土井ヶ浜遺跡女王の間で、20年代に出生。
母の山口県所領は兄が相続。

30年代中ごろに元服して、外部からの派遣領主として美保に赴任してきたわけですね。

>>131
当時の状況としては、
西の出雲市には、ワニ系部隊が常駐。
荒神谷遺跡に埋納してまだ数年ですから、万一場所を特定されて掘り返されて反乱されないよう、
見張っている必要がありますね。

東の松江市の、
北部:佐陀川流域に旧燕人
南西部:カモ系(神後田遺跡など)
南東部:土笛斉人(西川津遺跡とタテチョウ遺跡)

王を倒された燕人や、銅矛銅剣戦争で敗北したカモ系などは、
復讐心に燃えていた盛りでしょうから、
反乱一揆が頻発して騒然とした地域だったことでしょう。

海上輸送が主体の弥生時代において、現出雲は、
日本海沿岸において若狭湾に次ぐ要衝ですから、
奴国王からすれば、カモや燕系ではない領主を置いておきたかった。

そこで選ばれたわけですね。

163:日本@名無史さん
22/08/07 15:11:38.89 6EHNkogi6
美保に坐したということは、
現出雲の西部、つまり出雲市については、ワニや吉武高木王系の東征将軍の統治下のままで、
ミホススミの所領は、現出雲の東部のみ、つまり松江市とその周辺であった、
ということでしょうね。

現出雲の全域を支配するのなら、出雲市にいれば安全なはずですが、
わざわざ美保に坐した。

ということは、ミホススミの所領は、現出雲の東半分のみであり、
わずかなお供の者たちと一緒に乗り込んできた。
敵意丸出しの旧燕人やカモ族から寝首をかかれないようにするため、
美保の先端にいて、
準構造船の軍船と漕ぎ手を常備しておいて、
何かあればすぐに脱出できるような態勢は整えておいたわけですね。

美保の根もとにいるのはまずは斉人ですから、
旧燕人やカモから見ると、やや敵であり、
敵の敵は味方で、ミホススミから見ると緩衝材になってまだ安心だったわけですね。

164:日本@名無史さん
22/08/07 15:14:23.15 6EHNkogi6
ミホススミの分布を見ると、
紀元前から吉武高木王家が押さえている丹後半島や、カモ琵琶湖沿岸を飛び越えて、
能登半島に前線基地を築き、
能登半島東岸から新潟までの沿岸部を押さえています。

(富山市~上越市にミホススミが無いのは、後に銅戈軍が諏訪攻略に来た時に追われたからでしょうね。)

そこから内陸に入って、諏訪の守屋氏など有力現地氏族と同盟あるいは婚姻を進めていった。
ということですね。



と、いうことは、
美保に着任したミホススミは、現出雲の統治に見事成功した、ということを意味しますね。

若い身でありながら、自らの出身部族とは異なる人々の元へ派遣され、
しかも複数部族がそれぞれ恨みつらみを抱えながら暮らしている。
それらをまとめあげて、さらに東方へ発展していく、という実績を残したわけですね。

165:日本@名無史さん
22/08/07 15:15:29.73 6EHNkogi6
元は日本海沿岸の有力部族で豊国カモをも凌駕していた、
古代越=山口県日本海沿岸を中心とする地域の八岐大蛇。

吉武高木大王が誕生して、その王族東征将軍に平定されてからは、
北部九州を頂点とする文化ヒエラルキーにおいて、
伊都倭人、豊国倭種、よりも辺境の部族にすぎませんね。

しかもその次男でしかないわけですから、相当の逆境の中で東方開拓していたわけですね。

この東方開拓にはおそらく伏線があり、
そもそもは銅矛銅剣戦争があったわけですね。

中広型銅矛は北部九州奴国から、東へ攻めます。
瀬戸内を中心とする銅剣女王国と戦い、祭祀型銅剣型石剣木剣領域も潜在的には敵ですね。

よって、挟撃を狙うために、その先の、
畿内毛人や、東国蝦夷、と、ある程度の誼を通じていた時期があったのでしょう。
南の裸国と同盟したのもその一つですね。

その時の交流を足がかりとして、乗り込んでいったわけですね。

166:日本@名無史さん
22/08/07 15:16:58.10 6EHNkogi6
ミホススミ時代に既に諏訪など東国調略していた。
タケミナカタ時代には本人が諏訪に移動している。
にも拘わらず、東国からは中広型銅矛が出土しませんね。
これは、九州西部の長崎県(壱岐対馬を除く)についても同様ですね。

一方で先に出た、裸国=古代土佐からは中広型銅矛が大量に出土しています。

と、いうことは、
祭祀型青銅器武器を旗印に使って地鎮祭を行うというのは、
豊国人の風習であった、ことになりますね。

一方で『意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命』とあることから、
沖津・辺津の風習が、越のヌナカワ姫にもある。

ここから原始神道について考えると、
砂丘墓地の女王祭祀で、沖津・辺津で祭る、というのが最も原始的・初源の祭祀形態で、
山鹿貝塚女王の頃から沖ノ島祭祀として日本海沿岸に広く存在していた。

そこに銅剣や銅矛を旗印として地鎮祭に使う、いわゆる鳥居の原型、
というものが後から豊国に持ち込まれた。
とも考えられます。

167:日本@名無史さん
22/08/07 15:17:31.03 6EHNkogi6
それを誰がいつ持ち込んだのか、ということを考えると、
108年に燕王族が青銅器工人を伴って亡命してきて、
カ系に受け入れてもらったわけで、

田〇山遺跡の開始時期、
祭祀型銅剣の開始時期、
銅剣を主兵装としていたこと、
などなどを考えると、
銅剣というものを祭器として特別視するという概念は、燕さんたちが持ち込んだ、
あるいは燕さんたちの銅剣重視姿勢をみたカ系が昇華させたのではなかろうか、とも考えられますね。

それが転じて、ワ系が対抗して祭祀型銅矛となった、のではなかろうかと。

168:日本@名無史さん
22/08/07 15:18:13.04 6EHNkogi6
タケミナカタの妃である、八坂刀売神は安曇の女性と伝承にあります。

タケミナカタと共に諏訪に移動した八坂刀売神が安曇の女性と伝わるのであれば、
タケミナカタが諏訪に移動する前に、既に安曇が存在していた、
ということですね。

祭祀型青銅器について考える場合、
男系もある程度は関係しますが、むしろ豊国の女系を示すものであり、
銅剣→銅戈がカモ
銅矛はワニ
となります。

となると、中広型銅矛の段階で、安曇が関係していたのだろう、
とも考えられますね。

169:日本@名無史さん
22/08/07 15:18:56.91 6EHNkogi6
秀吉が半島出兵するまでに、1582から1592まで10年ですね。

銅矛銅剣戦争が20年頃として、
抵抗勢力との小競り合いも鎮圧して、
だいたい30年頃から鉄資源へのルート(魏志韓伝)を目指して半島出兵が始まります。

対外戦ですから、
北部九州はもちろん、瀬戸内資源や、丹後半島の水軍など、
倭国関連のものは総動員されたはずですね。

170:日本@名無史さん
22/08/07 15:23:58.27 6EHNkogi6
そのように情勢が動いている中で、
ミホススミは、複数部族が混在してどうにもならない地域をあてがわれて、
なんとかまとめあげていた。

複雑な地域とわかっているから、大本営からもハナから戦力外とみなされていて、
出兵要請も来ない。

そんな中、斉人だけでなく燕人やカモ系もうまく説得して、
手付かずの東国に権益を作りに行ったわけですね。
特に、もう北部九州倭国では出世の目が無い、斉人や燕人には、新天地領土は魅力的な話だったのではないでしょうか。

大国主に許可を求めたら、西で忙しいから、
資源も何もない東の最果てなどどうでもいいから死なない程度に勝手にしろ、という感じだったのでしょう。


で、東で成果を上げていったわけですが、
大事なのは鉄資源ですから、
東国をどれだけ切り取ろうとも、タケミナカタには成れなかった筈です。

それがタケミナカタになって、しかも国譲りの際に、ワニ筆頭のコトシロヌシと並ぶ存在にまで出征した、ということは、

171:日本@名無史さん
22/08/07 15:25:18.16 6EHNkogi6
半島出兵が苦戦したのですね。

当初は家柄血統だけで将軍隊長を選んで出兵したのが、
実力勝負の海外出兵では通用せず敗戦を重ねた。

重要武将が討ち取られる事態が起きて、
「実力のある隊長」が必要となる場面が生じた、ことになります。

そこで、出自の全く異なる混成部隊をまとめあげ、
方向はちがうけれども東の異世界を着々と攻略している、
若き天才軍神に白羽の矢が立ったわけですね。

172:日本@名無史さん
22/08/07 15:25:53.70 6EHNkogi6
ワニ安曇族の八坂刀売神と結婚して、
ムナカタ、つまり古代出雲の兵を与えられ、対馬から出陣した。

軍神の投入によって戦局が一気に打開され、鉄資源入手ルートが確立して、
鉄資源⇔対馬海峡⇔北部九州⇔瀬戸内高地性集落群侏儒国⇔淡路島五斗長垣内鉄工房
という国家運営が可能になったわけですね。

その功によって水軍大将に抜擢され、下関に名前が残り、
56年には五斗長垣内遺跡まで楽浪郡史の里程測定(金印合格判定試験)の案内をして、
大夫として57年洛陽へ渡った。

173:日本@名無史さん
22/08/07 15:27:34.52 6EHNkogi6
ワニ女性と結婚して、古代出雲の兵を率い、立身出世するというのは、
父と同じサクセスストーリーですね。

また、自らの部族を率いるだけであれば、部族長としての権力は有りますが、
大王となった場合、他部族の反発が予想される。
ワニ系大王になるとカモが困りますし、逆もまたしかりですね。

その点で、若くして複数異民族を束ねた手腕が高く評価された。

ということで、金印を持たされていたわけですね。

ワニ女性と結婚して古代出雲の兵を率いるということは、
本来は吉武高木王族東征将軍のことであり、
奴族の父は、吉武高木大王にはなれないので、
東征将軍になった上で、金印で権威を補完しようとした。
そしてそれを世襲しようとしていたのでしょうかね。

174:日本@名無史さん
22/08/07 15:28:09.42 6EHNkogi6
ミホススミの東国調略が、ミホススミを祀る神社の分布域まで進んだところで、
西に召集されたわけですね。

そのまま西で出世して仕事していたのが、
70年に突然東へ落ちのびることになります。

ですから、何もない場所に突然逃げてきたのではなく、
若い頃からの誼がある場所に逃げてきて、
そのまま地域の主導権を握ったわけですね。

>>91
追って侵攻してきた銅戈軍を、兵力分散した上で、
銅戈軍本隊を埼玉県熊谷市まで深追いさせて撃破した。

ミホススミ時代に既にさいたま市まで調略していましたから、
友軍地域の中で軍略に嵌めた、ということで祭祀分布と考古学出土物の整合性が取れる。ビンゴですね。

175:日本@名無史さん
22/08/07 15:28:31.84 6EHNkogi6
軍神はそのまま諏訪で東国をS字甕領域にまとめて、
朝日遺跡まで進軍してきた銅戈軍と、
お互いに銅鐸配備して愛知で睨み合いをしますね。

軍神の古くからの配下に斉土笛人もいますので、東国の範囲で移動して、
静岡に痕跡が残った、ということですね。

176:日本@名無史さん
22/08/18 23:38:03.55 s+h1iLelX
邪馬壹國(邪馬壱国)と邪馬臺國(邪馬台国)ですが、
古代竹簡木簡への墨書において、画数の多い壹と臺は滲んでしまい、いくらでも転写間違いが起きえますね。

よって、
邪馬壹國しかなかったかもしれないし、
邪馬臺國しかなかったかもしれないし、
どちらも存在したかもしれないわけです。

一つの手がかりとしては、後世の注釈で、
後漢書の邪馬臺國については、『案今名邪摩惟音之訛也』とあり、
やまゆい→邪馬壱國、だった可能性が高いですね。

一方の魏志倭人伝の邪馬壹國については、隋書にて『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』とあり、
やびたい→邪馬台國、だった可能性が高いということになります。
あべこべですが。


ちなみに隋書の記載を論理的に解釈するなら、

魏志倭人伝の世界観では、北部九州倭国=邪馬台国において、
女王卑彌呼が都とする所が、伊都。

隋書倭国伝の世界観では、より広域の日本列島を支配する倭において、
倭王が都とする所は、古の北部九州邪馬台国(含大宰府)である。

177:日本@名無史さん
22/08/18 23:38:51.99 s+h1iLelX
後漢書
『倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統
 其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里
 去其西北界拘邪韓國 七千餘里』

倭について云々~。
大倭王は邪馬壱国に居て、邪馬壱国は楽浪郡から一万二千里。
倭の西北境界の拘邪韓國は、楽浪郡から七千余里。

つまり、
後漢書の邪馬壱国は、
魏志倭人伝の邪馬台国とは別物というか、
邪馬台国の中の一部地域であった、ことになりますね。

178:日本@名無史さん
22/08/18 23:39:34.66 s+h1iLelX
過去スレで検討した通り、
日田の鉄鏡が曹操鉄鏡と同型であった
→魏志倭人伝の卑弥呼への賜品目録に鉄鏡が無い
→鉄鏡は邪馬台国卑弥呼勢力に渡されたものでは無い
→鉄鏡は曹操から狗奴国王に贈られた
→『漢時有朝見者』は狗奴国王
→狗奴国王が「魏王」曹操と同格の鉄鏡を入手するには「漢委奴國王金印」が必須
 かつ対馬海峡を領有している必要がある
→狗奴国王が対馬海峡を領有していた時期(免田式土器が伊都から出土)があり、「漢委奴國王金印」を保有していた時期があった
→「漢委奴國王金印」が長崎に秘匿されていた

という流れですね。

179:日本@名無史さん
22/08/18 23:40:59.94 s+h1iLelX
全て過去スレで検討した通り、

軍神が金印を保管していたが、奴国王失脚時に軍神は東へ、
金印は軍神の息子が西へ。

その嫡流子孫である難升米父が、
奴族同族の狗奴国王と同盟して、狗奴国勃興に協力。

対馬海峡を占領して、外交ルートを確保。
金印の力で、鉄鏡を入手。

鉄鏡にて王位が得られた狗奴国王にとって、金印が必要なくなり、難升米父と疎遠に。

難升米は狗奴国王と離反して、卑彌呼と手を結び、大率長官に就任。
「対馬海峡をそのまま領有」=『有如刺史』

※だから対馬海峡には卑狗・卑奴母離しかいないし、
 狗邪韓國と末盧國には官すらいない。

魏の命運をかけた、司馬懿の遼東攻略にて、
長雨にて兵糧不足に陥って敗退危機にあった司馬懿の魏軍に、
大率難升米が兵糧を補給して、勝利へと導いた。

その際に司馬懿と陣中にて親交を深めた難升米からの情報が、
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

180:日本@名無史さん
22/08/18 23:43:11.04 s+h1iLelX
70年頃の地名としては、時計回りに、

吾田=阿多 唐津
日向 糸島平野
高天原(日本) 早良平野
葦原那珂津国 福岡平野
磯城 阿志岐山城神籠石
大倭 旧三輪町~高良 筑後
阿邪訶 佐賀

倭国乱が起こり、倭国内での混乱に乗じて、
東では、日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國、が勃興。
(魏代=次の男王によって滅亡)

倭国内では、漢末に、
大倭長官の大物主が、伊邪國=長崎の難升米父と同盟して、(小さい蛇=蛇鈕)
狗奴国が勃興して、
阿邪訶→阿多→対馬海峡を占領して、曹操鉄鏡入手。

181:日本@名無史さん
22/08/18 23:43:45.11 s+h1iLelX
大混乱の倭国側では、
若き卑彌呼が所領の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」をまとめて、
南の狗奴国の侵攻を防ぐ。

その運営手腕を買われて、
倭国=邪馬台国の全体の女王として共立されて、
卑彌呼が倭国王となるわけですね。
ここまで後漢書に記録されているので、後漢代の出来事になります。

「至」はその境界に至る、「到」はその中心地点に到着する、
という法則に従うと、
楽浪郡から「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」までは、
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
となりますね。

対馬海峡についても、
渡海部分3000に対して、島部分1400ですから、無視するわけには壱岐ません。

182:日本@名無史さん
22/08/18 23:44:14.89 s+h1iLelX
北部九州から大量の硯が出土して、
案、刀子、も出土していることから、
北部九州で文字が使われていたのはほぼ確実ですね。

よって、記紀の古代表記は倭人自身が使用していた表記であることになります。

そうなると、中国側の文献において、ほとんどの固有名詞は、
倭人自身が使用していた固有の表記であった可能性が高くなり、
逆に漢魏人が当てた表現というのは、

倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬台國 247年 来倭した魏の張政

くらいになり、

倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬台國 やまと 訓読み

ということになりますね。

183:日本@名無史さん
22/08/18 23:45:49.52 s+h1iLelX
卑彌呼所領の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」が、
中国側の記録に残っている、ということは、
後漢代の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」が、楽浪郡帯方郡と交流していた時期があった、
ということになり、

順番としては、
狗奴国王と難升米が仲違いした
→難升米が卑彌呼に寝返った
→卑彌呼が対馬海峡を使用できるようになった
→邪馬壱国の地方女王として楽浪郡帯方郡と交流した時期がある(難升米と対等同盟)
→卑彌呼が倭国王に共立された(難升米が配下に入った)

ということになります。
ここまでが後漢代ですね。

その後、魏代に入り、公孫氏が独立し、
司馬懿が遼東遠征して、難升米が司馬懿と交流するわけですから、
続きとしては、

倭国王卑彌呼が、佐賀平野を奪還した
→邪馬嘉と名付けた
→司馬懿に難升米が兵糧補給
→漢魏から倭末蘆に上陸して南に邪馬嘉、西南に伊邪國(伊邪分國・伊耶國)があるよ

184:日本@名無史さん
22/08/18 23:47:44.62 s+h1iLelX
またはっきりすることは、
卑彌呼は親魏倭王であって、親魏奴國王ではありませんから、
卑彌呼の男系は奴族ではなく、
まずまず倭王系列、つまりは天神族であった、ということは確実になります。

185:日本@名無史さん
22/08/18 23:48:08.74 s+h1iLelX
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ

伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

阿邪訶 あざか

邪馬嘉國 ざまか(さまか)

栄国=佐嘉 さか

佐賀 さが

つまり、
卑彌呼の旧所領が邪馬壱国 ざまい
卑彌呼が奪還した旧・阿邪訶につけた名前が邪馬嘉國 ざまか

ということは、卑彌呼は女系カモ系と推定されるので、
邪馬國はカモ系の国ということになりますね。
キ龍紋鏡からは、中間市などが候補になってきますね。

186:日本@名無史さん
22/08/18 23:48:39.75 s+h1iLelX
邪馬壱國 ざまい

佐馬壱 さまい

雀居 ささい

187:日本@名無史さん
22/08/20 04:34:12.57 O7SPllHJ4
>>91
>四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
>それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。

群馬県安中市の長谷津遺跡にて、竪穴住居跡から銅鏡片が見つかっていますが、
これも落ち武者狩りの収穫品の一部でしょうね。
初期の銅戈軍が携行していた身分証ですから、指標として高い価値がありますね。

連弧紋の小型?製鏡ですから、男系は奴国の可能性が高く、
古代出雲に無く、古代伯耆から出ているので、女系はカモ系の可能性が高い。

これが後には狗奴国領域に多く出てきます。

188:日本@名無史さん
22/08/20 04:35:30.98 O7SPllHJ4
魏王曹操側の動向からは、鉄鏡入手の候補年が216年

220年 後漢滅亡

公孫氏が遼東太守になるのが189年、帯方郡の設置が204年。
ですが、最初から後漢~魏と反目していたわけではなく、基本的にはその配下であり、
228年に実権を握った公孫淵から独立路線が強くなり、
236年に魏への不服従を明確にして燕王を自称し始めますね。

ですから、対馬海峡を使用できたのは、
~215年 倭国 卑彌呼ら
215~225頃 狗奴国 難升米・狗奴国王
225頃~ 倭国 難升米・卑彌呼

ということになります。

後漢書にて卑彌呼は共立されていますから、卑彌呼共立は220年よりも前ということになって、
やはり前スレでも検討した通り、
後漢書に記録された卑彌呼、つまり前任地の「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王から、
倭国全体の共立女王になるまで、というのは、
215年までに卑彌呼が楽浪郡と外交していた記録が楽浪郡役所に残っていたのを、
景初年間に楽浪郡を奪還した魏が接収したものである、
ということになりますね。

189:日本@名無史さん
22/08/20 04:37:45.12 O7SPllHJ4
細かく詰めると、
倭国乱が、桓霊間146~189年ですから、
それを収めるために卑彌呼が共立されたのであれば、
189年以前には既に「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王として実績を上げていたことになります。

倭人卑彌呼が魏志倭人伝にある通り長寿だったとすると、
247-90=157生まれと仮定して、
壹與が13歳で女王になっていますから、これが卑彌呼の前例を踏襲したとすれば、

卑彌呼が189年に32歳。
13歳なのは170年ですから、そこからだと19年。
20歳177年に地方女王になっても、189年までは12年あり、
「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」にて実績を積むのに十分な年数があった計算になります。

ということは、189年というのが一つの節目で、
倭国では倭国乱が一旦終了して卑彌呼が共立女王となった。
遼東から朝鮮半島も乱れていたが、公孫氏がやってきて楽浪郡まで押さえた。
ということで、東アジアの戦乱は一息ついたわけですね。

以上から、
170年代~189年の倭国乱中は、
卑彌呼は「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王で、後漢楽浪郡と外交していて記録が残っていた。

189年頃に倭国王に共立されて、

189年~215年は、
卑彌呼は倭国共立女王として、公孫氏楽浪郡帯方郡と外交して、同じくその記録が残っていた。

215年に狗奴国が勃興して、
大倭(筑後)→大阪(佐賀)→末蘆→対馬海峡を占領された。
ということになります。

190:日本@名無史さん
22/08/20 04:38:28.47 O7SPllHJ4
『其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里』
これは卑彌呼を指すことが明らかですね。

そもそもからして、後漢書に七千里や一万二千里が出てくる時点で、
里数が測定されたのは後漢代以前であり、
57年金印後漢使のための倭地出張ロードマップ(往路確認専用)であった可能性が非常に高い。

なぜならその後には、考古学的にも倭王は新伊都=糸島の三雲井原遺跡へ遷都していますから、
里程を測定するなら末蘆から伊都は百里になるはずです。
それが旧伊都の到達ポイント=吉武高木宮殿の五百里のままであるということは、
57年金印の時の測定値だからですね。

よって、魏使もまた里数は測定できておらず、
魏使が残したのは張政の旅行日誌からの日数だけであったことになります。

191:日本@名無史さん
22/08/20 04:39:56.90 O7SPllHJ4
『其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里』
にて、
倭国共立女王の卑彌呼は、
後漢代には「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」に留まっていたことになります。

と、いうことは、後漢書に記された、
『有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁
 事鬼神道 能以妖惑?
 於是共立為王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語
 居處宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 法俗嚴峻』
の部分は、
「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」領域における卑彌呼の状況記録であり、
宮室樓觀城柵があるのは不彌國だということになりますね。

卑彌呼が新伊都に移動したのは220年代後半以降。
難升米が対馬海峡と金印を手土産に帰順してきて、邪馬嘉国(佐賀)を奪還して、
新伊都の安全が確保されてからですね。

魏志倭人伝の記録は後漢書と同じ部分は転載の可能性が出てきますから、
新伊都にも宮室樓觀城柵を作り直したかもしれないし、
旧倭国王の旧居館(高祖宮や細石神社)を使用していたかもしれません。

192:日本@名無史さん
22/08/20 07:37:35.90 O7SPllHJ4
>>125
基本的には、
後漢と奴族が親密で、奴国王が里程測定を後押しした上で、57年金印
倭国は本来は親燕でやや反漢
という傾向ですので、

卑彌呼時代の前半についても、
倭国王卑彌呼の前半はやや反漢で、燕地で独立しつつあった公孫氏と連携した。
一方の狗奴国王は親漢で、後継者筆頭の魏王曹操に接触していった。
ということですね。

倭国王卑彌呼は一旦は対馬海峡を奪われて連携が断たれ、
225年頃から難升米と一緒に軍事行動を起こして、
肥前川上の当時の狗奴国首都を陥として、邪馬嘉国(佐賀)と対馬海峡を奪還。

220年代後半から対馬海峡経由の外交を再開しますが、
228年からの公孫淵は叔父からの簒奪ですし、ひどい二枚舌外交で信用なりませんでしたから、
疎遠にしているうちに、
238年に司馬懿の大軍がやってきた。

193:日本@名無史さん
22/08/20 07:39:54.96 O7SPllHJ4
遼東攻略と同時進行で、楽浪郡帯方郡は魏が太守を派遣して制圧していますから、
(『又潛軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服』)
大率難升米は司馬懿と接触開始していた。

兵糧不足に陥った魏軍から兵糧補給の打診があり、
ここで卑彌呼はゲームプレイヤーとしてどちらを勝たせるかの選択権を握っていたわけですね。
兵糧補給を断って、司馬懿を時間切れ敗退させ、ひいては魏滅亡させることもできた。

けれども、公孫淵の蝙蝠外交を見限って、魏と手を結ぶことに決定し、
見返りに金印を求めたわけですね。
国産の超巨大内行花文鏡に加えて、
狗奴国王の鉄鏡に対抗する舶載威信材を増やすために。

まだ三国の一つに過ぎない新興の魏からしてみても安い買い物であり、
お互いにWinWinの取引だったということでしょう。

194:日本@名無史さん
22/08/20 22:01:19.65 O7SPllHJ4
持衰については、後漢書にも記載されていますから、
倭人の長らくの風習ですね。

壱岐対馬の倭人は『乖船南北巿糴』ですから、
当たり前ですが、倭舟で対馬海峡を渡海していました。

後漢書においては、
『安帝永初元年(107)倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見』
ですので、これも当たり前ですが、
倭舟で数百人の倭人や生口が洛陽まで渡海しています。
(160人の生口を後漢の舟で運んでもらったらもはや嫌がらせですね)

魏志倭人伝においては、
『其行來渡海詣中國~名之爲持衰』
とありますから、
持衰倭舟で中国まで渡海しています。

ただ、『「到」其北岸狗邪韓國』とありますから、
対馬海峡渡海は特別部分で、
狗邪韓國の船着き場から、末蘆國東端の船着き場(深江)までは、
渡海専用の特別仕様の準構造船に乗り換えて、
渡海したことになります。

195:日本@名無史さん
22/08/21 11:19:46.22 PFiVUuoK8
>>190
>57年金印後漢使のための倭地出張ロードマップ(往路確認専用)であった可能性が非常に高い。

時節柄引きこもることが多いですが、
渡海に適した「夏の朝」に家の外に出て、登り始めた太陽の方角を見れば、
真東からはずっと斜めにずれているのが一目瞭然ですね。

方位磁針の無い弥生時代に、後漢からの往路を示すのが目的のロードマップであれば、
(金印を届ける出張にて、楽浪郡史の記した通り倭にきちんと向かってるか確認するため)
早朝の出発時に方角確認するのには太陽が最適です。

196:日本@名無史さん
22/08/21 11:20:36.23 PFiVUuoK8
卜占の出土についてです。

前3世紀くらいから朝鮮半島南部(15遺跡)、そして日本に伝わっていますね。

弥生時代前期から、壱岐、古浦遺跡(島根県松江市)、阿方遺跡(愛媛県今治市)、唐古鍵遺跡
と広範囲に分布。

中期には、上記に加えて、
青谷上寺地遺跡(日本最多250点)、大阪湾沿岸、三浦半島房総半島
からも出土します。

後期に入ると、
上記のうち、壱岐、古浦遺跡では途絶。畿内も唐古鍵の後期前葉までで途絶。

佐賀市、岡山から出土し始めるのと、
長野と、静岡~房総半島の沿岸に、卜占面焼灼面一致型の独特の傾向を持つものが分布します。

倭国乱~邪馬台国時代には、青谷上寺地遺跡が途絶。
佐賀市、岡山(上東遺跡など)
静岡~房総半島の沿岸、
石川県金沢市、佐渡島、群馬県
などからの出土になります。

あとは、古墳時代中期ごろから各地で出土してきますね。

197:日本@名無史さん
22/08/21 11:21:16.45 PFiVUuoK8
卜占は骨ですから、消えてしまうこともままあるでしょうし、
砂丘の古浦遺跡や、脳も残っていた青谷上寺地遺跡などでは保存状態が良かった、
とも考えられ、
卜占が出土しないからと言って、卜占が無かったとは言い切れません。

が、全国各地で、出る所からはそれなりの量が出ているわけですから、
広域における一部で集中出土するという卜占の出土分布を見ると、
一般倭人が日常生活のあれこれを占っていたとは思えないわけですね。

特定の場所で、卜占の専門家が集中的に請け負っていた、
と考えられます。

198:日本@名無史さん
22/08/21 11:21:37.02 PFiVUuoK8
邪馬台国論争に使うにしても、
単純に卜占出土地=倭人の地、とするならば、

邪馬台国時代に卜占が出土している地で考えるなら、
佐賀市(吉野ヶ里ではない)、岡山市、静岡~房総半島の沿岸、そして朝鮮半島南部、
といった限られた場所しかなくなり、珍妙なことになります。

199:日本@名無史さん
22/08/21 11:22:33.27 PFiVUuoK8
文献を読んでみると、得られる情報としては、

後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

魏志倭人伝
『其俗 舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶
 先告所卜
 其辭如令龜法 視火?占兆』

舉事=挙兵する、出兵する、武装蜂起する

倭人の風俗としては、
出兵して軍が移動する際に、気になる点について、
出兵のたびに、骨を焼いて吉凶を占う。
先に占うポイントを告げておく。
卜占で使う呪文は、中国での令亀法のものに似ている。
火で焼いてできた裂け目を見て吉凶を占う。

200:日本@名無史さん
22/08/21 11:23:45.83 PFiVUuoK8
卜占の出土地が局所に集中している。
文献では、弥生水軍の軍事遠征についてのようである。

魏志倭人伝では、里程の狗邪韓國あるいは日程の投馬國の時点で倭地に入っており、
倭人の勢力範囲の広さにしては卜占の出土地が少なすぎる。

等から考えると、
卜占というのは、倭人がある程度以上の規模で出兵する際に、
出陣前に行っていたゲン担ぎの儀式だったのではなかろうか、
と考えられます。

記紀でも戦の前のあれこれを吉兆として鼓舞したり、
戦国武将もそうですね。
現代でも戦勝祈願、我々がトンカツを食べたり、といったように。

ですから、豊国人の出陣前儀式が、祭祀型武器の埋納。であったように、
倭人つまり壱岐~伊都人の出陣直前の儀式が、卜占。であった、
と仮定してみます。

201:日本@名無史さん
22/08/21 11:24:20.30 PFiVUuoK8
出陣する倭軍があるとします。
その軍の母体となる勢力、国あるいは連合国家の勢力範囲、がありますね。

自軍勢力範囲の中で軍が移動集結して、
侵攻対象地域への、最終出発地点あるいはそのごく近傍で、
出撃前日に卜占をする、
ということになります。

202:日本@名無史さん
22/08/21 11:25:24.24 PFiVUuoK8
卜占が伝わったのが3世紀頃ですから、伝えたのは、
それこそ殷の流れを持つとも言われる箕子朝鮮の人々か、
あるいは燕の人たちか、が候補となります。

・卜占が朝鮮半島南部に多い
・殷末裔の卜占なら甲骨文字の記入があるはず
・古浦遺跡から最初期に卜占出土
から、燕人の可能性が高くなります。

>>112
燕人が渡来してきたと考えるなら、
前314年に斉によって燕が滅ぼされた時、
前222年に秦によって燕が滅ぼされた時、
が考えられ、
燕による朝鮮半島への影響力がまだ低かった、前314年が候補になりますね。

この時に鉄器も一緒に持ってきたと考えれば、日本側の鉄器出土も説明がついてきます。
扇谷遺跡など遠方の丹後に工房を作って、
本国倭国の森林資源を保全し、
遠隔地の森林で工場経営、
という国家経営戦略も、燕人の助言があった、と考えれば納得いきます。

倭には燕人が先にやって来ていたのだったから、
後からやってきた土笛斉人は倭国に足がかりを作らせてもらえなかった、ということになりますね。

203:日本@名無史さん
22/08/21 11:26:07.23 PFiVUuoK8
伊都説ならば、の仮定空想の話ですが、
イザ〇ギ・イザ〇ミについても、
壱岐対馬~菜畑遺跡~糸島の倭人男系と、
山鹿貝塚からの豊国女系とが、血縁同盟をして、

>>117
天浮橋、古代の長浜半島から、その先の能古島に渡り、
お互いの軍を集結させて、
最初は倭軍が反時計回り、豊軍が時計回りに博多湾を統一しようとしたところ、
それぞれ自らの国に近いので親類縁者が多く、なかなか攻めきれなかった。

そこで、卜占したところ、それぞれ逆回りで攻める、
つまりそれぞれの国から遠い地域をそれぞれが攻めれば、しがらみが薄いので
気兼ねなく統一できる、
という助言をもらって、
北部九州沿岸地域を統一して、
吉武高木大王が誕生したわけですね。

それが吉兆の前例となって、
倭軍出陣の際には、卜占を行うことが儀式として慣例化したのでしょうかね。

204:日本@名無史さん
22/08/21 11:27:02.23 PFiVUuoK8
卜占は、時代を経るにつれて、準備段階で骨を削って薄く加工していくようになります。

これはつまり、割れ目の出来方を、削り具合と、焼く部分で、ある程度意図的に操作できるようにしていった、ということですね。

王からの命令で、人を集めて軍船を集めて武器を集めて兵糧を集めて準備して、
さあ出陣だ、という武人にとって、
卜占は出陣前の景気づけでもあり、
基本的には吉兆を出すことが要求されたはずです。

ですから、卜占をする占師も、社会的に洗練されていって、
上手く削って焼いて、基本的には良い知らせを出す。
いつもいつも良い知らせばかりだとあれなので、
「今回は兵糧の管理に気を付けるように」
「勝つ、のですが、病人が出るとの相が出ておりますな」
など、
こちらの軍と、攻め込む先の情報を考慮しながら、
おみくじのように注意点を盛り込んでいったら、ありがたくなる、
という感じでしょうか。

205:日本@名無史さん
22/08/21 11:27:32.57 PFiVUuoK8
卜占についてこう考えると、
燕系と思われる卜占集団は、
斉に一時的に滅ぼされた際に、半島北部には箕子朝鮮があったので、
まず半島南部に流れてきて、卜占を始める。

北部九州沿岸統一=吉武高木大王の際に、吉武高木勢力に味方して、
卜占で吉兆を与えたことで、
吉武高木政権に登用されて、鉄器生産の国家運営を助言した。

206:日本@名無史さん
22/08/21 11:29:27.10 PFiVUuoK8
北部九州倭国の軍

<北>ツク〇ミ
壱〇対まに集結してから、出陣。
出陣前夜に一岐で卜占してから出撃。
中広型銅矛将軍転じて奴国王の時代に半島南部領土が安定し、
倭勢力範囲が北上したため、
以後は出陣前夜の卜占は半島南部で行われることとなる。

<東>スサ〇オ
田熊石畑遺跡将軍が東征。
当初は宍道湖中海が出撃直前地点。
後に青谷上寺地遺跡に占師が移動。(燕王末裔がやって来たためどいたのか)

弥生時代の青谷上寺地遺跡周辺は、潟湖であったので、
軍舟を係留する良港であった。

日本海沿岸を征服していった。

207:日本@名無史さん
22/08/21 11:30:12.38 PFiVUuoK8
古浦遺跡、青谷上寺地遺跡は金属器など北部九州と密に交流しており、
北部九州倭軍そのものの前線拠点であったことがわかりますね。

が、
畿〇や、完投については、まだ交流が非常に乏しく、
おそらく独立した開拓勢力。

前者は女系カ〇系主体で、縁組その他で付随して卜占者が入ったのでしょうか。
多鈕細紋鏡の鏡片が副葬されない状態で出土しており、
北部九州での勢力争いに敗れた者の可能性があり、
おそらくス〇ナヒ〇ナもそれで身分証明されたのでしょうか。

後者はおそらく敗北勢力が落ちのびたもの。

208:日本@名無史さん
22/08/21 11:31:46.78 PFiVUuoK8
70年に軍神が長野に落ちのびますね。

ワニ女王系女性と結婚するまでは、祭祀型銅矛も卜占も無関係の
地方領主として東国攻略していましたが、

結婚してからは倭国将軍として半島出征に参加しますので、
ゲン担ぎの卜占は息で習慣付いていたわけですね。

ただ、逃げ込んだ先の長野には卜占専門家がいなかったので、
軍神の配下の燕系人が担当者として卜占を新規開始した。
だから、長野と、静岡~房総半島の沿岸には、卜占面焼灼面一致型の独特の傾向を持つものが分布するわけですね。

北部九州の主力となった銅戈軍は、朝日遺跡まで進軍して軍神軍と睨み合い、
前線の味方集落に近畿式銅鐸を配備して、
東海で卜占して出撃。

軍神は、長野から出撃して東国制圧して銅戈軍と睨み合い、
前線の味方集落に三遠式銅鐸を配備して、
静岡~房総半島の沿岸で卜占して出撃。

軍神が亡くなると、東国は征服されて、遠征事案は無くなり、
畿〇~房総半島の一帯の卜占は一度終了したわけですね。

倭国乱から邪馬台国の長い戦乱時代を経て、
台与の頃になって北部九州が統一され、軍神子孫も支配体制に組み込まれ、
静岡~房総半島の沿岸で卜占が再開したのは、東北蝦夷への遠征が始まった、と考えられます。

209:日本@名無史さん
22/08/21 11:32:27.90 PFiVUuoK8
そう考えると、
倭国乱~邪馬台国の間も、壱岐はほぼ無風ですから、
半島南部の運営は安定した居たわけで、卜占分布からもやはり投馬國だったかと。

佐賀、岡山、から出土しており、
倭国乱~邪馬台国狗奴国の争いのものでしょうね。

青谷上寺地遺跡は四隅突出墳丘墓が無く滅ぼされているので、
銅戈系だったから銅戈・広型銅矛戦争時に滅ぼされたか、
70年頃から中国山地から出てきた、奴国王の兄達の子孫が、
倭国乱の混乱に乗じて燕系拠点を襲った、などが考えられますね。

210:日本@名無史さん
22/09/04 11:34:03.22 .net
URLリンク(i.imgur.com)

211:日本@名無史さん
22/09/04 19:01:04.47 .net
ト骨の事が魏志倭人伝にあります。
さてどこですか?

212:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
有明海沿いですね。
現糸島市は伊都国ではありません。
墓地公園です。

213:日本@名無史さん
22/09/07 14:19:23.25 .net
>>87
瀬戸内海の平型銅剣はそれより後の時代のものだから、銅剣勢力範囲が変わったと見るべきでは?
おそらく出雲のそれと同じ成分になりますよ
鋳直されてるはずです

214:日本@名無史さん
22/09/07 14:26:48.30 .net
>>81
〉・銅鐸は同笵が多いのに対して、荒神谷銅剣は同笵が無い
銅剣は研磨が入るから判定は難しいが、47本に関しては同范と判断されているはずですよ
我が国の青銅器は何を持ってして国産なのかと言うと、国産の銅か否かの事ではないかと考えられます
錫と鉛は最後まで輸入のはずです
つまり、本当の意味での国産なのかどうかの話としては分析が考察不足ではないですか?

215:日本@名無史さん
22/09/07 21:36:17.47 2xfQGHIb1
>>199
『其辭如令龜法』
倭の卜占で使われる祝詞が、
中国の令亀法で使われている祝詞のようである。

大きな一文ですね。

と、いうことは、
漢魏使が体験した倭の卜占は、
<漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

もし<倭語>で行われていたとしても、
逆に倭語であるにも関わらず中国の令亀法の祝詞に近いと感じられたということは、
<内容>は中国の神事や故事そのものであったはず、
ということですね。

漢語で、倭の神々の内容、
あるいは
倭語で、倭の神々の内容、であれば、
『其辭如令龜法』にはなりませんから。

216:日本@名無史さん
22/09/07 21:37:04.53 2xfQGHIb1
タカミムスビ

吉武高木遺跡 宮殿


カミムスビ

原の辻遺跡 カラカミ遺跡 勒島遺跡

少名毘古那 常世國

唐古鍵遺跡

217:日本@名無史さん
22/09/07 21:37:48.19 2xfQGHIb1
記紀を解析していくと、
少名毘古那が、鵝ガチョウの皮を剥いで作った衣を着て、天之羅摩船で渡海して現れます。
久延毘古に問い合わせると、カミムスビの子であると答え、
そこでカミムスビにも問い合わせると、私の子である、と答えます。

少名毘古那は大国主と一緒に国造りをした後、
常世國へ去っていきます。

その後に、光海から御諸山上神がやってきますね。

218:日本@名無史さん
22/09/07 21:38:55.16 2xfQGHIb1
伊都説で解析してみます。

ガチョウの皮衣を着ているということは、
養蚕して絹が特産品だった北部九州倭国の外、四国あるいは本州から渡海してきた。

タカ〇ム〇ビは高木であり吉武高木遺跡の宮殿で政策決定する殿上人。

では、カ〇ム〇ビとは。

ガチョウの皮衣を着て東方から渡海してきた名も知れぬ人物が、
カ〇ム〇ビの子孫であると断定できるには、
一つは多鈕細文鏡(片)がありうると考えていました。
しかしそれでは、譲渡や盗掘、たまたま拾った、などが考えられますね。

次に文身。
東方へ移住した一世、つまりカ〇ム〇ビの実子であれば、
(カ〇ム〇ビが倭人であれば)倭人貴族ですから文身で判断できるわけで、
それであれば、一目見たらカ〇ム〇ビの子と判断がつきますね。
問い合わせるなら、いきなりカ〇ム〇ビでよく、クエ〇〇を介する必要はない。

219:日本@名無史さん
22/09/07 21:41:14.60 2xfQGHIb1
そう考えていくと、
>>202
前314年に半島南部に避難してきた、燕系の卜占占い師(貞人)の家系であった。

男系の倭人吉武高木王家とは親しいものの、倭大王の配下でしかなく、
女系の倭種カ〇系と婚姻してカ〇系祭祀型銅剣地域に飛び地的に迎えられていった。
その一つが唐〇カ〇遺跡。

壱岐対馬はもちろん、古浦遺跡(島根県松江市)、阿方遺跡(愛媛県今治市)であれば、
北部九州に近いことから、
その支配層(支配官)の人となりは北部九州でも把握できていたはずですね。

中広形銅矛将軍が銅剣女王国を降伏させ(荒神谷遺跡)、
奴国王となって淡路島まで進出して五斗長垣内遺跡を建設するに至り、
唐〇カ〇遺跡と友好関係を結ぶことになった。

唐〇カ〇遺跡出身で奴国王に重用されることになる、身体障害者の賢人。

粗末な身なりをした、辺境集落出身の賢人の身元を証明したのが、
『其辭如令龜法』。

卜占で用いる祝詞が、壱岐の貞人が用いる秘伝の祝詞とほぼ同じであったことから、
同じ燕系の貞人であることは疑いの余地がなく、
貴種として重用される足がかりになった、ということになりますね。

220:日本@名無史さん
22/09/07 21:42:04.71 2xfQGHIb1
ヒコ、がつくので、北部九州倭国で官職についたことになりますね。

また、この時点でヒコがいることから、
ヒコの成立は大国主時代までは遡れることになります。

細かく解析していくと、
まずはクエ〇〇が判定していますから、クエ〇〇も貞人であり、
ヒコだから倭国の官ですし、
倭国領域では卜占が壱岐からしか出土しませんので、
自動的に、一大国の原の辻遺跡もしくはカラカミ遺跡の官だったことになります。

となると、カ〇ム〇ビについては、
クエ〇〇をカラカミ遺跡として、カ〇ム〇ビを原の辻遺跡とするか、
クエ〇〇を原の辻遺跡として、カ〇ム〇ビを勒島遺跡などとするか、
となりますね。

221:日本@名無史さん
22/09/07 21:44:15.38 2xfQGHIb1
考察を進めると、
北部九州からの東進が何波かに分かれているように、
燕人の渡来(亡命)も複数の波があり、

>>202
前314年に第一波(甲波)が卜占の貞人を伴って、半島南部へ。
吉武高木大王樹立に助力。

・壱岐・古浦・阿方にも拠点を持つ。
・中央にも進出したが、ために却って政変に巻き込まれた集団が、倭種〇モ族に匿われて唐〇カ〇遺跡へ。

>>112
前108年に燕系の衛氏朝鮮が滅亡し、
旧燕王族末裔が青銅器職人や燕復興資産を伴って来倭。(乙波)

これも倭種〇モ族と親しくして、女王一族と婚姻しながら、
古浦遺跡&田〇山遺跡に拠点を築く。

一方の甲波も、衛氏朝鮮滅亡によって半島南部を追われ、
勒島遺跡から青谷上寺地遺跡へ亡命移住。

・勒島遺跡と青谷上寺地遺跡の卜占相似
・勒島遺跡から北部九州系漁具や土器
・青谷上寺地遺跡のDNA解析で、男系は渡来+倭縄文、女系は渡来系

甲波と乙波には約200年のタイムラグがあったので、
同じ燕系ではあっても、同一ではなかった。

222:日本@名無史さん
22/09/07 21:53:16.11 2xfQGHIb1
>・中央にも進出したが、ために却って政変に巻き込まれた集団が、倭種〇モ族に匿われて唐〇カ〇遺跡へ。

>>133
その例が、歴史書に呈示されているわけですね。
女系カ〇族は、他族であっても、貴種を匿う風習があった。

甲波の貞人は、唐〇カ〇遺跡に匿われ、その子孫が『其辭如令龜法』によって、
一時的に中央政界に返り咲くことが出来た。

須玖遺跡の末弟お坊ちゃんは、太田黒田遺跡に匿われ、
そのままなら紀伊國風土記に名が残ったかどうか、であったけれども、
兄弟が武装して押しかけたことで、
田熊石畑遺跡将軍の元へ送り返され、中広形銅矛将軍から奴国王となった。

223:日本@名無史さん
22/09/07 21:56:53.59 2xfQGHIb1
銅矛銅剣戦争にて、
乙波は銅剣女王国側で参戦しようとして、中広形銅矛将軍に制圧される。
 田〇山遺跡の北西部住居焼け落ち
 荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡

甲波は逆に、中広形銅矛将軍と同盟して、銅剣女王国を挟撃しようとしていた。
だから、銅剣銅矛戦争が終了してから、甲波の唐〇カ〇遺跡出身の賢人が取り立てられた。

甲波と中広形銅矛将軍転じて奴国王の連携があったからこそ、
国内情勢が落ち着いてからの、
半島出兵に繋がっていったわけですね。
>>134

224:日本@名無史さん
22/09/07 22:12:56.02 2xfQGHIb1
初代については、
豊国王の娘の子らで、
長男は東征中に戦死
次男は渡海して、母の国=豊国に戻ってからワニ系=銅矛の王になった
三男は渡海して、常世國=唐〇カ〇遺跡へ
四男は宗像→遠賀川遡上→阿志岐山城の神籠石→御笠側を攻め下って那珂比恵遺跡まで制圧

225:日本@名無史さん
22/09/07 22:26:04.24 2xfQGHIb1
甲波は半島南部を足場にしていて、魏代には彌彌と彌彌那利がいる。
東に離れてその一族がいるから、耳成山があるわけですね。

魏志倭人伝は倭人の習俗を伝えるので、
半島南部は倭の勢力範囲ではあっても、
住人がイコール倭人ではないので、生活描写はない。

卜占を倭人が使うのは、魏志倭人伝を正確に解読すると、
「出兵して軍が移動する際に、気になる点について、骨を焼いて吉凶を占う。」

卜占を占う燕系貞人がいるのが、考古学的には漁村ばかりですから、
「倭人は、出兵して弥生水軍が移動する際に、気になる点について、燕系貞人に骨を焼いて吉凶を占ってもらう。」
「燕系人は、出兵以外のあれこれについても集落内で占う。」
と考えれば、
倭国乱において、北部九州倭国で卜占が乱発されていないことも説明できます。

226:日本@名無史さん
22/09/07 22:31:10.38 2xfQGHIb1
乙波は奴国王時代は没落しますが、
若き軍神の所領になって、軍神と一緒に東方攻略しましたね。

>>208
よって、東方へ移住した人や、軍神が東国へ落ちのびた際に同行した人がいた。
甲波ほどは卜占の専門家ではないので、見よう見まねで微妙に違うやり方で行っていた。

元々燕(卜占)や斉(土笛)は沿岸地域の人ですから、
北部九州から銅戈軍が攻めてくる日本海側ではなく、
南の温暖な静岡~伊豆に新天地を求めたわけですね。

227:太国 ◆ZgyHKik.H2
22/09/07 23:07:52.42 LtqOnqo7J
(崇神)七年春二月丁丑朔辛卯 詔曰昔我皇祖大啓鴻基 其後聖業逾高
王風轉盛 不意 今當朕世數有災害恐朝無善政 取咎於神祇耶
蓋命神龜以極致之所由也於是 天皇乃幸于神淺茅原 而會八十萬神以【卜】問之

228:日本@名無史さん
22/09/09 23:56:05.49 6ZpfiSst0
故從其國上幸之時 乘龜甲爲釣乍 打羽擧來人 遇于速吸門 爾喚歸
問之「汝者誰也」答曰「僕者國神」又問「汝者知海道乎」答曰「能知」
又問「從而仕奉乎」答曰「仕奉」故爾指渡槁機 引入其御船 卽賜名號槁根津日子
此者倭國造等之祖

號槁根津日子(椎根津彦)は、
亀の甲羅に乗って釣りをしていた。

古事記では吉備の国を出たところで、
日本書紀では東征出発直後に筑紫國菟狹(伊都説だとウサ=宗像)より手前で、
神武一行と出会いますね。

229:日本@名無史さん
22/09/09 23:56:45.82 6ZpfiSst0
亀卜については、考古学的には古墳時代後期の6世紀以降しか出ていません。
しかし、

<記録で明らかに卜占が行われていたのに、出土が伴っていない>
・各地の神社で卜占が行われているけれども、必ずしも考古学的に残っていませんね
・壱岐対馬も延喜式に記録され、現代まで続いているのに、考古学的には伴っていません

人骨のほとんどが残らないのと一緒で、骨卜や亀卜も残りにくい。
よって、たくさん出土する遺跡で盛んに卜占が行われていたことは明らかだが、
出土しないからと言って、無かったとは言い切れない。

<亀卜を示唆する記録>
・『其辭如令龜法』という時点で、ベースは亀卜であるわけですね。

漢魏使が見たのが骨卜であっただけで、その祝詞は亀卜のそれであった。
 当時の倭人にとって、亀が神獣であって、生きた亀を卜占に使うのは憚られ、
浮き甲、つまりたまたま見つかる海亀の死骸しか使えなかった可能性。
 亀卜は大王直属の高位神官のみに許された特別な祭祀であり、
下々の者達は、骨卜しか許されず、漢魏使はそれを目撃した可能性。

・上のような記紀の記載も亀卜が存在したことを示しています。

いずれも古墳時代初期あるいは遥か前であることが明らかで、
その頃から亀卜が存在したことを示唆しています。

230:日本@名無史さん
22/09/09 23:57:52.62 6ZpfiSst0
前者を伊都説で考えるなら、
過去スレで検討した状況としては、
筑後にいた伊都国王が、卑彌呼死去に際して、
北の卑彌呼長期政権首脳陣と、
南の狗奴国と、
に挟まれて絶体絶命のピンチに陥り、
狗奴国王妃あるいは元王妃で現狗奴国王の母である、叔母に頼んで、
狗奴国との同盟を仲介してもらった。


昨日までの敵国と同盟するには理由付けが必要であり、
亀卜をその根拠とした。

古代中国の殷と同じく、神権政治のごとく亀卜を利用した、ということになりますね。
もちろんケズリを入れて、伊都国王の望む結果が出るようになっているわけですが。

となると、
元大倭長官の狗奴国王、
もしくはその妃の叔母、
のどちらかが、神権政治レベルの亀卜を行う技能があった、ということになります。

231:日本@名無史さん
22/09/09 23:58:31.87 6ZpfiSst0
さらにそうなると、過去スレで検討した通り、
邪馬嘉國つまり佐賀が、狗奴国王と邪馬台国との鍔ぜり合いの場で、
邪馬台国時代に卜占が出土。

考古学的に残っているのは骨卜だけだが、
狗奴国王の決定に関わる事案に関しては亀卜が行われていた可能性がある。

佐賀の卜占は、筑後肥後→佐賀→唐津→壱岐対馬→曹操から鉄鏡
の全盛期の狗奴国王あるいは妃が行っていたもの。

232:日本@名無史さん
22/09/09 23:59:01.17 6ZpfiSst0
後者については、
亀の甲羅に乗って釣りができようはずもなく、
亀卜に使うために集めた亀甲を積んだ舟に乗って、釣りをしていた、
ということになりますね。

ヒコとして倭国官に登用されたということは、
単なる亀甲集めの漁人ではなく、
それなりの血筋の国津神であるということ。

初代は亀卜を扱う集団と連携して、
東征していった、ということになりますね。

233:日本@名無史さん
22/09/09 23:59:24.80 6ZpfiSst0
松江の古浦遺跡
横に孝霊山

久留米に高良
筑後に旧三輪町

孝霊天皇
黒田 久留田 久留米

亀卜
亀甲
甲羅 こうら

234:日本@名無史さん
22/09/10 00:01:48.26 +cAOF/6mW
そもそもからして、
漢字の元となった、甲骨文字とは、
卜占の結果を、骨や亀甲に刻み込んで成文化して記録するためのものですね。

・卜占で占う内容は複数ありますから、それらを忘れないよう記録するため。
・卜占で出た結果を、王に文字で伝えるため。
・卜占で出た結果を、公式文書として残すため。

しかし、日本で出土する卜占史料には、甲骨文字が刻まれていない。

と、いうことは、
日本での卜占は、

・その場で占って、その場で結果を共有した
>>225
出陣直前の吉兆

・卜占の結果を、大王に報告した
>>51
絹布に帛書

などであった、と考えられます。

235:日本@名無史さん
22/09/10 00:03:22.33 +cAOF/6mW
我々日本人の母系である田〇山遺跡を貶めるかのような、
相変わらずの偏向軽薄記事が見受けられますが。

そもそも硯で墨を解いて、その目的は何か?

一つは、文字を書いていた。
木簡竹簡に墨書したり、
帛書に墨書したり、ですね。

もう一つ考えられるのは、
近くの古浦遺跡からも卜占が出土していますから、
卜占結果を強調してよく見えるようにするため、
の可能性も高いですね。

現代に伝わる亀卜の流儀には、
亀甲を焼約してできるひび割れを強調するために、
墨を垂らす、
という作法がありますね。

236:日本@名無史さん
22/09/10 03:22:37.92 +cAOF/6mW
卜占を行う一族の、男性を、
自らの舟に乗せて、
水先案内をさせ、
最終的には成果を上げたので、褒美を与えた。
(北部九州倭国でヒコになった)

>>191
後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

237:太国 ◆ZgyHKik.H2
22/09/10 21:33:40.75 fU6mRurCk
  ~~37:32~

URLリンク(www.youtube.com)

238:日本@名無史さん
22/09/12 13:40:15.29 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
URLリンク(www.yoshinogari.jp)
伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

239:日本@名無史さん
22/09/12 23:17:54.48 .net
>>238
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
今どき水行陸行の意味すらわかってないとかw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
URLリンク(www.kanripo.org)
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
URLリンク(wenku.baidu.com)
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

240:日本@名無史さん
22/09/12 23:18:07.00 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

241:日本@名無史さん
22/09/18 15:11:19.84 wo4UJOzPX
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」

台湾へ水行

242:sage
22/09/19 07:17:21.92 .net
>>240
伊都国から方向も里数もないんですけど?

243:日本@名無史さん
[ここ壊れてます] .net
>>242
方位と日数が書いてあるが

244:日本@名無史さん
22/09/22 06:15:53.60 RIqFAUeFg
>>239
>水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
>これを押さえておかないと正解には辿り着かない

>>241
>台湾へ水行

里程●●日程▲▲という表現は、「里程ならば●●掛かり、日程ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえると正解である平原遺跡に辿り着く。

245:日本@名無史さん
22/09/28 01:36:16.08 N9t/XXqbM
日本列島で最古相の卜占出土

新撰亀相記 壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部
       壱岐卜部の祖が天比登都柱命(あまのひとつはしらのみこと)
       対馬卜部の祖が押見命(おしみのみこと)
       伊豆卜部の祖が雷大臣命 東国卜部の祖とも

延喜式 壱岐対馬伊豆から卜占の神祇官を選出 905-927-967

現代対馬 地方国として唯一の亀卜が行われている


卜占というのは、祝詞も秘伝、卜占技術も秘伝、でどちらも高等難解ですから、
一度途絶えると再開は極めて困難ですし、
平安時代の京都政権に壱岐対馬の卜部が採用されたという点だけでも、
壱岐対馬、特に対馬の卜占というのは、
日本最古から連綿と行われてきたことが明らかですね。

246:日本@名無史さん
22/09/28 01:37:31.69 N9t/XXqbM
>壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部

魏志倭人伝の里程にて、
對海國が方可四百餘里。
一大國が方可三百里。

島の大きさと合致していない、という指摘がありますが、
これも過去スレで検討した通り、
島の大きさではなく、國の大きさであった、ということですね。

対馬島には、後の上県・下県の元となった、
對海國と、おそらく魏略の對馬國、の2国があったことになります。

またそれぞれ到ではなく至ですから、
渡一海千餘里で至るのは、それぞれ對海國や一大國の国境までであって、
方可四百餘里=800里余と、方可三百里=600里の、
合計1400里も、対馬海峡渡海部分そして女王国までの12000里には、
合算する必要がありますね。

247:日本@名無史さん
22/09/28 01:38:02.54 N9t/XXqbM
>>215
>『其辭如令龜法』
>倭の卜占で使われる祝詞が、
>中国の令亀法で使われている祝詞のようである。
>大きな一文ですね。

>と、いうことは、
>漢魏使が体験した倭の卜占は、
><漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

なれば、魏使は倭人の卜占を実際に体験しているわけで、
その観点から、
魏使が体験した卜占とは、魏使が到達した伊都までの卜占。
つまりは壱岐対馬の卜占であったであろう。

倭人の卜占の祝詞は、当時はまだ卜占を伝えたおそらく燕人の祝詞を使っており、
漢語だった。

と、いうことは、
文字で伝えるか、
もしくは漢語を話す人が周囲にいる環境か、
でなければ漢語の祝詞を伝えることは困難であり、

「硯の分布域」
もしくは
「楽浪土器の分布域」
における卜占であったことが、『其辭如令龜法』からわかってきますね。

そうなると、
壱岐対馬~北部九州~田〇山遺跡のエリアがそれに該当し、
倭人倭種が居住するという魏志倭人伝の記載とも対応します。

248:日本@名無史さん
22/09/28 20:53:38.78 N9t/XXqbM
倭人の卜占が、<漢語>で行われていたからといって、
卜占を行っていたのが中国からの渡来人(おそらく燕人)の貞人であった、
とは言えませんね。

その強力な実例が、
後に伝来した仏教の『お経』です。

仏教の最初期には渡来人の僧侶が伝えたのかもしれませんし、
鑑真和尚や隠元和尚のような感謝すべき中国僧もいたことでしょう。

しかし、日本の仏教を支え、その宗教世界・哲学世界・知識世界を発展させたのは、
紛れもない多数の日本人僧侶ですね。

にもかかわらず、
遅くとも6世紀の仏教伝来から、現代の我々に至るまで、
1500年間の長きに渡って、我々日本人は、
『お経』を漢文体で敬っていますね。

つまり、
天皇家すら崇拝した仏教の経典『お経』においてすら、
日本人僧侶が漢文体での『お経』を使用し続けることに何の違和感もなく、
それどころか逆に有難いものとして敬い続けてきているわけですね。

よって、
『其辭如令龜法』だからといって、
卜占を行っていた貞人が、中国からの渡来人(おそらく燕人)によって独占されていた、
ということにはならない、ということになります。

249:日本@名無史さん
22/09/28 20:54:24.05 N9t/XXqbM
仏教の『お経』は、漢文体であり、
経典のみならず、中国伝来の最先端知識も習得することが、
長らく日本人知識層の教養であった。

のと同じく、
卜占の祝詞は、伝来当初から漢文体であり、
祝詞のみならず、中国(亡命燕人)伝来の最先端知識も習得することが、
長らく倭人知識層の教養であった。

250:日本@名無史さん
22/09/28 20:55:12.12 N9t/XXqbM
それが故に、逆にわかることもあります。

・仏教の『お経』は1500年間に渡って、漢文体で使用され続けている。
・前3世紀に伝来した卜占の祝詞も、少なくとも後3世紀まで600年間は漢語で行われていた。
・にもかかわらず、現在の卜占の祝詞は、日本語の祝詞になっている。

・現在の卜占の祝詞は、基本的には記紀、特に古事記の天孫降臨に焦点を当てた大祓祝詞である。
・記紀編纂の主たる勢力は中臣氏であり、延喜式の神祇官も中臣氏の息がかかっている。

以上の条件から見えてくることは、
仏教ですら漢文体のお経を長らく使用しているのに、
卜占の祝詞を倭文(日本語)に変更した、あるいは少なくともそれを許容した、
ということは、
中臣氏は卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)の末裔では無い。
ということがわかりますね。


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