邪馬台国畿内説 Part776at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part776 - 暇つぶし2ch2:神様
22/04/15 14:31:56.06 .net
◆1 魏が認識していた倭の位置
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「大海の中に在る」「山島に依り国邑を為す」との記述から、魏は倭を「島」と認識していたことは明らかである。
この当時、本州と大陸がつながっているかどうかは未解明であり、本州を島と認識していた可能性は低く、倭の位置は九州か四国に絞られる。
したがって、畿内説はあり得ない。
また古くから通交のあった九州を経由せずに四国に行くことは想定できないことから、四国を単独で倭と認識していたこともあり得ない。
よって、魏が認識していた倭の位置は必然的に「九州」または「九州と四国」に決まる。

3:神様
22/04/15 14:32:09.73 .net
◆2 戸数についての議論
晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸
魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
邪馬台国の戸数は七万戸
上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。
「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。
「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。
邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、
戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里となり、移動可能な距離である。

4:神様
22/04/15 14:32:22.09 .net
◆3 投馬国とは
魏志倭人伝
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
同様に考えると「水行二十日」とは帯方郡→投馬国への距離を日数で表記したものである。
つまり「船で行くなら二十日かかる距離」という意味と解釈できる。
投馬国の場所を倭人伝から読み解くことは不可能だが、戸数五万戸は邪馬台国の戸数に匹敵する数字であり、かなりの人口を擁する国である。
おそらくは別の国家連合であろうが、水行に要するとされる日数が邪馬台国より多いので、北部九州よりもさらに南下する必要がある。
狗奴国が現在の熊本周辺だとすれば九州西部は考えにくく、日向の都万周辺の諸国連合または四国西部の諸国連合と推定される。
なお、投馬国については里数が記載されていないが、
隋書倭国伝
夷人不知里數 但計以日
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
とあることから、魏の使者は投馬国に立ち寄ってはおらず、邪馬台国の役人からの伝聞の数字と見なしてよい。
狗奴国のように敵対する国であるとは書かれていないので、おそらくは邪馬台国の友好国であろう。
つまり当時の倭には邪馬台国、狗奴国、投馬国、以上三つの国家連合が存在していたことになる。
なお、南に進んでも対馬海流により東に流され出雲にたどり着く可能性は考えうるが、
◆1により魏が本州を倭と見なしていないことは明らかであり、この可能性は考慮しない。

5:神様 ◆KvCyejheZ.
22/04/15 14:32:33 .net
◆4 邪馬台国への行程

帯方郡

 ↓7000余里

狗邪韓国

 ↓1000余里

対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。

 ↓1000余里

一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。

 ↓1000余里

末盧国

 ↓500里

伊都国

 ↓100里

奴国

合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。


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