邪馬台国畿内説 Part773at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part773 - 暇つぶし2ch560:日本@名無史さん
22/04/11 16:27:17 .net
宋史日本国によれば、初めの王は天御中主で彦瀲まで筑紫に都をおき、その第四子の神武天皇が大和州橿原に入居したとある
同様の記述は新唐書にも見られる
宋史や新唐書の記述は当然のことながら宋や唐が日本の使者から受け取った書類をもとに記載しているものと考えられる
つまりもとは筑紫が日本の中心で、その後大和が栄えたことを示す証左である
神武東遷が史実ではないとすれば、邪馬台国は筑紫にあって、大和橿原のヤマト王権は別政権であったと考えるのが自然

そもそも、神武天皇が第四子であるとしたのはなぜか?
ヤマト王権においては長子が位を継承するのが一般的であり、第四子が継承するはずはない
その理由は筑紫の王権とヤマト王権が実際にはつながっていないから
ヤマト王権は歴史の浅い政権であったが、古い王権であると主張したいがために
倭奴国、邪馬台国から連続して存在した政権であるかのように偽装した書類を宋や唐に提出したものと考えられる
長子であるとすると「なぜ筑紫にいないのか?」と問われることになるので、あえて第四子としたのであろう

そもそも、邪馬台国の都は軍事都市ではなく鬼道を行うための祭祀都市であり、
また当時の外交は全て伊都国を中心に行われていた
倭人伝の記述の通り、居処、宮室、桜観、城柵は必要だが、そこまで発展した都市である必要はない


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