22/03/25 21:16:53.74 .net
>>419
何回まとめてもダメなもんはダメさ。
>1里約70mとする
距離の計算 wikiより
魏志倭人伝は魏呉蜀三国時代の史書なので、当時の【一里は459mであったことは確実】である。 帯方郡は行政機関と軍事拠点を兼ねており、報告書は全て軍事報告書として書かれたと推定される。 その場合、帯方郡の情報を元に書かれたと推定される魏志倭人伝は、露布で千里と記されていても、実際の距離はその1/10の45.9Kmであった可能性が高い。 実際、魏志倭人伝には、釜山から対馬、対馬から壱岐、壱岐から九州北岸がそれぞれ千余里と記されているが、最短渡海距離で考えれば、釜山南端から対馬北端まで約50Km、対馬南端から壱岐北端まで約50Km、壱岐南端から九州北岸(糸島半島の付け根)まで約50Kmなので、露布で「正確に10倍した千余里」にほぼ合致する。
したがって、魏志倭人伝の里の距離は、古代中国の文献に明記される露布慣習で説明できる。(一方、いわゆる「短里」は一切古代中国の文献に出て来ない。)
島の外周、約350Kmのチンケな小島ではプロパガンダにもならん。不自然。