319:日本@名無史さん
22/03/15 21:44:46.62 .net
天皇諡号は和風であれ漢風であれ、崩御後に送られるものであるから、
747年に609年作の丈六光銘をコピーした時に、推古は生きているから
止與彌擧哥斯岐移比彌天皇の名称はあるわけない。
したがって、丈六光銘は正確にコピーされていない。
疑問(1)(2)(3)は丈六光銘が正しいと思ってみるから起る。
疑問(1)については原典に天皇名はなかった。
疑問(2)法興年号は書かれていたがコピーで消された。
疑問(3)等與刀禰ゝは大王ではなかった。
すなわち、法興年号の代わりに天皇名で時代を示すように改竄した。「大王」を大王でないものに付け、混乱することを図った。丈六光銘コピーは犯罪である。
320:日本@名無史さん
22/03/15 23:21:51.98 .net
丈六光銘は正確にコピーされていないとなると、上記3点以外も疑うべきである。
疑問(1)により609年には「天皇位」はなかった。
「百濟明王上啓 臣聞 所謂佛法既是世間無上之法 天皇亦應修行 擎奉佛像經教法師」は上下関係が逆転しているとみてよい。
天皇位がなければ「天皇詔巷哥名伊奈米大臣」は誰が詔したのか、大王でしかない。
原典は「大王詔巷哥名伊奈米大臣」となっていたのだ。
すると、巷哥名伊奈米(蘇我稲目)は大王の大臣であったことになる。大王政権の大臣である。アマタリシヒコ大王の大臣である。
書紀はアマタリシヒコを聖徳太子=厩戸としてに潜らせたが、聖徳太子の擁立者が蘇我であったことが理解できるであろう。
321:日本@名無史さん
22/03/16 00:41:13.27 .net
第一回遣隋使のアマタラシヒコは田目皇子だよ
その後亡くなったんでしょうね
アマタラシヒコが勝手に大王を名乗ったんでしょう
東西王朝みたいなもの
322:日本@名無史さん
22/03/16 04:11:49.66 .net
聖徳太子=蘇我馬子=阿毎多利思比孤 である
阿毎多利思比孤は九州王であり、倭国は九州と畿内の二朝併存だった
阿毎多利思比孤が大和にも覇を唱え、統一倭国王になったのだが、
その本来的称号は天王である
天を兄とし日を弟とし、つまりは九州王が畿内王を従えている
日本とは畿内のことである
法隆寺と四天王寺が聖徳太子により建立されたが、
四が欠落したものと説明される天王寺の地名の本来こそが天王寺であり、
それはすなわち天王の寺という意味になる
天王とは九州王を指している
一方、紀記編纂時に天皇の称号が生じたが、
元来、皇の字は皇帝すなわち帝国の王=諸国の王を意味するのであり、
名目において二朝の王を意味して初めて天皇が成立したわけである
蘇我氏を滅ぼした大化の改新の頃、法隆寺が焼失しているが、
王位を簒奪した天智天皇によって焼き払われたと
323:考えられる その再建が太子の怨霊を封印する目的でなされたとの仮説には蓋然性があろう 壬申の乱で王位を得た天武天皇は蘇我系だと考えられるが、 そこに連なる橘三千代の系譜により法隆寺が篤く信仰された背景にはそのような事情が隠されている https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/534-541 //lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542085302/482,488,491,496,498,767,779,781,787 //lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542563254/168,170,177,180
324:日本@名無史さん
22/03/16 08:10:45.35 .net
史料的根拠とその考察が示されなければレスしようがない
325:日本@名無史さん
22/03/16 10:53:52.00 .net
>>301
「巷哥名伊奈米大臣」の大臣は創作で「臣」の可能性は否定できない。
法興6年現在風土記によれば葛城は臣であり、「大臣」の信頼できる記録を求む。
釈迦三尊でも「臣」が使われ「大臣」が区別されていない。
326:日本@名無史さん
22/03/16 12:40:26.99 .net
なんでも創作と呼べばいいのだから楽なものだな。
327:日本@名無史さん
22/03/16 12:55:41.52 .net
コピーと称して歴史を創作するは楽だ。
328:日本@名無史さん
22/03/16 13:47:49.70 .net
バカの創作歴史はつじつまが合わず、バレる。
329:日本@名無史さん
22/03/16 14:08:13.04 .net
いずれにしろ
後宮700人は日本では無かったろう。
間違いなく誇張だな。
別なとこに住んでたと言ってたバカがいたが、
それは後宮とは言わないし、700人ものそういうとこにどうやったら通えるんだよ?w
もう少し現実を考えて想像してから ものを言えよw
あほあほあほwww
330:日本@名無史さん
22/03/16 14:09:19.41 .net
だから天皇号は贈号なんだが
331:日本@名無史さん
22/03/16 14:09:57.54 .net
天皇認定作業は680年~800年にかけて行われたんだぞ
332:日本@名無史さん
22/03/16 15:25:42.30 .net
>>311
根拠は?
333:日本@名無史さん
22/03/16 15:56:29.29 .net
680年より前の資料に天皇の称号が出てくるから問題なんだよなあ。
諡号だって、和風諡号のいくつかは、実は生前から使われていた称号の可能性があるとも言われているし。
景行天皇のオオタラシヒコなんてその例だしね。
334:日本@名無史さん
22/03/16 16:12:30.10 .net
>>313
史料は?
335:日本@名無史さん
22/03/16 17:24:22.41 .net
法隆寺釈迦三尊像光背にでる人物は法皇・太后・王后と王子で、書紀で使われるスメラミコト・ミコト・ミコ・ヒメミコ・キサキは出てこず。
336:日本@名無史さん
22/03/16 17:34:09.47 .net
アマタリシヒコの居所は畿内
裴清の来訪経路は「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。又經十余國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。」。
「至」の最後が秦王国であるから、秦王国に大王がいた。秦王国から十餘國を経て海岸に達する。筑紫より東で、十餘國を経て海岸(絶海を意味)に達する国といえば、畿内となる。
337:日本@名無史さん
22/03/16 17:54:39.19 .net
>>315
法隆寺釈迦三尊像光背に書かれた世界は書紀が全く触れなかった世界というより、
書紀が描いた歴史世界は法隆寺釈迦三尊像光背銘によって作り物だと否定されている。
338:日本@名無史さん
22/03/16 19:45:33.62 .net
>>304
資料的根拠が無くても仮説は提起し得る仮説上の論理的瑕疵や資料的反論を求めたい
未だこの仮説には効果的反論をもらえていない
スレリンク(history板:233番)-237
339:日本@名無史さん
22/03/16 19:52:34.50 .net
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
「池邊大宮天皇」は用明天皇(~587)のことで、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれた。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。福山敏男の「623年以降の作」説は妥当である。
塔露盤銘
元興寺伽藍縁起并流記資財帳(747)に「難波天皇之世辛亥正月五日 授塔露盤銘」と題し、紹介されている。コピーである
上記は丈六に年代的に近い「天皇」記載の銘文であるが丈六に「天皇」が記載されていた傍証にはならない。
340:日本@名無史さん
22/03/16 19:56:50.78 .net
>>318
史料的根拠のない仮説ならいくらでも提起できる。
押し売りを追い返すのにこの国では論理が必要なのか?
341:日本@名無史さん
22/03/17 03:52:38.01 .net
>>320
試しに
342:日本@名無史さん
22/03/17 07:56:52.86 .net
日本の古語もよくわかってない
朝鮮人の悔しがり妄想スレw
343:日本@名無史さん
22/03/17 08:15:33.52 .net
阿毎多利思北孤という言葉が人名だと知って、
日本人なら真っ先に思い浮かぶのは アマテラスとかタラシヒコとかいう人名だろう、
感覚として。
このことが勘として働かずにわけのわからない説を唱えているのは、
日本人の教育をまともに受けてない人だからだろう。
”阿毎” → 天
”多利思” → 照らす or 垂らし
”北孤” → 比孤と修正して 彦 や 日子
などと簡単に予想が付き、これは固有名詞ではなく、
やまとことばによる尊い現人神への尊称であるとすぐに思いつくものだ。
これがすぐに思いつかないのは日本人ではない可能性が高い。
344:日本@名無史さん
22/03/17 08:55:48.52 .net
>>313は
680年以前に「天皇」称号が使われていたと主張したが、その証拠を示さなかった。
>>319でその資料と思われるものをしめした。
一つは作成年代が特定できずとも丈六光銘作成時点より古いことがわかった。
一つは、丈六をコピーした同じ資材帳の中の物でコピーであり、信憑性かくものであった。
また、>>313は和風諡号が存命中に使われた例があると主張したがいまだ証拠を示していない。
345:日本@名無史さん
22/03/17 09:31:34.26 .net
証拠とかなんとかそんなこと言ってるんじゃないのよ。
書紀や古事記や万葉集を、そして平安時代などの書物を知っていれば
当時使われた大和言葉がどんなものか
おおよそ見当がつくわけよ。
人の名前にも ”~の~しヒメ”(姫) だの ”~の~しヒコ”(彦) というように
形容詞や助詞をつけて個人を特定したわけね。
だから
阿毎多利思北孤
→ アメノタリシヒコ とか アメテラスヒコ とか アマタラシヒコ
のように解釈できるわけ
346:日本@名無史さん
22/03/17 09:32:29.46 .net
武寧王は、墓誌には斯麻王、『三国史記』に諱を斯摩、『梁書』では隆。対応が付いている。
隋書にアマ、タリシヒコ、オオキミと記された人物を書紀中の人物と対応させようとするが成功例がない。
「アマタリシヒコ」が実名であろうが、一般名であろうが、オオキミと名乗っている人物がおり、600年、608年には実在した男性王である。
隋はハイセイを派遣して確認しており、倭国最高位の人物である。
受戒した模様で上宮法皇が実在するので、上宮法皇=アマタリシヒコである。
書紀中に該当する男性天皇がなく、皇子が出家して法皇になるわけもなく、書紀はアマタリシヒコを倭国王として認定していないと結論できる。
この不認定は作為的であるがゆえに、
丈六等の書き換えが行われ、失敗したが帝説で上宮法皇=厩戸として強引な同定を行おうとした。
この行為は、大王政権の歴史上からの抹殺を図っているのである。が、風土記や金石文にその片鱗が残っている状態である。
347:日本@名無史さん
22/03/17 09:45:50.89 .net
>>326
>失敗したが
あのさあ、簡単に失敗するような書き方
348:すると思う?w 外国人が見るかもしれない国書作るのに、 そんな浅はかな書き方するとは思えないのだが。 どうしてそうキミはそう隠そうとしたとかそういう発想になるわけ?w
349:日本@名無史さん
22/03/17 09:50:25.81 .net
隋書でハイセイは608年に男性王に会っている。
書紀では推古天皇(女性、554年生)がハイセイに会っている。書紀はここでも嘘を書いている。
後に、東大寺僧がアマタリシヒコはどの天皇かと問われ、用明と答え、用明は600年には既に亡くなっていたという失態を冒している。
350:日本@名無史さん
22/03/17 11:51:29.82 .net
新唐書「次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。」
は訪中した東大寺僧奝然(938ー1016)の発言をもとにしたものと思われる。
奝然の俗姓は藤原氏。藤原真連の子であるから、日本書紀は読んでいる。
だから、天皇の順序が伝えられた。推古がハイセイと会っていることも知っている筈だ。
さらに、タリシヒコを知っているのだから隋書も知っていたことになる。
用明と答えたのは男性で、もっとも多利思比孤の時期に近かったからだろう。
彼には多利思比孤は天皇であるべきだとの認識があり、皇太子の認識はなかったということだ。
間違ったのは天皇の中に答えがなかったからだ。
351:日本@名無史さん
22/03/17 12:19:09.22 .net
不快感ではね
352:日本@名無史さん
22/03/17 12:29:41.49 .net
>>328 >>329
「日本書紀」編者が遣唐使を聖徳太子の功績にしたくて
推古天皇の御代に実際にはまだなかった摂政制度が始まって
天皇の業務をすべて代行する大権力を握った聖徳太子の命令で開始されたことにした説
実際には最初の遣唐使を行ったのは用明天皇であったにもかかわらず
それが聖徳太子の功績にされたために
当時の天皇は女帝の持統天皇ということになってしまった
353:日本@名無史さん
22/03/17 13:05:46.85 .net
用明天皇 587年頃没
354:日本@名無史さん
22/03/17 13:26:55.61 .net
>>332
それは記紀の記述だからね
暗殺でもないのに30代ぐらいで在位2年で急死ってあまりない
355:日本@名無史さん
22/03/17 13:30:52.96 .net
何時頃没した?
356:日本@名無史さん
22/03/17 13:31:39.49 .net
331訂正
持統天皇→推古天皇
357:日本@名無史さん
22/03/17 14:10:06.05 .net
お前達の話(書き込み)など何も関係ない、
ちなみに家は『』こういう家なんだけど、どういう事だと思う?
低脳「?????」
358:日本@名無史さん
22/03/17 15:14:28.02 .net
アマ多利思比孤は仏教治国を目指し仏教を広め寺院を建立した。また、12位階も隋書に出る。これと同等のことが推古紀にあり、厩戸皇子摂政の事績とされ、憲法のことも詳しく書かれている。すでに指摘したように、アマ多利思比孤は国王であり摂政ではない。書紀はアマ多利思比孤大王を摂政として挿入したのである。したがって、逆に厩戸の事績はアマ多利思比孤の事績と認定できうる。
何故書紀はこのようなことをしたのか、すなわち、倭国王を天皇と認めなかったかの問題が提起される。アマ多利思比孤オオキミ(大王)政権をポイント的に認めなかったのか、系列的に認めなかったかの問題も生じる。
大王位そのものを表さない書紀であるから、大王政権を系列的に認めていないとできよう。大王政権が倭国を統治していたのであるが、その個々の政権が、名前、姻戚、性別、位を変えて、あるいは別人物として、あるいは抹消されたりしていると考えるべきなのである。
従って言いたいことは、書紀は歴史書として核になる代物ではなく、読み物として参考にされるべきものだと言うこと。
359:日本@名無史さん
22/03/17 17:38:30.05 .net
>>323
>日本人なら真っ先に思い浮かぶのは アマテラスとかタラシヒコとかいう人名だろう、
>などと簡単に予想が付き、これは固有名詞ではなく、
>やまとことばによる尊い現人神への尊称であるとすぐに思いつくものだ。
矛盾しているじゃん。
アマテラスもタラシヒコも人名だよ。
360:日本@名無史さん
22/03/17 17:42:11.88 .net
要するに、隋書にある倭国政権と、日本書紀にある畿内日本国は別の国なんだよ。
ならば倭国と呼び得る国は、後漢書以来、一貫して九州北部しかない。
361:日本@名無史さん
22/03/17 18:03:59.44 .net
>>316にタリシヒコ政権が畿内である推定を行ったが、何か?
362:日本@名無史さん
22/03/17 19:32:41.59 .net
アマタラシヒコは豊旗ですね
豊前だね
オオタラシヒコが拠点にした辺り
4世紀のオオタラシヒコを支えた勢力がまた同じようなことをしたんじゃないか?
363:日本@名無史さん
22/03/17 20:37:00.86 .net
「ですね」「だね」「体言止め」「じゃないか?」は反撃を恐れている表現だ。
反撃を恐れず自信を持った発言でなければ、レスはない。
364:日本@名無史さん
22/03/18 10:57:43.23 .net
>>342
負けてるから、そうやって自分だけにわかる理屈をこねて自分を励ましてるんだねw
わかるよ、よくわかるよ、キミの焦燥感ww
はたから見てるとバカにしか見えないんだけどwww
365:日本@名無史さん
22/03/18 13:18:30.55 .net
「~るんだね」「体言止め」「~だけど」
反撃を恐れるあまり、不快感すら詠嘆口調になる統失。
366:日本@名無史さん
22/03/18 13:24:51.91 .net
タラシヒコの諡号が、九州にゆかりのある天皇にしばしば使われていることは確かだ。
367:日本@名無史さん
22/03/18 17:22:33.34 .net
「ゆかり」「しばしば」が既にあいまい。
あいまい表現を「確かだ」と断定口調で言ってもあいまい。
それよりも、アマタリシヒコ時代の遺跡とか金石文とかないのかね。
根拠があるから、九州説なんだろう。教祖様は何ておっしゃってるんだ?
368:日本@名無史さん
22/03/18 20:10:29.22 .net
九州説の根拠となる遺跡や金石文が無いのなら、
九州説が起きたきっかけでもいいんだが。
369:日本@名無史さん
22/03/18 20:49:17.83 .net
筑紫、吉備、葛城の三国があって、一世紀中期まで独自外交して力があったのが筑紫ってことだろ。
370:日本@名無史さん
22/03/18 21:18:16.75 .net
継体天皇の時代ですら、筑紫を下せていない。
倭国の名は白村江まで使われている。
371:日本@名無史さん
22/03/18 21:40:01.04 .net
大宰府を囲む羅城は総延長50キロメートルを超える。
歴史学者は白村江の敗戦を受けて防衛のために建設したと主張するが、敗戦後に大宰府は唐に占領されているのだから、そんなものを建設する意味がない。
敗戦国に許されたのは、平城京のような城郭を持たない首都だけだった。
それは中国文化を取り入れているはずの当時の東アジアの都市のあり方としてはひどく不完全だ。
本来なら、東アジアの国の首都は大宰府のように羅城があるのが普通なのである。
大宰府羅城の正確な年代は不明だが、羅城の一部である水城の最下層の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代のものであった。
大宰府のような大規模な王都であれば、後宮に女性が数百人いてもおかしくない(後の京都御所と同じくらい、江戸城大奥よりは小さい)。
372:日本@名無史さん
22/03/18 21:45:18.56 .net
継体紀では最終的に筑紫を下している。
それ以前に、九州と関東で同じ大王名の鉄剣が出ているのは統一の証拠だろ。
磐井の件は一時的な反乱だったろう。
白村江で「倭国」が使われていることと九州説と何の関係がある?
373:日本@名無史さん
22/03/18 21:49:47.96 .net
継体天皇と戦ったのは筑紫の君イワイであった。
(イワイは亡くなったが、筑紫の君の座は息子が継承している)
白村江で負けて捕虜になった倭国の指揮官は筑紫の君サチヤマであった。
遣隋使の年代は間に位置しており、筑紫の君が大宰府の主であり、倭王タリシヒコの一族であると考えるのは不自然ではない。
隋書には、倭には阿蘇山という山があり、時折火を吹くという。
旧唐書には、日本は倭の小国であったが、やかて倭を併合したある。
374:日本@名無史さん
22/03/18 21:51:15.40 .net
>>351
>継体紀では最終的に筑紫を下している。
下していない。
屯倉一つを獲得しただけだ。
筑紫の君の称号はイワイの息子が継承したので、倭の国体は維持されている。
これでは下したことにはならない。
375:日本@名無史さん
22/03/18 21:53:34.74 .net
>>351
>白村江で「倭国」が使われていることと九州説と何の関係がある?
後漢書によると、倭とは朝鮮半島南岸の狗邪韓国を西北の境とし、九州北岸の倭奴国を南限とする。
そしてその代表は倭奴国王であった。
つまり倭とは九州北部にあった国というのが中国がわの認識だということになる。
376:日本@名無史さん
22/03/18 22:03:50.10 .net
>大宰府を囲む羅城は総延長50キロメートルを超える。
歴史学者は白村江の敗戦を受けて防衛のために建設したと主張するが、敗戦後に大宰府は唐に占領されているのだから、そんなものを建設する意味がない。
百済王族扶余勇が倭国にいることが唐書にある。彼は白村江の敗戦で倭国に走った。
彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
朝鮮山城といい、50㎞の羅城は扶余の都のものに同類とされている。
>敗戦国に許されたのは、平城京のような城郭を持たない首都だけだった。
それは中国文化を取り入れているはずの当時の東アジアの都市のあり方としてはひどく不完全だ。
本来なら、東アジアの国の首都は大宰府のように羅城があるのが普通なのである。
隋書では無城郭と記されているが。
>大宰府羅城の正確な年代は不明だが、羅城の一部である水城の最下層の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代のものであった。
大宰府のような大規模な王都であれば、後宮に女性が数百人いてもおかしくない(後の京都御所と同じくらい、江戸城大奥よりは小さい)。
炭素年代測定が正しければ、材料がその当時の物だったということで、建造された時期がそうだともいえまい。
朝鮮山城は天智が百済将軍に命じて造らしめ水城もつくらしめたとの天智紀を信じれば、
天智=扶余勇であり、時代背景などすべてつじつまが合う。
377:日本@名無史さん
22/03/18 22:11:46.35 .net
>>355
>彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
大宰府が占領されてから作ったのか?
>隋書では無城郭と記されているが。
なるほど。
そこは考慮しなくてはいけないね。
>炭素年代測定が正しければ、材料がその当時の物だったということで、建造された時期がそうだともいえまい。
それは詭弁だ。
普通は、伐採した年代と建物を建造した年代が違うなどという想定はしない。
大宰府だけ何百年も前の建材を再利用したというのか?
少なくとも水城の建設は卑弥呼の時代にまで遡るというのが科学的な考え方になるはず。
>天智=扶余勇であり、時代背景などすべてつじつまが合う。
時代が近いだけで、同じ人物だとする確証はない。
当時の倭と百済の親密な関係を鑑みれば、羅城の様式が同じなのは当然だし。
378:日本@名無史さん
22/03/18 22:11:50.82 .net
>遣隋使の年代は間に位置しており、筑紫の君が大宰府の主であり、倭王タリシヒコの一族であると考えるのは不自然ではない。
大宰府が磐井の時代にあれば、隋書に無城郭とは書かれない。
>隋書には、倭には阿蘇山という山があり、時折火を吹くという。
畿内へ行く途中に見に寄ったのかもしれん。
>旧唐書には、日本は倭の小国であったが、やかて倭を併合したある。
それは天智=扶余勇政権が南遷した百済を日本と名付け、旧倭国を併呑したという意味。
旧唐序から670~672年と見受けられる。その後壬申の乱で倭国が復活するが国名は日本を踏襲した。
379:日本@名無史さん
22/03/18 22:22:12.64 .net
>普通は、伐採した年代と建物を建造した年代が違うなどという想定はしない。
大宰府だけ何百年も前の建材を再利用したというのか?
少なくとも水城の建設は卑弥呼の時代にまで遡るというのが科学的な考え方になるはず。
天智紀に朝鮮山城は天智が百済将軍に命じて造らしめ、水城もつくらしめたと記述されている。
天智紀の他の事項については年代、人名が克明であり、
朝鮮山城・水城は天智=扶余勇が造ったとするのがぴったりだと思う。
朝鮮山城の分布は、扶余勇が最初に移った北九州あたりに多く、最後に遷った近江が東限だ。
だんだん必要性を感じなくなったのと、朝鮮山城支配様式が倭国には合わないと解ってきたのだろう。
380:日本@名無史さん
22/03/18 22:31:23.09 .net
>>彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
>大宰府が占領されてから作ったのか?
扶余勇が百済国を南遷させるまえに大宰府あたりに何があったかは不明だが、倭国王のもとに支配されていた。
倭国王が扶余勇に百済国南遷を許したので大宰府等防衛システムが簡単に作れた。
こういうことが行われたのは倭国王自身が百済出身だからだと別の考察で帰結された。
381:日本@名無史さん
22/03/18 22:49:43.92 .net
>>357
>畿内へ行く途中に見に寄ったのかもしれん。
畿内へ向かう途中でどのような�
382:求[トを通ったら阿蘇山の近くに行くというのか。
383:日本@名無史さん
22/03/18 22:50:38.12 .net
>>357
>それは天智=扶余勇政権が南遷した百済を日本と名付け、旧倭国を併呑したという意味。
それなら日本国はかつての百済と記載されたはずだ。
384:日本@名無史さん
22/03/18 22:53:43.39 .net
>>359
>倭国王が扶余勇に百済国南遷を許したので大宰府等防衛システムが簡単に作れた。
なぜ倭が筑紫大宰府を百済に明け渡すというこか。
倭も百済も敗戦国になったら、何から何を防衛するなか。
壮大な大宰府羅城の建設には何年もかかっただろう。
白村江より前から作っていたはずだ。
385:日本@名無史さん
22/03/18 23:04:33.31 .net
>それなら日本国はかつての百済と記載されたはずだ。
いろいろ、中国にも事情があるんじゃないか。禰軍は百済佐平であったが、百済崩壊時に寝返って唐の将軍になった。かれは、恩義ある扶余家百済をなんとか生き延びさせたい気持ちがあったように思う。禰軍は天智紀に倭国を訪れたとある。扶余勇に会ったと思う。禰軍墓誌に扶余勇を指してだと思うが「日本ヨショウが罪を逃れんとし」とあるのは、白村江の戦の罪を言っているのだろう。実際、扶余勇は罪にはならなかった。しかし、天智紀に「筑紫都督府」が残されている。扶余勇は唐の都督を承諾して罪を免れたのだと思う。一旦唐の都督となり配下に下ったのだから、日本が百済の生き残りだと言えば、後の政権に攻撃材料を与えるではないか。慈悲ということだろう。そういう胸の内が禰軍にあったように思う。
386:日本@名無史さん
22/03/18 23:11:56.37 .net
>なぜ倭が筑紫大宰府を百済に明け渡すというこか。
この時の倭国王は百済国生まれで、扶余家百済を助ける義務のようなものがあった。
>倭も百済も敗戦国になったら、何から何を防衛するなか。
基本的に唐は海の向こうまでは攻める気はないように思う。ただ、罪にする。
倭国王は封禅の儀に出席することを約束し、唐の配下に下ったことを認めた。
>壮大な大宰府羅城の建設には何年もかかっただろう。
白村江より前から作っていたはずだ。
土饅頭だ。百済は南遷を繰り返しているから、都を作るくらい平気じゃないか?
人力は倭国王にかき集めさせればいいのだから。
387:日本@名無史さん
22/03/18 23:28:45.02 .net
>畿内へ向かう途中でどのようなルートを通ったら阿蘇山の近くに行くというのか。
中国人は火山を見たことがない。是非とも見ておきたいだろう(見たとすれば)。
倭の五王が統一しているから、既に道はあっただろう。途中とは、わざわざ立ち寄るという意味。
火山は聞いた話かもしれないし、あまりタリシヒコの居所と直接関係ないと思うが。
388:日本@名無史さん
22/03/19 00:33:44.89 .net
九州もまた特別な地域だね。
各種神宮神社、志賀島、長崎、南方列島、高千穂、
筑紫の日向の小戸の阿波岐原、阿蘇雲仙島原各種国立国定公園・・・
印象的で歴史的な地方だね。
389:日本@名無史さん
22/03/19 00:38:04.71 .net
厩戸皇子は、蘇我馬子が最大の敵だったみたいだね。
奥さんが蘇我馬子の娘だったんだっけ?
390:日本@名無史さん
22/03/19 08:56:47.81 .net
バカなのかてめえは
391:日本@名無史さん
22/03/19 09:59:49.61 .net
扶余勇に北九州を譲った倭国王に就いての補足
書紀では天智称制となっていて倭国王が不存在だが、旧唐書に「倭国酋長」がいる。
これが倭国王だが、誰かという問題が生じる。
すこし込み入って来るが、皇極紀のギョウキ王まで遡らねばならない。
書紀は百済王族ギョウキ王を人質としていない。
かつ40名あまりの高名な人々が同伴している政治集団。
細かいことを省くが、彼が孝徳天皇となり、新たな宮殿様式(百済武王のものと類似)で難波に宮を作り、律令政治を始めた。
ギョウキ王は子をなくすが、もう一人いたことが書紀を読めばわかる。
この人物が孝徳の皇太子になるべきだが、書紀は正直に書いていない。
斉明に重ソさせたり、天智(=扶余勇)を持ってきたりしている。
実際はこの百済生まれの皇太子が孝徳の後を継いだ倭国王だと思う。
かれこそ、大海人皇子。
大海人皇子が倭国王で、百済崩壊が起り、白村江の戦で援軍を送り、百済を再興するのに助力した。
扶余勇と大海は従兄で扶余家では勇が本家筋にあたり格上。
百済はつねに、南遷先を準備していたんではないかな。
倭国には人質と呼ばれる百済王族が何人も来ているのは、支配地域を南に求めていたんだろう。
392:日本@名無史さん
22/03/19 12:50:31.38 .net
>>368
いやねえ
音楽アプリAWAにある、
深見東州「厩戸皇子のアリア第1楽章、第3楽章」のなかに、
「愛する妃とじこは、馬子の娘」というフレーズがでてくる。
一度だけ、そのとじこさんは、馬子側についてしまったらしい。
だからもう、実際の日本史は、現代人には想像がつかない。
393:日本@名無史さん
22/03/19 13:18:5
394:9.31 .net
395:日本@名無史さん
22/03/19 13:19:32.78 .net
>>367
>奥さんが蘇我馬子の娘だったんだっけ?
蘇我馬子は厩戸王の最大の後見人だよ。
396:日本@名無史さん
22/03/19 13:27:06.69 .net
>>364
>土饅頭だ。百済は南遷を繰り返しているから、都を作るくらい平気じゃないか?
おいおい。
山々の峰をめぐる山城だよ。
大野城や基肄城もその一部だ。
とてつもなく大きな城郭だぞ。
山手線一周が約35キロだそうだが、大宰府羅城は一周50キロを超える。
すぐに作れるものではない。
白村江より前から、倭国の王都であった大宰府の守りとして建設されていたと考えるべきだ。
余豊は関係ないだろう。
397:日本@名無史さん
22/03/19 13:32:50.30 .net
>>372
馬子の娘、蘇我刀自古郎女は早くに亡くなったか何かで
厩戸王が生涯添い遂げ一緒に葬られた妻は膳部菩岐々美郎女だった
蘇我氏との縁が薄くなったので最後のほうは
飛鳥から遠い斑鳩隠居で干されていたともいう
398:日本@名無史さん
22/03/19 13:41:10.12 .net
都を作るには道がある。その総延長は一本7㎞として南北10本東西10本として140㎞。
大宰府羅城は朝鮮山城や水城を結んでいると考えられている。
水城・朝鮮山城と同時に計画されたと見るべき。
399:日本@名無史さん
22/03/19 14:39:22.55 .net
50kmの羅城は土
部分的に石を使う朝鮮山城は周囲6km くらい。
400:日本@名無史さん
22/03/19 14:54:20.77 .net
その水城の最下層が3世紀だからなあ。
401:日本@名無史さん
22/03/19 16:44:02.85 .net
京の都を造築したのは秦氏やど
秦氏らは日本において大工の起源となっておるからのお
402:日本@名無史さん
22/03/19 16:47:33.18 .net
聖徳太子の法隆寺だのも造営したのは秦氏と言われる
聖徳太子に仕えた部下だったからね
その秦氏が自分が作った寺にユダヤと関係ある文字だかなんだか刻んだってんで話が出てきたんやん
403:日本@名無史さん
22/03/19 16:51:44.22 .net
最下層が3世紀は木の炭素年代測定だろうが、その木は掘り返して取り出したのだね。
構造的なことが全部わかったはずだな。長い樋の年代はどうでした?
404:日本@名無史さん
22/03/19 18:39:56.82 .net
水城の最下層部は粗朶と粘土が何層にもなっており、
最上部の粗朶層はAD660年が測定の中央値。
最下層の粗朶層が3世紀と測定されるものの、一点のみの測定であるので、測定を増やして確定したいとしている。
よって、木樋はAD660の粗朶層の上にあるので、水城は天智紀にあるとおり、天智が造らしめたと言ってよいだろう。
最下層の部分は別途研究されればよいだろう。
405:日本@名無史さん
22/03/19 19:58
406::33.69 .net
407:日本@名無史さん
22/03/19 20:08:50.18 .net
他人が言い出した九州説に相当人生を費やしたようだなw
全くバカだ。邪馬台国も磐井もたった24時間で落城w
これまでの統失演技は負けた時の準備wwwww
408:日本@名無史さん
22/03/19 20:19:53.97 .net
>>382
>思い付き仮説を立てて立証する場合、諦めも必要。
思いつきというのは的確ではないな。
大宰府の巨大遺構は事実だし、水城の最下層が非常に古いのも事実だ。
私は九州説だが、扶余勇の話には批判的だし、それではむしろ新しくなってしまう。
あなたは自分が好きな何人とやり取りしているのか理解していないのではないか。
409:日本@名無史さん
22/03/19 20:26:57.40 .net
九州説の立証をライフワークにしたとすれば、扶余勇=天智説の登場は青天の霹靂だな。
それで、執拗な付きまといをしたのだな。まあそれほどの衝撃だったろうことは理解してやる。
しかし、それは突飛な考えに飛びついた君が悪いんだよ。教祖が馬鹿だと見抜けなかったこともなwww
410:日本@名無史さん
22/03/19 20:32:55.07 .net
>水城の最下層が非常に古いのも事実だ。
なら、粗朶の最上層部がAD660も認めるわけだ。水城はその上に立ってるんだよ。
まあ、残る人生を九州説に賭けざるをえまい。無駄だと思うが、やってきたんだから続けりゃいい。
べつに、日本人全員が幸福でなくちゃあならんということもないからな。
411:日本@名無史さん
22/03/19 20:51:03.68 .net
>何人とやり取りしているのか理解していないのではないか。
統失一人だろう? 複数人演技は負けの準備とは既に言っておいた。
君が何様か知らないが、人生を棒に振ったようだ。南無阿弥陀仏。w
412:日本@名無史さん
22/03/19 20:56:31.92 .net
前にも言ったな「俺は負けたことがない」とw
おれは誰にも負けない知能を持ち、全知全能なんだよwww
413:日本@名無史さん
22/03/19 21:07:51.54 .net
大宰府は内裏から南に伸びる朱雀大路を中心に整備された都市だったが、
さらにその周囲に東アジア最大級の羅城があったことになる。
これが白村江より前の7世紀以前に遡るものだとしたら、それを一地方行政機関とすることは無理があるのではないか。
日本で最初の条坊制の都市は藤原京とされるが、なぜか日本書紀などでは新益京と呼ばれる。
それ以前に倭京(または単に京)と呼ばれる都市の存在が日本書紀から窺えるのだが、その場所や実態については謎とされる。
これはいったいどうしたことなのか。
日本の首都がわからないと言っているのも同然なのだが、それは倭京が機内にあると思い込んでいるからではないのか。
後漢書では、そもそも倭とは九州北部を指す言葉なのだから。
日本書紀では645年の大化が日本で最初の年号とされているが、それに先立つ618年(まては620年)には倭京年号が存在していたという説がある。
それなら倭京とはどこにあったのか。
後の藤原京や平城京に先行する条坊制の都市であった大宰府こそ、筑紫を中心とした倭の王都、倭京だったのではないか。
414:日本@名無史さん
22/03/19 21:20:04.99 .net
それでは倭国の王都がなぜ藤原京に移ったのか。
なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
それは白村江における敗戦しかないではないか。
戦勝国であった唐は、大宰府を占領して筑紫都督府を置いた。
倭と同じ敗戦国である百済には熊津都督府を置いた。
(熊津は百済の古都)
筑紫の君サチヤマは唐の捕虜となり、倭国は滅亡したのだろう。
日本国は唐の傀儡政権であり、遣唐使をせっせと派遣して朝貢するようになった。
すべて辻褄が合う。
415:日本@名無史さん
22/03/19 21:24:46.80 .net
天智天皇の子志貴皇子は自身のことを
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨
と読んでいる
天智天皇の系譜はササの婢なのかもね
ムササビはモモのこと
天武天皇も天智天皇もミミでありモモなんだろうね
416:日本@名無史さん
22/03/19 21:29:01.19 .net
おまえらの考えって日本を滅亡に導こうって誘導してるだけなんだよ
乞食?
417:日本@名無史さん
22/03/19 21:32:43.23 .net
多利思比孤は九州王朝の王
当時中国と交流していたのは九州王朝だから
そもそも聖徳太子は王ではないから
418:日本@名無史さん
22/03/19 21:43:14.21 .net
天武天皇はマジでアマタラシヒコ、田目皇子の子孫の可能性がある
豊前を中心にしたミミ、大タラシ、吉備のアマタラシの勢力
田目皇子→高向王、宝→天武天皇
419:日本@名無史さん
22/03/19 21:50:45.86 .net
扶余勇の大宰府の下敷きになってしまった都市はあるだろうか。
それが消されるまで、倭国の中心だったと立証すればいい。私はそんな昔を調べていないので否定も肯定もしない。
あったとしても、隋書にある通り無城郭だから、城郭や朝鮮山城のない大宰府だ。
しかし、タリシヒコがそこの大王だったとは思えない。なぜなら、
北九州には邪馬台国があっただろうが、その後、五王に見るように古墳は4~5世紀に低地化している事実がある。
低地化したのは低湿地開発のおかげで耕地面積が飛躍的に伸び経済的に低地族が優位になったからだろう。
低地の規模から言って経済的に畿内が倭国の中心になっただろう。北九州では狭すぎる。
そういう状況が起きて都の残骸が大宰府にはあったかもしれないけれど、
タリシヒコの時代は古墳低地化が起きて100年以上経つので、この事実からも北九州ではないと思う。
日本書紀にある倭京とか新益京とかは新たな都藤原京と比べての話とすれば難波だろうと思う、難波も条坊制だから。
これは思い付きだから、立証するには、大宰府や大阪上町台地を掘り返すことだろう。
まぁ、扶余勇の大宰府の前になにかあった?あれば、簡単には扶余勇は移れるだろうか?遠い話だわ。
420:日本@名無史さん
22/03/19 21:59:52.56 .net
>大宰府は内裏から南に伸びる朱雀大路を中心に整備された都市だったが、
さらにその周囲に東アジア最大級の羅城があったことになる。
これが白村江より前の7世紀以前に遡るものだとしたら、それを一地方行政機関とすることは無理があるのではないか。
隋書に無城郭と書かれているのだから、羅城も大野城もない。前提が崩れた。
都があった論証にはならない。やりなおしだ。
仮説を立証するために仮説を積み上げている統失w
421:日本@名無史さん
22/03/19 22:03:19.37 .net
>それでは倭国の王都がなぜ藤原京に移ったのか。
なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
それは白村江における敗戦しかないではないか。
戦勝国であった唐は、大宰府を占領して筑紫都督府を置いた。
倭と同じ敗戦国である百済には熊津都督府を置いた。
(熊津は百済の古都)
筑紫の君サチヤマは唐の捕虜となり、倭国は滅亡したのだろう。
日本国は唐の傀儡政権であり、遣唐使をせっせと派遣して朝貢するようになった。
すべて辻褄が合う。
なるほどね、辻褄がね。で、どんな事実を踏まえて?
422:日本@名無史さん
22/03/19 22:06:10.69 .net
統失は整理して1ケ月後にでも。この調子じゃかみ合わないからね。敗北宣言か?wwww
423:日本@名無史さん
22/03/19 22:13:34.56 .net
>>397
事実
唐は畿内ではなく筑紫に都督府を置いた
倭は国号を日本に変更した
筑紫の君が捕虜になった
遣唐使が派遣された
424:日本@名無史さん
22/03/19 22:49:05.67 .net
>唐は畿内ではなく筑紫に都督府を置いた
で、都督は誰だったの?
扶余勇を都督にして罪を逃れさせる禰軍の計らいだろうと説明したが・・・。
>倭は国号を日本に変更した
年次的に扶余勇が倭国号を変更したかったが百済ではまずいので日本に変更したと説明した。
>筑紫の君が捕虜になった
筑紫君は大海人に命じられた総大将だったかもしれないな。
>遣唐使が派遣された
扶余勇都督が半島に報告連絡相談に遣いを出したのを遣唐使と言っている。
お前が挙げた事実は扶余勇で解決している。九州説を必要としない。
425:日本@名無史さん
22/03/20 08:31:25.87 .net
扶余勇って人物しかおらんの?
426:日本@名無史さん
22/03/20 08:51:23.20 .net
さあ、知らんね。
427:日本@名無史さん
22/03/20 12:54:36.87 .net
百済語が日本語に残ってない時点でアウトーw
428:日本@名無史さん
22/03/20 12:59:20.03 .net
>>390
>なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
はあ?w
大宰府が王都だったってどこの資料なんですか?www
まじこいつ頭おかしいなwww
429:日本@名無史さん
22/03/20 13:10:25.46 .net
自説の否定は自殺行為→統失を深化w
430:日本@名無史さん
22/03/20 13:18:03.30 .net
>>405
>自説の否定
はあ?www
分裂症はあなただと思うけどwww
それとも、また誰かと勘違いしてるの?www
あなたを面白がって相
431:手してるの俺だけじゃないんだがwww いいかげん自覚しろよ、自分のおめでたさをwww マジバカすぎるwww
432:日本@名無史さん
22/03/20 13:27:37.10 .net
>>404
>大宰府が王都だったってどこの資料なんですか?www
じゃあ東アジア最大級の羅城を持つ大宰府をどう位置づけるつもり?
筑紫を中心とする倭国の王都というが一番わかりやすい説明なんだが。
畿内大和が政治の中心だというのは、大和に神武が即位したという記紀を間に受けた皇国史観に過ぎず、考古学的状況と矛盾するんだよ。
むしろ、倭国が消滅したと思われる7世紀以前の資料がほとんどないことを不思議に思えよ。
倭国は紀元前から中国と国交を交わし、金印まで受け取って国書をやりとりしていたのに、7世紀までの文書はどうなったんだよ。
433:日本@名無史さん
22/03/20 13:55:35.72 .net
>>407
突国から攻撃されやすい九州太宰府に王都を置くわけがない。
以上。
434:日本@名無史さん
22/03/20 14:45:40.51 .net
>じゃあ東アジア最大級の羅城を持つ大宰府をどう位置づけるつもり?
隋書に無城郭とあるから608以降のものだ。水城の成立は天智紀によるから663以降のものだ。羅城と水城、朝鮮山城は結ばれており同時期に計画された。663以降のものだ。
>筑紫を中心とする倭国の王都というが一番わかりやすい説明なんだが。
パズルはバカには難しい。だからバカは空想を持ち込む。www
435:日本@名無史さん
22/03/20 16:07:17.69 .net
>むしろ、倭国が消滅したと思われる7世紀以前の資料がほとんどないことを不思議に思えよ。
倭国は紀元前から中国と国交を交わし、金印まで受け取って国書をやりとりしていたのに、7世紀までの文書はどうなったんだよ。
5世紀には倭の五王は河内にいた。鉄テイという半島で作られた威信財は近畿(大量)と瀬戸内に出るが、お前の言うところの太宰府の倭国はその頃どうなっていたんだい?
436:日本@名無史さん
22/03/20 16:34:57.44 .net
>>303
解決!! 邪馬台国の場所は沖縄
スレリンク(history板:163番)-167
437:日本@名無史さん
22/03/20 17:21:38.09 .net
>>411
現実味のなさの極みだねw
距離が遠すぎだわw
438:日本@名無史さん
22/03/20 17:27:06.07 .net
>>412
自説に自信のないお前が自信をもって批判とはワロタwww
439:日本@名無史さん
22/03/20 18:24:15.74 .net
>>413
だからまた人違いしてるんだろw
おまえをからかってるやつは俺だけじゃないんだけどw
俺の邪馬台国説は神武東征前は北~中九州の連合王国、
東征後は畿内で確定してるのだが
魏の使者は松浦から入り吉野ケ里周辺の行政都市のイト国止まり
女王の都はさらに南の宮崎にあり、
ヒミコは名前の通り”日の巫女”としておわす人
具体的な行政にはタッチしてはいなかった
具体的な行政はイト国で行われていた
倭人伝をちゃんと素直に読めばそう書いてあるからw
南を東に読み替えるとか馬鹿な解釈をする畿内説は論外だわw
440:日本@名無史さん
22/03/20 19:45:43.11 .net
名指しされた統失が自分だと言ってるw
441:日本@名無史さん
22/03/20 19:55:49.25 .net
>>415
負け惜しみ言うなよw
面白いよ、朝鮮人w
442:日本@名無史さん
22/03/20 20:12:33.31 .net
倭人伝は司馬家が自分らの権威を高めるために書いた創作って学会では確定しただろ
いつまで戦後体制下で醸成された嘘を鵜呑みにしてるんだ
443:日本@名無史さん
22/03/20 20:14:18.43 .net
>>417
どこの何の学会や?w
444:日本@名無史さん
22/03/20 20:46:28.02 .net
一人芝居も聞き飽きた
445:日本@名無史さん
22/03/20 21:20:56.57 .net
見事に九州は散ったな。
九州説が陰ったのは「国際的・・・」が上梓されたからだろうなw
446:日本@名無史さん
22/03/20 21:21:56.21 .net
統失は九州説の残党かwww
447:日本@名無史さん
22/03/20 21:24:56.42 .net
>>419
おまえは一人だが、おれらは一人ではないのだがw
ID出ないから誰が誰だかわからないんだなw おまえw
やっぱバカだw
448:日本@名無史さん
22/03/20 21:28:08.67 .net
>>420-421
残党ではないよw
邪馬台国については新参者の九州別説だよ、>>414で書いたが。
俺はこれで決定だと思ってるけどねw
ちゃんと倭人伝読めよw
449:日本@名無史さん
22/03/20 21:52:16.32 .net
大宰府が7世まで九州王朝の都だったなw。すり替え専門の統失。
450:日本@名無史さん
22/03/20 22:15:03.47 .net
>おれらは一人ではないのだが
組んでるじゃないかww
451:日本@名無史さん
22/03/20 23:51:33.57 .net
東征説は九州説とは言えないだろ。
そんなキテレツな説と組んだ覚えはない。
452:日本@名無史さん
22/03/20 23:52:33.56 .net
倭の五王が河内に居たっていうのは、何が根拠なのか。
妄想?
453:日本@名無史さん
22/03/20 23:53:18.24 .net
大宰府羅城の建設が608年以降なのはわかった。
454:日本@名無史さん
22/03/20 23:54:25.26 .net
>>414
>女王の都はさらに南の宮崎にあり、
宮崎は投馬国だよ。
都万神社は日向国の旧国府。
455:日本@名無史さん
22/03/21 00:50:02.34 .net
倭の五王とはかぎらないが、鉄テイと古墳のおおきさからいって5世紀は畿内が倭国の中心。河内湖の排水の証拠がある。馬飼育の中心でもあった遺跡もある。北九州には記録はないとしても5世紀当時優位を示す遺物はあるのか?
456:日本@名無史さん
22/03/21 03:50:12.49 .net
>>424
まだ言ってるのか、キチガイ朝鮮人w
別人の言ったことを俺のせいにしようとする”偽旗作戦”w
いかにも卑怯な朝鮮人らしいレトリック思考w
おまえは敗北してんだよw
いい加減認めなよw 敗北者w
457:日本@名無史さん
22/03/21 03:57:12.99 .net
>>429
倭人伝を読むと
女王国の東側に海がありそれを渡ると倭人の別種が居ると書かれてある。
普通に考えて東側に海があるとすると宮崎がぴったりである。
海は豊後水道、渡ると四国、四国にも倭人の別種がいたということであろう。
この時点で女王国は大和や難波でないことがわかる。
東側には海ありませんもんね?ww
まあ、文章を素直に読む限りあてはまるのは九州であろう。
458:日本@名無史さん
22/03/21 06:20:30.95 .net
アメリカの西部がゴールドラッシュで沸いても、政治の中心は東海岸であり続けた。
畿内が繁栄しても、福岡が衰退したわけではないし、対外貿易における優位性は揺るがない。
459:日本@名無史さん
22/03/21 08:04:36.37 .net
鉄テイは半島で生産され畿内に輸入された。鉄ラッシュの半島から、威信財として権威あるもののところに運ばれた。権威は鉄を通じて国を治めた。残念ながら鉄テイは北九州を素通りしたようだ。
460:日本@名無史さん
22/03/21 12:19:20.78 .net
>畿内が繁栄しても、福岡が衰退したわけではないし、対外貿易における優位性は揺るがない。
鉄テイは威信財だった。鉄テイをほぼ占有して畿内は地方を支配した。
北九州の貿易の優位性とは何のことか?
461:日本@名無史さん
22/03/21 12:39:36.91 .net
>>303
スレリンク(history板:985番)
スレリンク(newsplus板:311番)
スレリンク(history板:166番),232,233
233 日本@名無史さん [sage] 2022/03/21(月) 12:25:11.91 ID:
>232
●聖徳太子
本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」とされているほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。
462:日本@名無史さん
22/03/21 16:42:31.85 .net
>>435
筑紫の王族の末裔だろ?
463:日本@名無史さん
22/03/21 20:43:18.02 .net
米国が売りつける旅客機には仕掛けがしてあるのだろうねw
日本も気を付けないと、特に政府専用機にはww
464:日本@名無史さん
22/03/21 21:41:46.77 .net
スサノ
465:オが自分の体毛で木を植え用途を定めた話 アゴの毛→スギ→船 ムネの毛→ヒノキ→家 シリの毛→マキ→棺 眉マユの毛→クス→船 体の部位は木を植えた地名に関係するんじゃないか? 枯野伝説によれば、楠の大木から軽船(風土記では速鳥という名の船)を作ったとある 楠は古代の西日本では丸木舟の材料として使われ、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している 眉マユなんだが和泉に摩湯という地名があり以下の伝承が残っている 摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる 摩湯の丘陵の海岸近くに池上曽根遺跡がある 巨大神殿と巨大な井戸、鉄工房、巨大なヒスイの勾玉が出土した集落で弥生時代末期に営みを終焉している 有馬は摩耶マヤ山の麓。摩耶は空海が釈迦の母、摩耶夫人の像を作ったことに由来すると言われているがそれまで山に名前がなかったのかという疑問が残る 和泉の摩湯の伝承は実話を元にしているんじゃないだろうか? 聖徳太子の母は楠であったという伝承が叡福寺に残っている 厩戸ウマヤトはマヤの戸、マヤの港という意味かもしれない
466:日本@名無史さん
22/03/21 22:01:58.90 .net
天皇が亡命する時は米国機になるだらう。気をつけな。
467:日本@名無史さん
22/03/22 00:57:59.96 .net
ソ連人?
468:日本@名無史さん
22/03/22 01:38:00.45 .net
聖徳太子が10人の声を同時に聞き分けた伝説は、
10か国語理解できた意味だとか、
いろんな解釈があるけれど、
「耳」という観点に意味を持たせたのかもしれない。
摂(津)=攝=三島のように。
つまりそれは10耳、多耳という意味であり、
古代官名文字の「耳」を意識している。
469:日本@名無史さん
22/03/22 17:29:32.00 .net
これまでの経緯は、「聖徳太子=アマタリシヒコ」を九州視点から難癖をつけていたんだね。
逆にすべて撃破され、両立はしないので九州王朝説の立脚点が崩れたんじゃないか?。
470:日本@名無史さん
22/03/22 17:51:11.77 .net
なるほど。聖徳太子は大阪で、大阪は九州倭国ではないからミミだったのだな。
471:日本@名無史さん
22/03/22 17:54:30.67 .net
え?阿波におった人らが飛鳥に移ったんじゃないの?
472:日本@名無史さん
22/03/22 17:56:06.38 .net
アメタリシヒコは阿波君なり!って名乗っとるやん
473:日本@名無史さん
22/03/22 22:42:51.09 .net
豊の字も入っているから、聖徳太子の名はかなり九州を意識している。
474:日本@名無史さん
22/03/22 22:56:59.07 .net
九州豊国の支配者が阿毎だから一族ではあるのだろうな
475:日本@名無史さん
22/03/23 00:18:48.70 .net
茅渟王を殺して吉備姫王を奪い畿内に居られなくなり本拠地に戻ったんじゃないの?アマタラシヒコは。
倒した相手の女を奪うことは普通にあったらしいんじゃない?
アマタラシヒコは田目皇子ですな
聖徳太子と推古天皇は茅渟王を皇位に付けたかったんでしょ
南北朝ならぬ東西朝ですな
476:日本@名無史さん
22/03/23 08:38:06.66 .net
そもそも、筑紫の倭王タラシヒコが畿内でチマチマしたことをする必要がない。
477:日本@名無史さん
22/03/23 20:47:55.02 .net
このスレへの軍事侵攻を止めろ
478:日本@名無史さん
22/03/26 19:53:51.38 .net
オオキミ政権の王の和風諡号にスメラミコトを付与したのが過去の天皇諡号だとすると、
本来次のような和風諡号だった。
ミマキイリヒコイニエオオキミ
イクメイリヒコイサチオオキミ
オオタラシヒコオシロ�
479:純Pオオキミ タラシナカツヒコオオキミ オキナガタラシヒコオオキミ ホムタオオキミetc よってアマタリシヒコオオキミも個人を表し、一般名称ではないと言える。www
480:日本@名無史さん
22/03/26 20:50:35.45 .net
目、豊、旗、稲荷、アマタラシヒコはこの辺が関係していると思うよ
天武天皇も同じでしょう
二上山を調べればわかる
聖徳太子とは別人やね
481:日本@名無史さん
22/03/26 21:52:57.64 .net
調べてばいいだろうw
482:日本@名無史さん
22/03/26 22:27:11.78 .net
>>453
アリバイ成立せずw
483:日本@名無史さん
22/03/27 07:55:44.03 .net
>>452
なぜオオキミをわざわざ付けるのか理解できない。
タラシヒコがオオキミと同じ意味なら、二重表現になってしまう。
むしろ付けるならスメラミコトを付けるべきではないか。
484:日本@名無史さん
22/03/27 09:07:58.77 .net
>>456
書紀の和風諡号xyz天皇は帝紀にあったxyz大王から拝借したのではないかといっているのだが。
文章も読めないのか、まったくどうしようもない。
485:日本@名無史さん
22/03/27 10:22:36.46 .net
_ - ─-- 、_
,,. ´´三三三三ミミヽ__
/三三三ミミミミミミミミヽ
,'彡彡 ミ| おう、スパイ教育を受けた人民をドンドン出してやるぞw
l彡リ 習 ミミ}
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|ヾll ´ ⌒ゝ、 ノ⌒ ` ミリ
{〈│ -‐o- -o‐- l'| /::::::::ソ::::::::::゛'ヽ
| | ` ⌒ ノ ⌒ ´ | | /:::::::-、:::i´i|::|/:::::::::::ヽ
し| ..... r l ヽ .... |ノ /::::::,,、ミ"ヽ` "゛ / ::::::ヽ
| ーゝ _ノ ' 、 | ` /::::::== 下痢糞 `-::::::::ヽ シナポチの下痢糞ですw
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l ー-‐ ' / li::::::::l゛ /・\,!./・\、,l:::::::! 偉大なる習近平閣下には是非とも国賓としてお越しいただければと
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/ (i ″ ,ィ____.i i i (i ″ ,ィ____.i i i / 勿論、どんどん中国の方々に我が国に来てもらいたいですw
丨 l|| ヽ! │ ヽ i / l .i i
│ │ ヽ │ ( ヽ ノ ヽlエlエr´ヽ、/´ ゙\
│ │ ヽ | ,,.. | |、ヽ ` ̄´ / ヽ
│ │ __{_亅 、/ ソ │ │! ./’ ,- '、
| | 〈!- ^ヽ / │ 小’ ノ ヽ
¦ │ -斗―i./‐’ ,,...._ _⊥‐''´ _ノ'´ ゝ
ヽ \ !'、 │ --宀‐^」下l _,....-‐''' ヽ
486:日本@名無史さん
22/03/27 16:23:18.69 .net
>>457
そもそもオオキミ政権だったかどうかも不明。
オオトミ政権やオオムラジ政権だったかもしれない。
487:日本@名無史さん
22/03/27 16:56:13.95 .net
アホばかりじゃないか。
隋書に「姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌」。
阿輩雞彌(オオキミ)と号していたのだから、オオキミは称号。それでオオキミ政権。
488:日本@名無史さん
22/03/28 03:42:52.48 .net
オオキミと読まないと思うんだけど
489:日本@名無史さん
22/03/28 03:44:23.79 .net
筑紫君(つくしのきみ)
毛野君(けぬのきみ)
三輪君(みわのきみ)
490:日本@名無史さん
22/03/28 03:47:40.16 .net
言ってみれば後世の氏族長者
長者となったものが氏族代表としてやがて連
臣は臣、氏族代表となれてない家柄の者が臣
491:日本@名無史さん
22/03/28 03:49:43.99 .net
渡来人なら直から連となった東漢氏
東漢氏の長者のみに与えられることとなる
492:日本@名無史さん
22/03/28 07:50:31.23 .net
>オオキミと読まないと思うんだけど
阿輩雞彌はどう読めますか。
493:日本@名無史さん
22/03/28 20:26:31.63 .net
あはぎみ
494:日本@名無史さん
22/03/28 20:28:30.79 .net
四国、大阪平野、奈良、東海、山陽地方
に広がったの阿知直の一族
つまり漢人だと思う、その人
495:日本@名無史さん
22/03/28 20:31:53.67 .net
天皇家は後宮に女官数百人もおらんでよ
その風習があるのは漢人らの方だろ
496:日本@名無史さん
22/03/28 20:32:58.60 .net
百済の寺院が奈良に造られる前には一時、四国の方に作られたんだろ
つまりまず漢人地域に作られたんだよ
497:日本@名無史さん
22/03/28 20:37:17.43 .net
つまり漢人の王の方から中国の皇帝に使者が立ち連絡が行ったんだよ
498:日本@名無史さん
22/03/28 20:59:50.00 .net
漢人の王で中国あたりの皇帝の子孫だの名乗ってるならその人は別に天子を名乗っても不思議ではない
日本の天皇家で天子号おらんやろ
499:日本@名無史さん
22/03/28 22:46:01.80 .net
>>466
自説は相手できません。あしからず。
500:日本@名無史さん
22/03/28 23:03:46.09 .net
なんともね
501:日本@名無史さん
22/03/28 23:45:43.12 .net
日本人と中国人・朝鮮人の君主観が違うよね。
日本の天皇 = 現人神 神聖 有り難い存在
大陸の君主 = 覇者 権力者 恐れるべき存在
代々天皇で大陸君主のイメージに当てはまるったら、武烈天皇くらいじゃないのか?
やった女を殺しちゃう人だからw
武烈はちょっと異質だね。
502:日本@名無史さん
22/03/29 00:02:15.37 .net
日本の支配層は最初は新羅系だったけど、百済が攻撃されるにつれて複数回に百済王家が渡来してる。天皇家が受け入れつつ、百済に乗っ取られたら。
503:日本@名無史さん
22/03/29 00:17:59.52 .net
>>475
根拠を示しながら説明せよ
504:日本@名無史さん
22/03/29 01:35:57.70 .net
新羅王家の子孫いるが確かハプロO1bじゃなかったか?
日本の天皇家とは別だよ
505:日本@名無史さん
22/03/29 08:59:06.51 .net
>ハプロO1bじゃなかったか?
遺伝子が根拠なら別の所でやってくれ。
ここでは歴史学的根拠を求めている。軍事侵攻するな。
506:日本@名無史さん
22/03/29 09:02:59.01 .net
そちらの唱えてるのも自説やの
507:日本@名無史さん
22/03/29 09:04:39.67 .net
お前の説をここで主張するのはスレチ。
508:日本@名無史さん
22/03/29 09:13:37.13 .net
だからそちらも単なる自説やの
509:日本@名無史さん
22/03/29 09:50:22.75 .net
分からん奴だな、俺の歴史学的説を俺のスレで説明している。
ハプロなんちゃらはお前のスレでやってくれや。
510:日本@名無史さん
22/03/29 14:07:08.08 .net
>>468
平安文学でも後宮はハーレムそのもの。
511:日本@名無史さん
22/03/29 14:32:50.73 .net
後宮ってね、男子禁制なんすべて
御台所と呼ばれる女主人を中心としてそこに出入りする官は女性らのみ
512:日本@名無史さん
22/03/29 14:34:37.52 .net
御台所が一応、妻か
その世話をする女性らを女中って呼ぶの
愛人みたいのが側女と呼ばれて部屋を与えられるからお部屋様とか呼ばれたりな
513:日本@名無史さん
22/03/29 14:35:48.07 .net
御台所、側女くらいだから基本は多い人で5、6人
514:日本@名無史さん
22/03/29 14:36:34.73 .net
女中って呼ばれるのはその人らの世話をするために雇った女官らのこと
515:日本@名無史さん
22/03/29 15:04:23.26 .net
>>484
中国の後宮は
516:男子禁制で肯定以外の男は宦官にならないと出入りできなかったが 日本の天皇の後宮は男子禁制ではなかった (※江戸城大奥は男子禁制(男子は7歳以下の幼児と坊主、医師のみ出入り可) 江戸城が皇居になった明治時代~戦前まで 天皇の後宮も江戸城大奥にならって男子禁制だった時期がある) 「枕草子」「紫式部日記」「源氏物語」などを読めば 後宮に住む天皇のお妃の部屋に男親や男兄弟が日常的に出入りして お妃主催の歌会やら絵合わせやらが頻繁に行われて男性の貴族たちが参加 貴公子たちがお妃付きの女房たちと恋の駆け引きしてる
517:日本@名無史さん
22/03/29 15:25:35.53 .net
うん?節操ねえな
518:日本@名無史さん
22/03/29 17:08:37.13 .net
おまえら主題を忘れて後宮の話か。朝鮮に負けるぞい。
519:日本@名無史さん
22/03/29 21:07:39.75 .net
とあうわけで、日本でも後宮には数百人の女官(女中、女御、更衣)がいたわけだよ。
源氏物語の書き出しでも思い出してくれ。
520:日本@名無史さん
22/03/29 23:35:59.57 .net
日本は幼稚です。外国にみられている意識がないのですなw
521:日本@名無史さん
22/03/29 23:46:35.46 .net
とうわ言を語っており
522:日本@名無史さん
22/03/30 08:08:41.00 .net
後宮の人数の検証が終わったようで、
アマ多利思比孤が聖德太子であることにケチは付けられないということですね。
523:日本@名無史さん
22/03/30 11:03:43.69 .net
名前が違います
524:日本@名無史さん
22/03/30 12:14:10.33 .net
名前が違うので理論を展開して導いているのです。そんなことでは朝鮮に笑われますw
525:日本@名無史さん
22/03/30 12:37:38.09 .net
斑鳩宮にはそんな大きな後宮はないんだよ。
526:日本@名無史さん
22/03/30 13:08:00.95 .net
「新唐書」は阿毎多利思比孤が用明天皇だといってるのだから
記紀でまだ若かったのに在位2年で急死としている用明天皇の没年が創作で
実際はもっと生きてたんだろ
聖徳太子の功績にしたくて用明天皇が死んで崇峻天皇も死んで
女帝の推古天皇の御代の話にしたら女帝に後宮?ということになってしまった
527:日本@名無史さん
22/03/30 13:32:53.17 .net
>>497
聖徳太子=厩戸だと思っているのか?
アマタリシヒコは大王だから難波(後の孝徳の宮もここだな)
528:日本@名無史さん
22/03/30 13:38:58.31 .net
>>498
>「新唐書」は阿毎多利思比孤が用明天皇だといってるのだから
東大寺僧がそう申告した。唐が確認したわけではない。
>記紀でまだ若かったのに在位2年で急死としている用明天皇の没年が創作で
実際はもっと生きてたんだろ
都合で年齢を変えるw
>聖徳太子の功績にしたくて用明天皇が死んで崇峻天皇も死んで
女帝の推古天皇の御代の話にしたら女帝に後宮?ということになってしまった
アマタリシヒコは結局誰なんだい?
529:日本@名無史さん
22/03/30 16:01:26.87 .net
記紀にない天皇、記紀にない王朝があったんだよ。
530:日本@名無史さん
22/03/30 16:10:53.20 .net
>>501
お前ら天皇は天武から名乗ったてのを知らないんかい?
アマ多利思比孤はオオキミと号すと隋書に出ているだろう?。記紀のまえはオオキミだったんだよ。
記紀にない王朝は当然あった。アマ多利思比孤オオキミも隠された王朝。
531:日本@名無史さん
22/03/30 17:26:51.92 .net
>>500
>東大寺僧がそう申告した。唐が確認したわけではない。
日本の東大寺僧が答えたならますます信ぴょう性が高い
>都合で年齢を変えるw
いやいや、お前が自分の都合で勝手に変えてるだろ
日本の大王が厩戸王なわけがない
>アマタリシヒコは結局誰なんだい?
用明天皇
どれだけ文盲?
532:日本@名無史さん
22/03/30 19:17:01.84 .net
阿毎(あめ)って中国の方の文献に書かれとるわけでしょ
おそらく発音なんだろうから日本で書いた天(あめ)の発音記号じゃないの?
533:日本@名無史さん
22/03/30 19:19:18.75 .net
天を称号としてるのは神々なんだけど
天〇〇命とかな
神官かなんかになっておりその名前を名乗った可能性は?
天皇家はすでに人代だから天の呼称は消えとるんだよ
534:日本@名無史さん
22/03/30 19:20:18.57 .net
西暦600年ころにはすでにその習慣があったのか!ってのがビックリだが
535:日本@名無史さん
22/03/30 19:55:27.06 .net
>>503
アマタリシヒコ�
536:ェ用明なら用明は何時まで生きたんだい?そのあとのスメラミコトの在位もお願いします。
537:日本@名無史さん
22/03/30 20:35:30.00 .net
>>505
>天皇家はすでに人代だから天の呼称は消えとるんだよ
逆だよ。
その時代でも実はまだ天の何某というように、天を姓として使っていたことが、中国側の史料でわかるんだ。
日本側の史料はずっと後の記紀を待たなくてはいけなくて、7世紀より前の文字記録が国内にはなぜかほとんどないんだ。
538:日本@名無史さん
22/03/30 22:24:37.92 .net
>>508
でも、その天を姓としたタリシヒコ(=上宮法皇)は滅ぼされ、天皇家の基となるのは別の百済人だが。
539:日本@名無史さん
22/03/30 23:19:39.84 .net
海の王子と眞子の、
305号にいる正体は?
540:日本@名無史さん
22/04/01 02:27:48.45 .net
百済人?
541:日本@名無史さん
22/04/01 10:05:23.93 .net
百済扶余家の王族が倭国王になっています。
後に彼らを天皇と認定してxxxxxのスメラミコトと諡号しています。
たとえば、孝徳は百済ギョウキ王です(皇極紀)。
天武は孝徳の皇子と見られます。
天智は扶余勇であることが中国史書との照合の結果得られます。
アマタリシヒコは昆支王の子孫ですが残念ながらスメラミコトに認定されませんでした。
542:日本@名無史さん
22/04/01 11:31:43.54 .net
ん???
543:日本@名無史さん
22/04/01 11:31:58.97 .net
なら天皇認定取り消しやの
544:日本@名無史さん
22/04/01 12:36:34.11 .net
天皇を認定するのは百済人。倭人が口出しする権利はないw
545:日本@名無史さん
22/04/01 16:12:49.22 .net
>>515
プヨヨヨンさん、朝鮮人は負け続けのLoser民族だよw
546:日本@名無史さん
22/04/01 20:17:19.18 .net
統失の言は、ずれているので、意味も意図も不明瞭w
547:日本@名無史さん
22/04/02 13:51:36.45 .net
結局ここもまともな話題出すやつが皆無な件w
548:日本@名無史さん
22/04/02 16:56:29.19 .net
やはり頭のおかしいバカが語ってたんだな
549:日本@名無史さん
22/04/03 14:58:24.15 .net
統失が噛むと脈絡が崩れるな。
アマ多利思比孤は用明であるわけがない。用明は600年より前にお亡くなりだ。
そうしたら、アマ多利思比孤は日本史の誰なんだい?
550:日本@名無史さん
22/04/03 17:39:25.19 .net
日本史には阿毎多利思北孤なんて出てこないんだがw
551:日本@名無史さん
22/04/03 17:49:06.63 .net
つまり日本国と倭国は別の国で、日本国というのは7世紀以降に成立した新しい国なんだよ。
552:日本@名無史さん
22/04/03 19:38:55.84 .net
日本史に出ない人は倭国史にあった筈で、その倭国史が無くなったという論法は、倭国が日本に改名した事実から、通用いたしません。
553:日本@名無史さん
22/04/03 19:41:32.52 .net
>>522
日本とは別の倭国とは何処にありましたか?
554:日本@名無史さん
22/04/03 20:48:11.28 .net
現在分断された国の国民が日本を分断国家にしたくて作られた
願望捏造歴史スレw
555:日本@名無史さん
22/04/03 20:55:56.21 .net
此処でも敗北ですか?w
556:日本@名無史さん
22/04/03 21:30:26.49 .net
>>526
勝ってると思ってるの自分だけだろw
こっちは負けてるのに意地になってるキミを更にいじめてるだけなのだがw
ガンバレキミタチ!
w
557:日本@名無史さん
22/04/03 21:54:05.85 .net
日本とは別の倭国を語らねばタリシヒコは日本史に帰属することになるぞいw
558:日本@名無史さん
22/04/03 23:21:12.14 .net
日本という国名成立は670年でよろしいか?
559:日本@名無史さん
22/04/03 23:29:22.29 .net
よろしいです。
560:日本@名無史さん
22/04/04 00:39:38.13 .net
国号変更したのは扶余勇=天智。
白村江で敗れて倭国九州に渡り政権樹立。
兄豊がいる高句麗が敗れた668以降に日本に改号。大陸での国家樹立を諦めた模様。
561:日本@名無史さん
22/04/04 00:45:38.22 .net
>>531
日本とアマ多利思比孤は無関係。彼は倭国と言われていた時代の人。
562:日本@名無史さん
22/04/04 10:28:55.78 .net
阿輩壺のことだろ
太宰大権事、安倍比羅夫の親父が安倍目らしいが
唐の使者だかを迎えるときに倭王の命令により阿輩壺が使者らの出迎えに当たるとある
563:日本@名無史さん
22/04/04 10:30:24.39 .net
当時の九州太宰府に詰めていた長官だよ
阿輩壺=安倍なんたら
564:日本@名無史さん
22/04/04 11:06:25.79 .net
隋のときも阿輩壺(安倍なんたら)が日出る処の大菩薩天子より日暮れるところの天子に文を送る、よしなに取り計らってもらいたい
って使者送ってるからな
565:日本@名無史さん
22/04/04 17:33:17.71 .net
太宰府長官って、実は倭王のことか。
伊都国王を怡土県主と書くようなものだな。
566:日本@名無史さん
22/04/04 18:21:33.02 .net
県主なんて日本にはねえよ
それは中国の地方官の名称やろ
日本には村主と呼ばれたのがおる
567:日本@名無史さん
22/04/04 18:22:40.77 .net
牧が国王と同意やろ中国では
568:日本@名無史さん
22/04/04 18:24:43.15 .net
中国は十国に別れる、その十国の頂点に立つのが皇帝
十国のそれぞれの国王にあたるのが牧(国王)だ
569:日本@名無史さん
22/04/04 20:49:46.39 .net
>>537
>県主なんて日本にはねえよ
日本書紀でも読めよ。
無知
570:日本@名無史さん
22/04/04 21:27:59.47 .net
540
県主は中国における県令のことやぞ
アホか
571:日本@名無史さん
22/04/04 21:30:11.99 .net
渡来人らが呼称としたのは村主(すぐりぬし)のことだろ
見境いつかずになんでも取り上げてるんじゃねえよ
日本にいたのは村主だ
572:日本@名無史さん
22/04/04 21:45:06.13 .net
渡来人の集団がまだ中国におったときの地域の名が県(あがた)
県(あがた)に住む住民らを引き連れて日本までやってきた
その後、各地に土地を得て分かれながら住み着き始め村を作り始めた
そこの村長の名を村主と呼ぶ
県主ではそれ、中国皇帝の支配下におったってことになるぞ
573:日本@名無史さん
22/04/04 21:46:41.74 .net
中国の方にまだいたときなら県主もありえるだろうが
574:日本@名無史さん
22/04/04 23:57:59.92 .net
怡土県主でググレカス
575:日本@名無史さん
22/04/05 03:43:41.54 .net
そんなんで喜んでるなカス
576:日本@名無史さん
22/04/05 04:43:49.31 .net
当時の倭国は女帝の推古天皇だし、隋書が男の王と記載しているのは何だかおかしいな。
裴世清ら隋使が行ったのは本当に畿内だったのかね。
577:日本@名無史さん
22/04/05 16:41:27.45 .net
>当時の倭国は女帝の推古天皇だし、隋書が男の王と記載しているのは何だかおかしいな。
裴世清ら隋使が行ったのは本当に畿内だったのかね。
男王と女帝と両方に会ったのだろうか?
隋書をもとにすれば女帝には会っていない。
一方、書紀では女帝が会って、隋の国書が奪われたので無いと言っている。国書が盗まれることはない。
つまり、会った証拠の品がないと言ってる。会ってないのに会ったという虚偽の言い逃れだ。
推古は少なくとも倭国王としては会っていない。もし、二人も国王級の人物がいれば奇妙な現象で隋書に残るだろう。
女帝と男王の違いはおかしいは解るよ。そこから、畿内でないかもしれないもわかるよ。でも、畿内かもしれないから、畿内でないと飛躍するのは何か証拠物が必要だ。
578:日本@名無史さん
22/04/05 17:58:37.58 .net
天武天皇のときだが天朝では吉備、筑紫らの抑えに走ってるよ
現地氏族らを解体させて大和朝廷の役人らを送り込み統制下に組み入れた
579:日本@名無史さん
22/04/05 18:01:20.42 .net
出雲は真っ先に神宝を差し出して恭順を示したからな
関東には総領がいたがどうなったか知らん
阿波では陳寿から始まる末裔らが青銅器の神宝みたいの作っておったが禁止されとる
580:日本@名無史さん
22/04/05 19:23:36.18 .net
いわゆる日本から出土する青銅器などはこの集団らが作り日本各地へ伝播したものと思われる
連中らの職能に対する権限を朝廷では取り上げ以降は朝廷監視の元での製造のみ可能となった😃
581:日本@名無史さん
22/04/05 19:26:35.06 .net
渡来人らを掌握していたのは蘇我やからな
蘇我に従っておった者らに対して踏み絵をやっとる
美濃には物部軍2
582:万がおったがその後、関東方面に出兵したらしいが詳しいことは不明だ
583:日本@名無史さん
22/04/05 19:35:27.32 .net
関係のない話しを長々するのは「良く知ってるね」と褒められたいのだ。
敗北の代償行為だ。ウヨに共通する行動だ。
褒めちぎってやってくれ。満足して退散するだろう。w
584:日本@名無史さん
22/04/05 19:51:34.25 .net
🦵ガシガシガシ
😩←553
585:日本@名無史さん
22/04/05 20:18:33.55 .net
ヴヨの負け犬
586:日本@名無史さん
22/04/06 17:38:12.19 .net
そもそも日本の神様って太陽信仰だって知ってますか?
587:日本@名無史さん
22/04/06 18:45:52.92 .net
日本人がよく頭に思い描く神様のイメージ
URLリンク(upload.wikimedia.org)
私も子供の頃からこれとそっくりな神様が頭の中に居たw
588:日本@名無史さん
22/04/06 18:52:29.04 .net
>>556
明治以降に新政府がそれまでの神仏習合をやめて廃仏毀釈をして、天照大神信仰を各地の神社に押し付けたんだよ。
歴史を知らない阿呆は、ほんの百数十年前に作られた新しい伝統をありがたがる。
589:日本@名無史さん
22/04/06 18:55:37.49 .net
結局、旭日旗というのはこれなんだよね。
国旗もそう。
旭日旗というのは日本人の心の情景の一つを表現したものなのよ。
だから、周辺の国がどう言おうが、旭日旗自体には全く悪意はないということ。
だから、海上自衛隊旗も旭日だし、朝日新聞の社旗も旭日。
そして浄土真宗の仏様も旭日のような発光をしている。
朝鮮や中国はそこらへんを全く知らないであろう。
590:日本@名無史さん
22/04/06 18:59:30.65 .net
>>558
そもそも、日本の神社に祀られる鏡は太陽を表現したもの。
バカはそこを理解していない。
明治以降とかそういう話ではない。古事記にも残っているわけだからw
残念ながら、朝鮮や中国には、太陽信仰は残らなかった。
大昔はあったのかもね。
591:日本@名無史さん
22/04/06 20:06:40.20 .net
徳川の御代には神楽の舞でへべれけに酔っぱらって権威も何もなかった神職だが、
明治の御代には、廃仏毀釈で興福寺などの僧侶はこぞって神職になった。
お経の代わりに「・・・・・まおすう。」と祝詞を唱えるようになった。
今は、神道や神社が歴史由緒のあるものだと必死になっているw
592:日本@名無史さん
22/04/06 21:37:54.19 .net
明治政府は国の政治を天皇によって統一するために
神宮寺の中にあった寺を潰して神社のみにし(神仏習合をやめ)、
これを通じて天皇への崇拝を高めようとした。それだけの浅い歴史。
593:日本@名無史さん
22/04/06 22:54:22.58 .net
>>561-562
明治以降の神社の権威付けと、伝承は無関係なんだがw
廃仏毀釈とはいっても、朝鮮のような悲惨な状態にはならなかったのは、
元々が日本の人々に仏様も神様も信仰が浸透していたから。
キミは神社を否定したいんだねw
キミが日本人なら個人で神様嫌うのはキミの勝手
外国人なら、嫌うのはキミの勝手だが、日本人への啓蒙のつもりなら大きなお世話。
外国人から言われる筋合いの話ではない。
594:日本@名無史さん
22/04/06 23:39:18.01 .net
>キミが日本人なら個人で神様嫌うのはキミの勝手
外国人なら、嫌うのはキミの勝手だが、日本人への啓蒙のつもりなら大きなお世話。
外国人から言われる筋合いの話ではない。
一般の日本市民を啓蒙しているように読めました?
このあたりのことを伏せて国民を騙していたのに痛い所を突かれた?w
君こそ工作じゃないですかw
595:日本@名無史さん
22/04/06 23:57:11.27 .net
>>564
>このあたりのことを伏せて国民を…
歴史も細かいことも興味のない一般の日本人が知らないというだけで、
騙されていたわけじゃないだろ。
おまえは洗脳だのなんだの、まるでどっかの社会主義国みたいに日本を論じるのやめろw
日本は本人次第でいくらでも真実を知ることができる。
596:日本@名無史さん
22/04/07 00:20:55.93 .net
>日本は本人次第でいくらでも真実を知ることができる。
でも教えなければ、国民は古くから神社はこのようにあったと誤解するのを期待していますね。
初詣に行くのが当たり前のようにTVで放から言いませんよね。これって、誘導じゃないですか?
597:日本@名無史さん
22/04/07 00:26:40.67 .net
>>566の訂正
>日本は本人次第でいくらでも真実を知ることができる。
でも教えなければ、国民は古くから神社はこのようにあったと誤解するのを期待していますね。誘導じゃないですか?
初詣に行くのが当たり前のようにTVで放送しますね。これは動員です。一般人は雰囲気で行っているのです。
本当のことを言えば行く人は真正の信者だけになります。
598:日本@名無史さん
22/04/07 05:58:52.27 .net
>>567
キミがやろうとしてるのが洗脳というのではないでしょうか?
明治の政策があったのは事実でしょうが、そういうのは超えて
古来から神社は信仰されていたのもまた事実
お伊勢参り・熊野詣なども大昔からあり、
地域には地域ごとに鎮守があり、それぞれ神社により祀られている神があったが、
それぞれ信仰され祭りが行われていた。
外国人のキミがあーたらこーたら言ったところでどうにもならない事実として
古来から日本には神社信仰は凛として存在しました。
>初詣に行くのが当たり前のようにTVで放送しますね。これは動員です。一般人は雰囲気で行っているのです。
ぜひコロナ禍が明けたら、大晦日・年始に日本に来て、神社に行ってみてください。
動員もクソもないのが身にしみてわかることでしょうw
599:日本@名無史さん
22/04/07 08:28:40.24 .net
洗脳ではありません。歴史的事実を知らなければならないのです。
>お伊勢参り・熊野詣なども大昔からあり、
地域には地域ごとに鎮守があり、それぞれ神社により祀られている神があったが、
それぞれ信仰され祭りが行われていた。
神仏習合であったことを忘れています。
熊野権現が熊野大社になりました。
熊野権現では神と対応して本地仏といわれる不動明王や千手観音とかの仏が対応して祀られています。
神域と呼ばれている地は極楽浄土、補陀落浄土等の浄土だったのです。
徳川以前は仏教です。
讃岐の金毘羅大権現も金毘羅宮に改められました。神仏習合時は本地仏は不動明王、千手観音、十一面観音など諸説があります。
神仏習合前は、山岳信仰と修験道です。
廃仏毀釈で祭神が大物主になったのです。金毘羅宮が神をまつるようになったのは明治以降になります。
日光の東照宮も東照大権現でした。
各地の鎮守は神宮寺で寺が併設されていたのです。それが取り払われ神社になりました。
明治政府は延喜式に倣って近代社格制度を設け、神社を格付けしました。
政府が造った神社は数知れずあります。政府が金を出して神社を守りました。政教一体です。
いまの神社信仰は明治政府が仏教信仰を利用した乗っ取りです。
天皇制を浸透させるための宗教手段です。
600:日本@名無史さん
22/04/07 08:49:26.14 .net
>>569
>明治政府は延喜式に倣って近代社格制度を設け、神社を格付けしました。
やっぱ洗脳しようとしてるね。
あのさあ、神仏習合思想自体は1000年以上前の平安時代からあったんだよ。
密教系が日本の古来の山岳信仰と結びついて修験道になり、
熊野三山や蔵王などの修験場が出来上がった。
明治時代にそれらも含めた地域の神社をまとめたというのは事実だが、
神社信仰自体は太古から日本人の身近にあったのは事実なんだよ。
で、キミにとってその事実は都合が悪いのですか?w
日本は信教が自由の国だ。
仏教徒がクリスマスを祝い、神社に初詣する。
宗教のない朝鮮半島のような国とは違うのよw
うらやましい?w
601:日本@名無史さん
22/04/07 09:23:53.96 .net
>神社信仰自体は太古から日本人の身近にあったのは事実なんだよ。
今のようなものが昔から続いていたのではないのは事実。
少なくとも神仏習合があり、徳川の御代は仏教であった。
きみこそ、事実を隠蔽し、国民を誘導しようとしています。
台湾神社66社を作りました。未確認のものが200あります。
お祭り�
602:オているのは日本の神や明治天皇です。 天皇制を信仰によって広めるためです。 朝鮮神社はアママテラスと明治天皇を祀っていました。 如何に大日本帝国が宗教を利用していたかがわかるでしょう? このような考えを持つ明治政府が維新後に廃仏毀釈の形で神社を展開したかを考えなければなりません。 自然なお参りではなかったのです。仏教を乗っ取ったのです。
603:日本@名無史さん
22/04/07 10:00:19 .net
>>571
>少なくとも神仏習合があり、徳川の御代は仏教であった。
違う。
神仏習合は平安時代からあったの。
日本の宗教をちゃんと勉強してから論じろよ。
八幡神とか大権現とかは密教的色彩が強いのは確かだが
あくまで””神様””だからね。
家康は現人神として敬われた。
604:日本@名無史さん
22/04/07 10:04:35 .net
ほれ
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>日本では神仏習合(シンクレティズムの一種)の時代が長く続いた。
明治維新で神仏分離がなされた後も神道と仏教の間の区別には曖昧な面が残っている。
605:日本@名無史さん
22/04/07 10:06:23 .net
神仏習合
URLリンク(ja.wikipedia.org)
606:日本@名無史さん
22/04/07 10:24:25 .net
仏様と神様の違い
ブッダとは悟った人、すなわち修行の末に悟りの境地に至った人 のこと。
基本人間である。
神様は神世から遣わされた人間の保護者。
だから人間を超越した存在。
日本ではこれが八百萬(やおよろず=無数)いると言われる。
だから日本各地に色々な神様の祠や神社がある。
その主神がアマテラスオオミカミで太陽神。
607:日本@名無史さん
22/04/07 10:49:37 .net
>>575での説明でもわかると思うが、
仏教というのは悟りを開く修行が必要なのである。
だから東南アジアに広まった上座部仏教(小乗仏教)の世界では、
信者は出家するのが基本になる。
しかし大乗仏教の世界では、
一般信者は経を唱えたり寺に詣でることで功徳を受けることが出来るようになる、
と言われている。
そしてそれを更に容易にしたのが念仏を唱える浄土系やお題目を唱える法華系
座禅を組んで瞑想する禅宗系など。
この中で浄土系や法華系の宗祖は
いずれも日本の密教の総本山比叡山延暦寺で修行していた。
彼らは修行しても”私は悟りの境地に達することが出来ない”、と悩んだ末に
経の一点や、先達の仏様に頼ろうとした。
そのことが諸宗派の始まりと言われる。
そしてこれらの平易な”お努め””をすることにより”仏性”を得ることが出来るという
有り難い教えは爆発的に日本中の一般庶民に広まったわけ。
これが日本の仏教の布教の大雑把なあらまし。
608:日本@名無史さん
22/04/07 11:06:43 .net
説明の通り、仏様と 神様と言うのはそもそも全く意味が違う存在。
神様は人間が頼る存在で、仏様は信者本人がなろうとするもの。
そこら辺の違いが宗教に関心のない人には理解されていない。
609:日本@名無史さん
22/04/07 11:46:28 .net
>>577
だからどうだというの?何を言ってるかわからないw
満州では以下の通り。これが日本の支配形式と思われる宗教施設。
建国神廟は、満洲国の建国の元神とされた天照大神を祀った宗教施設。満洲国皇帝の帝宮内にあった。
建国忠霊廟は満州国版「靖国神社」。満州国祭祀府が所管した。
西安神社がある。近くに万人坑(帝国が使い捨てにした中国人の人捨て場)あり。
満鉄付属地には奉天、撫順、鉄嶺、開原、四平街、公主嶺、長春の7神社があった。
610:日本@名無史さん
22/04/07 12:11:25.54 .net
>>578
近代のことなど言ってないんだわ。
おまえらのような民族教育フィルターのかかった被害者意識丸出しの
歪んだ歴史観で物事を論じるんじゃないよ。
ここでは日本での仏教と神様の信仰の違いを歴史的に説明して、
日本人の歴史観教えてやってるんだよ。
何もわかっていない外国人に、日本人の考え方をあーだこーだ言われる筋合いは無い。
おまえらのそのおこがましい態度が
日本人に嫌われる原因だってことが全然わかってないんだなw
人の国で偉そうにするなw
611:日本@名無史さん
22/04/07 12:11:43.30 .net
樺太神社は、樺太豊原市にあった。社格は官幣大社。樺太の総鎮守・総氏神とされた。
祭神は大国魂神・大己貴神・少彦名命の「開拓三神」であった。
新たに得た、領土、植民地、傀儡政権の属国にはすべて帝国の主導で神社が建てられた。
宗教によって民心の統一を図ろうとした。古来からの信仰とは全く関係ない。
古来からあったとしても、それをりようした。
神仏習合を破棄し、仏教の信仰をも乗っ取り新たな国家信仰にした。
日本人が現在、神社を拝んでいるのは帝国の国家神道の流れの中にある。決して古来のものではない。
612:日本@名無史さん
22/04/07 12:33:34.69 .net
と、一言文句を言ったところで、
日本人の宗教観がなぜ このように多彩なのかについて。
それは、そもそもの日本の原始宗教である”アミニズム”に理由がある。
先のレスでも述べたように、日本の神は ”八百萬” (やおよろず) の神がいる。
これは日常生活のいたるところに”神様”が居るという考え方。
例としては、アイヌの神の考え方がある。
彼らは”ふきのとうの神””かまどの神””クマの神””など生活の至るところに神があると
いう考え方で日常生活を送っている。
このことは、日本人とアイヌの間に先祖での繋がりがあるということを示唆している。
多分、そのつながりは縄文時代に遡ることになる。
日本で ”神様” が体系化されるまえの日本人庶民の宗教生活は、
それこそ素朴に、
道端にある祠・御地蔵さん・道祖神などを普段から朝夕に手を合わせていた生活であった。
そして、決まった季節に地元の寺社を中心とした祭祀があり(村祭りね)それに参加して
地元のコミュニケーションをとっていた。
こういうのが日本の農村の典型的な宗教の形。
613:日本@名無史さん
22/04/07 12:37:29.37 .net
>>580
何度も言うけど、今は近代の話は基本してないんだっつの。
おまえは、宗教により、日本人の意識が統一されて、周辺国に危害を及ぼすとか
間違った認識してるのかもしれんが、今の日本人にそんな意識は殆どない。
国防はしなきゃならんけどね。
614:日本@名無史さん
22/04/07 12:49:37.56 .net
と、また文句を言ったところで、>>581の続きを語るが、
このように日本での一般庶民の宗教というのは、
国が無理やり押し付けたキリスト教や宗教とは言えない社会規範である儒教などとは
縁が薄かった。
宗教弾圧も、鎌倉期の法華教徒への迫害、
戦国期の一向宗徒への攻撃・キリシタン弾圧 くらいで、
比較的宗教戦争というのは少なかった。
明治時代には、西洋国家に対抗するため、中央集権化するために国家神道を整備した。
それでも朝鮮のように仏教が没落することが無かったのは、日本人庶民に
仏教が浸透していたから。
615:日本@名無史さん
22/04/07 13:04:55.45 .net
ということで、日本人の庶民は宗教に関しては外国とは違いおおらかだった。
だから、朝鮮が仏教徒�
616:れだけ迫害して没落させたり、 西洋の十字軍侵略、イスラエルとイスラムとの永続的な戦争、ユーゴ内乱などが 全く理解できない。 たかが宗教、と言っては悪いのだが、 なんで人々に幸せを運ぶ宗教の違いで命のやり取りをせねばならないのか? その点、キリシタンの弾圧は異質であったが。 あれは西洋を恐れた当時の政府の政治的配慮があったのであろう。 日本では、政治が絡まなければ、何を信仰しようが自由であったし、 今もそうである。
617:日本@名無史さん
22/04/07 13:05:03.43 .net
多楽島( 市杵島神社、金刀比羅神社、大海竜王神社)
国後島( 近布内神社、老登山神社、東沸神社)
色丹島( 色丹神社)
志発島( 金刀比羅神社、西浦泊稲荷神社)
水晶島( 金刀比羅神社、市杵島神社)
国民を徴兵して「武運長久」を祈るだけで戦地に送れる施設。こりゃ安上がりで楽だ。
人の命などなんとも思わぬ国だってことがよくわかる。
618:日本@名無史さん
22/04/07 13:11:49.66 .net
すげえ、長くなったが、
なぜ日本の宗教の話をこのスレで話したか言うと、
阿毎多利思北孤の ”阿毎” が
神世ということを指している ”アメ” である可能性が高いからである。
”アメから降臨したオノコ(男子)” アメタリシヒコ という名前の列島のどっかの君主
というのが想像しうる正体。
619:日本@名無史さん
22/04/07 13:13:47.57 .net
>>585
だから
おまえらの恨み募っている ”軍国日本帝国” のことは置いとけよw
まじバカなのか?www
620:日本@名無史さん
22/04/07 13:20:55.89 .net
>>586
阿毎のみからこれだけ妄想ができる君って気違い?
アマタリシヒコは隋書からは仏教治国を目指したんだが、神世が何か?
621:日本@名無史さん
22/04/07 13:29:18.23 .net
>>588
妄想じゃないよ。
日本の神様には”アマの~” ”アメの~” と先頭に付く名前の神様が多いんだよ。
古事記読めよ、バカw
622:日本@名無史さん
22/04/07 13:33:10.88 .net
>>588
聖徳太子の時代は日本で仏教を取り入れた最初期に当たる時代。
神様信仰から国家仏教に切り替え目指していた時代だよ。
623:日本@名無史さん
22/04/07 13:39:56.39 .net
それで名前から何が解るの?
そんなのより隋書にある彼の人物像を解析してくれやw
ああ、名前でごちゃごちゃいうのが単純で君の知能に会うんだwwww
624:日本@名無史さん
22/04/07 13:40:10.28 .net
>>588
おまえはほんと日本の宗教については何も知らないのなw
おれは、大まかであるけど、日本の宗教の歴史は知っている。
この板で論じるのであれば、ちゃんと日本人の宗教観を勉強しろよ。
朝鮮フィルターのかかったおまえの日本史観では俺たちに笑われるだけだよw
一つ言えることは、日本人の歴史観は朝鮮人とは全く違う。
残念だねw
625:日本@名無史さん
22/04/07 13:47:52.90 .net
>>591
>それで名前から何が解るの?
少なくとも倭人であることはわかるよね。
音だけ再現するとまごうことなき倭人の名前だもの。
ただ、列島の何処に居たかはわからない。
畿内なのか、九州なのか、それとも別な場所か?
この先も新たな資料が見つからなければ分からないであろう。
それでいいと思うけど、歴史の大勢には関係ないし。
626:日本@名無史さん
22/04/07 13:48:41.29 .net
この板で論じるのに宗教観が何で必要なの?
古代の思想や宗教など分かりっこないだろう?
ここでは史料から日本の古代史を論じてるんじゃなかったっけ?
627:日本@名無史さん
22/04/07 13:51:04.17 .net
歴史の大勢に影響のない名前アマについてなんで滔々と述べたの?
628:日本@名無史さん
22/04/07 13:55:57.84 .net
>>594
わかるだろうね。
さっきも言ったけど、アイヌの宗教と日本の神様信仰は、思想も習慣上も似ているから。
ルーツはアイヌと日本人の共通の祖先と思われる縄文人に行き着くであろう。
朝鮮半島にもムーダンがいるけど、
日本の場合
629:そういうのもルーツの一つとして、融合した可能性がある。
630:日本@名無史さん
22/04/07 13:57:29.72 .net
>>595
このスレでは関係があるでしょう。
そもそも、なんでこのスレ立てたんだよ?
目的は?
631:日本@名無史さん
22/04/07 14:25:40.87 .net
>>597
目的は言わずとも>>1にある
聖徳太子とはアマ多利思比孤を現代そう呼んでいるという論考の誤りを指摘してもらうことだが、なにか?